押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第330話 海が見たい

 

 春休みに入ってから、澪は初めて、押入商会の事務所ですることがなくなった。

 

 もちろん、本当に仕事が一つもないわけではない。メールは来るし、確認する書類もある。けれど、ゲンダイ側の納品は一段落し、異世界側へ急いで持っていく物もなかった。

 

 机の端に積まれていた箱も消えている。いつもなら有り難いはずの空白が、今日は妙に広かった。

 

 理央もさっきから同じ画面を開いたり閉じたりしている。試作品を触るでもなく、原稿を書くでもない。椅子を半回転させて窓を見たあと、また元へ戻った。

 

 澪は声を掛けようとしたが、先に理央が口を開いた。

 

「海、行きませんか?」

 

 向かいの席から理央が言った。

 

「海?」

 

「異世界のです。せっかく春休みなのに、まだちゃんと見てないじゃないですか」

 

 理央は予定を開いていたスマホを伏せる。何も入っていない画面を見せられた気がした。

 

 澪は思い返した。ヴェルデン王国には大きな湖がある。セレヴィア東半島へも行った。しかし、海辺で立ち止まり、波を眺めたことはない。

 

「そういえば……ないですね」

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 返事を最後まで待たず、理央の背筋が伸びる。

 

「今日ですか?」

 

「今日です。明日にしたら、たぶん何か仕事が入ります」

 

 その予想には澪も反対できなかった。

 

 少し離れた机でPCを見ていた真壁が、画面から目を上げた。

 

「海なら、半島の北に小さな村がある。澪君たちが行くにはちょうどよいだろう」

 

「真壁さん、そんなところまで知ってるんですか?」

 

「何度か行ったことがある」

 

 それだけ言って、真壁は開いていた画面を閉じた。行き先は決まったらしい。

 

「寒くないですか?」

 

「北側の海だ。外套はあった方がよい」

 

 理央は立ち上がると、事務所に置いていた上着を取りに行った。遊びに出ると決まった途端、動きが早い。

 

 澪も財布やスマホを持ったところで手を止める。異世界へ行くのに、それだけでは済まない癖が付いていた。

 

「何か持っていく物はありますか?」

 

「今日は客として行けばいい。マレオへの土産はこちらで用意する」

 

 真壁の足元には、いつの間にか葡萄酒の瓶が二本置かれていた。

 

 完全な手ぶらではないらしい。

 

 仕事の荷物を用意しなくていい出発は、押入商会では珍しかった。

 

 

 

 転移先は、セレヴィア東半島北部のベルセナ村だった。

 

 澪が最初に感じたのは、潮の匂いだった。

 

 冷たさの残る風に、塩と、乾いた魚と、濡れた網の匂いが混じっている。少し遅れて、低い波音が家並みの向こうから届いた。

 

「海の匂いします」

 

 理央が風上へ顔を向ける。

 

「しますね」

 

「まだ見えてないのに、分かるんですね」

 

 ベルセナ村の家はどれも低かった。塩気を含んだ風に削られた石壁と、何度も直した跡のある屋根。その間を縫う細い道には、丸めた漁網や魚籠が寄せられている。

 

 軒下には黒褐色の海藻が並び、干し台では銀色の小魚が風に揺れていた。

 

 戸口で網を繕っていた女性が三人を見た。真壁に気づくと軽く手を上げ、そのまま針を動かし続ける。道の向こうから籠を抱えた男が来た時も同じだった。

 

 珍しい服装の澪と理央には視線が集まる。けれど先頭が真壁だと分かると、誰も呼び止めなかった。

 

 浜へ上げられた小舟の向こうにも、大きな森は見えない。薪を積んだ場所があったが、冬を越したばかりの棚には隙間の方が多かった。

 

「浜はこの先だ」

 

 真壁は分かれ道で迷わず右へ曲がる。

 

「やっぱり道、知ってるんですね」

 

 理央の声に、真壁は振り返らなかった。

 

 道沿いに、周囲より少し新しい小屋が数棟並んでいる。新しいといっても、板は潮風に馴染んだ色へ変わり、入口には濡れた外套や籠が掛けられていた。

 

 小屋の脇には大きな長靴がいくつも干してある。壁へ立て掛けた櫂も、持ち手が太かった。

 

 澪には、どこまでが昔からの村で、どこからが後に増えた建物なのか分からない。

 

 ただ、真壁だけは自分の町を歩くような足取りで先へ進んでいた。理央が澪の袖を引く。

 

「何度か来たって言ってましたよね」

 

「言ってました」

 

「初めて来た人の歩き方じゃないですよね」

 

「私もそう思います」

 

 前を歩く真壁の速度は変わらなかった。

 

「真壁じゃないか。今日は早かったな」

 

 魚籠を洗っていた小柄な男が、腰を伸ばした。日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。

 

「マレオ。変わりはないか」

 

「こっちはいつも通りだ。昨日は小魚が多かったぞ」

 

 旅人へ向ける挨拶ではない。真壁は澪と理央を紹介してから、籠の中を見た。マレオも二人を珍しそうに見るだけで、真壁がここにいること自体は何とも思っていないらしい。

 

「この二人も商人か?」

 

「ああ。今日は海を見たいそうだ」

 

「海なら逃げん。先に村を見ていけばいい」

 

 マレオは大まじめに言い、籠の水を切った。

 

 理央が海の方向を見た。まだ屋根の間に青い色が少し見えるだけだった。

 

「網も一枚直した。次の漁には間に合う」

 

 今度は、舟の横で網を確かめていた男が声を掛けてきた。

 

「それならよかった」

 

「明け方の波が弱ければ出す」

 

 真壁はその男をダルシオと呼んだ。

 

 さらに干し台の間を通れば、腕まくりをした女性が海藻の束を持ったまま近づいてくる。

 

「豆、前と同じならもう少し欲しいよ。干した海藻は増えてる」

 

「分かった。次は少し増やそう」

 

「麦は同じでいい。あんまり多くても、うちじゃ湿気るからね」

 

 マリエナは必要な話だけ済ませると、もう海藻へ戻っていった。真壁も、次はいつ来る、何袋までなら持ってこられるといった確認を自然に返している。初めて条件を決めているのではなく、いつもの取引量を直している会話だった。

 

 理央が澪へ顔を寄せる。

 

「……真壁さん、すごく知り合い多くないですか?」

 

「私も今、それを思ってました」

 

「真壁!」

 

 答えを聞く前に、十歳くらいの男の子が細い道を駆けてきた。

 

「ニエル。元気そうだな」

 

「昨日、でっかい魚が三匹取れたんだ。見る?」

 

「もう捌いた後ではないのか」

 

「頭は残ってる」

 

「それなら、帰る前に見せてもらおう」

 

 ニエルは満足そうに頷き、浜の方へ走っていった。

 

「あの子、真壁さんに全然遠慮しませんね」

 

「子どもが取引先へ遠慮する必要はないだろう」

 

「そこだけ急に普通なんですね」

 

 子どもにまで顔と名前を覚えられている。理央の視線が真壁へ戻った。

 

「何度か、の回数が多そうなんですけど」

 

「取引先だからな」

 

 真壁はそれ以上説明せず、ニエルが走っていった方へ歩き出した。

 

 澪と理央は顔を見合わせ、後を追った。

 

 浜へ近づくほど、波の音に人の声と木の軋みが重なった。

 

 何人もの男が、砂へ乗り上げた舟を引いている。その中心にいる大男は、頬に古い傷があり、腕も澪の脚ほど太い。

 

 掛け声に合わせて綱を引くと、舟底が湿った砂を擦った。

 

 そのすぐ横へ、ニエルが飛び出す。

 

 大男は綱を持ったまま一歩ずれ、子どもを先に通した。

 

「走るなら舟から離れろよ」

 

「分かってる!」

 

 返事だけして速度を落とさないニエルを、大男は追いもしなかった。綱へ体重を戻し、他の漁師と同じ掛け声で舟を引く。

 

「ガレオ、船はどうだ」

 

「今日は出せる。昨日より波も弱い」

 

 真壁に答えた声も、見た目から想像したより穏やかだった。

 

 作業場では、坊主頭の男が魚を開いている。太い首と無表情な顔だけ見れば、包丁を持っていることに少し身構えそうになる。

 

「ラミエル、それ薄すぎるよ。もう一枚重ねな」

 

 後ろからマリエナに言われ、男は切った魚を見直した。

 

「ああ、分かった」

 

 言い返しもせず、新しい魚を手に取る。

 

 さらに腕の太い若い男が、魚籠を左右に三つずつ持って通り過ぎた。腰を曲げた老人に呼び止められると、その場で足を止める。

 

「エステリオ、ついでにこっちも頼めるか」

 

「いいよ。どこまで?」

 

「干し台の端だ」

 

 魚籠六つに、海藻の籠が一つ増えた。

 

 別の男が一つ持とうと手を出したが、エステリオは「まだ持てる」とも「自分がやる」とも言わない。ただ相手が取りやすいよう、海藻の籠を少し傾けて渡した。力を見せたがる様子すらなかった。

 

「……真壁さん、あの人たちまで知ってるんですか?」

 

 理央が声を落とした。

 

「ここで働いている者だからな」

 

「そういう意味ではなくて……」

 

 澪が途中から引き取ったが、真壁はガレオと明日の波の話を始めていた。

 

 怖いのは顔だけかもしれない。

 

 それより、真壁が全員の名前を知っていることの方が気になった。

 

 ガレオが真壁との話を終え、澪たちへ目を向ける。

 

「浜へ行くなら、右側の岩は滑る。左から回った方がいい」

 

「ありがとうございます」

 

 澪が礼を言うと、ガレオはもう舟へ戻っていった。理央はその背中を見送る。

 

「親切でしたね」

 

「親切でした」

 

 二人の声には、確認するような響きが残った。

 

 理央が男たちの方を何度も振り返っていると、干した小魚を選り分けていたマリエナが手を止めた。

 

「あの連中が気になるのかい?」

 

「あ、はい。ずっとこの村の人なんですか?」

 

「いや。来たのは少し前だよ」

 

 理央はガレオの頬の傷をちらりと見た。

 

「ちょっと……怖そうですよね」

 

「顔だけだね」

 

「顔だけ?」

 

 マリエナは小魚の腹を押し、干し具合の足りない物を別の籠へ放った。

 

「最初はこっちも警戒したさ。傷だらけで、あの身体だろ。海賊でも連れてきたのかと思ったよ」

 

 少し離れたところで、マレオが喉を鳴らした。

 

「ところが喧嘩を嫌がる」

 

「怒らないしね。仕事をやり直せと言っても、妙な意地を張らない。何を言われても気にしないんだよ」

 

「ほんとに?」

 

 ちょうど、ガレオが舟から下ろした網を別の漁師に渡していた。受け取った男が絡みを見つけ、ここが駄目だと突き返す。

 

 ガレオは網を広げ直し、黙って結び目を探し始めた。

 

「その代わり、力仕事は助かる。網を引かせたら三人分は働くよ」

 

「昔のことは、ほとんど覚えていないらしいがな。ここで働く分には何も困らん」

 

 マレオの言葉に、澪は真壁を見た。

 

 真壁は魚籠の中身を確かめている。聞こえていない距離ではなかったが、会話へ入る様子はない。

 

「……見た目と全然合わないですね」

 

「かなり」

 

 澪もそれ以上は言わなかった。過去を覚えていない人たちを、興味だけで問い詰める気にはなれない。

 

 ガレオは絡んだ網を解き終えると、突き返した漁師を呼んだ。今度は問題がなかったらしく、二人で舟へ運んでいく。

 

 村の誰も、その光景を珍しそうには見ていなかった。

 

 浜に近い倉へ行くと、魚と海藻の匂いに、乾いた穀物の匂いが混じった。

 

 入口ではエステリオたちが麦袋を運んでいる。倉の奥には豆の袋も積まれていた。

 

 この海風の強い寒村で、まとめて収穫した物には見えない。

 

「この麦、この辺りで採れるんですか?」

 

「いや、南からだ」

 

 マレオが袋の口を確かめながら答えた。

 

「南?」

 

「真壁が持ってくるんだよ。麦と豆をね」

 

 マリエナは当然のように言い、代わりに渡す海藻の束を数え始める。壁際には干した小魚の袋と、塩蔵魚の樽が並んでいた。

 

「また真壁さんですか」

 

 理央の声に、少しだけ呆れが混じる。

 

「レヴァニアで仕入れている」

 

「それと、ここの海産物を交換してるんですか?」

 

 澪が聞くと、真壁は麦袋と海藻を順に見た。

 

「そうだ。こちらには海産物があり、向こうには麦と豆がある。それだけの話だ」

 

 量と値段が合わない時は貨幣で差を埋める。村は食料を得て、海藻や小魚には継続して売れる先ができる。

 

「海藻は南でも売れるんですか?」

 

「そのまま売る分もあるが、リュシア君が使う分もある。小魚も同じだ」

 

 リュシアが扱う食品の中にも、ここから運ばれた物が入っている。澪が知らなかった取引は、商会の別の仕事へすでにつながっていた。

 

 倉の外では、ガレオが次の麦袋を肩へ載せていた。

 

 彼らの仕事も、その荷の往復の中にある。

 

 ただ食事を配るだけなら、運んだ分だけ減っていく。

 

 海で採った物を買い、代わりに不足する物を運べば、次の漁も次の加工も仕事になる。真壁が何度も来ている理由は、村を見回るためではなく、取引を切らさないためだった。

 

 澪には、その方がずっと真壁らしく思えた。

 

「それだけの話にしては、ずいぶん馴染んでますよね」

 

「続けていれば、顔くらいは覚えられる」

 

「子どもに魚の頭を見せてもらう約束までするくらい?」

 

「あれは取引とは関係ないな」

 

 理央の追及は、そこだけ認められた。

 

 マレオが笑いながら、海藻の束を一つ持ち上げる。

 

「話はあとだ。海を見に来たんだろう。潮が上がる前に浜へ行った方がいい」

 

 本来の目的を村人に思い出させられ、理央は先ほどまでの疑問をいったん置いた。

 

「行きます。海、まだちゃんと見てないので」

 

 家並みの切れ目を抜けると、視界から壁がなくなった。

 

「うわ……」

 

 理央が足を止める。

 

 浅瀬は青緑色で、岩礁の先から急に色を深くしている。その先には、遮る物が何もない水面が広がっていた。

 

 波は同じ場所に留まらず、白い筋を作っては浜へ押し寄せる。沖には小舟が浮かび、その上を海鳥が風に乗って横切った。

 

「広いですね」

 

 澪も、すぐには浜へ下りなかった。

 

 ヴェルデンの湖も大きかった。それでも向こう岸を探そうと思えば、探す方向があった。

 

 目の前の海には、それがない。

 

「湖と全然違いますね。向こう、ほんとに何もない」

 

「この先は海だ。しばらくはな」

 

「これ見たかったんですよ」

 

 理央はようやく歩き出した。乾いた砂を抜け、波が届くところまで一気に下りていく。

 

 寄せた水に靴先が触れそうになり、慌てて下がる。次の波は手前で止まった。

 

「今の、絶対もっと来ると思ったのに」

 

「次は来るかもしれませんよ」

 

「澪さん、そういうこと言ってると自分が濡れますよ」

 

 言い返した直後、大きめの波が来た。二人で同時に逃げる。真壁だけが少し離れた乾いた砂の上にいて、動かなかった。

 

 浜には丸い石と貝殻が混じり、岩の窪みには透明な水が残っている。理央はしゃがみ込み、小さな貝が動くのを見つけた。

 

「これ、生きてますよね」

 

「触らずに見た方がよいだろう」

 

「分かってます」

 

 返事は早かったが、顔は水面から離れない。

 

 岩陰を覗けば、小魚の影がさっと散った。細い海藻が水の動きに合わせて倒れ、波が引くとまた起き上がる。

 

「写真、撮っても大丈夫ですか?」

 

「人へ向けなければ構わないだろう」

 

 理央は海へスマホを向けた。一枚撮って画面を確かめ、すぐ首を傾げる。

 

「広さが全然入らない」

 

「横にしても無理だと思いますよ」

 

「分かってます。でも撮りたくなるんです」

 

 何枚か角度を変えたあと、理央はスマホを下ろした。結局、自分の目で見る時間の方が長かった。

 

 澪は波打ち際を歩いた。潮の匂いも、風の強さも、靴底が沈む砂の感触も、映像で見る海とは違う。

 

 しばらくは何も探さず、何も売ろうとせず、ただ水平線を見た。

 

 真壁は少し離れた岩へ腰を下ろしていた。急かす様子はない。村では人に会うたび新しい話が出てきたが、海の前では誰も説明を始めなかった。

 

 風が髪を乱し、波音が会話のない隙間を埋めていく。

 

「来てよかったです」

 

 理央が海を見たまま言った。

 

「はい」

 

 澪も同じ方を向いたまま答えた。

 

 海を眺めていた澪の足元まで、薄い波が伸びてきた。

 

 引いていく水を見ているうちに、別の考えが浮かぶ。

 

「海水も、このまま収納できますよね」

 

「できるだろう。澪君、まず少量だけ入れてみるといい」

 

「少量?」

 

「分ける前に、何が入っているか見た方がよい」

 

 真壁は海を前にしても、いきなり大きなことは始めなかった。

 

 澪は人と舟が近くにいない場所へ移り、寄せた波の端から海水だけを収納した。砂の上に浅い窪みができるほどの量で止める。次の波が来ると、その跡もすぐ消えた。

 

 魚や蟹が混じっていないことも確かめる。水だけを対象にしたつもりでも、海には目で追えない物が多い。

 

 収納内へ意識を向ける。

 

 最初に大きく分かれたのは水と、それ以外だった。

 

 塩類。マグネシウムを含む成分。カルシウムを含む成分。さらに量の少ない成分、微細な砂や泥、有機物。

 

 塩水という一つのまとまりだったものが、探すたびに細く枝分かれしていく。

 

 澪は一度、分類だけで止めた。名前を見つけることと、実際に分けることは同じではない。

 

「まず水を分けます」

 

「それがよいだろう」

 

 海水の大部分を占める水を外すと、残った側は急に量が減った。そこから塩類をまとめ、さらに性質の違う成分へ分けていく。

 

「……かなり出ますね」

 

「順番に見ればいい」

 

「塩以外に、こんなに分けられるものがあるんですか?」

 

 理央は澪の横から海面を見た。外からでは、何が分かれているのか見えない。

 

「塩だけなら、海はもう少し単純だっただろうな」

 

 真壁の答えに、理央は納得しかけて止まった。

 

「それ、説明になってます?」

 

「塩以外も入っている、という説明にはなっている」

 

「ぎりぎりです」

 

 澪は笑いをこらえながら、先に分けた水の状態を確かめた。透明な水が収納内でまとまり、残った側の塩分が濃くなっている。

 

 分けた水を少量だけ器へ出す。見た目はただの透明な水だった。理央は器と海を見比べる。

 

「あれだけしょっぱい水から、普通の水が出るんですね」

 

「収納の中で分けていますから。ただ、飲むなら鑑定は必要です」

 

 澪は口を付けず、器を真壁へ渡した。真壁も状態を確かめ、試験に使った水はそのまま収納へ戻す。

 

 さらに分ければ、塩も取り出せる。マグネシウムは金属の塊で出てくるのではなく、それを含む成分として分かれた。この先は別の処理が要る。

 

 それでも、海水から水と塩だけではない物を取り出せることは分かった。

 

 砂浜から見える海の量を考えれば、試したのはほんの一滴に近い。その一滴の中に、分類先がいくつもあった。

 

 分類をもう一段進めたところで、澪の意識が一つの項目に引っかかった。

 

 植物。

 

「植物……?」

 

「海の中にですか?」

 

 理央がすぐに食いついた。

 

 澪は検索を深くする。海藻の切れ端ではない。目で一つずつ拾えないほど小さなものが、海水の中から同じまとまりとして集まっていた。

 

「植物性プランクトンだろう」

 

「これ、収納されてます」

 

「植物判定か」

 

 真壁は海面へ視線を移した。

 

 収納は生きた動物や魔物を入れられない。海水を対象にした時、その境界がどう働くのかは確かめる必要があった。

 

 けれど植物性プランクトンや微細な藻類は、植物として海水と一緒に入っている。

 

 収納内容を探しても、魚や動物性プランクトンは出てこない。海水を対象にしても、生きた動物を収納できない境界は変わっていなかった。

 

「魚は入らないのに?」

 

「魚は入ってません。こっちは植物として分かれてます」

 

「そこ、見た目で分かれないのに、収納には分かるんですね」

 

 理央は澪を見てから、また海を見る。

 

「海って、見えないものが多すぎません?」

 

 澪にも反論はなかった。

 

 別の場所からも少量ずつ海水を入れ、植物の分類だけをまとめる。魚や目に見える生き物がいる場所は避け、同じ一角から取り続けない。

 

 採る場所を数歩ずつずらすたび、理央も横へ付いてきた。

 

「さっきより多いですか?」

 

「少しだけ。場所で違いますね」

 

「緑っぽい海の方が多いとか?」

 

「それだけでは決められません。今は、ここにもいると分かったくらいです」

 

 澪が言うと、理央は海面へ近づけていた顔を戻した。

 

「見ても分からないと思ってました」

 

「私も肉眼では分かりません」

 

 集めたものは、最初は水に色が付いた程度だった。水分と塩類を分けて濃縮すると、緑と褐色の間のような濁りが濃くなる。さらに水分を抜けば、湿った泥にも似たまとまりが残った。

 

「これが、さっきまで海の中に見えずにいたんですよね」

 

 理央が少しだけ距離を取った。

 

「海水の全部がこれではありませんよ」

 

「分かってますけど、急に固まると海の裏側を見た感じがします」

 

 澪はその表現の方が近い気がした。

 

 真壁は濃縮されたものを鑑定し、指先ほどの量を分ける。海から集めた量に比べれば、残ったものは驚くほど少ない。収納がなければ、ここまで集める前に水と塩の扱いで手間がかかるだろう。

 

「有機物としては使えそうだな」

 

「何に使うんですか?」

 

 答える前に、村の方から薪を割る乾いた音が一度だけ響いた。

 

「燃料にもできそうだな」

 

「これをですか?」

 

「水分と燃えない成分を抜けば、有機物は残る」

 

 真壁は村へ戻る道の脇にある薪棚を見た。太い薪はほとんどなく、細い枝まで束ねて積まれている。

 

 浜の周りに、大きな森はない。

 

 煮炊きだけなら節約もできるが、魚を干し、煮て、保存食へ加工するにも火は要る。冬になれば暖房にも使う。

 

「燃えるのか?」

 

 話を聞いたマレオが、濃縮した植物性プランクトンを覗き込んだ。

 

「試してみよう」

 

 真壁と澪は、集めた分から水を抜いた。残った塩類や燃えない成分を、澪が分けられる範囲で外す。

 

 乾燥させると量はさらに減った。

 

 それを圧縮しても、出来たのは指二本ほどの小さな塊だけだった。

 

 理央は出来上がった試験片を見て、元の海を振り返った。

 

「あんなにあったのに、これだけですか」

 

「海水のほとんどは水です。植物だけなら、もっと少ないですよ」

 

「これを村で使う分まで作るのは、大変そうですね」

 

 それでも理央は小さな試験片を見直した。

 

「海から薪を作るんですか?」

 

「薪ではないですけど……近いものにはなりそうですね」

 

 理央は期待した顔で試験片を見る。海から取ったと言われなければ、黒褐色の乾いた固まりにしか見えない。

 

 マリエナが小さな炉を空け、火種を寄せた。

 

 表面から細く煙が上がる。すぐに炎が立つほどではなかったが、火種を当て続けると端が赤くなり、やがて小さな火が残った。

 

 焦げた海藻に似た匂いが一瞬立ち、風に流れる。マレオは煙を避けながらも、火から目を離さなかった。

 

「燃えるね」

 

 マリエナが最初に見たのは、真壁でも澪でもなく、空きの目立つ薪棚だった。

 

「これが使えるなら、そっちの方がありがたいよ。薪はいつも足りないからね」

 

「今のまま海から集め続けるものではない」

 

 真壁は燃え方を見ながら言った。

 

「では、駄目なのか?」

 

「今日は作れるかを試しただけだ。使うなら、陸で増やす方法を考えた方がよい」

 

 マレオは少し考え、火の残る小さな塊へ目を戻した。

 

「海にあるものを、陸で増やすのか」

 

「その方が漁場を削らずに済む」

 

「育てるのに場所は要るのか?」

 

「水と光、それに増える条件は必要になる。どの種類が向くかも、まだ分からない」

 

 真壁は出来ることと、まだ決まっていないことを分けた。

 

 澪も海から採った残りを収納内へ戻し、これ以上の回収は止める。今日は燃えるところまで分かれば十分だった。

 

 今すぐ村の薪がすべて置き換わるわけではない。

 

 それでもマリエナは、燃え尽きた後に残った灰まで確かめた。

 

「次に来る時、もう少し長く燃えるのを持ってきておくれ」

 

「まだ頼む物も決まっていないだろう」

 

「燃えるのは見たからね」

 

 マレオより先に、マリエナの中では次の試験が決まっていた。

 

 

 

 昼になると、マレオの家の長い卓へ大鍋が運ばれた。

 

「ガレオ、その鍋はそっちじゃないよ」

 

 マリエナに言われ、頬に傷のある大男が足を止める。

 

「こっちか?」

 

「そうそう。パンを置く場所がなくなるだろ」

 

「分かった」

 

 湯気の上がる鍋を抱えたまま、ガレオは素直に向きを変えた。

 

 理央は黙ってその背中を追い、ガレオが鍋を置いてから澪へ顔を寄せる。

 

「やっぱり顔だけですね」

 

「聞こえますよ」

 

「悪口ではないです」

 

 たぶん褒め言葉でもない。

 

「熱いから気をつけな。パンは汁につけるといい」

 

 大鍋には白身魚と貝、豆、玉ねぎが入り、細く刻んだ海藻が浮いていた。ニンニクに似た香味と油、香草、それに葡萄酒らしい匂いが、魚介の湯気に混じっている。

 

 理央はまず汁を一口飲んだ。

 

「おいしい……魚の味がすごいです」

 

 貝と魚から出た味を豆が吸い、柑橘に似た淡い酸味が後に残る。澪も麦パンを汁へ浸した。表面は硬いのに、中へ熱い汁が入ると急に食べやすくなる。

 

 白身魚は匙を入れるだけで崩れた。骨は丁寧に取られているが、皮は残してあり、そこに香草と油の味がよく染みている。

 

「豆も合いますね」

 

 副菜には、小魚を酸味のある漬け汁へ入れたものと、炙った干物、油と香草で和えた海藻が並んでいた。

 

「この小魚、酸っぱいけどパンと合います」

 

「保存するためさ。暖かくなる前に仕込んでおくんだよ」

 

 マリエナはそう答え、自分の椀へ煮込みをよそった。作る側だけが立ったままにならず、空いた場所へ座る。

 

 海辺の物ばかりに見えて、煮込みの豆と卓上のパンだけは南から来ている。

 

「このパンも、この村で作ってるんですか?」

 

「焼いてるのは村だ。麦は南からだな」

 

 マレオの答えに、理央が真壁を見た。

 

「もしかして」

 

「真壁さんですか?」

 

 澪まで同じ方を見た。

 

「麦と豆はレヴァニアから持ってきている」

 

「海を見に来ただけなのに、知らない商売がどんどん出てきますね」

 

「君たちが知らなかっただけだ」

 

「それはそうですけど」

 

 理央はパンをもう一切れ取り、煮込みの汁へ沈めた。

 

「それで、ここの魚はどこへ行くんですか?」

 

「王国側にも運ぶ。乾物は遠くまで持つからな。生の魚とは分けている」

 

「レヴァニアへ麦を買いに行って、帰りにここの魚を運んで、それから王国にも持っていくんですか?」

 

「毎回すべてを一人で運ぶわけではない。荷が動く道をつないでいるだけだ」

 

 真壁にとっては短い説明だったが、理央はパンを汁へ浸したまま止めた。

 

「その『だけ』、だいぶ大きくないですか?」

 

「道が切れなければ、私が毎回来る必要もなくなる」

 

 マレオが横から口を挟む。

 

「今でも、こいつが来ない時は別の商人が来るぞ。最初に値を付けたのは真壁だがな」

 

 それを聞いて、澪は少し納得した。真壁だけが働き続けなければ止まる取引にはしていない。

 

 海藻と小魚が南へ運ばれ、南の麦と豆がこの村へ来る。その話は倉でも聞いた。

 

 けれど、同じ鍋と卓へ並んだ方がずっと分かりやすかった。

 

 食事の間にも、強面の男たちは皿やパンを運び、空いた椀を下げている。ニエルがパンを落としかけると、ラミエルが無言で皿を差し出して受け止めた。

 

 ニエルは礼を言い、何事もなかったように食べ始める。

 

「頭、見るか?」

 

 食事の途中でニエルが真壁へ聞いた。

 

「魚のか」

 

「約束しただろ」

 

「食後にしよう」

 

 真壁が覚えていたので、ニエルは満足して残りのパンをちぎった。

 

 ここでは、それが普通の昼食だった。

 

 

 

 昼食を終えて外へ出ると、陽射しが海面を白く光らせていた。

 

「次も転移ですか?」

 

 理央が真壁へ聞く。

 

「その方が早いな」

 

「せっかくなので、海沿いを見ながら行きません?」

 

 効率より観光を選ぶ提案だった。

 

「私も見たいです」

 

 澪が続くと、真壁は二人を見比べた。

 

「では、エアカーにしよう」

 

 ベルセナ村の人たちへ挨拶を済ませ、三人はエアカーへ乗った。

 

 出発前には、ニエルが昨日獲れた魚の大きな頭を納屋から持ち出してきた。真壁に見せて満足すると、今度は浜から両手を振る。マレオたちは仕事へ戻り、強面の男たちも舟の周りへ散っていった。

 

 機体が上がるにつれて、石造りの家々が一つのまとまりになっていく。海藻干し場も、小舟も、さっきまでいた浜も小さくなった。理央は窓へ寄ったまま離れない。

 

 海岸線に沿って西へ進むと、岩礁の間に狭い入り江が現れた。崖に挟まれた小さな浜があり、海藻を干す家が数軒だけ集まっている。その先には、舟を引き上げる人の姿が見えた。

 

 上から見ると、海の底が場所によって違う色をしていた。砂の上は明るく、岩の周りは暗い。波は岬へ当たって白く砕け、入り江の奥へ入る頃には細い線になっている。

 

 浅瀬は青緑色で、岸から離れるほど青が濃くなる。海鳥が機体より低いところを飛び、白い腹を一瞬だけ見せて崖の方へ曲がった。

 

 急ぐ必要はない。

 

 真壁も速度を上げず、海岸から離れすぎない進路を取っていた。

 

「あそこにも村があります」

 

「浜が小さいですね。舟を置いたら、もういっぱいになりそう」

 

 二人は見つけた物をそのまま口にした。

 

「あの崖、縞になってます」

 

「ほんとですね。途中だけ黒いです」

 

「火山の層ですか?」

 

 理央が真壁へ聞いた。

 

「この距離では決められないな」

 

「真壁さんでも、見ただけじゃ分からないんですね」

 

「見ただけで分かることの方が少ない」

 

 その返事を聞き、理央はまた窓へ向き直った。今日は分からない物を調べに降りる旅ではない。崖の縞は崖の縞のまま、後ろへ流れていった。

 

 澪も、海岸に倉庫を建てるなら、などとは考えなかった。入り江の形が変わるたびに窓の外を見て、海の色が変わるのを追った。

 

 西へ進むにつれて、少しずつ景色が変わる。

 

 小舟に混じって、帆を上げた漁船が増えた。沿岸を行く輸送船も見える。崖沿いの道は幅を増し、荷車同士がすれ違うようになった。

 

 最初は一軒ずつ離れていた家も、次第に屋根を寄せ合うようになる。船を修理する広い浜、荷を積み下ろす桟橋、沖で順番を待つ帆船。

 

 ベルセナ村とは、人の流れの速さが違っていた。

 

「さっきより船、増えてません?」

 

「増えてますね」

 

「この先は人の出入りが多い」

 

「町、近いんですか?」

 

「もうすぐ見える」

 

 真壁が進路を少し北へ振る。

 

 岬が前を塞ぎ、海岸の先が見えなくなった。理央は窓へ額が付きそうなほど身を寄せる。

 

 岬を越えた。

 

 その向こうには、それまでと比べものにならない数の帆があった。

 

 小さな白い帆が海面に散り、その奥では大きな船がゆっくり向きを変えている。さらに先、弧を描く海岸線に沿って、建物が幾重にも集まっていた。

 

「……あれですか?」

 

 理央の声が、さっきまでより少し低くなる。

 

「ああ。トルヴィアだ」

 

 エアカーは高度を保ったまま、海の上を西へ進んだ。

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