押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第337話 ドラゴンフード

 

 翌朝、孤児院の管理室へ入った澪が最初に見たのは、床に置かれた空の布袋だった。口が開いたままなのは昨日と同じだが、今日は棚の上へ移されている。隣には交換用の魔石を収めた箱があり、こちらは蓋を閉じた上で、幼竜の届かない高さに置かれていた。

 

 浄化加湿循環器の作動音が、部屋の隅で低く続いている。その魔石を狙っていた当人は、クララの足元で前足を折っていた。赤褐色の鱗の隙間からにじむ淡い光は、朝のうちに見ると昨日よりもよく目立つ。

 

「吐いたり、苦しんだりはしませんでした」

 

 クララは使い込んだ記録板を両手で持っていた。昨夜眠った時間と、起きてからの動きが、昨日作った欄へすでに書き加えられている。

 

「夜中に何度か起きましたが、私が声を掛けると、またここへ戻って眠りました」

 

「設備の方へは?」

 

「行こうとしました。ですから、魔石は全部上へ移しています」

 

 シスターサリアが棚を見上げた。子どもたちにも、勝手に魔石を与えないよう話してあるという。

 

 真壁は空袋にも棚にも手を伸ばさず、まず幼竜へ鑑定を使った。体温、身体の内側、魔力の巡り。昨日の人工魔石を与える前後と照らし合わせていく。

 

「孵化で減っていた分は戻っている。火にも光にも、目立った乱れはない」

 

「では、人工魔石は大丈夫だったんですね」

 

 澪が言うと、真壁は幼竜から目を外さなかった。

 

「一度食べた後、今朝まで急な異常が出ていない。確認できたのはそこまでだ」

 

 人工魔石が食べられることと、それだけで育てられることは違う。

 

 昨日、澪はその違いを空袋で教えられた。魔力が戻った幼竜は、それでも袋の中を探し、最後には孤児院の設備へ向かった。幼竜が顔を上げる。クララではなく、棚の上の布袋を見ていた。

 

「魔力は戻ってるんですよね」

 

「戻っている。だから、同じ物を足す前に別の条件を見る」

 

 真壁の返事を受け、ヴァルトが記録板の余白へ視線を落とした。

 

「昨日お話しした魔獣の乳なら、いくつか当たってみます。もっとも、すぐ手に入るとは限りませんが」

 

 何の魔獣の乳が合うのか。火と光を持つ幼竜へ、どんな魔力を含んだ乳を選ぶのか。候補を見つけても、結局は少量ずつ確かめるしかない。

 

 真壁はそこで、ヴァルトの言葉を手で止めた。

 

「いや、待て。魔獣由来でよいなら、先に試せる物がある」

 

 澪は真壁を見た。買ってきたとも、これから手配するとも言わなかった。「先に試せる」という言い方には、すでに持っている時の響きがある。

 

「真壁さん。何を持ってるんですか」

 

 真壁が自分の収納へ意識を向けたことで、澪の予感はほとんど答えになった。

 

 

 

「クラーケンだ」

 

 答えは、予感よりだいぶ大きかった。

 

「クラーケンって、あの、海にいる方の?」

 

「海にいたな」

 

「そういう確認じゃないです」

 

 真壁は取り合わず、収納内の保管区画を澪へ示した。勝手に人の収納全体を覗くのではなく、真壁が開示した対象へ鑑定を向ける。

 

 文字情報と一緒に、収納内部の像が澪の認識へ浮かんだ。最初に見えたのは、太い腕だった。

 

 一本だけでも大型の荷車より長い。それが何本も重ならないよう区画へ固定され、その先に巨大な胴体が続いている。全体を見ようと意識を広げても、今度は細部が遠くなり、結局どれほど大きいのか掴めなかった。

 

 少なくとも、孤児院の管理室へ出してよい物ではない。

 

 死体であるため収納できているが、澪の中では別の疑問が生き生きと動き始めた。

 

「いつから入ってるんですか、これ」

 

「以前、トルヴィア沖に出た個体だ」

 

「そうではなくて、どうして真壁さんの収納にあるんですか」

 

「話はあとだ。今は幼竜の昼飯を先にする」

 

 朝に集まったはずなのに、もう昼飯の心配をされている。

 

 澪が収納内部の巨大な腕と、足元の小さな幼竜を見比べる。身体の大きさだけなら、食う側と食われる側を逆にした方が納得しやすかった。

 

「食べさせるんですか?」

 

「食べるかを確かめる」

 

 真壁はそこで一度、クララへ視線を向けた。

 

「もちろん、選別して少量からだ。いきなり足一本を出すつもりはない」

 

「入らないと思います。この部屋には」

 

 クララの返事は真面目だった。

 

 ヴァルトが口元へ手を当てて横を向く。笑ったのか、考え込んだのかは分からない。

 

 真壁だけは最初から、部屋の広さを問題にしていなかった。

 

「魔獣由来の肉なら、乳を探す前に比較できる。食餌として受け付けなければ、その時点で止めればよい」

 

「クラーケンの肉が、幼竜に合うかは分かりません」

 

 ヴァルトが姿勢を戻した。

 

「だから先に見る。ヴァルト君にも確認を頼もう」

 

「分かりました」

 

 説明を後回しにされたクラーケンは、収納の中で逃げもしない。

 

 澪の疑問だけが残ったまま、真壁は巨大な死体を食材へ変える作業に入った。

 

 

 

 真壁の収納内プラントで、クラーケンの分類が始まった。筋肉、脂肪、内臓、硬質組織、魔石。巨大な死体へ鑑定の条件を当て、使える区画と隔離する区画を分けていく。腐敗は進んでいない。収納へ入れた時点から状態も変わっていなかった。

 

 だからといって、そのまま幼竜の口へ入れられるわけではない。

 

「内臓は使わん。脂の多い部分も、最初は外そう」

 

「筋肉だけですか」

 

「ああ。異常のない部位から取る」

 

 真壁は毒性を示す成分と、寄生性の反応がある箇所を先に除外した。筋肉の中でも状態が揃い、食用へ回せる部分だけを小さく分ける。

 

 ゲンダイの栄養学で見れば、筋肉は身体を作る蛋白質を多く含んでいる。ただし、同じ考え方が竜へそのまま通用するとは限らない。今は食べるかどうかを確かめるだけだ。

 

 収納の中では、荷車どころではない量の肉が区画を移っていた。

 

 管理室へ出てきたのは、蓋の付いた小さな容器一つだった。容器にはラベルが貼られている。クラーケン筋肉、加熱試験用。品質、賞味期限、内容量、重量の欄まで埋まっていた。

 

「この量にも貼るんですね」

 

「この量だからこそだ。残った場合、何だったか分からなくなる方が困る」

 

 昨日生まれたばかりの竜へ食べさせる物である。余計な慎重さとは言えなかった。

 

 真壁は容器を開ける前に、幼竜の状態をもう一度確かめた。魔力は昨日より戻っている。体温も大きく変わらず、火と光の巡りにも新しい乱れはない。

 

 正常値は、まだ誰も知らない。今朝まで悪化していないことを基準にして、一つずつ違う条件を重ねるしかなかった。

 

 容器の蓋を開けると、加熱した肉の匂いが広がった。魚とも、ゲンダイの烏賊や蛸とも少し違う。海の匂いはあるが、澪が知っている料理へそのまま結びつくものではなかった。

 

 クララの足元で、幼竜の頭が持ち上がる。棚の魔石へ向いていた鼻先が、真壁の持つ容器を追った。

 

「反応しています」

 

 クララが記録板を置き、床へ膝をついた。

 

「一度に渡す必要はない。まず一口だ」

 

 真壁は切り分けた肉を一つだけ小皿へ置いた。巨大なクラーケンから取り出した試料は、クララの指先ほどの大きさしかなかった。

 

 

 

 クララが小皿から肉をつまみ、幼竜の鼻先へ差し出した。幼竜はすぐには噛みつかなかった。鼻先を近づけ、右から、次に左から匂いを嗅ぐ。細い舌が一度だけ肉へ触れた。

 

「食べないでしょうか」

 

 クララの手は動かない。次の瞬間、幼竜の口が肉をさらった。

 

「食べました」

 

 澪の声と重なるように、柔らかな物を噛む音がする。魔石を食べた時の乾いた音とは違う。幼竜は何度か顎を動かし、喉を鳴らして飲み込んだ。それから、空になったクララの指先へ鼻を押しつける。

 

「まだ欲しいようですね」

 

 クララが小皿へ手を伸ばしかけると、真壁が止めた。

 

「少し待とう」

 

 すぐに異常が出るとは限らない。真壁とヴァルトは、幼竜の口元から腹部へ順に鑑定を向けた。

 

「吐き出してはいません。肉は胃へ入っています」

 

「体温も変わらんな」

 

 火属性も光属性も、食べる前と同じように巡っている。幼竜は待っている間も暴れなかった。けれど小皿から視線を外さず、クララの手が動くたびに首も一緒に動く。

 

「食うことと、足りることは別だ」

 

 真壁は時間を置いてから、もう一口だけ許可した。クララが渡す。今度は匂いを確かめる間もなかった。肉はすぐに幼竜の口へ消えた。さらに少量を与えても反応は変わらなかったが、クララは皿に残った分をまとめて渡さず、そこで手を止める。

 

「もっと欲しがっています」

 

「今日は食えるかを見ている。適量はまだ分からん」

 

 幼竜は小皿を見上げたまま、しばらく動かなかった。やがて諦めたようにクララの膝へ鼻先を寄せ、足元へ戻ろうとする。

 

 澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 石しか食べない生き物ではなかった。少なくとも、加熱したクラーケンの筋肉を食餌として受け入れ、すぐに体調を崩してもいない。

 

 ところが幼竜は、クララの足へ着く前に止まった。鼻先を上げ、棚の方を向く。次に、前日から空の布袋へ目を移した。棚の下まで歩き、届かない袋を見上げて爪を鳴らす。

 

「今度は魔石ですか」

 

「そのようだな」

 

 真壁がもう一度、身体の内側を確かめる。胃へ入った肉は残っている。吐き戻しもなく、目立った異常もない。それでも幼竜の注意は、肉を入れた容器ではなく、魔石の袋と浄化加湿循環器へ向いていた。

 

 人工魔石を与えた時は、魔力が戻っても食べ物を探した。

 

 肉を与えた今は、その肉をもっと欲しがった後で、魔石まで探している。

 

 一度ずつの反応で、竜の食性を決めることはできない。

 

 それでも、次に試す組み合わせは一つしかなかった。

 

 

 

「次は両方だ」

 

 真壁は小皿に残った肉へ目を落とした。

 

「肉と、魔石ですか」

 

「ああ。どちらか一方で終わらないなら、同じ食事の中で与えてみよう」

 

 昨日の人工魔石をもう一つ使えば、すぐ試すことはできる。澪がそう言うと、真壁は否定しなかった。

 

「人工魔石でも試せる。ただし、同じ大きさの石を毎食与える必要があるかは別だ」

 

 幼竜が成長すれば、必要な食事も魔力も増える。そのたびに人工魔石の個数を増やせば、魔力と一緒に食べさせる結晶の量まで増えていく。

 

「魔力が同じなら、食わせる石は少ない方がいい」

 

「小さな人工魔石を作るのでは駄目なんですか?」

 

「それも候補だ。だが、今は魔獣の身体を分けたところだ。先に、こちらの魔石を見ておこう」

 

 真壁が収納内の分類先から、クラーケンの魔石を示した。それは、肉の試験に使った容器とは比べものにならない大きさだった。管理室へ丸ごと出すことはせず、真壁は収納の中に固定したまま鑑定を向ける。

 

「大きいですね」

 

「元があれだからな」

 

 澪は先ほど見た腕の太さを思い出した。魔石だけ小さくまとまっている方が不自然かもしれない。

 

 ヴァルトは大きさより先に、内部の魔力へ注意を向けた。

 

「かなり保持しています。ただ、密度と属性は分けて見た方がよいでしょう」

 

「頼む。私は成分を見る」

 

 幼竜は棚の下から戻り、クララの足元へ身体を寄せている。それでも時折、真壁の方へ鼻先を上げた。収納の中にある魔石まで感じているのかは分からない。

 

「出す時は、もっと小さくしてください」

 

 クララが幼竜の首へ手を添えたまま言った。

 

「そのつもりだ。まず、何で出来ているかを確かめよう」

 

 通常の人工魔石は、使えないわけではない。

 

 クラーケン魔石の方が、少ない結晶量で一食分の魔力を与えられるなら使う価値がある。ただ大きく、ただ強いというだけなら、幼竜の餌へ選ぶ理由にはならなかった。

 

 

 

 真壁の鑑定が、クラーケン魔石の成分を拾い上げた。

 

「硫酸ストロンチウムか」

 

 澪は聞き覚えのある名前を頭の中で探した。大学の講義ではなく、宝石と鉱物を調べていた時に見たはずだ。

 

「天青石、でしたっけ」

 

「そうだ。セレスタイトとも呼ばれる」

 

 主な基質は分かった。

 

 けれど、幼竜へ食べさせるなら、鉱物名より中にある魔力の方が重要だった。

 

 ヴァルトが魔石へ鑑定を重ねる。見ているのは総量だけではない。結晶内部のどこへ魔素が集まり、どのような状態で留まっているかを追っていた。

 

「均一ではありません」

 

「どこへ寄っている?」

 

「結晶格子の一定の位置です。成分と合わせるなら、ストロンチウムの近くでしょう」

 

 澪も真壁が示した部分へ鑑定を絞った。文字だけではなく、結晶内部の像が重なる。魔素は全体へ薄く広がらず、同じ位置の周囲へ密に集まっていた。狭い場所へ寄っているのに、外へ漏れようとする乱れは見えない。

 

「フローライトの時に似てませんか」

 

「似てはいる。だが、同じではない」

 

 真壁の返事は早かった。フローライトでは、普段から遊離魔素がフッ素の近くへ少し寄っていた。そこへ光を通すと、魔素が光軸方向へ揃い、横へ逃げる光が減る。

 

 光を止めれば、並びはほどける。新しく光を作るわけでも、魔素を燃料として消費するわけでもない。

 

「こちらは光を通していないのに、集まったままです」

 

 ヴァルトが魔石の別の部分へ視線を移した。どこを見ても、魔素は同じように一定の位置へ寄っている。

 

「向きを揃えているのではないな」

 

「はい。狭い結晶内部へ、多くの魔素を留めています」

 

 フローライトが光の通り道を整えるなら、クラーケン魔石は魔素そのものを詰めておく側に見える。

 

 そこまで考えて、澪は足元へ視線を落とした。幼竜はクララの隣で座り、作業台を見上げている。研究結果より、その中身を食べられる時を待っている顔だった。

 

「真壁さん。これ、長くなりますか?」

 

「比較は一つだけだ」

 

 答えに迷わなかったところを見ると、その一つを終えるまでは止める気がないらしい。

 

 

 

 真壁はクラーケン魔石の端から、比較に使う小片を切り出した。

 

 刃を入れれば何でも同じように割れるわけではない。亀裂が広がった物と、切断面から魔素が漏れ始めた物は外し、結晶の並びと保持状態が崩れていない小片だけを残す。次に、手持ちの方解石系人工魔石を同じ体積へ揃えた。

 

 二つの試料が作業台の上に並ぶ。

 

 見た目の大きさは同じだった。

 

 中身は違った。

 

「こちらの方が多いですね」

 

 ヴァルトが示したのは、天青石を基質とするクラーケン魔石だった。真壁も双方へ鑑定を使い、同じ結果を確かめる。同じ体積でも、保持している魔力には明らかな差があった。

 

「ストロンチウムが、魔素を集めているんでしょうか」

 

 澪が聞くと、真壁はすぐには答えなかった。小片を並べたまま、もう一度条件を見る。

 

「その可能性はある。だが、この比較では決められん」

 

「天然魔石と人工魔石ですからね」

 

 ヴァルトが続けた。

 

「形成された過程も時間も違います。クラーケンという個体の性質が関係しているかもしれません」

 

 硫酸ストロンチウムを基質にした結晶なら、どれでも同じように魔素を保持する。それを確かめたわけではない。

 

 真壁は天青石側の小片を持ち上げた。

 

「因果を見るなら、天青石を基質に人工魔石を作り、同じ条件で比べる必要がある」

 

「それも今日やりますか?」

 

「それは後だ」

 

 真壁は小片を作業台へ戻し、クララの足元にいる幼竜を見た。

 

「今は昼飯を作る」

 

 新しい鉱物と魔素の関係は、真壁を止めるには十分な材料だった。

 

 しかし、幼竜の空腹は研究結果を待ってくれない。

 

 同体積なら、クラーケン魔石の方が多くの魔力を保持している。その事実だけで、今日の用途には足りる。

 

 一食分の魔力を、より少ない結晶量で与えられる可能性がある。

 

 真壁は比較に使った物とは別に、さらに小さな結晶片を切り出した。

 

「ヴァルト君。属性を見てくれ」

 

「分かりました」

 

 研究は保留になったが、幼竜の昼飯はようやく次の工程へ進んだ。

 

 

 

 ヴァルトは切り出した結晶片へ鑑定を向けた。大きな魔石から離しても、魔素は結晶内部へ留まっている。火や水といった一つの属性へ強く偏る様子もなかった。

 

「幼竜へ影響するほどの偏りは見えません。切断した部分から漏れてもいないようです」

 

「それなら、このまま入れるんですか?」

 

 澪の問いに、真壁は首を横に振った。

 

「念のため、浄化を通す」

 

 ゼグルド火山から卵を運び出したのは、荒れた火山性魔力の影響を避けるためだった。与える魔力によって、竜卵の性質や成長する方向まで変わる可能性がある。

 

 孵化したからといって、その懸念まで殻と一緒になくなったわけではない。

 

「クララ君、頼めるか」

 

「はい」

 

 クララが作業台へ近づくと、幼竜も立ち上がった。小さな魔石へ鼻先を向け、爪を鳴らして後ろをついてくる。クララは手を伸ばす前に足を止めた。

 

「この子が届かないようにしていただけますか」

 

 シスターサリアが幼竜の前へ膝をつき、布を畳んだ台を置いた。幼竜はそちらを見ず、作業台の上ばかり気にしている。

 

 最後にはクララが抱き上げることになった。

 

「食べるのは、まだです」

 

 幼竜は腕の中で暴れなかったが、首だけは魔石へ向いたままだった。

 

「私が持っています」

 

 サリアが幼竜を受け取る。クララから離れた途端、幼竜の前足に力が入り、爪がサリアの袖をつかんだ。それでもクララがすぐ目の前にいるためか、喉を鳴らすだけで留まっている。

 

 クララは両手で結晶片を包み、《浄化》を施した。派手な光は出ない。天青石の見た目も変わらなかった。

 

 処理が終わると、真壁とヴァルトが浄化前の状態と比べる。

 

「保持量は?」

 

「大きくは減っていません。集まっている位置も変わっていないようです」

 

「属性は」

 

「新しい偏りはありません」

 

 《浄化》は、魔力そのものを消すわけでも、光属性へ作り替えるわけでもない。少なくとも今回の小片では、魔素を高い密度で留める性質を損なわなかった。

 

 真壁は結晶片を小さな容器へ移した。

 

「これなら試せる」

 

 サリアから戻された幼竜が、クララの胸元へ鼻先を押しつける。クララは片腕で抱いたまま、結晶片の入った容器を見た。

 

「この子が食べる分は、私が浄化します」

 

「一度に必要な量が決まってからだ。今はこの一食だけにしよう」

 

「はい」

 

 卵へ魔力を与えていた時と同じように、クララは出来ることを増やしすぎなかった。

 

 

 

 真壁は、肉と浄化済みの魔石片を収納内プラントへ戻した。クラーケンの筋肉から、先ほど幼竜が食べた部位と同じ条件の物を選ぶ。食用に向かない組織を除き、脂質と水分を調整する。

 

 作るのは、まだ一食分だけだった。肉を細かくしすぎれば、幼竜が噛まずに飲み込むかもしれない。大きすぎれば食べ方が変わり、最初の試験と比べにくくなる。

 

「クララ君。先ほどの大きさで問題はなかったか」

 

「はい。きちんと噛んでいました。もう少し厚くても大丈夫だと思います」

 

「では、それを基準にしよう」

 

 クララが実際に見た口の大きさと噛み方を受け、真壁が一口ごとの形を揃えていく。

 

「だんだん餌っぽくなってきましたね」

 

 澪が言うと、真壁は作業を止めなかった。

 

「餌を作っているのだから当然だ」

 

「さっきまで、鉱物の研究をしていた気がするんですけど」

 

「必要な確認をしただけだ」

 

 硫酸ストロンチウムと魔素の関係を調べることも、幼竜の昼食を作ることも、真壁の中では同じ工程の前後に置かれているらしい。

 

 真壁は成形した一食分の肉へ、浄化済みの小さな結晶片を一つ収めた。

 

 ヴァルトが、使った結晶片の保持魔力量を確認する。

 

「昨日の人工魔石で取り込んだ量より少なくしてあります」

 

「それでよい。足りなければ追加は出来る。先に多く入れれば戻せん」

 

 完成した一食分が、小さな容器へ収められた。こちらにもラベルが付いている。幼竜用試験飼料。品質、賞味期限、内容量、総重量。その下に、クラーケン筋肉と浄化済み天青石系魔石片と記されていた。

 

 商品にする予定も、誰かへ売る予定もない。

 

 それでも、次に同じ物を作るなら、何を入れたか分からない餌には出来なかった。

 

「幼竜用試験飼料・肉魔石混合型」

 

 澪がラベルの仮名を読み上げる。

 

「長いですね」

 

「試験品なら、内容が分かる方がよい」

 

 真壁は容器をクララへ渡した。蓋の向こうを見ていた幼竜が、すぐに立ち上がった。

 

 

 

 クララが容器の蓋を外した。幼竜は足元を一度回り、差し出された最初の一口へ迷わず食いついた。

 

 肉を噛む音がする。その途中で、硬い物へ歯が当たった。

 

 バリッ。

 

 管理室に乾いた音が響く。

 

 幼竜は口を止めなかった。天青石の結晶片ごと噛み砕き、肉と一緒に飲み込む。次の一口へ鼻先を寄せ、クララが渡すたびに喉を動かした。

 

「ゆっくり食べてください」

 

 言われて速度を落とす様子はない。

 

 それでもクララは容器ごと床へ置かず、一つずつ手から与えた。幼竜が噛み終わったことを確かめてから、次を取る。

 

 一食分を食べ終える頃には、容器の底へ細かな肉片が残るだけになっていた。幼竜はクララの指先まで舐め、まだ何かないかと容器の縁へ鼻を入れる。

 

 澪は反射的に棚の布袋を見た。昨日も、今朝も、食べ終えれば次に向かった場所である。

 

 幼竜が容器から顔を上げた。

 

 棚には行かなかった。

 

 浄化加湿循環器にも顔を向けない。

 

 その場で身体を返し、クララの足元へ戻る。腹を石床へつけると、前足を折り、尾を身体の横へ巻いた。

 

「……袋、行きませんね」

 

「今のところはな」

 

 真壁とヴァルトがすぐに鑑定を使う。肉は胃へ収まり、魔石片から取り込んだ魔力も身体の内側へ広がっている。火属性に荒い動きはなく、光属性の巡りも崩れていない。体温の急変も、吐き戻そうとする反応も見えなかった。

 

「魔力は補われています。火も光も乱れていません」

 

 ヴァルトの言葉を聞き、クララは幼竜の背へ手を置いた。鱗の隙間からにじむ光が、呼吸に合わせてゆっくり明滅している。

 

「これで、この子の餌は決まりでしょうか」

 

「当面の試験用としては使える」

 

 真壁は空になった容器を見た。

 

「食った。一食後の状態にも急な異常はない。探す行動も止まった。ただし、これだけで育つと決めるのは早い」

 

 長く与えた時に身体へ何が蓄積するか。肉と魔力の割合が成長に合っているか。幼竜が大きくなれば、一食分の量も変わる。

 

「魔獣の乳も、候補には残します」

 

 ヴァルトが言った。

 

「幼体に適した成分が含まれている可能性はあります。手に入れば、こちらと分けて少量から見ましょう」

 

「お願いします」

 

 クララは記録板を手元へ引き寄せた。食餌量、魔石量、魔力変化、体重、体長、睡眠、活動量。昨日作った欄へ、今朝食べた肉と、混合した試験飼料を書き分けていく。

 

 シスターサリアは、棚に避けた教会用の魔石箱へ目を向けた。

 

「孤児院の備蓄は、もう与えなくてよいのですね」

 

「ああ。当面の餌はこちらで作ろう」

 

 真壁は短く答え、澪が続けた。

 

「試験用の餌も、魔獣の乳を探す費用も押入商会で持ちます。クララさんたちには、今までどおりこの子を見てもらえますか」

 

「もちろんです」

 

 サリアは幼竜ではなく、クララも見て答えた。

 

「ただし、クララ一人には任せません。夜も交代で見ます」

 

「ありがとうございます」

 

 クララの返事の後、部屋には浄化加湿循環器の作動音だけが残った。

 

 幼竜はもう棚を見ていない。クララの足へ身体をつけ、目を閉じかけている。

 

「食費の欄は、残しておいた方がいいですよね」

 

 クララが記録板の端を指した。

 

「残してください。孤児院からお金を出さなくても、何をどれだけ使ったかは分けておきたいです」

 

 澪の返事を受け、クララはその欄を消さずに、負担先へ押入商会と書き加えた。

 

 真壁も収納内プラントへ、今回の試験品を仮登録する。

 

「幼竜用試験飼料・肉魔石混合型」

 

 澪はもう一度、その長い名前を見た。

 

「ドラゴンフードでよくないですか」

 

「内容が分かれば、呼び名はそれで構わん」

 

「では、ドラゴンフードと書きます」

 

 クララは食費の下へ、新しい餌の名前を書き込んだ。

 

 書き終えた頃には、幼竜は完全に目を閉じていた。腹を床につけ、クララの靴へ鼻先を寄せたまま眠っている。

 

 幼竜には、まだ名前がない。

 

 その餌には、先に名前が付いた。

 

 

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