リュシアの屋台裏に入った瞬間、澪は空気が少し違うことに気づいた。
焼いた肉の匂いも、煮込んだ豆の匂いも、洗い場の湿った匂いもいつも通りだった。けれど、リュシアの顔がいつもより硬い。客に向ける笑みではなく、帳面の数字と相手の腹を同時に見ている時の顔だった。
澪は肩から下げていた布袋を抱え直した。中には、現代側で作った新しいラベルと、リュシアに渡す予定の帳面写しが入っている。合同会社押入商会の手続きは、どうにか通った。法人番号も出た。法人の銀行口座もカードも、管理会社の確認も、明石さんの助言も、ひとまず全部大きな問題なく済んだ。
だから、今日は少し落ち着いた話になると思っていた。
リュシアは、澪が腰を下ろす前に言った。
「澪、白い重い砂の値が上がった」
澪は、手に持っていた帳面写しを落としかけた。
「え。値が上がった、って、何の値段ですか」
「だから、白い重い砂だよ。金洗い場で捨ててた、あれ」
リュシアは、屋台裏の木箱に座り、指で帳面の端を叩いた。そこには、金洗い場の親方、人夫への手間賃、袋代、運び賃、次回前払いの数字が並んでいる。最初は、ほとんど誰も気にしていなかったものだ。金でも銀でもない。炉に入れても扱いにくい。重くて邪魔で、桶の底に残るから嫌われていた砂だった。
「前はね、捨て場から拾えばよかった。親方も、手間賃が出るなら別桶へ入れておく、くらいの顔だった。ところが、最近は違う」
「違う、というと」
「白い重い砂に買い手がついた、って話が回った。捨て砂に値がついた、リュシアの屋台裏へ運ぶと金になる、ってね」
澪は、自分の膝の上に置いた手を見た。
その白い重い砂から白金を分け、現代側で売った。白金は正金貨とは違い、銀行アプリの数字になった。押入商会を会社にするきっかけにもなった。けれど、異世界側から見れば、捨てていたものを急に買い始めた商人がいる、という話になる。
「……あたしたちのせいですか」
「ほとんど、そうだね」
「価格操作とかではなく?」
「澪、捨てていたものを買い始めたら、周りは捨てなくなるんだよ。値をつけて買えば、値をつけて売ろうとする。商売っていうのは、そういうものさ」
リュシアの声は責めてはいなかった。ただ、当たり前のことを確認する声だった。
澪は、合同会社押入商会という名前がついたせいで、自分たちの動きが少し重くなったことを感じた。自分一人の思いつきではなく、相場が動く。誰かが気づく。誰かが値をつける。
その時、屋台裏の入口から、知らない女の声がした。
「その白い重い砂を、急に買い始めた商会というのは、ここで合っているかしら」
澪は振り向いた。
そこに立っていたのは、黒に近い濃紺の外套を羽織った女性だった。年は二十代半ばから三十代前半くらいに見える。革帯には細い金属筒と小瓶がいくつも留められていて、歩くたびに小さく触れ合う音がした。指先には、銀色とも灰色ともつかない粉がわずかについている。薬草の青い匂いと、鉱石を砕いた時の冷たい匂いが、その人の周りに薄くまとわりついていた。
女は、澪とリュシアを順に見て、静かに名乗った。
「セルマ。町外れで工房を持っている錬金術師よ」
リュシアは立ち上がらなかった。代わりに、目だけを細めた。
「錬金術師が、屋台裏に何の用だい」
「白金を、ゴミではない値段に変えた人に会いに来たの」
白金、という言葉に、澪はほんの少し反応してしまった。
しまった、と思った時には遅い。リュシアが横目で澪を見た。その目は、まだ何もしゃべるなと言っていた。
セルマは、その小さな反応を見逃さなかったようだったが、すぐに責めるような顔はしなかった。むしろ、よくあることを確認するように、落ち着いた声で続けた。
「白金は、私たちもまったく知らないわけではないの。薬液に負けにくい器具、腐食しにくい小皿、高温でも変質しにくい細片。一部の反応に使う触媒めいた用途もある。ただ、扱いにくい。炉に入れても思うようにならないし、細工師は嫌がる。だから、少量だけ、安く買えればよかった」
澪は、聞きながら小さく頷いた。
異世界側にも、白金を知っている人はいた。ただ、大量に買うほどの使い道がなかっただけだ。そこへ押入商会が値をつけた。リュシアが人を動かした。すると、今まで安く買えていた錬金術師や薬師にまで影響が出る。
「ところが最近、白い重砂の値段が急に上がった。金洗い場の親方も、鉱石商も、急に顔色を変えたわ。白金は、何に使っているの」
「ええと、売っています」
澪が正直に言うと、セルマは一拍置いた。
「誰に」
「遠い国の方に」
「遠い国では、何に使うの」
「……いろいろです」
リュシアが、こめかみを押さえた。
「澪、説明が弱い」
「弱いのは分かってます。でも、強い説明ができません」
セルマは小さく息を吐いた。苛立ちではなく、目の前のものを測るような息だった。
「白い重砂から、白金だけを分けたと聞いたわ。実際にやって見せて」
澪は、反射的に「少しなら」と言いかけた。
その瞬間、リュシアの声が鋭く入った。
「まず収納で分けるのは秘密だよ。ここで披露すんじゃないよ」
澪は口を閉じた。
リュシアは立ち上がり、澪とセルマの間に半歩だけ入った。
「白い重い砂の値が上がっただけでも面倒なのに、澪がどう分けるかまで知られたら、次は澪の値段がつく」
澪の背中に冷たいものが走った。
自分の値段。
その言葉は、正金貨や銀貨とはまったく別の重さを持っていた。
セルマは、そこで初めて表情を少し硬くした。探りに来た人間の顔ではなく、危険な薬瓶に栓をする職人の顔だった。
「リュシアの言う通りよ。それを人前で見せては駄目。白金、薬液、毒、鉱物、水、香り。そういうものを分けられる人間だと知られたら、良からぬ人に狙われる」
「錬金術師さんが、それを言うんですか」
澪が思わず聞くと、セルマは眉を動かした。
「錬金術師だから言うのよ。私たちは、分けること、変えること、濃くすること、薄くすることが、金にも毒にも薬にもなると知っている。だから、見せる場所を選ぶ」
リュシアはまだ警戒を解かなかったが、セルマを見る目がほんの少しだけ変わった。
「分かってるなら、ここではやらない」
「ええ。見せるなら、私の工房で。扉を閉めて、見せる範囲を絞って」
澪はリュシアを見た。
リュシアは、しばらく黙ってから条件を並べた。
「白金分離そのものは見せない。収納の核心は説明しない。見せるのは、小さな水か香草水の分離まで。セルマ以外は同席させない。扉を閉める。外へ漏らさない約束を取る」
セルマは、ひとつずつ頷いた。
「錬金術師の工房は、秘密を扱う場所よ。私も、自分の手順を外で見せたりしない」
リュシアは、澪へ向き直った。
「行くよ。ただし、澪。余計なことはしない。できるからって、全部見せるんじゃない」
「はい」
澪は、返事をした後で、自分が思ったより緊張していることに気づいた。
白金の話から始まったはずなのに、いつの間にか自分の収納と鑑定と、まだ名前のついていない何かが見られようとしている。
リュシアが前に立ち、セルマが外套の裾を払った。
澪は、その後について屋台裏を出た。
セルマの工房は、表通りから一本外れた石造りの建物だった。
扉は厚く、外から見ただけでは商店にも倉庫にも見える。看板は小さい。薬草を束ねた意匠と、丸い瓶の絵が彫られているだけだった。セルマは鍵を開け、澪とリュシアを中へ入れると、背後の扉を静かに閉めた。
中の空気は、屋台裏とはまったく違った。
薬草の青い匂い、乾いた根の甘い匂い、鉱石を砕いた粉の冷たい匂い、金属を磨いた後のようなかすかな匂いが混ざっている。壁際には小瓶が並び、黒い石、赤い砂、白い粉、銀色の粒、乾いた根がそれぞれ札をつけられていた。高い位置には換気口があり、薄い煙の跡が石壁に残っている。
作業台は木ではなく、焦げ跡のある石板だった。水桶、布、秤、乳鉢、小さな蒸留器、金属製の皿が整然と置かれている。窓から差し込む光が薬瓶を通って、緑や琥珀色の影を石板に落としていた。
澪は、その石板を見て少しだけ安心した。
ここなら、何かをこぼしても屋台の串焼きに混ざらない。
セルマは窓の外を確認し、さらに内側の薄い扉を閉めた。
「ここなら、少しは話せる」
リュシアは、壁際の瓶をちらりと見た。
「随分と物が多いね」
「少ない方よ。危ないものは奥にある」
「今は出さないでおくれ」
「もちろん」
セルマは小さな金属皿を取り、そこへ白っぽい砂の入った小袋を置こうとした。
リュシアがすぐに止めた。
「白金はまだ早い」
セルマは、手を止め、少しだけ笑った。
「慎重ね」
「澪が絡むなら慎重すぎるくらいでちょうどいい」
「分かったわ」
セルマは白い重砂の袋を棚へ戻し、代わりに小さな器へ砂と水を入れた。指先で少し混ぜると、水はすぐに濁った。底には細かい砂が沈み、上の方には泥の薄い色が漂っている。
「これならどう」
澪は小瓶を受け取った。
透明だったはずの水が、灰色に濁っている。砂、泥、細かな葉片のようなものも混ざっていた。
「収納のことは、そのまま説明しない。鑑定で状態を見る。分けるイメージを作る。それだけでいい」
リュシアが低く言った。
「はい」
澪は小瓶を両手で包むように持った。収納へ入れる。小瓶ごと、意識の中で静かに置く。
鑑定。
水。砂。泥。細かな葉片。濁り。
表示は、以前より見やすかった。白金や砂金を分けた時のような粒の感覚とは違う。これは水の中に広がっているものだ。けれど、砂は砂で、泥は泥で、水は水だった。
澪は目を閉じた。
泥水を静かに置くと、重いものは沈み、上の方は澄んでいく。上澄みだけを、別の小瓶へ。砂は動かさない。泥も動かさない。細かな葉片も下へ。
収納の中で、小瓶の中身がほんの少しだけほどける感覚があった。
澪は別の小瓶を取り出す。
完全な透明ではない。けれど、元の濁った水より明らかに澄んでいた。底に砂はない。泥の色も薄い。
セルマは小瓶を受け取り、光にかざした。
「今、濾していないわね」
「はい」
「布も、薬も、沈殿待ちもしていない」
「はい」
「それで、上澄みを抜いたの」
「……少しだけです」
セルマは笑わなかった。
小瓶を石板へ置き、澪の顔をまっすぐ見た。
「それ、錬金の入口よ」
澪は、思わずリュシアを見た。
リュシアは、少し嫌そうな顔をしている。嫌そうというより、また面倒な扉が開いた、という顔だった。
「水の分離で、他にも似たことをしたことがある?」
セルマが尋ねた。
澪は答える前に、リュシアの顔を見た。リュシアは腕を組み、黙っている。話していいとは言っていないが、止めてもいない。
澪は少し迷った。
そして、ミナのことを話した。
孤児院で、収納の訓練をしていたこと。泥水を静かに置くと泥が沈み、上の方が透明になると教えたこと。ミナが自主練をしたこと。けれど、その時に、シスターや子どもたちが言っていた言葉まで混ざってしまったこと。
お腹を壊さない水がいい。
安心できる水がいい。
神殿で祈った水のような水なら。
そういう願いを、ミナが水を分けるイメージへ入れてしまったこと。
結果として、鑑定が「聖水」と表示したこと。
リュシアは苦い顔をした。
「澪、あれはまだ外に広げちゃいけない話だよ」
「はい。だから、ここだけで」
セルマは、真剣に聞いていた。
薬瓶の並ぶ棚の前で、彼女の表情は少しも笑っていなかった。商人が儲け話を聞く顔でも、錬金術師が珍しい材料を見つけた顔でもない。危ない現象を、どう扱うべきか考えている顔だった。
「それは失敗じゃないわ」
「え」
「成功しすぎたのよ。けれど、その子だけの力でもないと思う」
澪は固まった。
セルマは、石板の上に置かれた澄んだ水の小瓶を、指先で軽く叩いた。
「水を分ける技術。お腹を壊さない水が欲しいという願い。神殿で祈った水のように安心できる水、という言葉。そして、その子がいた場所」
「場所、ですか」
「孤児院は教会にあるのでしょう。毎日、祈りが積もる場所よ。病を避けたい、子どもを守りたい、清い水が欲しい。そういう願いが染み込んだ場所で、水を分けようとした」
澪は、孤児院の井戸、洗い場、シスターの手、子どもたちの顔を思い出した。
あそこは、ただの作業場ではなかった。食べる前に祈る声があり、熱を出した子の額へ手を当てる人がいて、お腹を壊さないようにと水を見つめる大人がいた。安心できる水がほしいという願いは、その場に毎日積もっていた。
リュシアが腕を組んだまま言った。
「つまり、場所が悪かったってことかい」
「悪かったのではないわ。相性が良すぎたのよ」
セルマは静かに言った。
「ミナという子の分離イメージ。子どもたちやシスターの願い。教会という場所に染み込んだ祈り。聖水を作る信仰の蓄積。それらが重なって、ただの清水を越えた」
澪は喉を鳴らした。
「聖水、量産できるわけじゃないんですね」
セルマは即答した。
「できると思われたら、一番危ないわ」
その声は、これまでで一番硬かった。
「ただし、再現しようとしてはいけない。教会という場所、子どもを守りたい願い、その子のイメージ。全部が重なった偶然に近い成功だから。錬金は、鉄を金に変えることだけじゃない。混ざったものを分ける。濁ったものを澄ませる。香りを移す。苦味を抜く。熱で逃げるものを受け止める。そこに、場所の力や、使う者の願いが混ざることもある」
リュシアは澪を見た。
「澪、今の聞いたね」
「聞きました」
「聖水の話は、絶対に売り物にしない」
「はい」
澪は、心から頷いた。
押入商会は商会だ。売れるものを探している。けれど、売ってはいけないものもある。できると思われるだけで危ないものもある。セルマの言葉は、重砂の値段よりずっと重かった。
セルマは、棚から別の小瓶を取り出した。
中には、薄く濁った緑色の水が入っている。蓋を開けると、青い香草の匂いが広がった。ただし、気持ちの良い香りだけではない。葉を潰した時の青臭さと、舌に残りそうな苦味も混ざっている。
「香草を潰して、水に入れたものよ。普通なら布で濾し、火にかけ、蒸留器で香りを取る。今回は、あなたがどこまでできるかを見る」
澪は小瓶を受け取った。
温かくはない。火にもかけていない。ただの濁った香草水だ。けれど、鑑定しようとすると、先ほどの泥水よりずっと情報が多く見える気がした。
水。
葉の細かなかす。
青臭さ。
香り。
苦味。
濁り。
澪は、ミナの聖水事件を思い出した。
清らか。安心。病気を防ぐ。そういう言葉を混ぜてはいけない。今は聖水を作るのではない。人を守る願いを水へ乗せるのではない。やることは、ただ香りを逃がさず、少しだけ分けること。
澪は、香草水の小瓶を収納へ入れた。
葉のかすは下へ。
水は水。
苦味は動かさない。
香りだけを、別の小瓶へ数滴。
火で温めるわけではない。湯気を集めるわけでもない。けれど、香りは水の中にある。水に広がり、青臭さや苦味と重なっている。その中から、香りとして鑑定に見えた部分だけを、ほんの少しだけ別にする。
収納の中で、ぽたり、と透明な液体が落ちる感覚があった。
澪は目を開けた。
手の中に、小さな小瓶がある。底に、ほんの数滴だけ透明な液体が入っていた。
蓋を少し開ける。
香草の匂いがした。
青臭さは薄い。苦味も、匂いからはあまり感じない。ただ、香りだけが、細い糸のように立ち上がった。
セルマは小瓶を受け取り、鼻先へ近づけた。
しばらく黙っていた。
「今、火を使っていないわね」
「使ってません」
「蒸留器も?」
「ありません」
「それで、香りだけを移したの?」
「たぶん……少しだけです」
セルマは深く息を吐いた。
「それ、錬金よ」
リュシアは澪を見た。
「澪、また何か増やしたね」
澪は、嫌な予感を覚えた。
「まだ何も見てません」
「そういう時は、だいたい増えてるんだよ」
言われて、澪は自分を鑑定した。
表示が浮かぶ。
----------------------------------
篠原澪
体力:やや低下
集中:消耗中
鑑定:4
収納:5
商才:成長中
手仕事:成長中
錬金:1
----------------------------------
澪は固まった。
「……増えた」
「何が」
「錬金が、生えました」
リュシアは眉を寄せた。
「スキルは畑の豆じゃないよ」
「でも、生えました」
澪は、小瓶を見た。
白金ではない。金でもない。砂でもない。ただの香草水から数滴の香りを分けただけだ。それなのに、鑑定結果には、はっきりと錬金:1と出ている。
セルマは笑わなかった。
むしろ真面目に、澪の顔と小瓶を見比べた。
「あなたの場合、収納と鑑定を使って錬金の入口へ来たのね。普通の錬金術師とは手順が違う」
「普通の錬金術師は、どうやるんですか」
「火、器具、薬液、時間、失敗、記録。あとは、師匠に怒られながら覚える」
「最後が嫌です」
「必要よ。危ないから」
セルマは小瓶を石板へ戻した。
「錬金:1と言っても、何でもできるわけではない。上澄みと沈殿物を分ける。油と水を分ける。香りを少し集める。濁りを減らす。せいぜい小瓶から鍋1杯くらいまでの、小さな処理でしょう。鑑定で認識できるものほど分けやすいはずよ」
澪は真剣に聞いた。
「できないことは」
「毒を完全に抜く。病原菌を完全に除去する。酒や薬を自由に作る。大量処理。未知成分の安全保証。聖水の再現。白金分離を人前でやること」
最後だけ、少し声が強かった。
「危ないのは、できることより、できると思われることよ」
リュシアも頷いた。
「澪、これからは“できません”も商売道具だよ」
「できません、を売るんですか」
「違う。できることを隠すために、できませんを使うんだよ」
澪は、ゆっくり頷いた。
押入商会は、できることを増やしてきた。収納で運ぶ。鑑定で見る。白金を分ける。現代で換金する。法人を作る。けれど、できることが増えるほど、見せてはいけないものも増えていく。
セルマは腕を組み、リュシアを見た。
「協力はできる。白金の相場や、薬師や錬金術師が本当に困る量も知らせられる。薬液や香草水の扱いなら、私の工房で検証できる。ただし、白金の買い占めで薬師や錬金術師を困らせないこと。危険な分離実演を外でしないこと。聖水の話は絶対に広げないこと」
リュシアはすぐには答えなかった。
澪の方を見る。澪は、まだ数滴の香草液を見ていた。会社になったばかりの押入商会が、次は錬金術師の工房で秘密を抱えることになっている。
リュシアは短く言った。
「澪のことを売るなら、取引は終わりだよ」
「売らないわ。売ったら、私も次から白金を買えなくなる」
澪は、少しだけ安心した。
理由は商売寄りだった。けれど、商売寄りだからこそ信じやすい。きれいな善意だけで守ると言われるより、利害が合っている方が、リュシアも判断しやすい顔をしていた。
「では、情報交換からだね」
「ええ。白金の値を上げすぎないこと。必要な者の分は残すこと。あなたたちも、売れるからといって全部を吸い上げないこと」
「そこはもう澪にも言ってある」
「言われました」
澪は小さく手を挙げた。
「あと、錬金:1は、勝手に大きく使いません。小瓶からです」
「そうしなさい」
セルマは、やっと少しだけ笑った。
「小瓶から始める錬金術師は、長生きするわ」
現代側へ戻ってからも、澪の机の上には香草の小瓶が置かれていた。
ほんの数滴しか入っていない。けれど、蓋を開けると、セルマの工房の匂いが少しだけ戻ってくる。薬草の青さ、石板の冷たさ、薄い煙の跡。白金の話から始まったはずなのに、手元に残ったのは香草の数滴だった。
澪は帳面を開いた。
白金価格上昇。
セルマ。
収納分離は秘密。
工房でのみ実験。
聖水事件=錬金の入口。
ただし、場所と信仰と願いが重なった特殊例。
錬金:1。
小規模分離・抽出のみ。
絶対に万能扱いしない。
書きながら、澪はミナの顔を思い出した。あの子は、悪気があったわけではない。ただ、お腹を壊さない水がいいと思った。安心できる水がいいと思った。孤児院の教会で、子どもたちとシスターの願いに囲まれながら、澪に教わった分離のイメージを丁寧にやりすぎた。
それが、聖水になった。
笑い話のようで、笑い話だけではなかった。
澪は小瓶を見た。
「収納の中で蒸留したら、錬金が生えました」
声に出してみても、意味が分からない。
合同会社押入商会は、法人になった。銀行口座もカードも通った。六畳間は事業所になった。それだけでも十分おかしいのに、今度は錬金術師の工房で、香草の匂いを数滴分けて、錬金:1が生えた。
「会社になった次に、錬金術師ですか」
もちろん、小瓶は答えなかった。
けれど、香草の匂いだけは、ほんの少しだけ残っていた。