春休みの朝、澪は目覚まし時計より先に鶏の数を確かめるようになっていた。
六畳間のカーテンから朝の光が細く差し込み、畳の上には昨夜閉じ忘れた飼育記録の帳面が開いている。
机の端には卵の回収数を書いた帳面があり、その隣ではスマートフォンの充電表示が赤くなっていた。
先に充電すべきものがある気もしたが、澪は布団の上へ座ったまま、自分の収納へ意識を向けた。
収納内農場では、夜の時間が終わろうとしている。
鶏舎の中で身を寄せていた鶏が動き始め、止まり木から一羽ずつ床へ降りていた。
澪が天頂部の《光》を弱く点灯すると、暗かった草地へ朝の色が広がっていく。
収納内工程で鶏舎の戸を開け、給水の状態を見て、餌場へ小麦を足す。
魚を育てた時に残った虫も分けて入れると、先に外へ出た鶏が草を踏み分けて集まった。
「今日も元気ですね」
返事の代わりに、収納の中で羽音が重なった。
草をついばむもの、土の柔らかいところを脚で掻くもの、動いた蚯蚓へ首を伸ばすものがいる。
その様子を一通り見てから、澪は産卵箱の卵を回収した。
割れ、殻の汚れ、形、産んだ時刻を見て分け、《鑑定》を通す。
食用へ回すものと、孵化棚へ置く有精卵を分け、触れた場所を《浄化》した。
ここまで終えたところで、スマートフォンの時計を見る。
「……朝ご飯がまだでした」
鶏の朝食は終わっていた。
澪は自分の分の食パンを袋から出し、くわえたままその日の支度を始めた。
昼前になれば、次は雛を見る。
孵化区画で殻を割り始めた卵があれば、温度と湿度を確かめた。
孵った雛はすぐ成鶏へ混ぜず、育雛区画で体温と餌の食べ方を見る。
弱い個体、脚に異常のある個体、餌を取れない個体がいないか、何度も群れを分けて確かめる。
健康に育った若鶏だけを放牧区画へ戻し、空いた育雛区画を洗って浄化する。
異世界へ出かける前にも見た。
押入商会の仕事を終えたあとにも見た。
収納内時間操作を使う時は、一度に何か月も進めず、鶏側の一日を区切って進めた。
昼には草地へ出し、夜には光を落として鶏舎へ戻す。
水と餌の減り方、糞の量、卵の数を見てから次の日へ進む。
異世界側で飼ってもらうなら、自分が一通り経験しておかなければ説明できない。
澪はそう考え、まず収納内農場で飼育を続けた。
最初は約100羽だった。
次に帳面をまとめた時には数百羽になっていた。
産卵箱から有精卵を選び、孵して、育て、群れへ戻す。
一度に扱う数は多くない。
毎回、目の前にある分だけなら、少し忙しくなった程度で片づけられた。
鶏用に分けた草地は約2.5haあり、500羽へ増えても、空いている場所の方が広かった。
1,000羽になっても、押し合ってはいない。
鶏舎と餌場を増やし、産卵箱を足せば、群れはまた落ち着いた。
草地には鶏が点々と散り、離れたところまで見れば、まだ緑の方が多く見えた。
だから、まだ大丈夫だと思った。
餌はある。
水もある。
鶏舎も足りている。
病気の個体も見つかっていない。
大丈夫だと確かめるたび、澪は次の有精卵を孵化棚へ置いた。
新事業所の共用机で、澪はその日の採卵数を帳面へ書き込んだ。
窓の外では春の風が向かいの建物の軒を抜け、干してある布を揺らしている。
自分の部屋で原稿を書いていた理央が、空になったカップを持って出てきた。
「また卵ですか?」
「はい。今日の分です」
「何個でした?」
「あとで数えます」
澪は回収した卵を日付ごとに分け、食用保管区画へ収めた。
そのまま、群れ全体へ鑑定と分類を掛ける。
成鶏、若鶏、雛。
雄と雌。
産卵中、育成中、繁殖用。
健康状態に異常がないことを先に見てから、総数へ目を移した。
表示された数字のところで、澪の指が止まった。
「……2,500羽」
「何がです?」
「鶏です」
理央はカップを流しへ置く前の姿勢で止まった。
「え?」
「2,500羽を少し超えてます」
「100羽でしたよね?」
「最初は」
澪はもう一度、分類の結果を見た。
数字は減らなかった。
当然だった。
毎日、卵を見た。
自分で孵し、雛へ餌を与え、若鶏を群れへ加えた。
突然増えた一羽などいない。
それでも、100羽から2,500羽までを一つの数字で見せられると、途中の日々が全部隠れたように見えた。
「何をしたら25倍になるんですか」
「卵を孵して、育てました」
「それは知ってます」
「聞かれたので」
「そういう意味じゃないです」
理央がようやくカップを流しへ置いた。
書類を持って部屋から出てきた真壁は、二人の間へ視線を置いたあと、澪の帳面を見た。
「状態はどうなのだね」
「今は問題ありません。病気の個体はいませんし、放牧区画にも余裕があります」
「給餌量は」
「足りています。水場も混んでいません」
「なら、問題は次だな」
「はい」
「次?」
理央が二人を見比べた。
澪は収納内の草地へ目を戻した。
100羽の頃は、草の間に鶏がいるという景色だった。
今は、どこへ視線を動かしても鶏がいる。
土を掘る群れがあり、虫を追う群れがあり、日陰で腹を地面へ付けて休むものもいる。
餌場から離れたところにも羽の白や茶が散り、鶏舎へ戻る列が草地を横切っていた。
まだ過密ではない。
だからこそ、今なら止められる。
「このまま孵し続けたら、次は3,000羽、4,000羽になります」
「止めましょう」
「止めます」
「早い」
「妥当だな」
澪は孵化棚へ送る条件を開き、有精卵をすべて対象にしていた指定を外した。
これからは現在の羽数、雌雄、年齢、産卵状態を見て、世代交代に必要な分だけを残す。
増やすための孵化は、ここで終わりにする。
「2,500羽前後を上限の目安にします」
「それでよい」
「真壁さんが止める側にいると安心します」
「普段から止めるべきものは止めているが」
「そうでしたっけ」
「そこは私も少し考えます」
「澪君」
「はい」
返事をしながら、澪の頭にはニュースで見た部屋が浮かんでいた。
最初は数匹だった犬や猫が増え、飼い主だけでは世話が追いつかなくなった家。
餌を与えているから大丈夫。
捨てていないから大丈夫。
まだ場所があるから大丈夫。
今朝まで、自分も似た順番で鶏舎を見ていた気がする。
2.5haの草地と浄化があるため、表面に出ていないだけではないか。
「多頭飼育崩壊……」
「してるんですか?」
「してません。まだ健康です」
「じゃあ、何で今、そんな顔をしたんです?」
「このまま続けたら、する側だったなと思って」
澪は孵化棚に残っていた卵を見直し、世代交代分を除いて食用へ移した。
餌も水も場所もある。
それは、増やしてよい理由ではない。
自分が見切れる数で止めることまでが、飼う側の仕事だった。
設定を閉じたところで、先ほど回収した卵の分類が終わった。
今日の採卵数は537個と表示されている。
澪は閉じかけた帳面を、もう一度開いた。
「あと、卵が537個です」
「全部ですか?」
「今日の分です」
「今日の?」
「昨日は518個でした」
「その前は?」
「506個です」
「増えてません?」
「鶏は増やすのを止めましたよ」
「卵の話です」
「卵は鶏に言わないと」
「産むのを止めさせる必要はないだろう」
真壁が書類を机へ置いた。
「それはそうなんですけど」
理央の声から勢いが抜けた。
澪は保管区画へ並んだ卵箱を見た。
今日の537個だけなら、収納にはいくらでも入る。
明日も500個を超え、その次の日にも増える。
腐らない場所があるせいで、使い道を決めなくても困った景色にならない。
それが一番危ない気がした。
「……リュシアさんに相談してきます」
「こういう時だけ早いですね」
「食べ物の量で困った時は、リュシアさんです」
「正しい判断だな」
「本人が聞いたら、微妙な顔をしそうです」
澪は試食用の卵を取り出すため、空の籠を机へ置いた。
その底へ卵を並べながら、自分の収納には見えない鶏が2,500羽いることを、もう一度考えた。
抱えられることと、抱えてよいことは違う。
共同商館の裏口から入ると、焼いたパンと煮込みの匂いが混じって流れてきた。
昼の商いが一段落する時間だったが、奥の作業場では空になった木箱が積み直され、食堂へ回す野菜が籠ごと運び出されている。
リュシアは納品書を見ながら、袋へ入った豆を秤へ載せていた。
澪が卵の籠を抱えて近づくと、秤の針ではなく、先に籠の中を見た。
「リュシアさん、相談があるんですけど」
「今度は何だい」
声はいつもと同じだったが、リュシアの手は次の豆袋へ伸びずに止まった。
澪が相談を持ってくる時は、たいてい量か売り方のどちらかに問題がある。
今回は両方だった。
「鶏が増えました」
「何羽」
「2,500羽くらいです」
リュシアは澪を見た。
それから卵の籠へ視線を落とし、もう一度澪へ戻した。
「何羽から?」
「100羽くらいからです」
「澪」
「はい」
「それは『増えた』で済ませる数じゃないよ」
「ですよね」
「自覚はあるんだね」
「さっきできました」
「遅いよ」
リュシアは額へ手を当てず、ため息も大きくはつかなかった。
代わりに、秤の上の豆袋を下ろし、作業台を空けた。
「今のところは健康です。放牧する場所も足りていますし、これ以上は増やしません」
「それならいいさ。それで?」
「卵が毎日500個を超えています」
「そっちもかい」
「はい」
「今日は何個」
「537個です」
「細かい数字はちゃんと出るんだね」
「商人なので」
「2,500羽を『くらい』って言った人が言うんじゃないよ」
澪は返す言葉が見つからず、持ってきた卵を籠から出した。
白い殻と薄茶色の殻があり、大きさは完全には揃っていない。
割れや汚れのあるものは除き、今朝回収した中から、平均的なものを選んでいる。
「まず食べてみてください」
「売れるかを見るのが先だね」
リュシアは手近な職人へ声を掛け、小さな鉄鍋と皿を用意させた。
卵を割ると、盛り上がった黄身が鍋へ落ち、白身がその周囲へ広がる。
油の弾ける音に、作業場を通りかかった者が一度だけ振り返った。
澪には見慣れた卵料理だった。
それでも、ここで商品になるかどうかは、自分の舌よりリュシアの舌を信じた方がよい。
塩を少し振っただけの卵を、リュシアは端から切った。
黄身の色、白身の固まり方、匂いを見てから口へ入れる。
澪は返事を待った。
リュシアは何も言わず、もう一口食べた。
「どうです?」
「うまいね」
「よかった」
「安心するところじゃないよ」
「売れなかったら、明日また500個増えるので」
「そう聞くと、急に怖いね」
「お願いします」
澪が頭を下げると、リュシアは残りを食べてから皿を置いた。
「食べ物としてなら捌くよ」
「全部ですか?」
「一か所へ全部は流さないよ。共同商館だけで抱えず、食堂や宿にも分ける」
「助かります」
「毎日同じ数とは限らないんだろ?」
「今の群れなら500個前後です。産卵数と品質は、回収日ごとに出します」
「古いものから出しな」
「日付で分けています」
「そこはちゃんとしてるんだね」
「そこも、です」
「はいはい」
リュシアは卵を一つ持ち上げ、明かりへ透かしてから籠へ戻した。
宿で朝食へ出すなら、大きさをある程度そろえた方がよい。
食堂で焼いたり煮たりするなら、小ぶりなものもまとめて扱える。
孤児院へ回す分を先に取り、残りを売り先ごとに分けることになった。
澪が卵を作業台へ並べるそばから、リュシアは必要な籠の数と運ぶ先を帳面へ書いていく。
500個という数字が、朝食何人分、鍋何杯分へと置き換わっていく。
収納の中で増え続ける箱だったものが、ようやく誰かの食事へつながった。
澪の肩から力が抜けたが、まだ帰るわけにはいかなかった。
「あと、もう一つあるんです」
「まだ鶏かい?」
「まだ鶏です」
「聞こうか」
澪は帳面の別の頁を開いた。
群れを2,500羽前後で保つなら、若い鶏を加える一方にはできない。
卵を産む数が落ちた個体、年を取った個体を、いつまでも同じ群れへ残し続けることもできなかった。
「卵をあまり産まなくなった鶏が出てきて」
「肉にするんだろ?」
「やっぱり、そうなりますよね」
「鶏なんだろ?」
「鶏です」
「なら、食品として処理できるなら、こっちで捌くよ」
「老いた鶏でも?」
「若い鶏と同じ食べ方をしなければいいさ。硬ければ煮込めるし、出汁にもなる。まず肉を見せな」
リュシアの返事には、飼っていたものを食べることへのためらいがなかった。
軽く考えているのではなく、食べ物として扱う場所が最初から決まっているのだと、澪にも分かった。
育て、卵を取り、年を取れば肉にする。
言葉にすれば短い循環を、自分は卵の側からしか見ていなかった。
「分かりました」
「澪がしめるのかい?」
「……そのつもりです」
「嫌なら人に頼んでもいいんだよ」
澪は少し考えた。
その申し出へ甘えることもできる。
けれど、孵したのも、育てたのも、数を止めると決めたのも自分だった。
最後のところだけを見ないまま、人へ渡したくはなかった。
「いえ。やってみます」
「そうかい」
リュシアはそれ以上、励ます言葉を足さなかった。
代わりに、見本の肉を持ってくる時は冷やした状態で運ぶこと、処理した日を分けることだけを伝えた。
澪は卵の籠を作業場へ預け、空になった両手を見た。
明日から卵の箱は減る。
その代わり、次は鶏を食品へ変える工程を、自分で作らなければならなかった。
新事業所へ戻った澪は、自分の机へ何も置かず、しばらく収納内の群れを見ていた。
天頂部の光は昼の明るさになり、鶏は草地へ散っている。
地面を掻く脚も、餌を探して振られる首も、若い個体と老いた個体では少しずつ違った。
澪は年齢と産卵記録を重ね、群れから出す候補を分けた。
病気ではない。
食用にできる状態で、卵を産む回数が落ちている。
最初から一度に多くを対象にはせず、1羽だけを別の区画へ移した。
「真壁さん」
向かいの机で図面を見ていた真壁が顔を上げた。
「何だね」
「老いた鶏を、肉にします」
「そうか」
返事はそれだけだった。
澪は工程を書き始めようとした手を止めた。
「もう少し何かないんですか」
「止めてほしいのかね」
「いえ」
「なら、余計なことは言わん方がよいだろう」
「……そうですね」
紙の上には、選別、処理、冷却とだけ書いてある。
その間を埋めなければ、食品にはならない。
澪は鉛筆を持ち直した。
「実家の近くの農家で、鶏をしめるところを見たことはあるんです」
「経験があるのか」
「見ただけです。自分でやるのは初めてです」
「嫌なら人に任せてもよい」
「大丈夫です」
「無理はしていないかね」
「思ったよりは」
真壁の視線が、工程を書いた紙から澪の顔へ移った。
「ほう」
「狼とかゴブリンとかと戦ったからでしょうか」
「鶏と並べる話ではないな」
「私も言ってから思いました」
「なら忘れたまえ」
「はい」
異世界へ来る前なら、自分が飼った鶏を肉にするなど、考えるだけで避けたかもしれない。
今は命を奪うことへ平気になったのかと問われれば、違う気がする。
狼やゴブリンと向き合った時には、生き残るために他のことを考える余裕がなかった。
目の前の鶏は襲ってこない。
逃げ道のない場所へ置いたのも、育てたのも澪だった。
だからこそ、急いで済ませるのではなく、苦しませず、食べられるところを無駄にしない方法を選ばなければならない。
「子どもたちに食べてもらえますし」
「そうだな」
「飼ったのに、最後だけ誰かに押しつけるのも嫌なので」
「なら、きちんとやりたまえ」
「はい」
澪は処理区画を、飼育区画や食用保管区画から離して作った。
道具と作業面を浄化し、生体として扱う段階と、食品として扱う段階の境を決める。
対象にした1羽の状態を鑑定し、工程の順番を一つずつ見直した。
最初から自動で最後まで流すことはしない。
途中ごとに止め、状態を確かめ、問題がなければ次へ進める。
澪は一度、息を整えた。
それから、最初の処理を始めた。
手順そのものに長い時間は掛からなかった。
けれど澪は、工程の一つが終わるたび、紙へ印を付けた。
放血。
脱羽。
内臓の処理。
洗浄。
冷却。
食べられる部位と、別に扱うものを分け、肉へ鑑定を向ける。
異常はない。
衛生状態にも問題はなかった。
澪は部位ごとに包装し、処理した時刻と個体の記録を結びつけた。
そこまで終えてから、同じ品質で繰り返せるように条件を整え、《収納内工程》へ登録した。
登録したからといって、急に何羽も処理するつもりはない。
老いた個体が出た時にだけ選び、毎回、前後の状態を確かめる。
効率を上げるための工程ではなく、見落とさないための工程だった。
澪は作業台へ、冷却前の見本を取り出した。
白かった羽はなくなり、そこにあるのは食材として見慣れた鶏肉だった。
少し前まで草地を歩いていた個体だと分かっていても、目を背けたいとは思わなかった。
それが自分でも不思議だった。
強くなったのか、鈍くなったのかは分からない。
ただ、必要なことを最後まで行い、捨てずに食べてもらえる形へした。
今はそれ以上の答えを急がなくてもよい気がした。
「……できました」
「状態は?」
「問題ありません。ちゃんとお肉になっています」
「そうか」
真壁は席を立ち、包装前の肉を近くから見た。
澪が読み上げた鑑定結果と工程表を照らし合わせ、処理時刻の欄で一度指を止める。
「普通ですね」
「普通でなければ困る」
「それはそうなんですけど」
真壁は工程表を机へ戻した。
「よくやった」
澪は顔を上げた。
「え」
「何だね」
「真壁さんが普通に褒めたので」
「褒めてはいけないのかね」
「いえ……ありがとうございます」
「では冷やしたまえ」
「余韻が短いです」
「食品なのだから当然だ」
澪は肉を収納へ戻し、冷却工程へ送った。
作業台に残った紙には、最初の1羽分の印が上から下まで並んでいる。
卵を産まなくなった鶏を、不要なものにはしなかった。
冷えた見本をリュシアへ渡せば、今度は肉に合う料理と売り先を、現地の人が決めてくれる。
卵の出荷が始まると、新事業所の机から卵箱が消えるようになった。
朝に回収した分は日付と大きさで分け、孤児院へ回す分を除いて共同商館へ渡す。
老鶏の肉もリュシアが確かめ、若鶏より長く煮込む料理へ使えることが決まった。
群れは2,500羽前後で保たれ、孵す卵は世代交代に必要な数だけになった。
澪の帳面には毎日の卵と餌の数字が並び、その横へ、群れから出した個体の行も加わっている。
増える一方だった頃より記すことは多いが、行き先が決まっている分だけ、数字を見た時の息苦しさは減っていた。
その日の作業を終え、澪は自分の状態へ鑑定を向けた。
見慣れた技能の列を追っていた目が、途中で戻る。
「生体収納、Lv7になってます」
理央が原稿から顔を上げた。
「また上がったんですか」
「上がりました」
「2,500羽も扱っていればな」
真壁は卵の出荷記録を閉じた。
「羽数で言わないでください」
「では重量で言おう」
「言わなくていいです」
「5tは超えているだろう」
「もっと嫌です」
理央の視線が、何もない共用机の上をゆっくり動いた。
「5tの鶏……」
「理央ちゃんまで、まとめないでください」
収納の中では2,500羽がそれぞれ勝手に歩いている。
5tの塊が置いてあるわけではない。
分かっているのに、重量へ直された途端、床が抜けそうな気がした。
もちろん、収納の中に床下はない。
「浄化もLv7か」
「鶏舎、卵、水、餌場、精肉工程でずっと使っていますから」
「光もLv5です」
理央が澪の書き写した表示を指した。
「鶏の昼夜を作っていたら上がりました」
「結構なことではないかね」
「私の収納、何なんでしょう」
「農場ですよね」
「畑です」
「鶏が2,500羽います」
「いますね」
「卵が毎日500個以上です」
「取れますね」
「精肉工程もあります」
澪は反論しようとして、言葉が出なかった。
収納内農場には、大豆やサツマイモを育てる畑がある。
その横には鶏舎があり、約2.5haの放牧地があり、孵化区画と育雛区画もある。
産卵箱から卵を回収し、日付ごとに分け、老鶏は食品へ変えられる。
餌場も水場も、昼夜を作る光も、病気を防ぐための浄化も揃っていた。
「……完全に養鶏場ですね」
「畑もある」
「真壁さん、そこは助けになってません」
澪は技能の上昇を書き留め、鶏の記録を閉じた。
収納の中だけを見れば、ひとまず循環している。
必要な数だけ孵し、卵を出荷し、年を取った個体は肉として食べてもらう。
2,500羽を抱える方法はできた。
けれど、それは澪の生体収納と時間操作、鑑定、浄化、光があるから成り立っている。
澪が毎朝起きて見なければ、光を点ける者がいない。
朝に卵を集め、押入商会の仕事の合間に雛を分け、夜に水と餌を見ている。
500個の卵を毎日運べても、届けられる範囲は澪の動ける範囲から広がらない。
収納内農場が完成するほど、全部を自分で抱えている形がはっきりしてきた。
多頭飼育崩壊は止めた。
次は、鶏の世話で自分の生活が崩壊する前に、やり方そのものを外へ出した方がよい。
「澪さん、何か嫌そうな顔してます」
「嫌というより、このままずっと私が飼うのかなと思って」
「澪君の収納にいる以上は、そうなるな」
「ですよね」
真壁の答えは、逃げ道を一つも作ってくれなかった。
澪は閉じたばかりの帳面をまた開き、共同商館と書いた。
「リュシアさんに、もう一度相談してきます」
「今度は何を捌いてもらうんです?」
「鶏の世話です」
言ってから、それではリュシアへ2,500羽を押しつけるように聞こえると気づいた。
「違います。飼ってくれる人を探してもらいます」
「一瞬、丸ごと渡すのかと思いました」
「私もちょっとだけ思いました」
理央が目を見開いた。
「思ったんですか?」
「2,500羽を見たあとですから」
けれど、誰か一人へ渡せば、飼い主が澪から変わるだけだった。
小さな群れに分け、飼える家へ渡し、その土地で増やしてもらう。
澪が手放したいのは責任ではなく、澪一人にしかできない形の方だった。
共同商館の作業場には、見覚えのある卵籠がいくつも並んでいた。
大きさのそろったものには宿の名札が付き、小ぶりなものは食堂へ運ぶ籠へ分けられている。
奥の台所からは、卵を溶く器の音が聞こえた。
老鶏の肉も煮込みに使われ、昼の鍋はほとんど残らなかったらしい。
2,500羽を維持するだけなら、卵にも肉にも行き先ができた。
その光景を見て安心したはずなのに、澪は別の帳面を抱えてリュシアを待っていた。
今度の頁には、卵の数ではなく、小さな群れに必要な設備を書いている。
リュシアは食堂から戻ると、澪の帳面と空の籠を順に見た。
「今日は卵じゃないのかい」
「もう一つお願いがあるんですけど」
「まだ鶏かい?」
「まだ鶏です」
「聞こうか」
澪は帳面を開いた。
「侯爵領で、鶏を育ててくれる人を探してほしいんです」
「売るのかい?」
「最初の鶏は、ただで渡します」
「ただ?」
「はい」
リュシアの眉が上がった。
「何羽ずつ」
「最初は小さな群れです。雄と雌を入れて、自分たちで増やせるくらいにします」
「鶏だけかい」
「簡易鶏舎も付けます」
リュシアが黙った。
澪は何か条件を言い忘れたかと、帳面を見直した。
「何ですか」
「澪」
「はい」
「あんた、何屋だった?」
「貿易商です」
「最近は鶏小屋まで配ってるね」
「鶏だけ渡しても困るじゃないですか」
「そこだけ聞くと正しいのが困るね」
「褒めています?」
「半分くらいはね」
澪は残り半分を聞かないまま、見取り図を開いた。
収納内で使っている設備をそのまま渡すつもりはない。
光も時間操作も浄化もなく、現地の人が手で掃除し、餌と水を足して使えるものにする。
雨風を防ぐ小屋、産卵箱、止まり木、給餌と給水の道具があれば、小規模な群れから始められる。
澪が毎日500個の卵を運び続けるより、農家の庭で鶏が卵を産む方がよい。
家族が食べ、余った分を売れば、その家の収入にもなる。
何より、朝起きて鶏の世話をするのが澪ではなくなる。
そこまで考えたところで、澪は自分の動機に、少しだけ後ろめたい部分が混じっていることへ気づいた。
子どもたちへ卵を広げたい。
現地で続く仕組みにしたい。
それは本当だった。
同じくらい、2,500羽をずっと一人で見たくないという気持ちも、本当だった。
毎朝、鶏より先に起きる生活を続ければ、いつか収納を開く前に布団へ戻りたくなる日が来る。
それは鶏にも、自分にもよくない。
「声は掛けるよ」
リュシアは見取り図を端から見て、鶏舎を置く広さを指で測った。
「でも、ただなら欲しいって家には渡さない」
「はい」
「鶏が欲しいのと、毎日飼えるのは別だからね」
「そこは、よく分かります」
「2,500羽になってから分かったんだろ?」
「そこも含めて、よく分かります」
リュシアは土地、水、餌と書き、その下へ世話をする人と加えた。
「放せる場所も見る。小屋が置けても、ずっと閉じ込めるしかない家は駄目だよ」
「お願いします」
「最初から何百羽も渡すんじゃないよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……今回は」
「今、間があったね」
「2,500羽で反省しました」
「なら覚えておきな」
候補になる農家へは、まず50羽だけ渡す。
毎日餌と水を用意できるか。
鶏舎を掃除し、卵を回収し、具合の悪い個体を群れから分けられるか。
季節が変わっても続けられるかを見てから、次の群れを増やす。
押入商会は最初の鶏と簡易鶏舎を用意するが、日々の世話まで引き受けない。
澪の鑑定や浄化は、導入時の状態確認と、異常が起きた時の支援に限る。
能力がなければ飼えない方法を教えても、澪の収納を外へ移しただけになってしまう。
農家で増えた鶏も、群れに残せない分は食品としてリュシア商会へ出せるようにする。
「卵が余ったら、買ってもらえます?」
「今の卵なら買うよ」
「鶏が増えすぎたら?」
「先に増やしすぎるなって教えな」
「それは説得力があります」
「失敗した側の説得力だね」
「崩壊はしてません」
「そこは偉いよ」
褒められたのに、澪は素直に喜べなかった。
リュシアは候補を思い浮かべるように、共同商館へ届く農産物の帳面をめくった。
小麦を作っている家。
家族に毎日の世話をできる者がいる家。
水場が近く、放牧できる土地を持つ家。
無料だから集めるのではなく、飼った鶏と卵を生活へ組み込める家を選ぶ。
「何軒か当たってみるよ」
「ありがとうございます」
「ただし、決めるのは家と土地を見てからだ」
「はい。鶏舎も、その土地に合わせて作ります」
「結局、作るんだね」
「最初だけです」
澪はそう答え、心の中でもう一度繰り返した。
最初だけ。
鶏も鶏舎も、飼い方も渡す。
その後は異世界の人に育ててもらう。
言い方を変えれば、丸投げしたい。
ただし、投げた先で鶏も人も困らないところまで整えてからである。
丸投げにも、ずいぶん準備が要るらしい。
新事業所へ戻ると、理央は共用机の上に置かれた鶏舎の見取り図を見つけた。
「じゃあ、収納の2,500羽は増やさないんですね」
「増やしません」
「本当に?」
「世代交代だけです」
「よかった」
「農家では増やしてもらいますけど」
「結局増える!」
真壁は澪が持ち帰った条件の紙へ目を通した。
「場所を分けるのだろう」
「はい」
「二人とも普通に納得しないでください」
「でも、私がずっと卵を持っていくより、向こうで卵が取れる方がいいでしょう?」
「それはそうですけど……」
理央は見取り図と澪の顔を交互に見た。
反論するところを探したらしいが、少しして諦めたように椅子へ座った。
「次は何を増やすんです?」
「増やしませんよ」
「今のところはな」
「真壁さん」
「何だね」
「余計なことを言わないでください」
真壁は返事をせず、候補農家へ渡す鶏舎の図面を自分の方へ引き寄せた。
土地に合わせて寸法を変えられるよう、組み立て部分へ印を付けていく。
理央が「最初だけですよね」と念を押した。
澪も「最初だけです」と答えた。
その間にも収納の中では、今日の分の卵がまた1個増えていた。