押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第341話 伯父さんの部屋

 

 新事業所で最初に個室を埋めたのは、理央だった。

 

 正確には、理央ではなく、理央が持ち込んだ段ボール箱だった。

 

 廊下の壁際に寄せられた箱は、開封する前から重そうに見える。

 側面には太いペンで、本、ゲーム、映像と書き分けてあった。

 

「これ、本当に全部置くんですか?」

 

「置きます。そのための部屋ですよね?」

 

 理央は迷いなく答え、2箱目を自分の部屋へ運び込んだ。

 

 異世界側の新事業所には、仕事に使う部屋のほかに、澪、真壁、理央がそれぞれ私物を置ける小部屋が用意されている。

 

 澪の部屋は、まだ机と椅子があるだけだった。

 

 真壁の部屋も似たようなものだ。

 本人は必要な物を収納へ入れてしまうため、今後も大きくは変わらない気がする。

 

 理央だけが、初日から床の見える面積を減らしていた。

 

「理央君。扉の前と通路は空けておきたまえ」

 

 廊下を通りかかった真壁が、積まれた箱を見て足を止めた。

 

「空けてあります」

 

「今はな。残りも入れるのだろう」

 

「入れますけど、ちゃんと片づけます」

 

 理央は3箱目へ手を掛けたまま答えた。

 

 真壁は部屋の中と棚を一度見渡した。

 

「棚の前へ仮置きすると、最後まで仮置きのままになる。先に置き場所を決めるとよい」

 

「はい」

 

「それから、個室へ入る時は持ち主へ声を掛ける。共用の物と私物も混ぜないことだ」

 

「分かりました」

 

 返事だけを聞くと、真壁は奥の部屋へ戻っていった。

 

 理央はその背中を見送ってから、澪を振り返る。

 

「先に置き場所、決めた方がいいですか?」

 

「言われた直後ですよ」

 

「一応、澪さんにも聞こうと思って」

 

 聞かれても、答えは同じだった。

 

 澪は一番上の箱を開けた。

 

 古い紙の匂いが、乾いた空気の中へ広がった。

 

 中に詰まっていたのは、日焼けしたマンガだった。

 巻数順に揃っている物もあれば、途中だけ抜けている物もある。

 

 透明な袋に入れて保存するのではなく、何度も棚から抜き差しされてきた本だった。

 

 その下から、角の擦れた攻略本が出てくる。

 

「ずいぶん古いですね」

 

「古いですよ。私が生まれる前のですから」

 

 理央は別の箱から、家庭用ゲームのケースを取り出した。

 表面には細かな傷が入り、開閉する部分だけ色が薄くなっている。

 

 その横には、同じ頃の映像ソフトが何本も立てて入れられていた。

 

「お祖母ちゃんの家にあったんです。母さんのお兄さんの物で」

 

「お母さまのお兄さんの?」

 

「はい。相原和彦っていう人です」

 

 澪の手が、攻略本の上で止まった。

 

 相原和彦。

 

 妙子さんの兄。

 

 ヴァルトがゲンダイで生きていた頃の名前までは、澪も聞いていなかった。

 

「理央ちゃんは、会ったことがあるんですか?」

 

「ないです。私が生まれる前に亡くなってるので」

 

 理央は特別な告白をした様子もなく、ゲームのケースを机へ並べていく。

 

「でも、お祖母ちゃんの家に行くと、おじさんの部屋へよく入ってました」

 

「そのまま残っていたんですね」

 

「はい。本棚も机も、だいたいそのままです。母さんは、私が勝手に入ると怒りましたけど」

 

「怒られたんですか」

 

「最初は。お祖母ちゃんが、壊さないならいいって言ってくれました」

 

 理央は笑いながら、日焼けした1冊を棚へ入れた。

 

 子どもの手で扱っていたのなら、何冊かは危ない目にも遭ったはずだ。

 けれど、目の前にある本は古びていても、乱雑には扱われていない。

 

「マンガは、あの部屋でかなり読みました。ゲームも、動く物はだいたいやりました」

 

「動かない物もあったんですね」

 

「ありました。電源を入れても何も映らないのとか、途中で止まるのとか。母さんには捨てた方がいいって言われたんですけど、お祖母ちゃんが残してて」

 

 理央はケースを持ち上げ、背の文字を確かめた。

 

「これは動きます。難しくて、攻略本がないと途中で詰みますけど」

 

「全部、遊んだんですか?」

 

「全部ではないです。古すぎて、本体を出すところから大変な物もあるので」

 

 それでも、遊べる物は試したらしい。

 

 理央は古いマンガの山を前にした時より、ゲームの話をする時の方が言葉が早かった。

 

「おじさんが書いたメモも残ってるんですよ。この攻略本とか」

 

 差し出された本を開くと、途中のページに細い字で短い書き込みがあった。

 

 印刷された数字の横に線が引かれ、その上へ別の数字が書かれている。

 

「間違ってたんでしょうか」

 

「たぶん。実際にやると、書いてある通りにならないので。子どもの頃は、攻略本なのに間違えるんだって、かなり腹が立ちました」

 

「理央ちゃんが書いたんじゃないんですね」

 

「字が違います。母さんに見せたら、おじさんの字だって」

 

 澪は書き込みをもう一度見た。

 

 ヴァルトが書いた文字なのだろう。

 

 そう思って眺めても、そこに今のヴァルトらしい何かが見えるわけではない。

 ただ、印刷の誤りをそのままにせず、自分で直しているところだけは、少し本人らしかった。

 

「どんな人だったかは、母さんとお祖母ちゃんから聞いただけです」

 

 理央が本を受け取り、折れないよう棚へ戻す。

 

「でも、趣味はたぶん合ったと思います」

 

「そうかもしれませんね」

 

 澪は、知っているとは言えなかった。

 

 今のヴァルトもマンガを読み、知らない26年分をまとめて渡されれば、寝る時間を削って読み続ける。

 

 趣味が合うどころではない。

 

 その趣味の元が、同じ人だった。

 

 棚の上段へ古いマンガが並ぶと、理央は空いている場所へ自分のノートを差し込んだ。

 

「それも、こちらへ置くんですか?」

 

「はい。小説の方です。家に置く分とは別ですけど」

 

 何冊も使われたノートの角は、古い本ほどではないが、すでに丸くなっている。

 表紙には付箋が何枚か挟まり、開けばすぐ書けるよう、鉛筆も一緒に置かれた。

 

 机の端には、布へ包んだ彫金道具が並ぶ。

 

 伯父の本を飾るための部屋ではなかった。

 

 古い攻略本を開き、自分のノートへ何かを書き、必要になれば机で金属を削る。

 

 理央がこれから使う部屋だった。

 

「お祖母さまが残していた物を、持ってきても大丈夫だったんですか?」

 

「聞きました。全部は駄目ですけど、好きだった物を少しならって」

 

 少し、という量ではない気もする。

 

 ただし、元の部屋にはこれより多く残っているらしい。

 

「お祖母さまは、今もお元気なんですか?」

 

「元気です。母さんと一緒に、今も会いに行ってます」

 

「お祖父さまも?」

 

 理央の手が、一度止まった。

 

「祖父は、もう亡くなってます」

 

「そうだったんですね」

 

 澪は、それ以上尋ねなかった。

 

 理央も次の本を持ち上げ、空いている場所へ収めた。

 

 会話はそこで終わった。

 

 けれど、澪の中には残った。

 

 相原和彦が亡くなった時、父親も母親も生きていた。

 

 今は、父親がいない。

 

 母親は、まだ生きている。

 

 ヴァルトへ伝えるべきだと思った。

 

 そう思っても、理央が本を並べている横で話せることではない。

 

「あ、もう行かないと」

 

 理央が時計を見て、机の上の道具へ布を掛けた。

 

 別の部屋で頼まれている仕事があるらしい。

 

 床に残っていた箱を壁際へ寄せ、扉の前が空いていることを確認する。

 真壁に言われたことは、きちんと守っていた。

 

「澪さん、あとで棚を見てもらえますか。重い本を上に置きすぎてないか、ちょっと心配で」

 

「分かりました」

 

「棚に出してある物は、見ても大丈夫です。箱の中はまだ駄目ですけど」

 

「分かりました」

 

「お願いします」

 

 理央は部屋を出ると、廊下の奥へ駆けかけた。

 

 数歩で思い出したように速度を落とし、そのまま早足で角を曲がる。

 

 足音が遠ざかった後も、澪はしばらく部屋の入口に立っていた。

 

 書き込みのある攻略本の隣に、理央の新しいノートが並んでいた。

 

 

 

 

 少し後、澪は新事業所へ来たヴァルトを、真壁が待つ部屋へ案内していた。

 

 今日は澪と真壁との打ち合わせで来てもらっている。

 

 ヴァルトは資料を抱え、澪の後ろを歩いていた。

 

 理央の部屋の前を通るまでは。

 

 後ろから続いていた足音が止まった。

 

 澪は一歩先で振り返る。

 

 ヴァルトは開いた扉の向こうを見ていた。

 

 日焼けしたマンガの背表紙。

 

 角の擦れたゲームのケース。

 

 棚の端に置かれた攻略本。

 

 そのどれを見ているのか、最初は分からなかった。

 

「ヴァルトさん?」

 

 呼びかけても、返事はなかった。

 

 視線が、棚の1箇所から動かない。

 

「理央ちゃんの部屋です。棚を見てほしいと頼まれていて、出してある物は見ても大丈夫だそうです」

 

 そこでようやく、ヴァルトが澪を見た。

 

「少し、よろしいですか」

 

「はい」

 

 ヴァルトは資料を澪へ預け、部屋へ入った。

 

 箱へは触れない。

 

 棚の前まで進み、背表紙を1冊ずつ読むように視線を動かす。

 

 やがて、理央が澪へ見せた攻略本の前で手が止まった。

 

 ヴァルトは両手で本を抜き、表紙の右下へ親指を置いた。

 

 そこには、斜めに走る細い傷がある。

 

「これは、私のものです」

 

 懐かしい、とは言わなかった。

 

 驚いた、とも言わなかった。

 

 ただ、自分の物だと確かめるように口にした。

 

「その傷を、覚えているんですか?」

 

「ええ。机から落としました。角から落ちて、表紙がずれたのです」

 

 ヴァルトは本を開いた。

 

 何枚かページをめくり、迷わず途中で止める。

 

 印刷された数字へ線を引き、別の数字を書き加えたページだった。

 

「ここも?」

 

「私が書きました。記載が間違っていたので」

 

 澪は古い書き込みを見た。

 

「ヴァルトさん」

 

「はい」

 

「ゲンダイにいた頃のお名前って、相原和彦さんだったんですか?」

 

 ヴァルトの指が止まった。

 

「……ええ」

 

 短い返事だった。

 

 誰なのかは、もう分かっていた。

 

 そこへ今、名前が付いただけだった。

 

 ヴァルトの指が、古い文字のすぐ横で止まる。

 

 今のヴァルトが書く文字とは違う。

 

 けれど、27年前に書いた本人には、自分の字だと分かるらしい。

 

 相原和彦が亡くなったのは、2000年の正月だ。

 

 その時に部屋へ残した本を、本人が2027年の異世界で手にしていた。

 

「理央ちゃんも、この書き込みを知っていました。実際に遊ぶと、本の通りにならなかったって」

 

「遊んだのですか」

 

 ヴァルトの声が、初めて少し早くなった。

 

「はい。子どもの頃から、お祖母さまの家にある部屋へ何度も入っていたそうです。マンガも読んで、動くゲームはだいたいやったと」

 

「そうですか」

 

 ヴァルトは開いたページへ目を戻した。

 

「どんな人だったかは、お母さまとお祖母さまから聞いただけだそうです。でも、趣味はたぶん合ったと思う、と」

 

 返事はなかった。

 

 ヴァルトは本を閉じたが、棚へは戻さなかった。

 

 その隣にある理央のノートを見る。

 

 表紙から付箋が何枚も出ている。

 机には、布を掛けられた彫金道具がある。

 

 ノートを開こうとはしなかった。

 

 古い本と、今使われている物を見比べるだけだった。

 

 澪は何を言えばよいのか分からなかった。

 

 相原和彦が残した物は、本人の知らないところで理央の手に渡り、何度も読まれ、遊ばれていた。

 

 その隣には今、理央の小説と彫金が置かれている。

 

「理央ちゃんは、お祖母さまへ許可をもらって、特に好きだった物を持ってきたそうです」

 

「母が、残していたのですね」

 

「部屋も、だいたいそのままだと聞きました」

 

 ヴァルトは本の背へ目を落とした。

 

 指先が、傷のある場所へもう一度戻る。

 

「ヴァルトさん」

 

 父親のことを、今伝えるべきなのか。

 

 このまま打ち合わせへ案内し、後で話すこともできる。

 

 けれど、母親が部屋を残していると聞いた直後に、父親のことだけ伏せるのも違う気がした。

 

「理央ちゃんから、ご家族のことも少し聞きました」

 

 ヴァルトが顔を上げた。

 

「お祖父さまは、もう亡くなっているそうです」

 

 返事が来るまで、少し間が空いた。

 

「……父は、もういないのですね」

 

「はい」

 

「いつですか」

 

「そこまでは聞いていません」

 

 ヴァルトはそれ以上尋ねなかった。

 

 本を持つ手も、姿勢も崩れない。

 

 ただ、棚を見ていた目が、しばらくどこにも合わなかった。

 

 澪は口を挟まずに待った。

 

 廊下の奥では、誰かが木箱を動かしている。

 隣の部屋からは紙を揃える音がした。

 

 仕事を始めたばかりの事業所は、いつもどおり動いている。

 

 ヴァルトはやがて、短く尋ねた。

 

「母は」

 

 それだけ言って、一度言葉を切る。

 

「理央君の祖母は、今も元気なのですか」

 

「はい。今もご健在です。妙子さんと理央ちゃんも、会いに行っているそうです」

 

「そうですか」

 

 ヴァルトの視線が、手元の本へ戻った。

 

 父親には、もう会えない。

 

 母親は、まだ生きている。

 

 澪の中でも、その2つは並んだ。

 

 だからといって、会えますね、とは言えなかった。

 

 母親にとって、相原和彦は27年前に亡くなった息子だ。

 

 顔も名前も違うヴァルトが現れ、自分がその息子だと告げる。

 

 それを喜ばしい再会の一言で済ませることはできない。

 

「ヴァルトさん」

 

「はい」

 

「理央ちゃんには、話してもいいですか」

 

 ヴァルトは澪を見た。

 

「ヴァルトさんが、前世で相原和彦さんだったことです」

 

 すぐには答えなかった。

 

 理央のノートへ視線を向け、次に自分の本を見る。

 

 理央が知っているのは、仕事で会うヴァルトだ。

 

 会ったことのない伯父ではない。

 

 事実を知れば、今ある関係まで変わるかもしれない。

 

 澪は答えを急かさなかった。

 

「理央君には、話してください」

 

 やがて、ヴァルトが言った。

 

「分かりました」

 

「ただし、私を伯父として受け入れるよう、彼女へ求めないでください」

 

 声はいつもと変わらなかった。

 

「理央君にとって私は、これまで仕事で会ってきたヴァルトです。急に伯父として振る舞うつもりはありません」

 

「事実だけを話します」

 

「お願いします」

 

 ヴァルトは一度、開いた扉の方を見た。

 

 その先に理央はいない。

 

「妙子と母には、まだ話さないでください」

 

「はい」

 

「まず、理央君に知ってもらいたい。知った後のことは、彼女の考えを聞いてからにします」

 

「分かりました。理央ちゃんがどうしたいかも、その時に聞きます」

 

 ヴァルトは頷き、手にしていた攻略本を元の場所へ戻した。

 

 ヴァルトが手を離す。

 

 書き込みの残る攻略本と、付箋を挟んだ理央のノートが、また隣り合った。

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