魚を放したあとの生け簀は、驚くほど静かだった。
澪は自分の生体収納へ意識を向け、空になった飼育区画を一つずつ片づけていく。
給餌器に残った飼料を回収し、海水を抜き、底に集めていた固形物を別の処理区画へ移す。
水を入れ替える工程も、酸素を補う工程も、もう動かす必要はない。
数え切れないほどの稚魚が泳いでいた場所から水音が消えると、急に広くなったように感じた。
終わって安心したはずなのに、少しだけ寂しい。
澪は空の生け簀を解体しかけ、手を止めた。
海水を保ち、空気を送り、汚れを取り除き、必要な分だけ時間を進める。
自分たちは、収納の中に生き物が暮らせる環境を作ったのだ。
水でできたのなら、土でもできるのではないか。
「澪さん、また何か考えてます?」
理央に声をかけられ、澪は収納から意識を戻した。
侯爵領事業所の作業机には、魚の記録をまとめた帳面がまだ開かれている。
理央はその向こうから、澪の顔を覗き込んでいた。
「そんなに分かりやすかったですか?」
「片づけが止まってましたから」
理央は一度、真壁へ目を向けた。
「真壁さんは気づいてました?」
「何かを始める顔はしていた」
真壁は急かさず、澪が話すのを待っている。
始めると決めたわけではない。
まだ思いついただけだ。
そう断ってから話そうとしたのに、口から出た言葉は思ったより大きかった。
「収納の中に、畑を作れないかなって」
「魚が終わった次に畑ですか」
「魚の続きではありませんよ」
「生体を維持できると分かったから思いついたのだろう」
真壁が帳面を閉じた。
「無関係ではあるまい」
澪は空になった生け簀を思い浮かべた。
「……言われてみれば、かなり関係ありますね」
「やっぱり育成計画の親戚じゃないですか」
理央が納得したように頷く。
「親戚でも、魚は増えません」
「今度は何が増えるんです?」
何を植えるかも決めていないのに、増えることだけは確定しているらしい。
澪は反論する代わりに、畑へ入れる土を考えた。
すると、心当たりが一つあった。
「土なら、残ってます」
「どこにです?」
「ゼグルド火山から持ってきた分が、収納に」
真壁が閉じたばかりの帳面を開いた。
今度は魚ではなく、農場の記録欄を作る気らしい。
澪は自分の収納在庫を検索した。
火山灰、火山砂、軽石、スコリア、岩片、結晶。
第328話でゼグルド火山から採取したものが、分類前の大きなまとまりとして残っている。
結構あったはずだと思いながら総量を開き、表示された数字の前で止まった。
──────────────────────────────────
分類 収納量
火山灰 286,100t
風化火山灰土 68,500t
火山砂 31,300t
軽石・軽石質土 18,700t
火山礫・スコリア 9,700t
粘土質火山土 4,200t
火山性岩片・石英・長石類 2,050t
鉄・チタン系重鉱物 610t
火山性結晶鉱物 220t
副成分鉱物 17t
熱水性鉱物・結晶片 2.7t
希少原石・異世界固有結晶 0.3t
──────────────────────────────────
合計 421,400t
──────────────────────────────────
「ありました」
「どのくらいです?」
「421,400tです」
理央が澪を見た。
それから、もう一度聞き直すように首を傾けた。
「それを『結構』で済ませるんですか?」
「採った時は、入るだけ入れたので……」
「覚えているよ」
真壁は新しい記録欄の先頭へ数字を書いた。
「使う量を決めて採ったわけではなかったな」
「そこは、もう反省しています」
「なら今回は分けて使いたまえ」
421,400tを全部、畑へ入れるわけにはいかない。
作物を育てるための基材と、鉱物資源として残すものは別だった。
澪は収納内で《分類》を動かし、鑑定結果を条件に加えていく。
灰と土、砂と軽石を分け、比重の大きい鉱物を除く。
火山性結晶は種類ごとに止め、異世界固有の反応があるものは農場側へ入れない。
まず、火山灰から粘土質火山土までの6分類を農場用へ寄せる。
ここまでで418,500t。
残りは、分類名をそのまま信用して一括で動かせるものではなかった。
澪が鑑定結果を読み上げ、真壁が帳面へ書き、理央が計算を確かめていく。
火山性岩片・石英・長石類2,050tのうち、風化させて農土へ回せる分は1,720t。
高純度石英系鉱物190t、長石系鉱物110t、その他岩石鉱物30tは、資源として保存する。
鉄・チタン系重鉱物610tは、鉄系鉱物350t、チタン系鉱物230t、その他重鉱物30tに分けた。
これは全量を保存側へ置く。
火山性結晶鉱物220tは、農土へ回す170tと、結晶のまま保存する50tに分ける。
副成分鉱物17tも、農土へ回す12tと、保存する5tに分かれた。
熱水性鉱物・結晶片2.7tは全量保存。
最後の0.3tは、第328話で分けた5分類を崩さずに残した。
──────────────────────────────────
再分類 重量
蛍石系高品質結晶 118kg
紫水晶・石英系高品質結晶 74kg
ジルコン系結晶 31kg
その他の希少鉱物 42kg
異世界固有結晶 35kg
──────────────────────────────────
合計 300kg
──────────────────────────────────
量だけ見れば小さく感じるが、300kgである。
希少原石や異世界固有結晶として考えれば、畑の隅へ混ぜてよい量ではない。
澪は分類し直した在庫を、最初から一覧へまとめ直した。
──────────────────────────────────
再分類後 収納量
農場用火山性基材 420,402t
鉄系鉱物 350t
チタン系鉱物 230t
その他重鉱物 30t
高純度石英系鉱物 190t
長石系鉱物 110t
その他岩石鉱物 30t
火山性結晶鉱物 50t
副成分鉱物 5t
熱水性鉱物・結晶片 2.7t
蛍石系高品質結晶 0.118t
紫水晶・石英系高品質結晶 0.074t
ジルコン系結晶 0.031t
その他の希少鉱物 0.042t
異世界固有結晶 0.035t
──────────────────────────────────
合計 421,400t
──────────────────────────────────
「農場へ回す基材は、420,402tです」
理央が計算結果を見直した。
「さっき、畑って言ってませんでした?」
「言いました」
「もう農場ですよね」
「土を広げるだけなら、大きな畑です」
「42万tを広げてもですか?」
言われてみれば苦しい。
「呼び名より配置を考えた方がよかろう」
真壁は迷わず、帳面の見出しに農場と書いた。
小さな畑は、土を出す前に消えた。
澪は保存する998tを、種類ごとの資源区画へ移した。
「保存側は998tです」
「よろしい」
農土側へ回した石英は粒度を整えて砂分に使い、長石と火山性岩片は風化させる側へ置いた。
澪は420,402tの分類を農場用へ変更した。
表示名が変わっただけなのに、急に後戻りできなくなった気がした。
「澪さん」
「はい?」
「今、火山で全部入れた時と同じ顔してません?」
「今回は量を確かめました」
「確かめて42万tなんですよね」
澪は答えず、農場区画の作成に取りかかった。
農場区画は、一枚の平らな土地にはしなかった。
澪は420,402tの火山性基材を、収納の中へ厚さ2mで配置していく。
混合後のかさ密度は、1m³あたりおよそ1.8t。
確保できた農地は約11.7haになった。
東京ドームに置き換えると、約2.5個分である。
「……広さまで農場になりました」
「今まで、何だと思っていたんです?」
「大きめの畑です」
「東京ドーム2.5個分を畑で押し通す気だったんですか」
理央に言われ、澪は返事の代わりに区画を分けた。
収納内を複数の大区画に分け、区画ごとに火山灰、砂、軽石、粘土質土の割合を変えられるようにした。
細かな灰だけを厚く積めば、水を含んだ時に締まりやすい。
砂や軽石が多すぎれば、水が抜けすぎる。
収納へ広げるだけなら、すぐに終わる。
だが、灰や軽石を偏らせず、水が通る厚さで重ねようとすると、区画ごとに確かめるしかなかった。
澪は《成分分離》で整えた材料を少しずつ重ね、全体を混ぜる。
最初の区画へ水を加えたところで、表面の色だけが変わった。
内部へ水が回っていない。
「水を入れたら、表面だけ湿る区画があります」
澪が外にいる2人へ報告する。
理央と真壁には、収納内の農場は見えない。
真壁は澪の言葉だけを聞き、すぐに答えた。
「粒の偏りを確認したまえ」
「水を増やすのはその後だ」
澪は該当区画を《鑑定》し、粒度の分布を開いた。
「……軽石が寄っています」
「見えてないのに当てました?」
理央が真壁を見る。
「澪君が『表面だけ』と言ったからな」
「あ、推理の方でしたか」
「ほかに何があるのです?」
「収納の中まで見えてるのかと」
「見えない」
真壁の返事が短すぎて、理央が少し恥ずかしそうに視線を戻した。
澪は軽石の偏りを直し、もう一度だけ水を加えた。
今度は表面で止まらず、下の層まで均等に回る。
ほかの区画も同じように確認し、通気と保水が片方だけ強くならない配合へ直した。
次はpHだった。
火山性基材は、そのままでは酸性が強い。
目標は6.8から6.9の範囲に置いた。
侯爵領の採石と購入ルートから確保した方解石系の中和材を、少量ずつ混ぜていく。
一度に1,760tを入れれば、やり直しが利かない。
澪は区画ごとに加え、短く時間を進め、反応が落ち着いてから再び《鑑定》した。
「まだ酸性寄りです」
「次を入れたまえ」
「はい」
同じ作業を繰り返し、使用量が1,760tに達したところで表示が止まる。
「6.8から6.9に入りました」
数字がそろっても、土はまだ完成していない。
澪は侯爵領の農地付近で取り込んだ外気を農場区画へ入れ、酸素、二酸化炭素、窒素の割合を確かめた。
二酸化炭素を消してはいけない。
窒素は空気の主成分として残すが、そのまま肥料になるわけではない。
水分を過湿にも乾燥にもならない範囲へ整え、温度も合わせる。
最後に全区画を端から《鑑定》した。
pH、通気、水分、空気組成は、すべて栽培を始められる範囲にある。
「これなら植えられそうです」
「土の条件はな」
「まだ何かあります?」
「君が見落としていなければない」
澪は返事をせず、農場全体をもう一度確認した。
理央が小声で真壁へ訊く。
「今の、わざとですか?」
「何がだね」
何が、ではない。
澪は最初からもう一度、pHの表示を読み始めた。
栽培できる状態だと確認すると、次は種だった。
最初から食用作物を育てるより、まず土を作る植物を試した方がいい。
澪は候補を考えながら、農場区画の設定を並べていく。
土がある。
水がある。
空気と温度も整えた。
そこまで確認したところで、農場の暗さが急に気になった。
収納内に窓はない。
空も太陽もない。
目の前の作業台は明るいため、あまりにも当たり前の条件を忘れていた。
「……明かりがない」
澪の呟きに、理央が天井を見た。
「ここは明るいですよ?」
「収納の中です」
「あ」
理央も動きを止めた。
植物が光合成に光を使うことくらい、2人とも知っている。
普段なら太陽が勝手に用意してくれるため、設備として数えなかっただけだった。
「植物育成灯なら実績はある」
真壁が既存設備の記録を開いた。
セルマ工房の栽培棚でも、植物育成用のLEDを使っている。
「棚なら、それでいいと思います」
澪は自分の収納内にある区画の一覧を見た。
「今回は農場全部です」
「何台いるんでしょう」
理央の疑問へ答えようとして、澪は考えるのをやめた。
「数えたくないです」
電源も配線も必要になる。
収納内に設備を置くことはできるが、42万tの土を照らすために市販の育成灯を並べるのは、試験の規模ではなかった。
もっと広い範囲を照らせるものが必要だ。
澪は孤児院の礼拝堂を思い出した。
灯火とは違う、魔法で生まれた明かりがある。
「サリアさん、《光》を使えますよね」
「見せてもらおう」
真壁はすぐに記録を閉じた。
「使えるかは、それからだ」
「農場の照明を習いに教会へ行くんですね」
理央が言うと、急に妙な訪問理由に聞こえた。
「言葉にすると変ですけど、そうなります」
「収納の中に農場を作った時点で、言葉だけの問題ではないと思います」
反論できないまま、澪はサリアへ頼む内容を考え始めた。
孤児院の仕事が一段落する時間を待ち、3人はサリアを訪ねた。
澪が《光》を見せてほしいと頼むと、サリアは理由を確かめるように澪を見た。
「構いません」
「今度は何に使うのです?」
「収納の中に作った農場の照明に使えないか、試したいんです」
サリアは一度だけ瞬きをした。
「……農場まで入りましたか」
「私も最初、同じところで止まりました」
理央が頷く。
止まりはしたが、誰もやめようとは言わなかった。
サリアは礼拝堂の隅に場所を移し、普段使っている範囲で《光》を出してみせた。
やわらかな光が手の上に生まれ、周囲を静かに照らす。
火のような揺らぎも熱もない。
クララが使う《微光》より明るく、別の技能であることが鑑定でも分かった。
澪は《光》へ意識を向ける。
技能の働きと形を追っているうちに、自分の中へ新しい感覚が残った。
「《光》の芽ありです」
「私も出ました」
理央が自分の鑑定結果を確かめる。
「こちらにもある」
真壁も短く報告した。
実際に農場を持っているのは澪だけだ。
澪は残っていたSPを使い、《光》を取得した。
教わった感覚をたどり、掌の上へ小さな光を出す。
サリアのものより弱く、照らす範囲も狭い。
それでも、光は安定して浮かんでいた。
「できました」
「初めてなら十分でしょう」
サリアの声は穏やかだった。
真壁は光そのものより、澪の反応を見ている。
「植物が主に使う光は、おおむね400から700nmだそうだ」
教会へ来る前に、ゲンダイ側で植物育成用の照明を調べていたらしい。
「特に青は450nm前後、赤は660nm前後が使われる」
「そこまで合わせられるでしょうか」
「分からんな」
真壁は澪の掌を示した。
「まず君の《光》を見たまえ」
澪は自分が出した光へ《鑑定》を使った。
────────────────────────
《光》
光量 [──●──────] 18%
波長 [────●────] 560nm
照射範囲 [──●──────] 1.2m
照射角 [───●─────] 60°
────────────────────────
表示を見た瞬間、澪は波長の行へ意識を止めた。
数値だけではない。
各項目が、横へ動かせるスライダーになっている。
「波長……これ、スライドになっています」
「動かせるんですか?」
「やってみます」
澪は端を少しだけ動かした。
560nmだった数字が変わり、掌の光も色を変える。
元の位置へ戻すと、数字と色も戻った。
「連動しています」
澪はもう一度、慎重にスライダーを動かした。
「波長を変えられます」
「ならば450nmへ合わせてみたまえ」
澪が数字を450nmで止めると、光は青色側へ寄った。
続けて660nmまで動かすと、今度は赤色側へ変わる。
理央が色の変化を目で追った。
「魔法なのに、調整画面が妙に細かいですね」
「細かい方が使いやすい」
真壁は当然のように言った。
「困る理由はあるまい」
「ないです」
澪は光量のスライダーを少し上げ、すぐ元へ戻した。
明るさが変わる。
照射範囲と照射角も同じように、数値と実際の光が連動した。
「むしろ助かります」
「農場の広さへ合わせるのは、戻ってからだな」
真壁の言葉に澪が頷く。
サリアは、澪の掌で青から赤へ変わる《光》を見ていた。
「私が使っている時には、動かしたことのない項目です」
「照らすだけなら、必要ありませんよね」
「農場へ使おうとも思いませんでした」
「普通は、そうだと思います」
澪が答えると、理央が小さく首を振った。
「普通の確認をしても、澪さんはもう農場を収納に入れてますよ」
サリアがわずかに笑い、澪も笑うしかなかった。
侯爵領事業所へ戻ると、澪は収納内農場へ《光》を一つ置いた。
波長を450nmへ合わせ、低い位置から照らしてみる。
真下は明るいが、そこから離れるほど急に暗くなった。
「青、450nmに合わせました」
「光量と範囲は?」
澪は鑑定表示の現在値を読み上げた。
真壁は数字を書き留め、次の報告を待つ。
澪が照射範囲を広げると、光量の表示が下がった。
「範囲を広げると、光量が落ちます」
「そこは、ちゃんと交換条件なんですね」
理央が妙に納得した声を出した。
「広げて同じなら、光源を増やす理由がなくなる」
「魔法なのに、変なところだけ現実的ですね」
「現実に使うのだから、それで結構」
真壁の返事に、理央は口を閉じた。
澪は照射範囲を戻し、農場全体の明暗を確認する。
「まだ端が弱いです」
「位置は?」
「農場の少し上です」
「天頂まで上げたまえ」
真壁は収納内を見ず、澪の言葉だけで答えた。
「横へ広げる前に高さを取ろう」
澪は《光》の位置を上げた。
照射角を調整すると、先ほどより広い範囲へ光が落ちる。
中央だけが強くならないところまで光量を下げ、足りない部分へ次の光源を加えた。
「かなり均一になりました」
「一つで済ませる必要はない」
「450nmと660nmを分けて置けばよかろう」
澪は青色側の《光》を複数に分け、間へ赤色側の《光》を作った。
それぞれを天頂部へ固定し、照射範囲と角度が重なりすぎないよう動かす。
理央には見えないため、澪が位置と明るさを報告し続けた。
「右側の区画に、少し暗いところがあります」
「近い光源を増やすより、隣の照射角を変えた方がよい」
「やってみます」
角度をわずかに広げると、暗かった区画へ光が届いた。
その代わり、手前側が弱くなる。
澪は別の光源を少しだけ寄せた。
「魔法の照明工事になってきましたね」
「農場の設備なので、たぶん合っています」
「たぶんなんですか」
「収納内農場の正解を知っている人がいませんから」
理央が真壁を見る。
「真壁さんにも分からないこと、あるんですね」
「私は収納内を見ていない」
真壁は記録の数字を指した。
「澪君が正しく報告しなければ、判断も外れる」
澪は責任が急に重くなった気がして、全区画をもう一度見直した。
青色側は450nm前後、赤色側は660nm前後にそろっている。
光量、範囲、角度も、区画ごとの偏りが少ない。
点灯と消灯は《光》の機能へ任せず、収納内工程として別に組んだ。
一定時間を昼として照らし、その後は消して夜を作る。
短い内部時間を進め、光源、温度、空気組成に異常がないことを確認した。
「これで、今度こそ植えられます」
「光については、だな」
「その言い方、まだ何か出そうで嫌なんですけど」
理央の顔が曇る。
澪は真壁が続きを口にする前に、種子の袋を手に取った。
「種をまくところまでは進みます」
用意したのは、ゲンダイ側で調達したクローバー、ソバ、レンゲソウの種だった。
どれも土作りへ使える緑肥用である。
クローバーとレンゲソウは、根粒菌を接種したものを選んだ。
空気中の窒素を、植物と菌の働きで土作りへつなげるためだ。
ただし、42万tの農場すべてへ一度にまける量を買ってきたわけではない。
澪は小さな採種区画を作り、まず3種類を増やすことにした。
収納内時間を使えば、必要な種まで自分たちで育てられる。
「畑の種を作る畑から始めるんですね」
「全部買うより、条件も確認できますから」
「育成計画が一段増えました」
「必要な一段です」
澪は自分へ言い聞かせるように答えた。
採種区画で発芽と成長を確かめ、得られた種を本区画へ広げる。
区画ごとに偏らないよう三種をまき、水分を整えた。
天頂部の《光》を点灯し、最初の時間操作を設定する。
「少し時間を進めます」
「今回は何日です?」
「最初は1日です」
「魚の時より慎重ですね」
「魚の時に学びました」
澪は1日分だけ進め、すぐに止めた。
収納内の土へ意識を向ける。
表面に変化はない。
「まだです」
「1日ですからね」
理央に慰められ、澪は水分と空気だけを確認した。
異常がないことを確かめて、もう少し進める。
土の表面に、細い緑が点々と現れた。
見落としそうなほど小さい。
42万tの基材を動かした時より、澪は慎重に視線を動かした。
「……出ました」
「どれがです?」
「3種類ともです」
澪は芽の種類を《鑑定》で分けた。
「まだ小さいですけど、発芽しています」
「根はどうかね」
真壁に訊かれ、澪は表示を地中側へ切り替えた。
白い根が火山性基材の隙間へ伸びている。
「伸びています」
「異常もありません」
「なら続けよう」
それからは数日単位で進めた。
葉が増えるたびに止め、根の広がりと水分を確かめる。
植物が増えるにつれ、二酸化炭素が減り、酸素が増えた。
澪は侯爵領の外気を補充し、空気の組成を戻す。
水分も不足する前に足した。
《光》は昼の時間だけ点灯し、夜には消す。
苗が区画を覆い始めても、一気に数か月は進めなかった。
魚粉の残量を見て慌てた記憶は、まだ新しい。
「葉がかなり増えました」
「今日は疑ってないんですか?」
「空気が減っています」
「やっぱり何か見つけてる」
澪は二酸化炭素の量を戻しながら、自分でも少し笑った。
疑っているのではない。
育っているから、使うものが増えただけだ。
それが分かるようになった分、魚の時よりは落ち着いていられた。
何度目かの時間経過を終え、澪はいつものように水分と空気を確認しようとした。
最初に目に入ったのは、数字ではなかった。
火山灰の色が見えない。
地表は濃い緑に覆われ、その上へ白と赤紫の花が広がっていた。
クローバー、ソバ、レンゲソウ。
天頂部に並べた青色側と赤色側の《光》が重なり、一面の花を照らしている。
澪は《鑑定》を開きかけて、やめた。
少しくらい、先に見てもいいと思った。
421,400t。
数字を見た理央に、それを結構でまとめるのかと呆れられた。
灰、砂、軽石、礫。
使い道を決めずに採りすぎたものだった。
今は、その上に根が張り、花が咲いている。
目の前に広がる色を見ていると、試験中だということを忘れそうになった。
収納の中には空も季節もない。
それでも澪には、春が来たように見えた。
きれいだと思うと、ほかの言葉が出てこなかった。
「澪さん?」
理央の声で、外に2人がいることを思い出した。
澪が急に黙ったため、異常が出たと思ったらしい。
「……咲いてます」
「何がです?」
「全部です」
澪は目の前にある景色を、どう言えば伝えられるのか考えた。
「レンゲも、クローバーも、ソバも、一面に咲いてます」
理央は収納の中を見る代わりに、澪の顔を見た。
「見たかったです」
「すごく、きれいです」
理央が少し笑った。
真壁は急かさず、澪がもう一度花畑へ意識を戻すのを待っていた。
しばらくしてから、静かな声がする。
「根の状態も確認したまえ」
澪は真壁を見た。
「今、ちょっと感動していたんですけど」
「感動していても根は伸びる」
「それはそうなんですけど」
理央が困ったように笑った。
澪も笑い、《鑑定》を開いた。
地表を覆う葉の下で、根は想像していたより深く、広く伸びていた。
根張りは良好。
植物の状態に異常はない。
水分と空気の組成も、補充が必要な範囲には入っていない。
「根も問題ありません」
「土へ戻せる量は?」
次の質問で、この花畑が完成ではないことを思い出す。
育てた植物は眺めるためではなく、まだ足りない有機物を土へ入れるためのものだった。
きれいに咲いたものを刈るのは惜しい。
それでも、火山灰の上へ花を咲かせることが目的だったわけではない。
「十分にあります」
澪は答えながら、刈らずに残す区画を先に決めた。
全部を刈る必要はない。
そのくらいは、農場を作った人の権限で決めてもいいはずだった。
澪は花畑の一部だけを刈り戻した。
クローバー、ソバ、レンゲソウを細かくし、土の表面へ薄く広げる。
根は抜かず、そのまま土の中へ残した。
「……刈ります」
作業を始める前に言うと、理央が少し残念そうな顔をした。
「惜しいですね」
「はい」
澪は刈らずに残した区画へ意識を向けた。
「でも、土にするために育てたので」
次に必要なのは、植物を土へ戻す生き物だった。
侯爵領の畑と堆肥置き場を管理する人へ事情を説明し、蚯蚓を少量だけ分けてもらった。
澪は異常や有害な反応がないことを《鑑定》し、湿った土ごと収納する。
自分の農場区画へ移したあとも、すぐには時間を進めなかった。
餌になる植物残渣、水分、酸素の状態を先に確かめる。
「魚の次が蚯蚓になるとは思いませんでした」
理央が容器の底に残った土を見た。
「今回は育てるのが目的ではありませんよ」
「時間を進めるなら、結果として育つだろうがね」
真壁が先に事実を置いた。
「先に言わないでください」
理央が止めた時には、もう澪も同じことを考えていた。
短い時間だけ進め、最初は生存を確認する。
蚯蚓は湿った土へ潜り、表面から姿を消した。
数日分を進めると、細かくした植物残渣が少し減っている。
代わりに、蚯蚓の糞が増えた。
澪は水分と空気を整え、さらに時間を進める。
若い個体が現れた。
投入した成体も、前より太くなっている。
「増えてます」
「またですか?」
理央の反応が早い。
「今回は増えていいんです」
「魚の時も、最初はそういう顔をしてませんでした?」
「今回は土を作ってくれています」
「魚も試験結果は作ってくれましたよ」
澪はすぐに返せなかった。
言われてみれば、そのとおりだった。
「個体もよく育っているようだな」
真壁が澪の報告書を見ながら言った。
「大きくなっています」
澪は農場区画の表層を《鑑定》した。
「土の状態も、少し変わりました」
植物残渣の分解が始まり、表面近くの通気がよくなっている。
水分を抱え込める量も増え、粒が小さな塊を作り始めていた。
澪は、作業を終えた時点の収納一覧を開いた。
──────────────────────────────────
分類 収納量
改良火山性農土 434,762t
鉄系鉱物 350t
チタン系鉱物 230t
その他重鉱物 30t
高純度石英系鉱物 190t
長石系鉱物 110t
その他岩石鉱物 30t
火山性結晶鉱物 50t
副成分鉱物 5t
熱水性鉱物・結晶片 2.7t
蛍石系高品質結晶 0.118t
紫水晶・石英系高品質結晶 0.074t
ジルコン系結晶 0.031t
その他の希少鉱物 0.042t
異世界固有結晶 0.035t
──────────────────────────────────
採取時より増えた分は、中和材、水分、育った植物体など、あとから農場へ加えたものだった。
まだ完成した農土ではない。
火山性の基材へ植物が根を張り、その植物を蚯蚓が食べ、また土へ返す。
循環は始まったばかりだった。
「これ、農場を作ってるんですよね?」
理央が念を押す。
「そのはずです」
「今は土を育てているところだな」
真壁の言葉を聞きながら、澪は収納内を見渡した。
刈らなかった区画には花が残っている。
その隣では、土の中を蚯蚓が動いていた。
魚の時と違い、増えた数を見て困る必要はない。
たぶん。
「澪さん、今ちょっと不安になりませんでした?」
「なっていません」
「間がありました」
「確認しただけです」
「何をです?」
澪は少し迷ったあと、正直に答えた。
「蚯蚓が増えすぎた時のことを」
理央が笑った。
真壁はすでに、蚯蚓の密度を確認する項目を記録へ足している。
収納の中に作れるかもしれないと思った農場は、花を咲かせ、土を育て始めていた。