押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第34話 錬金術師の工房

 

 リュシアの屋台裏に入った瞬間、澪は空気が少し違うことに気づいた。

 

 焼いた肉の匂いも、煮込んだ豆の匂いも、洗い場の湿った匂いもいつも通りだった。けれど、リュシアの顔がいつもより硬い。客に向ける笑みではなく、帳面の数字と相手の腹を同時に見ている時の顔だった。

 

 澪は肩から下げていた布袋を抱え直した。中には、現代側で作った新しいラベルと、リュシアに渡す予定の帳面写しが入っている。合同会社押入商会の手続きは、どうにか通った。法人番号も出た。法人の銀行口座もカードも、管理会社の確認も、明石さんの助言も、ひとまず全部大きな問題なく済んだ。

 

 だから、今日は少し落ち着いた話になると思っていた。

 

 リュシアは、澪が腰を下ろす前に言った。

 

「澪、白い重い砂の値が上がった」

 

 澪は、手に持っていた帳面写しを落としかけた。

 

「え。値が上がった、って、何の値段ですか」

 

「だから、白い重い砂だよ。金洗い場で捨ててた、あれ」

 

 リュシアは、屋台裏の木箱に座り、指で帳面の端を叩いた。そこには、金洗い場の親方、人夫への手間賃、袋代、運び賃、次回前払いの数字が並んでいる。最初は、ほとんど誰も気にしていなかったものだ。金でも銀でもない。炉に入れても扱いにくい。重くて邪魔で、桶の底に残るから嫌われていた砂だった。

 

「前はね、捨て場から拾えばよかった。親方も、手間賃が出るなら別桶へ入れておく、くらいの顔だった。ところが、最近は違う」

 

「違う、というと」

 

「白い重い砂に買い手がついた、って話が回った。捨て砂に値がついた、リュシアの屋台裏へ運ぶと金になる、ってね」

 

 澪は、自分の膝の上に置いた手を見た。

 

 その白い重い砂から白金を分け、現代側で売った。白金は正金貨とは違い、銀行アプリの数字になった。押入商会を会社にするきっかけにもなった。けれど、異世界側から見れば、捨てていたものを急に買い始めた商人がいる、という話になる。

 

「……あたしたちのせいですか」

 

「ほとんど、そうだね」

 

「価格操作とかではなく?」

 

「澪、捨てていたものを買い始めたら、周りは捨てなくなるんだよ。値をつけて買えば、値をつけて売ろうとする。商売っていうのは、そういうものさ」

 

 リュシアの声は責めてはいなかった。ただ、当たり前のことを確認する声だった。

 

 澪は、合同会社押入商会という名前がついたせいで、自分たちの動きが少し重くなったことを感じた。自分一人の思いつきではなく、相場が動く。誰かが気づく。誰かが値をつける。

 

 その時、屋台裏の入口から、知らない女の声がした。

 

「その白い重い砂を、急に買い始めた商会というのは、ここで合っているかしら」

 

 澪は振り向いた。

 

 そこに立っていたのは、黒に近い濃紺の外套を羽織った女性だった。年は二十代半ばから三十代前半くらいに見える。革帯には細い金属筒と小瓶がいくつも留められていて、歩くたびに小さく触れ合う音がした。指先には、銀色とも灰色ともつかない粉がわずかについている。薬草の青い匂いと、鉱石を砕いた時の冷たい匂いが、その人の周りに薄くまとわりついていた。

 

 女は、澪とリュシアを順に見て、静かに名乗った。

 

「セルマ。町外れで工房を持っている錬金術師よ」

 

 リュシアは立ち上がらなかった。代わりに、目だけを細めた。

 

「錬金術師が、屋台裏に何の用だい」

 

「白金を、ゴミではない値段に変えた人に会いに来たの」

 

 白金、という言葉に、澪はほんの少し反応してしまった。

 

 しまった、と思った時には遅い。リュシアが横目で澪を見た。その目は、まだ何もしゃべるなと言っていた。

 

 セルマは、その小さな反応を見逃さなかったようだったが、すぐに責めるような顔はしなかった。むしろ、よくあることを確認するように、落ち着いた声で続けた。

 

「白金は、私たちもまったく知らないわけではないの。薬液に負けにくい器具、腐食しにくい小皿、高温でも変質しにくい細片。一部の反応に使う触媒めいた用途もある。ただ、扱いにくい。炉に入れても思うようにならないし、細工師は嫌がる。だから、少量だけ、安く買えればよかった」

 

 澪は、聞きながら小さく頷いた。

 

 異世界側にも、白金を知っている人はいた。ただ、大量に買うほどの使い道がなかっただけだ。そこへ押入商会が値をつけた。リュシアが人を動かした。すると、今まで安く買えていた錬金術師や薬師にまで影響が出る。

 

「ところが最近、白い重砂の値段が急に上がった。金洗い場の親方も、鉱石商も、急に顔色を変えたわ。白金は、何に使っているの」

 

「ええと、売っています」

 

 澪が正直に言うと、セルマは一拍置いた。

 

「誰に」

 

「遠い国の方に」

 

「遠い国では、何に使うの」

 

「……いろいろです」

 

 リュシアが、こめかみを押さえた。

 

「澪、説明が弱い」

 

「弱いのは分かってます。でも、強い説明ができません」

 

 セルマは小さく息を吐いた。苛立ちではなく、目の前のものを測るような息だった。

 

「白い重砂から、白金だけを分けたと聞いたわ。実際にやって見せて」

 

 澪は、反射的に「少しなら」と言いかけた。

 

 その瞬間、リュシアの声が鋭く入った。

 

「まず収納で分けるのは秘密だよ。ここで披露すんじゃないよ」

 

 澪は口を閉じた。

 

 リュシアは立ち上がり、澪とセルマの間に半歩だけ入った。

 

「白い重い砂の値が上がっただけでも面倒なのに、澪がどう分けるかまで知られたら、次は澪の値段がつく」

 

 澪の背中に冷たいものが走った。

 

 自分の値段。

 

 その言葉は、正金貨や銀貨とはまったく別の重さを持っていた。

 

 セルマは、そこで初めて表情を少し硬くした。探りに来た人間の顔ではなく、危険な薬瓶に栓をする職人の顔だった。

 

「リュシアの言う通りよ。それを人前で見せては駄目。白金、薬液、毒、鉱物、水、香り。そういうものを分けられる人間だと知られたら、良からぬ人に狙われる」

 

「錬金術師さんが、それを言うんですか」

 

 澪が思わず聞くと、セルマは眉を動かした。

 

「錬金術師だから言うのよ。私たちは、分けること、変えること、濃くすること、薄くすることが、金にも毒にも薬にもなると知っている。だから、見せる場所を選ぶ」

 

 リュシアはまだ警戒を解かなかったが、セルマを見る目がほんの少しだけ変わった。

 

「分かってるなら、ここではやらない」

 

「ええ。見せるなら、私の工房で。扉を閉めて、見せる範囲を絞って」

 

 澪はリュシアを見た。

 

 リュシアは、しばらく黙ってから条件を並べた。

 

「白金分離そのものは見せない。収納の核心は説明しない。見せるのは、小さな水か香草水の分離まで。セルマ以外は同席させない。扉を閉める。外へ漏らさない約束を取る」

 

 セルマは、ひとつずつ頷いた。

 

「錬金術師の工房は、秘密を扱う場所よ。私も、自分の手順を外で見せたりしない」

 

 リュシアは、澪へ向き直った。

 

「行くよ。ただし、澪。余計なことはしない。できるからって、全部見せるんじゃない」

 

「はい」

 

 澪は、返事をした後で、自分が思ったより緊張していることに気づいた。

 

 白金の話から始まったはずなのに、いつの間にか自分の収納と鑑定と、まだ名前のついていない何かが見られようとしている。

 

 リュシアが前に立ち、セルマが外套の裾を払った。

 

 澪は、その後について屋台裏を出た。

 

 

 

 

 

 セルマの工房は、表通りから一本外れた石造りの建物だった。

 

 扉は厚く、外から見ただけでは商店にも倉庫にも見える。看板は小さい。薬草を束ねた意匠と、丸い瓶の絵が彫られているだけだった。セルマは鍵を開け、澪とリュシアを中へ入れると、背後の扉を静かに閉めた。

 

 中の空気は、屋台裏とはまったく違った。

 

 薬草の青い匂い、乾いた根の甘い匂い、鉱石を砕いた粉の冷たい匂い、金属を磨いた後のようなかすかな匂いが混ざっている。壁際には小瓶が並び、黒い石、赤い砂、白い粉、銀色の粒、乾いた根がそれぞれ札をつけられていた。高い位置には換気口があり、薄い煙の跡が石壁に残っている。

 

 作業台は木ではなく、焦げ跡のある石板だった。水桶、布、秤、乳鉢、小さな蒸留器、金属製の皿が整然と置かれている。窓から差し込む光が薬瓶を通って、緑や琥珀色の影を石板に落としていた。

 

 澪は、その石板を見て少しだけ安心した。

 

 ここなら、何かをこぼしても屋台の串焼きに混ざらない。

 

 セルマは窓の外を確認し、さらに内側の薄い扉を閉めた。

 

「ここなら、少しは話せる」

 

 リュシアは、壁際の瓶をちらりと見た。

 

「随分と物が多いね」

 

「少ない方よ。危ないものは奥にある」

 

「今は出さないでおくれ」

 

「もちろん」

 

 セルマは小さな金属皿を取り、そこへ白っぽい砂の入った小袋を置こうとした。

 

 リュシアがすぐに止めた。

 

「白金はまだ早い」

 

 セルマは、手を止め、少しだけ笑った。

 

「慎重ね」

 

「澪が絡むなら慎重すぎるくらいでちょうどいい」

 

「分かったわ」

 

 セルマは白い重砂の袋を棚へ戻し、代わりに小さな器へ砂と水を入れた。指先で少し混ぜると、水はすぐに濁った。底には細かい砂が沈み、上の方には泥の薄い色が漂っている。

 

「これならどう」

 

 澪は小瓶を受け取った。

 

 透明だったはずの水が、灰色に濁っている。砂、泥、細かな葉片のようなものも混ざっていた。

 

「収納のことは、そのまま説明しない。鑑定で状態を見る。分けるイメージを作る。それだけでいい」

 

 リュシアが低く言った。

 

「はい」

 

 澪は小瓶を両手で包むように持った。収納へ入れる。小瓶ごと、意識の中で静かに置く。

 

 鑑定。

 

 水。砂。泥。細かな葉片。濁り。

 

 表示は、以前より見やすかった。白金や砂金を分けた時のような粒の感覚とは違う。これは水の中に広がっているものだ。けれど、砂は砂で、泥は泥で、水は水だった。

 

 澪は目を閉じた。

 

 泥水を静かに置くと、重いものは沈み、上の方は澄んでいく。上澄みだけを、別の小瓶へ。砂は動かさない。泥も動かさない。細かな葉片も下へ。

 

 収納の中で、小瓶の中身がほんの少しだけほどける感覚があった。

 

 澪は別の小瓶を取り出す。

 

 完全な透明ではない。けれど、元の濁った水より明らかに澄んでいた。底に砂はない。泥の色も薄い。

 

 セルマは小瓶を受け取り、光にかざした。

 

「今、濾していないわね」

 

「はい」

 

「布も、薬も、沈殿待ちもしていない」

 

「はい」

 

「それで、上澄みを抜いたの」

 

「……少しだけです」

 

 セルマは笑わなかった。

 

 小瓶を石板へ置き、澪の顔をまっすぐ見た。

 

「それ、錬金の入口よ」

 

 澪は、思わずリュシアを見た。

 

 リュシアは、少し嫌そうな顔をしている。嫌そうというより、また面倒な扉が開いた、という顔だった。

 

 

 

 

 

「水の分離で、他にも似たことをしたことがある?」

 

 セルマが尋ねた。

 

 澪は答える前に、リュシアの顔を見た。リュシアは腕を組み、黙っている。話していいとは言っていないが、止めてもいない。

 

 澪は少し迷った。

 

 そして、ミナのことを話した。

 

 孤児院で、収納の訓練をしていたこと。泥水を静かに置くと泥が沈み、上の方が透明になると教えたこと。ミナが自主練をしたこと。けれど、その時に、シスターや子どもたちが言っていた言葉まで混ざってしまったこと。

 

 お腹を壊さない水がいい。

 

 安心できる水がいい。

 

 神殿で祈った水のような水なら。

 

 そういう願いを、ミナが水を分けるイメージへ入れてしまったこと。

 

 結果として、鑑定が「聖水」と表示したこと。

 

 リュシアは苦い顔をした。

 

「澪、あれはまだ外に広げちゃいけない話だよ」

 

「はい。だから、ここだけで」

 

 セルマは、真剣に聞いていた。

 

 薬瓶の並ぶ棚の前で、彼女の表情は少しも笑っていなかった。商人が儲け話を聞く顔でも、錬金術師が珍しい材料を見つけた顔でもない。危ない現象を、どう扱うべきか考えている顔だった。

 

「それは失敗じゃないわ」

 

「え」

 

「成功しすぎたのよ。けれど、その子だけの力でもないと思う」

 

 澪は固まった。

 

 セルマは、石板の上に置かれた澄んだ水の小瓶を、指先で軽く叩いた。

 

「水を分ける技術。お腹を壊さない水が欲しいという願い。神殿で祈った水のように安心できる水、という言葉。そして、その子がいた場所」

 

「場所、ですか」

 

「孤児院は教会にあるのでしょう。毎日、祈りが積もる場所よ。病を避けたい、子どもを守りたい、清い水が欲しい。そういう願いが染み込んだ場所で、水を分けようとした」

 

 澪は、孤児院の井戸、洗い場、シスターの手、子どもたちの顔を思い出した。

 

 あそこは、ただの作業場ではなかった。食べる前に祈る声があり、熱を出した子の額へ手を当てる人がいて、お腹を壊さないようにと水を見つめる大人がいた。安心できる水がほしいという願いは、その場に毎日積もっていた。

 

 リュシアが腕を組んだまま言った。

 

「つまり、場所が悪かったってことかい」

 

「悪かったのではないわ。相性が良すぎたのよ」

 

 セルマは静かに言った。

 

「ミナという子の分離イメージ。子どもたちやシスターの願い。教会という場所に染み込んだ祈り。聖水を作る信仰の蓄積。それらが重なって、ただの清水を越えた」

 

 澪は喉を鳴らした。

 

「聖水、量産できるわけじゃないんですね」

 

 セルマは即答した。

 

「できると思われたら、一番危ないわ」

 

 その声は、これまでで一番硬かった。

 

「ただし、再現しようとしてはいけない。教会という場所、子どもを守りたい願い、その子のイメージ。全部が重なった偶然に近い成功だから。錬金は、鉄を金に変えることだけじゃない。混ざったものを分ける。濁ったものを澄ませる。香りを移す。苦味を抜く。熱で逃げるものを受け止める。そこに、場所の力や、使う者の願いが混ざることもある」

 

 リュシアは澪を見た。

 

「澪、今の聞いたね」

 

「聞きました」

 

「聖水の話は、絶対に売り物にしない」

 

「はい」

 

 澪は、心から頷いた。

 

 押入商会は商会だ。売れるものを探している。けれど、売ってはいけないものもある。できると思われるだけで危ないものもある。セルマの言葉は、重砂の値段よりずっと重かった。

 

 

 

 

 

 セルマは、棚から別の小瓶を取り出した。

 

 中には、薄く濁った緑色の水が入っている。蓋を開けると、青い香草の匂いが広がった。ただし、気持ちの良い香りだけではない。葉を潰した時の青臭さと、舌に残りそうな苦味も混ざっている。

 

「香草を潰して、水に入れたものよ。普通なら布で濾し、火にかけ、蒸留器で香りを取る。今回は、あなたがどこまでできるかを見る」

 

 澪は小瓶を受け取った。

 

 温かくはない。火にもかけていない。ただの濁った香草水だ。けれど、鑑定しようとすると、先ほどの泥水よりずっと情報が多く見える気がした。

 

 水。

 

 葉の細かなかす。

 

 青臭さ。

 

 香り。

 

 苦味。

 

 濁り。

 

 澪は、ミナの聖水事件を思い出した。

 

 清らか。安心。病気を防ぐ。そういう言葉を混ぜてはいけない。今は聖水を作るのではない。人を守る願いを水へ乗せるのではない。やることは、ただ香りを逃がさず、少しだけ分けること。

 

 澪は、香草水の小瓶を収納へ入れた。

 

 葉のかすは下へ。

 

 水は水。

 

 苦味は動かさない。

 

 香りだけを、別の小瓶へ数滴。

 

 火で温めるわけではない。湯気を集めるわけでもない。けれど、香りは水の中にある。水に広がり、青臭さや苦味と重なっている。その中から、香りとして鑑定に見えた部分だけを、ほんの少しだけ別にする。

 

 収納の中で、ぽたり、と透明な液体が落ちる感覚があった。

 

 澪は目を開けた。

 

 手の中に、小さな小瓶がある。底に、ほんの数滴だけ透明な液体が入っていた。

 

 蓋を少し開ける。

 

 香草の匂いがした。

 

 青臭さは薄い。苦味も、匂いからはあまり感じない。ただ、香りだけが、細い糸のように立ち上がった。

 

 セルマは小瓶を受け取り、鼻先へ近づけた。

 

 しばらく黙っていた。

 

「今、火を使っていないわね」

 

「使ってません」

 

「蒸留器も?」

 

「ありません」

 

「それで、香りだけを移したの?」

 

「たぶん……少しだけです」

 

 セルマは深く息を吐いた。

 

「それ、錬金よ」

 

 リュシアは澪を見た。

 

「澪、また何か増やしたね」

 

 澪は、嫌な予感を覚えた。

 

「まだ何も見てません」

 

「そういう時は、だいたい増えてるんだよ」

 

 言われて、澪は自分を鑑定した。

 

 表示が浮かぶ。

 

----------------------------------

篠原澪

 

 体力:やや低下

 集中:消耗中

 鑑定:4

 収納:5

 商才:成長中

 手仕事:成長中

 錬金:1

----------------------------------

 

 澪は固まった。

 

「……増えた」

 

「何が」

 

「錬金が、生えました」

 

 リュシアは眉を寄せた。

 

「スキルは畑の豆じゃないよ」

 

「でも、生えました」

 

 澪は、小瓶を見た。

 

 白金ではない。金でもない。砂でもない。ただの香草水から数滴の香りを分けただけだ。それなのに、鑑定結果には、はっきりと錬金:1と出ている。

 

 セルマは笑わなかった。

 

 むしろ真面目に、澪の顔と小瓶を見比べた。

 

「あなたの場合、収納と鑑定を使って錬金の入口へ来たのね。普通の錬金術師とは手順が違う」

 

「普通の錬金術師は、どうやるんですか」

 

「火、器具、薬液、時間、失敗、記録。あとは、師匠に怒られながら覚える」

 

「最後が嫌です」

 

「必要よ。危ないから」

 

 セルマは小瓶を石板へ戻した。

 

「錬金:1と言っても、何でもできるわけではない。上澄みと沈殿物を分ける。油と水を分ける。香りを少し集める。濁りを減らす。せいぜい小瓶から鍋1杯くらいまでの、小さな処理でしょう。鑑定で認識できるものほど分けやすいはずよ」

 

 澪は真剣に聞いた。

 

「できないことは」

 

「毒を完全に抜く。病原菌を完全に除去する。酒や薬を自由に作る。大量処理。未知成分の安全保証。聖水の再現。白金分離を人前でやること」

 

 最後だけ、少し声が強かった。

 

「危ないのは、できることより、できると思われることよ」

 

 リュシアも頷いた。

 

「澪、これからは“できません”も商売道具だよ」

 

「できません、を売るんですか」

 

「違う。できることを隠すために、できませんを使うんだよ」

 

 澪は、ゆっくり頷いた。

 

 押入商会は、できることを増やしてきた。収納で運ぶ。鑑定で見る。白金を分ける。現代で換金する。法人を作る。けれど、できることが増えるほど、見せてはいけないものも増えていく。

 

 セルマは腕を組み、リュシアを見た。

 

「協力はできる。白金の相場や、薬師や錬金術師が本当に困る量も知らせられる。薬液や香草水の扱いなら、私の工房で検証できる。ただし、白金の買い占めで薬師や錬金術師を困らせないこと。危険な分離実演を外でしないこと。聖水の話は絶対に広げないこと」

 

 リュシアはすぐには答えなかった。

 

 澪の方を見る。澪は、まだ数滴の香草液を見ていた。会社になったばかりの押入商会が、次は錬金術師の工房で秘密を抱えることになっている。

 

 リュシアは短く言った。

 

「澪のことを売るなら、取引は終わりだよ」

 

「売らないわ。売ったら、私も次から白金を買えなくなる」

 

 澪は、少しだけ安心した。

 

 理由は商売寄りだった。けれど、商売寄りだからこそ信じやすい。きれいな善意だけで守ると言われるより、利害が合っている方が、リュシアも判断しやすい顔をしていた。

 

「では、情報交換からだね」

 

「ええ。白金の値を上げすぎないこと。必要な者の分は残すこと。あなたたちも、売れるからといって全部を吸い上げないこと」

 

「そこはもう澪にも言ってある」

 

「言われました」

 

 澪は小さく手を挙げた。

 

「あと、錬金:1は、勝手に大きく使いません。小瓶からです」

 

「そうしなさい」

 

 セルマは、やっと少しだけ笑った。

 

「小瓶から始める錬金術師は、長生きするわ」

 

 

 

 

 

 現代側へ戻ってからも、澪の机の上には香草の小瓶が置かれていた。

 

 ほんの数滴しか入っていない。けれど、蓋を開けると、セルマの工房の匂いが少しだけ戻ってくる。薬草の青さ、石板の冷たさ、薄い煙の跡。白金の話から始まったはずなのに、手元に残ったのは香草の数滴だった。

 

 澪は帳面を開いた。

 

 白金価格上昇。

 

 セルマ。

 

 収納分離は秘密。

 

 工房でのみ実験。

 

 聖水事件=錬金の入口。

 

 ただし、場所と信仰と願いが重なった特殊例。

 

 錬金:1。

 

 小規模分離・抽出のみ。

 

 絶対に万能扱いしない。

 

 書きながら、澪はミナの顔を思い出した。あの子は、悪気があったわけではない。ただ、お腹を壊さない水がいいと思った。安心できる水がいいと思った。孤児院の教会で、子どもたちとシスターの願いに囲まれながら、澪に教わった分離のイメージを丁寧にやりすぎた。

 

 それが、聖水になった。

 

 笑い話のようで、笑い話だけではなかった。

 

 澪は小瓶を見た。

 

「収納の中で蒸留したら、錬金が生えました」

 

 声に出してみても、意味が分からない。

 

 合同会社押入商会は、法人になった。銀行口座もカードも通った。六畳間は事業所になった。それだけでも十分おかしいのに、今度は錬金術師の工房で、香草の匂いを数滴分けて、錬金:1が生えた。

 

「会社になった次に、錬金術師ですか」

 

 もちろん、小瓶は答えなかった。

 

 けれど、香草の匂いだけは、ほんの少しだけ残っていた。

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