押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第354話 3月が終わりました

 

 鶏舎の前では、50羽の鶏が土を蹴りながら草をついばんでいた。

 

 少し離れた場所では、農家の子どもが井戸のポンプを押している。

 

 水が桶へ落ちるたびに歓声が上がるので、仕事というより遊びになっていた。

 

 畑にはサツマイモの苗が等間隔に並び、春の風に葉を揺らしている。

 

 今日の作業も、ようやく終わった。

 

 3月に入ってから、澪と理央とリュシアは同じような農家を20軒以上回っている。

 

 ただし、同じ作業で済んだ家は一軒もなかった。

 

 井戸の水脈が深く、何度も掘る場所を変えた家があった。

 

 去年の堆肥が足りず、使える量に合わせて畑を区切った家もあった。

 

 土を収納した途端、籠が足りなくなるほどモグラが出てきた家もある。

 

 鶏を初めて見ようと、家族だけでなく隣人まで集まった家もあった。

 

 一軒ごとの違いを理央が《鑑定》し、土から害獣と害虫、雑草の根や種を分ける。

 

 使える堆肥だけを畑全体へ混ぜ、土の状態に合わせて酸性の強さを調整して戻す。

 

 その横で澪が収納内の種芋から苗を育て、畝へ直接植えていった。

 

 リュシアは鶏の世話と卵の買い取りを説明し、必要な家には鶏舎と井戸の使い方まで一緒に確認した。

 

 何度繰り返しても、農家の主人が畑へ入る時だけは3人とも待った。

 

 その土地を長く耕してきた人の手が、最後の確認になるからだ。

 

 今日の家の主人も、畝の端へしゃがみ込んだ。

 

 両手で土をすくい、握り、指の間から落としていく。

 

「いやあ、ほんとに変わったな」

 

「畑ですか?」

 

「畑だよ。前はここまで指が入らなかった」

 

 主人は広げた手を土へ差し込んだ。

 

 指の根元まで入っても、土は固い塊にならず、周囲からほろほろと崩れていく。

 

「上だけじゃない。下まで柔らかい」

 

「堆肥の混ざり方はどうですか?」

 

 理央が尋ねると、主人は別の場所でも土をすくった。

 

「どこを取っても同じだ。前は山にしたところだけ黒くなってたんだがな」

 

「一か所へ固まらないように混ぜました」

 

「モグラもネズミも追い出してくれたし、雑草の種まで減らしてくれたんだろ」

 

「全部じゃないですけど、見つけられた分は分けました」

 

「十分だ。こんなふかふかな土、今まで作れなかった」

 

 驚いているだけの声ではなかった。

 

 毎年この畑を掘り返し、雨の後の重さも、夏の乾き方も知っている人の評価だった。

 

 理央は安堵したように息を吐いた。

 

 主人はもう一度畑を見回すと、家の方へ歩いていった。

 

 戻ってきた時には、両腕で大きな籠を抱えている。

 

 中には葉物野菜と根菜が隙間なく詰められていた。

 

「これ、持っていってくれ」

 

「え、こんなに?」

 

「畑を直して、井戸まで掘って、芋まで植えてくれたんだ。それでも足りんくらいだ」

 

「井戸や鶏舎の分は、もうお支払いいただいています」

 

 澪が財布を出そうとすると、主人が籠を抱えたまま首を振った。

 

「売るんじゃない。礼だ」

 

「でも」

 

「澪。これはもらっておきな」

 

 リュシアが横から止めた。

 

「礼を受け取るのも付き合いだよ」

 

 主人も大きく頷いている。

 

 澪は財布から手を離し、少し困ってから頭を下げた。

 

「ありがとうございます。みんなでいただきます」

 

「そうしてくれ」

 

 籠を収納へ入れ、帰り支度を始める。

 

 その途中で、澪は今日の作業分を確認するため、自分へ《鑑定》を向けた。

 

 見慣れた項目の中で、二つの表示が目に留まる。

 

 《生体収納》Lv8。

 

 そこまでは、鶏を出し入れするたびに上がっていたので分かる。

 

 問題は、その下だった。

 

 《緑の手》Lv1。

 

「……あれ?」

 

 澪の手が止まった。

 

「どうしました?」

 

「《緑の手》が生えています」

 

 理央が覗き込もうとして、表示が見えないことを思い出したように姿勢を戻した。

 

「SP、振ったんですか?」

 

「振ってません」

 

「苗、ずっと育ててましたよね」

 

 リュシアも納得したように畑を見る。

 

「3月、ほとんど畑にいたじゃないか」

 

「……そう言われると」

 

 澪は帳面を開き、今日の日付を確かめた。

 

 3月の最後の日だった。

 

 鶏を減らし、鶏舎を置き、井戸を掘り、芋の苗を育てているうちに、一か月が終わろうとしている。

 

 大学はまだ春休みなのに、休んだ記憶はほとんどなかった。

 

 収納の中には、もらった野菜が籠いっぱいに入っている。

 

「これ、みんなに分けましょうか」

 

「その量なら、何か所か回れるね」

 

「魚と卵も足しましょう」

 

 農家巡りの最後の日は、そのままお裾分け巡りへ変わった。

 

 リュシアは卵の買い取りを確認するため共同商館へ戻り、澪と理央が食材を届けることになった。

 

 

 

 孤児院の厨房へ野菜を出すと、籠が一つでは足りなかった。

 

 澪は収納から新鮮な魚と卵も加えていく。

 

 以前なら、どちらも特別な日に少しずつ分ける食べ物だった。

 

 今年は冬の間にも何度か食卓へ上がっている。

 

 魚を見た子が焼いた方が好きだと言い、卵を見た子がスープに入れてほしいと頼んでいた。

 

 厨房の騒ぎに気づき、ほかの子どもたちも集まってくる。

 

 澪は人数を数えるつもりで、一人ずつ顔を見た。

 

 途中で、何かが違うことに気づく。

 

 目線が少し高い。

 

 袖口から出た腕が長くなっている。

 

 頬のこけていた子には丸みがあり、細かった手足にも肉が付いていた。

 

 小さい子だけではない。

 

 年長の子たちまで、全体に一回り大きく見える。

 

「理央ちゃん」

 

「はい。私も今、見てました」

 

 理央も、子どもたちと以前の姿を見比べている。

 

 いつもクララと幼竜がいた場所は、今日は空いていた。

 

 教会本部への訪問を終えるまでは戻らないと分かっていても、そこだけは少し広く感じる。

 

 だが、ほかの子どもたちの声が途切れることはなかった。

 

 年長の子が、小さい子を前へ出しながら澪を見上げた。

 

「今年ね、誰も神様のところに行かなかったよ」

 

 澪は最初、その意味を取り損ねた。

 

「……誰も?」

 

「うん。みんないるよ」

 

 笑っている子どもの顔と、その言葉がすぐには結びつかなかった。

 

 冬の途中で誰かが亡くなることを、この子たちは当たり前のように知っていた。

 

 去年までなら、春を迎える人数が減っていても不思議ではなかったのだ。

 

「ご飯、ずっとあったもん」

 

 別の子が言った。

 

「魚も食べた」

 

「卵も!」

 

「お豆のスープもあったよ」

 

 食べ物の名前が次々に出てくる。

 

 豪華な料理を自慢しているのではない。

 

 今日食べても、明日の食事がなくならない。

 

 冬の間ずっと、それを信じられたという話だった。

 

 年長の子が、隣にいた小さな子の肩へ手を置く。

 

「みんな大きくなったんだよ」

 

「ほんとですね。前に会った時より、ずっと」

 

 理央が答えると、小さな子が袖を引っ張って見せた。

 

「これ、ちっちゃくなった」

 

「服が小さくなったんですよ」

 

「ぼくが大きくなった?」

 

「そうです」

 

 子どもは両腕を広げ、自分の大きさを確かめるように見下ろした。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「澪姉ちゃんたちが、いっぱい食べ物持ってきてくれたからだよ」

 

「私だけじゃないですよ」

 

 澪はすぐに否定した。

 

「農家の人が育てて、漁師の人が獲ってくれて、リュシアさんたちが運んでくれたんです。料理したのは孤児院のみなさんですし」

 

「でも、澪姉ちゃんも頑張ったんでしょ?」

 

「それは……」

 

 理央は助け舟を出さなかった。

 

 隣で少しだけ笑っている。

 

「……少しは」

 

「ありがとう」

 

 今度は誰かの名前を並べて逃げることができなかった。

 

 澪は顔が熱くなり、視線を厨房の食材へ向けた。

 

「魚は今日中に食べてください。卵も割れていないか確認してありますから」

 

「澪さん、話を変えましたね」

 

「食べ物の確認は大事です」

 

 理央の声にも笑いが混じっていた。

 

 誰も神様のところへ行かなかった。

 

 その一言だけは、話を変えても胸の中に残った。

 

 魚を増やしたことも、大豆を育てたことも、鶏を増やしたことも、畑を広げたことも、結局はここにつながっている。

 

 子どもたちが死なずに冬を越し、服が小さくなるほど育った。

 

 自分一人の成果だとは思わない。

 

 それでも、関わってよかったとは素直に思えた。

 

 孤児院を出ても、頬の熱はしばらく引かなかった。

 

 

 

 新セルマ工房へ入ると、薬草の匂いより先に積み上げられた箱が目に入った。

 

 作業台には瓶が並び、その奥では完成したポーションを出荷箱へ詰めている。

 

 澪と理央が食料を持ってきたと知ると、セルマは手を洗ってこちらへ来た。

 

「野菜と魚と卵です。農家の方から、たくさんいただいたので」

 

「助かるわ。ちょうど今日は人数が多いの」

 

 セルマは中身を確かめ、近くにいた者へ厨房へ運ぶよう頼んだ。

 

 それから澪へ向き直る。

 

「お礼を言うのは、こっちの方ね」

 

「食材のですか?」

 

「それもあるけれど、この冬のことよ」

 

 セルマは工房の中を見回した。

 

 棚には領内向けの箱もある。

 

 だが、工房の一角を大きく占めているのは、別にまとめられた出荷箱だった。

 

 行き先札には、レヴァニア向けの印が付いている。

 

「最近は領内へ出す箱より、レヴァニア向けの箱の方が目立つくらいよ」

 

「そんなにですか?」

 

「ええ。冬にこちらで使い切らずに済んだ分まで、ちゃんと商品になるの」

 

 澪は積み上げられた箱の数を目で追った。

 

 以前の冬は、領内で使う分を切らさないことが最優先だった。

 

 薬草が足りるか、瓶が足りるか、作る人の手が足りるか。

 

 不足するものを追いかけるだけで、冬が終わっていた。

 

「今年も病気や怪我がなくなったわけじゃないわ。必要な人には、今まで通り出している」

 

 セルマは箱の札を一枚確かめ、紐を締め直した。

 

「でも、空腹や寒さで体力を落として、そこから病気を重ねる人が減ったの。薬を飲ませる前に、食べられたからよ」

 

「継続して支援している村や施設では、食べ物が足りなくて亡くなった人もいなかったと聞いているわ」

 

「食べ物で、そこまで変わるんですね」

 

 理央が箱の列を見ながら言う。

 

「変わるわ。薬は弱った体を何でも元通りにしてくれるものじゃないもの」

 

 セルマは、治癒草の安定供給、瓶の規格化、工房の設備、冬の食料供給を順に挙げた。

 

 どれか一つだけで、この箱の数になったわけではない。

 

「食べられるようにしてくれたことも、薬を作れるようにしてくれたこともね。助かってるわ」

 

「いや、その……私だけじゃないですし」

 

 また顔が熱くなる。

 

「今日、何回目でしょう」

 

「数えなくていいです」

 

 理央は指を折りかけた手を下ろした。

 

 セルマが笑う。

 

「薬が売れるのはありがたいけれど、領内で病人が増えて売れるより、余った分を外へ売れる方がずっといいわ」

 

「薬は売った後が怖い、でしたっけ」

 

「よく覚えてるわね」

 

 誰に、どんな状態で使われるか分からない薬ほど怖いものはない。

 

 だから必要な人へ必要な分を届け、余力だけを信頼できる取引先へ出す。

 

 今年は初めて、それが冬にもできたという。

 

 澪はもう一度、レヴァニア向けの箱を見た。

 

 薬草畑や設備だけを整えた時には見えなかった成果が、食料とつながって形になっている。

 

「これから、ヴァルトさんのところにも届けるの?」

 

「はい。まだ野菜も魚も残っています」

 

「あそこは人数が多いから、多めに持っていきなさい」

 

「22人ですからね」

 

「育ち盛りが22人よ。数だけ見たら足りなくなるわ」

 

 セルマに追加の保存食まで持たされ、澪たちは共同商館へ向かった。

 

 

 

 共同商館の2階へ上がると、教室から声が聞こえてきた。

 

 授業が終わったところらしく、机の上には文字を書いた紙が広げられている。

 

 王都から救出した20人と、孤児院から通うリオとメル。

 

 22人全員が、同じ部屋にいた。

 

 澪が食材を出し始めると、子どもたちが次々に集まってくる。

 

 魚を入れた箱。

 

 農家からもらった野菜。

 

 割れないように分けた卵。

 

 人数に合わせて多めに持ってきたつもりだが、22人に囲まれると少なく見えた。

 

 澪は近くへ来たラウを見て、手を止めた。

 

 以前より肩幅が出ている。

 

 年下の子を守ろうと張り詰めていた顔も、少し柔らかくなっていた。

 

 ベスは小さい子を食材へ近づけすぎないように止めている。

 

 その頬にも、以前はなかった丸みがある。

 

 トマの脚は明らかに太くなっていた。

 

 王都で走り回らされていた頃の、骨ばった細さはもう目立たない。

 

 キリは卵の箱を見ても、抱え込もうとはしなかった。

 

 箱の数を数え、周囲の子どもたちを見ている。

 

「澪さん」

 

 ラウが仲間を振り返ってから頭を下げた。

 

「みんな、ちゃんと冬を越せました。ありがとう」

 

 自分のことより先に、全員の無事を報告する。

 

 それは王都にいた頃から変わっていなかった。

 

「小さい子たち、服がきつくなったんです」

 

 ベスが嬉しそうに年少の子たちを見る。

 

「前はそんなことなかったのに」

 

「孤児院でも、同じことを聞きました」

 

「俺、前より走っても腹減るだけで、倒れなくなった」

 

 トマは何度かその場で跳ね、自分の脚を確かめた。

 

「腹は減るんですね」

 

「前より減る」

 

「食べる量も増えたからね」

 

 ヴァルトが苦笑する。

 

 キリは卵を一つ手に取らず、箱の中を覗いたまま澪へ尋ねた。

 

「これ、今日食べていいんだよね。明日もご飯あるもんね」

 

 澪の返事が少し遅れた。

 

 以前のキリなら、今日の分を食べる前に、次の食事のために隠す場所を探していた。

 

「はい。今日は今日の分を食べてください。明日の分は、明日もあります」

 

「じゃあ、みんなで食べる」

 

 キリは箱から離れ、年下の子へ場所を譲った。

 

「澪先生、ほんとにみんな大きくなってます」

 

 リオは一人ずつ見比べ、何かを記録するような目をしている。

 

「身長だけじゃなくて、腕も脚も前より太いです」

 

「毎日見ていると、かえって気づきにくいんですよね」

 

 理央もラウたちを順に見た。

 

「澪先生、ありがとう」

 

 メルがまっすぐ近づいてきた。

 

 次の瞬間、澪の腰へ両腕を回す。

 

「あ、はい」

 

 抱きつかれると思っていなかった澪の腕が、行き場を失った。

 

 少し迷ってから、メルの背中へ手を置く。

 

 その体も、以前よりしっかりしていた。

 

 王都のスラムから来た20人も、孤児院のリオとメルも、全員が冬を越した。

 

 食べるものがある。

 

 眠る場所がある。

 

 文字を覚え、体が大きくなっている。

 

 今日一日、何度も礼を言われた。

 

 そのたびに、自分だけの成果ではないと答えてきた。

 

 それは今も同じだった。

 

 それでも、目の前にいる22人を見ていると、胸の奥が詰まった。

 

 本当によかった。

 

 今度は、照れを隠す言葉もすぐには出てこなかった。

 

「私からも、ありがとうございます」

 

 ヴァルトが穏やかに笑った。

 

「あの子たちが、ここまで元気になるとは思っていませんでした」

 

「ヴァルトさんが教えて、面倒を見ているからですよ」

 

「それでも、食べるものと安心して眠れる場所は必要です」

 

 ヴァルトの笑顔はいつもと変わらないように見えた。

 

 だが、笑った後の表情に、わずかな陰りが残った。

 

 子どもたちを見ている時ではない。

 

 視線が窓の外へ向いた一瞬だけ、別のことを考えている。

 

 澪は気になったが、子どもたちの前では尋ねなかった。

 

「昼食は、下で一緒にどうですか?」

 

「ええ。少し話したいこともあります」

 

 ヴァルトの返事で、感じた陰りが気のせいではないと分かった。

 

 

 

 共同商館のフードコートには、先にリュシアと真壁が来ていた。

 

 5人で昼食を取りながら、話は3月の農家巡りへ戻った。

 

「結局、何軒へ置いたんだ?」

 

 真壁が尋ねる。

 

「今日で23軒です」

 

「一軒50羽が基本だったね」

 

 リュシアが指で数える前に、真壁が答えを出した。

 

「1,150羽か」

 

「全部が50羽ではありません。場所の狭い家は減らしましたから」

 

「それでも1,000羽は超えてるよ」

 

「収納内から減らしただけです」

 

「世の中では、それを配ったと言うんだ」

 

 リュシアに言われ、澪はスープへ視線を落とした。

 

 鶏の数を減らすために始めたのに、管理する農家の一覧だけは増えている。

 

「卵の買い取りまで始まったら、帳面がもう一冊要りますね」

 

 理央が言う。

 

「その前に担当を決めます」

 

「丸投げする気だね」

 

「仕事を分担するんです」

 

 ヴァルトも小さく笑った。

 

 子どもたちの話では、いつも通りだった。

 

 農家へ鶏を配った話にも興味を示し、卵が増えた後の売り先について尋ねている。

 

 それでも会話が途切れると、考え込むように手が止まった。

 

 食事が終わり、周囲の皿が片づけられたところで、澪は声を落とした。

 

「ヴァルトさん。何かありました?」

 

 ヴァルトは少し黙った。

 

「分かりましたか」

 

「教室にいた時から、少しだけ」

 

 ヴァルトは周囲を確認し、さらに声を低くした。

 

「マールヴェインの森で、魔物が増えています」

 

「時期的なものではなく?」

 

「最初は、私もそう考えました」

 

 魔物の数は一年を通して一定ではない。

 

 餌や繁殖の時期、人の立ち入り方でも変わる。

 

 増えただけなら、通常の範囲として見ていたという。

 

「ですが、討伐した個体へ上位種が混ざる頻度が上がりました。それも、一種類ではありません」

 

 ヴァルトは従来から森にいる魔物を挙げた。

 

 ゴブリン。

 

 ファングウルフ。

 

 グレートベア。

 

 ラッシュボア。

 

「それに混じって、ホブゴブリン、ダイアウルフ、ギガントベア、アイアンボアが見つかっています」

 

「上位種自体は、前からいるんですよね?」

 

「ええ。ですが、以前なら一体見つかるだけでも珍しかった。今は複数の場所で、複数種類が見つかっています」

 

 真壁は腕を組み、ヴァルトの話を遮らずに聞いている。

 

「ほかにもあるのか?」

 

「森の草木が変わっています」

 

 下草が濃くなった。

 

 蔓が増え、木の間を塞いでいる。

 

 葉が厚く、実の数も多い。

 

 以前より森の中へ入りにくくなっているという。

 

「植物も……」

 

 澪は、今朝増えていた《緑の手》を思い出した。

 

 農家の畑が育つのは嬉しい。

 

 だが、人の手が入らない森で急に植物が増える話は、同じようには聞こえなかった。

 

「複数の魔物が同時に上位へ寄り、植生にも変化があるか」

 

 真壁の声が低くなる。

 

「偶然として片づけるには、揃いすぎているな」

 

「街道まで出てきたら、商隊が通れなくなるよ」

 

 リュシアが最初に心配したのは、人と荷物の道だった。

 

「村へ向かう可能性もあります」

 

 ヴァルトが頷く。

 

「ふむ。では間引きだな」

 

「私も必要だと思います。ただ、今回はそれだけでは済まないかもしれません」

 

「現物はあるか?」

 

「討伐した個体を収納しています」

 

 理央がフードコートを見回した。

 

 食事中の客がまだ何組もいる。

 

 澪も同じことを考え、ヴァルトへ念を押した。

 

「ここでは出さないでくださいね」

 

「もちろんです」

 

 確認には広さがあり、汚れても処理できる場所が必要だった。

 

 5人は人払いのできる共同商館の倉庫へ移った。

 

 

 

 倉庫の中央から荷を動かし、床を広く空けた。

 

 扉を閉め、人が入ってこないことも確認する。

 

 ヴァルトは全員へ壁際まで下がるように言った。

 

「討伐済みですが、大きいので場所を取ります」

 

「どれくらいですか?」

 

「見てもらった方が早いでしょう」

 

 ヴァルトは床へ手を向けた。

 

「こいつらなんですが」

 

 靄が広がり、最初の一体が現れた。

 

 ホブゴブリン。

 

 普通のゴブリンより一回り以上大きく、肩と腕の厚みがまるで違う。

 

 続いて、ダイアウルフが床へ横たわった。

 

 ファングウルフより明らかに大型で、顎も首も脚も太い。

 

 三体目が出たところで、理央がもう一歩後ろへ下がった。

 

 ギガントベアの体が、倉庫の床を大きく占めている。

 

 グレートベアを見たことがある澪にも、同じ種類の大きな個体とは思えなかった。

 

 最後のアイアンボアは、首から肩にかけての厚みが目立った。

 

 牙も太く、死体でなければ正面に立とうとは思えない。

 

「……四種類とも、ですか」

 

「ええ」

 

 理央の問いへ、ヴァルトが短く答えた。

 

 澪は一体ずつ《鑑定》を通した。

 

 表示される名称は、どれも通常種とは違っている。

 

 餌を多く食べて育った個体ではない。

 

 ホブゴブリンは骨格そのものが大きい。

 

 ダイアウルフも、太ったのではなく、脚と首の作りから強くなっている。

 

 ギガントベアとアイアンボアは、触れなくても皮膚と筋肉の厚さが分かった。

 

 真壁は死体の間を歩き、ヴァルトが付けた傷を確認した。

 

「ホブゴブリンは斬ったのか」

 

「ええ。首を狙いました」

 

「一撃ではないな」

 

「最初の一撃で動きを鈍らせ、次で仕留めました」

 

 真壁はダイアウルフの傷へ移る。

 

「こちらは?」

 

「脚へ魔術を当ててからです。動いている状態で首を狙うのは危険でした」

 

「熊と猪も魔術か」

 

「はい。正面から武器だけで倒す必要はありませんでしたから」

 

 それはヴァルトなら倒せるという話でしかない。

 

 同じことを一般兵が再現できるかは、別の問題だった。

 

 リュシアはアイアンボアの牙を見て、表情を固くした。

 

「これが街道へ出たら、普通の商人じゃ逃げるしかないね」

 

「農家の柵でも止められないと思います」

 

 理央が答えた。

 

 朝見た鶏舎も、井戸も、柔らかくなった畑も、この魔物に踏み込まれれば守れない。

 

 真壁は4体を見渡した。

 

「これは現物を見せた方が早いな」

 

「私もそう思います」

 

「アルベルト様とレオンハルトさんに?」

 

「そうだ。兵が対処できるかも確認してもらう必要がある」

 

 ヴァルトは4体を収納へ戻した。

 

 午後の予定は、その場で変更された。

 

 リュシアは共同商館に残り、街道を使う商隊の予定を確認する。

 

 理央も同行せず、農家巡りで使った物資と帳面の整理を引き受けた。

 

 侯爵邸へ向かったのは、ヴァルトと真壁と澪の3人だった。

 

 

 

 アルベルトはヴァルトの報告を最後まで聞いた後、すぐに現物の確認を求めた。

 

 場所を侯爵邸の訓練場へ移し、レオンハルトも呼ばれる。

 

 周囲の兵を必要な人数だけに絞り、ヴァルトが4体を並べた。

 

 上位種が複数種類で増えていること。

 

 以前から存在したが、現在の頻度は明らかに異常であること。

 

 森の植生まで変わっていること。

 

 原因はまだ分からないこと。

 

 街道や村へ出る前に対応が必要なこと。

 

 アルベルトは死体を順に見てから、レオンハルトへ視線を向けた。

 

「兵団の装備で対処できるか」

 

「確認します」

 

 レオンハルトは自分の愛用武器を抜かなかった。

 

 兵へ命じ、兵団で一般的に使っているものと同程度の剣と槍を用意させる。

 

 刃こぼれがないことを確かめ、握りと重さも確認した。

 

「レオンハルト殿が倒せるかではなく、兵が倒せるかを見るのだな」

 

 真壁が言う。

 

「はい。私だけが使える武器や技量では、部隊の判断材料になりません」

 

 最初はホブゴブリンだった。

 

 レオンハルトは比較的薄い部位へ剣を入れ、刃の通り方を確かめる。

 

 次に、実戦で狙うことになる胴と肩へ振り下ろした。

 

 刃は入る。

 

 だが、通常のゴブリンを斬る時のようには深く進まない。

 

 厚い筋肉に止められ、急所まで届かせるには正確な角度と力が必要だった。

 

「傷は付くんですね」

 

 澪が言うと、レオンハルトは刃を抜きながら頷いた。

 

「付きます。しかし、生きて動いている相手へ同じ一撃を入れられる兵は限られます」

 

 続いてダイアウルフを試す。

 

 毛皮と筋肉が刃を受け止め、浅い斬撃では動きを止められそうになかった。

 

 首を狙えば深く入る可能性はある。

 

 だが、そのためには牙の届く距離へ正面から踏み込むことになる。

 

 レオンハルトは一撃ごとに傷の深さを測り、何度も叩いて最終的に切れたという判定はしなかった。

 

 生きた魔物は待ってくれない。

 

 反撃される前の一撃か二撃で、行動を止められるかが基準だった。

 

 アイアンボアへ移ると、さらに厳しくなった。

 

 首から肩へ剣を振り下ろしても、刃は大きく食い込まない。

 

 槍へ持ち替え、角度を変えて突く。

 

 先端は通るが、通常の力では決定的な深さまで届かなかった。

 

「突進を受けながら、これ以上の深さへ入れるのは難しいでしょう」

 

 レオンハルトは槍先を確認し、最後にギガントベアの前へ立った。

 

 皮、脂肪、筋肉の層が厚い。

 

 薄い部位を選べば傷は付く。

 

 だが、正面から胴を狙っても、一般兵の剣や槍では急所まで届かない。

 

 澪は床に残った傷跡を見た。

 

 武器が弾かれ、傷一つ付かないわけではない。

 

 それでも、傷を付けることと、突進してくる相手を倒すことの間には大きな差があった。

 

 アルベルトも、傷の深さと剣先、槍先の状態を確かめる。

 

「これを一体なら、やり方はある」

 

 レオンハルトが言った。

 

「複数なら?」

 

「今の装備で正面から当てるべきではありません」

 

 訓練場が静かになった。

 

 それはレオンハルト自身が倒せないという意味ではない。

 

 領軍の一般兵を、部隊として安全に投入できないという判断だった。

 

 通常の魔物が増えた時のように、兵を出して間引けば済む状態ではなかった。

 

 

 

 ヴァルトが上位種を収納へ戻した後も、切り口と武器に残った感触は全員の中に残っていた。

 

「上位種が増えている以上、数を減らす必要はあります」

 

 ヴァルトが言う。

 

「放置すれば、さらに増える可能性があります」

 

「だが、今のまま兵を入れるわけにはいかない」

 

 アルベルトはレオンハルトが使った剣を見た。

 

「減らす必要はある。しかし、兵を消耗させるのは間引きとは言わん」

 

 真壁の言葉へ、レオンハルトが頷く。

 

「その通りです」

 

 必要なのは、上位種へ通用する武器だけではない。

 

 魔術とどう組み合わせるか。

 

 誰を何人入れるか。

 

 偵察と退路をどう確保するか。

 

 負傷者が出た時の救護をどこへ置くか。

 

 街道と周辺の村をどう警戒するか。

 

 どの範囲から間引くべきか。

 

 そして、変わり始めた植生をどう調べるか。

 

 澪は今朝得た《緑の手》Lv1を思い出した。

 

 レベルはまだ低い。

 

 何ができるかも分からない。

 

 それでも、植物の変化は自分でも確かめたかった。

 

 ただし、澪一人が森へ入り、収納で全部片づければよい問題ではない。

 

 原因が分からないまま一部を消しても、別の場所で同じことが起きるかもしれなかった。

 

「大規模な投入は保留する」

 

 アルベルトが決めた。

 

「それまでは街道と周辺村の警戒を強化する。レオンハルトは現状の兵装を整理してくれ」

 

「承知しました」

 

「ヴァルト殿は、上位種を確認した場所と、植生が変化した範囲をまとめてほしい」

 

「分かりました」

 

「真壁殿と澪殿にも、使える能力と装備を整理してもらいたい」

 

 真壁が頷き、澪も返事をした。

 

 それぞれが情報を持ち寄った上で、正式な対策会議を開く。

 

 間引きが必要だという認識だけは一致した。

 

 だが、どう倒すか、誰を出すか、何を持たせるかは決まっていない。

 

 午前中は、子どもたちが誰一人欠けずに春を迎えたことを喜んでいた。

 

 その日の午後には、一般兵の剣が上位魔物を止められないところを見ている。

 

 3月は終わった。

 

 春は、次の問題も連れてきた。

 

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