生け簀として試すなら、1匹を眺めているだけでは足りない。
澪は収納していたペスリモンを海へ戻さず、場所をずらしながら同じくらいの幼魚を9匹だけ追加した。
理央も別の場所から幼魚を10匹選び、自分の《生体収納》へ海水ごと収めた。
同じ海から取ったペスリモンが、2人の収納に10匹ずつ収まった。
真壁は漁船と人の動きを見て、試験の邪魔が入らない範囲を選んでいる。
海から吹きつける風には、塩と魚の匂いが混じっていた。
澪の収納内では、海岸から取り込んだ海水が四角い塊のように留まり、その中を10匹の銀色の幼魚が泳いでいる。
少し離れたところでは、理央も自分の収納内を黙って見ていた。
水だけなら、見慣れた収納物だ。
けれど、その中で尾びれが動くたびに、澪の目はそこへ引き戻された。
小さな尾が止まったら、自分が何かを間違えたということになる。
商品を傷めた時の損失とは違う。
取り返せない命を預かったのだと考えると、収納の中が急に狭く感じられた。
「生きてますね」
「さっきから、それ何回目ですか」
理央が笑いながら澪の顔を見た。
「だって、生きている物を収納してるんですよ」
「こっちも元気ですよ」
理央は自分の収納へ意識を向けたまま、指を折った。
「ちゃんと10匹います」
「あ、理央ちゃんもでしたね」
驚く側が2人いると、止める人がいない。
澪は笑い返しかけて、理央の表情を確かめた。
理央の魚は澪には見えない。
それでも、顔を見る限り慌ててはいなかった。
澪は一度息を整えて、魚ではなく海水ごと収めた範囲へ《鑑定》を向けた。
----------------------------------
収納内生け簀
分類:海水飼育区画
飼育対象:ペスリモン幼魚
飼育数:10
生存数:10
----------------------------------
飼育環境
水温:適正
塩分濃度:適正
溶存酸素:100%
水質:良好
----------------------------------
汚染状態
残餌:なし
排泄物:微量
アンモニア:微量
----------------------------------
飼育状態
食欲:良好
活動:正常
異常個体:なし
----------------------------------
「魚じゃなくて、生け簀として出ました」
澪が項目を読み上げる横で、理央も自分の生け簀を鑑定していた。
「こっちも10匹です」
理央の目が、鑑定の項目を上から下へ動く。
「水の状態も同じみたいです」
水温と塩分、溶存酸素も、澪が読み上げた値と変わらない。
理央は自分の結果を紙へ書き写してから、澪を見た。
「生け簀って、収納の中ですよね」
「はい」
「そこはもう驚かなくていいんですか?」
「驚く項目が多すぎるので、順番にします」
澪は浮きかけた頬を戻し、溶存酸素の行へ目を移した。
今は100%でも、魚が呼吸すれば減る。
餌を与えれば残りが出て、排泄物も増える。
生かしておけることと、育てられることは同じではなかった。
10匹ずつ揃えただけで、まだ一度も餌を与えていない。
その前に、魚の一日を支える物が要る。
「次は餌ですね」
「魚加工場へ行けば、頭や骨が出ているはずです」
理央がトルヴィアの町の方を見た。
「このまま加工場へ行きます?」
「はい」
澪は自分の収納内の海水をもう一度鑑定した。
魚の活動は正常で、水質にも変化はない。
理央も鑑定を終え、澪へ指で丸を作った。
真壁が港へ続く道を先に歩き始めた。
「原料を確保してから侯爵領へ戻ろう」
ペスリモンを育てるなら、トルヴィアにいるうちに済ませるべき仕事が残っていた。
魚加工場の床は濡れていた。
開いた戸口から差す光が水面で揺れ、木箱を運ぶ人の足元を細く照らしている。
奥では包丁が骨へ当たる音が続き、切り分けられた魚の匂いが冷たい空気へ広がっていた。
澪が気にしていた物は、商品を並べた台にはなかった。
頭や中骨、身を取ったあとの骨まわりが、作業台の端から大きな桶へ落とされていく。
「これを、売っていただきたいんです」
加工場の責任者は、澪が指した桶を見下ろした。
「持っていくなら、好きなだけ持っていけばいい」
「いえ、買います」
責任者は澪の顔を見直した。
「捨てる所だぞ」
「今日だけなら、それでもいいんです」
澪は桶の中へ混じった骨を見た。
切りたての断面はまだ乾いていない。
けれど、時間が経った物や床へ落ちた物まで同じ桶へ入れば、餌の原料としては使えなくなる。
「これからも買うなら、加工した直後に分けてもらう必要があります」
澪は作業台の脇にある空の桶を指した。
「時間が経った物や、床へ落ちた物は入れないでください」
「使える物だけ、こちらの桶へお願いします」
責任者の目が、澪から作業台へ移った。
今まで必要のなかった手間だ。
無料でもらえば、その手間まで無料にしてしまう。
「魚を育てる餌の原料にします」
「これで魚を?」
「まずは試験です」
「使えると分かったら、出た分を続けて買わせてください」
澪は長い契約も、大量の約束もしなかった。
育つかどうかも分からない魚のために、加工場の流れを大きく変えてもらうわけにはいかない。
責任者は桶を持ち上げる作業員へ声をかけ、別の空桶を作業台の脇へ置かせた。
「今日の分から、ここへ入れる」
責任者は濡れた床を顎で示した。
「床へ落ちた物と、古い物は入れない」
「それでいいか」
「はい」
「値段は、使えると分かってからでいい」
「試験分にも値段を付けてください」
責任者の眉が上がった。
「本当に商人なんだな」
「一応、代表です」
自信を持って言うところのはずなのに、一応が付いた。
理央が横で口元を押さえている。
「笑いました?」
「笑ってないです」
「今、ちょっと肩が動きました」
「魚を育てる話をしに来て、代表が弱くなったなって」
責任者は2人のやり取りを眺めたあと、低く笑った。
最初の買い取りは、加工場の負担が増えない少量に決まった。
支払いは引き取りのたびに行い、腐敗した物が混じっていれば買わない。
使えなければそこで終わり、使えた場合だけ続ける。
空だった別桶へ、切り落としが初めて落ちた。
廃棄物だった物に、養殖飼料原料としての値段が付いた音だった。
その日の加工分から、状態のよい端材だけが別桶へ分けられた。
澪は試験用として買い取った分を収納し、桶を加工場へ返した。
「これで、トルヴィアですることは終わりましたね」
「今度こそ戻れます」
理央が言うと、真壁は2人と一緒に侯爵領事業所へ転移した。
潮と魚の匂いが消え、侯爵領事業所の床が足元へ戻ってきた。
魚粉の原料は澪の収納にある。
ペスリモンは澪と理央の収納で、10匹ずつ泳いでいた。
澪は荷物をそのままにして、ゲンダイへ続く押し入れの前へ立った。
「次は、魚を収納したまま押し入れを越えます」
理央が魚粉原料の入った収納箱から顔を上げた。
「ゲンダイまで運ぶんですね」
「越えられるかを試します」
「途中で魚が消えたりしませんよね?」
「分かりません」
「だから、異常があればすぐ戻ります」
澪は収納内の生け簀をもう一度鑑定した。
魚の活動は正常で、水質にも変化はない。
「理央ちゃんは、ここに残ってもらえますか」
「澪さんだけ行くんですか?」
「はい」
理央の10匹は、理央と一緒に侯爵領へ残る。
澪は自分の生け簀へ目を戻した。
さっきまで元気に見えていた幼魚が、急に頼りなく見えた。
喉が乾いている。
押し入れを往復するだけなのに、足が動かなかった。
「私たちはこちらにいる」
「異常があれば、すぐ戻りたまえ」
押し入れの向こう側には、江古田の部屋がある。
普段なら見慣れた暗がりなのに、今日は境目だけが妙にはっきり見えた。
「行ってきます」
「すぐ戻ってきてくださいね」
「はい」
澪が境界を越えると、事業所の空気が途切れた。
代わりに、閉め切った六畳間の乾いた空気と、冷蔵庫の低い音が戻ってくる。
床は畳で、窓の外には江古田の町がある。
澪は片足を押し入れに残したまま、《生体収納》へ意識を向けた。
海水は消えていない。
銀色の幼魚が1匹、向きを変えた。
続いて2匹目が水面近くへ上がってくる。
澪は息を詰めたまま、自分の生け簀を鑑定した。
生存数は10。
活動は正常。
水温も塩分も変わっていない。
「越えた……」
自分の声だけが、六畳間に小さく残った。
胸の奥に詰まっていた物がほどけかけたが、まだ戻るまでが試験だった。
魚はトルヴィアの海にいた。
魚加工場で餌の原料を買い、侯爵領へ戻ったあとも収納内で泳いでいた。
今は、その海水ごと江古田にいる。
収納内に保持された生物は、押し入れの境界を越えられる。
可能性ではなく、目の前の10匹が結果だった。
澪はもう一度すべての項目を見直してから、押し入れをくぐった。
「どうでした?」
待っていた理央が、澪の顔より先に収納のある辺りを見た。
「10匹とも無事です」
「ほんとですか?」
「ゲンダイまで行って、戻ってきました」
「よかった……」
理央は自分の生け簀を鑑定し、ようやく笑った。
澪はそこで初めて、握っていた手を開いた。
掌に爪の跡が残っていた。
理央は口を開き、閉じてから、自分の胸元へ手を当てた。
「じゃあ、生体収納の中なら、生き物も世界を越えられるんですね」
「魚は、です」
「人はまだ、ですよね」
「まだです」
言葉にしておかないと、2人とも同じ先へ走りそうだった。
それでも、理央の目に浮かんだものを、澪は否定できなかった。
Lv3で入れられるのは、小型魚の成魚か、中型魚の幼魚までだ。
この技能がさらに育てば、入れられる生物の大きさも変わるかもしれない。
澪は海水の中を泳ぐ幼魚へ目を戻した。
まずは、この10匹を育てる。
隣では、理央も自分の魚を見ている。
人間を考えるのは、それからでも遅くない。
澪が生け簀の状態を読み上げると、真壁は短く頷いた。
「魚の状態に変化はないな」
ゲンダイから戻った澪の収納には、魚だけでなく、トルヴィアで買った餌の原料も残っている。
この先の育成作業は、侯爵領事業所で続けられる。
買い取った端材は、澪の収納へ入れた時点で傷みが止まった。
作業台の上へ必要な分だけ出すと、魚の脂と潮の匂いが戻ってくる。
澪は骨と頭をまとめて加熱し、出てきた水分と油分を分けた。
乾かした固形分を砕くと、淡い茶色の粉が容器へ落ちていく。
できた魚粉は同じ量になるように分け、一方を理央へ渡した。
「売ってる魚粉みたいです」
理央が自分の容器の蓋を開け、匂いを嗅いだ。
「匂いも、かなり魚です」
「魚から作りましたからね」
「分かってます」
澪はできた粉を一度鑑定してから、ごく少量だけ自分の生け簀へ入れた。
理央も同じ量を量り、自分の生け簀へ入れる。
澪は収納内部へ意識を向けた。
粉が水面へ広がる。
幼魚はすぐには寄ってこなかった。
「まだ来ませんね」
理央も黙り込み、自分の収納内部へ意識を向けている。
返事がないのが気になり、澪は横を見かけた。
見たところで、理央の魚は見えない。
澪は自分の水面へ意識を戻した。
1匹が向きを変え、落ちていく粒を追った。
その口が動いた直後、ほかの魚も集まり始める。
「あ、1匹食べました」
「こっちもです」
理央の声が急に高くなった。
「あ、ほかのも来た」
理央の肩から力が抜けた。
「よかった……」
海水の中で銀色の背が重なり、魚粉の粒が消えていく。
澪が自分の生け簀へ鑑定を向けると、食欲は良好、給餌反応は正常と出た。
澪はその2項目を理央へ伝えた。
理央も自分で鑑定し、同じ項目を読み上げた。
「じゃあ、1日進めてみます」
澪は自分の収納内の時間を、きっちり1日だけ進めた。
理央も自分の生け簀だけを1日進める。
次に澪へ見えた魚は、さっきとほとんど変わらない。
けれど、鑑定表示は違っていた。
溶存酸素は下がり、底には食べ残した餌と排泄物が増えている。
アンモニアも微量のままではなかった。
「死んではいません」
澪は底へ沈んだ物を見た。
「でも、水が……」
「こっちも濁ってます」
理央の声から、さっきまでの浮ついた響きが消えた。
「1日でこんなになるんですね」
澪は自分の生け簀から残餌と排泄物を分離し、海水へ酸素を戻した。
理央も自分の鑑定結果を見ながら、同じ処置を進めている。
魚体を傷つけないように手順を分け、処理後にもう一度鑑定する。
数値が元へ近づくと、固まっていた肩から力が抜けた。
澪は処置を終えても、収納から意識を戻せなかった。
隣の理央は、まだ黙っている。
声をかけようとして、邪魔になるかもしれないと口を閉じた。
「戻りました」
理央が大きく息を吐いた。
「たぶん、さっきと同じです」
理央の報告を聞き、澪はようやく息を吐いた。
「私の方も戻っています」
「もう1日、やってみます?」
「はい」
理央は自分の魚粉を量り直した。
「今度は餌を少し減らしたいです」
その返事が、あと何回続くことになるのか。
この時の2人は、まだ数えていなかった。
最初の5日は、楽しかった。
時間を1日進めるたびに、それぞれの生け簀の数値が変わる。
魚粉の量を調整すると食べ残しが減り、酸素を補う時機を早めれば魚の動きも安定した。
理央は自分の経過日数と給餌量、処置を紙へ並べた。
澪も自分の10匹について、同じ項目を別の紙へ書いた。
数字を声に出して照らし合わせると、今のところ大きな差はない。
「昨日より食べてません?」
「体が大きくなった分でしょうか」
「こっちも増えてます」
理央は自分の魚を追いながら、しばらく黙った。
「でも、動きは変わってないです」
「同じくらいですか?」
「ほとんど同じですね」
澪は自分の紙の「10」と、理央の紙にある「10」を見比べた。
数は同じでも、昨日まで揃っていた値が今日も揃うとは限らない。
時間を進めるたび、指先に余計な力が入った。
条件を揃えても、2人の作業は2人分になった。
10日目には、互いの魚を見ることはできないまま、相手の紙を見るようになった。
20日目には、どちらが餌を量ったかを聞き直した。
30日目には、魚が順調なのに2人の返事が遅くなった。
1日進める。
鑑定して、魚の動きと水を見る。
餌を与え、食べ残しと排泄物を取り除き、酸素を補って、もう一度鑑定する。
収納内では1日でも、外では短い時間しか経っていない。
だから休む間もなく、次の1日へ進めてしまう。
便利なはずの時間操作が、魚の世話を休みなしで運んできた。
「成魚まで1年なら、これを365回ですよね」
理央が鉛筆を置いた。
「2年なら730回です」
「言わないでください」
「理央ちゃんが聞いたんです」
「聞いてから後悔しました」
澪も鉛筆を置きたかった。
けれど、理央の手前で先に音を上げるのも悔しい。
持ち直した鉛筆は、さっきより重かった。
魚の1年を短くしても、魚が食べる回数は減らない。
汚す回数も、酸素を使う量も、そのまま残る。
2人がやっているのは、数年分の毎日を自分たちの前へ積み上げることだった。
その途中で、理央が胸元を押さえた。
「あ、上がりました」
「何がですか?」
「《生体収納》です」
理央の《生体収納》がLv4になっていた。
生きた魚を入れたまま水を整え、餌を与え、時間を進めている。
収納した瞬間だけではなく、飼い続けることも技能の使用になっていた。
澪の技能も、その数日後にLv4へ上がった。
先を越された悔しさより、ほっとした気持ちの方が大きかった。
理央が自分の10匹を世話した30日分が、きちんと技能へ返っている。
喜んでいいはずだった。
けれど、理央は紙に並んだ経過日数を見てから、澪を見た。
「これ、技能より先に私たちが駄目になりません?」
「私も今、同じことを考えていました」
「真壁さん、呼びません?」
「呼びましょう」
相談ではなく、救助要請に近かった。
魚は元気に泳いでいる。
飼育している2人だけが、順調ではなかった。
新事業所の共用机へ、理央が自分の生け簀の紙を並べた。
その隣へ、澪も自分の10匹について書いた紙を置いた。
真壁は椅子へ座る前に、最初の1枚を手に取った。
魚の大きさより先に見たのは、2つの生け簀の鑑定値と、その直後に持ち主が何をしたかだった。
「給餌量を減らした日は、残餌も元の値まで戻っているな」
「はい」
「酸素はこの値で補ったのか」
「私の生け簀では、魚の動きも鈍くなっていたので、少し早めに入れました」
澪が答える間にも、真壁の指は次の紙へ移っていた。
水温、塩分、溶存酸素、残餌、排泄物、アンモニア。
その横に、澪と理央が各自で行った給餌、分離、酸素補給、再鑑定の結果がある。
「順番は毎日ほぼ同じだな」
「ほぼ、です」
「違った日は?」
「魚の動きか、水の状態が普段と違った日です」
真壁は紙を机へ戻し、収納から小さな容器と管を出した。
「ならば、普段どおりの日だけ機械へ任せればよい」
「できますか?」
「もうできている」
真壁は2人の紙を指で押さえた。
「2人とも、毎日ほぼ同じ順番で手を動かしている」
真壁は空の紙へ四角を描き、その間を線で結んだ。
真壁は同じ図をもう1枚描き、片方を澪へ、もう片方を理央へ向けた。
最初に生け簀全体を鑑定する。
魚の生存数、活動、食欲を読み、水温や酸素、水質が普段の範囲にある時だけ先へ進める。
魚体に合わせて餌を出し、不足した酸素を補い、底へ沈んだ物を分離する。
水を処理したあとで再び鑑定し、外れていればそこで止める。
「機械に判断させる範囲は絞る」
真壁は工程図の途中へ太い線を引いた。
「普段どおりなら続ける」
線の先へ、今度は大きく止める印を付けた。
「違えば止めて、2人を呼ぶ」
「それで十分だ」
真壁の手は、もう紙の上だけではなかった。
真壁は澪へ渡す器具を取り出し、給餌用の容器と回収先を分けている。
同じ物をもう一組用意し、理央へ渡した。
残っていた魚粉も2つに分け、2人の給餌容器を満たした。
ここを残量100%として、減り方を比べる。
「糞と食べ残しは捨てないんですか?」
理央が回収側の容器を指した。
「肥料原料にはなる」
真壁は回収先の容器を2つに分けた。
「海水中から分けた物も、使える物は別にする」
「魚を育てて、肥料まで出るんですね」
「まだ肥料とは決めていない」
澪が先に言うと、真壁が短く頷いた。
「今は原料候補だ」
「はい」
理央は素直に言い直した。
真壁の指示どおり、澪と理央はそれぞれの収納内で循環させる水の途中へ新しい処理を加えた。
「最後に《浄化》を通す」
「真壁さん、《浄化》を持っていましたっけ」
「私が使うのではない」
澪は渡された管を、自分の収納内工程へつないだ。
「澪君の工程だ」
「私、持ってませんけど」
「工程が必要とすれば、芽が出る可能性はある」
真壁は言い切り、理央側へ置く同じ器具も理央へ渡した。
その顔には、できるかもしれないという迷いがない。
できなければ、止まった場所を直すだけだと思っている顔だった。
「理央君にも同じ小規模工程を置こう」
「私もですか?」
「比較対象は必要だ」
「助けを求めたら、設備と新しい技能試験が増えました」
「真壁さんへ頼んだ時点で、そこは覚悟していました」
「澪さん、先に言ってください」
真壁だけが、2人へ指示する次の容器の位置をすでに決めていた。
最初の運転は、澪の生け簀から始めた。
生存数と魚の動きが読み取られ、餌が少量ずつ落ちる。
酸素を補ったあと、底へ沈んだ残餌と排泄物が別の容器へ移った。
濁りの減った海水が管を通り、《浄化》の工程へ入る。
そこで、澪の工程だけが止まった。
「止まりました」
「《浄化》がないからでしょうか」
「その可能性が高い」
真壁が答えた直後、理央も自分の収納内で同じ工程を動かした。
理央の水も、《浄化》の手前で止まった。
「あ、浄化が芽生えました」
「もうですか?」
「芽ありって出てます」
理央の声は、驚きより先に弾んでいた。
澪が自分の技能を見直すと、少し遅れて同じ表示が加わった。
見て覚えたわけではない。
理央の《共鳴》が写したのでもなかった。
それぞれの収納内工程が、自分の水を戻すために持ち主本人の《浄化》を要求し、持っていない技能を使わせようとしている。
「このまま続ける」
真壁は澪へ手順を指示し、止まった工程を《浄化》の手前から動かさせた。
理央も同じ指示を受け、自分の工程を自分で動かす。
澪の内側から、まだ形の定まらない力が引き出される。
海水が一度で完全に澄んだわけではない。
処理前より衛生上の危険が抑えられ、飼育へ戻せる状態へ近づいたところで再鑑定へ回る。
澪の水質は良好だった。
魚の活動にも異常はない。
「終わりました」
理央は生け簀の端から端まで目で追った。
「魚も動いてます」
理央が自分の10匹を確かめながら言った。
誰も餌を量り直していない。
底を掃除してもいない。
2人が30日かけて決めた動きが、別々の収納内で1日分ずつ終わっていた。
澪の肩から力が抜けた。
理央の水は見えないが、声は明るい。
もう一度やりましょうと言いかけたところで、真壁の声が入った。
「このまま次も行けそうですね」
「待ちたまえ」
真壁は2人が外へ出した回収物と、それぞれが読み上げた処理後の水質を見比べた。
「同じ条件で3回動かし、ずれがないかを見る」
「今日は真壁さんが止めるんですね」
「澪さん、そこに驚くんですか?」
「少しだけ」
3回の試験で、2つの工程は通常時に同じ結果を返した。
餌をわざと減らした時は、食欲と給餌量の差を拾って停止した。
酸素を普段より下げた時も、補給だけで続行せず、人の手へ戻してきた。
生き物を相手にする設備として、その臆病さは正しかった。
真壁が条件を戻すと、澪と理央は自分の収納内時間を1日ずつ進めた。
反復のたびに、それぞれの《浄化》が自分の水処理へ使われる。
理央は加護《成長促進》のためか、先に芽がLv1へ変わり、続いてLv2へ上がった。
澪も遅れて追いついた。
毎段階で手を止めることはせず、数日ごとに技能を見直した。
《浄化》はLv3を越え、Lv4へ進んだ。
さらに反復を重ねると、先に理央が、続いて澪がLv5へ届いた。
魚と海水を保持し、給餌と水処理を繰り返す《生体収納》も使われ続けている。
Lv4だった理央の《生体収納》がLv5へ上がり、澪も後からLv5へ届いた。
「え、もうLv5になってます」
理央が自分の表示から顔を上げた。
「人を入れられるところに、近づいたんでしょうか」
「近づいたかもしれません」
澪は江古田まで運んだ10匹を思い出した。
魚は世界を越えられた。
あとは、どこまで大きな生物を収められるかだ。
「試すのか」
真壁が聞いた。
「人では試しません」
「私もまだ怖いです」
理央の返事は早かった。
真壁はそれ以上勧めず、2人がそれぞれの生け簀を鑑定するのを待った。
----------------------------------
収納内生け簀
分類:海水養殖区画
飼育対象:ペスリモン
生存数:10/10
----------------------------------
飼育環境
水温:適正
塩分濃度:適正
溶存酸素:96%
水質:良好
----------------------------------
飼料状態
魚粉残量:100%
給餌量:適正
----------------------------------
処理状態
給餌工程:正常
酸素補給:正常
固形物回収:正常
アンモニア回収:正常
浄化工程:正常
----------------------------------
飼育状態
食欲:良好
活動:正常
異常個体:なし
----------------------------------
海水飼育区画だった表示が、海水養殖区画へ変わっていた。
ただ生かしておく場所ではなく、育てるための工程として認められたらしい。
これは澪の生け簀に出た表示だった。
澪が変わった項目を理央と真壁へ読み上げると、理央も自分の表示を確かめた。
「あ、こっちも変わってます」
理央が表示へ顔を近づけた。
「海水養殖区画です」
「生存数は?」
「10匹、全部います」
短い報告なのに、その数字は澪が読む自分の表示より頼もしく聞こえた。
理央が自分で育てた10匹の数字だった。
「これなら、365回を全部手でやらなくていいんですよね」
「1日ずつ進める点は変わらん」
「それでも十分です」
澪は自分の次の1日を進めた。
理央も、自分の10匹の次の1日を進める。
今度は、2つの生け簀の1日分の世話が、そのまま2人の手へ積み上がることはなかった。
それぞれ数十日を進めると、澪のペスリモンも理央のペスリモンも胴が厚くなった。
魚体が大きくなれば、食べる量も増える。
2人へ同量ずつ分けた魚粉は、100%から80%台へ落ち、間を置かず70%台へ入った。
「魚粉、さっきから減り方が速くないですか?」
澪は自分の表示を開いた。
「60%を切りました」
理央も自分の残量を確かめる。
「私もほとんど同じです」
理央は減っていく数字を見つめた。
「食べすぎてるんですか?」
「1匹あたりの給餌量が増えています」
「育った分だけ食べてるなら、止めるのも違いますよね」
「ええ。食べる量が増えた分だけ、きれいに減ってます」
その言い方が嫌だった。
壊れて減っているなら、直せばいい。
順調に育つほど減る物は、止めない限り最後まで減り続ける。
澪は自分の生け簀をさらに数日だけ進め、表示を開いた。
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飼料状態
魚粉残量:49%
1日消費量:増加
給餌工程:正常
----------------------------------
「ここで止めます」
「私も。残り、51%です」
理央は自分の残量が51%だと確かめてから、迷わず自分の時間を止めた。
澪の魚も、理央の魚も飢えていない。
給餌工程も正常で、緊急停止を求める表示はない。
それでも、澪にはまだ半分あるとは思えなかった。
もう半分しかない。
ペスリモンはこれからも大きくなり、1日の消費量はさらに増える。
残りを使い切ってから考える理由はなかった。
少し前まで嬉しかった魚の厚みが、今は餌の減る速さに見えた。
理央の残量は51%で、ほとんど差がない。
澪は49%の表示を閉じた。
止めるなら、今だった。
2人はそれぞれの時間操作を止め、侯爵領事業所へ運んでおいた原料の残りを確かめた。
トルヴィアの魚加工場から買った頭や中骨は、まだ残っている。
古い物も、床へ落ちた物も混じっていない。
けれど、収納内で数十日を進めた分だけ、外でも端材が増えるわけではなかった。
「加工場から買えるのは、向こうで魚を加工した分だけですよね」
「そうだ」
真壁は原料の残量と、これまでに作った魚粉の量を見比べた。
「高く買うと言っても、まだ切り分けられていない魚の頭は買えない」
「食べられる魚まで餌にしたら、人が食べる分を減らしますよね」
「それでは事業にする意味がない」
加工場は、出た端材を分けるという約束を守ってくれている。
足りないのは加工場のせいではなく、収納の中と外で流れる時間が違うからだった。
加工場で新しい端材が増える速さでは、収納内の消費に追いつかない。
魚粉だけに頼ったままでは、いずれ原料が尽きる。
「別の餌が必要ですね」
「魚粉を使わない餌、ですか?」
「少なくとも、魚粉だけで作らない餌です」
理央は自分の収納内で動きを止めた10匹を確かめ、残り少ない原料へ目を移した。
収納の外の時間だけは、中の魚に合わせて早くなってくれなかった。
侯爵領事業所では、真壁が魚粉の追加購入より先に収納内の在庫を見直した。
過去の討伐で回収した魔物素材を、残っている物だけ順に出していく。
ビッグマンティスの利用しにくい軟組織。
ビッグアントの端材。
大ムカデは危険な部位を避け、分けて置く。
狼型魔物の肉も、食用に回していない物が残っていた。
「魚粉の代わりになりますか?」
理央が、並んだ容器を端から見た。
「候補にはなる」
真壁は少量ずつ鑑定し、成分を分けて比べた。
タンパク質、脂質、ミネラルは素材ごとに違う。
毒性のある部位や、飼料に向かない成分は先に外した。
「大ムカデは、そのまま入れないでくださいね」
「入れない」
澪が言う前に、真壁は危険側の容器へ蓋をした。
別の箱を開けたところで、人に近い形を思い出させる素材が出た。
ゴブリンだ。
成分だけを見れば、動物性の原料として調べることはできる。
澪の指は、箱へ伸びる前に止まった。
「これは、魚へ直接は使いたくないです」
「私も嫌です」
理央の返事も早かった。
「では保留だ」
真壁は押し切らず、箱を元へ戻した。
使えることと、使うことは別だった。
残った素材だけでも、魚粉を補う試験はできる。
けれど、真壁は容器の量を見たまま手を止めた。
「これも有限だ」
「魚粉より残っていても、食べさせれば減りますね」
「討伐のたびに飼料を補充する事業は安定しない」
魔物が多い方が餌に困らない、という養殖場にはしたくなかった。
それでは餌を得るために危険が必要になる。
「継続して増やせる原料が要る」
真壁は、ビッグアントの端材を少量持ち上げた。
「魚へ直接与えず、別の生物に食べさせる」
「別の生物ですか?」
「有機物をよく食べ、世代の短い物がいい」
澪の頭に、腐葉土や生ごみを処理する虫が浮かんだ。
けれど、ゲンダイの虫を持ち込む必要はない。
侯爵領にも、家畜小屋の飼料くずや食品加工の残りへ集まる小さな虫はいる。
「虫なら、ここで探せますよね」
理央は窓の外へ目をやった。
「ゲンダイから持ってこなくても」
「そうしよう」
「待ってください」
理央の顔には、理解と抵抗が同じくらい出ていた。
「魚を育てるために、今度は虫を育てるんですか?」
「そういうことになりますね」
「養殖のための養殖……」
「言わないでください」
澪は額へ手を当てた。
「私も今、気づきました」
真壁は小さな飼育容器を2組出し、生け簀から離れた場所へ置くよう2人へ指示した。
澪と理央は、それぞれの収納内で自分の生け簀から離れた位置を空けた。
魚の次は虫だった。
澪が片方を受け取ると、理央も残った1組へ手を伸ばした。
「魚とは離して置けばいいんですよね」
「はい」
返事をしながら、澪は容器を持つ手に力を入れた。
侯爵領の家畜小屋や食品工房の周りには、飼料くずや加工残渣を一時的に集める場所があった。
乾いた土と藁、発酵しかけた有機物の匂いが混じり、その陰を小さな虫が動いている。
真壁が探しているのは、強い魔物でも珍しい生物でもなかった。
よく食べて、早く増え、人や家畜を刺さず、強い毒を持たない虫だった。
「これですか?」
理央が屈み込み、石の陰にいる幼虫を指した。
「触らないでください」
「触りませんよ」
「今、手が近かったです」
「見やすくしようとしただけです」
真壁がその場で幼虫を鑑定した。
幼虫期の摂食量は多く、世代も短い。
飼育下で繁殖でき、有害な成分も飼料原料として問題になるほどではない。
条件を満たすと分かると、澪と理央は少し離れた場所から、自分の分を周囲の土ごと収納した。
各自で数と状態を確かめ、余分に取り込んだ個体を元の場所へ戻す。
正式な名前を付けるのは後でいい。
今は、魚の餌になるかどうかの方が先だった。
2人はそれぞれの収納内に飼育場所を作り、自分の生け簀から完全に離した。
同量に分けた魔物の端材と魚加工残渣を各自で少量ずつ入れ、豆類の加工で出た残りも混ぜる。
危険な部位は使わず、ゴブリン素材は初回の候補から外した。
真壁は魚の時に作った工程を小さく組み替え、2人へ同じ手順を渡した。
温度と湿度を見て、餌が減れば補い、死亡個体や異常があれば止める。
成長した幼虫を回収し、一部だけを蛹と成虫になる側へ残す。
魚で30日分の手作業に疲れた2人も、それぞれの虫で同じことを繰り返す気はなかった。
「最初から自動でやるんですね」
「魚の30日で懲りました」
「私もです」
真壁の合図で、澪と理央は自分の飼育場所の最初の1日を動かした。
澪の幼虫は与えた有機物へ潜り込み、目に見える速さで餌を減らした。
「うわ、もう潜ってます」
理央は収納内を覗き込むように首を傾けた。
「土まで動いてる」
理央は自分の収納内を見たまま報告した。
澪は返事を聞いてから、自分の幼虫をもう一度数えた。
小さい。
魚よりも変化を見落としそうで、目を離すのが怖かった。
2人が各自で数日を進めると、どちらの幼虫も魚より先に体が大きくなった。
さらに進めれば、飼料用として回収できる大きさへ達した。
一部を残したそれぞれの飼育場所では蛹ができ、その先に次の卵と幼虫が続いた。
「増えてます」
理央は自分の区画にいる幼虫を数え直した。
「さっきより明らかに多いです」
「こっちもです」
澪は自分の区画を鑑定した。
「魚よりずっと早いですね」
魚の餌を作るために、その虫へも餌を与える。
澪は増えた幼虫を見ながら、飼料原料と呼ぶにはまだ早い気がした。
「餌なしでは増えない」
真壁は空きかけた有機物の容器を示した。
「外から入れる物は必要だ」
虫が何もない場所から肉を作るわけではない。
魚の端材や魔物の利用しにくい部分、豆類加工の残りを食べ、魚が使いやすい体へ変えている。
捨てにくかった物の形を、飼料へ寄せる役だった。
2人が各自の区画から回収した幼虫は、外へ出してから一緒に加熱し、乾かした。
余分な脂を分けて粉砕すると、魚粉より色の濃い昆虫ミールができた。
澪は魚粉と並べて鑑定し、足りない成分を見比べた。
昆虫ミールだけですべてを賄うことはできない。
豆類から分けたタンパク質と、必要な油脂やミネラルを少量ずつ合わせた。
「魚粉、本当に入ってないですよね?」
理央が出来上がった試験飼料を見た。
「入れていません」
「じゃあ、これで食べてくれたら……」
「食べるだけでは駄目です」
澪は試験飼料を指先で少しだけ摘まんだ。
「まずは試します」
澪は言い直してから試験飼料を2つに分け、一方を理央へ渡した。
2人はほんの少量だけ、自分の海水養殖区画へ落とした。
理央は澪の結果を待たず、自分の生け簀へ意識を向けた。
澪も自分の10匹だけを見つめた。
魚粉とは匂いが違う。
ペスリモンはすぐには群がらず、落ちていく粒の周りを回った。
「まだ食べませんね」
理央も自分の魚から目を離さない。
「こっちもです」
理央の眉が寄った。
「匂いが違うからかな」
1匹が近づく。
口先で触れ、離れた。
「1匹、口には触れました」
「こっちは口に入れて、出しました」
「駄目かな……」
理央の声が小さくなった。
澪の魚はもう一度向きを変え、今度は粒を口へ入れた。
「あ、今食べました」
「えっ、ほんとですか?」
「あ、こっちも」
理央の声が弾んだ。
「2匹来ました」
その動きを追うように、澪の生け簀では別の個体も寄ってくる。
銀色の背が水面近くで重なり、試験飼料が少しずつ消えていった。
澪は食べ終わるまで待ってから、自分の生け簀を鑑定した。
食欲は良好。
給餌反応は正常。
異常個体はない。
「食欲は正常です」
「異常個体もいません」
「こっちも異常なしです」
澪の口元が緩みかけた。
そのまま生け簀へ鑑定を向け、食欲と異常個体の項目をもう一度確かめる。
「これで魚粉を使わなくていいんですか?」
「まだ、食べたことしか分かりません」
長く育てた時の安全性も、成長の速さも分からない。
澪の魚粉残量は49%、理央の残量は51%のままで、2人とも試験を続ける余裕は残っている。
それぞれの収納内では、魚から離された小さな飼育場所で、次の幼虫が有機物へ潜り始めていた。
倉庫から餌を掘り出しただけではない。
今まで捨てていた物を食べる小さな生き物が、次の飼料原料を作り始めている。
澪が自分の生け簀へもう一粒落とすと、さっき迷っていたペスリモンが、今度は先に食いついた。
「今度は迷わなかったです」
理央の声を聞き、澪は自分の10匹から目を離さずに頷いた。