農家の主人は、澪たちの姿を見ると、納屋の前に置いていた鍬を壁へ立て掛けた。
春先の畑には、冬を越した麦の緑が低く続いている。
家の裏では積み上げられた麦わらが風に擦れ、乾いた音を立てていた。
去年、初めて持ち込んだサツマイモと大豆を育ててもらった農家である。
あの時は上の畑の一角へ品種ごとの札を立て、育つかどうかから確かめた。
今日は澪と理央のほかに、リュシアも一緒だった。
主人は3人を見回したあと、澪が抱えている帳面へ目を落とした。
「今年の芋か?」
「はい。今年もサツマイモをお願いします」
澪が頭を下げると、主人はすぐに頷いた。
「もちろんだ。去年の芋はよく育ったからな」
「ありがとうございます」
「今年は去年より楽になるかもしれないよ」
リュシアが言うと、主人の顔が少し緩んだ。
「それは助かるな。去年はつるを植えるところから、何度も見直したからな」
今年は、その何度も見直した作業を、理央と澪の収納で短くするつもりだった。
ただし、先に話すことがある。
澪は帳面を閉じず、次の頁を開いた。
「あと、もう一つお願いがあります」
「何だ?」
「鳥を50羽、飼ってもらえませんか?」
主人はすぐには返事をしなかった。
畑の作物を頼まれると思っていたところへ、急に鳥が出てきた顔だった。
「鳥?」
「はい」
「鳥を飼うのか?」
「鶏という鳥です」
「……鶏?」
主人は聞いたことのない名前を、口の中で確かめるように繰り返した。
「こちらでは、家畜として飼われていない鳥なんです」
理央が補うと、リュシアが主人の反応を見ながら腕を組んだ。
「だから、説明からだね」
「卵を産む鳥です。家畜として飼えます」
「卵を?」
「食べられます」
主人の目が、澪の顔から庭の空いている場所へ動いた。
食べられる卵を繰り返し産むと聞いて、鳥の名前より先に、家畜としての使い道を考え始めたらしい。
「毎日取れるのか?」
「毎日とは限りませんけど、かなり取れます」
「澪のところじゃ、今は毎日500個を超えてるよ」
「……500?」
「今日は、その話はしなくていいです」
主人の顔へ浮かんだ疑問を残したまま、澪は庭の端へ移った。
家の出入りを邪魔せず、畑へ向かう荷車の道にも掛からない。
井戸から遠すぎず、雨が降った時に水が溜まりにくい場所を選ぶ。
主人にも位置を確かめてもらってから、澪は収納から簡易鶏舎を出した。
土の上へ木造の小屋が現れ、短い影を落とす。
主人は鶏舎の屋根から床までを見上げ、それから何もなかったはずの地面を見た。
「……これは?」
「鶏舎です」
「けいしゃ?」
「鶏が寝たり、卵を産んだりする建物です」
「鳥に家を?」
「私も最初はそう思いました」
理央が小さく頷いた。
「もう出しちまったから、今さら聞いても戻らないよ」
「戻せますよ」
「そういう意味じゃないよ」
鶏舎は、こちらの大工でも直せる木造にしてある。
中には止まり木と産卵箱があり、床の汚れを外から掻き出せるよう、低い位置に戸を付けた。
餌箱と水入れも、壊れた時に同じ形を作れる単純なものにしている。
澪は戸を順番に開け、どこを掃除し、卵をどこから取るのかを見せた。
主人は屋根よりも床を気にし、雨の向きと地面の傾きを見ていた。
「この向きなら、強い雨でも入口へ流れ込みにくい」
「じゃあ、ここで大丈夫ですか?」
「ああ。ただ、鳥が50羽も水を飲むなら、家の桶と一緒にはできんな」
主人が先に水の話をしたため、澪は少し安心した。
井戸は家の脇にあり、鶏舎との間に大きな高低差はない。
魔法で水を出し続ける仕組みは使えない。
井戸水を運ぶための樽と、鶏が口を入れやすい高さの水場を用意し、毎朝の水替えを主人の手で行えるようにした。
樽の栓も管も、町の職人が直せるものだけで組んでいる。
澪たちがいなくなった翌日から使えなければ、渡したことにはならない。
「朝、井戸からここへ入れてください。減り方を見て、夕方にも足します」
「水が濁ったら?」
「全部替えて、水入れも洗ってください」
「分かった」
主人は返事をしながら、樽の栓を自分で開け閉めした。
扱えることを見届けてから、澪は収納内の鶏を50羽だけ選んだ。
健康状態を確かめ、雄を含む小さな繁殖群として分けてある。
鶏舎の前へ靄が広がり、白や茶の羽が次々と地面へ降りた。
初めて見る土地へ出された鶏は、すぐには散らなかった。
数羽が首を伸ばして周囲を見回し、1羽が土を掻くと、その近くにいた鶏も草の根元をつつき始めた。
主人は一歩だけ距離を取り、動きを目で追った。
「……これが鶏か」
「はい」
「思ってたより普通の鳥だな」
「空を飛んで逃げる鳥よりは飼いやすいそうだよ」
澪は群れの前へしゃがんだ。
昨日まで収納内農場で世話をしていた鶏である。
今朝からは、この家の人が餌を与え、卵を集める。
胸の奥に、手放せてほっとする気持ちと、置いていく心配が同時に浮かんだ。
「今日から、ここで暮らすんですよ」
近くにいた数羽が、澪の方へ顔を向けた。
「ちゃんと鶏舎に帰ってきて、この人の言うことを聞いてくださいね」
鶏がこくこくと首を動かした。
「今、頷きませんでした?」
「分かったのか?」
「……どうでしょう」
「餌でも見てたんじゃないのかい」
「いい子にしてくれれば、どちらでもいいです」
主人はまだ鶏へ手を伸ばさなかったが、怖がっているわけではなかった。
何を食べ、どこで眠り、いつ卵を取るのかが分からず、軽率に触らないようにしている。
澪は用意した小麦を餌箱へ入れ、鶏が寄ってくるところを見せた。
朝夕に水と餌を見ること。
夜までに鶏舎へ戻すこと。
産卵箱から卵を回収し、汚れや割れを確かめること。
動きの鈍い個体がいれば、群れから分けて知らせること。
一度にすべてを覚えさせようとはせず、今日から必要な分だけを伝えた。
「家で食べて余った卵は、共同商館へ持ってきな」
リュシアが言うと、主人はようやく鶏から視線を外した。
「買うのか?」
「状態が良ければね。最初は持ってくる前に、澪たちにも見せな」
「食って、余れば売れるのか」
「そのために頼みに来ました」
澪が答えると、主人は餌箱へ集まった鶏をもう一度見た。
知らない鳥ではなく、これから世話をする家畜を見る目に、少しだけ変わっていた。
鶏が餌箱の周りへ落ち着いたところで、主人は3人を上の畑へ案内した。
家の裏から続く坂を上ると、風の当たり方が変わった。
水路から離れた畑は乾きやすく、去年、サツマイモを試した場所でもある。
あの時は一角だけを畝ごとに分け、品種の札を立てた。
今年は、その周囲まで使って作付けを広げることになっている。
表面だけを見れば、春の畑としておかしなところはなかった。
去年の畝は崩され、枯れた草がところどころ残っている。
主人は鍬を持ってきており、土を起こすつもりでいたらしい。
澪と理央は畑の端へ立ち、それぞれ《鑑定》を向けた。
土の中へ意識を沈めると、表からは見えなかったものが次々と分かれていく。
雑草の根と種。
小さな虫と幼虫。
土を動かす虫もいれば、芋や根を傷めるものもいる。
さらに深いところには、モグラが通った穴と、ネズミの巣が残っていた。
畑の端に近いところでは、蛇が一匹、冷たい土の中で動かずにいる。
「結構いますね」
澪が言うと、主人は鍬を持ったまま辺りを見た。
「何がだ?」
「土の中です」
「土の中?」
「モグラとネズミと……蛇もいます」
理央が《鑑定》結果を追いながら答えた。
「蛇までいるのか?」
「害虫も多いです」
「去年、よく芋が残ったね」
「俺も今そう思ってる」
主人は足元を見たが、土の上から巣も蛇も見えるはずがない。
去年も同じようにいたのか、冬を越す間に増えたのかは分からなかった。
澪は理央の方を向いた。
「理央ちゃん、これ全部いけます?」
「畑ですか?」
「土です」
理央は畑の端から端まで見渡した。
「……全部?」
「全部」
「澪、その言い方には慣れない方がいいよ」
リュシアが忠告したが、理央はもう袖を少しまくっていた。
「やってみます」
理央は去年の試験区画だけでなく、今年使う範囲を主人へ確認した。
境を曖昧にしたまま収納すれば、隣の畑の土まで持っていくことになる。
四隅を歩き、作土の深さを《鑑定》し、底の固い層を残す位置を決めた。
主人も一緒に歩き、鍬の先で境へ印を付ける。
理央が畑の端へ手を向けると、靄が低く地面を走った。
最初に、畝の一角が消えた。
黒い作土だけが抜け、下にあった色の違う地面が現れる。
その隣も消えた。
枯れた草の根が土と一緒に収まり、表面の小石と轍もなくなる。
靄は畑の端から端へ進み、巨大な布を少しずつ引き抜くように、作土を収納へ収めていった。
数十秒前まで畑だった場所が、浅く掘り下げられた平らな地面へ変わる。
主人は何も言わなかった。
土の消えた場所を見る。
理央を見る。
また畑を見る。
「……畑は?」
「収納しました」
「畑を?」
「土だけです」
「土だけでも、畑がなくなってるんだが」
「すぐ戻します」
「戻るのか?」
「戻します」
「二人とも普通に答えるから、余計に怖いんだよ」
リュシアの言葉に、主人はようやく鍬の柄を握り直した。
地面へ突き立てる土がないため、持ってきた鍬はもう役に立たない。
理央は収納した作土へ《鑑定》を向けた。
土と石。
草の根と種。
生きているもの。
その中から、さらに害を与えるものと、土へ戻すものを分けていく。
「モグラ、います」
「何匹?」
「思っていたよりいます」
「ネズミは?」
「います」
「蛇は?」
「います」
「俺の畑の下、そんなに住んでたのか?」
「家賃は取ってなかったんだろ?」
「取れるなら取りたかったよ」
理央は土を混ぜる前に、生き物を種類ごとに分けた。
モグラとネズミ、蛇は、それぞれ外へ出しても逃げ出さない籠や箱へ移す。
害虫も一まとめにはしない。
鶏が食べられると分かる種類だけは別にし、それ以外は農地から離すための容器へ収めた。
土を耕す虫や、作物へ害を与えないものは、最後に戻せるよう保管する。
農家だからといって、土の中にいるものすべてを見分けられるわけではない。
逆に澪たちも、《鑑定》に表示された害の有無だけで、その土地の季節ごとの動きまでは分からない。
主人へ見せ、畑の周りでよく見るものか、作物を荒らしたことがあるかも聞いた。
「これ、どうするんだ?」
主人がモグラの入った籠を見下ろした。
「畑から離れたところへお願いします」
「俺が?」
「お願いします」
「畑を丸ごと直してもらったんだ。そこくらい働きな」
「いや、働くけどよ……」
理央は足元の箱を指した。
「蛇の箱、こっちです」
「箱で渡されるとは思わなかったな……」
主人は鍬を壁際へ置く時とは違う慎重さで、蛇の箱を持ち上げた。
畑が消えた上に、住人だけをまとめて渡されている。
その背中を見送りながら、澪は去年この畑で品種札の位置を心配していたことを思い出した。
今年は札を立てる前に、畑そのものがなくなっている。
主人が生き物の入った箱を畑から離れた場所へ運んでいる間に、澪は堆肥のことを思い出した。
去年、麦わらや家畜の糞、大豆の茎葉を積み、芋を植える前に肥やしを育てると話した。
あれから季節が一つ巡っている。
「堆肥って残っていますか?」
「あるぞ。去年から積んでるのが」
「見せてもらっていいです?」
「こっちだ」
主人は納屋の裏へ回った。
屋根の張り出した下に、色の違う堆肥が山になっている。
手前には比較的新しい麦わらの形が残り、奥の古い部分は黒く崩れていた。
近づくと湿った土に似た匂いがするが、未熟な山にはまだ家畜の糞と草の匂いが残っている。
澪と理央は同時に《鑑定》を向けた。
全部を入れればよいわけではない。
十分に熟した部分と、まだ寝かせる必要のある部分を分ける。
「奥の方なら使えますね」
「こっちですね」
理央が使える範囲を示した。
「全部混ぜます?」
「使える分だけお願いします」
「待て」
主人が理央を止めた。
「はい?」
「それも消えるのか?」
「一回だけです」
「一回ならいいって話なのか……?」
「今日は考えるのを諦めた方が早いよ」
リュシアに言われ、主人は黒く熟した堆肥と、土のなくなった畑を交互に見た。
やがて諦めたように道を空ける。
理央の靄が堆肥の山を包み、使える部分だけを収納へ収めた。
麦わらの形が残る未熟な部分は、その場に残っている。
理央は収納内の作土へ堆肥を加え、一か所へ固まらないよう全体へ散らした。
土の塊を崩し、上下を入れ替え、堆肥の濃いところが残らなくなるまで混ぜる。
澪は隣から手順を指図せず、理央の作業を見ていた。
同じ畑の土でも、場所ごとに色と湿り方が違う。
理央は混ぜる範囲を動かしながら《鑑定》し、偏りが消えたところで一度止めた。
「堆肥は混ざりました」
「土の方は?」
「まだ少し酸性ですね」
「調整できそう?」
「できます」
理央は火山灰を少量だけ分け、土へ加えた。
白っぽい灰が一か所へ残らないよう、作土全体へ薄く散らして混ぜる。
もう一度、《鑑定》する。
理央の指が空中で止まった。
「……まだ少し」
今度は最初より少ない量を加えた。
混ぜて、《鑑定》する。
澪は答えを先に言わず、理央が表示を読み終えるのを待った。
「これで大丈夫です」
「終わり?」
「はい」
「畑一枚を直してる会話には聞こえないね」
リュシアはそう言ったが、主人は笑わなかった。
理央が何度も少量ずつ混ぜたことを見ていたからだろう。
畑が消えるところには呆然としていたが、土の扱いへ移ってからは、理央が止めるたびに表情を見ていた。
理央は元の畑へ土を戻し始めた。
靄が露出した地面の端を走り、その後へ黒い作土が薄く広がる。
最初は下の層を覆う程度だった土が、何度かに分けて厚みを増していく。
畑の形が戻り、消えていた境も見えるようになった。
ただし、中身は先ほどまでと同じではない。
雑草の太い根と種は減り、害虫や小石も分けられている。
熟した堆肥が偏りなく混ざり、固まっていた土は細かくほぐされていた。
最後に、分けておいた土を動かす虫を戻す。
理央が手を下ろすと、畑は何事もなかったようにそこへあった。
主人はしばらく立ったまま見ていた。
土が戻ったことを確かめても、すぐには入らない。
畑の端へ足を置き、沈み方を見てから、ゆっくり中へ進んだ。
しゃがみ、土をひと握りする。
指で崩し、もう一度、今度は少し強く握った。
「……何だ、この土」
理央の肩がわずかに上がった。
「どうしました?」
澪が聞くと、主人は手の中の土を見たまま答えた。
「軽い」
「軽い?」
「ああ。前はもっと締まってた」
主人は人差し指を土へ差し込んだ。
表面だけで止まらず、指が根元近くまで入る。
「中まで柔らかい」
少し深いところから両手で土をすくい、鼻へ近づける。
堆肥の匂いだけが強く残っていないことも、主人は確かめていた。
「空気が入ってる」
「全部混ぜましたから」
理央が答えると、主人は土を握り直した。
まとまった土は、指を開くと細かく崩れた。
「それに……暖かいな」
「収納の中で混ぜたばかりなので」
主人は返事をせず、別の場所でも土を取った。
畑の端と中央で触り比べ、靴の裏で踏み、またしゃがむ。
《鑑定》の表示を見せるより、その手の方がずっと厳しく畑を確かめているように見えた。
「こんな土、今まで見たことがない」
理央が自分の手を見た。
収納の中で行った作業は、外からはほとんど見えない。
できたことは分かっても、それが農地としてよいかどうかは、能力の表示だけでは決められない。
長くこの土地を耕してきた主人の声を聞いて、理央の指から少し力が抜けた。
「これなら根が伸びる」
「分かるんですか?」
澪が尋ねると、主人はようやく顔を上げた。
「分かるさ。土が硬けりゃ、芋も素直に太らん」
主人はもう一度、土を掴んだ。
「去年よりいい畑になってる」
その一言で、理央は小さく息を吐いた。
澪も自分の《鑑定》を閉じた。
良好と出る表示より、土の違いを知っている人の手が認めたことの方が大きかった。
「去年より育つなら、取れる芋も増えるかもしれないね」
リュシアは畑を褒める代わりに、もう収穫の先を見ていた。
主人は立ち上がり、手についた土を払った。
驚いていた顔ではない。
これから芋を植える畑を見る、農家の顔に戻っていた。
主人が畑の土を確かめ終えると、鍬を取りに戻ろうとした。
畑は柔らかくなったが、苗を植えるための畝はまだない。
主人にとっては、ここからが今年の作付けだった。
「それで、苗はどこだ?」
「今つくっています」
主人の足が止まった。
「今?」
「私も、その言い方にはまだ慣れません」
理央が主人の側へ寄った。
「私はだいぶ慣れたよ」
「慣れないでください」
澪は自分の収納へ意識を向けた。
去年はゲンダイから種芋を30kg用意し、芽やつるを出させて植える方法から農家へ伝えた。
今は収納内農場で収穫した芋から、状態のよいものを種芋用に分けてある。
最初に持ち込んだ時より、苗取りに使える数は比べものにならない。
だからといって、芋をそのまま外へ出せば苗になるわけではなかった。
澪は種芋の傷みと病気の有無を《鑑定》し、芽出し用の区画へ並べた。
温度、水分、光を整える。
外の畑では主人が見守っているが、収納の中では、種芋のための時間を進める。
一度に必要な日数を流さず、芽の出方を途中で止めて見た。
伸びの悪いものを分け、状態のそろった芽を残す。
光を受けて葉が開き、つるが苗として使える長さへ育つまで、何度も時間を区切った。
澪が収納へ集中している間、理央は戻した土へ《鑑定》を向けた。
畑の端から歩き、土の深さと水分を見ながら、畝を作る位置を決めていく。
さきほど土を全体へ戻した時に、大きな高低差は消してある。
それでも、雨水の逃げ道と、主人が畑へ入る通路は残さなければならない。
理央は主人に去年水が流れた場所を聞き、畝の向きを少し変えた。
土を良くしたからといって、土地の傾きまで無視してよいわけではない。
「こっちへ流れる」
主人が畑の低い方を示した。
「じゃあ、この間は空けます」
理央は収納から土を動かし、畝と通路を整えた。
澪が苗を育てている間に、理央の側でも植え付け位置が決まっていく。
リュシアは主人と並び、今年の作付け量と、収穫した芋の扱いを確かめていた。
「去年みたいに、家で食べる分を先に取っていいんだな?」
「もちろんだよ。売れる分は共同商館で引き取る。ただ、今年は去年より取れるかもしれないから、保管場所も見ておきな」
「鶏の卵も持っていくことになる」
「そっちは、まず産んでから心配しな」
主人は鶏舎のある方を一度見た。
芋の収穫と卵の出荷が同時に始まるわけではない。
けれど、今日の朝までなかった仕事が、すでに農家の一年へ二つ加わっていた。
澪は《収納内工程》を使い、育ったつるから植え付けに使う苗をそろえた。
切り口と葉の状態を見て、弱いものは外す。
外の時間では、まだ大きく太陽が動いていない。
収納内には、畑へ出せる苗が並んでいた。
「できました」
「もうか?」
「はい」
「どこにある?」
「収納です」
主人は空の畑を見た。
苗を積んだ籠も、人手も見当たらない。
理央が整えた畝だけが、一定の間隔で並んでいる。
澪は畝の一列目へ意識を向けた。
苗の向き、深さ、間隔を決め、収納から直接土へ移す。
靄が畝の端を通り過ぎると、その後へ緑の葉が現れた。
1本、2本ではない。
空いていた位置へ、苗が順番に植わっていく。
土へ入る部分の深さをそろえ、葉が埋まらない向きで置く。
最初の列が終わると、澪は苗の状態を見直した。
浮いているものも、深く入りすぎたものもない。
次の畝へ移り、同じ作業を続ける。
主人は畑の端で、苗が増えるたびに目を動かした。
「……誰も畑に入ってないぞ」
「入らなくても植えられるので」
「去年もこんなだったか?」
「去年より悪化してるね」
「進歩って言ってください」
「私は進歩だと思います」
「理央まで、こっち側になったかい」
「土を全部しまった後なので、もう今さらかなって」
最後の畝へ苗が植わると、澪は全体へ《鑑定》を向けた。
向きと深さに大きなずれはない。
理央も土側から水分と畝の形を見直した。
澪が苗を作り、理央が土を整えた。
別々の収納で進めた作業が、畑の上でようやく一つになった。
主人は驚いたままではなかった。
畝の端へしゃがみ、苗の根元を指で押さえ、土との隙間を見た。
別の列へ移り、同じように触る。
「きちんと入ってる」
「浅すぎませんか?」
「これなら大丈夫だ」
その返事を聞いて、澪は収納に残った予備苗の数を書き留めた。
能力で早く植えられても、畑に合っているかを最後に決めるのは、この土地を使う主人だった。
作付けを終えた澪は、畑の端から鶏舎のある庭を見下ろした。
つい先ほどまで土のなかった畑には、緑の苗が列になっている。
少し離れた家の脇には、朝まで存在しなかった鶏舎が立ち、その周囲を50羽の鶏が歩いていた。
水場には井戸から運んだ水が入り、餌箱の位置も決まっている。
主人は苗の根元から指を離し、畑全体を見た。
「……終わったのか?」
「はい」
「芋も?」
「植え終わりました」
「鳥は?」
「50羽います」
「小屋も?」
「あります」
「水も?」
「使えます」
主人は一つずつ確かめるたび、視線を畑と庭の間で往復させた。
何日分もの仕事を短い間に見たせいか、顔には朝から働き続けたような疲れがあった。
けれど、上を向いた主人は、そこで別のことに気づいた。
春の太陽は、到着した時からほとんど位置を変えていない。
昼を知らせる鐘もまだ鳴っていなかった。
「まだ昼にもなってないぞ」
理央が時刻を見た。
「来てから1時間くらいですね」
「……1時間?」
主人は今日一番理解できないものを見る目で、理央を見た。
「私も時計が欲しくなるね」
「便利ですよ」
「そういう話じゃないよ」
主人は畑へ向き直った。
今度は、土が消えた時のように立ち尽くさない。
畝の向きと通路を見て、苗の列を数え、庭へ下りる道を目でたどる。
鶏舎の戸が開いていること、水場に鶏が寄っていることも確かめた。
澪たちの能力が何をしたのか、すべて理解できたわけではない。
それでも、残された畑と鶏を、これから自分が扱えるかどうかは見ていた。
「鶏ってのは、朝と夕方に見ればいいんだな?」
「最初は、もう少し様子を見てください。慣れたら朝夕を中心にして、昼も水だけは減っていないか見てほしいです」
「卵は箱から取る」
「はい。割れや汚れを見て、取った日も分けてください」
「余ったらリュシアさんのところへ」
「持ってきな。状態が良けりゃ買うよ」
「分かった」
主人は短く答え、鶏舎へ向かった。
澪も後を追い、鶏を中へ誘導する時の餌の使い方をもう一度見せた。
主人が餌箱を持つと、鶏は澪ではなく、そちらへ首を向けた。
少しだけ寂しい気もしたが、その方がよい。
毎日餌をくれる人を覚えなければ、ここへ渡した意味がなかった。
主人は鶏が歩く速さに合わせ、急に追わず、鶏舎の入口まで誘導した。
最初の数羽が中へ入ると、後ろの鶏も続く。
「これなら、俺でも戻せるな」
「はい。最初の何日かは、暗くなる前に始めてください」
主人は戸の留め具を自分で掛け、また外した。
澪たちが来た時には名前さえ知らなかった鳥を、もう自分の手で鶏舎へ入れている。
主人は戸口から畑を見た。
「今年は忙しくなりそうだな」
「お願いします」
「去年より面白そうだ」
主人が笑った。
作業を早く終わらせただけでは、鶏も畑もこの家へ根づかない。
主人が自分でやれると判断したことに、澪はようやく息をつけた。
収納内農場の仕事を一つ外へ渡せたはずなのに、見届ける項目はむしろ増えている。
それでも、明日の朝に餌をやるのは澪ではない。
その違いは大きかった。
主人へ別れを告げ、農道へ出たところで、理央は来た道を振り返った。
鶏舎の前では、主人がもう一度水場を見ている。
畑の苗も、風を受けて小さく葉を揺らしていた。
「これで今日は終わりですか?」
「次があります」
「次?」
「同じことを頼んでる農家が、あと何軒かあるよ」
リュシアが農道の先を指した。
「今日?」
「今日はあと4軒」
「今日は?」
「明日もあります」
理央は空を見た。
まだ昼前である。
最初の農家で畑一枚を消し、鶏舎を置き、苗まで植えたのに、予定の中では1軒目が終わっただけだった。
「春休みでよかったですね」
「ほんとに」
「大学が始まる前に終わらせなよ」
「そのつもりです」
「そのつもりで終わります?」
「終わらせます」
「今のところはね」
「真壁さんみたいなことを言わないでください」
澪の収納には、次の簡易鶏舎と鶏50羽、給水用の設備、サツマイモの種芋が用意してある。
理央の収納には、土から分けた生き物を入れる籠や箱と、調整に使う火山灰が入っていた。
一軒目と同じものを持っていても、同じ置き方ができるとは限らない。
次の家は井戸が鶏舎を置ける場所から遠く、毎日桶で運ぶには負担が大きかった。
澪は井戸と庭の高低差を見て、家の主人と水場の位置を決め直した。
鶏舎も一軒目と同じ向きには置かず、雨が流れ込まない側へ入口を向ける。
収納から鶏が現れると、その家の主人は鶏より大きく後ずさった。
「飛びかかってこないか?」
「餌を持っていなければ、たぶん大丈夫です」
「たぶん?」
「つつくことはあります」
「先に言ってくれ」
リュシアが餌箱を主人へ渡すと、鶏は飛びかかる代わりに、その周囲へ集まった。
主人はしばらく腰を引いていたが、1羽が足元の虫を追い始めると、ようやく肩の力を抜いた。
別の農家では、子どもが50羽の鶏を見た途端、両手を広げて追いかけようとした。
母親に襟をつかまれ、足が地面から少し浮く。
「追うと逃げますよ」
澪が言うと、子どもは地面へ戻されながら真剣に頷いた。
「卵を取る係なら手伝ってもらえます」
「やる!」
「先に鶏が産んでからです」
子どもの仕事は、まだ1個もない卵を待つところから始まった。
畑の状態も、家ごとに違った。
堆肥がよく熟している家では、そのまま使える量を理央が分けた。
別の家では、麦わらの形と強い匂いが残っていたため、今年使う分から外した。
土の酸性の強さも同じではない。
理央は一軒目の量をそのまま入れず、収納した作土を《鑑定》し、その畑に必要な分だけ火山灰を加えた。
混ぜる。
見直す。
足りなければ、少量だけ追加する。
畑が広い家では、戻す土の厚みが均一になるよう何度も区切った。
水はけの悪い場所があれば、主人へ去年の雨の流れを聞き、通路と畝の向きを変える。
一軒目の成功を、そのまま別の土地へ押しつけることはしなかった。
3軒目の畑では、作土を収納した理央の顔が途中で固まった。
「どうしたの?」
「モグラが多いです」
「何匹?」
理央が答える前に、分けた籠が一つでは足りなくなった。
畑の主人は増えていく籠を見て、両手で頭を抱えた。
「うちの芋より、あいつらの方が多く住んでたんじゃないか?」
「家賃は取れなかったみたいだね」
「その話、さっきも聞きました」
「どこの畑も同じことを考えるんだよ」
リュシアは笑いながら、モグラを逃がす場所を主人と決めた。
土を戻したあとは、どの家の主人も畑へ入った。
靴の沈み方を見る。
手ですくい、握り、指の間で崩す。
「軽くなった」
「奥までほぐれてる」
「前より水が抜けそうだ」
言い方は違っても、自分の畑だからこそ、前の土との違いが分かる。
理央は最初の農家で褒められた時より落ち着いて聞いていたが、作業を雑にはしなかった。
次の畑でも、戻した土を農家が触り終えるまで待った。
土が認められてから、澪が苗を作る。
畝の向きと作付け量を合わせ、収納から直接植える。
その間に、リュシアが卵と芋の買い取りを説明する。
3人の仕事は、農家を回るたびに少しずつ重なり、待つ時間が減っていった。
5軒目の作付けが終わる頃には、春の日が西へ傾いていた。
理央は道具を収納へ戻し、今日使った籠の数を確かめた。
「今日、何羽配りました?」
「250羽です」
澪は間を置かずに答えた。
理央が顔を上げる。
「そこはすぐ出るんですね」
「2,500羽で反省しましたから」
「反省の方向が合ってるならいいけどね」
「増やしてませんよ。分けただけです」
「それ、前にも聞いた気がします」
「気のせいです」
「気のせいじゃないね」
澪は明日回る農家の一覧を開いた。
収納内農場から減った鶏は、今日だけで250羽。
けれど、侯爵領全体で飼われる鶏は1羽も減っていない。
鶏舎と水と、毎日世話をする人へ分かれただけである。
丸投げしたかったはずなのに、澪の帳面には5軒分の餌、水、卵、畑、堆肥が増えていた。
「明日も、同じ数ですか?」
理央が一覧をのぞき込む。
「土地を見てからです」
「そこは反省してるんですね」
「しています」
3人は、空になった鶏舎の置き場所ではなく、明日の農家へ持っていく設備を確かめながら帰路についた。