押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第352話 鶏が増えすぎました

 

 春休みの朝、澪は目覚まし時計より先に鶏の数を確かめるようになっていた。

 

 六畳間のカーテンから朝の光が細く差し込み、畳の上には昨夜閉じ忘れた飼育記録の帳面が開いている。

 

 机の端には卵の回収数を書いた帳面があり、その隣ではスマートフォンの充電表示が赤くなっていた。

 

 先に充電すべきものがある気もしたが、澪は布団の上へ座ったまま、自分の収納へ意識を向けた。

 

 収納内農場では、夜の時間が終わろうとしている。

 

 鶏舎の中で身を寄せていた鶏が動き始め、止まり木から一羽ずつ床へ降りていた。

 

 澪が天頂部の《光》を弱く点灯すると、暗かった草地へ朝の色が広がっていく。

 

 収納内工程で鶏舎の戸を開け、給水の状態を見て、餌場へ小麦を足す。

 

 魚を育てた時に残った虫も分けて入れると、先に外へ出た鶏が草を踏み分けて集まった。

 

「今日も元気ですね」

 

 返事の代わりに、収納の中で羽音が重なった。

 

 草をついばむもの、土の柔らかいところを脚で掻くもの、動いた蚯蚓へ首を伸ばすものがいる。

 

 その様子を一通り見てから、澪は産卵箱の卵を回収した。

 

 割れ、殻の汚れ、形、産んだ時刻を見て分け、《鑑定》を通す。

 

 食用へ回すものと、孵化棚へ置く有精卵を分け、触れた場所を《浄化》した。

 

 ここまで終えたところで、スマートフォンの時計を見る。

 

「……朝ご飯がまだでした」

 

 鶏の朝食は終わっていた。

 

 澪は自分の分の食パンを袋から出し、くわえたままその日の支度を始めた。

 

 

 

 昼前になれば、次は雛を見る。

 

 孵化区画で殻を割り始めた卵があれば、温度と湿度を確かめた。

 

 孵った雛はすぐ成鶏へ混ぜず、育雛区画で体温と餌の食べ方を見る。

 

 弱い個体、脚に異常のある個体、餌を取れない個体がいないか、何度も群れを分けて確かめる。

 

 健康に育った若鶏だけを放牧区画へ戻し、空いた育雛区画を洗って浄化する。

 

 異世界へ出かける前にも見た。

 

 押入商会の仕事を終えたあとにも見た。

 

 収納内時間操作を使う時は、一度に何か月も進めず、鶏側の一日を区切って進めた。

 

 昼には草地へ出し、夜には光を落として鶏舎へ戻す。

 

 水と餌の減り方、糞の量、卵の数を見てから次の日へ進む。

 

 異世界側で飼ってもらうなら、自分が一通り経験しておかなければ説明できない。

 

 澪はそう考え、まず収納内農場で飼育を続けた。

 

 最初は約100羽だった。

 

 次に帳面をまとめた時には数百羽になっていた。

 

 産卵箱から有精卵を選び、孵して、育て、群れへ戻す。

 

 一度に扱う数は多くない。

 

 毎回、目の前にある分だけなら、少し忙しくなった程度で片づけられた。

 

 鶏用に分けた草地は約2.5haあり、500羽へ増えても、空いている場所の方が広かった。

 

 1,000羽になっても、押し合ってはいない。

 

 鶏舎と餌場を増やし、産卵箱を足せば、群れはまた落ち着いた。

 

 草地には鶏が点々と散り、離れたところまで見れば、まだ緑の方が多く見えた。

 

 だから、まだ大丈夫だと思った。

 

 餌はある。

 

 水もある。

 

 鶏舎も足りている。

 

 病気の個体も見つかっていない。

 

 大丈夫だと確かめるたび、澪は次の有精卵を孵化棚へ置いた。

 

 

 

 新事業所の共用机で、澪はその日の採卵数を帳面へ書き込んだ。

 

 窓の外では春の風が向かいの建物の軒を抜け、干してある布を揺らしている。

 

 自分の部屋で原稿を書いていた理央が、空になったカップを持って出てきた。

 

「また卵ですか?」

 

「はい。今日の分です」

 

「何個でした?」

 

「あとで数えます」

 

 澪は回収した卵を日付ごとに分け、食用保管区画へ収めた。

 

 そのまま、群れ全体へ鑑定と分類を掛ける。

 

 成鶏、若鶏、雛。

 

 雄と雌。

 

 産卵中、育成中、繁殖用。

 

 健康状態に異常がないことを先に見てから、総数へ目を移した。

 

 表示された数字のところで、澪の指が止まった。

 

「……2,500羽」

 

「何がです?」

 

「鶏です」

 

 理央はカップを流しへ置く前の姿勢で止まった。

 

「え?」

 

「2,500羽を少し超えてます」

 

「100羽でしたよね?」

 

「最初は」

 

 澪はもう一度、分類の結果を見た。

 

 数字は減らなかった。

 

 当然だった。

 

 毎日、卵を見た。

 

 自分で孵し、雛へ餌を与え、若鶏を群れへ加えた。

 

 突然増えた一羽などいない。

 

 それでも、100羽から2,500羽までを一つの数字で見せられると、途中の日々が全部隠れたように見えた。

 

「何をしたら25倍になるんですか」

 

「卵を孵して、育てました」

 

「それは知ってます」

 

「聞かれたので」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 理央がようやくカップを流しへ置いた。

 

 書類を持って部屋から出てきた真壁は、二人の間へ視線を置いたあと、澪の帳面を見た。

 

「状態はどうなのだね」

 

「今は問題ありません。病気の個体はいませんし、放牧区画にも余裕があります」

 

「給餌量は」

 

「足りています。水場も混んでいません」

 

「なら、問題は次だな」

 

「はい」

 

「次?」

 

 理央が二人を見比べた。

 

 澪は収納内の草地へ目を戻した。

 

 100羽の頃は、草の間に鶏がいるという景色だった。

 

 今は、どこへ視線を動かしても鶏がいる。

 

 土を掘る群れがあり、虫を追う群れがあり、日陰で腹を地面へ付けて休むものもいる。

 

 餌場から離れたところにも羽の白や茶が散り、鶏舎へ戻る列が草地を横切っていた。

 

 まだ過密ではない。

 

 だからこそ、今なら止められる。

 

「このまま孵し続けたら、次は3,000羽、4,000羽になります」

 

「止めましょう」

 

「止めます」

 

「早い」

 

「妥当だな」

 

 澪は孵化棚へ送る条件を開き、有精卵をすべて対象にしていた指定を外した。

 

 これからは現在の羽数、雌雄、年齢、産卵状態を見て、世代交代に必要な分だけを残す。

 

 増やすための孵化は、ここで終わりにする。

 

「2,500羽前後を上限の目安にします」

 

「それでよい」

 

「真壁さんが止める側にいると安心します」

 

「普段から止めるべきものは止めているが」

 

「そうでしたっけ」

 

「そこは私も少し考えます」

 

「澪君」

 

「はい」

 

 返事をしながら、澪の頭にはニュースで見た部屋が浮かんでいた。

 

 最初は数匹だった犬や猫が増え、飼い主だけでは世話が追いつかなくなった家。

 

 餌を与えているから大丈夫。

 

 捨てていないから大丈夫。

 

 まだ場所があるから大丈夫。

 

 今朝まで、自分も似た順番で鶏舎を見ていた気がする。

 

 2.5haの草地と浄化があるため、表面に出ていないだけではないか。

 

「多頭飼育崩壊……」

 

「してるんですか?」

 

「してません。まだ健康です」

 

「じゃあ、何で今、そんな顔をしたんです?」

 

「このまま続けたら、する側だったなと思って」

 

 澪は孵化棚に残っていた卵を見直し、世代交代分を除いて食用へ移した。

 

 餌も水も場所もある。

 

 それは、増やしてよい理由ではない。

 

 自分が見切れる数で止めることまでが、飼う側の仕事だった。

 

 設定を閉じたところで、先ほど回収した卵の分類が終わった。

 

 今日の採卵数は537個と表示されている。

 

 澪は閉じかけた帳面を、もう一度開いた。

 

「あと、卵が537個です」

 

「全部ですか?」

 

「今日の分です」

 

「今日の?」

 

「昨日は518個でした」

 

「その前は?」

 

「506個です」

 

「増えてません?」

 

「鶏は増やすのを止めましたよ」

 

「卵の話です」

 

「卵は鶏に言わないと」

 

「産むのを止めさせる必要はないだろう」

 

 真壁が書類を机へ置いた。

 

「それはそうなんですけど」

 

 理央の声から勢いが抜けた。

 

 澪は保管区画へ並んだ卵箱を見た。

 

 今日の537個だけなら、収納にはいくらでも入る。

 

 明日も500個を超え、その次の日にも増える。

 

 腐らない場所があるせいで、使い道を決めなくても困った景色にならない。

 

 それが一番危ない気がした。

 

「……リュシアさんに相談してきます」

 

「こういう時だけ早いですね」

 

「食べ物の量で困った時は、リュシアさんです」

 

「正しい判断だな」

 

「本人が聞いたら、微妙な顔をしそうです」

 

 澪は試食用の卵を取り出すため、空の籠を机へ置いた。

 

 その底へ卵を並べながら、自分の収納には見えない鶏が2,500羽いることを、もう一度考えた。

 

 抱えられることと、抱えてよいことは違う。

 

 

 

 共同商館の裏口から入ると、焼いたパンと煮込みの匂いが混じって流れてきた。

 

 昼の商いが一段落する時間だったが、奥の作業場では空になった木箱が積み直され、食堂へ回す野菜が籠ごと運び出されている。

 

 リュシアは納品書を見ながら、袋へ入った豆を秤へ載せていた。

 

 澪が卵の籠を抱えて近づくと、秤の針ではなく、先に籠の中を見た。

 

「リュシアさん、相談があるんですけど」

 

「今度は何だい」

 

 声はいつもと同じだったが、リュシアの手は次の豆袋へ伸びずに止まった。

 

 澪が相談を持ってくる時は、たいてい量か売り方のどちらかに問題がある。

 

 今回は両方だった。

 

「鶏が増えました」

 

「何羽」

 

「2,500羽くらいです」

 

 リュシアは澪を見た。

 

 それから卵の籠へ視線を落とし、もう一度澪へ戻した。

 

「何羽から?」

 

「100羽くらいからです」

 

「澪」

 

「はい」

 

「それは『増えた』で済ませる数じゃないよ」

 

「ですよね」

 

「自覚はあるんだね」

 

「さっきできました」

 

「遅いよ」

 

 リュシアは額へ手を当てず、ため息も大きくはつかなかった。

 

 代わりに、秤の上の豆袋を下ろし、作業台を空けた。

 

「今のところは健康です。放牧する場所も足りていますし、これ以上は増やしません」

 

「それならいいさ。それで?」

 

「卵が毎日500個を超えています」

 

「そっちもかい」

 

「はい」

 

「今日は何個」

 

「537個です」

 

「細かい数字はちゃんと出るんだね」

 

「商人なので」

 

「2,500羽を『くらい』って言った人が言うんじゃないよ」

 

 澪は返す言葉が見つからず、持ってきた卵を籠から出した。

 

 白い殻と薄茶色の殻があり、大きさは完全には揃っていない。

 

 割れや汚れのあるものは除き、今朝回収した中から、平均的なものを選んでいる。

 

「まず食べてみてください」

 

「売れるかを見るのが先だね」

 

 リュシアは手近な職人へ声を掛け、小さな鉄鍋と皿を用意させた。

 

 卵を割ると、盛り上がった黄身が鍋へ落ち、白身がその周囲へ広がる。

 

 油の弾ける音に、作業場を通りかかった者が一度だけ振り返った。

 

 澪には見慣れた卵料理だった。

 

 それでも、ここで商品になるかどうかは、自分の舌よりリュシアの舌を信じた方がよい。

 

 塩を少し振っただけの卵を、リュシアは端から切った。

 

 黄身の色、白身の固まり方、匂いを見てから口へ入れる。

 

 澪は返事を待った。

 

 リュシアは何も言わず、もう一口食べた。

 

「どうです?」

 

「うまいね」

 

「よかった」

 

「安心するところじゃないよ」

 

「売れなかったら、明日また500個増えるので」

 

「そう聞くと、急に怖いね」

 

「お願いします」

 

 澪が頭を下げると、リュシアは残りを食べてから皿を置いた。

 

「食べ物としてなら捌くよ」

 

「全部ですか?」

 

「一か所へ全部は流さないよ。共同商館だけで抱えず、食堂や宿にも分ける」

 

「助かります」

 

「毎日同じ数とは限らないんだろ?」

 

「今の群れなら500個前後です。産卵数と品質は、回収日ごとに出します」

 

「古いものから出しな」

 

「日付で分けています」

 

「そこはちゃんとしてるんだね」

 

「そこも、です」

 

「はいはい」

 

 リュシアは卵を一つ持ち上げ、明かりへ透かしてから籠へ戻した。

 

 宿で朝食へ出すなら、大きさをある程度そろえた方がよい。

 

 食堂で焼いたり煮たりするなら、小ぶりなものもまとめて扱える。

 

 孤児院へ回す分を先に取り、残りを売り先ごとに分けることになった。

 

 澪が卵を作業台へ並べるそばから、リュシアは必要な籠の数と運ぶ先を帳面へ書いていく。

 

 500個という数字が、朝食何人分、鍋何杯分へと置き換わっていく。

 

 収納の中で増え続ける箱だったものが、ようやく誰かの食事へつながった。

 

 澪の肩から力が抜けたが、まだ帰るわけにはいかなかった。

 

「あと、もう一つあるんです」

 

「まだ鶏かい?」

 

「まだ鶏です」

 

「聞こうか」

 

 澪は帳面の別の頁を開いた。

 

 群れを2,500羽前後で保つなら、若い鶏を加える一方にはできない。

 

 卵を産む数が落ちた個体、年を取った個体を、いつまでも同じ群れへ残し続けることもできなかった。

 

「卵をあまり産まなくなった鶏が出てきて」

 

「肉にするんだろ?」

 

「やっぱり、そうなりますよね」

 

「鶏なんだろ?」

 

「鶏です」

 

「なら、食品として処理できるなら、こっちで捌くよ」

 

「老いた鶏でも?」

 

「若い鶏と同じ食べ方をしなければいいさ。硬ければ煮込めるし、出汁にもなる。まず肉を見せな」

 

 リュシアの返事には、飼っていたものを食べることへのためらいがなかった。

 

 軽く考えているのではなく、食べ物として扱う場所が最初から決まっているのだと、澪にも分かった。

 

 育て、卵を取り、年を取れば肉にする。

 

 言葉にすれば短い循環を、自分は卵の側からしか見ていなかった。

 

「分かりました」

 

「澪がしめるのかい?」

 

「……そのつもりです」

 

「嫌なら人に頼んでもいいんだよ」

 

 澪は少し考えた。

 

 その申し出へ甘えることもできる。

 

 けれど、孵したのも、育てたのも、数を止めると決めたのも自分だった。

 

 最後のところだけを見ないまま、人へ渡したくはなかった。

 

「いえ。やってみます」

 

「そうかい」

 

 リュシアはそれ以上、励ます言葉を足さなかった。

 

 代わりに、見本の肉を持ってくる時は冷やした状態で運ぶこと、処理した日を分けることだけを伝えた。

 

 澪は卵の籠を作業場へ預け、空になった両手を見た。

 

 明日から卵の箱は減る。

 

 その代わり、次は鶏を食品へ変える工程を、自分で作らなければならなかった。

 

 

 

 新事業所へ戻った澪は、自分の机へ何も置かず、しばらく収納内の群れを見ていた。

 

 天頂部の光は昼の明るさになり、鶏は草地へ散っている。

 

 地面を掻く脚も、餌を探して振られる首も、若い個体と老いた個体では少しずつ違った。

 

 澪は年齢と産卵記録を重ね、群れから出す候補を分けた。

 

 病気ではない。

 

 食用にできる状態で、卵を産む回数が落ちている。

 

 最初から一度に多くを対象にはせず、1羽だけを別の区画へ移した。

 

「真壁さん」

 

 向かいの机で図面を見ていた真壁が顔を上げた。

 

「何だね」

 

「老いた鶏を、肉にします」

 

「そうか」

 

 返事はそれだけだった。

 

 澪は工程を書き始めようとした手を止めた。

 

「もう少し何かないんですか」

 

「止めてほしいのかね」

 

「いえ」

 

「なら、余計なことは言わん方がよいだろう」

 

「……そうですね」

 

 紙の上には、選別、処理、冷却とだけ書いてある。

 

 その間を埋めなければ、食品にはならない。

 

 澪は鉛筆を持ち直した。

 

「実家の近くの農家で、鶏をしめるところを見たことはあるんです」

 

「経験があるのか」

 

「見ただけです。自分でやるのは初めてです」

 

「嫌なら人に任せてもよい」

 

「大丈夫です」

 

「無理はしていないかね」

 

「思ったよりは」

 

 真壁の視線が、工程を書いた紙から澪の顔へ移った。

 

「ほう」

 

「狼とかゴブリンとかと戦ったからでしょうか」

 

「鶏と並べる話ではないな」

 

「私も言ってから思いました」

 

「なら忘れたまえ」

 

「はい」

 

 異世界へ来る前なら、自分が飼った鶏を肉にするなど、考えるだけで避けたかもしれない。

 

 今は命を奪うことへ平気になったのかと問われれば、違う気がする。

 

 狼やゴブリンと向き合った時には、生き残るために他のことを考える余裕がなかった。

 

 目の前の鶏は襲ってこない。

 

 逃げ道のない場所へ置いたのも、育てたのも澪だった。

 

 だからこそ、急いで済ませるのではなく、苦しませず、食べられるところを無駄にしない方法を選ばなければならない。

 

「子どもたちに食べてもらえますし」

 

「そうだな」

 

「飼ったのに、最後だけ誰かに押しつけるのも嫌なので」

 

「なら、きちんとやりたまえ」

 

「はい」

 

 澪は処理区画を、飼育区画や食用保管区画から離して作った。

 

 道具と作業面を浄化し、生体として扱う段階と、食品として扱う段階の境を決める。

 

 対象にした1羽の状態を鑑定し、工程の順番を一つずつ見直した。

 

 最初から自動で最後まで流すことはしない。

 

 途中ごとに止め、状態を確かめ、問題がなければ次へ進める。

 

 澪は一度、息を整えた。

 

 それから、最初の処理を始めた。

 

 手順そのものに長い時間は掛からなかった。

 

 けれど澪は、工程の一つが終わるたび、紙へ印を付けた。

 

 放血。

 

 脱羽。

 

 内臓の処理。

 

 洗浄。

 

 冷却。

 

 食べられる部位と、別に扱うものを分け、肉へ鑑定を向ける。

 

 異常はない。

 

 衛生状態にも問題はなかった。

 

 澪は部位ごとに包装し、処理した時刻と個体の記録を結びつけた。

 

 そこまで終えてから、同じ品質で繰り返せるように条件を整え、《収納内工程》へ登録した。

 

 登録したからといって、急に何羽も処理するつもりはない。

 

 老いた個体が出た時にだけ選び、毎回、前後の状態を確かめる。

 

 効率を上げるための工程ではなく、見落とさないための工程だった。

 

 澪は作業台へ、冷却前の見本を取り出した。

 

 白かった羽はなくなり、そこにあるのは食材として見慣れた鶏肉だった。

 

 少し前まで草地を歩いていた個体だと分かっていても、目を背けたいとは思わなかった。

 

 それが自分でも不思議だった。

 

 強くなったのか、鈍くなったのかは分からない。

 

 ただ、必要なことを最後まで行い、捨てずに食べてもらえる形へした。

 

 今はそれ以上の答えを急がなくてもよい気がした。

 

「……できました」

 

「状態は?」

 

「問題ありません。ちゃんとお肉になっています」

 

「そうか」

 

 真壁は席を立ち、包装前の肉を近くから見た。

 

 澪が読み上げた鑑定結果と工程表を照らし合わせ、処理時刻の欄で一度指を止める。

 

「普通ですね」

 

「普通でなければ困る」

 

「それはそうなんですけど」

 

 真壁は工程表を机へ戻した。

 

「よくやった」

 

 澪は顔を上げた。

 

「え」

 

「何だね」

 

「真壁さんが普通に褒めたので」

 

「褒めてはいけないのかね」

 

「いえ……ありがとうございます」

 

「では冷やしたまえ」

 

「余韻が短いです」

 

「食品なのだから当然だ」

 

 澪は肉を収納へ戻し、冷却工程へ送った。

 

 作業台に残った紙には、最初の1羽分の印が上から下まで並んでいる。

 

 卵を産まなくなった鶏を、不要なものにはしなかった。

 

 冷えた見本をリュシアへ渡せば、今度は肉に合う料理と売り先を、現地の人が決めてくれる。

 

 

 

 卵の出荷が始まると、新事業所の机から卵箱が消えるようになった。

 

 朝に回収した分は日付と大きさで分け、孤児院へ回す分を除いて共同商館へ渡す。

 

 老鶏の肉もリュシアが確かめ、若鶏より長く煮込む料理へ使えることが決まった。

 

 群れは2,500羽前後で保たれ、孵す卵は世代交代に必要な数だけになった。

 

 澪の帳面には毎日の卵と餌の数字が並び、その横へ、群れから出した個体の行も加わっている。

 

 増える一方だった頃より記すことは多いが、行き先が決まっている分だけ、数字を見た時の息苦しさは減っていた。

 

 その日の作業を終え、澪は自分の状態へ鑑定を向けた。

 

 見慣れた技能の列を追っていた目が、途中で戻る。

 

「生体収納、Lv7になってます」

 

 理央が原稿から顔を上げた。

 

「また上がったんですか」

 

「上がりました」

 

「2,500羽も扱っていればな」

 

 真壁は卵の出荷記録を閉じた。

 

「羽数で言わないでください」

 

「では重量で言おう」

 

「言わなくていいです」

 

「5tは超えているだろう」

 

「もっと嫌です」

 

 理央の視線が、何もない共用机の上をゆっくり動いた。

 

「5tの鶏……」

 

「理央ちゃんまで、まとめないでください」

 

 収納の中では2,500羽がそれぞれ勝手に歩いている。

 

 5tの塊が置いてあるわけではない。

 

 分かっているのに、重量へ直された途端、床が抜けそうな気がした。

 

 もちろん、収納の中に床下はない。

 

「浄化もLv7か」

 

「鶏舎、卵、水、餌場、精肉工程でずっと使っていますから」

 

「光もLv5です」

 

 理央が澪の書き写した表示を指した。

 

「鶏の昼夜を作っていたら上がりました」

 

「結構なことではないかね」

 

「私の収納、何なんでしょう」

 

「農場ですよね」

 

「畑です」

 

「鶏が2,500羽います」

 

「いますね」

 

「卵が毎日500個以上です」

 

「取れますね」

 

「精肉工程もあります」

 

 澪は反論しようとして、言葉が出なかった。

 

 収納内農場には、大豆やサツマイモを育てる畑がある。

 

 その横には鶏舎があり、約2.5haの放牧地があり、孵化区画と育雛区画もある。

 

 産卵箱から卵を回収し、日付ごとに分け、老鶏は食品へ変えられる。

 

 餌場も水場も、昼夜を作る光も、病気を防ぐための浄化も揃っていた。

 

「……完全に養鶏場ですね」

 

「畑もある」

 

「真壁さん、そこは助けになってません」

 

 澪は技能の上昇を書き留め、鶏の記録を閉じた。

 

 収納の中だけを見れば、ひとまず循環している。

 

 必要な数だけ孵し、卵を出荷し、年を取った個体は肉として食べてもらう。

 

 2,500羽を抱える方法はできた。

 

 けれど、それは澪の生体収納と時間操作、鑑定、浄化、光があるから成り立っている。

 

 澪が毎朝起きて見なければ、光を点ける者がいない。

 

 朝に卵を集め、押入商会の仕事の合間に雛を分け、夜に水と餌を見ている。

 

 500個の卵を毎日運べても、届けられる範囲は澪の動ける範囲から広がらない。

 

 収納内農場が完成するほど、全部を自分で抱えている形がはっきりしてきた。

 

 多頭飼育崩壊は止めた。

 

 次は、鶏の世話で自分の生活が崩壊する前に、やり方そのものを外へ出した方がよい。

 

「澪さん、何か嫌そうな顔してます」

 

「嫌というより、このままずっと私が飼うのかなと思って」

 

「澪君の収納にいる以上は、そうなるな」

 

「ですよね」

 

 真壁の答えは、逃げ道を一つも作ってくれなかった。

 

 澪は閉じたばかりの帳面をまた開き、共同商館と書いた。

 

「リュシアさんに、もう一度相談してきます」

 

「今度は何を捌いてもらうんです?」

 

「鶏の世話です」

 

 言ってから、それではリュシアへ2,500羽を押しつけるように聞こえると気づいた。

 

「違います。飼ってくれる人を探してもらいます」

 

「一瞬、丸ごと渡すのかと思いました」

 

「私もちょっとだけ思いました」

 

 理央が目を見開いた。

 

「思ったんですか?」

 

「2,500羽を見たあとですから」

 

 けれど、誰か一人へ渡せば、飼い主が澪から変わるだけだった。

 

 小さな群れに分け、飼える家へ渡し、その土地で増やしてもらう。

 

 澪が手放したいのは責任ではなく、澪一人にしかできない形の方だった。

 

 

 

 共同商館の作業場には、見覚えのある卵籠がいくつも並んでいた。

 

 大きさのそろったものには宿の名札が付き、小ぶりなものは食堂へ運ぶ籠へ分けられている。

 

 奥の台所からは、卵を溶く器の音が聞こえた。

 

 老鶏の肉も煮込みに使われ、昼の鍋はほとんど残らなかったらしい。

 

 2,500羽を維持するだけなら、卵にも肉にも行き先ができた。

 

 その光景を見て安心したはずなのに、澪は別の帳面を抱えてリュシアを待っていた。

 

 今度の頁には、卵の数ではなく、小さな群れに必要な設備を書いている。

 

 リュシアは食堂から戻ると、澪の帳面と空の籠を順に見た。

 

「今日は卵じゃないのかい」

 

「もう一つお願いがあるんですけど」

 

「まだ鶏かい?」

 

「まだ鶏です」

 

「聞こうか」

 

 澪は帳面を開いた。

 

「侯爵領で、鶏を育ててくれる人を探してほしいんです」

 

「売るのかい?」

 

「最初の鶏は、ただで渡します」

 

「ただ?」

 

「はい」

 

 リュシアの眉が上がった。

 

「何羽ずつ」

 

「最初は小さな群れです。雄と雌を入れて、自分たちで増やせるくらいにします」

 

「鶏だけかい」

 

「簡易鶏舎も付けます」

 

 リュシアが黙った。

 

 澪は何か条件を言い忘れたかと、帳面を見直した。

 

「何ですか」

 

「澪」

 

「はい」

 

「あんた、何屋だった?」

 

「貿易商です」

 

「最近は鶏小屋まで配ってるね」

 

「鶏だけ渡しても困るじゃないですか」

 

「そこだけ聞くと正しいのが困るね」

 

「褒めています?」

 

「半分くらいはね」

 

 澪は残り半分を聞かないまま、見取り図を開いた。

 

 収納内で使っている設備をそのまま渡すつもりはない。

 

 光も時間操作も浄化もなく、現地の人が手で掃除し、餌と水を足して使えるものにする。

 

 雨風を防ぐ小屋、産卵箱、止まり木、給餌と給水の道具があれば、小規模な群れから始められる。

 

 澪が毎日500個の卵を運び続けるより、農家の庭で鶏が卵を産む方がよい。

 

 家族が食べ、余った分を売れば、その家の収入にもなる。

 

 何より、朝起きて鶏の世話をするのが澪ではなくなる。

 

 そこまで考えたところで、澪は自分の動機に、少しだけ後ろめたい部分が混じっていることへ気づいた。

 

 子どもたちへ卵を広げたい。

 

 現地で続く仕組みにしたい。

 

 それは本当だった。

 

 同じくらい、2,500羽をずっと一人で見たくないという気持ちも、本当だった。

 

 毎朝、鶏より先に起きる生活を続ければ、いつか収納を開く前に布団へ戻りたくなる日が来る。

 

 それは鶏にも、自分にもよくない。

 

「声は掛けるよ」

 

 リュシアは見取り図を端から見て、鶏舎を置く広さを指で測った。

 

「でも、ただなら欲しいって家には渡さない」

 

「はい」

 

「鶏が欲しいのと、毎日飼えるのは別だからね」

 

「そこは、よく分かります」

 

「2,500羽になってから分かったんだろ?」

 

「そこも含めて、よく分かります」

 

 リュシアは土地、水、餌と書き、その下へ世話をする人と加えた。

 

「放せる場所も見る。小屋が置けても、ずっと閉じ込めるしかない家は駄目だよ」

 

「お願いします」

 

「最初から何百羽も渡すんじゃないよ」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「……今回は」

 

「今、間があったね」

 

「2,500羽で反省しました」

 

「なら覚えておきな」

 

 候補になる農家へは、まず50羽だけ渡す。

 

 毎日餌と水を用意できるか。

 

 鶏舎を掃除し、卵を回収し、具合の悪い個体を群れから分けられるか。

 

 季節が変わっても続けられるかを見てから、次の群れを増やす。

 

 押入商会は最初の鶏と簡易鶏舎を用意するが、日々の世話まで引き受けない。

 

 澪の鑑定や浄化は、導入時の状態確認と、異常が起きた時の支援に限る。

 

 能力がなければ飼えない方法を教えても、澪の収納を外へ移しただけになってしまう。

 

 農家で増えた鶏も、群れに残せない分は食品としてリュシア商会へ出せるようにする。

 

「卵が余ったら、買ってもらえます?」

 

「今の卵なら買うよ」

 

「鶏が増えすぎたら?」

 

「先に増やしすぎるなって教えな」

 

「それは説得力があります」

 

「失敗した側の説得力だね」

 

「崩壊はしてません」

 

「そこは偉いよ」

 

 褒められたのに、澪は素直に喜べなかった。

 

 リュシアは候補を思い浮かべるように、共同商館へ届く農産物の帳面をめくった。

 

 小麦を作っている家。

 

 家族に毎日の世話をできる者がいる家。

 

 水場が近く、放牧できる土地を持つ家。

 

 無料だから集めるのではなく、飼った鶏と卵を生活へ組み込める家を選ぶ。

 

「何軒か当たってみるよ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、決めるのは家と土地を見てからだ」

 

「はい。鶏舎も、その土地に合わせて作ります」

 

「結局、作るんだね」

 

「最初だけです」

 

 澪はそう答え、心の中でもう一度繰り返した。

 

 最初だけ。

 

 鶏も鶏舎も、飼い方も渡す。

 

 その後は異世界の人に育ててもらう。

 

 言い方を変えれば、丸投げしたい。

 

 ただし、投げた先で鶏も人も困らないところまで整えてからである。

 

 丸投げにも、ずいぶん準備が要るらしい。

 

 

 

 新事業所へ戻ると、理央は共用机の上に置かれた鶏舎の見取り図を見つけた。

 

「じゃあ、収納の2,500羽は増やさないんですね」

 

「増やしません」

 

「本当に?」

 

「世代交代だけです」

 

「よかった」

 

「農家では増やしてもらいますけど」

 

「結局増える!」

 

 真壁は澪が持ち帰った条件の紙へ目を通した。

 

「場所を分けるのだろう」

 

「はい」

 

「二人とも普通に納得しないでください」

 

「でも、私がずっと卵を持っていくより、向こうで卵が取れる方がいいでしょう?」

 

「それはそうですけど……」

 

 理央は見取り図と澪の顔を交互に見た。

 

 反論するところを探したらしいが、少しして諦めたように椅子へ座った。

 

「次は何を増やすんです?」

 

「増やしませんよ」

 

「今のところはな」

 

「真壁さん」

 

「何だね」

 

「余計なことを言わないでください」

 

 真壁は返事をせず、候補農家へ渡す鶏舎の図面を自分の方へ引き寄せた。

 

 土地に合わせて寸法を変えられるよう、組み立て部分へ印を付けていく。

 

 理央が「最初だけですよね」と念を押した。

 

 澪も「最初だけです」と答えた。

 

 その間にも収納の中では、今日の分の卵がまた1個増えていた。

 

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