壁に掛けられた木札は、魚の種類ごとに列が分かれていた。
銀色の小魚は売り場、干物、塩蔵、処分。白身魚は売り場、加工場、アルヴェラ。札の数を見れば、どこへ運ばれた魚が多いのかは分かる。
ただし、処分の列だけは札が置かれていなかった。
「ここへ来た分を、全部数えているわけではないんですね」
「数えている暇があるなら、傷む前に分ける」
ロセリオの答えは簡潔だった。
何がどれだけ余ったのかを後から確かめるための場所ではない。今ある魚を、売り場と加工場へ振り分けるための場所なのだ。
澪が木札へ手を伸ばしかけた時、外から大声が響いた。
「また入ったぞ!」
続いて鐘が鳴る。一度では終わらず、短く三度鳴った。
ロセリオが振り返り、そのまま扉へ向かう。
「戻ったか」
澪たちも後を追って外へ出た。
市場の向こうにある荷揚げ場へ、沖で見た漁船が入ってくるところだった。帆を畳むより早く、岸から太い綱が投げられる。船と岸壁の間へ板が渡され、魚籠を担いだ男たちが次々に降り始めた。
「こっちも満載だ!」
「小魚は東の台へ! 白身は先に傷を見ろ!」
銀色の小魚が入った籠。腹の白い大きな魚。青い筋の入ったイカに似たもの。タコに似た頭足類は、足が絡まないよう浅い籠へ分けられている。
その後から、小エビ、小蟹、貝、海藻まで運び出された。
一隻分の荷が半分も下りないうちに、また鐘が鳴った。
隣の桟橋へ、もう一隻が近づいている。
「まだ来るんですか?」
理央が船と魚籠を交互に見た。
「沖に残っていた船だ」
ロセリオは答えながら、荷揚げ場の者へ指を二本上げた。二隻目にも場所を空けろという合図らしい。
「これも全部、市場へ?」
「売れる分はな」
市場の奥へ運ばれる籠とは別に、岸壁の端へ置かれる籠が出始めていた。
澪は先ほど見た処分魚の山を思い出す。
まだ昼を過ぎたばかりなのに、その上へ積まれる魚が、もう増えようとしていた。
ロセリオは二隻から下りる魚を見渡し、売り場の方へ目を向けた。
市場には朝からの魚が残っている。加工場へ続く戸口にも籠が並び、空になった炉は一つもなかった。
新しく届いた小魚の一部が、売り場ではなく処分魚置き場へ運ばれていく。
「それ、全部買います」
澪の声に、籠を担いでいた男が止まった。
ロセリオも、すぐには答えなかった。
「……全部?」
「今日、買い手が付かない分です。処分する予定の魚も含めて」
「澪さん、全部ですか?」
理央が聞き返す。
「捨てるんですよね?」
「この量だぞ」
ロセリオが示した先では、一隻目の船からまだ魚籠が下りている。二隻目は今、岸壁へ着いたところだった。
「収納には入ります」
問題は量ではない。
買った後に、何へ変えるかだ。
「澪君、値段はどうする」
真壁が静かに尋ねた。
「捨てる値段では買いません。押入商会の原料として、普通に買います」
「無料で持っていくんじゃないんですね」
「それだと、次から市場が困ります。余った魚を渡せばいい、という話になってしまいますから」
今日だけ魚を消すのではなく、今後も仕入れられる原料にする。そのためには、魚を獲った者にも、分けて運んだ者にも利益が残らなければならない。
もちろん、売り台の鮮魚と同じ値段では成り立たない。
「余剰の加工原料として、値段を決めてください」
ロセリオは、澪の顔をじっと見た。
「傷のある魚も、小さすぎる魚も同じ値か?」
「いいえ。食べられる部分と、加工の手間で分けた方がいいと思います」
何でも一山で買えば、仕分けを丁寧にする者ほど損をする。逆に、売り場へ出せない魚へ鮮魚と同じ値を付ければ、加工した商品の方が高くなりすぎる。
ロセリオは近くの籠から小魚を一匹つまみ、腹と鰓を確かめた。
「食えるが、小さくて揃わん。今なら売り台の三分の一だ」
「その値段なら買います」
「傷魚は、使える身の分だけだ」
「分けてください。完全に傷んだ物は買えません」
澪が迷わず答えると、ロセリオの視線がわずかに和らいだ。
高く買うと言って喜ばせるだけでも、何でも引き受けると言って処分を肩代わりするだけでもない。原料として使える境目を、最初から決めようとしているのが伝わったらしい。
「アルヴェラ向けと、もう売れた分は動かせん。買い手が決まっている魚もだ」
「それは除いてください。市場で売却できる、残っている分だけです」
「その残りが多いと言っている」
「大丈夫です」
澪が答えると、真壁は止めなかった。
理央は処分魚の山と澪を見比べ、最後に真壁を見た。
「真壁さんも止めないんですね」
「払えるなら、商人が買うのを止める理由はない」
「収納に入るのが前提なんですね……」
理央の声には、諦めに似た納得が混じっていた。
ロセリオは荷揚げ場の者へ向き直り、処分側へ運びかけていた籠を止めた。
「待て。それには値段が付いた」
男たちの動きが、一瞬だけ止まった。
魚籠の中で、銀色の鱗が光った。
「支払いは貨幣か?」
ロセリオが聞いた。
処分予定だった魚とはいえ、二隻分まで加われば量は多い。種類と状態を分け、余剰原料として値を付ければ、それなりの額になる。
「麦と豆なら、ある程度持っている」
真壁が言った。
「ある程度?」
「今日の魚と交換するには足りるだろう」
理央が澪へ顔を寄せる。
「真壁さんの『ある程度』は信用しづらいです」
「量の意味でですよね」
「はい。たぶん、普通のある程度じゃないです」
真壁は二人の会話を聞き流し、荷揚げ場の空いている場所を見た。
靄が広がり、密封包装された麦と豆の袋が幾つも現れる。一列では置き切れず、二列、三列と積まれていった。
真壁が収納から出した食品には、一袋ごとにラベルが貼られている。品名、品質、賞味期限、内容量。積み上げたままでも、中身と状態を取り違えないように分けられていた。
ロセリオが口を閉じたまま、袋の山を見上げる。
「足りそうですか?」
理央が尋ねた。
「……ある程度の意味を、私が間違えていたらしい」
「私もです」
真壁は見本にする麦袋の封を切り、ロセリオへ中を見せた。
「レヴァニア産だ。長く置ける物を選んである」
ロセリオは麦を手に取り、粒の揃い方と乾き具合を確かめた。次に真壁が開いた豆の見本から一粒取り、歯で割る。
魚の多い港でも、麦や豆まで海からは獲れない。日々の食事に使え、魚より長く置ける穀物なら、市場で働く者へ売るにも、漁村へ回すにも困らない。
ロセリオは周囲にいた仲買を一人呼び、トルヴィアでの相場を聞いた。真壁も穀物を仕入れた時の値を出し、魚との交換量を詰めていく。
「魚と同じで、見ずには決めないんですね」
「食い物だからな」
ロセリオは即答した。
余剰魚を種類と状態で分け、その価値に見合う麦と豆を渡す。魚介の量が最後まで確定しない分は、荷揚げが終わってから貨幣で調整することで話がまとまった。
市場にとっては、今日中に値段を失う魚が、保存の利く穀物へ変わる。
押入商会にとっては、まとまった量の加工原料が手に入る。
どちらかが一方的に得をする取引ではなかった。
「生きた物は、先に処理してもらえますか?」
澪は、小蟹の籠を指した。脚を動かしている物が混じっている。
「収納には、生きたまま入れられません」
「分かった。魚も生きている物は分ける」
ロセリオが作業員へ指示を飛ばす。
処理を終えた魚介から、澪の収納へ収めていく。魚籠へ靄が触れ、中身だけが順に消えていった。
空になった籠は市場に残る。
その横で、麦と豆の袋が次々に運び込まれていった。
買い取った魚介の中から、状態のよい物を少量だけ作業台へ残した。
小さなイカに似たものと、タコに似たもの。銀色の小魚。小エビと小蟹。傷のある白身魚と、売り場へ出すには小さすぎる貝。
形は揃っていないが、傷んではいない。
「さっき言ったばかりですけど……試します?」
理央が頭足類の籠を覗き込んだ。
「材料はありますね」
「ありすぎる気もします」
「やるなら少量からだ」
真壁が言う。
ロセリオは二隻目の荷揚げを見届けると、三人のところへ戻ってきた。
「本当に、ここで出来るのか?」
「魚醤は、外から見ると時間が掛からないようにできます。ただ、中では相応の時間を経過させます」
澪は先に説明した。
「薄く焼く方は、たぶん早いです。でも、うまくいくかはやってみないと分かりません」
理央も続ける。
「保存する袋は?」
「まず中身を作り、それに合う処理を試す。順番は変えられん」
真壁の答えを聞き、ロセリオは作業場の奥を指した。
「あの台を使え。水と炉もある」
「市場のお仕事の邪魔になりませんか?」
「何も出来なければ、すぐ空く。出来るなら、皆に見せた方が早い」
ロセリオは、期待しているとは言わなかった。
ただ、疑うだけで終わらせる気もないらしい。
「少量でいい。本当に食える物になるか見たい」
その言葉で、役割が決まった。
理央はイカとタコに似た素材を薄く焼く。
澪は小魚を使った魚醤の配合と状態確認。
真壁は道具と材料を用意し、発酵工程と保存試験を担当する。
「魚介のスープも作ろう。保存する中身が必要だ」
「では、白身魚と小エビと貝を使いましょう」
「私、先にせんべいでいいですか?」
「いいですよ」
理央は袖をまくり、作業台の前に立った。
「三枚目までには成功させます」
「失敗する枚数を先に決めるんですか?」
「二枚は失敗しても大丈夫って意味です」
言い直した時点で、一枚目を成功させる自信は少し減っているようだった。
真壁が取り出したのは、小型の焼き機と二枚の鉄板、それに上から押さえるための重りだった。
小麦粉、醤油、アミノ酸調味料、油、計量用の匙も作業台へ並ぶ。
「本当に何でも出てきますね」
「必要になりそうな物は持っている」
「それを普通は何でもって言います」
理央は言いながら、下処理を終えた小型の頭足類を一つ手に取った。
イカに似た方は胴の端に青い筋がある。タコに似た方は足が短く、吸盤が二列ではなく三列に並んでいた。
「やっぱり、イカとタコって呼んでいいんでしょうか」
「通じるのは私たちだけですね」
「商品にするなら、後で名前を聞きましょう」
まずはイカに似た方を開き、余分な水気を取る。小麦粉を薄くまぶし、醤油と調味料を少量加えた。
理央は鑑定で水分を確かめた後、鉄板へ挟んだ。重りを載せ、焼き機へ火を入れる。
じゅっと水分の弾ける音がして、香ばしい匂いが立った。
「もう、おいしそうです」
「匂いだけで決めないでくださいね」
しばらくして鉄板を開く。
焼き色は付いていたが、持ち上げると中央が頼りなく曲がった。端は乾いているのに、厚く残った胴の内側はまだ柔らかい。
「厚いです」
「見た目でも分かります」
「言わなくても分かってます」
理央は一枚目を鑑定し、水分の残り方を確かめた。
「押す力が足りません。あと、粉も少し多いです」
「では次は薄くしよう」
真壁が重りを一つ増やす。
「次はいけます」
二枚目は薄く広がった。端までよく焼け、持ち上げても形を保っている。
理央は小さく割り、澪と一緒に口へ入れた。
「しょっぱい」
「醤油、多かったですね」
「鑑定する前に分かりました」
ロセリオが横から覗き込む。
「失敗か?」
「調整中です」
理央は答え、二枚目の配合を確かめた。醤油を減らし、元の素材に塩気がある分だけ調味料も控える。
三枚目は、イカに似た素材が透けるほど薄く伸びた。
鉄板を開いた瞬間、先ほどより軽く甘い香りが広がる。中心まで乾いているが、焦げはない。割れば小気味よい音がした。
理央は鑑定してから一口食べ、もう一度、今度は味を確かめるように噛んだ。
「これは、いけます」
「三枚目でしたね」
「予定どおりです」
最初から二枚失敗する予定だったような顔で言う。
次はタコに似た素材だった。
同じ重さで押すと、足の厚い部分に水分が残る。理央は途中で鉄板を開き、切り方と粉の量を変えた。イカに似た方より少し長く焼き、縁が硬くなりすぎる前に取り出す。
こちらは一度の失敗では済まなかった。
「四枚目ですね」
「数えなくていいです」
澪が焼けた端を試食していると、理央が恨めしそうに見る。
「失敗作の方が減ってません?」
「味は悪くないですから」
五枚目で、ようやく足の歯応えを残したまま、薄く食べやすい一枚になった。
イカに似た方は軽く、タコに似た方は噛むほど味が出る。
理央は二種類を並べ、満足そうに頷いた。
「イカせんと、タコせんです」
「仮の名前ですよね?」
「分かりやすいので、今はこれでいいです」
焼き機から上がる匂いに気づき、通りを行き来していた市場の者が足を緩め始めていた。
理央が焼き方を調整している隣で、澪は小さな容器を三つ並べた。
一つ目は銀色の小魚。
二つ目は小魚と小エビ。
三つ目には小魚、小エビ、小蟹を入れる。
そこへ配合を変えた塩と、市場で売られていた青菜の漬物汁を少量ずつ加えた。
「漬物も使うのか?」
ロセリオが聞いた。
「使うのは、この汁です。魚が変化し始めるきっかけに使えるかもしれません。ただ、入れれば必ずうまくいくとは言えません」
トルヴィアで普段から作られている漬物なら、現地で用意できる。けれど、青菜を漬けるための汁と魚醤に向く発酵液が同じとは限らない。
澪は三つの容器を鑑定し、塩分と水分、変化を起こす働きの有無を見比べた。
「魚だけの方は、少し動きが弱そうです。小エビ入りと小蟹入りは、比べられそうですね」
「では、先に時間を進めよう」
真壁が容器を収納内の発酵区画へ収める。
作業台の上からは一瞬で消えた。
だが、中では一瞬ではない。温度を保った区画で日が重なり、魚介が塩の中でゆっくり形を失っていく。
真壁は途中の段階で三つの容器を取り出した。
蓋を開ける前から、魚と塩が混じった強い匂いがした。
「匂いは?」
理央が少し離れたところから聞く。
「強いです」
「その言い方、怖いです」
「でも、旨味は増えています」
澪は匂いだけで決めず、鑑定で発酵の進み方と腐敗の有無を確認した。
魚だけの容器は、塩味が前へ出すぎている。小エビ入りは香りが軽く、三つ目は小蟹の殻から出た風味まで重なっていた。
「塩が強すぎます」
「では次は少し減らそう」
真壁は同じ容器から塩を抜くのではなく、配合を変えた試料を新しく用意した。
どの割合なら傷まず、味が整うのか。漬物汁を入れない物も加え、違いを比べる。
収納内で時間を進め、途中で取り出す。澪が鑑定し、香りと味を確認する。結果に合わせて次の試料を作り、また時間を進める。
作業場では短い時間でも、容器の中では何度も季節を越えるほどの時間が流れていた。
繰り返すうちに、小魚と小エビ、小蟹を合わせた試料が、最も濃い旨味を残した。
布で濾すと、容器へ濃い褐色の液体が落ちていく。
見た目は醤油に似ているが、立ち上がる香りはもっと海に近い。
澪は一滴だけ匙へ取り、鑑定で異常がないことを確かめてから味を見た。
塩気の後から、小魚と甲殻類の旨味が広がる。まだ配合を詰める余地はあるが、調味料として使える味だった。
「出来たんですか?」
「試作品としては。毎回同じ味にできるかは、これからです」
理央が近づき、容器の上で一度だけ鼻を動かした。
「思ったより、魚です」
「魚から作りましたからね」
「見た目が醤油なので、油断しました」
ロセリオは褐色の液体を見たまま、何も言わなかった。
今朝まで捨てるしかなかった小魚と小エビと小蟹が、作業台の上で一つの調味料に変わっていた。
真壁は白身魚の傷んだ部分を除き、小エビと貝、少量の野菜、塩、香草を使って魚介のスープを作った。
作業場の鍋でも同じ物を作れるよう、収納内だけで調理を終わらせない。市場の炉へ鍋を掛け、火加減を現地の職人にも見せる。
澪とロセリオが味を確かめ、塩を少し足した。
「これを、袋へ入れるんですね」
理央が、真壁の用意した気密性と耐熱性の高い袋を持ち上げた。
「中身に触れる側へ手を入れないように」
「入れてません」
すぐに持ち方を変える。
真壁は出来上がったスープの塩分、水分、酸味を鑑定した。魚介の種類が変われば、同じ処理が使えるとは限らない。今回はこの中身に合わせて、加熱の条件を決める。
袋へ一食分ずつ充填し、空気を減らして密封する。
その上で浄化を掛け、加熱処理も行った。
「浄化したなら、それだけで大丈夫なんですか?」
「今ある汚染を除く助けにはなる。だが、袋の密封が悪ければ後から入る。中身に合わない処理なら、残る危険もある」
真壁は袋の接合部を一つずつ確かめた。
「浄化したから一年安全、ではないんですね」
「それを確かめるための保存試験だ」
処理を終えた袋を幾つかに分ける。
真壁はそれぞれに、品名、品質、賞味期限、内容量を示すラベルを貼った。賞味期限は今回の保存試験に合わせた仮の表示で、販売用として決めたものではない。
同じ日に作った物でも、保存する温度を変えれば劣化の仕方は変わる。袋の材質や密封方法が違っても、結果は揃わない。
真壁は比較に必要な試料を残し、収納内の保存試験区画へ収めた。
「時間を止めて置いておくんですか?」
「それでは保存試験にならん」
理央が首を傾げる。
「じゃあ、どうするんです?」
「中だけ時間を進める」
「どれくらい?」
「まず一年だな」
「一年?」
理央の声が一段高くなった。
「外で待つ必要はない」
「時間を止めるんじゃなくて、進めるんですね」
澪が確認する。
「保存試験だからな。止めては意味がない」
真壁の収納へ入った袋は、一定の温度に保たれた区画で、外とは違う速さの時間を過ごし始めた。
理央が焼き上がったせんべいを並べている間に、保存試験区画では一年相当の時間が過ぎた。
真壁が靄から、ラベルの貼られた保存袋を取り出す。
作業台へ置かれた袋を、理央は少し離れて見た。ラベルには、魚介スープの品質と賞味期限、内容量が示されている。
「これ、中では一年経ってるんですよね」
「そうだ」
「見た目、普通です」
「普通じゃないと困ります」
澪は答えたが、見た目だけで済ませなかった。
袋は膨らんでいない。漏れも接合部の剥がれもなく、中身に異常な変色は見えない。
真壁が鑑定し、澪も続けて確かめる。
腐敗はない。毒性の異常も、微生物に由来する危険な兆候も出ていない。中身の劣化も、比較のために残した作りたての物と大きな差はなかった。
「食べても問題ありません」
澪が言うと、理央がようやく袋へ近づいた。
「開ける前に分かるの、こういう時は便利ですね」
「分からないまま一年物を食べる気はありませんよ」
真壁は別の鍋に湯を沸かし、袋のまま温めた。
湯から上げて水気を拭き、封を切る。
魚介と香草の匂いが、温かな湯気と一緒に立ち上った。
「一年経った匂いじゃないです」
「一年経った食べ物の匂いって、どんなものですか?」
「もっと、こう……食べるのを諦める匂いです」
「それは保存に失敗した匂いですね」
二人の会話を聞きながら、真壁はスープを小さな器へ注いだ。
焼けたせんべいの香りに、魚介スープの匂いまで加わる。
作業場の前で足を止めていた者たちは、もう通り過ぎるふりをしていなかった。
「それ、本当にさっきの魚か?」
最初に声を掛けてきたのは、処分魚の籠を運んでいた男だった。
その後ろには漁師と加工場の職人がいる。仲買らしい男も二人、売り場へ戻らず作業台を覗き込んでいた。
「こっちはイカっぽい方です」
理央が、薄く焼けた一枚を持ち上げた。
「っぽい?」
「名前が分からないので」
「青筋イカだろ」
漁師が言うと、隣の職人がすぐ口を挟んだ。
「あれは十二足だ。イカじゃない」
「お前は足の数で名前を決めるのか」
「少なくとも、イカなら十本だ」
理央は澪を見た。
「十二本でしたね」
「店主さんはそう言っていました」
「数えてませんでしたけど」
「途中で止まりましたからね」
二人が話している間にも、別の者がタコせんへ手を伸ばしかける。
「まだ試食用に分けてません」
理央が慌てて皿を自分の方へ引いた。
「匂いだけ嗅がせる方が悪い」
「失敗したのなら余ってます」
「そっちでいい」
醤油が強かった二枚目と、タコの中心が少し柔らかく残った四枚目が、あっという間に割られていく。
「失敗作なんですけど」
「魚としては食えるんだろ?」
「安全なのは鑑定しました。でも、しょっぱいですよ」
忠告する前に食べた男が、水を求めて手を伸ばした。
「本当にしょっぱいな」
「言いました」
周囲から笑いが起きる。
魚醤の容器を覗く者もいたが、こちらは誰も指を入れようとはしなかった。濃い褐色と強い香りに、使い方が分からないらしい。
「これは飲むのか?」
「飲みません。調味料です」
澪が即座に止める。
「少しだけ料理へ入れます。塩の代わりというより、味を足す感じです」
湯気の上がる魚介スープへ顔を向ける者。焼き機の前で次の一枚を待つ者。今朝の漁を話していた者まで輪へ加わり、人だかりは少しずつ大きくなっていった。
ロセリオは追い払わなかった。
売れずに捨てるはずだった魚が、人を集めている。
その光景を、組合長として見ていた。
「何の騒ぎ?」
人の輪の外から、若い女性の声がした。
市場の者たちが振り返り、自然に道を空ける。
現れた女性は、澪より少し年上に見えた。濃紺の上着は仕立てがよいものの、裾は短く、濡れた石床でも歩きやすい革靴を履いている。
髪も飾り立てず、後ろで一つに束ねていた。
「姫様?」
「セリネア様だ」
小さな声が重なる。
理央が澪へ顔を寄せた。
「王女様ですか?」
「違うと思います。ヴァルセナ伯爵家の方では」
澪も声を抑えて答える。
この町の者が、領主家の娘を親しみと敬意を込めて姫様と呼んでいるらしい。
「セリネア様、なぜこちらへ」
ロセリオが人垣の前へ出た。
「港で人が集まっていると聞いたの。喧嘩にしては、いい匂いがするでしょう?」
セリネアはそう言いながら、既に作業台を見ていた。
皿に並ぶ薄焼き。褐色の液体。湯気の立つスープ。その後ろに積まれた麦と豆の袋まで、一度ずつ視線を止めていく。
「何をしているの?」
「余った魚で、新しい商品を試しておりまして」
「余った魚?」
声の調子が変わった。
珍しい食べ物を見つけた喜びより先に、セリネアはロセリオへ確かめる。
「今日、処分へ回すはずだった分?」
「はい。こちらの押入商会が、売却できる分を全部買いました」
ロセリオが澪たちを紹介した。
セリネアは澪へ挨拶を返すと、すぐ魚介スープの袋へ目を向ける。
「これは保存品?」
「試作品です。一年相当の保存試験を終えたところです」
澪の返事に、セリネアの目が細くなる。
「一年?」
「収納内で時間を進めました。食べる前の安全確認も済んでいます」
セリネアはもう一度、薄焼きと魚醤と袋を見比べた。
「それなら、私も見たいわ」
人だかりの前ではなく、作業台の横へ進む。
見るだけで帰る者の動きではなかった。
「では、私が味見しようか」
セリネアが言うと、市場の者たちが一斉に声を上げた。
「姫様!」
「お待ちください」
「どうして? 毒でも入っているの?」
「そういう話ではなく……」
止めた男の方が困ってしまった。
セリネアは澪と真壁を見る。
「安全は確かめたのよね?」
「はい。材料も、作っている途中も、出来上がってからも鑑定しています」
「保存したスープも、腐敗、毒性、袋の異常を確認済みだ」
真壁が補足した。
「なら問題ないでしょう」
最初に手に取ったのは、タコに似た素材の薄焼きだった。
小さく割って口へ入れる。周囲が静かになり、セリネアの噛む音だけが聞こえた。
「おいしい」
「ほんとですか?」
作った理央が、誰より早く聞き返した。
「ええ。香ばしくて、噛むほど味が出るわ」
次にイカに似た方を食べる。
「こっちは少し食感が違うわね。薄くて軽いし、味に甘みがある」
「イカっぽい方と、タコっぽい方です」
「名前はまだないの?」
「仮です。こっちの名前を知らないので」
理央が答えると、周囲の漁師たちから一斉に別々の名が飛んだ。
「青筋イカだ!」
「十二足だと言ってるだろ!」
「浜じゃ舟絡みと呼ぶ!」
セリネアは眉を上げた。
「名前を決めるだけでも時間が掛かりそうね」
「イカせんでいい気がしてきました」
理央が小さく呟いた。
澪は別の薄焼きへ、魚醤を一滴だけ垂らした。
「次は、こちらを試してください」
「これを?」
「ほんの少しでいいです」
セリネアは香りを確かめてから口へ運んだ。
すぐに飲み込まず、舌の上で味を比べている。
「……こっちの方が好きだわ」
「分かります」
理央が大きく頷く。
「塩辛くなるだけかと思ったけれど、魚の味が濃くなるのね」
「入れすぎると魚醤の味だけになります。今のところは、一滴か二滴くらいです」
澪が魚醤の容器を遠ざけると、飲むのかと聞いていた男が残念そうな顔をした。
最後は、一年相当を経過させた魚介スープだった。
「これが一年?」
「収納内では一年相当だ」
真壁が答える。
セリネアは器を持ち上げ、湯気と一緒に一口飲んだ。
白身魚の味に、小エビと貝の旨味が重なる。香草の香りも残り、長く保存したことを味から感じ取るのは難しい。
「これもいけるわ」
「魚醤も少し入れてみます?」
「お願い」
澪が数滴落とす。
もう一度飲んだセリネアの表情から、単に食事を楽しんでいた色が消えた。
器の中身を見る目が、値段の付く商品を見る目へ変わっていた。
「これ、捨てる魚で作ったのよね?」
セリネアは器を置き、ロセリオへ向き直った。
「売れ残りと規格外が中心です。傷んだ物は入れておりません」
「なら、魚を増やす必要がない」
「今ある余りを使えます」
澪が答える。
セリネアは薄焼きを一枚持ち、光へ透かした。
「これは軽い。港で売れるし、船へ持ち込むにも邪魔にならない。日持ちするなら、沿岸船に乗せて他の町へも運べるわ」
「今の試作品は、そこまでの保存試験をしていません」
理央が正直に言った。
「なら調べればいい。タコに似た方とイカに似た方で、持つ日数も違うのでしょう?」
「水分が違うので、たぶん同じにはなりません」
「材料の量も、焼く時間も違いました」
「それも値段に入れる必要があるわね」
セリネアは迷わず答えた。
次に魚醤の容器を見る。
「こちらは、薄焼きだけに使う物ではないのでしょう?」
「はい。魚料理やスープの味付けにも使えます。ただ、トルヴィアで受け入れられる味かは、もっと多くの人に試してもらわないと分かりません」
「売れるまでに時間も掛かる」
ロセリオが言う。
「でも、使い道は一つではない。余る小魚と小エビと小蟹を、一緒に原料へ回せる可能性がある」
セリネアの関心は、さらに袋へ移った。
「保存したスープなら、鮮魚では届かなかった町にも売れる。アルヴェラだけではなく、内陸へ運ぶ時間も取れるわ」
「輸送時間の制約は減るだろう」
真壁が答える。
「袋はこの町で作れるの?」
「今は持ち込んだ物だ。中身に必要な性能を決めてから、調達方法を考えることになる」
「加工する人と場所は?」
ロセリオが首を横へ振った。
「今の加工場に余裕はありません」
「原料が出る時期と量は?」
「日によって変わります。市場へ届く前に処分される物もあります」
答えを聞くたび、セリネアは次の問題へ進んだ。
珍しい技術だから欲しいのではない。
材料の集め方、加工する場所、必要な人手、保存できる期間、運ぶ先。最後に幾ら残るのかまで見ようとしている。
「北岸の村で、売る前に余る魚も使えるかしら」
「加工か回収の方法があれば、村の収入にはなると思います。ただ、今日の試作品をそのまま広げられるかは、まだ分かりません」
澪は出来るとは断言しなかった。
それでも、セリネアは否定とは受け取らない。
「分からないところを調べれば、出来るかどうかは決められるわ」
ロセリオが作業台を見た。
今朝まで値段のなかった魚は、麦と豆へ変わった。その一部が、薄焼きと魚醤と、一年相当を経たスープになっている。
魚を増やしたわけではない。
工場を建てたわけでも、大勢の働き手を集めたわけでもない。
だが、捨てる以外の道があることだけは、味と形になって目の前へ並んでいた。
「父にも話すわ」
セリネアが言った。
理央は、自分が焼いた二種類のせんべいを見下ろす。
海を見に来ただけだったはずが、試しに焼いた一枚が、港の売り物として数えられようとしていた。
人だかりの向こうでは、また新しい魚籠が処分場所へ運ばれている。
セリネアはその籠を見て、迷いなく言い切った。
「これは事業として進めるべきだわ」