朝の仕事が一段落した管理室で、クララは測り紐を床へ伸ばしていた。
幼竜の体長を測るのは、卵の大きさを測るより難しい。
「もう少しだけ、まっすぐに……あっ」
クララが記録板を片手に回り込むと、赤褐色の幼竜もその場で向きを変えた。石床を爪がこすり、小さな身体の後ろで尾が大きく曲がる。
頭から尾の先まで伸ばして測ろうとしているのに、これでは昨日より短くなってしまう。
「クララさんが動くと、ついていってしまいますね」
シスターサリアが困ったように笑った。
孵化から数日。幼竜は相変わらずクララの足元を離れたがらない。餌を食べた後も、眠る時も、彼女の長衣へ身体のどこかを触れさせている。
今もクララがしゃがむと、幼竜は当然のように膝の横へ寄ってきた。角の根元と鱗の隙間から、魔灯より淡い光がにじんでいる。
「無理に伸ばすのはやめます。同じ姿勢の時に、同じ場所を測った方が比べやすいと思います」
クララは測り紐を置き、記録板へ新しい測定方法を書き加えた。
管理室の入口で、控えめな咳払いが聞こえた。
振り返ったクララは、扉の向こうに立つ人物を見て、反射的に背筋を伸ばした。
「マティアス司教様」
教会の浄化事業で何度も顔を合わせてきた、マティアス・エルンスト司教だった。見知らぬ監察者ではない。それでも司教を前にすると、ローゼンベルク公爵家で身につけた礼が先に出る。
「ご無沙汰しております。本日は――」
裾を引かれた。
幼竜がクララの長衣を鼻先で押し、止まってしまった彼女を見上げている。
クララは言葉を切ると、幼竜が踏みそうになっていた測り紐をそっと脇へ寄せた。それから改めて、司教へ頭を下げる。
「失礼いたしました。ようこそお越しくださいました」
「構いません。今は、その子を優先してください」
マティアスの視線は幼竜へ向いていたが、物珍しさに近づこうとはしなかった。
入口の外には老神父もいる。子どもたちは別室に集められ、シスターサリアが決めた者以外は管理室へ入れないままだった。
「報告は受けました。しかし、書面だけでは分からないこともあります。まずは、これまで通りにしているところを見せてもらえますか」
「はい」
クララが記録板を取りに机へ向かう。
幼竜もすぐに立ち上がり、その後ろをついていった。
マティアスは何も言わず、その小さな足取りを最後まで見ていた。
机の上には、使い込まれた記録板が置かれていた。
新しい板ではない。竜がまだ卵だった頃から、温度や魔力の変化を書き、消してはまた書いてきた物だ。縁には細かな傷があり、紐を通した穴も少し広がっている。
マティアスは板へ目を落とした。
「孵化してから、項目を増やしたのですね」
「はい。今は、食餌量、魔石量、魔力の変化、体重、体長、睡眠、活動量を記録しています」
クララは指で順に示した。昨日から決めたばかりの項目もあるため、まだ空いている欄の方が多い。
「夜は私とサリアさんで分けています。ずっと起きて見ていると、変化があった時に気づけなくなるので」
「それはクララさんから言い出したのですよ」
シスターサリアが付け加えた。
以前のクララなら、任されたことを一人で最後まで行うのが正しいと思っていたかもしれない。けれど今は、疲れたまま世話を続ける方が危ないと分かっている。
幼竜は机の脚に鼻先を寄せた後、クララの靴の上へ顎を載せた。
マティアスの指が、記録板の下の方で止まる。
「負担先、押入商会」
「幼竜の食事に使う魔石と飼料は、押入商会が用意してくださっています。孤児院の生活用の魔石とは、保管場所も分けました」
「世話は、あなたが?」
「私が中心です。でも、私一人ではありません。夜はサリアさんが見てくださいます。子どもたちを近づけるかどうかは、神父様たちとも相談します。餌の量や作り方は、押入商会とヴァルト様に確認していただいています」
答えながら、クララは一度も記録板を抱え込まなかった。自分がすべて決めているようにも、自分には何も決められないようにも言わない。
老神父は静かに目を細めた。
「以前より、任せられることが増えました。高位聖職者となった後も、この子はここで同じ仕事を続けております」
クララは少しだけ居心地悪そうに視線を下げた。
「同じではありません。前より、見なければならないことが増えました」
その言葉に、マティアスは記録板から顔を上げた。
クララは褒められるために記録をつけているのではない。前に比べた時、何が違うのかを見落とさないためだ。
「よく見ていますね、クララ」
かつて告げられたのと似た言葉だった。
けれど今回は、クララは戸惑いながら黙り込まなかった。
「この子は、自分で具合が悪いと言えませんから」
足元の幼竜が小さく息を吐いた。淡い光が一度だけ揺れ、すぐに穏やかな明るさへ戻った。
クララとシスターサリアが幼竜を連れて管理室を出た後、老神父は小部屋の扉を閉めた。
廊下を離れていく爪音が、しばらく聞こえていた。
「どうご覧になりましたか」
老神父の問いに、マティアスはすぐには答えなかった。机に置かれた記録の写しへ目を通し、確かめるように紙の端をそろえる。
「幼竜の状態は安定しています。火属性に荒い偏りは見られず、今のところ狂暴化を疑う反応もありません」
まず返ってきたのは、老神父も待っていた答えだった。
「クララとの関係は?」
「親に近い相手として頼っているのでしょう。クララが動けば追い、触れれば緊張を解く。孵化してから、ずっと同じですか」
「ええ。クララの姿が見えなくなると探しますが、抱き上げれば落ち着きます」
マティアスはうなずいた。
「ならば、幼竜そのものについて、今すぐ教会本部へ対処を求める必要はないでしょう」
「では、何を懸念しておられるのですか」
「この事実を知った者が、どう受け取るかです」
マティアスは記録の写しを机へ置いた。
「公爵家の出で、侯爵家の養女。高位の聖職者でありながら孤児院に残り、長い間、竜卵へ魔力を与え続けた。その卵から火と光、二つの属性を持つ竜が生まれ、今はあの子から離れようとしない」
並べられた事実は、どれも間違っていない。
だからこそ老神父にも、マティアスが口にする前から、その先に置かれる言葉が分かってしまった。
「この話が広まれば、クララは聖女として扱われ得ます」
老神父はゆっくりと息を吐いた。
「聖女だと断定されるのですか」
「いいえ。少なくとも、私は断定しません」
それでも老神父は安堵できなかった。
聖女という言葉がクララへ何をもたらすか、分かっているからだ。名誉だけが届くわけではない。期待も役目も、本人が望まない視線も一緒についてくる。
「クララが竜を従えたわけではありません」
「もちろんです。命じて動かしているようには見えませんでした。親を求める幼子が、最も慣れた相手についている。今のところは、そう見るべきでしょう」
それでも、外から同じように見てもらえるとは限らない。
竜が一人の少女につき従う。そこへ光属性まで加われば、人々は分かりやすい呼び名を欲しがる。
「光属性についても、原因は分かっておりません。もともと卵が持っていたのか、火山性魔力から離れたために現れたのか、クララの魔力が関係したのか。一頭だけでは比べようがありません」
「それを、そのまま報告されますか」
「そのつもりです。分からないことを、奇跡の証明にはできません」
老神父は椅子の背へわずかに身体を預けた。
マティアスは敵ではない。教会本部へ知らせず、ここだけで隠しておける話でもない。その二つは、同時に成り立つ。
「報告の前に、クララへ話しましょう」
老神父は言った。
「あの子の知らないところで、あの子の将来を決めるような書き方はなさらないでいただきたい」
「同意します。ですから、本人に尋ねます」
マティアスはそろえた紙を机へ置いた。
「何と呼ばれたいかではなく、これからどうしたいのかを」
午後、孤児院の小さな応接室へ、足早な靴音が近づいてきた。
扉が開くより先に、クララには誰が来たのか分かった。
「クララ!」
外套を脱ぐ間も惜しんだようなエレナが、息を弾ませて入ってきた。護衛は一歩遅れて扉の外にとどまる。
「教会の方が来たと聞きました。何を言われたのですか。まさか、あなたを教会本部へ連れていくつもりでは――」
「エレナ、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか」
エレナの視線が室内を走り、クララの椅子の横で丸くなっている幼竜を捉えた。
赤褐色の鱗。小さな角。呼吸に合わせ、鱗の隙間に浮かぶ淡い光。
初めて見る竜を前に、エレナは一瞬だけ言葉を失った。
しかし、次に見たのは竜ではなくクララだった。怪我がないか確かめるように、顔から手元まで目を走らせる。
「私は無事です。この子も、今は落ち着いています」
「今は、ということは、何かあったのですか」
「まだ何も決まっていません」
それが最も正しい答えだったが、エレナの眉間のしわは深くなった。
マティアスが立ち上がる。
「ヴァルディス侯爵家へお知らせしたのは、クララさんの立場に関わる可能性があるためです。連れ出すためではありません」
「可能性という言葉で、後から決まったことにされては困ります」
声は礼を失っていない。それでも、妹としての怒りが隠れるほど穏やかでもなかった。
クララは膝の上で両手を組み、ほどいた。
以前なら、エレナが代わりに話してくれることへほっとしたかもしれない。今も心強い。けれど、任せたままにしてはいけない話だった。
「エレナ」
クララが呼ぶと、エレナはすぐに振り返った。
「私の話だから」
強い声ではなかった。
それでもエレナは口を閉じた。
「一緒に聞いてください。でも、私にも話させてください」
クララが向かいの椅子を示す。
エレナはしばらく立ったままだったが、やがて外套を護衛へ預け、クララの隣へ座った。
「分かりました。先に、あなたが話してください」
足元で、幼竜が片目を開けた。
クララがそっと背へ手を置くと、幼竜は警戒するでも命令を待つでもなく、また目を閉じた。
マティアスは二人が座るのを待ってから、手元の書類を開いた。
「まず、分かっていることからお話しします」
マティアスは、幼竜の誕生から順に説明した。
クララが数か月にわたって竜卵へ穏やかな魔力を与え、状態を記録してきたこと。孵化した竜が火と光の二属性を持つこと。今のところ、火山性魔力による荒い偏りや狂暴化の兆候は見られないこと。そして、幼竜がクララを親に近い存在として認識しているように見えること。
どれもクララが知っている事実だった。
けれど、それが教会の言葉として並べられると、自分とは別の誰かの話を聞いているようだった。
「光属性が現れた理由は分かっていません。クララ、あなたが意図して与えたものではないことも承知しています」
クララは小さく息を吐いた。
「それでも、人々があなたを聖女と呼ぶ可能性はあります」
隣で、エレナの指がわずかに動いた。
「教会は、もうそう決めたのですか」
「いいえ」
マティアスははっきり否定した。
「あなたが聖女だと決められたわけではありません。新たな職務が与えられたわけでもなく、今回の報告だけで何かが決まることもありません。ただ、光を持つ竜があなたのそばを離れない。この事実を知った人々が、あなたをそう扱う可能性があるという話です」
クララの足元で、幼竜が寝返りを打った。尾の先が靴へ触れ、そのまま止まる。
この子は、聖女など知らない。
ただ卵の頃から知っている魔力を追い、クララのそばで眠っているだけだ。
マティアスが、まっすぐクララを見た。
「クララ。あなたは、聖女になりたいですか」
答えを待つ沈黙が落ちた。
クララは膝の上の手を見つめた。
なりたいと言えば、立派なのだろうか。なりたくないと言えば、教会の人間として間違っているのだろうか。
正しい答えを探しかけて、やめた。
マティアスは、教会が望む言葉を選べとは言っていない。エレナも、代わりに答えようとはしなかった。
「先に、聞いてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「聖女と呼ばれたら、私は孤児院を出なければなりませんか」
「現時点で、そのような決定はありません」
「この子と、離されますか」
足元の幼竜へ目を向ける。
「今、引き離す計画はありません。幼竜の安定を考えても、急に離すべきではないでしょう」
そこまでは、迷いのない答えだった。
だがマティアスは、安心させるためだけの約束を続けなかった。
「ただし、竜の安全な管理について、教会や領主家が今後も何も確認しないとは申し上げられません」
「分かりました」
クララはうなずいた。
「私は、ヴァルディス侯爵家の家族のままでいられますか」
「聖女と呼ばれることがあっても、養縁が消える理由にはなりません」
「当然です」
エレナが短く言った。
クララの胸の奥にあった硬いものが、少しほどけた。
最後の問いは、声にするまで時間がかかった。
「王家にも、伝わりますか」
「教会本部へ報告すれば、いずれ王家との調整が必要になる可能性はあります。絶対に伝わらないとは、お約束できません」
部屋が静かになった。
都合のよい答えだけではない。
それでも、何も決まっていないうちから連れていかれるわけではない。クララの希望を聞かず、役目を与えると決めたわけでもなかった。
以前、真壁はクララへ、選ぶ余地を返してくれた。
今回も押入商会は、幼竜の餌代を負担しても、その代わりに所有権を求めなかった。幼竜が誰の物かを決めるより先に、何を食べさせれば無事に育つかを考えてくれた。
だからクララは、自分が望むことを口にしてもよいのだと思えた。
「私は……まだ、分かりません」
エレナがクララを見る。
「聖女になりたいのかは、まだ分かりません。でも、孤児院には残りたいです。この子のことも、これから見ていたいです」
クララは一度言葉を切り、隣に座る妹へ顔を向けた。
「それから、これまで通り、家族でいたいです」
「それは、あなたが何と呼ばれても変わりません」
今度のエレナの声に、怒りはなかった。
クララが足元へ手を伸ばすと、幼竜は目を閉じたまま、その指へ鼻先を寄せた。
なりたいものの名前は、まだ決められない。
けれど、失いたくないものなら、もう答えられた。
夕方、管理室の窓から差し込む光が細くなった頃、マティアスは報告書の下書きを読み上げた。
竜卵の来歴。クララが行ってきた魔力供給と記録。孵化した幼竜が持つ火と光の属性。現時点では狂暴化の兆候が見られないこと。幼竜がクララへ強く親和していること。
光属性の原因は不明であり、クララの働きだけに帰することはできない。その一文も、きちんと入っていた。
「教会本部へは、この内容で報告します」
机の向こうで、マティアスが紙をそろえた。
クララは膝の横で眠る幼竜を見た。
書かれた事実に間違いはない。それでも、この紙が孤児院を離れれば、知らない人たちがクララについて話し合うことになる。
その先で自分がどう扱われるのかは、まだ分からない。
「あの」
マティアスが顔を上げる。
「私が言ったことも、書いていただけますか」
「どのように書くか、確認してもよろしいですか」
「はい。私は、孤児院に残りたいです。この子の世話を続けたいです。ヴァルディス侯爵家の家族でもいたいです」
クララは指先を握った。
「それから、聖女になりたいとは、まだ言っていません」
最後の一つを口にすると、胸が少し速く鳴った。
教会から与えられるかもしれない名を、すぐに受け入れない。それは以前なら、言ってはいけないことのように思えただろう。
だがマティアスは眉をひそめなかった。
「分かりました。本人の希望として、すべて記します」
ペン先が紙を走る音がした。
シスターサリアはクララの隣に座ったまま、急かさずに待っている。老神父も、口を挟まなかった。
書き終えたマティアスは、追記した部分をもう一度読み上げた。
クララがうなずく。
報告書は折り畳まれ、封筒へ収められた。封蝋が落とされ、教会の印が押される。
特別な光は出ない。
遠くの教会本部へ一瞬で届くこともない。
その封書は、翌朝に出る教会の定期便へ預けられることになった。
机の上に置かれた封書を見ると、やはり怖かった。明日にはここを離れ、何日もかけて自分の知らない場所へ運ばれていく。
けれど、そこに書かれているのは、他人が見たクララだけではない。
孤児院にいたい。この子を育てたい。家族でいたい。そして、まだ決めていない。
自分の言葉も一緒に運ばれる。
足元で幼竜が身じろぎし、クララの靴へ頬を押しつけた。
クララはその背を撫でながら、封蝋が冷えて固まるまで見届けた。
数日後、教会本部の一室で、封を切られた報告書が回覧されていた。
窓から入る昼の光が、厚い紙の上をゆっくり移っている。
そこに書かれている少女の名は、上席の聖職者たちにも知られていた。
ローゼンベルク公爵家に生まれ、王家と教会の承認を経てヴァルディス侯爵家の養女となったクララ。高位の聖職者でありながら、孤児院に残る道を選んだ少女。
そのクララが、数か月にわたって竜卵へ魔力を与え、変化を記録していた。
卵は孵化した。
生まれた竜は火と光、二つの属性を持つ。クララから離れたがらず、親に近い対象として認識している可能性が高い。
ただし光属性が現れた原因は特定できず、クララが竜を従えている事実もない。
報告者であるマティアス司教は、その少女が聖女であると断定してはいなかった。
聖女として扱われ得る。
慎重に選ばれた一文が、事態の難しさをよく示していた。
「本人は、何と?」
一人が尋ねた。
報告書を持つ聖職者は、末尾の追記へ目を落とした。
「聖女になりたいかは、まだ分からない、と。孤児院に残り、幼竜の世話を続け、侯爵家の家族でいることを望んでいます」
「では、まず本人をここへ呼び、詳しく――」
「呼ぶのではない。こちらから行く」
別の声が、静かに遮った。
誰も異議を急がなかった。
相手は教会の庇護だけを受ける孤児ではない。侯爵家の養女であり、王家もその縁組を承認している。
しかも今、その足元には、生まれたばかりの竜がいる。
クララだけを呼びつければ幼竜から引き離すことになる。竜まで連れて来させるなら、移動と警護、周囲の安全を整えなければならない。どちらも、事実を確かめる前に選ぶ手段ではなかった。
「聖女と決めるためではありません」
最初の聖職者が確認した。
「無論だ。本人と幼竜を見ずに、呼び名だけを決めるつもりはない」
報告書が机へ戻される。
紙面には、クララが望んでいることと、まだ望むと言っていないことが、同じ重さで記されていた。
一人の上席聖職者が椅子を引いて立ち上がる。
「同行者を選定する。ヴァルディス侯爵家へ先触れを出し、旅程を整えよ」
書記が新しい紙を取り出した。
乾いたペン先がインクへ沈み、最初の一文字を書き始めた。