押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第332話 全部買います

 

 壁に掛けられた木札は、魚の種類ごとに列が分かれていた。

 

 銀色の小魚は売り場、干物、塩蔵、処分。白身魚は売り場、加工場、アルヴェラ。札の数を見れば、どこへ運ばれた魚が多いのかは分かる。

 

 ただし、処分の列だけは札が置かれていなかった。

 

「ここへ来た分を、全部数えているわけではないんですね」

 

「数えている暇があるなら、傷む前に分ける」

 

 ロセリオの答えは簡潔だった。

 

 何がどれだけ余ったのかを後から確かめるための場所ではない。今ある魚を、売り場と加工場へ振り分けるための場所なのだ。

 

 澪が木札へ手を伸ばしかけた時、外から大声が響いた。

 

「また入ったぞ!」

 

 続いて鐘が鳴る。一度では終わらず、短く三度鳴った。

 

 ロセリオが振り返り、そのまま扉へ向かう。

 

「戻ったか」

 

 澪たちも後を追って外へ出た。

 

 市場の向こうにある荷揚げ場へ、沖で見た漁船が入ってくるところだった。帆を畳むより早く、岸から太い綱が投げられる。船と岸壁の間へ板が渡され、魚籠を担いだ男たちが次々に降り始めた。

 

「こっちも満載だ!」

 

「小魚は東の台へ! 白身は先に傷を見ろ!」

 

 銀色の小魚が入った籠。腹の白い大きな魚。青い筋の入ったイカに似たもの。タコに似た頭足類は、足が絡まないよう浅い籠へ分けられている。

 

 その後から、小エビ、小蟹、貝、海藻まで運び出された。

 

 一隻分の荷が半分も下りないうちに、また鐘が鳴った。

 

 隣の桟橋へ、もう一隻が近づいている。

 

「まだ来るんですか?」

 

 理央が船と魚籠を交互に見た。

 

「沖に残っていた船だ」

 

 ロセリオは答えながら、荷揚げ場の者へ指を二本上げた。二隻目にも場所を空けろという合図らしい。

 

「これも全部、市場へ?」

 

「売れる分はな」

 

 市場の奥へ運ばれる籠とは別に、岸壁の端へ置かれる籠が出始めていた。

 

 澪は先ほど見た処分魚の山を思い出す。

 

 まだ昼を過ぎたばかりなのに、その上へ積まれる魚が、もう増えようとしていた。

 

 

 

 ロセリオは二隻から下りる魚を見渡し、売り場の方へ目を向けた。

 

 市場には朝からの魚が残っている。加工場へ続く戸口にも籠が並び、空になった炉は一つもなかった。

 

 新しく届いた小魚の一部が、売り場ではなく処分魚置き場へ運ばれていく。

 

「それ、全部買います」

 

 澪の声に、籠を担いでいた男が止まった。

 

 ロセリオも、すぐには答えなかった。

 

「……全部?」

 

「今日、買い手が付かない分です。処分する予定の魚も含めて」

 

「澪さん、全部ですか?」

 

 理央が聞き返す。

 

「捨てるんですよね?」

 

「この量だぞ」

 

 ロセリオが示した先では、一隻目の船からまだ魚籠が下りている。二隻目は今、岸壁へ着いたところだった。

 

「収納には入ります」

 

 問題は量ではない。

 

 買った後に、何へ変えるかだ。

 

「澪君、値段はどうする」

 

 真壁が静かに尋ねた。

 

「捨てる値段では買いません。押入商会の原料として、普通に買います」

 

「無料で持っていくんじゃないんですね」

 

「それだと、次から市場が困ります。余った魚を渡せばいい、という話になってしまいますから」

 

 今日だけ魚を消すのではなく、今後も仕入れられる原料にする。そのためには、魚を獲った者にも、分けて運んだ者にも利益が残らなければならない。

 

 もちろん、売り台の鮮魚と同じ値段では成り立たない。

 

「余剰の加工原料として、値段を決めてください」

 

 ロセリオは、澪の顔をじっと見た。

 

「傷のある魚も、小さすぎる魚も同じ値か?」

 

「いいえ。食べられる部分と、加工の手間で分けた方がいいと思います」

 

 何でも一山で買えば、仕分けを丁寧にする者ほど損をする。逆に、売り場へ出せない魚へ鮮魚と同じ値を付ければ、加工した商品の方が高くなりすぎる。

 

 ロセリオは近くの籠から小魚を一匹つまみ、腹と鰓を確かめた。

 

「食えるが、小さくて揃わん。今なら売り台の三分の一だ」

 

「その値段なら買います」

 

「傷魚は、使える身の分だけだ」

 

「分けてください。完全に傷んだ物は買えません」

 

 澪が迷わず答えると、ロセリオの視線がわずかに和らいだ。

 

 高く買うと言って喜ばせるだけでも、何でも引き受けると言って処分を肩代わりするだけでもない。原料として使える境目を、最初から決めようとしているのが伝わったらしい。

 

「アルヴェラ向けと、もう売れた分は動かせん。買い手が決まっている魚もだ」

 

「それは除いてください。市場で売却できる、残っている分だけです」

 

「その残りが多いと言っている」

 

「大丈夫です」

 

 澪が答えると、真壁は止めなかった。

 

 理央は処分魚の山と澪を見比べ、最後に真壁を見た。

 

「真壁さんも止めないんですね」

 

「払えるなら、商人が買うのを止める理由はない」

 

「収納に入るのが前提なんですね……」

 

 理央の声には、諦めに似た納得が混じっていた。

 

 ロセリオは荷揚げ場の者へ向き直り、処分側へ運びかけていた籠を止めた。

 

「待て。それには値段が付いた」

 

 男たちの動きが、一瞬だけ止まった。

 

 魚籠の中で、銀色の鱗が光った。

 

 

 

「支払いは貨幣か?」

 

 ロセリオが聞いた。

 

 処分予定だった魚とはいえ、二隻分まで加われば量は多い。種類と状態を分け、余剰原料として値を付ければ、それなりの額になる。

 

「麦と豆なら、ある程度持っている」

 

 真壁が言った。

 

「ある程度?」

 

「今日の魚と交換するには足りるだろう」

 

 理央が澪へ顔を寄せる。

 

「真壁さんの『ある程度』は信用しづらいです」

 

「量の意味でですよね」

 

「はい。たぶん、普通のある程度じゃないです」

 

 真壁は二人の会話を聞き流し、荷揚げ場の空いている場所を見た。

 

 靄が広がり、密封包装された麦と豆の袋が幾つも現れる。一列では置き切れず、二列、三列と積まれていった。

 

 真壁が収納から出した食品には、一袋ごとにラベルが貼られている。品名、品質、賞味期限、内容量。積み上げたままでも、中身と状態を取り違えないように分けられていた。

 

 ロセリオが口を閉じたまま、袋の山を見上げる。

 

「足りそうですか?」

 

 理央が尋ねた。

 

「……ある程度の意味を、私が間違えていたらしい」

 

「私もです」

 

 真壁は見本にする麦袋の封を切り、ロセリオへ中を見せた。

 

「レヴァニア産だ。長く置ける物を選んである」

 

 ロセリオは麦を手に取り、粒の揃い方と乾き具合を確かめた。次に真壁が開いた豆の見本から一粒取り、歯で割る。

 

 魚の多い港でも、麦や豆まで海からは獲れない。日々の食事に使え、魚より長く置ける穀物なら、市場で働く者へ売るにも、漁村へ回すにも困らない。

 

 ロセリオは周囲にいた仲買を一人呼び、トルヴィアでの相場を聞いた。真壁も穀物を仕入れた時の値を出し、魚との交換量を詰めていく。

 

「魚と同じで、見ずには決めないんですね」

 

「食い物だからな」

 

 ロセリオは即答した。

 

 余剰魚を種類と状態で分け、その価値に見合う麦と豆を渡す。魚介の量が最後まで確定しない分は、荷揚げが終わってから貨幣で調整することで話がまとまった。

 

 市場にとっては、今日中に値段を失う魚が、保存の利く穀物へ変わる。

 

 押入商会にとっては、まとまった量の加工原料が手に入る。

 

 どちらかが一方的に得をする取引ではなかった。

 

「生きた物は、先に処理してもらえますか?」

 

 澪は、小蟹の籠を指した。脚を動かしている物が混じっている。

 

「収納には、生きたまま入れられません」

 

「分かった。魚も生きている物は分ける」

 

 ロセリオが作業員へ指示を飛ばす。

 

 処理を終えた魚介から、澪の収納へ収めていく。魚籠へ靄が触れ、中身だけが順に消えていった。

 

 空になった籠は市場に残る。

 

 その横で、麦と豆の袋が次々に運び込まれていった。

 

 

 

 買い取った魚介の中から、状態のよい物を少量だけ作業台へ残した。

 

 小さなイカに似たものと、タコに似たもの。銀色の小魚。小エビと小蟹。傷のある白身魚と、売り場へ出すには小さすぎる貝。

 

 形は揃っていないが、傷んではいない。

 

「さっき言ったばかりですけど……試します?」

 

 理央が頭足類の籠を覗き込んだ。

 

「材料はありますね」

 

「ありすぎる気もします」

 

「やるなら少量からだ」

 

 真壁が言う。

 

 ロセリオは二隻目の荷揚げを見届けると、三人のところへ戻ってきた。

 

「本当に、ここで出来るのか?」

 

「魚醤は、外から見ると時間が掛からないようにできます。ただ、中では相応の時間を経過させます」

 

 澪は先に説明した。

 

「薄く焼く方は、たぶん早いです。でも、うまくいくかはやってみないと分かりません」

 

 理央も続ける。

 

「保存する袋は?」

 

「まず中身を作り、それに合う処理を試す。順番は変えられん」

 

 真壁の答えを聞き、ロセリオは作業場の奥を指した。

 

「あの台を使え。水と炉もある」

 

「市場のお仕事の邪魔になりませんか?」

 

「何も出来なければ、すぐ空く。出来るなら、皆に見せた方が早い」

 

 ロセリオは、期待しているとは言わなかった。

 

 ただ、疑うだけで終わらせる気もないらしい。

 

「少量でいい。本当に食える物になるか見たい」

 

 その言葉で、役割が決まった。

 

 理央はイカとタコに似た素材を薄く焼く。

 

 澪は小魚を使った魚醤の配合と状態確認。

 

 真壁は道具と材料を用意し、発酵工程と保存試験を担当する。

 

「魚介のスープも作ろう。保存する中身が必要だ」

 

「では、白身魚と小エビと貝を使いましょう」

 

「私、先にせんべいでいいですか?」

 

「いいですよ」

 

 理央は袖をまくり、作業台の前に立った。

 

「三枚目までには成功させます」

 

「失敗する枚数を先に決めるんですか?」

 

「二枚は失敗しても大丈夫って意味です」

 

 言い直した時点で、一枚目を成功させる自信は少し減っているようだった。

 

 

 

 真壁が取り出したのは、小型の焼き機と二枚の鉄板、それに上から押さえるための重りだった。

 

 小麦粉、醤油、アミノ酸調味料、油、計量用の匙も作業台へ並ぶ。

 

「本当に何でも出てきますね」

 

「必要になりそうな物は持っている」

 

「それを普通は何でもって言います」

 

 理央は言いながら、下処理を終えた小型の頭足類を一つ手に取った。

 

 イカに似た方は胴の端に青い筋がある。タコに似た方は足が短く、吸盤が二列ではなく三列に並んでいた。

 

「やっぱり、イカとタコって呼んでいいんでしょうか」

 

「通じるのは私たちだけですね」

 

「商品にするなら、後で名前を聞きましょう」

 

 まずはイカに似た方を開き、余分な水気を取る。小麦粉を薄くまぶし、醤油と調味料を少量加えた。

 

 理央は鑑定で水分を確かめた後、鉄板へ挟んだ。重りを載せ、焼き機へ火を入れる。

 

 じゅっと水分の弾ける音がして、香ばしい匂いが立った。

 

「もう、おいしそうです」

 

「匂いだけで決めないでくださいね」

 

 しばらくして鉄板を開く。

 

 焼き色は付いていたが、持ち上げると中央が頼りなく曲がった。端は乾いているのに、厚く残った胴の内側はまだ柔らかい。

 

「厚いです」

 

「見た目でも分かります」

 

「言わなくても分かってます」

 

 理央は一枚目を鑑定し、水分の残り方を確かめた。

 

「押す力が足りません。あと、粉も少し多いです」

 

「では次は薄くしよう」

 

 真壁が重りを一つ増やす。

 

「次はいけます」

 

 二枚目は薄く広がった。端までよく焼け、持ち上げても形を保っている。

 

 理央は小さく割り、澪と一緒に口へ入れた。

 

「しょっぱい」

 

「醤油、多かったですね」

 

「鑑定する前に分かりました」

 

 ロセリオが横から覗き込む。

 

「失敗か?」

 

「調整中です」

 

 理央は答え、二枚目の配合を確かめた。醤油を減らし、元の素材に塩気がある分だけ調味料も控える。

 

 三枚目は、イカに似た素材が透けるほど薄く伸びた。

 

 鉄板を開いた瞬間、先ほどより軽く甘い香りが広がる。中心まで乾いているが、焦げはない。割れば小気味よい音がした。

 

 理央は鑑定してから一口食べ、もう一度、今度は味を確かめるように噛んだ。

 

「これは、いけます」

 

「三枚目でしたね」

 

「予定どおりです」

 

 最初から二枚失敗する予定だったような顔で言う。

 

 次はタコに似た素材だった。

 

 同じ重さで押すと、足の厚い部分に水分が残る。理央は途中で鉄板を開き、切り方と粉の量を変えた。イカに似た方より少し長く焼き、縁が硬くなりすぎる前に取り出す。

 

 こちらは一度の失敗では済まなかった。

 

「四枚目ですね」

 

「数えなくていいです」

 

 澪が焼けた端を試食していると、理央が恨めしそうに見る。

 

「失敗作の方が減ってません?」

 

「味は悪くないですから」

 

 五枚目で、ようやく足の歯応えを残したまま、薄く食べやすい一枚になった。

 

 イカに似た方は軽く、タコに似た方は噛むほど味が出る。

 

 理央は二種類を並べ、満足そうに頷いた。

 

「イカせんと、タコせんです」

 

「仮の名前ですよね?」

 

「分かりやすいので、今はこれでいいです」

 

 焼き機から上がる匂いに気づき、通りを行き来していた市場の者が足を緩め始めていた。

 

 

 

 理央が焼き方を調整している隣で、澪は小さな容器を三つ並べた。

 

 一つ目は銀色の小魚。

 

 二つ目は小魚と小エビ。

 

 三つ目には小魚、小エビ、小蟹を入れる。

 

 そこへ配合を変えた塩と、市場で売られていた青菜の漬物汁を少量ずつ加えた。

 

「漬物も使うのか?」

 

 ロセリオが聞いた。

 

「使うのは、この汁です。魚が変化し始めるきっかけに使えるかもしれません。ただ、入れれば必ずうまくいくとは言えません」

 

 トルヴィアで普段から作られている漬物なら、現地で用意できる。けれど、青菜を漬けるための汁と魚醤に向く発酵液が同じとは限らない。

 

 澪は三つの容器を鑑定し、塩分と水分、変化を起こす働きの有無を見比べた。

 

「魚だけの方は、少し動きが弱そうです。小エビ入りと小蟹入りは、比べられそうですね」

 

「では、先に時間を進めよう」

 

 真壁が容器を収納内の発酵区画へ収める。

 

 作業台の上からは一瞬で消えた。

 

 だが、中では一瞬ではない。温度を保った区画で日が重なり、魚介が塩の中でゆっくり形を失っていく。

 

 真壁は途中の段階で三つの容器を取り出した。

 

 蓋を開ける前から、魚と塩が混じった強い匂いがした。

 

「匂いは?」

 

 理央が少し離れたところから聞く。

 

「強いです」

 

「その言い方、怖いです」

 

「でも、旨味は増えています」

 

 澪は匂いだけで決めず、鑑定で発酵の進み方と腐敗の有無を確認した。

 

 魚だけの容器は、塩味が前へ出すぎている。小エビ入りは香りが軽く、三つ目は小蟹の殻から出た風味まで重なっていた。

 

「塩が強すぎます」

 

「では次は少し減らそう」

 

 真壁は同じ容器から塩を抜くのではなく、配合を変えた試料を新しく用意した。

 

 どの割合なら傷まず、味が整うのか。漬物汁を入れない物も加え、違いを比べる。

 

 収納内で時間を進め、途中で取り出す。澪が鑑定し、香りと味を確認する。結果に合わせて次の試料を作り、また時間を進める。

 

 作業場では短い時間でも、容器の中では何度も季節を越えるほどの時間が流れていた。

 

 繰り返すうちに、小魚と小エビ、小蟹を合わせた試料が、最も濃い旨味を残した。

 

 布で濾すと、容器へ濃い褐色の液体が落ちていく。

 

 見た目は醤油に似ているが、立ち上がる香りはもっと海に近い。

 

 澪は一滴だけ匙へ取り、鑑定で異常がないことを確かめてから味を見た。

 

 塩気の後から、小魚と甲殻類の旨味が広がる。まだ配合を詰める余地はあるが、調味料として使える味だった。

 

「出来たんですか?」

 

「試作品としては。毎回同じ味にできるかは、これからです」

 

 理央が近づき、容器の上で一度だけ鼻を動かした。

 

「思ったより、魚です」

 

「魚から作りましたからね」

 

「見た目が醤油なので、油断しました」

 

 ロセリオは褐色の液体を見たまま、何も言わなかった。

 

 今朝まで捨てるしかなかった小魚と小エビと小蟹が、作業台の上で一つの調味料に変わっていた。

 

 

 

 真壁は白身魚の傷んだ部分を除き、小エビと貝、少量の野菜、塩、香草を使って魚介のスープを作った。

 

 作業場の鍋でも同じ物を作れるよう、収納内だけで調理を終わらせない。市場の炉へ鍋を掛け、火加減を現地の職人にも見せる。

 

 澪とロセリオが味を確かめ、塩を少し足した。

 

「これを、袋へ入れるんですね」

 

 理央が、真壁の用意した気密性と耐熱性の高い袋を持ち上げた。

 

「中身に触れる側へ手を入れないように」

 

「入れてません」

 

 すぐに持ち方を変える。

 

 真壁は出来上がったスープの塩分、水分、酸味を鑑定した。魚介の種類が変われば、同じ処理が使えるとは限らない。今回はこの中身に合わせて、加熱の条件を決める。

 

 袋へ一食分ずつ充填し、空気を減らして密封する。

 

 その上で浄化を掛け、加熱処理も行った。

 

「浄化したなら、それだけで大丈夫なんですか?」

 

「今ある汚染を除く助けにはなる。だが、袋の密封が悪ければ後から入る。中身に合わない処理なら、残る危険もある」

 

 真壁は袋の接合部を一つずつ確かめた。

 

「浄化したから一年安全、ではないんですね」

 

「それを確かめるための保存試験だ」

 

 処理を終えた袋を幾つかに分ける。

 

 真壁はそれぞれに、品名、品質、賞味期限、内容量を示すラベルを貼った。賞味期限は今回の保存試験に合わせた仮の表示で、販売用として決めたものではない。

 

 同じ日に作った物でも、保存する温度を変えれば劣化の仕方は変わる。袋の材質や密封方法が違っても、結果は揃わない。

 

 真壁は比較に必要な試料を残し、収納内の保存試験区画へ収めた。

 

「時間を止めて置いておくんですか?」

 

「それでは保存試験にならん」

 

 理央が首を傾げる。

 

「じゃあ、どうするんです?」

 

「中だけ時間を進める」

 

「どれくらい?」

 

「まず一年だな」

 

「一年?」

 

 理央の声が一段高くなった。

 

「外で待つ必要はない」

 

「時間を止めるんじゃなくて、進めるんですね」

 

 澪が確認する。

 

「保存試験だからな。止めては意味がない」

 

 真壁の収納へ入った袋は、一定の温度に保たれた区画で、外とは違う速さの時間を過ごし始めた。

 

 

 

 理央が焼き上がったせんべいを並べている間に、保存試験区画では一年相当の時間が過ぎた。

 

 真壁が靄から、ラベルの貼られた保存袋を取り出す。

 

 作業台へ置かれた袋を、理央は少し離れて見た。ラベルには、魚介スープの品質と賞味期限、内容量が示されている。

 

「これ、中では一年経ってるんですよね」

 

「そうだ」

 

「見た目、普通です」

 

「普通じゃないと困ります」

 

 澪は答えたが、見た目だけで済ませなかった。

 

 袋は膨らんでいない。漏れも接合部の剥がれもなく、中身に異常な変色は見えない。

 

 真壁が鑑定し、澪も続けて確かめる。

 

 腐敗はない。毒性の異常も、微生物に由来する危険な兆候も出ていない。中身の劣化も、比較のために残した作りたての物と大きな差はなかった。

 

「食べても問題ありません」

 

 澪が言うと、理央がようやく袋へ近づいた。

 

「開ける前に分かるの、こういう時は便利ですね」

 

「分からないまま一年物を食べる気はありませんよ」

 

 真壁は別の鍋に湯を沸かし、袋のまま温めた。

 

 湯から上げて水気を拭き、封を切る。

 

 魚介と香草の匂いが、温かな湯気と一緒に立ち上った。

 

「一年経った匂いじゃないです」

 

「一年経った食べ物の匂いって、どんなものですか?」

 

「もっと、こう……食べるのを諦める匂いです」

 

「それは保存に失敗した匂いですね」

 

 二人の会話を聞きながら、真壁はスープを小さな器へ注いだ。

 

 焼けたせんべいの香りに、魚介スープの匂いまで加わる。

 

 作業場の前で足を止めていた者たちは、もう通り過ぎるふりをしていなかった。

 

 

 

「それ、本当にさっきの魚か?」

 

 最初に声を掛けてきたのは、処分魚の籠を運んでいた男だった。

 

 その後ろには漁師と加工場の職人がいる。仲買らしい男も二人、売り場へ戻らず作業台を覗き込んでいた。

 

「こっちはイカっぽい方です」

 

 理央が、薄く焼けた一枚を持ち上げた。

 

「っぽい?」

 

「名前が分からないので」

 

「青筋イカだろ」

 

 漁師が言うと、隣の職人がすぐ口を挟んだ。

 

「あれは十二足だ。イカじゃない」

 

「お前は足の数で名前を決めるのか」

 

「少なくとも、イカなら十本だ」

 

 理央は澪を見た。

 

「十二本でしたね」

 

「店主さんはそう言っていました」

 

「数えてませんでしたけど」

 

「途中で止まりましたからね」

 

 二人が話している間にも、別の者がタコせんへ手を伸ばしかける。

 

「まだ試食用に分けてません」

 

 理央が慌てて皿を自分の方へ引いた。

 

「匂いだけ嗅がせる方が悪い」

 

「失敗したのなら余ってます」

 

「そっちでいい」

 

 醤油が強かった二枚目と、タコの中心が少し柔らかく残った四枚目が、あっという間に割られていく。

 

「失敗作なんですけど」

 

「魚としては食えるんだろ?」

 

「安全なのは鑑定しました。でも、しょっぱいですよ」

 

 忠告する前に食べた男が、水を求めて手を伸ばした。

 

「本当にしょっぱいな」

 

「言いました」

 

 周囲から笑いが起きる。

 

 魚醤の容器を覗く者もいたが、こちらは誰も指を入れようとはしなかった。濃い褐色と強い香りに、使い方が分からないらしい。

 

「これは飲むのか?」

 

「飲みません。調味料です」

 

 澪が即座に止める。

 

「少しだけ料理へ入れます。塩の代わりというより、味を足す感じです」

 

 湯気の上がる魚介スープへ顔を向ける者。焼き機の前で次の一枚を待つ者。今朝の漁を話していた者まで輪へ加わり、人だかりは少しずつ大きくなっていった。

 

 ロセリオは追い払わなかった。

 

 売れずに捨てるはずだった魚が、人を集めている。

 

 その光景を、組合長として見ていた。

 

 

 

「何の騒ぎ?」

 

 人の輪の外から、若い女性の声がした。

 

 市場の者たちが振り返り、自然に道を空ける。

 

 現れた女性は、澪より少し年上に見えた。濃紺の上着は仕立てがよいものの、裾は短く、濡れた石床でも歩きやすい革靴を履いている。

 

 髪も飾り立てず、後ろで一つに束ねていた。

 

「姫様?」

 

「セリネア様だ」

 

 小さな声が重なる。

 

 理央が澪へ顔を寄せた。

 

「王女様ですか?」

 

「違うと思います。ヴァルセナ伯爵家の方では」

 

 澪も声を抑えて答える。

 

 この町の者が、領主家の娘を親しみと敬意を込めて姫様と呼んでいるらしい。

 

「セリネア様、なぜこちらへ」

 

 ロセリオが人垣の前へ出た。

 

「港で人が集まっていると聞いたの。喧嘩にしては、いい匂いがするでしょう?」

 

 セリネアはそう言いながら、既に作業台を見ていた。

 

 皿に並ぶ薄焼き。褐色の液体。湯気の立つスープ。その後ろに積まれた麦と豆の袋まで、一度ずつ視線を止めていく。

 

「何をしているの?」

 

「余った魚で、新しい商品を試しておりまして」

 

「余った魚?」

 

 声の調子が変わった。

 

 珍しい食べ物を見つけた喜びより先に、セリネアはロセリオへ確かめる。

 

「今日、処分へ回すはずだった分?」

 

「はい。こちらの押入商会が、売却できる分を全部買いました」

 

 ロセリオが澪たちを紹介した。

 

 セリネアは澪へ挨拶を返すと、すぐ魚介スープの袋へ目を向ける。

 

「これは保存品?」

 

「試作品です。一年相当の保存試験を終えたところです」

 

 澪の返事に、セリネアの目が細くなる。

 

「一年?」

 

「収納内で時間を進めました。食べる前の安全確認も済んでいます」

 

 セリネアはもう一度、薄焼きと魚醤と袋を見比べた。

 

「それなら、私も見たいわ」

 

 人だかりの前ではなく、作業台の横へ進む。

 

 見るだけで帰る者の動きではなかった。

 

 

 

「では、私が味見しようか」

 

 セリネアが言うと、市場の者たちが一斉に声を上げた。

 

「姫様!」

 

「お待ちください」

 

「どうして? 毒でも入っているの?」

 

「そういう話ではなく……」

 

 止めた男の方が困ってしまった。

 

 セリネアは澪と真壁を見る。

 

「安全は確かめたのよね?」

 

「はい。材料も、作っている途中も、出来上がってからも鑑定しています」

 

「保存したスープも、腐敗、毒性、袋の異常を確認済みだ」

 

 真壁が補足した。

 

「なら問題ないでしょう」

 

 最初に手に取ったのは、タコに似た素材の薄焼きだった。

 

 小さく割って口へ入れる。周囲が静かになり、セリネアの噛む音だけが聞こえた。

 

「おいしい」

 

「ほんとですか?」

 

 作った理央が、誰より早く聞き返した。

 

「ええ。香ばしくて、噛むほど味が出るわ」

 

 次にイカに似た方を食べる。

 

「こっちは少し食感が違うわね。薄くて軽いし、味に甘みがある」

 

「イカっぽい方と、タコっぽい方です」

 

「名前はまだないの?」

 

「仮です。こっちの名前を知らないので」

 

 理央が答えると、周囲の漁師たちから一斉に別々の名が飛んだ。

 

「青筋イカだ!」

 

「十二足だと言ってるだろ!」

 

「浜じゃ舟絡みと呼ぶ!」

 

 セリネアは眉を上げた。

 

「名前を決めるだけでも時間が掛かりそうね」

 

「イカせんでいい気がしてきました」

 

 理央が小さく呟いた。

 

 澪は別の薄焼きへ、魚醤を一滴だけ垂らした。

 

「次は、こちらを試してください」

 

「これを?」

 

「ほんの少しでいいです」

 

 セリネアは香りを確かめてから口へ運んだ。

 

 すぐに飲み込まず、舌の上で味を比べている。

 

「……こっちの方が好きだわ」

 

「分かります」

 

 理央が大きく頷く。

 

「塩辛くなるだけかと思ったけれど、魚の味が濃くなるのね」

 

「入れすぎると魚醤の味だけになります。今のところは、一滴か二滴くらいです」

 

 澪が魚醤の容器を遠ざけると、飲むのかと聞いていた男が残念そうな顔をした。

 

 最後は、一年相当を経過させた魚介スープだった。

 

「これが一年?」

 

「収納内では一年相当だ」

 

 真壁が答える。

 

 セリネアは器を持ち上げ、湯気と一緒に一口飲んだ。

 

 白身魚の味に、小エビと貝の旨味が重なる。香草の香りも残り、長く保存したことを味から感じ取るのは難しい。

 

「これもいけるわ」

 

「魚醤も少し入れてみます?」

 

「お願い」

 

 澪が数滴落とす。

 

 もう一度飲んだセリネアの表情から、単に食事を楽しんでいた色が消えた。

 

 器の中身を見る目が、値段の付く商品を見る目へ変わっていた。

 

 

 

「これ、捨てる魚で作ったのよね?」

 

 セリネアは器を置き、ロセリオへ向き直った。

 

「売れ残りと規格外が中心です。傷んだ物は入れておりません」

 

「なら、魚を増やす必要がない」

 

「今ある余りを使えます」

 

 澪が答える。

 

 セリネアは薄焼きを一枚持ち、光へ透かした。

 

「これは軽い。港で売れるし、船へ持ち込むにも邪魔にならない。日持ちするなら、沿岸船に乗せて他の町へも運べるわ」

 

「今の試作品は、そこまでの保存試験をしていません」

 

 理央が正直に言った。

 

「なら調べればいい。タコに似た方とイカに似た方で、持つ日数も違うのでしょう?」

 

「水分が違うので、たぶん同じにはなりません」

 

「材料の量も、焼く時間も違いました」

 

「それも値段に入れる必要があるわね」

 

 セリネアは迷わず答えた。

 

 次に魚醤の容器を見る。

 

「こちらは、薄焼きだけに使う物ではないのでしょう?」

 

「はい。魚料理やスープの味付けにも使えます。ただ、トルヴィアで受け入れられる味かは、もっと多くの人に試してもらわないと分かりません」

 

「売れるまでに時間も掛かる」

 

 ロセリオが言う。

 

「でも、使い道は一つではない。余る小魚と小エビと小蟹を、一緒に原料へ回せる可能性がある」

 

 セリネアの関心は、さらに袋へ移った。

 

「保存したスープなら、鮮魚では届かなかった町にも売れる。アルヴェラだけではなく、内陸へ運ぶ時間も取れるわ」

 

「輸送時間の制約は減るだろう」

 

 真壁が答える。

 

「袋はこの町で作れるの?」

 

「今は持ち込んだ物だ。中身に必要な性能を決めてから、調達方法を考えることになる」

 

「加工する人と場所は?」

 

 ロセリオが首を横へ振った。

 

「今の加工場に余裕はありません」

 

「原料が出る時期と量は?」

 

「日によって変わります。市場へ届く前に処分される物もあります」

 

 答えを聞くたび、セリネアは次の問題へ進んだ。

 

 珍しい技術だから欲しいのではない。

 

 材料の集め方、加工する場所、必要な人手、保存できる期間、運ぶ先。最後に幾ら残るのかまで見ようとしている。

 

「北岸の村で、売る前に余る魚も使えるかしら」

 

「加工か回収の方法があれば、村の収入にはなると思います。ただ、今日の試作品をそのまま広げられるかは、まだ分かりません」

 

 澪は出来るとは断言しなかった。

 

 それでも、セリネアは否定とは受け取らない。

 

「分からないところを調べれば、出来るかどうかは決められるわ」

 

 ロセリオが作業台を見た。

 

 今朝まで値段のなかった魚は、麦と豆へ変わった。その一部が、薄焼きと魚醤と、一年相当を経たスープになっている。

 

 魚を増やしたわけではない。

 

 工場を建てたわけでも、大勢の働き手を集めたわけでもない。

 

 だが、捨てる以外の道があることだけは、味と形になって目の前へ並んでいた。

 

「父にも話すわ」

 

 セリネアが言った。

 

 理央は、自分が焼いた二種類のせんべいを見下ろす。

 

 海を見に来ただけだったはずが、試しに焼いた一枚が、港の売り物として数えられようとしていた。

 

 人だかりの向こうでは、また新しい魚籠が処分場所へ運ばれている。

 

 セリネアはその籠を見て、迷いなく言い切った。

 

「これは事業として進めるべきだわ」

 

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