新事業所で最初に個室を埋めたのは、理央だった。
正確には、理央ではなく、理央が持ち込んだ段ボール箱だった。
廊下の壁際に寄せられた箱は、開封する前から重そうに見える。
側面には太いペンで、本、ゲーム、映像と書き分けてあった。
「これ、本当に全部置くんですか?」
「置きます。そのための部屋ですよね?」
理央は迷いなく答え、2箱目を自分の部屋へ運び込んだ。
異世界側の新事業所には、仕事に使う部屋のほかに、澪、真壁、理央がそれぞれ私物を置ける小部屋が用意されている。
澪の部屋は、まだ机と椅子があるだけだった。
真壁の部屋も似たようなものだ。
本人は必要な物を収納へ入れてしまうため、今後も大きくは変わらない気がする。
理央だけが、初日から床の見える面積を減らしていた。
「理央君。扉の前と通路は空けておきたまえ」
廊下を通りかかった真壁が、積まれた箱を見て足を止めた。
「空けてあります」
「今はな。残りも入れるのだろう」
「入れますけど、ちゃんと片づけます」
理央は3箱目へ手を掛けたまま答えた。
真壁は部屋の中と棚を一度見渡した。
「棚の前へ仮置きすると、最後まで仮置きのままになる。先に置き場所を決めるとよい」
「はい」
「それから、個室へ入る時は持ち主へ声を掛ける。共用の物と私物も混ぜないことだ」
「分かりました」
返事だけを聞くと、真壁は奥の部屋へ戻っていった。
理央はその背中を見送ってから、澪を振り返る。
「先に置き場所、決めた方がいいですか?」
「言われた直後ですよ」
「一応、澪さんにも聞こうと思って」
聞かれても、答えは同じだった。
澪は一番上の箱を開けた。
古い紙の匂いが、乾いた空気の中へ広がった。
中に詰まっていたのは、日焼けしたマンガだった。
巻数順に揃っている物もあれば、途中だけ抜けている物もある。
透明な袋に入れて保存するのではなく、何度も棚から抜き差しされてきた本だった。
その下から、角の擦れた攻略本が出てくる。
「ずいぶん古いですね」
「古いですよ。私が生まれる前のですから」
理央は別の箱から、家庭用ゲームのケースを取り出した。
表面には細かな傷が入り、開閉する部分だけ色が薄くなっている。
その横には、同じ頃の映像ソフトが何本も立てて入れられていた。
「お祖母ちゃんの家にあったんです。母さんのお兄さんの物で」
「お母さまのお兄さんの?」
「はい。相原和彦っていう人です」
澪の手が、攻略本の上で止まった。
相原和彦。
妙子さんの兄。
ヴァルトがゲンダイで生きていた頃の名前までは、澪も聞いていなかった。
「理央ちゃんは、会ったことがあるんですか?」
「ないです。私が生まれる前に亡くなってるので」
理央は特別な告白をした様子もなく、ゲームのケースを机へ並べていく。
「でも、お祖母ちゃんの家に行くと、おじさんの部屋へよく入ってました」
「そのまま残っていたんですね」
「はい。本棚も机も、だいたいそのままです。母さんは、私が勝手に入ると怒りましたけど」
「怒られたんですか」
「最初は。お祖母ちゃんが、壊さないならいいって言ってくれました」
理央は笑いながら、日焼けした1冊を棚へ入れた。
子どもの手で扱っていたのなら、何冊かは危ない目にも遭ったはずだ。
けれど、目の前にある本は古びていても、乱雑には扱われていない。
「マンガは、あの部屋でかなり読みました。ゲームも、動く物はだいたいやりました」
「動かない物もあったんですね」
「ありました。電源を入れても何も映らないのとか、途中で止まるのとか。母さんには捨てた方がいいって言われたんですけど、お祖母ちゃんが残してて」
理央はケースを持ち上げ、背の文字を確かめた。
「これは動きます。難しくて、攻略本がないと途中で詰みますけど」
「全部、遊んだんですか?」
「全部ではないです。古すぎて、本体を出すところから大変な物もあるので」
それでも、遊べる物は試したらしい。
理央は古いマンガの山を前にした時より、ゲームの話をする時の方が言葉が早かった。
「おじさんが書いたメモも残ってるんですよ。この攻略本とか」
差し出された本を開くと、途中のページに細い字で短い書き込みがあった。
印刷された数字の横に線が引かれ、その上へ別の数字が書かれている。
「間違ってたんでしょうか」
「たぶん。実際にやると、書いてある通りにならないので。子どもの頃は、攻略本なのに間違えるんだって、かなり腹が立ちました」
「理央ちゃんが書いたんじゃないんですね」
「字が違います。母さんに見せたら、おじさんの字だって」
澪は書き込みをもう一度見た。
ヴァルトが書いた文字なのだろう。
そう思って眺めても、そこに今のヴァルトらしい何かが見えるわけではない。
ただ、印刷の誤りをそのままにせず、自分で直しているところだけは、少し本人らしかった。
「どんな人だったかは、母さんとお祖母ちゃんから聞いただけです」
理央が本を受け取り、折れないよう棚へ戻す。
「でも、趣味はたぶん合ったと思います」
「そうかもしれませんね」
澪は、知っているとは言えなかった。
今のヴァルトもマンガを読み、知らない26年分をまとめて渡されれば、寝る時間を削って読み続ける。
趣味が合うどころではない。
その趣味の元が、同じ人だった。
棚の上段へ古いマンガが並ぶと、理央は空いている場所へ自分のノートを差し込んだ。
「それも、こちらへ置くんですか?」
「はい。小説の方です。家に置く分とは別ですけど」
何冊も使われたノートの角は、古い本ほどではないが、すでに丸くなっている。
表紙には付箋が何枚か挟まり、開けばすぐ書けるよう、鉛筆も一緒に置かれた。
机の端には、布へ包んだ彫金道具が並ぶ。
伯父の本を飾るための部屋ではなかった。
古い攻略本を開き、自分のノートへ何かを書き、必要になれば机で金属を削る。
理央がこれから使う部屋だった。
「お祖母さまが残していた物を、持ってきても大丈夫だったんですか?」
「聞きました。全部は駄目ですけど、好きだった物を少しならって」
少し、という量ではない気もする。
ただし、元の部屋にはこれより多く残っているらしい。
「お祖母さまは、今もお元気なんですか?」
「元気です。母さんと一緒に、今も会いに行ってます」
「お祖父さまも?」
理央の手が、一度止まった。
「祖父は、もう亡くなってます」
「そうだったんですね」
澪は、それ以上尋ねなかった。
理央も次の本を持ち上げ、空いている場所へ収めた。
会話はそこで終わった。
けれど、澪の中には残った。
相原和彦が亡くなった時、父親も母親も生きていた。
今は、父親がいない。
母親は、まだ生きている。
ヴァルトへ伝えるべきだと思った。
そう思っても、理央が本を並べている横で話せることではない。
「あ、もう行かないと」
理央が時計を見て、机の上の道具へ布を掛けた。
別の部屋で頼まれている仕事があるらしい。
床に残っていた箱を壁際へ寄せ、扉の前が空いていることを確認する。
真壁に言われたことは、きちんと守っていた。
「澪さん、あとで棚を見てもらえますか。重い本を上に置きすぎてないか、ちょっと心配で」
「分かりました」
「棚に出してある物は、見ても大丈夫です。箱の中はまだ駄目ですけど」
「分かりました」
「お願いします」
理央は部屋を出ると、廊下の奥へ駆けかけた。
数歩で思い出したように速度を落とし、そのまま早足で角を曲がる。
足音が遠ざかった後も、澪はしばらく部屋の入口に立っていた。
書き込みのある攻略本の隣に、理央の新しいノートが並んでいた。
少し後、澪は新事業所へ来たヴァルトを、真壁が待つ部屋へ案内していた。
今日は澪と真壁との打ち合わせで来てもらっている。
ヴァルトは資料を抱え、澪の後ろを歩いていた。
理央の部屋の前を通るまでは。
後ろから続いていた足音が止まった。
澪は一歩先で振り返る。
ヴァルトは開いた扉の向こうを見ていた。
日焼けしたマンガの背表紙。
角の擦れたゲームのケース。
棚の端に置かれた攻略本。
そのどれを見ているのか、最初は分からなかった。
「ヴァルトさん?」
呼びかけても、返事はなかった。
視線が、棚の1箇所から動かない。
「理央ちゃんの部屋です。棚を見てほしいと頼まれていて、出してある物は見ても大丈夫だそうです」
そこでようやく、ヴァルトが澪を見た。
「少し、よろしいですか」
「はい」
ヴァルトは資料を澪へ預け、部屋へ入った。
箱へは触れない。
棚の前まで進み、背表紙を1冊ずつ読むように視線を動かす。
やがて、理央が澪へ見せた攻略本の前で手が止まった。
ヴァルトは両手で本を抜き、表紙の右下へ親指を置いた。
そこには、斜めに走る細い傷がある。
「これは、私のものです」
懐かしい、とは言わなかった。
驚いた、とも言わなかった。
ただ、自分の物だと確かめるように口にした。
「その傷を、覚えているんですか?」
「ええ。机から落としました。角から落ちて、表紙がずれたのです」
ヴァルトは本を開いた。
何枚かページをめくり、迷わず途中で止める。
印刷された数字へ線を引き、別の数字を書き加えたページだった。
「ここも?」
「私が書きました。記載が間違っていたので」
澪は古い書き込みを見た。
「ヴァルトさん」
「はい」
「ゲンダイにいた頃のお名前って、相原和彦さんだったんですか?」
ヴァルトの指が止まった。
「……ええ」
短い返事だった。
誰なのかは、もう分かっていた。
そこへ今、名前が付いただけだった。
ヴァルトの指が、古い文字のすぐ横で止まる。
今のヴァルトが書く文字とは違う。
けれど、27年前に書いた本人には、自分の字だと分かるらしい。
相原和彦が亡くなったのは、2000年の正月だ。
その時に部屋へ残した本を、本人が2027年の異世界で手にしていた。
「理央ちゃんも、この書き込みを知っていました。実際に遊ぶと、本の通りにならなかったって」
「遊んだのですか」
ヴァルトの声が、初めて少し早くなった。
「はい。子どもの頃から、お祖母さまの家にある部屋へ何度も入っていたそうです。マンガも読んで、動くゲームはだいたいやったと」
「そうですか」
ヴァルトは開いたページへ目を戻した。
「どんな人だったかは、お母さまとお祖母さまから聞いただけだそうです。でも、趣味はたぶん合ったと思う、と」
返事はなかった。
ヴァルトは本を閉じたが、棚へは戻さなかった。
その隣にある理央のノートを見る。
表紙から付箋が何枚も出ている。
机には、布を掛けられた彫金道具がある。
ノートを開こうとはしなかった。
古い本と、今使われている物を見比べるだけだった。
澪は何を言えばよいのか分からなかった。
相原和彦が残した物は、本人の知らないところで理央の手に渡り、何度も読まれ、遊ばれていた。
その隣には今、理央の小説と彫金が置かれている。
「理央ちゃんは、お祖母さまへ許可をもらって、特に好きだった物を持ってきたそうです」
「母が、残していたのですね」
「部屋も、だいたいそのままだと聞きました」
ヴァルトは本の背へ目を落とした。
指先が、傷のある場所へもう一度戻る。
「ヴァルトさん」
父親のことを、今伝えるべきなのか。
このまま打ち合わせへ案内し、後で話すこともできる。
けれど、母親が部屋を残していると聞いた直後に、父親のことだけ伏せるのも違う気がした。
「理央ちゃんから、ご家族のことも少し聞きました」
ヴァルトが顔を上げた。
「お祖父さまは、もう亡くなっているそうです」
返事が来るまで、少し間が空いた。
「……父は、もういないのですね」
「はい」
「いつですか」
「そこまでは聞いていません」
ヴァルトはそれ以上尋ねなかった。
本を持つ手も、姿勢も崩れない。
ただ、棚を見ていた目が、しばらくどこにも合わなかった。
澪は口を挟まずに待った。
廊下の奥では、誰かが木箱を動かしている。
隣の部屋からは紙を揃える音がした。
仕事を始めたばかりの事業所は、いつもどおり動いている。
ヴァルトはやがて、短く尋ねた。
「母は」
それだけ言って、一度言葉を切る。
「理央君の祖母は、今も元気なのですか」
「はい。今もご健在です。妙子さんと理央ちゃんも、会いに行っているそうです」
「そうですか」
ヴァルトの視線が、手元の本へ戻った。
父親には、もう会えない。
母親は、まだ生きている。
澪の中でも、その2つは並んだ。
だからといって、会えますね、とは言えなかった。
母親にとって、相原和彦は27年前に亡くなった息子だ。
顔も名前も違うヴァルトが現れ、自分がその息子だと告げる。
それを喜ばしい再会の一言で済ませることはできない。
「ヴァルトさん」
「はい」
「理央ちゃんには、話してもいいですか」
ヴァルトは澪を見た。
「ヴァルトさんが、前世で相原和彦さんだったことです」
すぐには答えなかった。
理央のノートへ視線を向け、次に自分の本を見る。
理央が知っているのは、仕事で会うヴァルトだ。
会ったことのない伯父ではない。
事実を知れば、今ある関係まで変わるかもしれない。
澪は答えを急かさなかった。
「理央君には、話してください」
やがて、ヴァルトが言った。
「分かりました」
「ただし、私を伯父として受け入れるよう、彼女へ求めないでください」
声はいつもと変わらなかった。
「理央君にとって私は、これまで仕事で会ってきたヴァルトです。急に伯父として振る舞うつもりはありません」
「事実だけを話します」
「お願いします」
ヴァルトは一度、開いた扉の方を見た。
その先に理央はいない。
「妙子と母には、まだ話さないでください」
「はい」
「まず、理央君に知ってもらいたい。知った後のことは、彼女の考えを聞いてからにします」
「分かりました。理央ちゃんがどうしたいかも、その時に聞きます」
ヴァルトは頷き、手にしていた攻略本を元の場所へ戻した。
ヴァルトが手を離す。
書き込みの残る攻略本と、付箋を挟んだ理央のノートが、また隣り合った。