セルマの工房は、いつ来ても鼻の奥に残る匂いが違った。
今日は、乾いた薬草の甘い匂いに、炭火の熱と、古い金属を磨いた時の冷たい匂いが混じっている。石床はよく掃かれていて、作業台の下には細かな草の欠片ひとつ落ちていない。壁際の棚には、茶色や緑の薬瓶が並び、口を蝋で封じた細い瓶には、セルマの細い字で材料名と日付が書かれている。
澪は、その棚を見るたびに、自分の六畳間の在庫棚を思い出して、少しだけ背筋が伸びた。
こっちは本物の工房だ。
こちらの棚には、間違えて飲んだらまずそうなものが、普通の顔をして並んでいる。
「座って」
セルマが、作業台の前にある丸椅子を顎で示した。
澪が腰を下ろすと、セルマは奥の棚から古い革表紙の本を取り出した。表紙は何度も手で開かれたせいで角が柔らかくなり、革紐の結び目には乾いた薬草の粉が入り込んでいる。
「見習い用の教本よ。あなたには遅すぎるところと、早すぎるところが同時にあるから、まず入口から確認するわ」
「入口からお願いします」
澪は素直に両手を出した。
セルマは本を渡しながら、澪の手元を見た。
「読める?」
「……鑑定が補助してくれます」
「便利ね」
「便利なんですが、たまに言い方が刺さります」
リュシアは作業台の端に片肘をつき、棚に並ぶ瓶を眺めていた。商人の目である。中身を見ているのか、瓶を見ているのか、値段を想像しているのか、澪には分からない。
澪は教本を開いた。古い頁から、乾いた草と油の匂いが立つ。文字はこの世界のものだが、鑑定が薄く意味を重ねてくれる。目で読むというより、読める形に整えてもらっている感覚に近かった。
開いた頁には、「蒸気と抽出」とあった。
澪はゆっくり読み上げた。
「液は、火にかけずとも外気へ逃げる。これを蒸発という。水は湯気となり、冷えれば雫へ戻る。草木の力は、水へ移る。ただし、水へ移るものは一つではない。香り、苦味、渋み、薬効、毒、灰汁。熱と時間を誤れば、欲しいものだけでなく、不要なものまで水へ出る。薬草を煮る者は、何を出したいのかを先に決めよ」
読み終えたところで、澪は本から目を離した。
洗濯物は、100℃にならなくても乾く。ベランダの手すりに干したタオルは、冬でも時間が経てば軽くなる。濡れた手も、何もしなくてもそのうち乾く。水は沸騰しなくても、少しずつ外へ逃げている。
それから、お茶。
緑茶は熱すぎる湯で淹れると苦くなる。紅茶も長く置くと渋くなる。出汁も、火加減と時間で味が変わる。
同じ葉でも、同じ水でも、出てくるものが変わる。
「蒸発って、沸騰だけじゃない。抽出って、煮ればいいわけじゃない」
澪が呟くと、セルマは少しだけ口元を緩めた。
「そこに気づいたなら、ポーションの話ができるわ」
「ポーションの話に、洗濯物がつながるんですか」
「つながるわよ。物が変わる時に、何が移動しているのかを見るのが錬金術だから」
リュシアが、そこで初めてこちらを見た。
「洗濯物と薬が同じ棚に並ぶとは思わなかったね」
「私もです」
澪は教本を閉じかけて、もう一度頁を見た。
薬草を煮る者は、何を出したいのかを先に決めよ。
そこだけが、やけに重く見えた。
セルマは作業台の右側に置いていた木箱から、一本の瓶を取り出した。濃い緑色の液体が入っている。瓶の底には細かな沈殿が溜まり、揺らすと濁った粉がゆっくり舞い上がった。
「普通の初級ポーションよ」
澪は思わず顔を近づけた。
「近いわ。錬金術師は鼻を大事にしなさい」
セルマの声が、思ったより鋭かった。
澪は慌てて顔を引いた。セルマは澪が離れたのを確認してから、瓶の蓋を開ける。すぐに、煮詰めた草の匂いが工房の匂いに混じった。青臭さと、少し焦げたような苦味の気配がある。喉の奥が勝手に身構えた。
リュシアは顔をしかめた。
「効きそうな匂いではあるね。飲みたい匂いじゃないけど」
「効くわ。飲みやすくはないけれど」
セルマは瓶を作業台に置いた。
澪は、少しだけ呼吸を整えてから鑑定をかける。
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従来初級ポーション
分類:錬金薬
薬効:あり
エグミ:強い
苦味:強い
渋み:中
青臭さ:強い
濁り:あり
沈殿:あり
評価:薬効と不要成分が同時抽出されている
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「薬効が苦いんじゃなくて、苦いところも一緒に出てるんですね」
澪は瓶を見たまま言った。
セルマは否定しなかった。
「薬草を煮れば、薬効だけが都合よく出るわけではないの。葉の苦味も、茎の渋みも、潰れた葉肉の青臭さも、灰汁も出る。濾し布を使っても、全部は取りきれない」
「それでも効くから、飲むんですね」
「ええ。痛い時は、味より効き目を取るものよ」
その言葉には重みがあった。セルマは、そういう瓶を何本も作ってきたのだろう。澪は従来ポーションを悪く言う気にはなれなかった。効く薬が苦いのではなく、効くものを出す時に、嫌なものも一緒に出てしまうだけだ。
セルマは、新しい薬草を一本取り出した。
薄い緑の葉が数枚ついた草だった。葉脈の近くには、光に透かすと分かるほどの透明な汁が通っている。茎は細いが、指で折るには少し硬そうだった。
「治癒草。初級ポーションの基本材料の一つよ」
澪はそっと鑑定をかけた。
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治癒草
主薬効:切り傷修復
薬効部位:葉脈周辺の透明汁
抽出推奨法:蒸気浸透抽出
薬効移行媒体:清め水の蒸気
推奨蒸気温度:46〜52℃
推奨通過時間:14分
回収方法:冷却後、雫を採取
残留推奨:エグミ、苦味、渋み、粘り、青臭さ
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「蒸気浸透抽出……」
澪は、表示の中の言葉をそのまま読んだ。
セルマの手が止まった。
「薬草を煮るのではなく、湯気を通すのね」
「はい。薬草を水に沈めないので、エグミや濁りを連れてこないみたいです」
澪は、従来ポーションの瓶と、まだ瑞々しい治癒草を見比べた。
同じ薬草から始まるはずなのに、片方は濁った緑色の液体になり、もう片方は、まだ葉の内側に透明な汁を抱えている。煮崩せば全部出る。けれど全部出るから苦くなる。
だったら、水を先に湯気にして、その湯気に必要なところだけ通らせる。
言葉にすると簡単すぎる。
でも、鑑定が見せているのは、その簡単すぎることをやれという表示だった。
セルマは従来ポーションと治癒草を何度も見比べた。
「理屈は通るわ。制御できるなら、だけれど」
「制御……」
「湯気を強く当てすぎれば、葉が傷む。温度が高すぎれば、いらないものも出る。低すぎれば、薬効が移らない。普通なら、そこで失敗する」
澪は、小さく頷いた。
普通なら。
その言葉が、いちばん怖い。
セルマは小炉の上に小鍋を置いた。中には清め水が入っている。工房の井戸水とは違い、薄く澄んだ光が底に沈むように見えた。
澪は収納から現代側の温度計を取り出す。
リュシアがそれを見て、目を細めた。
「また変な棒が出た」
「温度を見る道具です」
「澪の国は、棒で何でも見るんだね」
「何でもではないです」
澪は温度計を小鍋に入れ、数字を確認した。セルマが小炉の炭火を細く調整する。清め水の表面から、わずかに揺れる気配が立ち始めた。沸騰の泡ではない。鍋の内側から、湿った温かさが上がってくる。
「46℃を超えました。まだ強くしすぎない方がよさそうです」
セルマは火ばさみで炭を少し横へ動かした。
「湯気を使うのに、煮立てないのね」
「表示は46〜52℃です。高くしすぎると、青臭さとか出るかもしれません」
リュシアは、作業台に並んだ道具を眺めていた。
下には清め水。中段には治癒草。上には冷やした銀皿。その下に、雫を受ける小瓶。
澪は指で位置を示した。
「下の清め水を湯気にします。湯気が治癒草を通ります。上の冷たい皿に触れて、雫に戻ります。その雫を小瓶に落とします」
「それを、この机の上でやるんじゃないんだね」
リュシアの声には、もう商人の勘が戻っていた。
「はい。実際には収納の中で、工程として登録します」
「工程として登録」
セルマが繰り返した。
その声の温度が下がった。
澪は温めた清め水、治癒草、冷やした銀皿、小瓶を順に収納へ入れた。入れるだけなら、いつもの収納だ。水は水として、薬草は薬草として、皿は皿としてしまわれる。
けれど今回は、それでは終わらせない。
澪は鑑定表示を見ながら、ひとつずつ声に出した。
「蒸気源、清め水。通過層、治癒草。回収先、冷却瓶。目標、薬効のみを蒸気へ移す。除外、エグミ、苦味、渋み、青臭さ、粘り、濁り」
収納の奥で、置いただけの材料が、ひとつの流れとして並び直す感覚があった。棚に入れたものが、道具として手をつないだような、奇妙な感覚だった。
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工程登録
治癒草蒸気浸透抽出
蒸気源:清め水
通過層:治癒草
回収先:冷却瓶
目標:薬効のみを蒸気へ移す
除外:エグミ、苦味、渋み、青臭さ、粘り、濁り
必要蒸気温度:46〜52℃
必要通過時間:14分
開始します
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「開始しますって出ました」
澪は思わず呟いた。
セルマが、作業台に置いていた銀匙を握ったまま、澪を見た。
「収納の中で、蒸気の通り道を作ったのね」
「はい。たぶん、そうです」
リュシアは澪ではなく、セルマの表情を見ていた。セルマが冗談を受け流す顔ではない。工房の火加減を間違えた時よりも、ずっと慎重な顔をしている。
「澪、それ、かなり変なことをしてるんだね」
「自覚は、今から出ます」
澪はそう答えて、もう一度収納内を鑑定した。
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蒸気浸透抽出中
経過時間:03分
蒸気通過:安定
薬効移行:18%
エグミ移行:0%
苦味移行:0%
渋み移行:0%
青臭さ移行:0%
冷却雫:形成開始
推奨:継続
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「経過時間3分。蒸気通過、安定。薬効移行18%。エグミ、苦味、渋み、青臭さは0%。冷却雫、形成開始。推奨、継続」
澪が読み上げると、セルマの眉が少し寄った。
「エグミまで見えているの?」
「はい。移行していないことも出ます」
「移行していないことが分かるのは、大きいわね」
セルマは従来ポーションの瓶を見た。
「これは濾過ではないわ。混ざってから取るのではなく、混ざらないようにしている」
澪はその言葉で、ようやく自分のしていることの形が少し分かった。
薬草を水に入れて煮れば、全部出る。全部出た後で、濾す。薄める。整える。苦味を隠す。
でも今は、最初からエグミを水に入れないようにしている。
混ざったものを取り除くのではなく、混ざらせない。
それは、料理でいえば焦がしてから焦げを取るのではなく、最初から焦がさないように火を見ているようなものだった。
澪は、もう一度鑑定した。
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蒸気浸透抽出中
経過時間:08分
蒸気通過:やや強い
薬効移行:57%
エグミ移行:0%
苦味移行:0%
渋み移行:0%
青臭さ移行:微量
推奨:蒸気量を弱める
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「蒸気量を弱めるって出ました」
澪は慌てて言った。
セルマはすぐに治癒草の葉を見た。現物は収納の中にあるのに、まるで目の前にあるかのように顔が険しくなる。
「葉肉に触りすぎているのね。青臭さが出始めている」
「どうすれば」
「蒸気を葉全体に当てない。葉脈の近くをなでるように通す。葉を叩くのではなく、湿らせる程度に」
なでるように。
澪は目を閉じた。収納内の治癒草を思い浮かべる。清め水から立つ湯気を、太い白い流れではなく、薄く細い湿り気として整える。葉の表面を荒らさず、葉脈の近くにある透明な汁だけに触れるように、通り道を細くする。
鍋を振っているわけではない。火を弱めているわけでもない。
けれど、手元は忙しかった。
見えない工房で、見えない湯気の向きを変えている。
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蒸気浸透抽出中
経過時間:09分
蒸気通過:安定
薬効移行:64%
青臭さ移行:停止
推奨:継続
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「止まりました」
澪は息を吐いた。
リュシアが横で笑った。
「澪、鍋も振ってないのに忙しそうだね」
「見えない鍋を見てる感じです」
「それは大変そうだ」
「はい。すごく大変です」
そう言いながら、澪は少しだけ笑った。
14分後、鑑定表示が変わった。
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蒸気浸透抽出中
経過時間:14分
蒸気通過:完了
薬効移行:96%
エグミ移行:0%
苦味移行:0%
渋み移行:0%
青臭さ移行:微量
冷却雫:回収可能
推奨:回収
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「回収します」
澪は、収納から小瓶を取り出した。
瓶の底には、透明な雫が少しだけ溜まっていた。量は多くない。けれど、従来ポーションのような濁りはなく、緑色でもない。光にかざすと、ほんのわずかに淡い色を帯びて見える程度だった。
鑑定をかける。
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治癒草薬効露
分類:抽出露
主薬効:切り傷修復
製法:蒸気浸透抽出
透明度:高
エグミ:なし
苦味:なし
渋み:なし
濁り:なし
青臭さ:微弱
魔力:未安定
推奨:月塩による安定化
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セルマが瓶を受け取った。
彼女は蓋を開けずに、まず光に透かした。次に、瓶を軽く傾け、底に沈殿がないことを確認した。それから、ほんの少しだけ蓋を緩め、匂いを見た。
セルマはしばらく黙っていた。
「これは、薬草を煮た水ではないわ」
澪は頷いた。
「薬草を通った雫です」
「薬効を抱えて戻ってきた水ね」
セルマの声は低かった。
その言い方で、澪は胸の奥が少しだけ熱くなった。成功した、というより、何か一つ、自分でも分かる言葉になった気がした。
薬草を煮た水ではない。
薬効を抱えて戻ってきた水。
セルマは瓶を作業台に置いた。
「でも、まだポーションではないわ」
「え、違うんですか」
「効く雫ではある。でも、薬としては落ち着いていない」
セルマは棚から、小さな陶器の壺を取った。中には、薄く銀色を帯びた細かな粒が入っている。月塩だと、澪は以前聞いたことがある。魔力の揺れを落ち着かせる、錬金術師の基本素材だ。
セルマは銀匙の先に、ほんの少しだけ月塩を取った。
「多すぎれば鈍る。少なすぎれば暴れる」
「表示、見ます」
澪が薬効露を鑑定すると、推奨量が曖昧ではなく、銀匙の先に乗るほどの微量として見えた。セルマは澪の顔を見て、それ以上聞かずに月塩を落とした。
透明な雫の中で、淡い光が一度だけ揺れた。
次に、蜜晶を小さく砕く。飴の欠片のような結晶を、セルマは爪の先ほど加えた。甘味を足すためだけではなく、口当たりと保存性を整えるためだという。
澪は鑑定をかけた。
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上等初級ポーション
分類:錬金薬
製法:蒸気浸透抽出
主成分:治癒草薬効露
安定化:月塩
補味:蜜晶
薬効:小さな切り傷、擦り傷、軽い打撲の回復補助
エグミ:なし
苦味:ほぼなし
渋み:なし
濁り:なし
透明度:高
品質:上等
評価:薬効のみを雫に集めた初級ポーション
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「ポーションになりました」
澪が言うと、セルマは従来品の瓶を横に並べた。
濁った緑の瓶。
透明に近い小瓶。
同じ初級ポーションという言葉で呼ぶには、見た目が違いすぎた。
セルマは低く言った。
「これは、錬金術師が見たら黙るわね」
リュシアは即答した。
「売れるね」
澪は嫌な予感がした。
その言い方は、だいたい話が大きくなる時の音だった。
セルマは従来ポーションを水で薄め、銀匙の先に一滴だけ取った。澪にも匂いだけ確認させる。やはり青臭い。苦味の気配が強い。
次に、澄みポーションを一滴だけ銀匙に乗せる。
セルマが先に舐めた。しばらく口の中で確かめ、それから頷く。
「子どもでも飲めるわ」
「そんなに違いますか」
澪もほんの少しだけ確かめる。薬の味はある。だが、喉を引っ掻くような苦味がない。青臭さも薄い。蜜晶の甘みが、嫌な味を隠すためではなく、液そのものに軽く添えられている。
「薬なのに、味がそんなに大事ですか」
澪が聞くと、セルマはすぐに答えた。
「弱った人間が飲めない薬は、薬として半分失敗よ」
それは、笑うところではなかった。
リュシアは小瓶を指で軽く弾いた。小さな音が作業台に響く。
「子ども、貴族、怪我人、薬嫌い。売り先が増えたね」
「売り先って」
「使う人が増えるってことだよ。飲める薬は強い」
セルマは棚から小さなガラス瓶をいくつか出した。どれも形が少しずつ違う。口の太さも、蓋の作りも、厚みも揃っていない。
「売るなら瓶がいるわ」
リュシアはすぐに首を振った。
「ガラスは割れる。重い。高い。同じ形で数を揃えるのも難しいね」
澪はそこで、現代側の店で見たことのある小さな容器を思い出した。
点眼薬のような小さなボトル。化粧品の試供品に使うような容器。透明な使い切り容器。
ただし、今ここに実物はない。
スマホもない。ネットもない。値段もサイズも分からない。
「軽くて、割れにくい小さい容器が、あたしの国にはあったと思います」
「思います、かい」
リュシアはそこを聞き逃さなかった。
「はい。ここでは調べられません。戻ってから、実物を探します」
「なら、容器の話は実物を見てからだね」
リュシアはあっさり言った。
「え、まだ決めないんですか」
「見てもいない物で商売の決まりを作るほど、私は親切じゃないよ。軽い、割れにくい、小さい。そこまでは分かった。けど、蓋が甘いかもしれない。匂いが移るかもしれない。高すぎるかもしれない。薬に使えないかもしれない。実物を持っておいで」
「はい」
澪は頷いた。
言われてみれば当然だった。
現代側で見たことがある、というだけで、異世界側の商品仕様まで決めるのは危ない。
「ただし、本当に割れない小瓶なら、容器そのものを欲しがる者は出る」
リュシアは、そこだけは先に釘を刺した。
「だから、実物を見たら、容器の扱いも一緒に考える。回収するか、売り切りにするか、工房印を付けるか。そこは後だ」
「後ですね」
「そう。後だよ。澪は先に持ってくる」
澪は、頭の中で現代側の買い物リストに「小型容器」と書き足した。
まだ鑑定はできない。
まだ商品にもできない。
まずは実物だ。
澪は、薬効露の小瓶を見た。
「これ、飲むだけじゃなくて、傷に塗れませんか」
セルマは少し考えた。
「布に含ませれば使えるわ。ただ、液だから流れる。傷の上に留まりにくい」
「ですよね」
澪は、現代側の薬局や通販で見たことのある材料を思い出した。
保湿剤。化粧品に使う、とろっとした透明な液体。水と混ざりやすく、肌に残りやすいもの。
名前は、たしかグリセリン。
けれど、ここに実物はない。
鑑定もできない。
「あたしの国に、肌に残りやすい、とろっとした材料があったと思います。グリセリン、だったはずです」
「だったはず?」
セルマが聞き返した。
「はい。実物を持ってきてから確認します。今は、たぶん、です」
「それなら試すのは次ね」
セルマは無理に話を進めなかった。
「水と混ざるのか、薬効を邪魔しないのか、傷に使ってよいのか。実物を見てから判断するわ」
「はい」
リュシアも頷いた。
「飲む薬と塗る薬は、実物が来てから分ける。容器も、ラベルも、印も、その時に決めるよ」
澪は、そこで少しだけ安心した。
今日ここで全部決まらない。
決まらない方が、むしろ正しい。
現代側に戻って、容器を見て、材料を見て、買える量と値段を確認して、それから異世界へ持ち込む。
押入商会の仕事は、また一つ増えた。
「名前だけは仮で決めておこうか」
リュシアが言った。
「仮ですか」
「飲む方は澄みポーション。塗る方は……実物次第だけど、澄み塗り薬。客に通じない名前は売れないからね」
「ジェルとかじゃないんですね」
「ジェルが何か分からない客に売るのかい」
「売れません」
「そういうことだよ」
セルマは従来ポーションと澄みポーションを並べたまま、少しだけ考え込んでいた。
「錬金術師向けの記録名は、蒸気浸透抽出型上等初級ポーションでいいわ。塗る方は、実物の基材を見てから決める」
「名前が多いです」
「売る相手が違えば、名前も変わる」
リュシアの言い方は、帳面に列を増やすように軽かった。
澪は、押入商会の商品管理表に、また列が増える予感がした。
「怪我人用なら、安い方がいいんじゃないですか」
澪が小さく言うと、リュシアは首を振った。
「安くすると買い占められる。薬師や錬金術師に恨まれる。従来品の値段も壊す。セルマさんの工房が作りきれない数の注文を受ける。偽物も出る」
リュシアはそこで、作業台の小瓶を見た。
「容器の話はまだ後だけど、もし変わった容器に入れるなら、それだけで狙われる可能性もある」
言われてみれば、全部ありそうだった。
セルマも静かに言う。
「これは従来品を否定する品ではないわ。上等品として扱うべきよ」
従来ポーションは、人を助けてきた。苦くても、濁っていても、必要な人の手に届いてきた。澪式は、そこへ突然割り込む新しい品だ。便利だから安く広めればいい、という話ではない。
澪は、透明な小瓶を見た。
「最初は、売らない方がいいですね」
「ええ。工房内確認品として数本作る。その後、少数の試作ロット。販売はセルマ工房印を付けてから」
リュシアが頷く。
「澪の名前は表に出さない。押入商会は、必要な物を持ってくる役。表の顔はセルマさんの工房」
「その方がいいです」
澪は本気でそう思った。
その時、急に肩が重くなった。気づかないうちに、ずっと集中していたらしい。収納の中で蒸気を通し、鑑定表示を追い、雫を回収し、ポーションに仕上げるところまで見ていた。身体は動いていないのに、頭だけ全力で走っていた感じがする。
セルマが澪の顔を見た。
「自分を鑑定してみなさい」
「はい」
澪は少し怖くなりながら、自分へ鑑定を向けた。
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篠原澪
体力:低下
集中:高
鑑定:6
収納:6
錬金:3
商才:上昇中
手仕事:成長中
彫金:1
新規理解:蒸気浸透抽出
新規工程:薬効露化
備考:薬草を煮ずに、効く雫を集めた
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澪は表示を見たまま固まった。
「三つ、上がってる……」
鑑定。収納。錬金。
どれか一つではなかった。
薬草を見る力。収納の中で蒸気を通す力。雫を薬として整える力。その三つが、今の作業で同時に使われた。
セルマは、驚くというより、納得していた。
「当然よ。あなたは今、見る、分ける、作るを一つの工程にしたの」
「当然なんですか」
「錬金術師が別々に学ぶ仕事よ。素材を見る。不要なものを外す。必要な形に整える。それを一度にやった」
リュシアが横から言った。
「つまり、澪がまた面倒なものを作れるようになったってことだね」
「言い方」
「違うのかい?」
澪は否定できなかった。
続けて、収納6を詳しく鑑定してみる。
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収納:6
新規理解:工程空間化
登録可能工程:蒸気浸透抽出
蒸気源指定:可能
通過層指定:可能
回収容器指定:可能
工程内時間:進行
成分移行監視:可能
雫回収:可能
備考:保管するだけの収納ではなくなりつつある
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「保管するだけの収納ではなくなりつつある……」
最後の一行を読んで、澪は声が小さくなった。
豆をしまう。水をしまう。銀材をしまう。小金貨をしまう。そこまでは、まだ分かる。
でも今の収納は、清め水を蒸気にし、薬草を通し、冷えた雫を瓶へ落とした。しまう場所ではなく、作業場所になっている。
セルマが聞いた。
「何が見えたの?」
「収納が……作業場になりました」
「作業場?」
「材料と道具を入れるだけじゃなくて、工程として登録できます。蒸気を通す場所、薬効を移す場所、雫を集める瓶まで、収納内で指定できます」
リュシアが小瓶を見て、低く言った。
「つまり、押し入れの中に工房が一つ増えたってことかい」
澪は否定できなかった。
さらに、錬金3を鑑定する。
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錬金:3
新規理解:薬効露を錬金薬へ整える
調合可能:澄みポーション
調合可能:澄み塗り薬
補助素材適性:月塩、蜜晶
品質調整:可能
用途分岐:可能
連動工程:蒸気浸透抽出
備考:拾った雫を、売れる薬へ変えられる
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澪は表示を読んで、顔をしかめた。
「拾った雫を、売れる薬へ変えられる……」
売れる薬。
そこだけ、妙に商売臭かった。
リュシアは即座に拾った。
「違うのかい?」
澪は透明な小瓶を見た。
違わなかった。
リュシアは、もう必要なものを数え始めていた。
「小型容器。塗り薬に使えそうな材料。塗る方の容器。ラベル。封をするもの。小箱。記録帳。温度計の予備。保管箱」
「待ってください。急に現代側の買い物リストになりました」
「急じゃないよ。商品を作るなら必要だろ」
澪は現代側の法人カードを思い出した。領収書。帳簿。明石さんの真顔。小型容器と化粧品材料らしきものを大量に買う大学生。
いや、もう大学生として買うわけではない。
合同会社押入商会として買うのだ。
「小型容器と、たぶん化粧品材料っぽいものを大量に買う大学生……」
澪が呟くと、リュシアは笑った。
「大学生じゃなくて、合同会社押入商会の仕入れだろ」
「そう言われると、もっと重いです」
「軽い薬瓶を探すのに、重いのかい」
「精神的に重いです」
セルマは、澪とリュシアの会話を聞きながら、澄みポーションの小瓶を布で包んだ。
「飲む方は澄みポーション。塗る方は、実物を見てから決める。仮の名前は澄み塗り薬。今日はそこまでね」
リュシアが言った。
澪は工房の出口へ向かいながら、小さく呟いた。
「高い水の次は、苦くない治る水と、たぶん塗る治る水……」
「違うよ。飲む効く雫と、塗るかもしれない効く雫だ」
リュシアは即座に訂正した。
「まだ仮なんですね」
「実物を見てないからね」
セルマは小瓶を見ながら、静かに言った。
「錬金術師は今日から、苦くないポーションに苦しむことになるわね」
澪は疲れた顔で返した。
「苦くないのに、苦しむんですか」
リュシアが笑う。
「売れるものは、だいたい誰かが苦しむんだよ」
澪は、透明な小瓶を見た。
中にあるのは、ほとんど水に見える雫だった。けれどその雫は、薬草のエグミを置いてきた。苦味も、濁りも、青臭さも、できるだけ連れてこなかった。
薬草を煮ずに、効くところだけを連れて戻った雫。
それは、押入商会の棚に、新しい場所を要求していた。