押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第351話 卵がありません

 

 共同商館の賑わいを背中へ置いて、新事業所へ続く道を澪は一人で歩いていた。

 

 昼を過ぎても通りを行く荷車は多く、車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、積み荷の木箱ががたがたと鳴る。

 

 店先では春野菜が籠へ並べられ、その脇を走り抜けようとした子どもが、店の女に襟をつかまれていた。

 

 軒先から落ちる日の光はもう冬の弱さを残しておらず、通りの土埃を白く照らしている。

 

 肉屋の前には塩漬け肉が吊られていたが、買っていくのは財布に余裕のありそうな客ばかりだった。

 

 その隣では、母親らしい女性が豆の袋を持ち上げ、重さを聞いてから小さい方へ戻している。

 

 澪には、そんな動きばかりが目に入った。

 

 少し前まで共同商館で働いていたトトも、昔ならあの中へ混じっていたかもしれない。

 

「トト君、しっかりしたなぁ」

 

 今のトトは、頼まれた品を運ぶだけではない。

 

 周りの手が塞がっていれば自分から動き、年下の子が困っていれば声を掛けていた。

 

 焼き芋の匂いに釣られて寄ってきたところは昔とあまり変わらなかったが、それも少し安心するところだった。

 

 背が伸びたと言っても、まだ大人に紛れれば小さい。

 

 それでも、運ぶ木箱の底へ手を当てる位置も、人の間を抜ける時の声の掛け方も、もう誰かに教えられる側のものではなかった。

 

 あの子が自分の力で暮らしている。

 

 それが嬉しいからこそ、育つ途中で足りなかったものまで思い出してしまう。

 

 澪の記憶に、初めて会った頃の細い腕が浮かぶ。

 

 あの頃、鑑定に出た《たんぱく質:不足》の文字を見て、何か食べさせなければと思った。

 

 できることが少なかった澪は、ゲンダイから大豆を持ってきた。

 

 食べてもらい、畑へ植え、もやしにもした。

 

 今では、その大豆を収納内の農場で約500tも作るようになっている。

 

 500tという数字は、昔の澪なら紙に書いただけで計算間違いを疑ったはずだ。

 

 今は収納の在庫に表示されているせいで、実物の山が見えない。

 

 だから時々、とんでもない量を作った本人だけが平然としている。

 

 リュシアに叱られたばかりなのに、思い返すと自分でも少し笑えてきた。

 

「大豆は作れるようになったけど……」

 

 量だけを考えれば、ずいぶん遠くまで来た。

 

 しかし、大豆が大量にあるからといって、毎日の食卓がそれだけでよいわけではない。

 

 肉はあるが、いつでも子どもへ回せるほど安くはない。

 

 魚も土地によっては手に入りにくい。

 

 生かしたまま、繰り返し採れるものがあればいい。

 

 朝の食卓へ1個ずつ置けるものなら、肉を切り分けるより分かりやすい。

 

 病気の子には柔らかく煮てもよいし、働く子には豆や野菜と一緒に食べてもらえる。

 

 献立まで考え始めたところで、澪はようやく、自分が探しているものに気づいた。

 

 そこで足が止まった。

 

「……卵か」

 

 野鳥はいるし、その卵を食べることもある。

 

 けれど、人のそばで飼われ、毎日のように卵を産む鶏を、この世界では見たことがない。

 

 もし鶏を育てられれば、豆とは別のたんぱく源を増やせる。

 

 そう考えた直後、澪の胸に小さな警戒が生まれた。

 

 魚を育てようとした時も、始まりはこれくらい単純だった。

 

「鶏、育てられるかな……」

 

 口にしてみると、警戒より先に方法を考え始めていた。

 

 

 

 

 

 江古田の事務所へ戻った澪は、自分の部屋で帳面を開いた。

 

 窓から入る午後の日差しが、机の端まで伸びている。

 

 廊下の向こうでは誰かが荷物を運び、板張りの床が短く鳴った。

 

 澪は新しい頁へ、鶏、有精卵、孵化と書き並べた。

 

 生きた鶏をゲンダイから連れてくるより、卵から始めた方が扱いやすい。

 

 孵化から育成まで収納内で試せるなら、異世界へいきなり持ち込まずにも済む。

 

「何を書いてるんですか?」

 

 開けたままの扉から理央が顔を出し、机の横まで来て帳面をのぞき込んだ。

 

「有精卵です」

 

「夕飯ですか?」

 

「孵します」

 

「食べない方だった」

 

「食べる方も欲しいですけど、先に鶏です」

 

 理央は帳面の3文字を順番に見てから、澪の顔へ戻った。

 

「どこで買うんです?」

 

「ネット通販で探そうかと」

 

「それなら、江古田駅の近くにありますよ」

 

「有精卵がですか?」

 

「こだわった食材ばかり置いてるスーパーです」

 

「前にお母さんと入った時、有精卵もありました」

 

 澪の頭に、照明が明るく、棚の間隔が広く、値札の数字だけがあまり優しくない店が浮かんだ。

 

「ああ、お高そうなお店ですね。学生の私は寄りつけない。さすが社長令嬢、箱入り娘」

 

「社長が何言ってるんですか」

 

「会社のお金と、学生の財布は別です」

 

「卵を50個買おうとしてる人が言っても説得力ないですよ」

 

「まだ50個とは言ってません」

 

「何個のつもりだったんです?」

 

「50個くらいから」

 

「言ってるじゃないですか」

 

 廊下から足音が近づき、真壁が扉の前で止まった。

 

「何が50個なのだね」

 

「鶏の卵です」

 

「食べるのか」

 

「私も最初そう思いました」

 

「孵します」

 

「なるほど」

 

 真壁はそれだけ言って部屋へ入り、帳面へ目を向けた。

 

「そこ、すぐ納得するんですね」

 

「有精卵なら孵すこともできよう」

 

「トト君たちに、豆以外でもたんぱく質を取れるものがあった方がいいと思ったんです」

 

 澪がそう言うと、真壁の視線が帳面から外れた。

 

「ならば試せばよい」

 

「やっぱり止めないんですね」

 

「止める理由があるのかね」

 

「ないですけど、ないのが困るんです」

 

 理央の言葉には、澪にも覚えがあった。

 

 真壁は無茶を勧めているつもりはなく、できることを止める理由がないだけなのだ。

 

 だから、止まる場所は自分たちで決めなければならない。

 

「最初は50個だけにします」

 

「孵化するか、育つか、その後に繁殖できるかだな」

 

「順番に見ます」

 

「その言葉、覚えておきますね」

 

 その日の仕事を終えると、3人は押入れを通ってゲンダイへ戻った。

 

 江古田の六畳間へ出た途端、開けた窓から電車の走る音が聞こえた。

 

 異世界側では春の光が残っていたが、こちらはもう夕方に近い。

 

 澪は上着を替え、理央に案内されて江古田駅の方へ歩いた。

 

 商店街には買い物帰りの自転車が行き交い、飲食店から夕食の匂いが流れている。

 

 理央が足を止めたのは、深い緑色の看板を掲げた「グラン・セレクト江古田店」の前だった。

 

 入口に並ぶ野菜は形が揃い、産地を書いた札まで妙に上品に見える。

 

「外からもう高そうです」

 

「値段を見てから言ってください」

 

「値段を見たら、もっと言うと思います」

 

「学生じゃなくて、社長として入ればいいじゃないですか」

 

「社長用の財布は持ってきてません」

 

「いつもの財布で払うんですよ」

 

 後ろから来た真壁が、何も言わず買い物籠を澪へ渡した。

 

 店内には輸入チーズや瓶詰めの調味料、有機野菜が整然と並んでいた。

 

 普段のスーパーなら通り過ぎる棚でも、値札を見るたび足が止まりそうになる。

 

 理央は迷わず奥の卵売り場へ向かった。

 

「これです」

 

 10個入りの平飼い有精卵には、820円の札が付いていた。

 

「卵売り場だけ空気が違います」

 

「スーパーの空気はどこも同じです」

 

「値札の圧が違います」

 

「50個買う人が負けないでください」

 

 澪は5パックを籠へ入れた。

 

 1段積むたび、理央の視線が籠と澪の顔を往復する。

 

「本当に50個で止まりましたね」

 

「最初からそう言ってます」

 

「もう1パック持ったので」

 

「割れてないか見ただけです」

 

「戻してください」

 

「戻しますよ」

 

 卵を棚へ戻すまで見届けてから、理央はようやく歩き出した。

 

 会計を終えると、澪は卵を傾けないよう慎重に持ち、六畳間へ戻った。

 

 50個なら小規模だと思った自分と、その感覚を信用していない自分が、頭の中でまだ静かに揉めている。

 

 六畳間ではローテーブルを端へ寄せ、収納内に卵を置く棚と温湿度計、水分を調整する容器を用意した。

 

 転卵を行う場所も分ける。

 

 時間を進められるからこそ、一気に終わらせず、途中で止めて状態を見るつもりだった。

 

 温度と湿度の基準を書いた紙を置き、転卵する間隔も記録する。

 

 収納内なら工程を揃えられるが、将来、異世界側で人が同じことをするなら、能力のない環境でも分かる記録が要る。

 

 買ってきたばかりなのに、その先まで考えている自分に気づき、澪は紙の上でペンを止めた。

 

 理央がそれを見ていたが、今度は何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 六畳間のローテーブルへ5つのパックを並べると、それだけでずいぶん場所を取った。

 

 50個という数字だけを聞いた時より、狭い部屋に並べた方が多く見える。

 

 理央は座布団へ膝をそろえ、真壁は押入れの前に座った。

 

 澪はパックを1つずつ開け、卵を取り出していく。

 

 白や薄茶色の卵は、どれも似たような形をしていた。

 

 澪は割れや傷がないか外から確かめ、1個目へ鑑定を使った。

 

 有精卵で、状態に問題はない。

 

 その先に表示された項目を見て、手が止まった。

 

「これ、メスですね」

 

「え?」

 

「こっちはオスです」

 

「ちょっと待ってください」

 

「はい」

 

「まだ卵ですよね?」

 

「卵ですね」

 

「なんで分かるんですか」

 

「鑑定に出てます」

 

 理央は卵を見た。

 

 次に澪を見て、もう一度卵へ目を戻した。

 

 外見から違いを探しているようだったが、当然、殻には何も書かれていない。

 

 澪に見えている情報も、殻の模様から読み取ったものではない。

 

 理央からすれば、同じ卵を見ている横で、澪だけが何週間も先の姿を告げていることになる。

 

 不思議そうにするのも当然だった。

 

「便利すぎません?」

 

「私も今そう思ってます」

 

 孵化するかどうかだけ分かれば十分だと思っていた。

 

 生まれる前から雌雄まで分かるなら、卵を取る群れと次世代を残す群れを、最初から考えられる。

 

 理央が隣の卵を指した。

 

「じゃあ、これは?」

 

「メスです」

 

「これは?」

 

「メス」

 

「こっちは?」

 

「オスですね」

 

 理央は卵の列を眺め、少しだけ身を引いた。

 

「……卵なのに、急に全員いる感じがしてきました」

 

「雄も何羽か残したまえ」

 

「残しますよ」

 

「雌だけでは次がない」

 

「そこは分かってます」

 

「真壁さんが言うと、もう繁殖計画が始まってる感じがします」

 

「始めるのだろう?」

 

「そうなんですけど」

 

「まず孵ってからにしましょう」

 

 澪は全ての卵を鑑定し、状態と雌雄を書き留めた。

 

 卵の殻と孵化棚、触れる道具を浄化してから、卵を収納内の孵化区画へ並べる。

 

 丸い方をわずかに上へ向け、卵同士がぶつからない間隔を取った。

 

 白や薄茶色の殻が規則正しく並ぶと、孵化区画だけが小さな研究室のように見える。

 

 外のローテーブルには空になったパックが重なり、理央は蓋を閉じながら澪の説明を聞いていた。

 

 温度と湿度を整え、時間を進めた。

 

 一定期間ごとに止めて発育を見て、異常の出たものは分ける。

 

 最初に時間を止めた時、外ではまだ数分しか経っていなかった。

 

 けれど収納内の卵には、すでに何日分もの変化が生じている。

 

 鑑定で順調な発育を見つけるたび、澪は表へ小さな丸を付けた。

 

 成長が止まった卵には別の印を付け、他と混ざらない場所へ移す。

 

 丸の数が減るたび胸の奥が重くなったが、全てが孵ると思い込んでいたわけではない。

 

 順調な卵まで焦って進めないよう、温度と湿度を見直し、また時間を動かした。

 

 理央と真壁は収納の中を見られないため、澪が表へ書く印と報告だけを待っている。

 

「今のところ、順調です」

 

「何個ですか?」

 

 理央に聞かれ、澪は数を答えた。

 

 理央はほっとした後、机の上に何もないことへ気づいたように収納のある辺りを見た。

 

「見えないところで育ってるの、変な感じですね」

 

「私には見えてますけどね」

 

「それがずるいんです」

 

「代わりに全部見ないといけませんよ」

 

「それは大変そうです」

 

「だから、時々話し掛けてください」

 

「澪さん、また返事が遅くなってました?」

 

「少しだけ」

 

「その少しも信用しにくいんですよね」

 

 理央の声で外へ意識を戻しながら、澪は次に止める時刻を書き留めた。

 

 やがて卵がかすかに動き始め、殻の内側から小さな音がした。

 

 初めは気のせいかと思うほど小さかった。

 

 澪は時間を止め、音のした卵を1個ずつ見た。

 

 殻の中では雛が身体を丸め、くちばしで外へ出る場所を探している。

 

 ここから先まで時間を早めてよいのか迷い、結局、通常の速さへ戻した。

 

 効率のために始めたことではない。

 

 最初の1羽くらいは、急がずに待ちたかった。

 

 ひびの入った殻が押し上げられ、湿った雛の頭がのぞく。

 

 すぐに出てくると思ったが、雛は途中で何度も動きを止めた。

 

 澪も手を出さず、鑑定で状態だけを追った。

 

 待っている時間は、収納内時間操作で何日も進めた時より長く感じた。

 

 殻がもう一度割れ、小さな身体が転がるように外へ出た。

 

 濡れた羽毛は頼りなく、鶏になる姿を想像するのも難しい。

 

 それでも雛は細い脚を動かし、頭を持ち上げようとしていた。

 

 澪はそこで時間を通常へ戻した。

 

 成功を数で考える前に、無事に出てこようとしている1羽から目を離せなかった。

 

 小さなくちばしがもう一度殻を押した。

 

「孵りました」

 

 外で待つ2人へ伝えた声は、自分が思っていたより弾んでいた。

 

 

 

 

 

 孵化した雛を育成区画へ移した後、最初に困ったのは餌だった。

 

 羽毛が乾くと、雛たちは見違えるほどよく動いた。

 

 足元を確かめるように数歩進んでは止まり、何か見つけるたび床をつつく。

 

 1羽が動けば隣も追いかけ、何もないところへ数羽まとめて集まっていく。

 

 見ているだけならかわいい。

 

 ただし、全員が同時に空腹になれば、かわいいだけでは済まなかった。

 

 細い声が重なり、育成区画の中が急に騒がしくなる。

 

 澪は水を置き、餌の候補を急いで見直した。

 

 収納内農場には小麦がある。

 

 細かく砕けば雛でも食べられたが、それだけで健康に育つと決めつけるわけにはいかない。

 

 澪は収納内を探し、土の中にいる蚯蚓へ目を向けた。

 

 小さく分けて置くと、雛たちは先ほどまでとは違う速さで集まってきた。

 

 どうやら、かなり好きらしい。

 

 それを新事業所で理央へ話すと、理央は少し複雑そうな顔をした。

 

 試しに1羽だけ外へ出すと、理央は両手で包むように受け取った。

 

 雛はその手の中で一度鳴き、理央の親指を餌と間違えたのか、先を小さくつついた。

 

「痛くはないですけど、遠慮がないですね」

 

「元気な証拠です」

 

「澪さん、その言い方だと何でも育てそうです」

 

「何でもは育てません」

 

 澪が答える間にも、雛は理央の掌から腕へ上ろうとしていた。

 

「この子、もう外へ行く気ですよ」

 

「まだ収納の中で育ってもらいます」

 

「本人には聞かないんですね」

 

「聞いても返事が分かりませんから」

 

 理央は笑いながら雛を澪へ返した。

 

「餌、小麦だけだと偏りますよね」

 

「蚯蚓は?」

 

「食べてます」

 

「食べるんだ」

 

「かなり好きみたいです」

 

「じゃあ、蚯蚓も使えますね」

 

「ただ、まだあります」

 

「何がです?」

 

「魚の餌にしてた虫」

 

 理央の表情が止まった。

 

「……まだいるんですか?」

 

「います」

 

「魚、海に返しましたよね」

 

「返しました」

 

「虫は?」

 

「残りました」

 

「なんで」

 

「残渣を食べてたので、そのままにしてたら」

 

「増えました?」

 

「少し」

 

「絶対、少しじゃない時の顔です」

 

「今回は本当に少しです」

 

 澪としても、魚がいなくなった後まで虫を役立つと思ったのは初めてだった。

 

 餌用に増やした以上、捨てるのも気が進まず、残渣を処理する区画で維持していたのである。

 

 そこへ真壁が口を挟んだ。

 

「ならば鶏へ回せばよい」

 

「迷わないですね」

 

「魚の餌だったのだろう?」

 

「はい」

 

「鳥の餌になっても問題あるまい」

 

「魚が終わったのに、餌だけ次の仕事をもらってる……」

 

「無駄にならなくてよかったです」

 

「澪さんも普通に受け入れ始めてる」

 

 砕いた小麦、蚯蚓、魚用に残していた虫を、雛の大きさに合わせて与える。

 

 水を切らさず、餌場と水場、床の状態を見て、定期的に浄化する。

 

 糞は消さずに回収し、農場の土へ戻す前に別区画で扱った。

 

 どの餌がどれだけ必要かは、成長と健康状態を鑑定しながら変える。

 

 この組み合わせで十分だと、最初から決めるつもりはなかった。

 

 朝に外へ出てきた時も、昼食を終えた時も、澪は収納へ意識を向けた。

 

 雛が餌へ寄る速さ、水を飲む回数、眠る時に固まる位置まで、気づいたことを帳面へ残した。

 

 収納内では時間が進んでいても、澪の身体が過ごす1日は外側の長さしかない。

 

 何日分もの世話を短い間に詰め込むと、日付の感覚が曖昧になる。

 

「今朝孵った子でしたっけ?」

 

 理央に聞かれ、澪は答える前に記録を見た。

 

「外では今朝です」

 

「中では?」

 

「もう今朝ではないですね」

 

「そこを聞いたんですけど」

 

「私も時々分からなくなります」

 

「時間を動かしてる本人が言わないでください」

 

 だからこそ記録を止められなかった。

 

 それでも、ゲンダイから飼料を買い続けなくても育てられる見通しは立った。

 

 魚のために増やした虫も、土を作るために増えた蚯蚓も、今度は雛の身体になっていく。

 

 増やしすぎたものが、別の増やしすぎを支えている気がしたが、澪は深く考えないことにした。

 

 

 

 

 

 収納内の時間を進めると、雛は羽毛に覆われた若鶏へ育ち、農場の中を歩き回るようになった。

 

 小さな黄色い塊だった頃とは違い、脚は太くなり、羽ばたけば土埃が舞う。

 

 小麦の区画へ近づこうとするもの、掘り返した土ばかりつつくもの、ほかの鶏の後ろを離れないものもいた。

 

 同じ環境で育てても、動き方は1羽ずつ違う。

 

 澪は分類と探索で数を追いながら、いつの間にか目立つ個体を覚えていた。

 

 白い羽の先だけ薄茶色の1羽は、餌を置く前から澪の動きを察したように寄ってくる。

 

 ところが、数を数える時になると必ず遠くへいる。

 

「また、あの子だけサツマイモの方にいます」

 

「名前を付けたんですか?」

 

「付けてません」

 

「『あの子』になってますよ」

 

「目立つだけです」

 

「それを覚えてるって言うんです」

 

 理央に言われ、澪は返事をせず配置図へ視線を落とした。

 

 約11.7haの農場に対して、鶏の数はまだ少ない。

 

 広さだけなら、どこへ行っても困らない。

 

 そのため澪は、しばらく放したままでよいと思っていた。

 

 ところが、探索で群れを見るたび、あちこちへ散った個体を数えることになる。

 

 餌場と水場も離れ、休む場所も決まっていない。

 

 このまま産卵が始まれば、11.7haから卵を探すことになりそうだった。

 

 想像すると、広い農場が急に巨大な落とし物探しの会場へ見えてきた。

 

 鑑定と探索があれば見つけられるとしても、それは澪だからできる方法である。

 

 異世界側へ移した後、世話をする人が毎朝、畑の端まで卵を探しに行くわけにはいかない。

 

 澪は新事業所の机へ簡単な配置図を広げ、鶏が集まりやすい場所を書き込んだ。

 

「農場、広いんですよ」

 

「知ってます」

 

「広すぎるやつですよね」

 

「100羽くらいなら、そのまま放しておいても平気かなと思ってたんですけど」

 

「夜はどこに帰るんです?」

 

「……夜、ないですね」

 

「もっとだめじゃないですか」

 

「明るさは落とせます」

 

 理央の指摘で、澪は農場が常時明るいことまで問題に加えた。

 

 作物には都合がよくても、鶏が落ち着いて休めるとは限らない。

 

「それとは別に、鶏舎は要るな」

 

 配置図を見ていた真壁が、中央の空いた場所を指した。

 

「やっぱり要ります?」

 

「餌と水を寄せる」

 

「卵を産む場所も決め、休める場所も作るべきだ」

 

「家ですね」

 

「鶏の家ですね」

 

「箱でよい」

 

「急に雑になりましたね」

 

「鶏が住むのだ」

 

「宮殿は要らん」

 

「でも、止まり木と産卵箱は欲しいです」

 

「付けよう」

 

「もう作る話になってる」

 

「まだ図面もない」

 

「真壁さん、頭の中ではできてません?」

 

「大体は」

 

「できてるじゃないですか」

 

 理央の声を聞きながら、澪は配置図の中央へ鶏舎予定地を描き足した。

 

 木造の簡単な建物なら、異世界側でも同じものを作れる。

 

 壁と屋根で光を遮る休息場所を設け、止まり木と産卵箱を置く。

 

 餌場と給水場所も寄せ、床は糞を回収しやすくする。

 

 鶏を閉じ込めるのではなく、外を歩いた群れが戻ってくる生活の中心にするつもりだった。

 

 鶏舎、産卵箱、餌場と水場は掃除した上で浄化する。

 

 能力があるから掃除をしなくてよい、ということにはしない。

 

 真壁が形を決め、澪が収納内へ材料を置いて組み立てると、農場の一角に小さな鶏舎ができた。

 

 新しい木の匂いが残る内部は、外の農地より薄暗い。

 

 止まり木へ最初に乗った鶏は、足場を確かめるように何度も向きを変えた。

 

 その下へ別の鶏が集まり、しばらくすると餌場の周りだけが混み始める。

 

 広い土地を自由に使えるのに、鶏たちは狭い入口で押し合っていた。

 

 澪が餌場を少し離すと、今度は全員がそちらへ移動する。

 

 11.7haより、目の前の餌の方が大事らしい。

 

「ちゃんと戻ってきてます」

 

「餌があるからでは?」

 

「最初はそれでいいんです」

 

「澪さん、現実的になりましたね」

 

「鶏に気持ちだけで戻ってきてもらう方法を知りませんから」

 

 理央は納得したような、していないような顔で図面を見た。

 

 餌を置く場所を変えると、散っていた鶏が次第に鶏舎の周りへ集まり始める。

 

 孵化の実験だったものが、群れを飼い続けるための設備へ変わっていた。

 

 

 

 

 

 さらに時間を進めると、産卵箱の中に初めて卵が入った。

 

 鶏舎の外では何羽もの鶏が土をつつき、いつもと変わらない朝のように動いている。

 

 収納内に本当の朝はないが、照明を落として休ませた後、徐々に明るくする時間を朝として扱っていた。

 

 餌と水を見てから産卵箱をのぞくのが、いつの間にか澪の決まった順番になっている。

 

 その日、乾いた藁の上に、見慣れない白さがあった。

 

 澪は一瞬、何もせずにその卵を見つめた。

 

 ゲンダイで買ったものではない。

 

 収納内で孵し、育てた鶏が産んだ卵だった。

 

 大豆を運ぶところから始めた頃には、こちらで鶏を増やし、卵を得られる日が来るとは考えていなかった。

 

 卵を手元へ取り出すと、殻の丸みが掌に収まった。

 

 まだわずかに温かい。

 

 店で買う卵より不揃いで、殻には小さな汚れも付いていた。

 

 だからこそ、誰かが並べた商品ではなく、ここで産まれたものだと実感できる。

 

 トトの細い腕を思い出して始めたことが、手の中へ戻ってきた。

 

 これを1個ずつでも子どもたちへ渡せるようになれば、昔とは違う。

 

 胸の奥が熱くなったが、澪は卵を握り込まないよう、そっと指を開いた。

 

 そのまま新事業所の作業机へ置く。

 

「産みました」

 

「本当ですか?」

 

「はい、これです」

 

 理央は机へ身を乗り出した。

 

 真壁も手元の紙から目を上げたが、2人ともすぐには触れなかった。

 

 澪が大事そうに持ってきたため、普通の卵なのに扱い方が分からなくなったらしい。

 

「普通の卵ですね」

 

「普通の卵です」

 

「ちょっと安心しました」

 

「何が出てくると思ってたんですか」

 

「収納の中で育ったから、何か光るとか」

 

「光りません」

 

 澪は続けて数個を取り出し、机へ並べた。

 

 見た目だけでは、どれも変わらない。

 

「食べられるのかね」

 

「今見ます」

 

 1個目を鑑定する。

 

「無精卵で、状態は問題ありません」

 

「じゃあ、食べられる?」

 

「浄化して、食用の保管区画へ入れます」

 

「やっと食べる方が出た」

 

 2個目には有精卵と表示された。

 

「こっちは有精卵ですね」

 

「それは?」

 

「孵化させる分は戻します」

 

「全部じゃないですよね」

 

「全部はやりません」

 

「よかった」

 

「魚で学びました」

 

「本当に?」

 

「……たぶん」

 

「学んだ者は『たぶん』とは言わんものだ」

 

「真壁さんは黙っててください」

 

 卵を回収するたび、澪は鑑定して用途を分けた。

 

 無精卵は浄化して食用へ回し、有精卵も浄化して、必要な数だけ孵化区画へ戻す。

 

 全てを孵すのではなく、群れの大きさを見ながら数を決める。

 

 そのつもりだった。

 

 翌日には産卵箱の卵が増え、次の日には別の箱にも入っていた。

 

 最初の1個へ感じた特別さは消えなかったが、回収作業はすぐに忙しくなる。

 

 取り出し、鑑定し、浄化し、食用と孵化用へ分ける。

 

 理央が紙へ正の字を書きながら、机の左右へ置く籠を見比べた。

 

「食べる方より、戻す方が多くないですか?」

 

「最初だけです」

 

「最初だけ?」

 

「群れを作る分が要りますから」

 

「その群れは何羽で完成なんです?」

 

 澪は答えようとして、口を閉じた。

 

 必要数をまだ決めていない。

 

 理央もそれに気づき、正の字を書く手を止めた。

 

「今、初めて考えましたね」

 

「考えてはいました」

 

「数字は?」

 

「これからです」

 

「それを考えてなかったって言うんです」

 

 真壁は口を挟まず、食用と孵化用の数だけを別の紙へ写していた。

 

 止めない人が記録まで始めると、澪には少し嫌な予感がした。

 

 卵から雛が孵り、成長した鶏がまた卵を産む。

 

 最初の50個を入口にして、ゲンダイから買い足さなくても続く循環ができていた。

 

 澪にとって鶏は、持ち込んで食べるものではなく、この世界へ根づかせられる家畜へ変わり始めた。

 

 

 

 

 

 孵化区画に次の雛が増え、若鶏が成鶏へ育った頃、澪はいつものように群れの状態を見た。

 

 鶏舎の前は、最初の頃とは別の場所のように賑やかだった。

 

 成鶏が地面を掻く横を雛が走り、若鶏が餌場の空いたところへ首を差し込んでいる。

 

 鳴き声は途切れず、羽ばたくたび細かな羽毛と土埃が光の中へ浮いた。

 

 1羽だけなら小さな音でも、群れになると農場の一角を丸ごと占める気配になる。

 

 澪が餌を補充すると、散っていた鶏まで一斉に向きを変えた。

 

 こちらへ走ってくる数を見て、補充する場所を間違えたかと一瞬思った。

 

 間違ってはいない。

 

 単に多いだけだった。

 

 餌と水に問題はない。

 

 鶏舎へ戻らない個体も、探索ですぐ見つけられる。

 

 産卵箱と雛の区画も見て、最後に個体数を数えたところで、意識が止まった。

 

 机の記録へ数字を書き込む。

 

 向かい側にいた理央が、それをのぞき込んだ。

 

「それで、今は何羽なんです?」

 

「……100羽くらいです」

 

「くらい?」

 

「孵化したのが増えてるので、数えた時点ではそのくらいです」

 

「普通に100羽まで来ましたね」

 

「普通ではない気もします」

 

 1回ごとは少しずつだった。

 

 産卵箱から数個を選び、孵化区画へ戻した。

 

 孵った雛を育成区画へ移し、健康なら群れへ加えた。

 

 毎回の作業は手の届く範囲だったため、全体が大きくなっていることに気づきにくかった。

 

 けれど、100羽が餌場へ集まる光景は、もう「少し試している」とは呼べない。

 

 有精卵を選び、孵して、育てただけである。

 

 けれど、少しずつを収納内の時間で重ねれば、合計まで小さいままではいてくれない。

 

「健康なら結構だ」

 

 記録を見た真壁の反応は、それだけだった。

 

「そこなんですよ」

 

「何がね」

 

「真壁さん、100羽でも全然止まらないですよね」

 

「100羽で止める理由があるのかね」

 

「ほら」

 

「真壁さん、増やす方の話はいったんやめましょう」

 

「私は増やせとは言っていない」

 

「でも止めてもいません」

 

「必要数が決まっていないからな」

 

「……私も、数を見た時は驚きました」

 

「驚くのが100羽になってからなんですね」

 

「言わないでください」

 

 成鶏、若鶏、雛を分け、雌雄と健康状態も見直した。

 

 繁殖へ回す群れと、食用卵を取る群れも分けられる。

 

 孵化から採卵までの流れは、もう試験としては成功していた。

 

 一方で、この方法は澪の収納と能力に支えられている。

 

 澪が中で卵を作り続けても、孤児院や農家が自分たちで鶏を育てられるようにはならない。

 

 100羽という数字より、そちらの方が澪には大きな問題に思えた。

 

 収納内なら、病気の兆候も餌の不足も澪がすぐ見つけられる。

 

 時間を止めて考えることも、成長を早めることもできる。

 

 便利であるほど、ここで成功しただけでは外へ持ち出せない部分が増えていく。

 

 子どもたちへ卵を届けたいのに、澪が毎日収納から配る仕組みにしてしまえば、結局は澪が止まった時に卵も止まる。

 

 それでは、大豆を運ぶだけだった頃から本当には進んでいない。

 

 

 

 

 

 机の上には、収納内で使っている鶏舎の見取り図と、卵や餌の記録が広がっていた。

 

 始まりは50個の卵だったが、今では小さな生産の仕組みになっている。

 

 窓の外は夕方へ近づき、春の日差しが机の端から床へ移っていた。

 

 鶏の世話を始めてから収納内では長い時間が過ぎたのに、外ではまだ日々の仕事の合間に収まるほどしか経っていない。

 

 その差が、机に積み上がった紙の厚みだけに表れている。

 

 澪は最初の日に書いた「有精卵50個」の行と、最後の「約100羽」を見比べた。

 

 理央も同じところを見たらしく、何も言わず椅子へ深く座り直した。

 

「そろそろ、外で飼った方がいいですよね」

 

「外って、異世界側ですか?」

 

「はい」

 

「私の収納の中で卵を増やし続けても、私しかできませんから」

 

 かつて大豆を持ち込んだ時にも考えたことだった。

 

 自分が食料を運び続けるだけでは、運べなくなったところで途切れてしまう。

 

 向こうの人が自分たちで飼い、卵を取り、次の雛を育てられるようにしたい。

 

 最初の群れは作れた。

 

 餌も、小麦や虫を使えば現地で用意できる。

 

 次は、能力がなくても続けられる場所へ移す番だった。

 

 異世界側で普通に朝が来て、夜になれば鶏が休む。

 

 世話をする人が餌をやり、産卵箱から卵を集め、汚れた床を掃除する。

 

 時間は早送りできないが、その代わり、鶏と暮らす知識が人の側へ残る。

 

 澪が作りたいのは卵の山ではなく、その暮らしの方だった。

 

「100羽、全部出すんです?」

 

「いきなり全部は出しませんよ」

 

「よかった」

 

「まず鶏舎だな」

 

「よくなかった」

 

 真壁は見取り図を自分の方へ引き寄せた。

 

「収納の中のものを、そのまま大きくすれば使えそうです」

 

「土地を見てからだ」

 

「今日ですか?」

 

「今日は行かんよ」

 

「よかった……」

 

「でも、候補地くらいは決めたいですね」

 

「澪さん」

 

「はい?」

 

「今の『今日は行かない』を大事にしません?」

 

「明日ならよいのかね」

 

「真壁さんも乗らないでください」

 

「じゃあ明日、土地だけ見ましょうか」

 

「話が進んでる!」

 

「100羽いるからな」

 

「その一言で全部通すのやめません?」

 

 澪は理央の抗議を聞きながら、鶏舎の図へ屋外運動場を書き足した。

 

 餌と水、産卵箱、育雛、繁殖、糞の処理、そして世話をする人も必要になる。

 

 この日はまだ、建てる場所も決まっていない。

 

 鶏を誰へ預けるのかも、卵を孤児院へどれだけ回すのかも決まっていなかった。

 

 飼育を教える人、餌を作る人、病気の個体を分ける方法も考えなければならない。

 

 図面に線を1本足すたび、次の仕事が2つ増えていく。

 

 理央が「土地だけですよね」ともう一度念を押し、真壁は返事をせず図面の寸法を書き始めた。

 

 返事がない方が危ないと、澪にも分かるようになっていた。

 

 それでも翌日には、異世界側で最初の養鶏場を作る土地を見ることになった。

 

 子どもたちへ卵を食べてもらいたいと思っただけなのに、机の上にはもう、鶏舎の図面が載っていた。

 

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