押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第331話 その話を詳しく

 白い帆の向こうで、トルヴィアの町が近づいてきた。

 

 海岸線に沿って倉庫が並び、その先には石造りの家々が密集している。ベルセナ村では浜へ引き上げた小舟が目立っていたが、こちらは桟橋だけでも数え切れない。

 

 沖にいた時には白い点にしか見えなかった帆も、町へ近づけば一隻ずつ形が分かる。帆を畳んで順番を待つ船。魚籠を満載した小舟。岸から離れ、北東へ向きを変える沿岸船。

 

 桟橋の先には人が列を作り、魚の入った籠が船から陸へ途切れず渡されていた。

 

「ベルセナと全然違いますね」

 

 理央は窓へ寄ったまま、港を見下ろしていた。

 

「船の数がすごいです」

 

 澪の目には、どこから見ればよいのか分からないほど、船と荷が多かった。漁船らしい小型船の間を、帆の大きな船がゆっくり抜けていく。

 

「北岸の魚が集まる町だからな」

 

「全部、漁船ですか?」

 

「沿岸を走る船も混じっている」

 

 真壁は港へまっすぐ降りず、市街地の外側へ機体を回した。

 

 倉庫の間や広場には荷車が多い。桟橋へ近づけば、着陸場所を探すだけで港の仕事を止めかねなかった。

 

「あそこ、広く空いてますよ」

 

 理央が港に近い広場を指す。

 

「荷を置く場所だろう。今は空いていても、船が着けば使う」

 

 真壁はそこを避けた。次に見えた道沿いの空き地も、荷車が曲がる場所として残してあるらしく選ばない。

 

 上から見れば空いている場所でも、町の者には用途がある。

 

 町外れに、人も荷車も入っていない草地がある。

 

 真壁は一度その上を通り、地面と周囲を確かめてからエアカーを降ろした。

 

 機体が着地すると、近くの道にいた人たちが足を止める。空から降りてきた乗り物を珍しそうに見る者はいたが、遠巻きに集まり始める前に三人は外へ出た。

 

「ここから歩くんですか?」

 

「港まで遠くはない」

 

 エアカーを収納すると、見ていた人たちの間から声が上がった。

 

「隠す気はないんですね」

 

「今さら機体を布で包んでも意味はないだろう」

 

 空から降りてきたところを見られた後である。理央も「それはそうですね」と上着の襟を直した。

 

 理央はそちらを気にしながらも、すぐ港の方へ顔を向ける。

 

 海沿いの道には、魚籠を積んだ荷車が何台も行き交っていた。

 

「近いというより、もう港が始まってません?」

 

「そうかもしれませんね」

 

 三人は荷車の流れを避け、町へ入った。

 

 

 

 港へ近づくにつれて、潮とは別の匂いが強くなった。

 

 魚。濡れた網。船へ塗る油。加工場の煙。

 

 ベルセナ村にも同じ匂いはあった。けれど、ここでは一つ一つが重なり、通り全体へ染みついている。

 

「ずっと魚の匂いします」

 

「海の匂いだけじゃないですね」

 

「市場と加工場が近いからだろう」

 

 真壁が示した先では、煙突の低い建物から白い煙が上がっていた。戸口からは木箱が運び出され、その横を空の樽を転がす男が通る。

 

 建物の外壁には煤が付き、積まれた薪はベルセナ村より多い。それでも使う量が多いのか、次の荷を待つ空き棚が幾つもあった。

 

 道の海側では、船から魚籠を下ろしていた。

 

 受け取る者、籠の中を覗く仲買、荷車へ積む者。濡れた石畳へ海水が流れ、その上を誰も止まらず歩いていく。

 

 魚籠が一つ下りるたび、木札を持った男が中を見る。大きな魚は数を確かめ、小魚は籠ごと重さを見るらしい。結果を聞いた仲買が値を返し、折り合わなければ次の相手が前へ出る。

 

 澪たちが一つの籠を眺めている間に、隣では三つの籠が荷車へ移っていた。

 

「あの魚、どこへ持っていくんですか?」

 

 理央が大きな籠を指した。

 

「市場だろう。そのまま売れない物は、向こうの加工場へ回す」

 

 真壁の答えを確かめるように、籠は二手へ分かれた。一つは人の声が集まる大きな建物へ。もう一つは煙の上がる方へ運ばれていく。

 

 乾いた海藻を積んだ荷車が、反対側から来た。さらに後ろには、干物の束と塩蔵魚らしい樽が続く。

 

 荷車同士がすれ違うたび、引き手は短い声で進む側を決める。道を塞いで言い争う者はいない。止まれば、後ろの荷まで止まると誰もが知っているようだった。

 

 獲れた魚だけが動いているのではない。

 

 加工された物も、空いた籠も、次の漁へ使う道具も、同じ道を行き来していた。

 

「人も多いです」

 

 理央が道の端へ寄る。大きな樽を担いだ男が、すぐ横を通り過ぎた。

 

「観光客が歩く道じゃないですね」

 

「邪魔にならないようにしましょう」

 

 二人は作業の流れが切れた時だけ道を渡った。真壁も先へ急がず、港の動きを見られる速度で歩いている。

 

「港が止まる時間は短そうですね」

 

 澪は、空の荷車が埠頭へ入り、魚を積んだ荷車が町へ出ていくのを見た。

 

 ベルセナ村では一つの漁が村の仕事だった。

 

 トルヴィアでは、北岸から集まる幾つもの漁が、一本の太い流れになっていた。

 

 

 

「魚市場、見ていってもいいですか?」

 

 理央が聞いた時には、もう入口の方へ体が向いていた。

 

「そのために来たようなものですし、入りましょう」

 

 澪も賛成する。真壁は二人の後ろから付いてきた。

 

 市場へ一歩入ると、外よりさらに音が増えた。

 

 石台を挟んで値段を言い合う声。木箱を置く音。水を撒く音。通路の脇には細い溝があり、魚の鱗を光らせながら海水が流れている。

 

 売り手は声を張り上げるだけではない。魚の腹を見せ、鰓を開き、今朝揚がった船の名まで出して買い手を止める。仲買は魚を持ち上げ、重さと傷を確かめてから、売り手より低い値を返していた。

 

 その横では、町の女性が小魚を一皿分だけ買っている。大口の取引も今夜の食事も、同じ屋根の下で動いていた。

 

 並んでいる魚も、ベルセナ村よりずっと多い。

 

 澪の腕ほどある白身魚。銀色の小魚。片側へ目が寄った平たい魚。赤い鱗の魚。その間に、貝や海藻、干物を並べた台が続く。

 

「これ、イカですよね?」

 

 理央が足を止めた。

 

 石台の上には、白っぽい胴から細い足を伸ばした生き物が並んでいた。見慣れたイカに似ているが、胴の端に青い筋が走っている。

 

「似てますね」

 

「足、多くないですか?」

 

「数えれば分かるだろう」

 

「数えます?」

 

 理央は本気で一本目を目で追い始めた。

 

「そこまでしなくてもいいと思います」

 

 澪が止めると、売り手が声を上げて笑った。

 

「食う時には切るんだ。何本でも味は変わらんよ」

 

「そういう問題なんですか?」

 

「買うなら安くするぞ」

 

「今日は見るだけです」

 

「見るだけなら、足も数えていけ。十二本だ」

 

 店主が一本ずつ足を持ち上げる。二本目で別の客から声が掛かり、数える手は止まった。

 

「続き、数えます?」

 

「もう十二本と聞きましたから」

 

 理央は自分から聞いたのに、続きを待たず隣へ移った。

 

 隣の台にタコに似た頭足類を見つけると、理央はまた足を止めた。

 

 市場の一角では、形のよい大型魚だけが別に取り分けられていた。木札にはアルヴェラの名が刻まれ、他の買い手はその列へ手を出していない。

 

 値段を決める声も、そこだけ聞こえなかった。札の付いた魚は競りへ回さず、数を揃えて別の出口へ運ばれている。

 

 澪は少し気になったものの、競りの途中で聞くことではないと思い、通り過ぎた。

 

 今は、理央が次にどの魚へ引っかかるかを見る方が忙しかった。

 

 予想どおり、理央はタコに似た生き物の吸盤へ指を近づけ、触れる直前で店主に止められた。

 

「そいつは死んでても張り付くぞ」

 

「先に言ってください」

 

「今、言っただろ」

 

 理央は手を背中へ隠した。

 

 

 

 市場の中ほどまで来ると、見たことのない魚がさらに増えた。

 

 背に硬い棘を並べたもの。口が細長く伸びたもの。鱗が黒く、腹だけ鮮やかな黄色をしたもの。

 

 理央は、黒い魚の前でしゃがみ込んだ。

 

「これ、どうやって食べるんですか?」

 

 店主は魚の尾を持ち上げ、厚い腹を見せた。

 

「焼いてもいいし、煮てもいい。大きいのは塩漬けだな。腹の黄色いところは苦いから外す」

 

「そこ、食べちゃ駄目なんですね」

 

「食べても死にはせん。だが、金を払って苦いところまで食う必要もないだろ」

 

 理央は素直に頷いた。

 

「全部、この辺で獲れるんですか?」

 

 澪が台の魚を見比べる。

 

「近くで獲れるのもある。北の村から来るのもある。朝に入った船次第だ」

 

 店主は通路の向こうを指した。今も新しい籠が運び込まれ、中身を種類ごとに分けている。

 

 同じ魚でも、大きさと傷で置かれる場所が変わる。形のよい物は石台の中央へ、小さい物は木箱へ。鱗が剥がれた物は売り手が一度匂いを確かめ、加工へ回す籠に入れていた。

 

「毎日、並ぶ魚が変わるんですか?」

 

「季節も海も変わるからな。同じ物だけ欲しけりゃ、干物屋へ行った方がいい」

 

 生の魚は、その日に海が渡した物で売り場が決まるらしい。

 

 理央は珍しい魚を見つけるたび、食べ方を聞いた。焼く。煮る。油で揚げる。香草を腹へ詰める。小さい物は骨ごと食べる。

 

 どの台にも違う答えがあり、売り手も自分の魚が一番うまいと譲らない。

 

 平たい魚の店では、焼くなら皮を下にしろと言われた。赤い魚の店では、煮汁を捨てるなと念を押される。貝を並べた女性は、火を通しすぎると硬くなると言いながら、隣の店の煮方だけは信用するなと付け加えた。

 

「皆さん、他のお店には厳しいですね」

 

「客を取られるからな」

 

 真壁の返事を聞いた女性が、こちらへ身を乗り出した。

 

「違うよ。あいつの煮方が本当に長すぎるんだ」

 

 隣から反論が飛び、理央が笑う。

 

「さっき昼ご飯を食べたばかりなのに、お腹が空いてきました」

 

「それは早すぎませんか?」

 

「食べ方ばっかり聞いてるからです」

 

 真壁は口を挟まず、二人が市場を見て回るのに付き合っていた。

 

 見るだけと言って入ったのに、澪の手にはいつの間にか小さな干し貝の包みがあった。味見を勧められ、一つ食べた後で断りきれなかったのである。

 

「買ってますよね」

 

「干した物なら持ち帰れますから」

 

「私も何か買おうかな」

 

 理央が売り台へ戻りかけた。

 

 その時、売り場とは反対の方向へ運ばれる魚籠が、澪の視界を横切った。

 

 

 

 籠の中には、小さな銀色の魚が詰まっていた。

 

 売り場に並んでいた物より大きさは不揃いだが、腐っているようには見えない。魚籠を担ぐ作業員は市場の奥ではなく、建物の外れへ向かっている。

 

 その後ろにも、同じ方向へ進む籠があった。

 

 売れた魚なら出口へ運ばれる。干物や塩蔵へ回す魚なら、煙の上がる加工場へ行くはずだった。

 

 どちらとも違う流れだった。

 

「あれ、売り場に持っていかないんですか?」

 

 澪が声を掛けると、作業員は足を止めずに答えた。

 

「もう終わりだ」

 

「終わり?」

 

 理央も籠を追って歩く。

 

「今日の分はな。買い手がつかなかった」

 

 市場の端を回ると、石壁の陰に魚籠が積まれていた。

 

 売り声は壁一枚を隔てただけで聞こえている。向こうでは魚を奪い合うように値段を付け、こちらでは値段の付かなかった魚が音もなく増えていた。

 

 小魚。網の中で傷が付いた魚。形の悪い魚。大きさが揃っていないもの。

 

 中には、売り台にある魚とほとんど変わらない物も混じっている。

 

 鼻を刺す腐敗臭はない。鱗はまだ濡れ、口を動かしている魚さえいた。

 

 理央はさっき買おうとしていた干物の店を振り返った。そこまでの通路には客がいて、魚は次々に包まれていた。

 

 この場所だけを見ると、同じ市場の中とは思えない。

 

「これ、どうするんですか?」

 

「捨てる」

 

 作業員は担いできた籠を空けた。銀色の魚が重なり、山の一部になる。

 

 跳ねた一匹が石床へ落ちた。作業員は足で踏まず、拾って山へ戻す。食べ物として乱暴に扱っているのではない。ただ、もう売り物として置く場所がないのだ。

 

 理央の顔から、市場を見ていた時の楽しさが引いた。

 

「まだ食べられますよね?」

 

「今ならな」

 

 作業員は短く答え、空になった籠を持って戻っていく。

 

 その入れ違いに、別の男が形の崩れた魚を運んできた。

 

「あっちのは売ってましたよね」

 

 理央が籠の中を指す。

 

「大きさが違うんですか?」

 

 澪にも理由は分からなかった。見た目だけなら、売り場の小魚と区別が付かない。

 

 処分する物を集め終えた場所ではない。

 

 市場が動いている間、ここにも魚が流れ続けていた。

 

 

 

「獲れたからって、全部売れるわけじゃない」

 

 新しい籠を運んできた男が言った。腰に市場の木札を下げている。

 

「今日中に売れなけりゃ、明日はもっと値が落ちる。明日の船が入れば、新しい魚も来るからな」

 

「明日まで置けないんですか?」

 

「氷を使えばな」

 

 男は魚の山を顎で示した。

 

「だが、これ全部に氷を使ったら、魚より氷の方が高くなる」

 

 氷そのものがないわけではない。市場の中心では、大きくて値の付く魚へ砕いた氷を載せていた。

 

 それを小魚や傷物まで回せば、売れた金額より保存に使う金額が上になる。

 

「氷が安ければ、全部残せますか?」

 

 澪が聞くと、男は首を横へ振った。

 

「置く場所も要る。明日になれば明日の魚が来る。売れない物を冷やして積んでおくだけじゃ、市場が埋まる」

 

 冷やせば時間は延びる。それでも買い手も運ぶ先も増えなければ、捨てる日が後ろへずれるだけだった。

 

「干物や塩漬けにはできないんですか?」

 

 理央が聞く。

 

「やってるさ。向こうで煙が出てただろ。だが、一日に捌ける量は決まってる。人も炉も急には増えん」

 

 燃料にも金が掛かる。塩蔵に回すなら塩と樽が要る。干す場所にも限りがあり、天気が悪ければ作業は遅れる。

 

「人を増やせば?」

 

 理央が言い、すぐ周囲を見た。

 

 市場にはこれだけ人がいる。それでも処分魚は増えている。

 

「大漁の日だけ働く職人を、どこから連れてくる。魚を捌けるようになるまでにも時間が掛かる」

 

「毎日同じ量じゃないから、ずっと増やしておくわけにもいかないんですね」

 

「そういうことだ」

 

 そこへ北岸の村々から魚が集まる。

 

 普段なら売れる量でも、幾つもの船が同じ日に大漁となれば、市場と加工場の受け皿を越えてしまう。

 

 豊漁そのものは悪くない。魚が多ければ、漁師の船は重くなり、市場へ運ぶ籠も増える。

 

 けれど、陸へ上げた後の流れは急には太くならない。

 

「大漁なのに困るんですね」

 

「大漁だから困る日もある」

 

 男は空の籠を肩へ載せ直した。

 

「漁師は獲れた分を持ってくる。買い手は食える分しか買わん。魚はこっちの都合で待ってくれない」

 

 澪は足元に近い魚へ目を落とした。

 

 ベルセナ村なら、海藻や小魚も真壁が値を付けて買っていた。ここでは集まる量が違いすぎて、同じ小魚が今日中に捨てられる。

 

 一つの村で余る量なら、買い手を一つ作るだけでも動かせる。

 

 北岸中の魚が集まる港では、その買い手まで大量に必要だった。

 

「もったいないですね」

 

 考えるより先に、言葉が出ていた。

 

 男は否定しなかった。ただ、仕事へ戻る前に魚の山を一度見た。

 

「売れるなら、俺たちだって売るさ」

 

 

 

 作業員が離れた後も、三人は処分魚のそばに残った。

 

 別の籠が運ばれてくる。今度は、指ほどの小魚が多い。

 

 澪は銀色の山を見ているうちに、小魚そのものを液体調味料へ変える方法を思い出した。

 

「魚醤というのが、東の方にあるそうですよ」

 

「魚醤?」

 

 理央が聞き返す。

 

「魚を塩と一緒に漬けて、発酵させて作る調味料です」

 

「魚を調味料にするんですか?」

 

「はい。小さい魚でも使えるはずです」

 

 澪も作り方を細かく知っているわけではない。魚と塩を使い、時間を掛けて発酵させる。その程度だった。

 

 けれど、形を揃えて売る商品でなければ、傷のない小魚を一匹ずつ選ぶ必要はない。

 

 魚醤として使える部分と、傷んでいて使えない部分は分けなければならない。それでも、値段が付かないという理由だけでここへ来た魚なら、原料候補にはなる。

 

「すぐにはできませんよね」

 

「発酵ですから、時間は掛かると思います」

 

「じゃあ、今日の魚を今日売る方法ではないんですね」

 

「そうですね。でも、捨てずに原料へ回せるなら」

 

 澪は魚の山を見る。

 

 今すぐ食卓へ出す物ではなく、時間を使って別の味へ変える。鮮魚のまま売れる時間が短いなら、最初から別の商品になるまで待たせる方法もある。

 

「味は、どんな感じなんですか?」

 

「魚の旨味と、塩気が強い液体調味料だったはずです。匂いも強いと思います」

 

「最後だけ急に不安になりました」

 

「料理へ使う量は少しです」

 

「どばっと掛ける物じゃないんですね」

 

「たぶん大変なことになります」

 

 理央は魚醤の瓶を傾ける真似を途中で止めた。

 

 真壁は処分される魚の種類を見比べていた。

 

「時間は掛かるだろうが、捨てる魚を原料にはできるな。種類によって向き不向きは調べる必要がある」

 

「全部を同じ樽に入れればいいわけではないんですね」

 

「味も発酵の進み方も変わるだろう」

 

「塩を入れれば、勝手に同じ物になるわけではないんですね」

 

「腐らせるのと発酵させるのは違う。管理する者も要る」

 

 真壁は、処分魚の山がそのまま商品へ変わるとは言わなかった。

 

 その場で作れる話ではない。

 

 それでも、魚の山が調味料の原料に見え始めると、ただ捨てる物として眺めていた時とは少し違って見えた。

 

 

 

「あと、こういうのなら、おせんべいにできません?」

 

 理央が市場の方を振り返った。

 

「おせんべい?」

 

「さっき、イカとかタコみたいなのがいましたよね」

 

 理央は両手を上下に置き、何かを挟む形を作る。

 

「小麦粉と調味料を付けて、薄く押して焼くんです。こう、ぎゅっと」

 

「ああ、ありますね」

 

 澪にも、海産物を丸ごと押し焼きにした煎餅の姿が浮かんだ。

 

 魚醤のように長く待つ商品ではない。焼く設備と材料が揃えば、試すところまでは早そうだった。

 

「あれなら形が悪くても、潰して焼くから関係ないですよね。足が多くても、たぶん」

 

「まだ気にしてたんですか?」

 

「見た目は大事じゃないですか」

 

 理央は少し考え、魚の山に小さな頭足類が混じっていないか探した。

 

「味は何にするんですか?」

 

 澪が聞くと、理央の手が止まった。

 

「塩と……海の物だから、海藻とか?」

 

「聞かれてから考えましたね」

 

「思いついたばっかりですから」

 

「切れた足とか、小さいのも使えると思います。味を変えたら何種類か作れそうですし」

 

「何種類も作る前に、一つ焼けるか確かめた方がいいですよ」

 

「分かってます。今すぐ店を出す話じゃないです」

 

 返事は少しだけ不満そうだった。

 

「でも、焼いてる匂いは絶対おいしいと思います」

 

「味より先に匂いが決まったんですか?」

 

「売るなら大事です」

 

 そこだけは妙に自信があった。

 

 真壁が市場の売り場へ目を向ける。

 

「小麦粉と調味料があれば、形を揃えやすい。商品にはしやすいだろうな」

 

「ですよね」

 

 真壁から肯定され、理央の声がすぐ明るくなる。

 

「港で売ったら、歩きながら食べられます。船に持っていくのも――あ、どれくらい持つか分からないか」

 

 言い切る前に、自分で止まった。

 

「焼けば何でも長持ちするわけではありませんからね」

 

「そこは調べます。まだ思いついただけです」

 

 完成した商品説明にはならない。

 

 それでも理央は、指で丸い形を作り、どれくらいの大きさなら食べやすいかを考え始めていた。

 

 先ほどまで捨てられる魚しか見えていなかった場所に、薄く焼かれた小さな商品が一つ増えていた。理央の頭の中だけの話だったが、表情はもう市場の売り場を見ていた時に近い。

 

 

 

「作った後に持たせるなら、包む方も変えた方がよいな」

 

 真壁が言った。

 

 澪と理央の視線が同時に向く。

 

「包む方ですか?」

 

「加工した物を、気密性の高い袋へ入れる方法もある」

 

「真空パックみたいな感じですか?」

 

「近い。空気へ触れる量を減らし、中身に合わせて加熱殺菌しておけば、今よりは持たせられるだろう」

 

 理央が安心しかけたところで、真壁は続けた。

 

「ただし、袋へ入れて一度煮れば済む話ではない」

 

「違うんですか?」

 

「魚は中身によって条件を変える必要がある。塩分、水分、酸味、加熱する強さ、保存する温度。出来上がった物を見て決めることになる」

 

 同じ魚でも、乾いた煎餅と、水分の多い煮魚では扱いが違う。塩が多い物と少ない物も、同じ方法で安全になるとは限らない。

 

「魚醤も袋に入れるんですか?」

 

「液体なら瓶や樽の方が扱いやすい場合もある。何でも袋に入れる必要はない」

 

「じゃあ、おせんべいの方ですね」

 

「それも油分や水分を見てからだ」

 

 理央は、自分の案だけ先に包装まで進めようとして止められた。

 

 真壁は具体的な温度も時間も口にしなかった。

 

 まだ中身すら出来ていない。

 

「作ったあとも考えないと駄目なんですね」

 

「売るところまでが商品だ」

 

 処分魚のそばを、仲買らしい男が通り過ぎた。売り場では魚に値段が付き、そこから外れた瞬間に値段が消える。

 

 商品になった後も同じだった。町の中で売り切れなければ、別の土地へ運ぶ必要がある。日持ちが短ければ、遠くの買い手へ届く前にまた値段を失う。

 

 魚醤も煎餅も、作るだけでは同じ場所で止まる。

 

 傷む前に包み、運び、食べる人のところまで届けなければならない。

 

「袋も、この町で作れるとは限りませんよね」

 

「最初は持ち込むことになるだろう。だが、何をどの形で包むかが決まらなければ、用意もできない」

 

「順番が多いです」

 

「商品にするならな」

 

「作るだけなら?」

 

「自分たちで食べて終わる」

 

「それも楽しそうですけど、今は魚が多すぎますね」

 

 理央は声を少し落とし、自分が指で描いた丸を見下ろした。今度は袋へ入れる形まで想像しているらしい。

 

 三人にとっては、処分される魚を見ながら思いつきを並べているだけだった。

 

 

 

「待ってくれ。その話を詳しく」

 

 低い声が割り込んだ。

 

 三人が振り返る。

 

 声を掛けたのは、日に焼けた太い腕の男だった。市場の者と同じ短い上着を着ているが、腰に下げた木札だけは一回り大きい。

 

 さっきから処分魚の籠を確かめ、作業員へ行き先を指示していた男だった。立ち聞きをしていたというより、仕事をしながら会話が耳へ入ったらしい。

 

「今の話を、最初から聞かせてもらえないか」

 

「……聞いてたんですか?」

 

 理央が指で作っていた丸を解いた。

 

「途中からな」

 

「どの辺りからですか?」

 

 澪が聞く。

 

「魚を調味料にするところからだ」

 

「ほぼ最初ですね」

 

 男は否定しなかった。

 

「盗み聞きするつもりはなかった。だが、毎日捨てている魚の話をされれば、聞かずにはいられん」

 

 男はロセリオ・メレンと名乗った。

 

 トルヴィア魚市場の組合長。漁師だった頃からこの市場へ出入りし、今は魚の仕分けから買い手、加工場へ回す量まで見ているという。

 

「組合長さん?」

 

 理央の姿勢が少しだけ直る。

 

「そう畏まらなくていい。それより、さっきの話だ」

 

「真壁だ。こちらは篠原澪君と飯島理央君」

 

 真壁が三人を紹介する。

 

「商人か?」

 

「そうです。ただ、今日は海を見に来ただけで」

 

 澪が答えると、ロセリオは周囲の魚を見た。

 

「海を見に来て、処分場で商品の話か」

 

「私たちも、こうなる予定ではなかったんです」

 

 理央が言う。ロセリオの口元が少しだけ緩んだ。

 

 ロセリオは処分魚を示した。

 

「魚を塩と漬けて、調味料にする。イカやタコを薄く焼く。それを袋へ入れて長く持たせる。そこまで合っているか?」

 

「大体は。ただ、まだ出来ると決まったわけではありません」

 

 澪は先に断った。

 

「それでいい。出来ると決まっているなら、話を聞く前に買っている」

 

「まだ売る物もありません」

 

「だから話を聞きたい。何もないなら、出来るかどうかからだ」

 

 新しい物なら何でも欲しいという顔ではない。

 

 今、値段のない魚に使えるかもしれない。その一点だけを、ロセリオは見ていた。

 

 市場の組合長から声を掛けられるとは思っていなかった理央は、澪の半歩後ろへ移った。それでも、煎餅の話を引っ込める様子はなかった。

 

 

 

 市場脇の作業台を借り、ロセリオは処分魚を種類ごとに指した。

 

「捨てたいわけじゃない。買い手がいれば売る。加工できるなら加工する。だが魚は待ってくれん」

 

 今日多いのは銀色の小魚だった。別の籠には、網の中で傷が付いた白身魚が入っている。

 

 さらに、売り場で見たイカに似た頭足類も数匹あった。胴が裂けている物や、大きさが小さすぎる物が同じ籠へ回されている。

 

 理央はそれを見つけたが、すぐ煎餅にできるとは言わなかった。今はロセリオの話を聞く番だと分かっている。

 

「毎日これくらい出るんですか?」

 

「毎日ではない。海が荒れれば、船そのものが少ない日もある」

 

 ロセリオは市場へ運び込まれる籠を見た。

 

「だが大漁の日は、もっと出る」

 

 多く獲れた日ほど値が下がり、売れる前に魚が傷む。氷を使えるのは高く売れる魚が中心で、加工場へ回しても人手と炉が追いつかない。

 

 ベルセナのような北岸の村から運ぶ間に、売れる時間を使ってしまう魚もある。

 

「村で加工してから運ぶことは?」

 

 澪が聞く。

 

「やっている村もある。だが、小さい村ほど人と燃料が足りん。魚が毎日同じだけ獲れるわけでもない」

 

 ベルセナ村で薪が足りなかったことを、三人はつい先ほど見てきた。

 

 魚を獲る場所で加工すれば運ぶ時間は減る。その代わり、海岸の村ごとに炉と人と塩が必要になる。

 

「種類は決まっているのか」

 

 真壁が聞く。

 

「時期で変わる。小魚が多い日もあれば、網に入りすぎた魚が残る日もある。狙って獲った魚でも、一度に揚がれば買い手が足りん」

 

「干物や塩蔵へ回す量は?」

 

「作れるだけ作っている。だが燃料代も重い。塩も樽もただじゃない」

 

 ロセリオの答えには迷いがなかった。何をどれだけ捨てているのかを、見慣れているからこその速さだった。

 

「伯爵様や港務長には?」

 

 真壁が聞く。

 

「話は上げている。港が止まる話ならラウレオ様も動くが、大漁の日に魚が余るのは昔からだ。倉を増やしても、加工する者と買い手が増えなければ埋まる」

 

 ロセリオは領主のせいにはしなかった。市場だけで抱えられる問題とも思っていない。

 

「魚醤なら、小魚をまとめて使える可能性はあります。でも、種類と塩の量、発酵の仕方を調べないと、同じ味で作れるか分かりません」

 

 澪が言うと、ロセリオはすぐ頷かなかった。

 

「売れる味になるまで、どれくらい掛かる?」

 

「そこも、今は答えられません」

 

「正直だな」

 

「今日初めて、この量を見たので」

 

「出来もしない話を出来ると言われるよりいい」

 

 ロセリオは魚醤という言葉を、忘れないようにもう一度口の中で確かめる。それから澪を見直し、理央へ顔を向けた。

 

「薄く焼く方は?」

 

「それも、まだ思いついただけです。何を混ぜたらおいしいか、これからです」

 

「だが形の悪い物も使える」

 

「はい。潰すなら、形はあまり関係ないと思います」

 

「保存は、品物が出来てからだな」

 

 真壁が答える。

 

「中身によって処理を変える必要がある。先に袋と設備を決めても使えん」

 

 すぐ買える完成品は一つもない。

 

 それでもロセリオは話を切らなかった。

 

「一種類だけで試すなら、魚は出せる。だが、先に選ぶ魚を間違えたくない」

 

「余る量と時期で、使う意味が変わりますね」

 

 澪が答える。

 

 普段ほとんど余らない魚で試作品が出来ても、処分魚を減らす役には立たない。逆に量だけ多くても、加工に向かなければ別の案が要る。

 

「まず、何がどれくらい余るのか見た方がよさそうですね」

 

「それが先だな」

 

 澪と真壁の言葉に、ロセリオはようやく頷いた。

 

 

 

「話だけなら何とでも言える。まず実物を見てくれ」

 

 ロセリオは作業台を離れ、市場の奥へ向かった。

 

「その方が早い」

 

「お願いします」

 

 三人も後に続く。

 

 売り台の並ぶ通路を外れた先には、屋根の低い建物が続いていた。魚を分ける場所、塩を置く倉、加工場へ送る籠をまとめる場所。戸口からは湯気と煙が漏れている。

 

 表の市場ほど声は多くない。代わりに、包丁が台へ当たる音と、樽を転がす低い音が壁の間で反響していた。

 

 ロセリオは歩きながら、それぞれの行き先だけを短く示した。

 

「組合で、余った量を全部まとめてるんですか?」

 

「売り場と加工場から上がってくる分はな。村から来る前に捨てられた魚までは分からん」

 

 市場で見える量が、北岸全体の余りではない。

 

「ここへ来る前に、もう選ばれてるんですね」

 

「船の上で捨てる物もある。村で売れずに戻す物もある。運ぶ金の方が高ければ、持ってこない」

 

 ロセリオが数えられるのは、トルヴィアへ届いた魚だけだった。

 

 理央が振り返った。

 

「今日だけでも、こんなにあるんですよね」

 

「まだ昼を過ぎたばかりだ」

 

 朝の漁から届く魚は、これからもあるという。理央は市場の鐘を見上げた。

 

「今日の分、まだ増えるんですね」

 

「沖から戻っていない船もある」

 

 その間にも、処分魚置き場へ新しい荷車が入ってきた。荷台には魚籠が幾つも積まれている。

 

 作業員が一つ目を下ろし、魚の山へ空ける。

 

 銀色の小魚が流れ落ちた。

 

 澪は足を止めた。

 

 朝、ベルセナ村の干し台で揺れていた魚と、よく似ている。向こうでは真壁が値を付け、麦や豆と交換する商品だった。

 

 ベルセナ村からは、海岸線を眺めながらエアカーで飛んでも、昼食後のうちに着く距離だった。

 

 けれど、集まる量と売る先が変われば、同じ魚の扱いまで変わる。

 

 ここでは、買い手が付かなかった魚として積み上がる。

 

「中を見れば、もっと分かる」

 

 ロセリオが組合の建物の扉を開けた。

 

 奥には、魚の種類とその日の行き先を示す木札が並んでいた。

 

 新しい籠が、澪の後ろでもう一つ空けられた。

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