鶏舎の前では、50羽の鶏が土を蹴りながら草をついばんでいた。
少し離れた場所では、農家の子どもが井戸のポンプを押している。
水が桶へ落ちるたびに歓声が上がるので、仕事というより遊びになっていた。
畑にはサツマイモの苗が等間隔に並び、春の風に葉を揺らしている。
今日の作業も、ようやく終わった。
3月に入ってから、澪と理央とリュシアは同じような農家を20軒以上回っている。
ただし、同じ作業で済んだ家は一軒もなかった。
井戸の水脈が深く、何度も掘る場所を変えた家があった。
去年の堆肥が足りず、使える量に合わせて畑を区切った家もあった。
土を収納した途端、籠が足りなくなるほどモグラが出てきた家もある。
鶏を初めて見ようと、家族だけでなく隣人まで集まった家もあった。
一軒ごとの違いを理央が《鑑定》し、土から害獣と害虫、雑草の根や種を分ける。
使える堆肥だけを畑全体へ混ぜ、土の状態に合わせて酸性の強さを調整して戻す。
その横で澪が収納内の種芋から苗を育て、畝へ直接植えていった。
リュシアは鶏の世話と卵の買い取りを説明し、必要な家には鶏舎と井戸の使い方まで一緒に確認した。
何度繰り返しても、農家の主人が畑へ入る時だけは3人とも待った。
その土地を長く耕してきた人の手が、最後の確認になるからだ。
今日の家の主人も、畝の端へしゃがみ込んだ。
両手で土をすくい、握り、指の間から落としていく。
「いやあ、ほんとに変わったな」
「畑ですか?」
「畑だよ。前はここまで指が入らなかった」
主人は広げた手を土へ差し込んだ。
指の根元まで入っても、土は固い塊にならず、周囲からほろほろと崩れていく。
「上だけじゃない。下まで柔らかい」
「堆肥の混ざり方はどうですか?」
理央が尋ねると、主人は別の場所でも土をすくった。
「どこを取っても同じだ。前は山にしたところだけ黒くなってたんだがな」
「一か所へ固まらないように混ぜました」
「モグラもネズミも追い出してくれたし、雑草の種まで減らしてくれたんだろ」
「全部じゃないですけど、見つけられた分は分けました」
「十分だ。こんなふかふかな土、今まで作れなかった」
驚いているだけの声ではなかった。
毎年この畑を掘り返し、雨の後の重さも、夏の乾き方も知っている人の評価だった。
理央は安堵したように息を吐いた。
主人はもう一度畑を見回すと、家の方へ歩いていった。
戻ってきた時には、両腕で大きな籠を抱えている。
中には葉物野菜と根菜が隙間なく詰められていた。
「これ、持っていってくれ」
「え、こんなに?」
「畑を直して、井戸まで掘って、芋まで植えてくれたんだ。それでも足りんくらいだ」
「井戸や鶏舎の分は、もうお支払いいただいています」
澪が財布を出そうとすると、主人が籠を抱えたまま首を振った。
「売るんじゃない。礼だ」
「でも」
「澪。これはもらっておきな」
リュシアが横から止めた。
「礼を受け取るのも付き合いだよ」
主人も大きく頷いている。
澪は財布から手を離し、少し困ってから頭を下げた。
「ありがとうございます。みんなでいただきます」
「そうしてくれ」
籠を収納へ入れ、帰り支度を始める。
その途中で、澪は今日の作業分を確認するため、自分へ《鑑定》を向けた。
見慣れた項目の中で、二つの表示が目に留まる。
《生体収納》Lv8。
そこまでは、鶏を出し入れするたびに上がっていたので分かる。
問題は、その下だった。
《緑の手》Lv1。
「……あれ?」
澪の手が止まった。
「どうしました?」
「《緑の手》が生えています」
理央が覗き込もうとして、表示が見えないことを思い出したように姿勢を戻した。
「SP、振ったんですか?」
「振ってません」
「苗、ずっと育ててましたよね」
リュシアも納得したように畑を見る。
「3月、ほとんど畑にいたじゃないか」
「……そう言われると」
澪は帳面を開き、今日の日付を確かめた。
3月の最後の日だった。
鶏を減らし、鶏舎を置き、井戸を掘り、芋の苗を育てているうちに、一か月が終わろうとしている。
大学はまだ春休みなのに、休んだ記憶はほとんどなかった。
収納の中には、もらった野菜が籠いっぱいに入っている。
「これ、みんなに分けましょうか」
「その量なら、何か所か回れるね」
「魚と卵も足しましょう」
農家巡りの最後の日は、そのままお裾分け巡りへ変わった。
リュシアは卵の買い取りを確認するため共同商館へ戻り、澪と理央が食材を届けることになった。
孤児院の厨房へ野菜を出すと、籠が一つでは足りなかった。
澪は収納から新鮮な魚と卵も加えていく。
以前なら、どちらも特別な日に少しずつ分ける食べ物だった。
今年は冬の間にも何度か食卓へ上がっている。
魚を見た子が焼いた方が好きだと言い、卵を見た子がスープに入れてほしいと頼んでいた。
厨房の騒ぎに気づき、ほかの子どもたちも集まってくる。
澪は人数を数えるつもりで、一人ずつ顔を見た。
途中で、何かが違うことに気づく。
目線が少し高い。
袖口から出た腕が長くなっている。
頬のこけていた子には丸みがあり、細かった手足にも肉が付いていた。
小さい子だけではない。
年長の子たちまで、全体に一回り大きく見える。
「理央ちゃん」
「はい。私も今、見てました」
理央も、子どもたちと以前の姿を見比べている。
いつもクララと幼竜がいた場所は、今日は空いていた。
教会本部への訪問を終えるまでは戻らないと分かっていても、そこだけは少し広く感じる。
だが、ほかの子どもたちの声が途切れることはなかった。
年長の子が、小さい子を前へ出しながら澪を見上げた。
「今年ね、誰も神様のところに行かなかったよ」
澪は最初、その意味を取り損ねた。
「……誰も?」
「うん。みんないるよ」
笑っている子どもの顔と、その言葉がすぐには結びつかなかった。
冬の途中で誰かが亡くなることを、この子たちは当たり前のように知っていた。
去年までなら、春を迎える人数が減っていても不思議ではなかったのだ。
「ご飯、ずっとあったもん」
別の子が言った。
「魚も食べた」
「卵も!」
「お豆のスープもあったよ」
食べ物の名前が次々に出てくる。
豪華な料理を自慢しているのではない。
今日食べても、明日の食事がなくならない。
冬の間ずっと、それを信じられたという話だった。
年長の子が、隣にいた小さな子の肩へ手を置く。
「みんな大きくなったんだよ」
「ほんとですね。前に会った時より、ずっと」
理央が答えると、小さな子が袖を引っ張って見せた。
「これ、ちっちゃくなった」
「服が小さくなったんですよ」
「ぼくが大きくなった?」
「そうです」
子どもは両腕を広げ、自分の大きさを確かめるように見下ろした。
それから、嬉しそうに笑った。
「澪姉ちゃんたちが、いっぱい食べ物持ってきてくれたからだよ」
「私だけじゃないですよ」
澪はすぐに否定した。
「農家の人が育てて、漁師の人が獲ってくれて、リュシアさんたちが運んでくれたんです。料理したのは孤児院のみなさんですし」
「でも、澪姉ちゃんも頑張ったんでしょ?」
「それは……」
理央は助け舟を出さなかった。
隣で少しだけ笑っている。
「……少しは」
「ありがとう」
今度は誰かの名前を並べて逃げることができなかった。
澪は顔が熱くなり、視線を厨房の食材へ向けた。
「魚は今日中に食べてください。卵も割れていないか確認してありますから」
「澪さん、話を変えましたね」
「食べ物の確認は大事です」
理央の声にも笑いが混じっていた。
誰も神様のところへ行かなかった。
その一言だけは、話を変えても胸の中に残った。
魚を増やしたことも、大豆を育てたことも、鶏を増やしたことも、畑を広げたことも、結局はここにつながっている。
子どもたちが死なずに冬を越し、服が小さくなるほど育った。
自分一人の成果だとは思わない。
それでも、関わってよかったとは素直に思えた。
孤児院を出ても、頬の熱はしばらく引かなかった。
新セルマ工房へ入ると、薬草の匂いより先に積み上げられた箱が目に入った。
作業台には瓶が並び、その奥では完成したポーションを出荷箱へ詰めている。
澪と理央が食料を持ってきたと知ると、セルマは手を洗ってこちらへ来た。
「野菜と魚と卵です。農家の方から、たくさんいただいたので」
「助かるわ。ちょうど今日は人数が多いの」
セルマは中身を確かめ、近くにいた者へ厨房へ運ぶよう頼んだ。
それから澪へ向き直る。
「お礼を言うのは、こっちの方ね」
「食材のですか?」
「それもあるけれど、この冬のことよ」
セルマは工房の中を見回した。
棚には領内向けの箱もある。
だが、工房の一角を大きく占めているのは、別にまとめられた出荷箱だった。
行き先札には、レヴァニア向けの印が付いている。
「最近は領内へ出す箱より、レヴァニア向けの箱の方が目立つくらいよ」
「そんなにですか?」
「ええ。冬にこちらで使い切らずに済んだ分まで、ちゃんと商品になるの」
澪は積み上げられた箱の数を目で追った。
以前の冬は、領内で使う分を切らさないことが最優先だった。
薬草が足りるか、瓶が足りるか、作る人の手が足りるか。
不足するものを追いかけるだけで、冬が終わっていた。
「今年も病気や怪我がなくなったわけじゃないわ。必要な人には、今まで通り出している」
セルマは箱の札を一枚確かめ、紐を締め直した。
「でも、空腹や寒さで体力を落として、そこから病気を重ねる人が減ったの。薬を飲ませる前に、食べられたからよ」
「継続して支援している村や施設では、食べ物が足りなくて亡くなった人もいなかったと聞いているわ」
「食べ物で、そこまで変わるんですね」
理央が箱の列を見ながら言う。
「変わるわ。薬は弱った体を何でも元通りにしてくれるものじゃないもの」
セルマは、治癒草の安定供給、瓶の規格化、工房の設備、冬の食料供給を順に挙げた。
どれか一つだけで、この箱の数になったわけではない。
「食べられるようにしてくれたことも、薬を作れるようにしてくれたこともね。助かってるわ」
「いや、その……私だけじゃないですし」
また顔が熱くなる。
「今日、何回目でしょう」
「数えなくていいです」
理央は指を折りかけた手を下ろした。
セルマが笑う。
「薬が売れるのはありがたいけれど、領内で病人が増えて売れるより、余った分を外へ売れる方がずっといいわ」
「薬は売った後が怖い、でしたっけ」
「よく覚えてるわね」
誰に、どんな状態で使われるか分からない薬ほど怖いものはない。
だから必要な人へ必要な分を届け、余力だけを信頼できる取引先へ出す。
今年は初めて、それが冬にもできたという。
澪はもう一度、レヴァニア向けの箱を見た。
薬草畑や設備だけを整えた時には見えなかった成果が、食料とつながって形になっている。
「これから、ヴァルトさんのところにも届けるの?」
「はい。まだ野菜も魚も残っています」
「あそこは人数が多いから、多めに持っていきなさい」
「22人ですからね」
「育ち盛りが22人よ。数だけ見たら足りなくなるわ」
セルマに追加の保存食まで持たされ、澪たちは共同商館へ向かった。
共同商館の2階へ上がると、教室から声が聞こえてきた。
授業が終わったところらしく、机の上には文字を書いた紙が広げられている。
王都から救出した20人と、孤児院から通うリオとメル。
22人全員が、同じ部屋にいた。
澪が食材を出し始めると、子どもたちが次々に集まってくる。
魚を入れた箱。
農家からもらった野菜。
割れないように分けた卵。
人数に合わせて多めに持ってきたつもりだが、22人に囲まれると少なく見えた。
澪は近くへ来たラウを見て、手を止めた。
以前より肩幅が出ている。
年下の子を守ろうと張り詰めていた顔も、少し柔らかくなっていた。
ベスは小さい子を食材へ近づけすぎないように止めている。
その頬にも、以前はなかった丸みがある。
トマの脚は明らかに太くなっていた。
王都で走り回らされていた頃の、骨ばった細さはもう目立たない。
キリは卵の箱を見ても、抱え込もうとはしなかった。
箱の数を数え、周囲の子どもたちを見ている。
「澪さん」
ラウが仲間を振り返ってから頭を下げた。
「みんな、ちゃんと冬を越せました。ありがとう」
自分のことより先に、全員の無事を報告する。
それは王都にいた頃から変わっていなかった。
「小さい子たち、服がきつくなったんです」
ベスが嬉しそうに年少の子たちを見る。
「前はそんなことなかったのに」
「孤児院でも、同じことを聞きました」
「俺、前より走っても腹減るだけで、倒れなくなった」
トマは何度かその場で跳ね、自分の脚を確かめた。
「腹は減るんですね」
「前より減る」
「食べる量も増えたからね」
ヴァルトが苦笑する。
キリは卵を一つ手に取らず、箱の中を覗いたまま澪へ尋ねた。
「これ、今日食べていいんだよね。明日もご飯あるもんね」
澪の返事が少し遅れた。
以前のキリなら、今日の分を食べる前に、次の食事のために隠す場所を探していた。
「はい。今日は今日の分を食べてください。明日の分は、明日もあります」
「じゃあ、みんなで食べる」
キリは箱から離れ、年下の子へ場所を譲った。
「澪先生、ほんとにみんな大きくなってます」
リオは一人ずつ見比べ、何かを記録するような目をしている。
「身長だけじゃなくて、腕も脚も前より太いです」
「毎日見ていると、かえって気づきにくいんですよね」
理央もラウたちを順に見た。
「澪先生、ありがとう」
メルがまっすぐ近づいてきた。
次の瞬間、澪の腰へ両腕を回す。
「あ、はい」
抱きつかれると思っていなかった澪の腕が、行き場を失った。
少し迷ってから、メルの背中へ手を置く。
その体も、以前よりしっかりしていた。
王都のスラムから来た20人も、孤児院のリオとメルも、全員が冬を越した。
食べるものがある。
眠る場所がある。
文字を覚え、体が大きくなっている。
今日一日、何度も礼を言われた。
そのたびに、自分だけの成果ではないと答えてきた。
それは今も同じだった。
それでも、目の前にいる22人を見ていると、胸の奥が詰まった。
本当によかった。
今度は、照れを隠す言葉もすぐには出てこなかった。
「私からも、ありがとうございます」
ヴァルトが穏やかに笑った。
「あの子たちが、ここまで元気になるとは思っていませんでした」
「ヴァルトさんが教えて、面倒を見ているからですよ」
「それでも、食べるものと安心して眠れる場所は必要です」
ヴァルトの笑顔はいつもと変わらないように見えた。
だが、笑った後の表情に、わずかな陰りが残った。
子どもたちを見ている時ではない。
視線が窓の外へ向いた一瞬だけ、別のことを考えている。
澪は気になったが、子どもたちの前では尋ねなかった。
「昼食は、下で一緒にどうですか?」
「ええ。少し話したいこともあります」
ヴァルトの返事で、感じた陰りが気のせいではないと分かった。
共同商館のフードコートには、先にリュシアと真壁が来ていた。
5人で昼食を取りながら、話は3月の農家巡りへ戻った。
「結局、何軒へ置いたんだ?」
真壁が尋ねる。
「今日で23軒です」
「一軒50羽が基本だったね」
リュシアが指で数える前に、真壁が答えを出した。
「1,150羽か」
「全部が50羽ではありません。場所の狭い家は減らしましたから」
「それでも1,000羽は超えてるよ」
「収納内から減らしただけです」
「世の中では、それを配ったと言うんだ」
リュシアに言われ、澪はスープへ視線を落とした。
鶏の数を減らすために始めたのに、管理する農家の一覧だけは増えている。
「卵の買い取りまで始まったら、帳面がもう一冊要りますね」
理央が言う。
「その前に担当を決めます」
「丸投げする気だね」
「仕事を分担するんです」
ヴァルトも小さく笑った。
子どもたちの話では、いつも通りだった。
農家へ鶏を配った話にも興味を示し、卵が増えた後の売り先について尋ねている。
それでも会話が途切れると、考え込むように手が止まった。
食事が終わり、周囲の皿が片づけられたところで、澪は声を落とした。
「ヴァルトさん。何かありました?」
ヴァルトは少し黙った。
「分かりましたか」
「教室にいた時から、少しだけ」
ヴァルトは周囲を確認し、さらに声を低くした。
「マールヴェインの森で、魔物が増えています」
「時期的なものではなく?」
「最初は、私もそう考えました」
魔物の数は一年を通して一定ではない。
餌や繁殖の時期、人の立ち入り方でも変わる。
増えただけなら、通常の範囲として見ていたという。
「ですが、討伐した個体へ上位種が混ざる頻度が上がりました。それも、一種類ではありません」
ヴァルトは従来から森にいる魔物を挙げた。
ゴブリン。
ファングウルフ。
グレートベア。
ラッシュボア。
「それに混じって、ホブゴブリン、ダイアウルフ、ギガントベア、アイアンボアが見つかっています」
「上位種自体は、前からいるんですよね?」
「ええ。ですが、以前なら一体見つかるだけでも珍しかった。今は複数の場所で、複数種類が見つかっています」
真壁は腕を組み、ヴァルトの話を遮らずに聞いている。
「ほかにもあるのか?」
「森の草木が変わっています」
下草が濃くなった。
蔓が増え、木の間を塞いでいる。
葉が厚く、実の数も多い。
以前より森の中へ入りにくくなっているという。
「植物も……」
澪は、今朝増えていた《緑の手》を思い出した。
農家の畑が育つのは嬉しい。
だが、人の手が入らない森で急に植物が増える話は、同じようには聞こえなかった。
「複数の魔物が同時に上位へ寄り、植生にも変化があるか」
真壁の声が低くなる。
「偶然として片づけるには、揃いすぎているな」
「街道まで出てきたら、商隊が通れなくなるよ」
リュシアが最初に心配したのは、人と荷物の道だった。
「村へ向かう可能性もあります」
ヴァルトが頷く。
「ふむ。では間引きだな」
「私も必要だと思います。ただ、今回はそれだけでは済まないかもしれません」
「現物はあるか?」
「討伐した個体を収納しています」
理央がフードコートを見回した。
食事中の客がまだ何組もいる。
澪も同じことを考え、ヴァルトへ念を押した。
「ここでは出さないでくださいね」
「もちろんです」
確認には広さがあり、汚れても処理できる場所が必要だった。
5人は人払いのできる共同商館の倉庫へ移った。
倉庫の中央から荷を動かし、床を広く空けた。
扉を閉め、人が入ってこないことも確認する。
ヴァルトは全員へ壁際まで下がるように言った。
「討伐済みですが、大きいので場所を取ります」
「どれくらいですか?」
「見てもらった方が早いでしょう」
ヴァルトは床へ手を向けた。
「こいつらなんですが」
靄が広がり、最初の一体が現れた。
ホブゴブリン。
普通のゴブリンより一回り以上大きく、肩と腕の厚みがまるで違う。
続いて、ダイアウルフが床へ横たわった。
ファングウルフより明らかに大型で、顎も首も脚も太い。
三体目が出たところで、理央がもう一歩後ろへ下がった。
ギガントベアの体が、倉庫の床を大きく占めている。
グレートベアを見たことがある澪にも、同じ種類の大きな個体とは思えなかった。
最後のアイアンボアは、首から肩にかけての厚みが目立った。
牙も太く、死体でなければ正面に立とうとは思えない。
「……四種類とも、ですか」
「ええ」
理央の問いへ、ヴァルトが短く答えた。
澪は一体ずつ《鑑定》を通した。
表示される名称は、どれも通常種とは違っている。
餌を多く食べて育った個体ではない。
ホブゴブリンは骨格そのものが大きい。
ダイアウルフも、太ったのではなく、脚と首の作りから強くなっている。
ギガントベアとアイアンボアは、触れなくても皮膚と筋肉の厚さが分かった。
真壁は死体の間を歩き、ヴァルトが付けた傷を確認した。
「ホブゴブリンは斬ったのか」
「ええ。首を狙いました」
「一撃ではないな」
「最初の一撃で動きを鈍らせ、次で仕留めました」
真壁はダイアウルフの傷へ移る。
「こちらは?」
「脚へ魔術を当ててからです。動いている状態で首を狙うのは危険でした」
「熊と猪も魔術か」
「はい。正面から武器だけで倒す必要はありませんでしたから」
それはヴァルトなら倒せるという話でしかない。
同じことを一般兵が再現できるかは、別の問題だった。
リュシアはアイアンボアの牙を見て、表情を固くした。
「これが街道へ出たら、普通の商人じゃ逃げるしかないね」
「農家の柵でも止められないと思います」
理央が答えた。
朝見た鶏舎も、井戸も、柔らかくなった畑も、この魔物に踏み込まれれば守れない。
真壁は4体を見渡した。
「これは現物を見せた方が早いな」
「私もそう思います」
「アルベルト様とレオンハルトさんに?」
「そうだ。兵が対処できるかも確認してもらう必要がある」
ヴァルトは4体を収納へ戻した。
午後の予定は、その場で変更された。
リュシアは共同商館に残り、街道を使う商隊の予定を確認する。
理央も同行せず、農家巡りで使った物資と帳面の整理を引き受けた。
侯爵邸へ向かったのは、ヴァルトと真壁と澪の3人だった。
アルベルトはヴァルトの報告を最後まで聞いた後、すぐに現物の確認を求めた。
場所を侯爵邸の訓練場へ移し、レオンハルトも呼ばれる。
周囲の兵を必要な人数だけに絞り、ヴァルトが4体を並べた。
上位種が複数種類で増えていること。
以前から存在したが、現在の頻度は明らかに異常であること。
森の植生まで変わっていること。
原因はまだ分からないこと。
街道や村へ出る前に対応が必要なこと。
アルベルトは死体を順に見てから、レオンハルトへ視線を向けた。
「兵団の装備で対処できるか」
「確認します」
レオンハルトは自分の愛用武器を抜かなかった。
兵へ命じ、兵団で一般的に使っているものと同程度の剣と槍を用意させる。
刃こぼれがないことを確かめ、握りと重さも確認した。
「レオンハルト殿が倒せるかではなく、兵が倒せるかを見るのだな」
真壁が言う。
「はい。私だけが使える武器や技量では、部隊の判断材料になりません」
最初はホブゴブリンだった。
レオンハルトは比較的薄い部位へ剣を入れ、刃の通り方を確かめる。
次に、実戦で狙うことになる胴と肩へ振り下ろした。
刃は入る。
だが、通常のゴブリンを斬る時のようには深く進まない。
厚い筋肉に止められ、急所まで届かせるには正確な角度と力が必要だった。
「傷は付くんですね」
澪が言うと、レオンハルトは刃を抜きながら頷いた。
「付きます。しかし、生きて動いている相手へ同じ一撃を入れられる兵は限られます」
続いてダイアウルフを試す。
毛皮と筋肉が刃を受け止め、浅い斬撃では動きを止められそうになかった。
首を狙えば深く入る可能性はある。
だが、そのためには牙の届く距離へ正面から踏み込むことになる。
レオンハルトは一撃ごとに傷の深さを測り、何度も叩いて最終的に切れたという判定はしなかった。
生きた魔物は待ってくれない。
反撃される前の一撃か二撃で、行動を止められるかが基準だった。
アイアンボアへ移ると、さらに厳しくなった。
首から肩へ剣を振り下ろしても、刃は大きく食い込まない。
槍へ持ち替え、角度を変えて突く。
先端は通るが、通常の力では決定的な深さまで届かなかった。
「突進を受けながら、これ以上の深さへ入れるのは難しいでしょう」
レオンハルトは槍先を確認し、最後にギガントベアの前へ立った。
皮、脂肪、筋肉の層が厚い。
薄い部位を選べば傷は付く。
だが、正面から胴を狙っても、一般兵の剣や槍では急所まで届かない。
澪は床に残った傷跡を見た。
武器が弾かれ、傷一つ付かないわけではない。
それでも、傷を付けることと、突進してくる相手を倒すことの間には大きな差があった。
アルベルトも、傷の深さと剣先、槍先の状態を確かめる。
「これを一体なら、やり方はある」
レオンハルトが言った。
「複数なら?」
「今の装備で正面から当てるべきではありません」
訓練場が静かになった。
それはレオンハルト自身が倒せないという意味ではない。
領軍の一般兵を、部隊として安全に投入できないという判断だった。
通常の魔物が増えた時のように、兵を出して間引けば済む状態ではなかった。
ヴァルトが上位種を収納へ戻した後も、切り口と武器に残った感触は全員の中に残っていた。
「上位種が増えている以上、数を減らす必要はあります」
ヴァルトが言う。
「放置すれば、さらに増える可能性があります」
「だが、今のまま兵を入れるわけにはいかない」
アルベルトはレオンハルトが使った剣を見た。
「減らす必要はある。しかし、兵を消耗させるのは間引きとは言わん」
真壁の言葉へ、レオンハルトが頷く。
「その通りです」
必要なのは、上位種へ通用する武器だけではない。
魔術とどう組み合わせるか。
誰を何人入れるか。
偵察と退路をどう確保するか。
負傷者が出た時の救護をどこへ置くか。
街道と周辺の村をどう警戒するか。
どの範囲から間引くべきか。
そして、変わり始めた植生をどう調べるか。
澪は今朝得た《緑の手》Lv1を思い出した。
レベルはまだ低い。
何ができるかも分からない。
それでも、植物の変化は自分でも確かめたかった。
ただし、澪一人が森へ入り、収納で全部片づければよい問題ではない。
原因が分からないまま一部を消しても、別の場所で同じことが起きるかもしれなかった。
「大規模な投入は保留する」
アルベルトが決めた。
「それまでは街道と周辺村の警戒を強化する。レオンハルトは現状の兵装を整理してくれ」
「承知しました」
「ヴァルト殿は、上位種を確認した場所と、植生が変化した範囲をまとめてほしい」
「分かりました」
「真壁殿と澪殿にも、使える能力と装備を整理してもらいたい」
真壁が頷き、澪も返事をした。
それぞれが情報を持ち寄った上で、正式な対策会議を開く。
間引きが必要だという認識だけは一致した。
だが、どう倒すか、誰を出すか、何を持たせるかは決まっていない。
午前中は、子どもたちが誰一人欠けずに春を迎えたことを喜んでいた。
その日の午後には、一般兵の剣が上位魔物を止められないところを見ている。
3月は終わった。
春は、次の問題も連れてきた。