昼を過ぎても、新事業所の中はいつもと変わらず動いていた。
廊下を行き来する足音に、紙を揃える音が混じる。
どこかで木箱を下ろしたらしく、床から低い振動が伝わってきた。
ヴァルトは共用の机に資料を広げ、澪と確認を続けていた。
机の端には、一つだけ空いた席がある。
澪から、理央が自分と話したいと言っていることは聞いている。
何を尋ねられるかも、見当はついていた。
廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づく。
「おはようございます」
理央は仕事場へ入ると、先に周囲へ挨拶した。
肩へ掛けた鞄を下ろし、いつものように自分の机へ向かう。
「おはようございます、理央君」
「おはようございます」
返事はすぐに来た。
しかし理央は鞄から手を離し、ヴァルトを見た。
昨日までと同じ呼び方をしたはずだった。
理央の側では、もう同じではないらしい。
「……それ、ずっと同じでしたよね」
「何がです?」
「理央君、って」
「ええ」
理央は何かを言おうとして、周囲へ目を向けた。
仕事中の人間がこちらを見ているわけではない。
それでも、ここで続ける話ではないと判断したようだった。
「少し、話していいですか」
「もちろんです」
「二人で」
最後の言葉は、澪へ向けられた。
澪は席を立たなかった。
「私はここにいます。終わったら声を掛けてください」
「はい」
理央は自分の小部屋へ向かい、開いた扉の横でヴァルトを待った。
ヴァルトが小部屋へ入る。
棚には、昨日見た古いマンガとゲームが並んでいた。
その隣には、付箋の挟まったノートが増えている。
理央は廊下を一度見てから扉を閉めた。
扉が閉じると、廊下の音が一段遠くなった。
消えたわけではない。
紙をめくる音も、誰かが箱を運ぶ足音も、薄い扉の向こうで続いている。
理央は机の前の椅子へ座った。
ヴァルトも勧められた椅子へ腰を下ろす。
立ったままでは、理央を上から見下ろす形になる。
机を挟んで同じ高さになっても、理央は落ち着かなかった。
指が机の縁へ触れ、離れ、また同じ場所へ戻る。
「何で黙ってたんですか?」
遠回しな言葉はなかった。
「申し訳ありません」
「謝ってほしいだけじゃないです」
「分かっています」
「澪さんから、勝手に話せなかったって聞きました。それも分かります」
理央の指が止まる。
「でも、私がこっちへ来るようになってからも、ずっと言わなかったですよね」
「ええ」
言い逃れはできなかった。
「初めてお会いした時は、理央君がなぜ異世界にいるのか分かりませんでした」
理央が顔を上げる。
「異世界のことをどこまで知っているのかも、誰と来たのかも分からなかった」
ヴァルトは、理央の目を見て続けた。
「そこで私だけが家族のことを話し、理央君から事情を聞き出すべきではないと考えました」
「最初は、ですよね」
「そうです」
「その後は?」
ヴァルトは、すぐには答えなかった。
最初に声を掛けなかった理由なら、安全のためだったと言える。
何度も会い、同じ仕事をし、理央がすべてを知る側へ来てからも黙っていた理由は、それだけでは足りない。
「理央君にとって、私は先にヴァルトでした」
「それは、そうです」
「相原和彦として、妙子の兄だった記憶はあります」
その名前を自分の口から出すと、理央の視線がわずかに動いた。
「ですが、理央君が生まれてからの17年間、私は伯父として一日も一緒に生きていません」
「だから、関係ないと思ったんですか」
「いいえ」
それだけは、迷わず否定した。
「関係があると思ったから、言えなくなりました」
「どういう意味ですか」
「事実を伝えれば、今までの関係まで変わります」
それはヴァルトだけで決めてよい変化ではなかった。
「理央君が望むかどうかに関係なく、私を伯父として意識させてしまう」
「それを、私のために黙ってたって言うんですか?」
「言いません」
理央は少し意外そうに口を閉じた。
「理央君へ負わせたくなかったのは事実です。しかし、それだけなら、本人へ選んでもらえばよかった」
ヴァルトは机の上へ目を落とした。
付箋の挟まったノートには触れない。
「関係が変わった時、どうなるか分からなかったのは私も同じです」
「じゃあ、怖かったんですか」
17歳らしい、容赦のない聞き方だった。
長い言葉を重ねても、そこから逃げることはできない。
「……そうだったのかもしれません」
「私に拒まれるのが?」
「それもあります」
「ほかにも?」
「伯父として受け入れられた時、自分がどう振る舞えばよいのかも分かりませんでした」
理央はすぐに納得した顔をしなかった。
「ヴァルトさんでも、分かんないことあるんですね」
「家族のことまで、正しい答えを持っているわけではありません」
「それ、もっと早く言ってほしかったです」
「はい」
「黙ってたこともですけど。分かんないってことも」
「申し訳ありません」
今度の謝罪には、理央も何も返さなかった。
机の縁を押さえていた指だけが、少し緩んだ。
「最初に私を見た時は?」
理央はまだ机の向こうに座っていた。
「何を思ったんですか」
「最初は、なぜここにいるのだろうと思いました」
「そこですか?」
「写真で見た妙子の娘が、異世界の共同商館にいたのです。先に理由を考えるでしょう」
理央は眉を寄せた。
「もう少し、何かないんですか」
「何かとは?」
「姪だ、とか」
「そう考えたのは、本人だと確認した後です」
共同商館の地下で初めて理央を見た時、ヴァルトは足を止めた。
集合写真の中で、妙子と修の間に立っていた少女に似ていた。
しかし、写真で見ただけの姪が異世界にいるはずはない。
似ているだけかもしれない。
連れてこられたのなら、家族の名を出すことで余計な危険を招く可能性もあった。
「理央君が拘束されていないか、怯えていないかを見ました。周囲に誰がいるのかも確認しました」
「私、そんなに危なそうでした?」
「危なくないと分かるまでは、確認します」
「やっぱり、そこからなんですね」
不満そうではあったが、声の硬さが少し抜けた。
それは今の理央も知っているヴァルトだった。
「最後に鑑定して、飯島理央と確認しました」
「私、鑑定されてたんですか?」
「ええ」
「全然気づきませんでした」
「気づかせる必要はありませんでしたから」
理央は何か言いたそうにしたが、結局、口元を少し曲げただけだった。
「名前を確認して、何を思ったんですか」
ヴァルトは、あの時見た理央の顔を思い出した。
写真の中では、妙子に腕を引かれ、少しだけ不満そうに家族の間へ立っていた。
目の前にいた本人は、知らない場所に迷い込んだ少女ではない。
澪や真壁と話し、何をするかを自分で決めようとしていた。
「妙子の娘が、もう17歳なのだと」
「普通ですね」
「私にとっては、普通ではありません」
理央の目がヴァルトへ戻る。
「私の記憶にいる妙子は、まだ成人式の前でした。その妹が結婚し、娘を育てていた」
その間の時間を、自分は何一つ知らない。
「私がいなくなった後も、家族の時間は続いていたのだと実感しました」
理央は机の縁から手を離した。
「あの時、私を見て、一瞬止まりましたよね」
「覚えていましたか」
「変な顔してたので」
「そのような顔をしていましたか」
「してました。すぐ普通に戻りましたけど」
すぐに戻したつもりだった。
理央には見られていたらしい。
「名前を呼ぼうとは思わなかったんですか」
「思いました」
「母さんのことも聞きたかった?」
「ええ」
「それでも、聞かなかった」
「事情を知らない理央君へ、私だけが知っている名前を出すことになります」
妙子は元気なのか。
父と母はどうしているのか。
尋ねたいことは、あの時からいくつもあった。
「家族の情報を出せば、理央君は私を信用していなくても、答えようとしたかもしれません」
「答えたと思います」
「だから聞けませんでした」
理央はその答えを、自分の中で一度確かめるように黙った。
「それは……分かります」
全部ではなく、最初の時だけを認める言い方だった。
「じゃあ、火山の時は?」
次の問いが来ることも、ヴァルトには分かっていた。
「ドラコラプトルのブレスを、私が収納し損ねた時です」
「覚えています」
「あの時は、何を考えてたんですか」
理央は答えから目を逸らさないように、まっすぐこちらを見ていた。
火山の乾いた熱気が、記憶の奥から戻る。
ドラコラプトルが口を開き、炎を吐いた。
理央が展開した防衛収納の靄が、前へ広がる。
靄へ入った炎は次々に消えたが、反応がわずかに遅れた。
端を抜けた火炎へ、ヴァルトは結界を差し込んだ。
「結界を張るのは当然でした」
理央の表情が、わずかに固くなる。
「理央君でなくても、同じことをしました」
「やっぱり、仕事だったんですか」
「それもあります」
「それも?」
「あの場で守るべき相手がいれば、誰であっても結界を張りました。理央君だけを守り、ほかの者なら見捨てたわけではありません」
家族だったから守った、とだけ答える方が簡単だったかもしれない。
しかし、それではあの場で一緒にいた澪や真壁まで、理央とは違う相手として扱うことになる。
「ただ」
理央は続きを待った。
「間に合ってくれとは思いました」
「結界が?」
「理央君が、です」
収納が炎を取り込むまで。
結界が間へ入るまで。
次の判断へ進めるまで。
「いつもより強く、そう思っていました」
理央の視線が一度、机へ落ちた。
「姪だったから?」
「はい」
そこを否定すれば、今度こそ嘘になる。
「仲間だから守ったのも、姪だから無事でいてほしかったのも、どちらも本当です」
理央は黙ったまま、指先で机の木目をなぞった。
「私、あの時は知らなかったです」
「ええ」
「ヴァルトさんが、そんなこと考えてるの」
「伝えていませんでしたから」
「そこです」
理央はすぐに返した。
「言わなかったら、私には分かりません」
「はい」
「守ってくれたことは、ちゃんと分かってます。でも、その理由まで勝手に分かれっていうのは無理です」
「その通りです」
火山で間に合った結界は、今の問いには何の役にも立たなかった。
答えるには、言葉を使うしかない。
理央は椅子から立ち、棚の前へ移った。
擦れた背表紙へ指を滑らせ、昨日ヴァルトが手に取った攻略本の前で止める。
「私、かなり勝手に使ってますけど」
「何をです?」
「おじさんの物です。マンガも読んだし、ゲームもやりました」
「そう聞いています」
「怒らないんですか」
「なぜです?」
「勝手に入って、勝手に使ってたので」
「私が取りに戻る予定はありませんでしたから」
「それは、そうですけど」
理央は納得しにくそうな顔をした。
自分が死んだ後の部屋をどう扱うべきだったかと問われても、ヴァルトにも答えはない。
ただ、捨てられずに残った物が、使われないまま古びただけではなかった。
マンガは読まれた。
動くゲームは遊ばれた。
攻略本の間違いには、理央が改めて腹を立てた。
「理央君が使ってくれたのなら、何も問題はありません」
「本当に?」
「ええ」
「まだ向こうに、かなりありますよ」
「全部こちらへ運ぶのですか」
「全部じゃないです」
返事が妙に早い。
「昨日も同じことを言っていましたね」
「澪さんから聞いたんですか?」
「ええ。棚がもう一段必要になるかもしれませんね」
「やっぱり、そう思います?」
ほんの少しだけ、いつもの理央が戻った。
攻略本の隣には、付箋を何枚も挟んだ理央のノートがある。
机には布を掛けた彫金道具が置かれ、使ったばかりの細かな金属片が受け皿に残っていた。
ここは、相原和彦の物を並べておくだけの部屋ではない。
理央が本を読み、文章を書き、金属を削るための部屋だった。
「お祖母ちゃんが、ずっと残してたんです」
理央は攻略本を抜かず、背表紙に触れたまま言った。
「部屋も、本も、ゲームも。壊さないなら入っていいって言ったのも、お祖母ちゃんです」
「母が」
口から出た呼び方に、理央が振り返る。
祖母と母。
二人が別々に呼んでいる相手は、同じ人だった。
「お祖父ちゃんのことも聞いたんですよね」
「ええ」
父が亡くなったことを、ヴァルトは昨日初めて知った。
いつ亡くなったのかは、まだ分からない。
2000年の正月には、確かに生きていた。
自分の死後、父がどれだけ生きたのかさえ、まだ知らない。
「父には、もう会えません」
言葉にすると、その事実が昨日より深く沈んだ。
「お祖母ちゃんは元気です。今も母さんと会いに行ってます」
「澪さんから聞きました」
「会いたいですか」
ヴァルトは答えられなかった。
理央が、棚から手を離す。
「お祖母ちゃんに」
「分かっています」
「じゃあ、会いたいですか」
会えるのか。
会ってよいのか。
顔も名前も違う男が、亡くなった息子の記憶を持って現れた時、母は何を思うのか。
考え始めれば、答えは遠ざかる。
「会っていいかじゃなくて、会いたいかです」
理央が、考える範囲を切り分けた。
可能かどうかも、正しいかどうかも、今は聞かれていない。
ヴァルトは眼鏡の位置を直した。
時間を稼ぐための動きだと、自分でも分かっていた。
「……会いたいです」
声に出したのは、一度だけだった。
理央は何も挟まず、その答えを受け取った。
「ただ、会ってよいのかは分かりません」
「私も、どうしたらいいかはまだ分かんないです」
「理央君が決めることでもありません」
「でも、関係ない人でもないですよね」
「ええ」
「お祖母ちゃんは、私のお祖母ちゃんです。ヴァルトさんのお母さんでもある」
理央はまだ、その関係を口にするたびに確かめているようだった。
「だから考えます。でも、母さんにも、お祖母ちゃんにも、まだ言いません」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることですか?」
「急がずにいてくれることには」
「会いたいのに?」
「会いたいからです」
理央は眉を寄せた。
「難しいです」
「私にも難しいです」
「そこは同じなんですね」
「そうですね」
すぐに会わせるとも、会わせないとも、二人は決めなかった。
理央はもう一度、ヴァルトの顔を見た。
今度は質問を探すのではなく、何かを確かめるように長く見ている。
「どうしました?」
ヴァルトが尋ねると、理央は視線を逸らした。
「いや……」
耳の辺りが、わずかに赤くなっている。
「おじさんって言われても、全然おじさんに見えないなって」
「それは、私にもどうしようもありません」
「分かってます」
理央は一歩近づいた。
それから、なぜか止まった。
ヴァルトの今の姿は、祖母の家にある写真の相原和彦とは違う。
眼鏡を掛け、黒っぽい髪を整えた、異世界の人間だ。
服もゲンダイの会社員が着る物ではない。
「何か、確かめたいことがあるのですか」
「あります」
「どうぞ」
「言うことじゃないです」
理央がもう一歩近づく。
今度は、さっきより長く止まった。
「ちょっと待ってください」
「待っています」
「なんか、すごい恥ずかしいんですけど」
「なぜです?」
「見た目ですよ」
「見た目」
「顔も違うし、普通に外国の人みたいだし。おじさんだと思って近づくと、途中で違うってなるんです」
「では、無理に近づく必要はありません」
「そういう意味じゃないです」
理央はすぐに否定した。
後ろへ下がる様子もない。
何をしようとしているのか、そこでようやくヴァルトにも分かった。
分かったからこそ、自分から腕を伸ばすことはできなかった。
伯父として受け入れろとは求めない。
昨日、自分で澪へ頼んだことだった。
理央は一度だけ深く息を吸った。
「考えると無理です」
「何がです?」
「この距離です」
答えると同時に、理央が最後の一歩を詰めた。
理央の額が胸元へ当たり、両腕がヴァルトの背中へ回った。
勢いで抱きついた本人も、すぐには顔を上げなかった。
ヴァルトの両腕は動かなかった。
これは、理央が驚いてぶつかったのではない。
それでも、抱き返してよいのかを決められない。
昨日まで、理央は自分を仕事で会う異世界の人間として見ていた。
今日、前世の血縁を知ったからといって、こちらから伯父の立場を取ることはできない。
「……おじさんなんだから、これくらい変じゃないですよね」
胸元から、理央の声がした。
「変ではありません」
「じゃあ、固まらないでください」
「申し訳ありません」
「そういう時に謝るの、変です」
「では、どう答えればよいのでしょう」
「知りません」
理央の腕は離れなかった。
ヴァルトはようやく片腕を上げた。
手のひらを理央の背へ触れさせ、そこでまた止める。
「私、まだ全部分かったわけじゃないです」
「ええ」
「黙ってたことも、まだちょっと怒ってます」
「それで構いません」
「これからも、ヴァルトさんって呼ぶと思います」
「はい」
「急に家族っぽくできるかも、分かんないです」
「無理に変える必要はありません」
理央の声は、背へ回した腕ほど強くなかった。
今ある関係を捨てて、会ったことのない伯父へ置き換える必要はない。
ヴァルトも、それを望んでいなかった。
「でも」
理央の腕に、少し力が加わる。
「いないことにはしたくないです」
ヴァルトの指が、旅装の布地の上で止まった。
「写真の中だけの人だと思ってました。部屋に物だけ残ってて、もう会えない人だって」
「理央君」
「でも、いたんですよね」
理央が顔を上げないまま尋ねる。
「私のおじさん、いるんですよね」
「……はい」
理央の問いに、今の自分として答えた。
ヴァルトはもう片方の腕も上げた。
理央の肩と背へ回す。
触れるだけだった腕へ、理央がもう一度力を込めた。
今度はヴァルトも、はっきり抱き返した。
腕の中にいるのは、妙子ではない。
理央だった。
分かっているのに、遠い記憶が戻った。
大晦日の日、成人式の着物を着た妙子を、自分が写真に撮った。
妙子は慣れない袖を気にしながら立っていた。
父親と色のことで喧嘩をした後も、自分で選んだ着物を譲らなかった。
カメラを向けると、妙子はまだ少し怒った顔でこちらを見た。
その妹が、自分の知らない時間の中で母親になった。
写真の中にいた17歳の娘が、今は自分の腕の中にいる。
理央を、妙子の代わりだと思ったのではない。
声も、顔も、こちらへ遠慮なく問いを投げるところも違う。
妙子の時間が続いた先に、理央がいる。
それを、初めて腕の重さとして知った。
「……妙子」
名前が、考えるより先に漏れた。
理央の肩がわずかに動く。
ヴァルトは腕の中の少女を見下ろした。
「……理央」
目の奥に熱が集まった。
抑えようとした時には、一滴が眼鏡の下から落ちていた。
理央の肩へ染みる。
理央は顔を上げなかった。
何も言わず、背中へ回した腕を強くした。
ヴァルトも離さなかった。
扉の向こうでは、誰かが廊下を歩いている。
足音は部屋の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかった。
「……おじさん」
理央の声が、胸元で聞こえた。
ヴァルトの腕が一瞬止まる。
「まだ、慣れないですけど」
「はい」
短く答えるのが精いっぱいだった。
しばらくして、理央の腕から先に力が抜けた。
ヴァルトも腕を解く。
理央は半歩下がると、ようやく顔を上げた。
目元が少し赤い。
泣いてはいないと言われれば、そう見えなくもなかった。
その理央が、ヴァルトの顔を見て目を見開く。
「ヴァルトさんも泣くんですね」
「……泣くことくらいあります」
「初めて見ました」
「忘れてください」
「無理です」
即答だった。
理央は照れを隠すように棚へ向き直り、攻略本の背へ指を置いた。
「お祖母ちゃんのこと、私も考えます」
「はい」
「すぐ決めるんじゃなくて、どうしたらいいか」
「ありがとうございます」
「それと、母さんに話す時もです」
ヴァルトは眼鏡を外し、指で目元を押さえた。
「妙子へ話す時は、私もここにいます」
「逃げないですよね?」
「逃げません」
「なら、いいです」
理央は机へ戻り、置いてあった筆記具のケースを持ち上げた。
これ以上ここにいれば、仕事へ戻るきっかけを失うと考えたようだった。
「澪さんにも、話したって言ってきます」
「分かりました」
理央は扉を開ける。
廊下の仕事音が、急に近くなった。
「またあとで、ヴァルトさん」
「はい、理央君」
理央が出ていくと、扉は完全には閉められなかった。
開いた隙間から、昼の明るさと人の声が入ってくる。
棚には、書き込みの残る古い攻略本がある。
その隣には、付箋を挟んだ理央のノートが並んでいた。