春休みに入ってから、澪は初めて、押入商会の事務所ですることがなくなった。
もちろん、本当に仕事が一つもないわけではない。メールは来るし、確認する書類もある。けれど、ゲンダイ側の納品は一段落し、異世界側へ急いで持っていく物もなかった。
机の端に積まれていた箱も消えている。いつもなら有り難いはずの空白が、今日は妙に広かった。
理央もさっきから同じ画面を開いたり閉じたりしている。試作品を触るでもなく、原稿を書くでもない。椅子を半回転させて窓を見たあと、また元へ戻った。
澪は声を掛けようとしたが、先に理央が口を開いた。
「海、行きませんか?」
向かいの席から理央が言った。
「海?」
「異世界のです。せっかく春休みなのに、まだちゃんと見てないじゃないですか」
理央は予定を開いていたスマホを伏せる。何も入っていない画面を見せられた気がした。
澪は思い返した。ヴェルデン王国には大きな湖がある。セレヴィア東半島へも行った。しかし、海辺で立ち止まり、波を眺めたことはない。
「そういえば……ないですね」
「じゃあ、行きましょう」
返事を最後まで待たず、理央の背筋が伸びる。
「今日ですか?」
「今日です。明日にしたら、たぶん何か仕事が入ります」
その予想には澪も反対できなかった。
少し離れた机でPCを見ていた真壁が、画面から目を上げた。
「海なら、半島の北に小さな村がある。澪君たちが行くにはちょうどよいだろう」
「真壁さん、そんなところまで知ってるんですか?」
「何度か行ったことがある」
それだけ言って、真壁は開いていた画面を閉じた。行き先は決まったらしい。
「寒くないですか?」
「北側の海だ。外套はあった方がよい」
理央は立ち上がると、事務所に置いていた上着を取りに行った。遊びに出ると決まった途端、動きが早い。
澪も財布やスマホを持ったところで手を止める。異世界へ行くのに、それだけでは済まない癖が付いていた。
「何か持っていく物はありますか?」
「今日は客として行けばいい。マレオへの土産はこちらで用意する」
真壁の足元には、いつの間にか葡萄酒の瓶が二本置かれていた。
完全な手ぶらではないらしい。
仕事の荷物を用意しなくていい出発は、押入商会では珍しかった。
転移先は、セレヴィア東半島北部のベルセナ村だった。
澪が最初に感じたのは、潮の匂いだった。
冷たさの残る風に、塩と、乾いた魚と、濡れた網の匂いが混じっている。少し遅れて、低い波音が家並みの向こうから届いた。
「海の匂いします」
理央が風上へ顔を向ける。
「しますね」
「まだ見えてないのに、分かるんですね」
ベルセナ村の家はどれも低かった。塩気を含んだ風に削られた石壁と、何度も直した跡のある屋根。その間を縫う細い道には、丸めた漁網や魚籠が寄せられている。
軒下には黒褐色の海藻が並び、干し台では銀色の小魚が風に揺れていた。
戸口で網を繕っていた女性が三人を見た。真壁に気づくと軽く手を上げ、そのまま針を動かし続ける。道の向こうから籠を抱えた男が来た時も同じだった。
珍しい服装の澪と理央には視線が集まる。けれど先頭が真壁だと分かると、誰も呼び止めなかった。
浜へ上げられた小舟の向こうにも、大きな森は見えない。薪を積んだ場所があったが、冬を越したばかりの棚には隙間の方が多かった。
「浜はこの先だ」
真壁は分かれ道で迷わず右へ曲がる。
「やっぱり道、知ってるんですね」
理央の声に、真壁は振り返らなかった。
道沿いに、周囲より少し新しい小屋が数棟並んでいる。新しいといっても、板は潮風に馴染んだ色へ変わり、入口には濡れた外套や籠が掛けられていた。
小屋の脇には大きな長靴がいくつも干してある。壁へ立て掛けた櫂も、持ち手が太かった。
澪には、どこまでが昔からの村で、どこからが後に増えた建物なのか分からない。
ただ、真壁だけは自分の町を歩くような足取りで先へ進んでいた。理央が澪の袖を引く。
「何度か来たって言ってましたよね」
「言ってました」
「初めて来た人の歩き方じゃないですよね」
「私もそう思います」
前を歩く真壁の速度は変わらなかった。
「真壁じゃないか。今日は早かったな」
魚籠を洗っていた小柄な男が、腰を伸ばした。日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。
「マレオ。変わりはないか」
「こっちはいつも通りだ。昨日は小魚が多かったぞ」
旅人へ向ける挨拶ではない。真壁は澪と理央を紹介してから、籠の中を見た。マレオも二人を珍しそうに見るだけで、真壁がここにいること自体は何とも思っていないらしい。
「この二人も商人か?」
「ああ。今日は海を見たいそうだ」
「海なら逃げん。先に村を見ていけばいい」
マレオは大まじめに言い、籠の水を切った。
理央が海の方向を見た。まだ屋根の間に青い色が少し見えるだけだった。
「網も一枚直した。次の漁には間に合う」
今度は、舟の横で網を確かめていた男が声を掛けてきた。
「それならよかった」
「明け方の波が弱ければ出す」
真壁はその男をダルシオと呼んだ。
さらに干し台の間を通れば、腕まくりをした女性が海藻の束を持ったまま近づいてくる。
「豆、前と同じならもう少し欲しいよ。干した海藻は増えてる」
「分かった。次は少し増やそう」
「麦は同じでいい。あんまり多くても、うちじゃ湿気るからね」
マリエナは必要な話だけ済ませると、もう海藻へ戻っていった。真壁も、次はいつ来る、何袋までなら持ってこられるといった確認を自然に返している。初めて条件を決めているのではなく、いつもの取引量を直している会話だった。
理央が澪へ顔を寄せる。
「……真壁さん、すごく知り合い多くないですか?」
「私も今、それを思ってました」
「真壁!」
答えを聞く前に、十歳くらいの男の子が細い道を駆けてきた。
「ニエル。元気そうだな」
「昨日、でっかい魚が三匹取れたんだ。見る?」
「もう捌いた後ではないのか」
「頭は残ってる」
「それなら、帰る前に見せてもらおう」
ニエルは満足そうに頷き、浜の方へ走っていった。
「あの子、真壁さんに全然遠慮しませんね」
「子どもが取引先へ遠慮する必要はないだろう」
「そこだけ急に普通なんですね」
子どもにまで顔と名前を覚えられている。理央の視線が真壁へ戻った。
「何度か、の回数が多そうなんですけど」
「取引先だからな」
真壁はそれ以上説明せず、ニエルが走っていった方へ歩き出した。
澪と理央は顔を見合わせ、後を追った。
浜へ近づくほど、波の音に人の声と木の軋みが重なった。
何人もの男が、砂へ乗り上げた舟を引いている。その中心にいる大男は、頬に古い傷があり、腕も澪の脚ほど太い。
掛け声に合わせて綱を引くと、舟底が湿った砂を擦った。
そのすぐ横へ、ニエルが飛び出す。
大男は綱を持ったまま一歩ずれ、子どもを先に通した。
「走るなら舟から離れろよ」
「分かってる!」
返事だけして速度を落とさないニエルを、大男は追いもしなかった。綱へ体重を戻し、他の漁師と同じ掛け声で舟を引く。
「ガレオ、船はどうだ」
「今日は出せる。昨日より波も弱い」
真壁に答えた声も、見た目から想像したより穏やかだった。
作業場では、坊主頭の男が魚を開いている。太い首と無表情な顔だけ見れば、包丁を持っていることに少し身構えそうになる。
「ラミエル、それ薄すぎるよ。もう一枚重ねな」
後ろからマリエナに言われ、男は切った魚を見直した。
「ああ、分かった」
言い返しもせず、新しい魚を手に取る。
さらに腕の太い若い男が、魚籠を左右に三つずつ持って通り過ぎた。腰を曲げた老人に呼び止められると、その場で足を止める。
「エステリオ、ついでにこっちも頼めるか」
「いいよ。どこまで?」
「干し台の端だ」
魚籠六つに、海藻の籠が一つ増えた。
別の男が一つ持とうと手を出したが、エステリオは「まだ持てる」とも「自分がやる」とも言わない。ただ相手が取りやすいよう、海藻の籠を少し傾けて渡した。力を見せたがる様子すらなかった。
「……真壁さん、あの人たちまで知ってるんですか?」
理央が声を落とした。
「ここで働いている者だからな」
「そういう意味ではなくて……」
澪が途中から引き取ったが、真壁はガレオと明日の波の話を始めていた。
怖いのは顔だけかもしれない。
それより、真壁が全員の名前を知っていることの方が気になった。
ガレオが真壁との話を終え、澪たちへ目を向ける。
「浜へ行くなら、右側の岩は滑る。左から回った方がいい」
「ありがとうございます」
澪が礼を言うと、ガレオはもう舟へ戻っていった。理央はその背中を見送る。
「親切でしたね」
「親切でした」
二人の声には、確認するような響きが残った。
理央が男たちの方を何度も振り返っていると、干した小魚を選り分けていたマリエナが手を止めた。
「あの連中が気になるのかい?」
「あ、はい。ずっとこの村の人なんですか?」
「いや。来たのは少し前だよ」
理央はガレオの頬の傷をちらりと見た。
「ちょっと……怖そうですよね」
「顔だけだね」
「顔だけ?」
マリエナは小魚の腹を押し、干し具合の足りない物を別の籠へ放った。
「最初はこっちも警戒したさ。傷だらけで、あの身体だろ。海賊でも連れてきたのかと思ったよ」
少し離れたところで、マレオが喉を鳴らした。
「ところが喧嘩を嫌がる」
「怒らないしね。仕事をやり直せと言っても、妙な意地を張らない。何を言われても気にしないんだよ」
「ほんとに?」
ちょうど、ガレオが舟から下ろした網を別の漁師に渡していた。受け取った男が絡みを見つけ、ここが駄目だと突き返す。
ガレオは網を広げ直し、黙って結び目を探し始めた。
「その代わり、力仕事は助かる。網を引かせたら三人分は働くよ」
「昔のことは、ほとんど覚えていないらしいがな。ここで働く分には何も困らん」
マレオの言葉に、澪は真壁を見た。
真壁は魚籠の中身を確かめている。聞こえていない距離ではなかったが、会話へ入る様子はない。
「……見た目と全然合わないですね」
「かなり」
澪もそれ以上は言わなかった。過去を覚えていない人たちを、興味だけで問い詰める気にはなれない。
ガレオは絡んだ網を解き終えると、突き返した漁師を呼んだ。今度は問題がなかったらしく、二人で舟へ運んでいく。
村の誰も、その光景を珍しそうには見ていなかった。
浜に近い倉へ行くと、魚と海藻の匂いに、乾いた穀物の匂いが混じった。
入口ではエステリオたちが麦袋を運んでいる。倉の奥には豆の袋も積まれていた。
この海風の強い寒村で、まとめて収穫した物には見えない。
「この麦、この辺りで採れるんですか?」
「いや、南からだ」
マレオが袋の口を確かめながら答えた。
「南?」
「真壁が持ってくるんだよ。麦と豆をね」
マリエナは当然のように言い、代わりに渡す海藻の束を数え始める。壁際には干した小魚の袋と、塩蔵魚の樽が並んでいた。
「また真壁さんですか」
理央の声に、少しだけ呆れが混じる。
「レヴァニアで仕入れている」
「それと、ここの海産物を交換してるんですか?」
澪が聞くと、真壁は麦袋と海藻を順に見た。
「そうだ。こちらには海産物があり、向こうには麦と豆がある。それだけの話だ」
量と値段が合わない時は貨幣で差を埋める。村は食料を得て、海藻や小魚には継続して売れる先ができる。
「海藻は南でも売れるんですか?」
「そのまま売る分もあるが、リュシア君が使う分もある。小魚も同じだ」
リュシアが扱う食品の中にも、ここから運ばれた物が入っている。澪が知らなかった取引は、商会の別の仕事へすでにつながっていた。
倉の外では、ガレオが次の麦袋を肩へ載せていた。
彼らの仕事も、その荷の往復の中にある。
ただ食事を配るだけなら、運んだ分だけ減っていく。
海で採った物を買い、代わりに不足する物を運べば、次の漁も次の加工も仕事になる。真壁が何度も来ている理由は、村を見回るためではなく、取引を切らさないためだった。
澪には、その方がずっと真壁らしく思えた。
「それだけの話にしては、ずいぶん馴染んでますよね」
「続けていれば、顔くらいは覚えられる」
「子どもに魚の頭を見せてもらう約束までするくらい?」
「あれは取引とは関係ないな」
理央の追及は、そこだけ認められた。
マレオが笑いながら、海藻の束を一つ持ち上げる。
「話はあとだ。海を見に来たんだろう。潮が上がる前に浜へ行った方がいい」
本来の目的を村人に思い出させられ、理央は先ほどまでの疑問をいったん置いた。
「行きます。海、まだちゃんと見てないので」
家並みの切れ目を抜けると、視界から壁がなくなった。
「うわ……」
理央が足を止める。
浅瀬は青緑色で、岩礁の先から急に色を深くしている。その先には、遮る物が何もない水面が広がっていた。
波は同じ場所に留まらず、白い筋を作っては浜へ押し寄せる。沖には小舟が浮かび、その上を海鳥が風に乗って横切った。
「広いですね」
澪も、すぐには浜へ下りなかった。
ヴェルデンの湖も大きかった。それでも向こう岸を探そうと思えば、探す方向があった。
目の前の海には、それがない。
「湖と全然違いますね。向こう、ほんとに何もない」
「この先は海だ。しばらくはな」
「これ見たかったんですよ」
理央はようやく歩き出した。乾いた砂を抜け、波が届くところまで一気に下りていく。
寄せた水に靴先が触れそうになり、慌てて下がる。次の波は手前で止まった。
「今の、絶対もっと来ると思ったのに」
「次は来るかもしれませんよ」
「澪さん、そういうこと言ってると自分が濡れますよ」
言い返した直後、大きめの波が来た。二人で同時に逃げる。真壁だけが少し離れた乾いた砂の上にいて、動かなかった。
浜には丸い石と貝殻が混じり、岩の窪みには透明な水が残っている。理央はしゃがみ込み、小さな貝が動くのを見つけた。
「これ、生きてますよね」
「触らずに見た方がよいだろう」
「分かってます」
返事は早かったが、顔は水面から離れない。
岩陰を覗けば、小魚の影がさっと散った。細い海藻が水の動きに合わせて倒れ、波が引くとまた起き上がる。
「写真、撮っても大丈夫ですか?」
「人へ向けなければ構わないだろう」
理央は海へスマホを向けた。一枚撮って画面を確かめ、すぐ首を傾げる。
「広さが全然入らない」
「横にしても無理だと思いますよ」
「分かってます。でも撮りたくなるんです」
何枚か角度を変えたあと、理央はスマホを下ろした。結局、自分の目で見る時間の方が長かった。
澪は波打ち際を歩いた。潮の匂いも、風の強さも、靴底が沈む砂の感触も、映像で見る海とは違う。
しばらくは何も探さず、何も売ろうとせず、ただ水平線を見た。
真壁は少し離れた岩へ腰を下ろしていた。急かす様子はない。村では人に会うたび新しい話が出てきたが、海の前では誰も説明を始めなかった。
風が髪を乱し、波音が会話のない隙間を埋めていく。
「来てよかったです」
理央が海を見たまま言った。
「はい」
澪も同じ方を向いたまま答えた。
海を眺めていた澪の足元まで、薄い波が伸びてきた。
引いていく水を見ているうちに、別の考えが浮かぶ。
「海水も、このまま収納できますよね」
「できるだろう。澪君、まず少量だけ入れてみるといい」
「少量?」
「分ける前に、何が入っているか見た方がよい」
真壁は海を前にしても、いきなり大きなことは始めなかった。
澪は人と舟が近くにいない場所へ移り、寄せた波の端から海水だけを収納した。砂の上に浅い窪みができるほどの量で止める。次の波が来ると、その跡もすぐ消えた。
魚や蟹が混じっていないことも確かめる。水だけを対象にしたつもりでも、海には目で追えない物が多い。
収納内へ意識を向ける。
最初に大きく分かれたのは水と、それ以外だった。
塩類。マグネシウムを含む成分。カルシウムを含む成分。さらに量の少ない成分、微細な砂や泥、有機物。
塩水という一つのまとまりだったものが、探すたびに細く枝分かれしていく。
澪は一度、分類だけで止めた。名前を見つけることと、実際に分けることは同じではない。
「まず水を分けます」
「それがよいだろう」
海水の大部分を占める水を外すと、残った側は急に量が減った。そこから塩類をまとめ、さらに性質の違う成分へ分けていく。
「……かなり出ますね」
「順番に見ればいい」
「塩以外に、こんなに分けられるものがあるんですか?」
理央は澪の横から海面を見た。外からでは、何が分かれているのか見えない。
「塩だけなら、海はもう少し単純だっただろうな」
真壁の答えに、理央は納得しかけて止まった。
「それ、説明になってます?」
「塩以外も入っている、という説明にはなっている」
「ぎりぎりです」
澪は笑いをこらえながら、先に分けた水の状態を確かめた。透明な水が収納内でまとまり、残った側の塩分が濃くなっている。
分けた水を少量だけ器へ出す。見た目はただの透明な水だった。理央は器と海を見比べる。
「あれだけしょっぱい水から、普通の水が出るんですね」
「収納の中で分けていますから。ただ、飲むなら鑑定は必要です」
澪は口を付けず、器を真壁へ渡した。真壁も状態を確かめ、試験に使った水はそのまま収納へ戻す。
さらに分ければ、塩も取り出せる。マグネシウムは金属の塊で出てくるのではなく、それを含む成分として分かれた。この先は別の処理が要る。
それでも、海水から水と塩だけではない物を取り出せることは分かった。
砂浜から見える海の量を考えれば、試したのはほんの一滴に近い。その一滴の中に、分類先がいくつもあった。
分類をもう一段進めたところで、澪の意識が一つの項目に引っかかった。
植物。
「植物……?」
「海の中にですか?」
理央がすぐに食いついた。
澪は検索を深くする。海藻の切れ端ではない。目で一つずつ拾えないほど小さなものが、海水の中から同じまとまりとして集まっていた。
「植物性プランクトンだろう」
「これ、収納されてます」
「植物判定か」
真壁は海面へ視線を移した。
収納は生きた動物や魔物を入れられない。海水を対象にした時、その境界がどう働くのかは確かめる必要があった。
けれど植物性プランクトンや微細な藻類は、植物として海水と一緒に入っている。
収納内容を探しても、魚や動物性プランクトンは出てこない。海水を対象にしても、生きた動物を収納できない境界は変わっていなかった。
「魚は入らないのに?」
「魚は入ってません。こっちは植物として分かれてます」
「そこ、見た目で分かれないのに、収納には分かるんですね」
理央は澪を見てから、また海を見る。
「海って、見えないものが多すぎません?」
澪にも反論はなかった。
別の場所からも少量ずつ海水を入れ、植物の分類だけをまとめる。魚や目に見える生き物がいる場所は避け、同じ一角から取り続けない。
採る場所を数歩ずつずらすたび、理央も横へ付いてきた。
「さっきより多いですか?」
「少しだけ。場所で違いますね」
「緑っぽい海の方が多いとか?」
「それだけでは決められません。今は、ここにもいると分かったくらいです」
澪が言うと、理央は海面へ近づけていた顔を戻した。
「見ても分からないと思ってました」
「私も肉眼では分かりません」
集めたものは、最初は水に色が付いた程度だった。水分と塩類を分けて濃縮すると、緑と褐色の間のような濁りが濃くなる。さらに水分を抜けば、湿った泥にも似たまとまりが残った。
「これが、さっきまで海の中に見えずにいたんですよね」
理央が少しだけ距離を取った。
「海水の全部がこれではありませんよ」
「分かってますけど、急に固まると海の裏側を見た感じがします」
澪はその表現の方が近い気がした。
真壁は濃縮されたものを鑑定し、指先ほどの量を分ける。海から集めた量に比べれば、残ったものは驚くほど少ない。収納がなければ、ここまで集める前に水と塩の扱いで手間がかかるだろう。
「有機物としては使えそうだな」
「何に使うんですか?」
答える前に、村の方から薪を割る乾いた音が一度だけ響いた。
「燃料にもできそうだな」
「これをですか?」
「水分と燃えない成分を抜けば、有機物は残る」
真壁は村へ戻る道の脇にある薪棚を見た。太い薪はほとんどなく、細い枝まで束ねて積まれている。
浜の周りに、大きな森はない。
煮炊きだけなら節約もできるが、魚を干し、煮て、保存食へ加工するにも火は要る。冬になれば暖房にも使う。
「燃えるのか?」
話を聞いたマレオが、濃縮した植物性プランクトンを覗き込んだ。
「試してみよう」
真壁と澪は、集めた分から水を抜いた。残った塩類や燃えない成分を、澪が分けられる範囲で外す。
乾燥させると量はさらに減った。
それを圧縮しても、出来たのは指二本ほどの小さな塊だけだった。
理央は出来上がった試験片を見て、元の海を振り返った。
「あんなにあったのに、これだけですか」
「海水のほとんどは水です。植物だけなら、もっと少ないですよ」
「これを村で使う分まで作るのは、大変そうですね」
それでも理央は小さな試験片を見直した。
「海から薪を作るんですか?」
「薪ではないですけど……近いものにはなりそうですね」
理央は期待した顔で試験片を見る。海から取ったと言われなければ、黒褐色の乾いた固まりにしか見えない。
マリエナが小さな炉を空け、火種を寄せた。
表面から細く煙が上がる。すぐに炎が立つほどではなかったが、火種を当て続けると端が赤くなり、やがて小さな火が残った。
焦げた海藻に似た匂いが一瞬立ち、風に流れる。マレオは煙を避けながらも、火から目を離さなかった。
「燃えるね」
マリエナが最初に見たのは、真壁でも澪でもなく、空きの目立つ薪棚だった。
「これが使えるなら、そっちの方がありがたいよ。薪はいつも足りないからね」
「今のまま海から集め続けるものではない」
真壁は燃え方を見ながら言った。
「では、駄目なのか?」
「今日は作れるかを試しただけだ。使うなら、陸で増やす方法を考えた方がよい」
マレオは少し考え、火の残る小さな塊へ目を戻した。
「海にあるものを、陸で増やすのか」
「その方が漁場を削らずに済む」
「育てるのに場所は要るのか?」
「水と光、それに増える条件は必要になる。どの種類が向くかも、まだ分からない」
真壁は出来ることと、まだ決まっていないことを分けた。
澪も海から採った残りを収納内へ戻し、これ以上の回収は止める。今日は燃えるところまで分かれば十分だった。
今すぐ村の薪がすべて置き換わるわけではない。
それでもマリエナは、燃え尽きた後に残った灰まで確かめた。
「次に来る時、もう少し長く燃えるのを持ってきておくれ」
「まだ頼む物も決まっていないだろう」
「燃えるのは見たからね」
マレオより先に、マリエナの中では次の試験が決まっていた。
昼になると、マレオの家の長い卓へ大鍋が運ばれた。
「ガレオ、その鍋はそっちじゃないよ」
マリエナに言われ、頬に傷のある大男が足を止める。
「こっちか?」
「そうそう。パンを置く場所がなくなるだろ」
「分かった」
湯気の上がる鍋を抱えたまま、ガレオは素直に向きを変えた。
理央は黙ってその背中を追い、ガレオが鍋を置いてから澪へ顔を寄せる。
「やっぱり顔だけですね」
「聞こえますよ」
「悪口ではないです」
たぶん褒め言葉でもない。
「熱いから気をつけな。パンは汁につけるといい」
大鍋には白身魚と貝、豆、玉ねぎが入り、細く刻んだ海藻が浮いていた。ニンニクに似た香味と油、香草、それに葡萄酒らしい匂いが、魚介の湯気に混じっている。
理央はまず汁を一口飲んだ。
「おいしい……魚の味がすごいです」
貝と魚から出た味を豆が吸い、柑橘に似た淡い酸味が後に残る。澪も麦パンを汁へ浸した。表面は硬いのに、中へ熱い汁が入ると急に食べやすくなる。
白身魚は匙を入れるだけで崩れた。骨は丁寧に取られているが、皮は残してあり、そこに香草と油の味がよく染みている。
「豆も合いますね」
副菜には、小魚を酸味のある漬け汁へ入れたものと、炙った干物、油と香草で和えた海藻が並んでいた。
「この小魚、酸っぱいけどパンと合います」
「保存するためさ。暖かくなる前に仕込んでおくんだよ」
マリエナはそう答え、自分の椀へ煮込みをよそった。作る側だけが立ったままにならず、空いた場所へ座る。
海辺の物ばかりに見えて、煮込みの豆と卓上のパンだけは南から来ている。
「このパンも、この村で作ってるんですか?」
「焼いてるのは村だ。麦は南からだな」
マレオの答えに、理央が真壁を見た。
「もしかして」
「真壁さんですか?」
澪まで同じ方を見た。
「麦と豆はレヴァニアから持ってきている」
「海を見に来ただけなのに、知らない商売がどんどん出てきますね」
「君たちが知らなかっただけだ」
「それはそうですけど」
理央はパンをもう一切れ取り、煮込みの汁へ沈めた。
「それで、ここの魚はどこへ行くんですか?」
「王国側にも運ぶ。乾物は遠くまで持つからな。生の魚とは分けている」
「レヴァニアへ麦を買いに行って、帰りにここの魚を運んで、それから王国にも持っていくんですか?」
「毎回すべてを一人で運ぶわけではない。荷が動く道をつないでいるだけだ」
真壁にとっては短い説明だったが、理央はパンを汁へ浸したまま止めた。
「その『だけ』、だいぶ大きくないですか?」
「道が切れなければ、私が毎回来る必要もなくなる」
マレオが横から口を挟む。
「今でも、こいつが来ない時は別の商人が来るぞ。最初に値を付けたのは真壁だがな」
それを聞いて、澪は少し納得した。真壁だけが働き続けなければ止まる取引にはしていない。
海藻と小魚が南へ運ばれ、南の麦と豆がこの村へ来る。その話は倉でも聞いた。
けれど、同じ鍋と卓へ並んだ方がずっと分かりやすかった。
食事の間にも、強面の男たちは皿やパンを運び、空いた椀を下げている。ニエルがパンを落としかけると、ラミエルが無言で皿を差し出して受け止めた。
ニエルは礼を言い、何事もなかったように食べ始める。
「頭、見るか?」
食事の途中でニエルが真壁へ聞いた。
「魚のか」
「約束しただろ」
「食後にしよう」
真壁が覚えていたので、ニエルは満足して残りのパンをちぎった。
ここでは、それが普通の昼食だった。
昼食を終えて外へ出ると、陽射しが海面を白く光らせていた。
「次も転移ですか?」
理央が真壁へ聞く。
「その方が早いな」
「せっかくなので、海沿いを見ながら行きません?」
効率より観光を選ぶ提案だった。
「私も見たいです」
澪が続くと、真壁は二人を見比べた。
「では、エアカーにしよう」
ベルセナ村の人たちへ挨拶を済ませ、三人はエアカーへ乗った。
出発前には、ニエルが昨日獲れた魚の大きな頭を納屋から持ち出してきた。真壁に見せて満足すると、今度は浜から両手を振る。マレオたちは仕事へ戻り、強面の男たちも舟の周りへ散っていった。
機体が上がるにつれて、石造りの家々が一つのまとまりになっていく。海藻干し場も、小舟も、さっきまでいた浜も小さくなった。理央は窓へ寄ったまま離れない。
海岸線に沿って西へ進むと、岩礁の間に狭い入り江が現れた。崖に挟まれた小さな浜があり、海藻を干す家が数軒だけ集まっている。その先には、舟を引き上げる人の姿が見えた。
上から見ると、海の底が場所によって違う色をしていた。砂の上は明るく、岩の周りは暗い。波は岬へ当たって白く砕け、入り江の奥へ入る頃には細い線になっている。
浅瀬は青緑色で、岸から離れるほど青が濃くなる。海鳥が機体より低いところを飛び、白い腹を一瞬だけ見せて崖の方へ曲がった。
急ぐ必要はない。
真壁も速度を上げず、海岸から離れすぎない進路を取っていた。
「あそこにも村があります」
「浜が小さいですね。舟を置いたら、もういっぱいになりそう」
二人は見つけた物をそのまま口にした。
「あの崖、縞になってます」
「ほんとですね。途中だけ黒いです」
「火山の層ですか?」
理央が真壁へ聞いた。
「この距離では決められないな」
「真壁さんでも、見ただけじゃ分からないんですね」
「見ただけで分かることの方が少ない」
その返事を聞き、理央はまた窓へ向き直った。今日は分からない物を調べに降りる旅ではない。崖の縞は崖の縞のまま、後ろへ流れていった。
澪も、海岸に倉庫を建てるなら、などとは考えなかった。入り江の形が変わるたびに窓の外を見て、海の色が変わるのを追った。
西へ進むにつれて、少しずつ景色が変わる。
小舟に混じって、帆を上げた漁船が増えた。沿岸を行く輸送船も見える。崖沿いの道は幅を増し、荷車同士がすれ違うようになった。
最初は一軒ずつ離れていた家も、次第に屋根を寄せ合うようになる。船を修理する広い浜、荷を積み下ろす桟橋、沖で順番を待つ帆船。
ベルセナ村とは、人の流れの速さが違っていた。
「さっきより船、増えてません?」
「増えてますね」
「この先は人の出入りが多い」
「町、近いんですか?」
「もうすぐ見える」
真壁が進路を少し北へ振る。
岬が前を塞ぎ、海岸の先が見えなくなった。理央は窓へ額が付きそうなほど身を寄せる。
岬を越えた。
その向こうには、それまでと比べものにならない数の帆があった。
小さな白い帆が海面に散り、その奥では大きな船がゆっくり向きを変えている。さらに先、弧を描く海岸線に沿って、建物が幾重にも集まっていた。
「……あれですか?」
理央の声が、さっきまでより少し低くなる。
「ああ。トルヴィアだ」
エアカーは高度を保ったまま、海の上を西へ進んだ。