押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

353 / 356
第353話 芋の作付けです

 

 農家の主人は、澪たちの姿を見ると、納屋の前に置いていた鍬を壁へ立て掛けた。

 

 春先の畑には、冬を越した麦の緑が低く続いている。

 

 家の裏では積み上げられた麦わらが風に擦れ、乾いた音を立てていた。

 

 去年、初めて持ち込んだサツマイモと大豆を育ててもらった農家である。

 

 あの時は上の畑の一角へ品種ごとの札を立て、育つかどうかから確かめた。

 

 今日は澪と理央のほかに、リュシアも一緒だった。

 

 主人は3人を見回したあと、澪が抱えている帳面へ目を落とした。

 

「今年の芋か?」

 

「はい。今年もサツマイモをお願いします」

 

 澪が頭を下げると、主人はすぐに頷いた。

 

「もちろんだ。去年の芋はよく育ったからな」

 

「ありがとうございます」

 

「今年は去年より楽になるかもしれないよ」

 

 リュシアが言うと、主人の顔が少し緩んだ。

 

「それは助かるな。去年はつるを植えるところから、何度も見直したからな」

 

 今年は、その何度も見直した作業を、理央と澪の収納で短くするつもりだった。

 

 ただし、先に話すことがある。

 

 澪は帳面を閉じず、次の頁を開いた。

 

「あと、もう一つお願いがあります」

 

「何だ?」

 

「鳥を50羽、飼ってもらえませんか?」

 

 主人はすぐには返事をしなかった。

 

 畑の作物を頼まれると思っていたところへ、急に鳥が出てきた顔だった。

 

「鳥?」

 

「はい」

 

「鳥を飼うのか?」

 

「鶏という鳥です」

 

「……鶏?」

 

 主人は聞いたことのない名前を、口の中で確かめるように繰り返した。

 

「こちらでは、家畜として飼われていない鳥なんです」

 

 理央が補うと、リュシアが主人の反応を見ながら腕を組んだ。

 

「だから、説明からだね」

 

「卵を産む鳥です。家畜として飼えます」

 

「卵を?」

 

「食べられます」

 

 主人の目が、澪の顔から庭の空いている場所へ動いた。

 

 食べられる卵を繰り返し産むと聞いて、鳥の名前より先に、家畜としての使い道を考え始めたらしい。

 

「毎日取れるのか?」

 

「毎日とは限りませんけど、かなり取れます」

 

「澪のところじゃ、今は毎日500個を超えてるよ」

 

「……500?」

 

「今日は、その話はしなくていいです」

 

 主人の顔へ浮かんだ疑問を残したまま、澪は庭の端へ移った。

 

 家の出入りを邪魔せず、畑へ向かう荷車の道にも掛からない。

 

 井戸から遠すぎず、雨が降った時に水が溜まりにくい場所を選ぶ。

 

 主人にも位置を確かめてもらってから、澪は収納から簡易鶏舎を出した。

 

 土の上へ木造の小屋が現れ、短い影を落とす。

 

 主人は鶏舎の屋根から床までを見上げ、それから何もなかったはずの地面を見た。

 

「……これは?」

 

「鶏舎です」

 

「けいしゃ?」

 

「鶏が寝たり、卵を産んだりする建物です」

 

「鳥に家を?」

 

「私も最初はそう思いました」

 

 理央が小さく頷いた。

 

「もう出しちまったから、今さら聞いても戻らないよ」

 

「戻せますよ」

 

「そういう意味じゃないよ」

 

 鶏舎は、こちらの大工でも直せる木造にしてある。

 

 中には止まり木と産卵箱があり、床の汚れを外から掻き出せるよう、低い位置に戸を付けた。

 

 餌箱と水入れも、壊れた時に同じ形を作れる単純なものにしている。

 

 澪は戸を順番に開け、どこを掃除し、卵をどこから取るのかを見せた。

 

 主人は屋根よりも床を気にし、雨の向きと地面の傾きを見ていた。

 

「この向きなら、強い雨でも入口へ流れ込みにくい」

 

「じゃあ、ここで大丈夫ですか?」

 

「ああ。ただ、鳥が50羽も水を飲むなら、家の桶と一緒にはできんな」

 

 主人が先に水の話をしたため、澪は少し安心した。

 

 井戸は家の脇にあり、鶏舎との間に大きな高低差はない。

 

 魔法で水を出し続ける仕組みは使えない。

 

 井戸水を運ぶための樽と、鶏が口を入れやすい高さの水場を用意し、毎朝の水替えを主人の手で行えるようにした。

 

 樽の栓も管も、町の職人が直せるものだけで組んでいる。

 

 澪たちがいなくなった翌日から使えなければ、渡したことにはならない。

 

「朝、井戸からここへ入れてください。減り方を見て、夕方にも足します」

 

「水が濁ったら?」

 

「全部替えて、水入れも洗ってください」

 

「分かった」

 

 主人は返事をしながら、樽の栓を自分で開け閉めした。

 

 扱えることを見届けてから、澪は収納内の鶏を50羽だけ選んだ。

 

 健康状態を確かめ、雄を含む小さな繁殖群として分けてある。

 

 鶏舎の前へ靄が広がり、白や茶の羽が次々と地面へ降りた。

 

 初めて見る土地へ出された鶏は、すぐには散らなかった。

 

 数羽が首を伸ばして周囲を見回し、1羽が土を掻くと、その近くにいた鶏も草の根元をつつき始めた。

 

 主人は一歩だけ距離を取り、動きを目で追った。

 

「……これが鶏か」

 

「はい」

 

「思ってたより普通の鳥だな」

 

「空を飛んで逃げる鳥よりは飼いやすいそうだよ」

 

 澪は群れの前へしゃがんだ。

 

 昨日まで収納内農場で世話をしていた鶏である。

 

 今朝からは、この家の人が餌を与え、卵を集める。

 

 胸の奥に、手放せてほっとする気持ちと、置いていく心配が同時に浮かんだ。

 

「今日から、ここで暮らすんですよ」

 

 近くにいた数羽が、澪の方へ顔を向けた。

 

「ちゃんと鶏舎に帰ってきて、この人の言うことを聞いてくださいね」

 

 鶏がこくこくと首を動かした。

 

「今、頷きませんでした?」

 

「分かったのか?」

 

「……どうでしょう」

 

「餌でも見てたんじゃないのかい」

 

「いい子にしてくれれば、どちらでもいいです」

 

 主人はまだ鶏へ手を伸ばさなかったが、怖がっているわけではなかった。

 

 何を食べ、どこで眠り、いつ卵を取るのかが分からず、軽率に触らないようにしている。

 

 澪は用意した小麦を餌箱へ入れ、鶏が寄ってくるところを見せた。

 

 朝夕に水と餌を見ること。

 

 夜までに鶏舎へ戻すこと。

 

 産卵箱から卵を回収し、汚れや割れを確かめること。

 

 動きの鈍い個体がいれば、群れから分けて知らせること。

 

 一度にすべてを覚えさせようとはせず、今日から必要な分だけを伝えた。

 

「家で食べて余った卵は、共同商館へ持ってきな」

 

 リュシアが言うと、主人はようやく鶏から視線を外した。

 

「買うのか?」

 

「状態が良ければね。最初は持ってくる前に、澪たちにも見せな」

 

「食って、余れば売れるのか」

 

「そのために頼みに来ました」

 

 澪が答えると、主人は餌箱へ集まった鶏をもう一度見た。

 

 知らない鳥ではなく、これから世話をする家畜を見る目に、少しだけ変わっていた。

 

 

 

 鶏が餌箱の周りへ落ち着いたところで、主人は3人を上の畑へ案内した。

 

 家の裏から続く坂を上ると、風の当たり方が変わった。

 

 水路から離れた畑は乾きやすく、去年、サツマイモを試した場所でもある。

 

 あの時は一角だけを畝ごとに分け、品種の札を立てた。

 

 今年は、その周囲まで使って作付けを広げることになっている。

 

 表面だけを見れば、春の畑としておかしなところはなかった。

 

 去年の畝は崩され、枯れた草がところどころ残っている。

 

 主人は鍬を持ってきており、土を起こすつもりでいたらしい。

 

 澪と理央は畑の端へ立ち、それぞれ《鑑定》を向けた。

 

 土の中へ意識を沈めると、表からは見えなかったものが次々と分かれていく。

 

 雑草の根と種。

 

 小さな虫と幼虫。

 

 土を動かす虫もいれば、芋や根を傷めるものもいる。

 

 さらに深いところには、モグラが通った穴と、ネズミの巣が残っていた。

 

 畑の端に近いところでは、蛇が一匹、冷たい土の中で動かずにいる。

 

「結構いますね」

 

 澪が言うと、主人は鍬を持ったまま辺りを見た。

 

「何がだ?」

 

「土の中です」

 

「土の中?」

 

「モグラとネズミと……蛇もいます」

 

 理央が《鑑定》結果を追いながら答えた。

 

「蛇までいるのか?」

 

「害虫も多いです」

 

「去年、よく芋が残ったね」

 

「俺も今そう思ってる」

 

 主人は足元を見たが、土の上から巣も蛇も見えるはずがない。

 

 去年も同じようにいたのか、冬を越す間に増えたのかは分からなかった。

 

 澪は理央の方を向いた。

 

「理央ちゃん、これ全部いけます?」

 

「畑ですか?」

 

「土です」

 

 理央は畑の端から端まで見渡した。

 

「……全部?」

 

「全部」

 

「澪、その言い方には慣れない方がいいよ」

 

 リュシアが忠告したが、理央はもう袖を少しまくっていた。

 

「やってみます」

 

 理央は去年の試験区画だけでなく、今年使う範囲を主人へ確認した。

 

 境を曖昧にしたまま収納すれば、隣の畑の土まで持っていくことになる。

 

 四隅を歩き、作土の深さを《鑑定》し、底の固い層を残す位置を決めた。

 

 主人も一緒に歩き、鍬の先で境へ印を付ける。

 

 理央が畑の端へ手を向けると、靄が低く地面を走った。

 

 最初に、畝の一角が消えた。

 

 黒い作土だけが抜け、下にあった色の違う地面が現れる。

 

 その隣も消えた。

 

 枯れた草の根が土と一緒に収まり、表面の小石と轍もなくなる。

 

 靄は畑の端から端へ進み、巨大な布を少しずつ引き抜くように、作土を収納へ収めていった。

 

 数十秒前まで畑だった場所が、浅く掘り下げられた平らな地面へ変わる。

 

 主人は何も言わなかった。

 

 土の消えた場所を見る。

 

 理央を見る。

 

 また畑を見る。

 

「……畑は?」

 

「収納しました」

 

「畑を?」

 

「土だけです」

 

「土だけでも、畑がなくなってるんだが」

 

「すぐ戻します」

 

「戻るのか?」

 

「戻します」

 

「二人とも普通に答えるから、余計に怖いんだよ」

 

 リュシアの言葉に、主人はようやく鍬の柄を握り直した。

 

 地面へ突き立てる土がないため、持ってきた鍬はもう役に立たない。

 

 理央は収納した作土へ《鑑定》を向けた。

 

 土と石。

 

 草の根と種。

 

 生きているもの。

 

 その中から、さらに害を与えるものと、土へ戻すものを分けていく。

 

「モグラ、います」

 

「何匹?」

 

「思っていたよりいます」

 

「ネズミは?」

 

「います」

 

「蛇は?」

 

「います」

 

「俺の畑の下、そんなに住んでたのか?」

 

「家賃は取ってなかったんだろ?」

 

「取れるなら取りたかったよ」

 

 理央は土を混ぜる前に、生き物を種類ごとに分けた。

 

 モグラとネズミ、蛇は、それぞれ外へ出しても逃げ出さない籠や箱へ移す。

 

 害虫も一まとめにはしない。

 

 鶏が食べられると分かる種類だけは別にし、それ以外は農地から離すための容器へ収めた。

 

 土を耕す虫や、作物へ害を与えないものは、最後に戻せるよう保管する。

 

 農家だからといって、土の中にいるものすべてを見分けられるわけではない。

 

 逆に澪たちも、《鑑定》に表示された害の有無だけで、その土地の季節ごとの動きまでは分からない。

 

 主人へ見せ、畑の周りでよく見るものか、作物を荒らしたことがあるかも聞いた。

 

「これ、どうするんだ?」

 

 主人がモグラの入った籠を見下ろした。

 

「畑から離れたところへお願いします」

 

「俺が?」

 

「お願いします」

 

「畑を丸ごと直してもらったんだ。そこくらい働きな」

 

「いや、働くけどよ……」

 

 理央は足元の箱を指した。

 

「蛇の箱、こっちです」

 

「箱で渡されるとは思わなかったな……」

 

 主人は鍬を壁際へ置く時とは違う慎重さで、蛇の箱を持ち上げた。

 

 畑が消えた上に、住人だけをまとめて渡されている。

 

 その背中を見送りながら、澪は去年この畑で品種札の位置を心配していたことを思い出した。

 

 今年は札を立てる前に、畑そのものがなくなっている。

 

 

 

 主人が生き物の入った箱を畑から離れた場所へ運んでいる間に、澪は堆肥のことを思い出した。

 

 去年、麦わらや家畜の糞、大豆の茎葉を積み、芋を植える前に肥やしを育てると話した。

 

 あれから季節が一つ巡っている。

 

「堆肥って残っていますか?」

 

「あるぞ。去年から積んでるのが」

 

「見せてもらっていいです?」

 

「こっちだ」

 

 主人は納屋の裏へ回った。

 

 屋根の張り出した下に、色の違う堆肥が山になっている。

 

 手前には比較的新しい麦わらの形が残り、奥の古い部分は黒く崩れていた。

 

 近づくと湿った土に似た匂いがするが、未熟な山にはまだ家畜の糞と草の匂いが残っている。

 

 澪と理央は同時に《鑑定》を向けた。

 

 全部を入れればよいわけではない。

 

 十分に熟した部分と、まだ寝かせる必要のある部分を分ける。

 

「奥の方なら使えますね」

 

「こっちですね」

 

 理央が使える範囲を示した。

 

「全部混ぜます?」

 

「使える分だけお願いします」

 

「待て」

 

 主人が理央を止めた。

 

「はい?」

 

「それも消えるのか?」

 

「一回だけです」

 

「一回ならいいって話なのか……?」

 

「今日は考えるのを諦めた方が早いよ」

 

 リュシアに言われ、主人は黒く熟した堆肥と、土のなくなった畑を交互に見た。

 

 やがて諦めたように道を空ける。

 

 理央の靄が堆肥の山を包み、使える部分だけを収納へ収めた。

 

 麦わらの形が残る未熟な部分は、その場に残っている。

 

 理央は収納内の作土へ堆肥を加え、一か所へ固まらないよう全体へ散らした。

 

 土の塊を崩し、上下を入れ替え、堆肥の濃いところが残らなくなるまで混ぜる。

 

 澪は隣から手順を指図せず、理央の作業を見ていた。

 

 同じ畑の土でも、場所ごとに色と湿り方が違う。

 

 理央は混ぜる範囲を動かしながら《鑑定》し、偏りが消えたところで一度止めた。

 

「堆肥は混ざりました」

 

「土の方は?」

 

「まだ少し酸性ですね」

 

「調整できそう?」

 

「できます」

 

 理央は火山灰を少量だけ分け、土へ加えた。

 

 白っぽい灰が一か所へ残らないよう、作土全体へ薄く散らして混ぜる。

 

 もう一度、《鑑定》する。

 

 理央の指が空中で止まった。

 

「……まだ少し」

 

 今度は最初より少ない量を加えた。

 

 混ぜて、《鑑定》する。

 

 澪は答えを先に言わず、理央が表示を読み終えるのを待った。

 

「これで大丈夫です」

 

「終わり?」

 

「はい」

 

「畑一枚を直してる会話には聞こえないね」

 

 リュシアはそう言ったが、主人は笑わなかった。

 

 理央が何度も少量ずつ混ぜたことを見ていたからだろう。

 

 畑が消えるところには呆然としていたが、土の扱いへ移ってからは、理央が止めるたびに表情を見ていた。

 

 理央は元の畑へ土を戻し始めた。

 

 靄が露出した地面の端を走り、その後へ黒い作土が薄く広がる。

 

 最初は下の層を覆う程度だった土が、何度かに分けて厚みを増していく。

 

 畑の形が戻り、消えていた境も見えるようになった。

 

 ただし、中身は先ほどまでと同じではない。

 

 雑草の太い根と種は減り、害虫や小石も分けられている。

 

 熟した堆肥が偏りなく混ざり、固まっていた土は細かくほぐされていた。

 

 最後に、分けておいた土を動かす虫を戻す。

 

 理央が手を下ろすと、畑は何事もなかったようにそこへあった。

 

 主人はしばらく立ったまま見ていた。

 

 土が戻ったことを確かめても、すぐには入らない。

 

 畑の端へ足を置き、沈み方を見てから、ゆっくり中へ進んだ。

 

 しゃがみ、土をひと握りする。

 

 指で崩し、もう一度、今度は少し強く握った。

 

「……何だ、この土」

 

 理央の肩がわずかに上がった。

 

「どうしました?」

 

 澪が聞くと、主人は手の中の土を見たまま答えた。

 

「軽い」

 

「軽い?」

 

「ああ。前はもっと締まってた」

 

 主人は人差し指を土へ差し込んだ。

 

 表面だけで止まらず、指が根元近くまで入る。

 

「中まで柔らかい」

 

 少し深いところから両手で土をすくい、鼻へ近づける。

 

 堆肥の匂いだけが強く残っていないことも、主人は確かめていた。

 

「空気が入ってる」

 

「全部混ぜましたから」

 

 理央が答えると、主人は土を握り直した。

 

 まとまった土は、指を開くと細かく崩れた。

 

「それに……暖かいな」

 

「収納の中で混ぜたばかりなので」

 

 主人は返事をせず、別の場所でも土を取った。

 

 畑の端と中央で触り比べ、靴の裏で踏み、またしゃがむ。

 

 《鑑定》の表示を見せるより、その手の方がずっと厳しく畑を確かめているように見えた。

 

「こんな土、今まで見たことがない」

 

 理央が自分の手を見た。

 

 収納の中で行った作業は、外からはほとんど見えない。

 

 できたことは分かっても、それが農地としてよいかどうかは、能力の表示だけでは決められない。

 

 長くこの土地を耕してきた主人の声を聞いて、理央の指から少し力が抜けた。

 

「これなら根が伸びる」

 

「分かるんですか?」

 

 澪が尋ねると、主人はようやく顔を上げた。

 

「分かるさ。土が硬けりゃ、芋も素直に太らん」

 

 主人はもう一度、土を掴んだ。

 

「去年よりいい畑になってる」

 

 その一言で、理央は小さく息を吐いた。

 

 澪も自分の《鑑定》を閉じた。

 

 良好と出る表示より、土の違いを知っている人の手が認めたことの方が大きかった。

 

「去年より育つなら、取れる芋も増えるかもしれないね」

 

 リュシアは畑を褒める代わりに、もう収穫の先を見ていた。

 

 主人は立ち上がり、手についた土を払った。

 

 驚いていた顔ではない。

 

 これから芋を植える畑を見る、農家の顔に戻っていた。

 

 

 

 主人が畑の土を確かめ終えると、鍬を取りに戻ろうとした。

 

 畑は柔らかくなったが、苗を植えるための畝はまだない。

 

 主人にとっては、ここからが今年の作付けだった。

 

「それで、苗はどこだ?」

 

「今つくっています」

 

 主人の足が止まった。

 

「今?」

 

「私も、その言い方にはまだ慣れません」

 

 理央が主人の側へ寄った。

 

「私はだいぶ慣れたよ」

 

「慣れないでください」

 

 澪は自分の収納へ意識を向けた。

 

 去年はゲンダイから種芋を30kg用意し、芽やつるを出させて植える方法から農家へ伝えた。

 

 今は収納内農場で収穫した芋から、状態のよいものを種芋用に分けてある。

 

 最初に持ち込んだ時より、苗取りに使える数は比べものにならない。

 

 だからといって、芋をそのまま外へ出せば苗になるわけではなかった。

 

 澪は種芋の傷みと病気の有無を《鑑定》し、芽出し用の区画へ並べた。

 

 温度、水分、光を整える。

 

 外の畑では主人が見守っているが、収納の中では、種芋のための時間を進める。

 

 一度に必要な日数を流さず、芽の出方を途中で止めて見た。

 

 伸びの悪いものを分け、状態のそろった芽を残す。

 

 光を受けて葉が開き、つるが苗として使える長さへ育つまで、何度も時間を区切った。

 

 澪が収納へ集中している間、理央は戻した土へ《鑑定》を向けた。

 

 畑の端から歩き、土の深さと水分を見ながら、畝を作る位置を決めていく。

 

 さきほど土を全体へ戻した時に、大きな高低差は消してある。

 

 それでも、雨水の逃げ道と、主人が畑へ入る通路は残さなければならない。

 

 理央は主人に去年水が流れた場所を聞き、畝の向きを少し変えた。

 

 土を良くしたからといって、土地の傾きまで無視してよいわけではない。

 

「こっちへ流れる」

 

 主人が畑の低い方を示した。

 

「じゃあ、この間は空けます」

 

 理央は収納から土を動かし、畝と通路を整えた。

 

 澪が苗を育てている間に、理央の側でも植え付け位置が決まっていく。

 

 リュシアは主人と並び、今年の作付け量と、収穫した芋の扱いを確かめていた。

 

「去年みたいに、家で食べる分を先に取っていいんだな?」

 

「もちろんだよ。売れる分は共同商館で引き取る。ただ、今年は去年より取れるかもしれないから、保管場所も見ておきな」

 

「鶏の卵も持っていくことになる」

 

「そっちは、まず産んでから心配しな」

 

 主人は鶏舎のある方を一度見た。

 

 芋の収穫と卵の出荷が同時に始まるわけではない。

 

 けれど、今日の朝までなかった仕事が、すでに農家の一年へ二つ加わっていた。

 

 澪は《収納内工程》を使い、育ったつるから植え付けに使う苗をそろえた。

 

 切り口と葉の状態を見て、弱いものは外す。

 

 外の時間では、まだ大きく太陽が動いていない。

 

 収納内には、畑へ出せる苗が並んでいた。

 

「できました」

 

「もうか?」

 

「はい」

 

「どこにある?」

 

「収納です」

 

 主人は空の畑を見た。

 

 苗を積んだ籠も、人手も見当たらない。

 

 理央が整えた畝だけが、一定の間隔で並んでいる。

 

 澪は畝の一列目へ意識を向けた。

 

 苗の向き、深さ、間隔を決め、収納から直接土へ移す。

 

 靄が畝の端を通り過ぎると、その後へ緑の葉が現れた。

 

 1本、2本ではない。

 

 空いていた位置へ、苗が順番に植わっていく。

 

 土へ入る部分の深さをそろえ、葉が埋まらない向きで置く。

 

 最初の列が終わると、澪は苗の状態を見直した。

 

 浮いているものも、深く入りすぎたものもない。

 

 次の畝へ移り、同じ作業を続ける。

 

 主人は畑の端で、苗が増えるたびに目を動かした。

 

「……誰も畑に入ってないぞ」

 

「入らなくても植えられるので」

 

「去年もこんなだったか?」

 

「去年より悪化してるね」

 

「進歩って言ってください」

 

「私は進歩だと思います」

 

「理央まで、こっち側になったかい」

 

「土を全部しまった後なので、もう今さらかなって」

 

 最後の畝へ苗が植わると、澪は全体へ《鑑定》を向けた。

 

 向きと深さに大きなずれはない。

 

 理央も土側から水分と畝の形を見直した。

 

 澪が苗を作り、理央が土を整えた。

 

 別々の収納で進めた作業が、畑の上でようやく一つになった。

 

 主人は驚いたままではなかった。

 

 畝の端へしゃがみ、苗の根元を指で押さえ、土との隙間を見た。

 

 別の列へ移り、同じように触る。

 

「きちんと入ってる」

 

「浅すぎませんか?」

 

「これなら大丈夫だ」

 

 その返事を聞いて、澪は収納に残った予備苗の数を書き留めた。

 

 能力で早く植えられても、畑に合っているかを最後に決めるのは、この土地を使う主人だった。

 

 

 

 作付けを終えた澪は、畑の端から鶏舎のある庭を見下ろした。

 

 つい先ほどまで土のなかった畑には、緑の苗が列になっている。

 

 少し離れた家の脇には、朝まで存在しなかった鶏舎が立ち、その周囲を50羽の鶏が歩いていた。

 

 水場には井戸から運んだ水が入り、餌箱の位置も決まっている。

 

 主人は苗の根元から指を離し、畑全体を見た。

 

「……終わったのか?」

 

「はい」

 

「芋も?」

 

「植え終わりました」

 

「鳥は?」

 

「50羽います」

 

「小屋も?」

 

「あります」

 

「水も?」

 

「使えます」

 

 主人は一つずつ確かめるたび、視線を畑と庭の間で往復させた。

 

 何日分もの仕事を短い間に見たせいか、顔には朝から働き続けたような疲れがあった。

 

 けれど、上を向いた主人は、そこで別のことに気づいた。

 

 春の太陽は、到着した時からほとんど位置を変えていない。

 

 昼を知らせる鐘もまだ鳴っていなかった。

 

「まだ昼にもなってないぞ」

 

 理央が時刻を見た。

 

「来てから1時間くらいですね」

 

「……1時間?」

 

 主人は今日一番理解できないものを見る目で、理央を見た。

 

「私も時計が欲しくなるね」

 

「便利ですよ」

 

「そういう話じゃないよ」

 

 主人は畑へ向き直った。

 

 今度は、土が消えた時のように立ち尽くさない。

 

 畝の向きと通路を見て、苗の列を数え、庭へ下りる道を目でたどる。

 

 鶏舎の戸が開いていること、水場に鶏が寄っていることも確かめた。

 

 澪たちの能力が何をしたのか、すべて理解できたわけではない。

 

 それでも、残された畑と鶏を、これから自分が扱えるかどうかは見ていた。

 

「鶏ってのは、朝と夕方に見ればいいんだな?」

 

「最初は、もう少し様子を見てください。慣れたら朝夕を中心にして、昼も水だけは減っていないか見てほしいです」

 

「卵は箱から取る」

 

「はい。割れや汚れを見て、取った日も分けてください」

 

「余ったらリュシアさんのところへ」

 

「持ってきな。状態が良けりゃ買うよ」

 

「分かった」

 

 主人は短く答え、鶏舎へ向かった。

 

 澪も後を追い、鶏を中へ誘導する時の餌の使い方をもう一度見せた。

 

 主人が餌箱を持つと、鶏は澪ではなく、そちらへ首を向けた。

 

 少しだけ寂しい気もしたが、その方がよい。

 

 毎日餌をくれる人を覚えなければ、ここへ渡した意味がなかった。

 

 主人は鶏が歩く速さに合わせ、急に追わず、鶏舎の入口まで誘導した。

 

 最初の数羽が中へ入ると、後ろの鶏も続く。

 

「これなら、俺でも戻せるな」

 

「はい。最初の何日かは、暗くなる前に始めてください」

 

 主人は戸の留め具を自分で掛け、また外した。

 

 澪たちが来た時には名前さえ知らなかった鳥を、もう自分の手で鶏舎へ入れている。

 

 主人は戸口から畑を見た。

 

「今年は忙しくなりそうだな」

 

「お願いします」

 

「去年より面白そうだ」

 

 主人が笑った。

 

 作業を早く終わらせただけでは、鶏も畑もこの家へ根づかない。

 

 主人が自分でやれると判断したことに、澪はようやく息をつけた。

 

 収納内農場の仕事を一つ外へ渡せたはずなのに、見届ける項目はむしろ増えている。

 

 それでも、明日の朝に餌をやるのは澪ではない。

 

 その違いは大きかった。

 

 

 

 主人へ別れを告げ、農道へ出たところで、理央は来た道を振り返った。

 

 鶏舎の前では、主人がもう一度水場を見ている。

 

 畑の苗も、風を受けて小さく葉を揺らしていた。

 

「これで今日は終わりですか?」

 

「次があります」

 

「次?」

 

「同じことを頼んでる農家が、あと何軒かあるよ」

 

 リュシアが農道の先を指した。

 

「今日?」

 

「今日はあと4軒」

 

「今日は?」

 

「明日もあります」

 

 理央は空を見た。

 

 まだ昼前である。

 

 最初の農家で畑一枚を消し、鶏舎を置き、苗まで植えたのに、予定の中では1軒目が終わっただけだった。

 

「春休みでよかったですね」

 

「ほんとに」

 

「大学が始まる前に終わらせなよ」

 

「そのつもりです」

 

「そのつもりで終わります?」

 

「終わらせます」

 

「今のところはね」

 

「真壁さんみたいなことを言わないでください」

 

 澪の収納には、次の簡易鶏舎と鶏50羽、給水用の設備、サツマイモの種芋が用意してある。

 

 理央の収納には、土から分けた生き物を入れる籠や箱と、調整に使う火山灰が入っていた。

 

 一軒目と同じものを持っていても、同じ置き方ができるとは限らない。

 

 次の家は井戸が鶏舎を置ける場所から遠く、毎日桶で運ぶには負担が大きかった。

 

 澪は井戸と庭の高低差を見て、家の主人と水場の位置を決め直した。

 

 鶏舎も一軒目と同じ向きには置かず、雨が流れ込まない側へ入口を向ける。

 

 収納から鶏が現れると、その家の主人は鶏より大きく後ずさった。

 

「飛びかかってこないか?」

 

「餌を持っていなければ、たぶん大丈夫です」

 

「たぶん?」

 

「つつくことはあります」

 

「先に言ってくれ」

 

 リュシアが餌箱を主人へ渡すと、鶏は飛びかかる代わりに、その周囲へ集まった。

 

 主人はしばらく腰を引いていたが、1羽が足元の虫を追い始めると、ようやく肩の力を抜いた。

 

 別の農家では、子どもが50羽の鶏を見た途端、両手を広げて追いかけようとした。

 

 母親に襟をつかまれ、足が地面から少し浮く。

 

「追うと逃げますよ」

 

 澪が言うと、子どもは地面へ戻されながら真剣に頷いた。

 

「卵を取る係なら手伝ってもらえます」

 

「やる!」

 

「先に鶏が産んでからです」

 

 子どもの仕事は、まだ1個もない卵を待つところから始まった。

 

 畑の状態も、家ごとに違った。

 

 堆肥がよく熟している家では、そのまま使える量を理央が分けた。

 

 別の家では、麦わらの形と強い匂いが残っていたため、今年使う分から外した。

 

 土の酸性の強さも同じではない。

 

 理央は一軒目の量をそのまま入れず、収納した作土を《鑑定》し、その畑に必要な分だけ火山灰を加えた。

 

 混ぜる。

 

 見直す。

 

 足りなければ、少量だけ追加する。

 

 畑が広い家では、戻す土の厚みが均一になるよう何度も区切った。

 

 水はけの悪い場所があれば、主人へ去年の雨の流れを聞き、通路と畝の向きを変える。

 

 一軒目の成功を、そのまま別の土地へ押しつけることはしなかった。

 

 3軒目の畑では、作土を収納した理央の顔が途中で固まった。

 

「どうしたの?」

 

「モグラが多いです」

 

「何匹?」

 

 理央が答える前に、分けた籠が一つでは足りなくなった。

 

 畑の主人は増えていく籠を見て、両手で頭を抱えた。

 

「うちの芋より、あいつらの方が多く住んでたんじゃないか?」

 

「家賃は取れなかったみたいだね」

 

「その話、さっきも聞きました」

 

「どこの畑も同じことを考えるんだよ」

 

 リュシアは笑いながら、モグラを逃がす場所を主人と決めた。

 

 土を戻したあとは、どの家の主人も畑へ入った。

 

 靴の沈み方を見る。

 

 手ですくい、握り、指の間で崩す。

 

「軽くなった」

 

「奥までほぐれてる」

 

「前より水が抜けそうだ」

 

 言い方は違っても、自分の畑だからこそ、前の土との違いが分かる。

 

 理央は最初の農家で褒められた時より落ち着いて聞いていたが、作業を雑にはしなかった。

 

 次の畑でも、戻した土を農家が触り終えるまで待った。

 

 土が認められてから、澪が苗を作る。

 

 畝の向きと作付け量を合わせ、収納から直接植える。

 

 その間に、リュシアが卵と芋の買い取りを説明する。

 

 3人の仕事は、農家を回るたびに少しずつ重なり、待つ時間が減っていった。

 

 5軒目の作付けが終わる頃には、春の日が西へ傾いていた。

 

 理央は道具を収納へ戻し、今日使った籠の数を確かめた。

 

「今日、何羽配りました?」

 

「250羽です」

 

 澪は間を置かずに答えた。

 

 理央が顔を上げる。

 

「そこはすぐ出るんですね」

 

「2,500羽で反省しましたから」

 

「反省の方向が合ってるならいいけどね」

 

「増やしてませんよ。分けただけです」

 

「それ、前にも聞いた気がします」

 

「気のせいです」

 

「気のせいじゃないね」

 

 澪は明日回る農家の一覧を開いた。

 

 収納内農場から減った鶏は、今日だけで250羽。

 

 けれど、侯爵領全体で飼われる鶏は1羽も減っていない。

 

 鶏舎と水と、毎日世話をする人へ分かれただけである。

 

 丸投げしたかったはずなのに、澪の帳面には5軒分の餌、水、卵、畑、堆肥が増えていた。

 

「明日も、同じ数ですか?」

 

 理央が一覧をのぞき込む。

 

「土地を見てからです」

 

「そこは反省してるんですね」

 

「しています」

 

 3人は、空になった鶏舎の置き場所ではなく、明日の農家へ持っていく設備を確かめながら帰路についた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。