翌朝、孤児院の管理室へ入った澪が最初に見たのは、床に置かれた空の布袋だった。口が開いたままなのは昨日と同じだが、今日は棚の上へ移されている。隣には交換用の魔石を収めた箱があり、こちらは蓋を閉じた上で、幼竜の届かない高さに置かれていた。
浄化加湿循環器の作動音が、部屋の隅で低く続いている。その魔石を狙っていた当人は、クララの足元で前足を折っていた。赤褐色の鱗の隙間からにじむ淡い光は、朝のうちに見ると昨日よりもよく目立つ。
「吐いたり、苦しんだりはしませんでした」
クララは使い込んだ記録板を両手で持っていた。昨夜眠った時間と、起きてからの動きが、昨日作った欄へすでに書き加えられている。
「夜中に何度か起きましたが、私が声を掛けると、またここへ戻って眠りました」
「設備の方へは?」
「行こうとしました。ですから、魔石は全部上へ移しています」
シスターサリアが棚を見上げた。子どもたちにも、勝手に魔石を与えないよう話してあるという。
真壁は空袋にも棚にも手を伸ばさず、まず幼竜へ鑑定を使った。体温、身体の内側、魔力の巡り。昨日の人工魔石を与える前後と照らし合わせていく。
「孵化で減っていた分は戻っている。火にも光にも、目立った乱れはない」
「では、人工魔石は大丈夫だったんですね」
澪が言うと、真壁は幼竜から目を外さなかった。
「一度食べた後、今朝まで急な異常が出ていない。確認できたのはそこまでだ」
人工魔石が食べられることと、それだけで育てられることは違う。
昨日、澪はその違いを空袋で教えられた。魔力が戻った幼竜は、それでも袋の中を探し、最後には孤児院の設備へ向かった。幼竜が顔を上げる。クララではなく、棚の上の布袋を見ていた。
「魔力は戻ってるんですよね」
「戻っている。だから、同じ物を足す前に別の条件を見る」
真壁の返事を受け、ヴァルトが記録板の余白へ視線を落とした。
「昨日お話しした魔獣の乳なら、いくつか当たってみます。もっとも、すぐ手に入るとは限りませんが」
何の魔獣の乳が合うのか。火と光を持つ幼竜へ、どんな魔力を含んだ乳を選ぶのか。候補を見つけても、結局は少量ずつ確かめるしかない。
真壁はそこで、ヴァルトの言葉を手で止めた。
「いや、待て。魔獣由来でよいなら、先に試せる物がある」
澪は真壁を見た。買ってきたとも、これから手配するとも言わなかった。「先に試せる」という言い方には、すでに持っている時の響きがある。
「真壁さん。何を持ってるんですか」
真壁が自分の収納へ意識を向けたことで、澪の予感はほとんど答えになった。
「クラーケンだ」
答えは、予感よりだいぶ大きかった。
「クラーケンって、あの、海にいる方の?」
「海にいたな」
「そういう確認じゃないです」
真壁は取り合わず、収納内の保管区画を澪へ示した。勝手に人の収納全体を覗くのではなく、真壁が開示した対象へ鑑定を向ける。
文字情報と一緒に、収納内部の像が澪の認識へ浮かんだ。最初に見えたのは、太い腕だった。
一本だけでも大型の荷車より長い。それが何本も重ならないよう区画へ固定され、その先に巨大な胴体が続いている。全体を見ようと意識を広げても、今度は細部が遠くなり、結局どれほど大きいのか掴めなかった。
少なくとも、孤児院の管理室へ出してよい物ではない。
死体であるため収納できているが、澪の中では別の疑問が生き生きと動き始めた。
「いつから入ってるんですか、これ」
「以前、トルヴィア沖に出た個体だ」
「そうではなくて、どうして真壁さんの収納にあるんですか」
「話はあとだ。今は幼竜の昼飯を先にする」
朝に集まったはずなのに、もう昼飯の心配をされている。
澪が収納内部の巨大な腕と、足元の小さな幼竜を見比べる。身体の大きさだけなら、食う側と食われる側を逆にした方が納得しやすかった。
「食べさせるんですか?」
「食べるかを確かめる」
真壁はそこで一度、クララへ視線を向けた。
「もちろん、選別して少量からだ。いきなり足一本を出すつもりはない」
「入らないと思います。この部屋には」
クララの返事は真面目だった。
ヴァルトが口元へ手を当てて横を向く。笑ったのか、考え込んだのかは分からない。
真壁だけは最初から、部屋の広さを問題にしていなかった。
「魔獣由来の肉なら、乳を探す前に比較できる。食餌として受け付けなければ、その時点で止めればよい」
「クラーケンの肉が、幼竜に合うかは分かりません」
ヴァルトが姿勢を戻した。
「だから先に見る。ヴァルト君にも確認を頼もう」
「分かりました」
説明を後回しにされたクラーケンは、収納の中で逃げもしない。
澪の疑問だけが残ったまま、真壁は巨大な死体を食材へ変える作業に入った。
真壁の収納内プラントで、クラーケンの分類が始まった。筋肉、脂肪、内臓、硬質組織、魔石。巨大な死体へ鑑定の条件を当て、使える区画と隔離する区画を分けていく。腐敗は進んでいない。収納へ入れた時点から状態も変わっていなかった。
だからといって、そのまま幼竜の口へ入れられるわけではない。
「内臓は使わん。脂の多い部分も、最初は外そう」
「筋肉だけですか」
「ああ。異常のない部位から取る」
真壁は毒性を示す成分と、寄生性の反応がある箇所を先に除外した。筋肉の中でも状態が揃い、食用へ回せる部分だけを小さく分ける。
ゲンダイの栄養学で見れば、筋肉は身体を作る蛋白質を多く含んでいる。ただし、同じ考え方が竜へそのまま通用するとは限らない。今は食べるかどうかを確かめるだけだ。
収納の中では、荷車どころではない量の肉が区画を移っていた。
管理室へ出てきたのは、蓋の付いた小さな容器一つだった。容器にはラベルが貼られている。クラーケン筋肉、加熱試験用。品質、賞味期限、内容量、重量の欄まで埋まっていた。
「この量にも貼るんですね」
「この量だからこそだ。残った場合、何だったか分からなくなる方が困る」
昨日生まれたばかりの竜へ食べさせる物である。余計な慎重さとは言えなかった。
真壁は容器を開ける前に、幼竜の状態をもう一度確かめた。魔力は昨日より戻っている。体温も大きく変わらず、火と光の巡りにも新しい乱れはない。
正常値は、まだ誰も知らない。今朝まで悪化していないことを基準にして、一つずつ違う条件を重ねるしかなかった。
容器の蓋を開けると、加熱した肉の匂いが広がった。魚とも、ゲンダイの烏賊や蛸とも少し違う。海の匂いはあるが、澪が知っている料理へそのまま結びつくものではなかった。
クララの足元で、幼竜の頭が持ち上がる。棚の魔石へ向いていた鼻先が、真壁の持つ容器を追った。
「反応しています」
クララが記録板を置き、床へ膝をついた。
「一度に渡す必要はない。まず一口だ」
真壁は切り分けた肉を一つだけ小皿へ置いた。巨大なクラーケンから取り出した試料は、クララの指先ほどの大きさしかなかった。
クララが小皿から肉をつまみ、幼竜の鼻先へ差し出した。幼竜はすぐには噛みつかなかった。鼻先を近づけ、右から、次に左から匂いを嗅ぐ。細い舌が一度だけ肉へ触れた。
「食べないでしょうか」
クララの手は動かない。次の瞬間、幼竜の口が肉をさらった。
「食べました」
澪の声と重なるように、柔らかな物を噛む音がする。魔石を食べた時の乾いた音とは違う。幼竜は何度か顎を動かし、喉を鳴らして飲み込んだ。それから、空になったクララの指先へ鼻を押しつける。
「まだ欲しいようですね」
クララが小皿へ手を伸ばしかけると、真壁が止めた。
「少し待とう」
すぐに異常が出るとは限らない。真壁とヴァルトは、幼竜の口元から腹部へ順に鑑定を向けた。
「吐き出してはいません。肉は胃へ入っています」
「体温も変わらんな」
火属性も光属性も、食べる前と同じように巡っている。幼竜は待っている間も暴れなかった。けれど小皿から視線を外さず、クララの手が動くたびに首も一緒に動く。
「食うことと、足りることは別だ」
真壁は時間を置いてから、もう一口だけ許可した。クララが渡す。今度は匂いを確かめる間もなかった。肉はすぐに幼竜の口へ消えた。さらに少量を与えても反応は変わらなかったが、クララは皿に残った分をまとめて渡さず、そこで手を止める。
「もっと欲しがっています」
「今日は食えるかを見ている。適量はまだ分からん」
幼竜は小皿を見上げたまま、しばらく動かなかった。やがて諦めたようにクララの膝へ鼻先を寄せ、足元へ戻ろうとする。
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
石しか食べない生き物ではなかった。少なくとも、加熱したクラーケンの筋肉を食餌として受け入れ、すぐに体調を崩してもいない。
ところが幼竜は、クララの足へ着く前に止まった。鼻先を上げ、棚の方を向く。次に、前日から空の布袋へ目を移した。棚の下まで歩き、届かない袋を見上げて爪を鳴らす。
「今度は魔石ですか」
「そのようだな」
真壁がもう一度、身体の内側を確かめる。胃へ入った肉は残っている。吐き戻しもなく、目立った異常もない。それでも幼竜の注意は、肉を入れた容器ではなく、魔石の袋と浄化加湿循環器へ向いていた。
人工魔石を与えた時は、魔力が戻っても食べ物を探した。
肉を与えた今は、その肉をもっと欲しがった後で、魔石まで探している。
一度ずつの反応で、竜の食性を決めることはできない。
それでも、次に試す組み合わせは一つしかなかった。
「次は両方だ」
真壁は小皿に残った肉へ目を落とした。
「肉と、魔石ですか」
「ああ。どちらか一方で終わらないなら、同じ食事の中で与えてみよう」
昨日の人工魔石をもう一つ使えば、すぐ試すことはできる。澪がそう言うと、真壁は否定しなかった。
「人工魔石でも試せる。ただし、同じ大きさの石を毎食与える必要があるかは別だ」
幼竜が成長すれば、必要な食事も魔力も増える。そのたびに人工魔石の個数を増やせば、魔力と一緒に食べさせる結晶の量まで増えていく。
「魔力が同じなら、食わせる石は少ない方がいい」
「小さな人工魔石を作るのでは駄目なんですか?」
「それも候補だ。だが、今は魔獣の身体を分けたところだ。先に、こちらの魔石を見ておこう」
真壁が収納内の分類先から、クラーケンの魔石を示した。それは、肉の試験に使った容器とは比べものにならない大きさだった。管理室へ丸ごと出すことはせず、真壁は収納の中に固定したまま鑑定を向ける。
「大きいですね」
「元があれだからな」
澪は先ほど見た腕の太さを思い出した。魔石だけ小さくまとまっている方が不自然かもしれない。
ヴァルトは大きさより先に、内部の魔力へ注意を向けた。
「かなり保持しています。ただ、密度と属性は分けて見た方がよいでしょう」
「頼む。私は成分を見る」
幼竜は棚の下から戻り、クララの足元へ身体を寄せている。それでも時折、真壁の方へ鼻先を上げた。収納の中にある魔石まで感じているのかは分からない。
「出す時は、もっと小さくしてください」
クララが幼竜の首へ手を添えたまま言った。
「そのつもりだ。まず、何で出来ているかを確かめよう」
通常の人工魔石は、使えないわけではない。
クラーケン魔石の方が、少ない結晶量で一食分の魔力を与えられるなら使う価値がある。ただ大きく、ただ強いというだけなら、幼竜の餌へ選ぶ理由にはならなかった。
真壁の鑑定が、クラーケン魔石の成分を拾い上げた。
「硫酸ストロンチウムか」
澪は聞き覚えのある名前を頭の中で探した。大学の講義ではなく、宝石と鉱物を調べていた時に見たはずだ。
「天青石、でしたっけ」
「そうだ。セレスタイトとも呼ばれる」
主な基質は分かった。
けれど、幼竜へ食べさせるなら、鉱物名より中にある魔力の方が重要だった。
ヴァルトが魔石へ鑑定を重ねる。見ているのは総量だけではない。結晶内部のどこへ魔素が集まり、どのような状態で留まっているかを追っていた。
「均一ではありません」
「どこへ寄っている?」
「結晶格子の一定の位置です。成分と合わせるなら、ストロンチウムの近くでしょう」
澪も真壁が示した部分へ鑑定を絞った。文字だけではなく、結晶内部の像が重なる。魔素は全体へ薄く広がらず、同じ位置の周囲へ密に集まっていた。狭い場所へ寄っているのに、外へ漏れようとする乱れは見えない。
「フローライトの時に似てませんか」
「似てはいる。だが、同じではない」
真壁の返事は早かった。フローライトでは、普段から遊離魔素がフッ素の近くへ少し寄っていた。そこへ光を通すと、魔素が光軸方向へ揃い、横へ逃げる光が減る。
光を止めれば、並びはほどける。新しく光を作るわけでも、魔素を燃料として消費するわけでもない。
「こちらは光を通していないのに、集まったままです」
ヴァルトが魔石の別の部分へ視線を移した。どこを見ても、魔素は同じように一定の位置へ寄っている。
「向きを揃えているのではないな」
「はい。狭い結晶内部へ、多くの魔素を留めています」
フローライトが光の通り道を整えるなら、クラーケン魔石は魔素そのものを詰めておく側に見える。
そこまで考えて、澪は足元へ視線を落とした。幼竜はクララの隣で座り、作業台を見上げている。研究結果より、その中身を食べられる時を待っている顔だった。
「真壁さん。これ、長くなりますか?」
「比較は一つだけだ」
答えに迷わなかったところを見ると、その一つを終えるまでは止める気がないらしい。
真壁はクラーケン魔石の端から、比較に使う小片を切り出した。
刃を入れれば何でも同じように割れるわけではない。亀裂が広がった物と、切断面から魔素が漏れ始めた物は外し、結晶の並びと保持状態が崩れていない小片だけを残す。次に、手持ちの方解石系人工魔石を同じ体積へ揃えた。
二つの試料が作業台の上に並ぶ。
見た目の大きさは同じだった。
中身は違った。
「こちらの方が多いですね」
ヴァルトが示したのは、天青石を基質とするクラーケン魔石だった。真壁も双方へ鑑定を使い、同じ結果を確かめる。同じ体積でも、保持している魔力には明らかな差があった。
「ストロンチウムが、魔素を集めているんでしょうか」
澪が聞くと、真壁はすぐには答えなかった。小片を並べたまま、もう一度条件を見る。
「その可能性はある。だが、この比較では決められん」
「天然魔石と人工魔石ですからね」
ヴァルトが続けた。
「形成された過程も時間も違います。クラーケンという個体の性質が関係しているかもしれません」
硫酸ストロンチウムを基質にした結晶なら、どれでも同じように魔素を保持する。それを確かめたわけではない。
真壁は天青石側の小片を持ち上げた。
「因果を見るなら、天青石を基質に人工魔石を作り、同じ条件で比べる必要がある」
「それも今日やりますか?」
「それは後だ」
真壁は小片を作業台へ戻し、クララの足元にいる幼竜を見た。
「今は昼飯を作る」
新しい鉱物と魔素の関係は、真壁を止めるには十分な材料だった。
しかし、幼竜の空腹は研究結果を待ってくれない。
同体積なら、クラーケン魔石の方が多くの魔力を保持している。その事実だけで、今日の用途には足りる。
一食分の魔力を、より少ない結晶量で与えられる可能性がある。
真壁は比較に使った物とは別に、さらに小さな結晶片を切り出した。
「ヴァルト君。属性を見てくれ」
「分かりました」
研究は保留になったが、幼竜の昼飯はようやく次の工程へ進んだ。
ヴァルトは切り出した結晶片へ鑑定を向けた。大きな魔石から離しても、魔素は結晶内部へ留まっている。火や水といった一つの属性へ強く偏る様子もなかった。
「幼竜へ影響するほどの偏りは見えません。切断した部分から漏れてもいないようです」
「それなら、このまま入れるんですか?」
澪の問いに、真壁は首を横に振った。
「念のため、浄化を通す」
ゼグルド火山から卵を運び出したのは、荒れた火山性魔力の影響を避けるためだった。与える魔力によって、竜卵の性質や成長する方向まで変わる可能性がある。
孵化したからといって、その懸念まで殻と一緒になくなったわけではない。
「クララ君、頼めるか」
「はい」
クララが作業台へ近づくと、幼竜も立ち上がった。小さな魔石へ鼻先を向け、爪を鳴らして後ろをついてくる。クララは手を伸ばす前に足を止めた。
「この子が届かないようにしていただけますか」
シスターサリアが幼竜の前へ膝をつき、布を畳んだ台を置いた。幼竜はそちらを見ず、作業台の上ばかり気にしている。
最後にはクララが抱き上げることになった。
「食べるのは、まだです」
幼竜は腕の中で暴れなかったが、首だけは魔石へ向いたままだった。
「私が持っています」
サリアが幼竜を受け取る。クララから離れた途端、幼竜の前足に力が入り、爪がサリアの袖をつかんだ。それでもクララがすぐ目の前にいるためか、喉を鳴らすだけで留まっている。
クララは両手で結晶片を包み、《浄化》を施した。派手な光は出ない。天青石の見た目も変わらなかった。
処理が終わると、真壁とヴァルトが浄化前の状態と比べる。
「保持量は?」
「大きくは減っていません。集まっている位置も変わっていないようです」
「属性は」
「新しい偏りはありません」
《浄化》は、魔力そのものを消すわけでも、光属性へ作り替えるわけでもない。少なくとも今回の小片では、魔素を高い密度で留める性質を損なわなかった。
真壁は結晶片を小さな容器へ移した。
「これなら試せる」
サリアから戻された幼竜が、クララの胸元へ鼻先を押しつける。クララは片腕で抱いたまま、結晶片の入った容器を見た。
「この子が食べる分は、私が浄化します」
「一度に必要な量が決まってからだ。今はこの一食だけにしよう」
「はい」
卵へ魔力を与えていた時と同じように、クララは出来ることを増やしすぎなかった。
真壁は、肉と浄化済みの魔石片を収納内プラントへ戻した。クラーケンの筋肉から、先ほど幼竜が食べた部位と同じ条件の物を選ぶ。食用に向かない組織を除き、脂質と水分を調整する。
作るのは、まだ一食分だけだった。肉を細かくしすぎれば、幼竜が噛まずに飲み込むかもしれない。大きすぎれば食べ方が変わり、最初の試験と比べにくくなる。
「クララ君。先ほどの大きさで問題はなかったか」
「はい。きちんと噛んでいました。もう少し厚くても大丈夫だと思います」
「では、それを基準にしよう」
クララが実際に見た口の大きさと噛み方を受け、真壁が一口ごとの形を揃えていく。
「だんだん餌っぽくなってきましたね」
澪が言うと、真壁は作業を止めなかった。
「餌を作っているのだから当然だ」
「さっきまで、鉱物の研究をしていた気がするんですけど」
「必要な確認をしただけだ」
硫酸ストロンチウムと魔素の関係を調べることも、幼竜の昼食を作ることも、真壁の中では同じ工程の前後に置かれているらしい。
真壁は成形した一食分の肉へ、浄化済みの小さな結晶片を一つ収めた。
ヴァルトが、使った結晶片の保持魔力量を確認する。
「昨日の人工魔石で取り込んだ量より少なくしてあります」
「それでよい。足りなければ追加は出来る。先に多く入れれば戻せん」
完成した一食分が、小さな容器へ収められた。こちらにもラベルが付いている。幼竜用試験飼料。品質、賞味期限、内容量、総重量。その下に、クラーケン筋肉と浄化済み天青石系魔石片と記されていた。
商品にする予定も、誰かへ売る予定もない。
それでも、次に同じ物を作るなら、何を入れたか分からない餌には出来なかった。
「幼竜用試験飼料・肉魔石混合型」
澪がラベルの仮名を読み上げる。
「長いですね」
「試験品なら、内容が分かる方がよい」
真壁は容器をクララへ渡した。蓋の向こうを見ていた幼竜が、すぐに立ち上がった。
クララが容器の蓋を外した。幼竜は足元を一度回り、差し出された最初の一口へ迷わず食いついた。
肉を噛む音がする。その途中で、硬い物へ歯が当たった。
バリッ。
管理室に乾いた音が響く。
幼竜は口を止めなかった。天青石の結晶片ごと噛み砕き、肉と一緒に飲み込む。次の一口へ鼻先を寄せ、クララが渡すたびに喉を動かした。
「ゆっくり食べてください」
言われて速度を落とす様子はない。
それでもクララは容器ごと床へ置かず、一つずつ手から与えた。幼竜が噛み終わったことを確かめてから、次を取る。
一食分を食べ終える頃には、容器の底へ細かな肉片が残るだけになっていた。幼竜はクララの指先まで舐め、まだ何かないかと容器の縁へ鼻を入れる。
澪は反射的に棚の布袋を見た。昨日も、今朝も、食べ終えれば次に向かった場所である。
幼竜が容器から顔を上げた。
棚には行かなかった。
浄化加湿循環器にも顔を向けない。
その場で身体を返し、クララの足元へ戻る。腹を石床へつけると、前足を折り、尾を身体の横へ巻いた。
「……袋、行きませんね」
「今のところはな」
真壁とヴァルトがすぐに鑑定を使う。肉は胃へ収まり、魔石片から取り込んだ魔力も身体の内側へ広がっている。火属性に荒い動きはなく、光属性の巡りも崩れていない。体温の急変も、吐き戻そうとする反応も見えなかった。
「魔力は補われています。火も光も乱れていません」
ヴァルトの言葉を聞き、クララは幼竜の背へ手を置いた。鱗の隙間からにじむ光が、呼吸に合わせてゆっくり明滅している。
「これで、この子の餌は決まりでしょうか」
「当面の試験用としては使える」
真壁は空になった容器を見た。
「食った。一食後の状態にも急な異常はない。探す行動も止まった。ただし、これだけで育つと決めるのは早い」
長く与えた時に身体へ何が蓄積するか。肉と魔力の割合が成長に合っているか。幼竜が大きくなれば、一食分の量も変わる。
「魔獣の乳も、候補には残します」
ヴァルトが言った。
「幼体に適した成分が含まれている可能性はあります。手に入れば、こちらと分けて少量から見ましょう」
「お願いします」
クララは記録板を手元へ引き寄せた。食餌量、魔石量、魔力変化、体重、体長、睡眠、活動量。昨日作った欄へ、今朝食べた肉と、混合した試験飼料を書き分けていく。
シスターサリアは、棚に避けた教会用の魔石箱へ目を向けた。
「孤児院の備蓄は、もう与えなくてよいのですね」
「ああ。当面の餌はこちらで作ろう」
真壁は短く答え、澪が続けた。
「試験用の餌も、魔獣の乳を探す費用も押入商会で持ちます。クララさんたちには、今までどおりこの子を見てもらえますか」
「もちろんです」
サリアは幼竜ではなく、クララも見て答えた。
「ただし、クララ一人には任せません。夜も交代で見ます」
「ありがとうございます」
クララの返事の後、部屋には浄化加湿循環器の作動音だけが残った。
幼竜はもう棚を見ていない。クララの足へ身体をつけ、目を閉じかけている。
「食費の欄は、残しておいた方がいいですよね」
クララが記録板の端を指した。
「残してください。孤児院からお金を出さなくても、何をどれだけ使ったかは分けておきたいです」
澪の返事を受け、クララはその欄を消さずに、負担先へ押入商会と書き加えた。
真壁も収納内プラントへ、今回の試験品を仮登録する。
「幼竜用試験飼料・肉魔石混合型」
澪はもう一度、その長い名前を見た。
「ドラゴンフードでよくないですか」
「内容が分かれば、呼び名はそれで構わん」
「では、ドラゴンフードと書きます」
クララは食費の下へ、新しい餌の名前を書き込んだ。
書き終えた頃には、幼竜は完全に目を閉じていた。腹を床につけ、クララの靴へ鼻先を寄せたまま眠っている。
幼竜には、まだ名前がない。
その餌には、先に名前が付いた。