押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第343話 何で黙ってたんですか?

 

 昼を過ぎても、新事業所の中はいつもと変わらず動いていた。

 

 廊下を行き来する足音に、紙を揃える音が混じる。

 

 どこかで木箱を下ろしたらしく、床から低い振動が伝わってきた。

 

 ヴァルトは共用の机に資料を広げ、澪と確認を続けていた。

 

 机の端には、一つだけ空いた席がある。

 

 澪から、理央が自分と話したいと言っていることは聞いている。

 

 何を尋ねられるかも、見当はついていた。

 

 廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づく。

 

「おはようございます」

 

 理央は仕事場へ入ると、先に周囲へ挨拶した。

 

 肩へ掛けた鞄を下ろし、いつものように自分の机へ向かう。

 

「おはようございます、理央君」

 

「おはようございます」

 

 返事はすぐに来た。

 

 しかし理央は鞄から手を離し、ヴァルトを見た。

 

 昨日までと同じ呼び方をしたはずだった。

 

 理央の側では、もう同じではないらしい。

 

「……それ、ずっと同じでしたよね」

 

「何がです?」

 

「理央君、って」

 

「ええ」

 

 理央は何かを言おうとして、周囲へ目を向けた。

 

 仕事中の人間がこちらを見ているわけではない。

 

 それでも、ここで続ける話ではないと判断したようだった。

 

「少し、話していいですか」

 

「もちろんです」

 

「二人で」

 

 最後の言葉は、澪へ向けられた。

 

 澪は席を立たなかった。

 

「私はここにいます。終わったら声を掛けてください」

 

「はい」

 

 理央は自分の小部屋へ向かい、開いた扉の横でヴァルトを待った。

 

 

 

 ヴァルトが小部屋へ入る。

 

 棚には、昨日見た古いマンガとゲームが並んでいた。

 

 その隣には、付箋の挟まったノートが増えている。

 

 理央は廊下を一度見てから扉を閉めた。

 

 扉が閉じると、廊下の音が一段遠くなった。

 

 消えたわけではない。

 

 紙をめくる音も、誰かが箱を運ぶ足音も、薄い扉の向こうで続いている。

 

 理央は机の前の椅子へ座った。

 

 ヴァルトも勧められた椅子へ腰を下ろす。

 

 立ったままでは、理央を上から見下ろす形になる。

 

 机を挟んで同じ高さになっても、理央は落ち着かなかった。

 

 指が机の縁へ触れ、離れ、また同じ場所へ戻る。

 

「何で黙ってたんですか?」

 

 遠回しな言葉はなかった。

 

「申し訳ありません」

 

「謝ってほしいだけじゃないです」

 

「分かっています」

 

「澪さんから、勝手に話せなかったって聞きました。それも分かります」

 

 理央の指が止まる。

 

「でも、私がこっちへ来るようになってからも、ずっと言わなかったですよね」

 

「ええ」

 

 言い逃れはできなかった。

 

「初めてお会いした時は、理央君がなぜ異世界にいるのか分かりませんでした」

 

 理央が顔を上げる。

 

「異世界のことをどこまで知っているのかも、誰と来たのかも分からなかった」

 

 ヴァルトは、理央の目を見て続けた。

 

「そこで私だけが家族のことを話し、理央君から事情を聞き出すべきではないと考えました」

 

「最初は、ですよね」

 

「そうです」

 

「その後は?」

 

 ヴァルトは、すぐには答えなかった。

 

 最初に声を掛けなかった理由なら、安全のためだったと言える。

 

 何度も会い、同じ仕事をし、理央がすべてを知る側へ来てからも黙っていた理由は、それだけでは足りない。

 

「理央君にとって、私は先にヴァルトでした」

 

「それは、そうです」

 

「相原和彦として、妙子の兄だった記憶はあります」

 

 その名前を自分の口から出すと、理央の視線がわずかに動いた。

 

「ですが、理央君が生まれてからの17年間、私は伯父として一日も一緒に生きていません」

 

「だから、関係ないと思ったんですか」

 

「いいえ」

 

 それだけは、迷わず否定した。

 

「関係があると思ったから、言えなくなりました」

 

「どういう意味ですか」

 

「事実を伝えれば、今までの関係まで変わります」

 

 それはヴァルトだけで決めてよい変化ではなかった。

 

「理央君が望むかどうかに関係なく、私を伯父として意識させてしまう」

 

「それを、私のために黙ってたって言うんですか?」

 

「言いません」

 

 理央は少し意外そうに口を閉じた。

 

「理央君へ負わせたくなかったのは事実です。しかし、それだけなら、本人へ選んでもらえばよかった」

 

 ヴァルトは机の上へ目を落とした。

 

 付箋の挟まったノートには触れない。

 

「関係が変わった時、どうなるか分からなかったのは私も同じです」

 

「じゃあ、怖かったんですか」

 

 17歳らしい、容赦のない聞き方だった。

 

 長い言葉を重ねても、そこから逃げることはできない。

 

「……そうだったのかもしれません」

 

「私に拒まれるのが?」

 

「それもあります」

 

「ほかにも?」

 

「伯父として受け入れられた時、自分がどう振る舞えばよいのかも分かりませんでした」

 

 理央はすぐに納得した顔をしなかった。

 

「ヴァルトさんでも、分かんないことあるんですね」

 

「家族のことまで、正しい答えを持っているわけではありません」

 

「それ、もっと早く言ってほしかったです」

 

「はい」

 

「黙ってたこともですけど。分かんないってことも」

 

「申し訳ありません」

 

 今度の謝罪には、理央も何も返さなかった。

 

 机の縁を押さえていた指だけが、少し緩んだ。

 

「最初に私を見た時は?」

 

 理央はまだ机の向こうに座っていた。

 

「何を思ったんですか」

 

「最初は、なぜここにいるのだろうと思いました」

 

「そこですか?」

 

「写真で見た妙子の娘が、異世界の共同商館にいたのです。先に理由を考えるでしょう」

 

 理央は眉を寄せた。

 

「もう少し、何かないんですか」

 

「何かとは?」

 

「姪だ、とか」

 

「そう考えたのは、本人だと確認した後です」

 

 共同商館の地下で初めて理央を見た時、ヴァルトは足を止めた。

 

 集合写真の中で、妙子と修の間に立っていた少女に似ていた。

 

 しかし、写真で見ただけの姪が異世界にいるはずはない。

 

 似ているだけかもしれない。

 

 連れてこられたのなら、家族の名を出すことで余計な危険を招く可能性もあった。

 

「理央君が拘束されていないか、怯えていないかを見ました。周囲に誰がいるのかも確認しました」

 

「私、そんなに危なそうでした?」

 

「危なくないと分かるまでは、確認します」

 

「やっぱり、そこからなんですね」

 

 不満そうではあったが、声の硬さが少し抜けた。

 

 それは今の理央も知っているヴァルトだった。

 

「最後に鑑定して、飯島理央と確認しました」

 

「私、鑑定されてたんですか?」

 

「ええ」

 

「全然気づきませんでした」

 

「気づかせる必要はありませんでしたから」

 

 理央は何か言いたそうにしたが、結局、口元を少し曲げただけだった。

 

「名前を確認して、何を思ったんですか」

 

 ヴァルトは、あの時見た理央の顔を思い出した。

 

 写真の中では、妙子に腕を引かれ、少しだけ不満そうに家族の間へ立っていた。

 

 目の前にいた本人は、知らない場所に迷い込んだ少女ではない。

 

 澪や真壁と話し、何をするかを自分で決めようとしていた。

 

「妙子の娘が、もう17歳なのだと」

 

「普通ですね」

 

「私にとっては、普通ではありません」

 

 理央の目がヴァルトへ戻る。

 

「私の記憶にいる妙子は、まだ成人式の前でした。その妹が結婚し、娘を育てていた」

 

 その間の時間を、自分は何一つ知らない。

 

「私がいなくなった後も、家族の時間は続いていたのだと実感しました」

 

 理央は机の縁から手を離した。

 

「あの時、私を見て、一瞬止まりましたよね」

 

「覚えていましたか」

 

「変な顔してたので」

 

「そのような顔をしていましたか」

 

「してました。すぐ普通に戻りましたけど」

 

 すぐに戻したつもりだった。

 

 理央には見られていたらしい。

 

「名前を呼ぼうとは思わなかったんですか」

 

「思いました」

 

「母さんのことも聞きたかった?」

 

「ええ」

 

「それでも、聞かなかった」

 

「事情を知らない理央君へ、私だけが知っている名前を出すことになります」

 

 妙子は元気なのか。

 

 父と母はどうしているのか。

 

 尋ねたいことは、あの時からいくつもあった。

 

「家族の情報を出せば、理央君は私を信用していなくても、答えようとしたかもしれません」

 

「答えたと思います」

 

「だから聞けませんでした」

 

 理央はその答えを、自分の中で一度確かめるように黙った。

 

「それは……分かります」

 

 全部ではなく、最初の時だけを認める言い方だった。

 

「じゃあ、火山の時は?」

 

 次の問いが来ることも、ヴァルトには分かっていた。

 

「ドラコラプトルのブレスを、私が収納し損ねた時です」

 

「覚えています」

 

「あの時は、何を考えてたんですか」

 

 理央は答えから目を逸らさないように、まっすぐこちらを見ていた。

 

 火山の乾いた熱気が、記憶の奥から戻る。

 

 ドラコラプトルが口を開き、炎を吐いた。

 

 理央が展開した防衛収納の靄が、前へ広がる。

 

 靄へ入った炎は次々に消えたが、反応がわずかに遅れた。

 

 端を抜けた火炎へ、ヴァルトは結界を差し込んだ。

 

「結界を張るのは当然でした」

 

 理央の表情が、わずかに固くなる。

 

「理央君でなくても、同じことをしました」

 

「やっぱり、仕事だったんですか」

 

「それもあります」

 

「それも?」

 

「あの場で守るべき相手がいれば、誰であっても結界を張りました。理央君だけを守り、ほかの者なら見捨てたわけではありません」

 

 家族だったから守った、とだけ答える方が簡単だったかもしれない。

 

 しかし、それではあの場で一緒にいた澪や真壁まで、理央とは違う相手として扱うことになる。

 

「ただ」

 

 理央は続きを待った。

 

「間に合ってくれとは思いました」

 

「結界が?」

 

「理央君が、です」

 

 収納が炎を取り込むまで。

 

 結界が間へ入るまで。

 

 次の判断へ進めるまで。

 

「いつもより強く、そう思っていました」

 

 理央の視線が一度、机へ落ちた。

 

「姪だったから?」

 

「はい」

 

 そこを否定すれば、今度こそ嘘になる。

 

「仲間だから守ったのも、姪だから無事でいてほしかったのも、どちらも本当です」

 

 理央は黙ったまま、指先で机の木目をなぞった。

 

「私、あの時は知らなかったです」

 

「ええ」

 

「ヴァルトさんが、そんなこと考えてるの」

 

「伝えていませんでしたから」

 

「そこです」

 

 理央はすぐに返した。

 

「言わなかったら、私には分かりません」

 

「はい」

 

「守ってくれたことは、ちゃんと分かってます。でも、その理由まで勝手に分かれっていうのは無理です」

 

「その通りです」

 

 火山で間に合った結界は、今の問いには何の役にも立たなかった。

 

 答えるには、言葉を使うしかない。

 

 理央は椅子から立ち、棚の前へ移った。

 

 擦れた背表紙へ指を滑らせ、昨日ヴァルトが手に取った攻略本の前で止める。

 

「私、かなり勝手に使ってますけど」

 

「何をです?」

 

「おじさんの物です。マンガも読んだし、ゲームもやりました」

 

「そう聞いています」

 

「怒らないんですか」

 

「なぜです?」

 

「勝手に入って、勝手に使ってたので」

 

「私が取りに戻る予定はありませんでしたから」

 

「それは、そうですけど」

 

 理央は納得しにくそうな顔をした。

 

 自分が死んだ後の部屋をどう扱うべきだったかと問われても、ヴァルトにも答えはない。

 

 ただ、捨てられずに残った物が、使われないまま古びただけではなかった。

 

 マンガは読まれた。

 

 動くゲームは遊ばれた。

 

 攻略本の間違いには、理央が改めて腹を立てた。

 

「理央君が使ってくれたのなら、何も問題はありません」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

「まだ向こうに、かなりありますよ」

 

「全部こちらへ運ぶのですか」

 

「全部じゃないです」

 

 返事が妙に早い。

 

「昨日も同じことを言っていましたね」

 

「澪さんから聞いたんですか?」

 

「ええ。棚がもう一段必要になるかもしれませんね」

 

「やっぱり、そう思います?」

 

 ほんの少しだけ、いつもの理央が戻った。

 

 攻略本の隣には、付箋を何枚も挟んだ理央のノートがある。

 

 机には布を掛けた彫金道具が置かれ、使ったばかりの細かな金属片が受け皿に残っていた。

 

 ここは、相原和彦の物を並べておくだけの部屋ではない。

 

 理央が本を読み、文章を書き、金属を削るための部屋だった。

 

「お祖母ちゃんが、ずっと残してたんです」

 

 理央は攻略本を抜かず、背表紙に触れたまま言った。

 

「部屋も、本も、ゲームも。壊さないなら入っていいって言ったのも、お祖母ちゃんです」

 

「母が」

 

 口から出た呼び方に、理央が振り返る。

 

 祖母と母。

 

 二人が別々に呼んでいる相手は、同じ人だった。

 

「お祖父ちゃんのことも聞いたんですよね」

 

「ええ」

 

 父が亡くなったことを、ヴァルトは昨日初めて知った。

 

 いつ亡くなったのかは、まだ分からない。

 

 2000年の正月には、確かに生きていた。

 

 自分の死後、父がどれだけ生きたのかさえ、まだ知らない。

 

「父には、もう会えません」

 

 言葉にすると、その事実が昨日より深く沈んだ。

 

「お祖母ちゃんは元気です。今も母さんと会いに行ってます」

 

「澪さんから聞きました」

 

「会いたいですか」

 

 ヴァルトは答えられなかった。

 

 理央が、棚から手を離す。

 

「お祖母ちゃんに」

 

「分かっています」

 

「じゃあ、会いたいですか」

 

 会えるのか。

 

 会ってよいのか。

 

 顔も名前も違う男が、亡くなった息子の記憶を持って現れた時、母は何を思うのか。

 

 考え始めれば、答えは遠ざかる。

 

「会っていいかじゃなくて、会いたいかです」

 

 理央が、考える範囲を切り分けた。

 

 可能かどうかも、正しいかどうかも、今は聞かれていない。

 

 ヴァルトは眼鏡の位置を直した。

 

 時間を稼ぐための動きだと、自分でも分かっていた。

 

「……会いたいです」

 

 声に出したのは、一度だけだった。

 

 理央は何も挟まず、その答えを受け取った。

 

「ただ、会ってよいのかは分かりません」

 

「私も、どうしたらいいかはまだ分かんないです」

 

「理央君が決めることでもありません」

 

「でも、関係ない人でもないですよね」

 

「ええ」

 

「お祖母ちゃんは、私のお祖母ちゃんです。ヴァルトさんのお母さんでもある」

 

 理央はまだ、その関係を口にするたびに確かめているようだった。

 

「だから考えます。でも、母さんにも、お祖母ちゃんにも、まだ言いません」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われることですか?」

 

「急がずにいてくれることには」

 

「会いたいのに?」

 

「会いたいからです」

 

 理央は眉を寄せた。

 

「難しいです」

 

「私にも難しいです」

 

「そこは同じなんですね」

 

「そうですね」

 

 すぐに会わせるとも、会わせないとも、二人は決めなかった。

 

 理央はもう一度、ヴァルトの顔を見た。

 

 今度は質問を探すのではなく、何かを確かめるように長く見ている。

 

「どうしました?」

 

 ヴァルトが尋ねると、理央は視線を逸らした。

 

「いや……」

 

 耳の辺りが、わずかに赤くなっている。

 

「おじさんって言われても、全然おじさんに見えないなって」

 

「それは、私にもどうしようもありません」

 

「分かってます」

 

 理央は一歩近づいた。

 

 それから、なぜか止まった。

 

 ヴァルトの今の姿は、祖母の家にある写真の相原和彦とは違う。

 

 眼鏡を掛け、黒っぽい髪を整えた、異世界の人間だ。

 

 服もゲンダイの会社員が着る物ではない。

 

「何か、確かめたいことがあるのですか」

 

「あります」

 

「どうぞ」

 

「言うことじゃないです」

 

 理央がもう一歩近づく。

 

 今度は、さっきより長く止まった。

 

「ちょっと待ってください」

 

「待っています」

 

「なんか、すごい恥ずかしいんですけど」

 

「なぜです?」

 

「見た目ですよ」

 

「見た目」

 

「顔も違うし、普通に外国の人みたいだし。おじさんだと思って近づくと、途中で違うってなるんです」

 

「では、無理に近づく必要はありません」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 理央はすぐに否定した。

 

 後ろへ下がる様子もない。

 

 何をしようとしているのか、そこでようやくヴァルトにも分かった。

 

 分かったからこそ、自分から腕を伸ばすことはできなかった。

 

 伯父として受け入れろとは求めない。

 

 昨日、自分で澪へ頼んだことだった。

 

 理央は一度だけ深く息を吸った。

 

「考えると無理です」

 

「何がです?」

 

「この距離です」

 

 答えると同時に、理央が最後の一歩を詰めた。

 

 理央の額が胸元へ当たり、両腕がヴァルトの背中へ回った。

 

 勢いで抱きついた本人も、すぐには顔を上げなかった。

 

 ヴァルトの両腕は動かなかった。

 

 これは、理央が驚いてぶつかったのではない。

 

 それでも、抱き返してよいのかを決められない。

 

 昨日まで、理央は自分を仕事で会う異世界の人間として見ていた。

 

 今日、前世の血縁を知ったからといって、こちらから伯父の立場を取ることはできない。

 

「……おじさんなんだから、これくらい変じゃないですよね」

 

 胸元から、理央の声がした。

 

「変ではありません」

 

「じゃあ、固まらないでください」

 

「申し訳ありません」

 

「そういう時に謝るの、変です」

 

「では、どう答えればよいのでしょう」

 

「知りません」

 

 理央の腕は離れなかった。

 

 ヴァルトはようやく片腕を上げた。

 

 手のひらを理央の背へ触れさせ、そこでまた止める。

 

「私、まだ全部分かったわけじゃないです」

 

「ええ」

 

「黙ってたことも、まだちょっと怒ってます」

 

「それで構いません」

 

「これからも、ヴァルトさんって呼ぶと思います」

 

「はい」

 

「急に家族っぽくできるかも、分かんないです」

 

「無理に変える必要はありません」

 

 理央の声は、背へ回した腕ほど強くなかった。

 

 今ある関係を捨てて、会ったことのない伯父へ置き換える必要はない。

 

 ヴァルトも、それを望んでいなかった。

 

「でも」

 

 理央の腕に、少し力が加わる。

 

「いないことにはしたくないです」

 

 ヴァルトの指が、旅装の布地の上で止まった。

 

「写真の中だけの人だと思ってました。部屋に物だけ残ってて、もう会えない人だって」

 

「理央君」

 

「でも、いたんですよね」

 

 理央が顔を上げないまま尋ねる。

 

「私のおじさん、いるんですよね」

 

「……はい」

 

 理央の問いに、今の自分として答えた。

 

 ヴァルトはもう片方の腕も上げた。

 

 理央の肩と背へ回す。

 

 触れるだけだった腕へ、理央がもう一度力を込めた。

 

 今度はヴァルトも、はっきり抱き返した。

 

 腕の中にいるのは、妙子ではない。

 

 理央だった。

 

 分かっているのに、遠い記憶が戻った。

 

 大晦日の日、成人式の着物を着た妙子を、自分が写真に撮った。

 

 妙子は慣れない袖を気にしながら立っていた。

 

 父親と色のことで喧嘩をした後も、自分で選んだ着物を譲らなかった。

 

 カメラを向けると、妙子はまだ少し怒った顔でこちらを見た。

 

 その妹が、自分の知らない時間の中で母親になった。

 

 写真の中にいた17歳の娘が、今は自分の腕の中にいる。

 

 理央を、妙子の代わりだと思ったのではない。

 

 声も、顔も、こちらへ遠慮なく問いを投げるところも違う。

 

 妙子の時間が続いた先に、理央がいる。

 

 それを、初めて腕の重さとして知った。

 

「……妙子」

 

 名前が、考えるより先に漏れた。

 

 理央の肩がわずかに動く。

 

 ヴァルトは腕の中の少女を見下ろした。

 

「……理央」

 

 目の奥に熱が集まった。

 

 抑えようとした時には、一滴が眼鏡の下から落ちていた。

 

 理央の肩へ染みる。

 

 理央は顔を上げなかった。

 

 何も言わず、背中へ回した腕を強くした。

 

 ヴァルトも離さなかった。

 

 扉の向こうでは、誰かが廊下を歩いている。

 

 足音は部屋の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかった。

 

「……おじさん」

 

 理央の声が、胸元で聞こえた。

 

 ヴァルトの腕が一瞬止まる。

 

「まだ、慣れないですけど」

 

「はい」

 

 短く答えるのが精いっぱいだった。

 

 しばらくして、理央の腕から先に力が抜けた。

 

 ヴァルトも腕を解く。

 

 理央は半歩下がると、ようやく顔を上げた。

 

 目元が少し赤い。

 

 泣いてはいないと言われれば、そう見えなくもなかった。

 

 その理央が、ヴァルトの顔を見て目を見開く。

 

「ヴァルトさんも泣くんですね」

 

「……泣くことくらいあります」

 

「初めて見ました」

 

「忘れてください」

 

「無理です」

 

 即答だった。

 

 理央は照れを隠すように棚へ向き直り、攻略本の背へ指を置いた。

 

「お祖母ちゃんのこと、私も考えます」

 

「はい」

 

「すぐ決めるんじゃなくて、どうしたらいいか」

 

「ありがとうございます」

 

「それと、母さんに話す時もです」

 

 ヴァルトは眼鏡を外し、指で目元を押さえた。

 

「妙子へ話す時は、私もここにいます」

 

「逃げないですよね?」

 

「逃げません」

 

「なら、いいです」

 

 理央は机へ戻り、置いてあった筆記具のケースを持ち上げた。

 

 これ以上ここにいれば、仕事へ戻るきっかけを失うと考えたようだった。

 

「澪さんにも、話したって言ってきます」

 

「分かりました」

 

 理央は扉を開ける。

 

 廊下の仕事音が、急に近くなった。

 

「またあとで、ヴァルトさん」

 

「はい、理央君」

 

 理央が出ていくと、扉は完全には閉められなかった。

 

 開いた隙間から、昼の明るさと人の声が入ってくる。

 

 棚には、書き込みの残る古い攻略本がある。

 

 その隣には、付箋を挟んだ理央のノートが並んでいた。

 

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