押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第356話 番犬ができました

 

 

 朝の森は、昨日よりも近く見えた。

 

 木々の向こうに何がいるのか知ってしまったせいかもしれない。

 

 マールヴェインの外縁には侯爵軍の兵が散り、森へ続く道を塞いでいた。

 

 狩人も木こりも、今日は中へ入れない。

 

 その兵たちから少し離れた場所に、灰白色の人影が二つ並んでいる。

 

 真壁とヴァルトだった。

 

 透明な面で顔まで覆われ、首から下にも普段の服は見えない。

 

 昨日、二人が話していた気密防護服である。

 

 澪には、どちらがどちらかも背格好でしか分からなかった。

 

 ただ、腰に付いた推進器と、着慣れているように腕を動かす姿を見ると、ヴァルトが「今回も」と言っていた意味だけはよく分かった。

 

「準備はできているかね」

 

 真壁の声が、面の内側から少しくぐもって聞こえた。

 

「はい」

 

「では始めよう」

 

 レオンハルトが森へ目を向けたまま言う。

 

「外周はこちらで押さえる」

 

「ああ。森へ入ろうとする者がいれば止めてくれ」

 

「分かった」

 

 真壁が澪へ顔を向けた。

 

「澪君。こちらの位置は見えているな」

 

「はい。真壁さんとヴァルトさん、それと周りの魔物も見えてます」

 

 開いた《世界地図》の上には、人と魔物の反応が重なっていた。

 

 森の外側を囲む兵たちは、細長い輪になっている。

 

 その内側に、真壁とヴァルト。

 

 さらに奥には、大きさの違う反応が木々の間へ散らばっていた。

 

「なら、何か大きな動きがあれば覚えておいてくれ」

 

 知らせてくれ、とは言わなかった。

 

 二人が森へ入れば、その場で声を届ける方法はない。

 

 見えていても、澪にできるのは記憶して、戻った二人へ伝えることだけだった。

 

「分かりました」

 

 真壁とヴァルトが森へ入る。

 

 灰白色の背中は、下草に隠れたあと、すぐ木々の向こうへ消えた。

 

 世界地図の上では、二つの反応が並んだまま西へ進んでいった。

 

 

 

 ヴァルトは《境界》を広げたまま、正面の藪を避けた。

 

 その先には、小さな魔物の反応が一つある。

 

 まっすぐ進んだ方が早い。

 

 それでも、二人は右へ回った。

 

 今日は何体倒したかを競いに来たのではない。

 

 余計な一体と出会えば、それだけ予定外が増える。

 

 湿った土を踏み、蔓の少ない場所を選びながら進む。

 

 やがて木々の間隔がわずかに広い場所へ出た。

 

「この辺りでよいでしょう」

 

 ヴァルトは周囲を見渡し、地面の傾きと木の位置を確かめた。

 

 真壁も地図と現物を見比べる。

 

「ああ。始めよう」

 

 石臼に偽装されていた《魔物寄せ》が地面へ置かれた。

 

 見た目は、町の倉庫から運び出してきた時と変わらない。

 

 けれど、ヴァルトが作動させてしばらくすると、森の音が変わった。

 

 最初に現れたのは一頭のファングウルフだった。

 

 鼻を鳴らしながら木々の間から出てきて、《魔物寄せ》の周囲を歩き回る。

 

 少し遅れてラッシュボア。

 

 藪の奥ではゴブリンの声がした。

 

 一頭。

 

 また一頭。

 

 集まった魔物が増えるほど、唸り声と威嚇の声が重なっていく。

 

 通常種の向こうから、肩の厚いアイアンボアが姿を現した。

 

 ゴブリンの群れには、明らかに大きなホブゴブリンが混じっている。

 

 さらに木の枝を押し分け、ギガントベアが入ってきた。

 

「思ったより広く効いています」

 

「まだ来るか」

 

「ええ」

 

 ヴァルトの《境界》には、こちらへ進む反応がまだいくつも触れていた。

 

 真壁は集まった数と周囲の反応を見比べた。

 

「なら、ここまでだ。止めたまえ」

 

「はい」

 

 誘引が止まる。

 

 同時に二人の腰部推進器が動いた。

 

 下草が押し伏せられ、灰白色の身体が一気に中央から離れる。

 

 その背後で、《魔物寄せ》だけを見ていた獣たちが、ようやく互いの姿へ気づき始めた。

 

 

 

 澪の《世界地図》では、散らばっていた反応が少しずつ同じ場所へ寄っていた。

 

「動いてます」

 

「どの辺りまでだ?」

 

 レオンハルトは地図を見ることができない。

 

 澪が指で示した先へ、森の木しか見えない視線を向ける。

 

「思ったより遠いところからです。こっちの反応も、今動きました」

 

「そこまで届くのか」

 

「みたいです」

 

 真壁とヴァルトの反応は、集まっている魔物の中央から離れた。

 

 予定どおりなら、次は結界を張る位置へ移ったはずだ。

 

 けれど、予定どおりです、と伝える声は来ない。

 

 澪は地図の端から端へ意識を移した。

 

 外周の兵へ向かう魔物はいない。

 

 別方向から真壁たちへ近づく反応もない。

 

 森のさらに奥へ目を向けた時、まとまった反応が引っ掛かった。

 

 一つではない。

 

 かなりの数が、狭い範囲に集まっている。

 

 周囲の魔物が誘われるように動いているのに、その集団だけは動いていなかった。

 

「どうした?」

 

 地図の一点を見続ける澪に、レオンハルトが尋ねた。

 

「いえ。奥に、固まってる反応があるんですけど……動いてません」

 

「こちらへ来ているのか」

 

「来てないです」

 

 ならば、今すぐ兵を動かす理由はない。

 

 澪は位置を覚え、再び作戦区画へ意識を戻した。

 

 気になるからといって、遠くにいる二人へ教えることもできない。

 

 世界地図が広く見えるようになっても、見えることと伝えられることは別だった。

 

 

 

 《魔物寄せ》の力が消えるにつれ、集まった魔物たちは中央にいる理由を失っていった。

 

 ファングウルフがアイアンボアから距離を取る。

 

 ゴブリンたちは棍棒を構え、獣型の魔物が少ない方へ逃げようとした。

 

 その先で、透明な壁にぶつかる。

 

 ヴァルトが作った結界だった。

 

 別方向へ走ったアイアンボアも、何もない空間へ牙を打ちつけた。

 

 鈍い衝撃が伝わってくる。

 

 中央では二頭のギガントベアが互いに立ち上がり、太い前脚を振り始めた。

 

「結界、閉じました」

 

「維持は?」

 

「問題ありません」

 

「外への漏れは」

 

「ありません」

 

 ヴァルトは結界へ伝わる衝撃を一つずつ確かめた。

 

 魔物がぶつかるたびに揺れはする。

 

 だが、崩れる気配はない。

 

「よろしい」

 

 真壁は透明面の向こうで、結界の内側を見た。

 

「始めよう」

 

 

 

 炎は上がらなかった。

 

 煙も出ない。

 

 爆発も、魔術の光もなかった。

 

 真壁が収納内から一酸化炭素を展開しても、森の景色は何一つ変わらない。

 

 変わったのは、結界の中にいる魔物たちだった。

 

 透明な壁へ何度も体当たりしていたラッシュボアの脚が乱れる。

 

 一度踏みとどまり、また走ろうとして、前脚から崩れた。

 

 棍棒を振り上げていたゴブリンが、その場へ座り込む。

 

 隣の一体が引き起こそうとしたが、そちらも膝をついた。

 

 争っていたギガントベアは、相手を見失ったように頭を振った。

 

 巨体が木へ寄りかかる。

 

 幹が軋んだあと、熊も地面へ倒れた。

 

 真壁は最も近くに倒れた一体へ収納を試した。

 

 靄に包まれ、姿が消える。

 

 通常収納へ入るのは、死亡した個体か、収納の判定上、生体として扱われないほど深い仮死状態に至った個体だけだった。

 

 その隣の個体は入らなかった。

 

 倒れていても、まだ通常収納が受け付けない。

 

 二人は近づかずに待った。

 

「残り、三」

 

「待とう」

 

「はい」

 

 アイアンボアの腹が上下している。

 

 ファングウルフの耳が、わずかに動いた。

 

 倒れているから安全なのではない。

 

 収納へ入らないなら、まだ生きている魔物として扱う。

 

 少し後、ヴァルトが結界内を見直した。

 

「一」

 

「まだだ」

 

 最後まで残ったダイアウルフが、前脚を突っ張って身体を起こそうとする。

 

 顎が持ち上がり、牙が見えた。

 

 けれど、立ち上がる前に力が抜けた。

 

 地面へ伏した巨体を靄が包む。

 

 今度は消えた。

 

 後方にいる澪には、その過程が見えない。

 

 世界地図の上で、固まっていた反応が一つずつ消えていくだけだった。

 

「……減ってます」

 

「倒しているのか?」

 

「たぶん。真壁さんたちの近くから、一つずつ消えてます」

 

 剣戟も咆哮も、ここまでは届かない。

 

 真壁とヴァルトの反応が二つ並び、その周りにあった魔物だけが消えていく。

 

 静かすぎて、順調なのか事故なのかも分からなかった。

 

 やがて最後の反応が消えた。

 

 それでも結界らしい境目は、すぐには消えなかった。

 

 後方の声は前方には届かない。

 

 前方では、最後の個体を収納した真壁が結界の内側を見回していた。

 

「確認してからだ」

 

 真壁は収納へ入った個体の数と、結界内を見比べた。

 

「ええ」

 

 

 

 結界の内側に、動くものは残っていなかった。

 

 真壁は内部へ展開した気体を収納へ戻す。

 

 ヴァルトは結界を維持したまま、内と外を分ける境界を調べた。

 

 目で見えないものを使った以上、目で見て安全そうだからという理由では開けられない。

 

 確認を終えるまで、二人は気密防護服の面にも手を掛けなかった。

 

「問題ありません」

 

「では解除してくれ」

 

 結界が消える。

 

 森へ外の風が入り、押し伏せられた下草が揺れた。

 

 残っているのは、魔物が暴れた跡だけだった。

 

 剣は抜いていない。

 

 槍も使っていない。

 

 兵士を一人も森へ入れず、上位種を含む魔物を回収した。

 

 真壁は空になった区画を見渡した。

 

「使えるな」

 

「ええ。想定より静かでした」

 

「静かな方がいい」

 

 真壁はすぐには次へ向かわなかった。

 

 収納した個体の数と種類を確かめ、結界を張っていた場所の土と木々を見て回る。

 

 ヴァルトも《境界》を広げ、外へ漏れたものがないかを調べていた。

 

 試験は成功した。

 

 だからこそ、二人はまだ前方に残った。

 

 次の区画へ進む前に、成功した条件を一つずつ確認する必要があった。

 

 

 

 後方では、澪が《世界地図》を開いたまま待っていた。

 

 作戦区画に集まっていた魔物の反応は、もう一つも残っていない。

 

 真壁とヴァルトの反応だけが、同じ場所をゆっくり動いている。

 

 終わったのだと思う。

 

 けれど、二人はまだ戻ってこない。

 

 結果を聞けない時間が、成功を確信できない時間でもあった。

 

 澪は念のため、地図の範囲を森の奥まで広げた。

 

「……待ってください」

 

「どうした、澪殿」

 

「来てます」

 

 先ほどまで動かなかった集団が、初めて位置を変えていた。

 

 周囲の魔物が《魔物寄せ》へ向かっていた間も、森の奥に留まり続けていた反応である。

 

 それが今は、まとまったまま後方の観測位置へ近づいている。

 

「森の奥からです。かなりの数が、こっちへ動いてます」

 

「先ほど気にしていたものか」

 

「はい。あの時は動いてませんでした」

 

 真壁とヴァルトは、まだ第一試験区画にいる。

 

 二回目の《魔物寄せ》を使う段階にも入っていない。

 

 地図上でも、周辺の魔物が一斉に動くような誘引反応はなかった。

 

 動いているのは、最初からまとまっていた集団だけだった。

 

 一回目の誘引へ遅れて向かっているなら、進む先も違う。

 

 集団は前方の試験区画ではなく、澪たちがいる場所へ向かっていた。

 

 誰かが呼んだのではない。

 

 向こうから来ている。

 

 澪は地図へ意識を集中した。

 

 先へ出る反応があれば戻り、遅れる反応があれば全体がわずかに速度を落とす。

 

 種族は分からない。

 

 分かるのは位置と数と進む方向だけだった。

 

「一つの群れみたいに動いてます」

 

「どれくらいで来る」

 

「もう近いです。でも、まだ見えません」

 

 レオンハルトが剣へ手を掛け、近くの兵へ手振りで合図を送った。

 

 兵たちは道を塞ぐ配置から、澪たちの左右を守る配置へ移る。

 

 真壁たちへ知らせる手段はない。

 

 今ここにいる者だけで、まず止めなければならなかった。

 

 

 

 最初に聞こえたのは、乾いた枝が折れる音だった。

 

 次に、喉の奥で転がすような低い唸り声。

 

 下草が左右へ揺れ、一頭のファングウルフが姿を現した。

 

 その後ろから二頭。

 

 さらにその向こうにも、牙を見せた狼たちがいる。

 

 けれど、先頭の一頭だけが飛び出すことはなかった。

 

 群れは木々の間へ広がりながら、一定の距離で止まった。

 

 中央より少し後ろに、一回りどころではない大きな狼がいる。

 

 頭の位置だけで澪の胸より高い。

 

 太い首と脚が、昨日倉庫で見た死体よりも大きく見えた。

 

 生きて、こちらを見ているからだ。

 

 澪は《鑑定》を向けた。

 

---------------------------------------------

ダイアウルフ

 分類:大型狼型魔物

 体長:約3m

 状態:警戒・群れ統率中

 脚力:非常に高い

 瞬発力:非常に高い

 嗅覚:非常に高い

 耐久力:高い

 主な攻撃:牙・爪・体当たり

 特徴:ファングウルフの上位種

    複数のファングウルフを率いる

    通常のファングウルフを大きく上回る身体能力を持つ

---------------------------------------------

 

「ダイアウルフです」

 

「上位種か」

 

 レオンハルトが剣を抜く。

 

 ダイアウルフが一歩前へ出た。

 

 群れも一斉に動く。

 

 大きな狼が止まると、他も止まった。

 

 横へ首を向ければ、左右のファングウルフが少しずつ広がる。

 

 偶然、同じ場所にいる動きではなかった。

 

「……あれ、群れを動かしてませんか?」

 

「混じっているだけではないな」

 

「率いているな」

 

 レオンハルトは群れの左右へ視線を走らせた。

 

 近くには侯爵軍の兵がいる。

 

 この数の狼を兵へぶつければ、隊列を作る前に乱戦になる。

 

 前方にいる真壁とヴァルトが戻るまで待つ余裕もなかった。

 

 ダイアウルフが姿勢を低くした。

 

 周囲のファングウルフも、ほとんど同時に牙を剥いた。

 

 

 

「レオンハルトさん、私がやります」

 

「分かった。右は俺が見る」

 

 止められると思っていたのに、返ってきたのは短い返事だけだった。

 

 レオンハルトは、澪が《雷》を使えることも、その威力も知っている。

 

 レオンハルトは澪の前へ出ず、右側へ回ろうとする狼へ剣先を向ける。

 

 澪が一人で何体倒せるかを見るのではない。

 

 雷から外れた一頭がいれば、自分が止めるつもりだった。

 

 昨日、一般兵の剣や槍では上位種を止めきれないと確認したばかりだった。

 

 目の前の群れへ兵を当てれば、誰かが牙を受ける。

 

 広がる前に全部を止められるのは、ここでは澪だけだった。

 

 ダイアウルフが地面を蹴った。

 

 群れが動く。

 

 澪は一頭ではなく、広がった群れ全体へ意識を向けた。

 

 青白い光が木々の間を走った。

 

 最初の一頭へ落ちた雷が地面を這い、隣へ、さらに奥へと跳ねる。

 

 吠え声が途中で切れた。

 

 焦げた毛の臭いが風に混じる。

 

 走っていたファングウルフが前のめりに倒れ、その後ろの一頭は脚を震わせながら地面へ伏した。

 

 ダイアウルフも二歩進んだところで身体を強張らせた。

 

 太い脚が折れ、巨体が土を削りながら横倒しになる。

 

 《鑑定》すると、死亡している個体。

 

 麻痺して、息はしていても立てない個体。

 

 気を失い、目を閉じたまま反応しない個体。

 

 結果は一様ではなかった。

 

「……群れごとか」

 

「ちょっと広めにしました」

 

「ちょっと、か」

 

 レオンハルトは右側へ向けていた剣を下ろした。

 

 澪は倒れたダイアウルフへ、もう一度《鑑定》を向ける。

 

---------------------------------------------

ダイアウルフ

 分類:大型狼型魔物

 体長:約3m

 状態:麻痺・行動不能

 脚力:非常に高い

 瞬発力:非常に高い

 嗅覚:非常に高い

 耐久力:高い

 主な攻撃:牙・爪・体当たり

 特徴:ファングウルフの上位種

    複数のファングウルフを率いる

    通常のファングウルフを大きく上回る身体能力を持つ

---------------------------------------------

 

 生きている。

 

 ただし、いつまで麻痺しているかは分からなかった。

 

 

 

「生きてます。回復する前に入れます」

 

「入るのか?」

 

「たぶん。魚と鶏は入ってるので」

 

 レオンハルトが、魚と鶏と目の前の巨体を見比べた。

 

 同じ生き物という括りで考えてよいのか、澪にも少し自信がない。

 

 澪は《生体収納》を開いた。

 

 靄がダイアウルフの巨体を包む。

 

 約3mの身体が土の上から消えた。

 

 入った。

 

 鶏を初めて入れた時とは違う。

 

 収納の中にいるものが、はっきりとこちらを向いているような重さがあった。

 

 それでも、今は収納の奥を調べている場合ではない。

 

 倒れたファングウルフの中には、まだ息をしている個体もいる。

 

 レオンハルトと侯爵軍が周囲を固め、回復して動き出すものがいないかを見張った。

 

 澪が《世界地図》を開くと、前方にいた二つの反応がようやくこちらへ動き始めていた。

 

 

 

 真壁とヴァルトは、後方の手前で足を止めた。

 

 出発した時にはなかった狼の群れが、地面を埋めている。

 

 焦げた毛の臭いも残っていた。

 

 真壁は倒れたファングウルフと、兵の配置を一度見渡した。

 

「何があった」

 

「森の奥から群れが来た」

 

 レオンハルトが剣を収めながら答えた。

 

「澪殿が止めた」

 

 ヴァルトは足元のファングウルフへ《鑑定》を向け、生きている個体と死亡した個体を分けていく。

 

 まだ動けない生存個体の周囲には、小さく結界を張った。

 

 真壁は通常収納へ入る個体だけを回収した。

 

「最初の《魔物寄せ》で動いた群れではありません」

 

 澪は《世界地図》を開いたまま、森の奥を指した。

 

「作動していた間も、この集団だけはずっとここにいました。作戦区画の反応が全部消えたあとで、初めてこっちへ動いたんです」

 

「一団のまま、かね」

 

「はい。ダイアウルフがファングウルフを率いてました」

 

「ダイアウルフは?」

 

「《雷》で麻痺しています。回復する前に《生体収納》へ入れました」

 

 真壁は澪を見たあと、何もなくなった地面へ目を落とした。

 

「そうか」

 

「こちらの《魔物寄せ》は、止めてから一度も動かしていません」

 

 ヴァルトが言った。

 

「誘引中に反応せず、停止したあとで別の場所へ自発的に向かったのなら、こちらが呼んだとは考えにくいですね」

 

 澪の見間違いではなかった。

 

 前方と後方で別々に見ていた情報が、ここで初めて一つにつながった。

 

「そちらは終わったのか」

 

 レオンハルトが尋ねる。

 

「ああ。剣も槍も使っていない」

 

「ギガントベアも収納できました」

 

 ヴァルトの答えに、レオンハルトは前方の森を見た。

 

 一般兵では止めきれないと判断した巨体を、兵士を一人も当てずに処理できた。

 

 第一試験は成功した。

 

 しかし、その結果を喜ぶ前に、森の奥から別の問題が自分たちで歩いてきた。

 

 

 

 周囲の安全を確かめてから、澪は収納内のダイアウルフへ意識を戻した。

 

 麻痺が解けた様子はない。

 

 もう一度《鑑定》する。

 

---------------------------------------------

ダイアウルフ

 分類:大型狼型魔物

 体長:約3m

 状態:麻痺・行動不能

 脚力:非常に高い

 瞬発力:非常に高い

 嗅覚:非常に高い

 耐久力:高い

 主な攻撃:牙・爪・体当たり

 特徴:ファングウルフの上位種

    複数のファングウルフを率いる

    通常のファングウルフを大きく上回る身体能力を持つ

---------------------------------------------

 

 表示は外で見たものと同じだった。

 

 状態も変わっていない。

 

 澪が鑑定を閉じようとした時、その下に薄い何かが残った。

 

 まだ続きがある。

 

 そう意識した途端、別の表示が開いた。

 

━━━━━━━━━━━━

【生体収納・個体管理】

 

対象:ダイアウルフ

状態:麻痺・行動不能

 

個体情報:参照可能

記憶情報:参照可能

統率登録:可能

名称:未設定

━━━━━━━━━━━━

 

「……まだあります」

 

「何がだね」

 

「鑑定の、奥みたいなところです」

 

「見えるのか」

 

 澪は《記憶情報》という文字へ意識を向けた。

 

「記憶……だと思います」

 

 表示が切り替わる。

 

━━━━━━━━━━━━

【記憶情報】

 

参照しますか?

 

 → はい

  いいえ

━━━━━━━━━━━━

 

 澪は一度息を整え、「はい」へ意識を向けた。

 

 自分で選んだ瞬間、文字が消えた。

 

 

 

 最初に来たのは、匂いだった。

 

 湿った土。

 

 獣の毛。

 

 それから、身体を包む暖かさ。

 

 暗い巣穴の中で、まだ目もよく見えない小さな身体が、母狼の腹へ鼻先を押しつけている。

 

 隣では兄弟が乳を奪い合っていた。

 

 自分の記憶ではない。

 

 それなのに、空腹も、母狼の匂いに安心する感覚も、澪の中へ直接入ってくる。

 

 小さな狼は巣穴を出た。

 

 兄弟と転がり、母狼の後ろを歩き、何度も狩りに失敗した。

 

 空腹の夜があった。

 

 初めて小さな獲物を仕留めた時、温かい血の味がした。

 

 季節が重なる。

 

 狼は弱い魔物も狩るようになった。

 

 魔力を帯びた肉を食べるたび、身体の奥へ熱が残る。

 

 脚が速くなった。

 

 牙が伸びた。

 

 身体が大きくなり、いつの間にか普通の狼ではなくなっていた。

 

 ファングウルフ。

 

 その名を狼自身が知っていたわけではない。

 

 澪の鑑定が、変化した姿へ名前を重ねているだけだった。

 

 ある時から、狼は森の奥を意識するようになった。

 

 匂いではない。

 

 音でも、呼び声でもない。

 

 ただ、そちらの方が強い。

 

 行けば、もっと強くなれる。

 

 本能に近い感覚へ引かれ、狼は奥へ進んだ。

 

 さらに狩った。

 

 さらに魔力を帯びた。

 

 脚も、牙も、身体も、また変わった。

 

 ダイアウルフになった頃、他のファングウルフが周囲へ集まり始めた。

 

 狼が歩けばついてくる。

 

 狼が止まれば止まる。

 

 やがて群れになった。

 

 最後に、青白い光が視界を埋めた。

 

 澪は自分の身体へ戻った。

 

 息を吸う。

 

 人間の肺へ森の冷たい空気が入ってきた。

 

「……普通の狼でした」

 

「何?」

 

「生まれた時は、普通の狼です。母親もいて、兄弟もいました」

 

 口にした途端、母狼の腹へ潜り込んでいた小さな身体がまた浮かんだ。

 

 目の前で群れを率いていた魔物と、同じ一頭だった。

 

「途中から魔物へ?」

 

「たぶん。弱い魔物を狩るようになって、少しずつ身体が変わってます」

 

「それで、ダイアウルフに?」

 

「その前にファングウルフになってます」

 

 澪は一度言葉を切った。

 

「それから、森の奥です」

 

「奥?」

 

「もっと強い魔力があるって感じてたみたいです。そこへ行けば、もっと強くなれるって」

 

 真壁とヴァルトが森の奥へ目を向けた。

 

 場所まで分かったわけではない。

 

 地下とも限らない。

 

 それでも、昨日まで見えなかった原因へ、狼は自分の脚で近づいていた。

 

 

 

 澪がもう一度《記憶情報》へ触れると、先ほどとは違う感触があった。

 

 見るだけではない。

 

 母狼の匂いも、兄弟の姿も、森の奥へ向かった感覚も、掴もうと思えば掴めてしまう。

 

 消すことも、別のものへ置き換えることもできそうだった。

 

 管理画面が更新される。

 

━━━━━━━━━━━━

【記憶情報】

 

参照:可能

干渉:可能

━━━━━━━━━━━━

 

 澪が《干渉》へ意識を向ける。

 

━━━━━━━━━━━━

【記憶干渉】

 

対象個体の記憶情報へ干渉します。

 

実行しますか?

 

  はい

 → いいえ

━━━━━━━━━━━━

 

 今度は迷わなかった。

 

「いいえ」を選ぶ。

 

 母狼まで、自分の都合で消せるかもしれない。

 

 その事実に気づいた瞬間、澪の指先が冷たくなった。

 

「これ……読むだけじゃないです」

 

「変更できるのか」

 

「できそうです。でも、やりません」

 

「ああ。それでいい」

 

 真壁は理由を聞かなかった。

 

 個体管理へ戻ると、別の項目も以前より濃く見えた。

 

━━━━━━━━━━━━

【個体能力】

 

能力値干渉:可能

━━━━━━━━━━━━

 

 澪は開かなかった。

 

 何を変えられるのか分からない。

 

 上げられるのか、下げられるのか、別の力へ移せるのかも分からない。

 

 分からないまま、生き物の中身へ手を入れてよいはずがなかった。

 

 その下に《統率個体登録》がある。

 

 意識を向けると、また新しい画面が開いた。

 

━━━━━━━━━━━━

【統率個体登録】

 

登録:可能

個体識別:未登録

名称:未設定

 

名称を付与してください。

━━━━━━━━━━━━

 

 文字を入れるための場所が、空いたまま澪を待っていた。

 

 

 

 ダイアウルフ。

 

 それは、この個体が何であるかを示す名前だった。

 

 けれど、澪は生まれた時からの記憶を見てしまった。

 

 母狼の腹へ潜り込んでいた一頭を、いつまでも種類の名前だけで呼ぶことに違和感が残る。

 

「名前、つけます」

 

「名前?」

 

「鑑定に、名称を付けられるって出てます」

 

「何とするね」

 

 日本の狼。

 

 魔除けとして祀られた、大口真神。

 

 そして、澪のそばにはシロガネがいる。

 

「マカミ」

 

「マカミ?」

 

「真の神って書いて、マカミです。私の国で狼に関係する古い呼び名があります」

 

 澪は空いた名称欄へ意識を向けた。

 

「シロガネもいますし。並べるなら、マカミかなって」

 

 文字が入る。

 

━━━━━━━━━━━━

【名称付与】

 

真神(マカミ)

 

この名称で登録しますか?

 

 → はい

  いいえ

━━━━━━━━━━━━

 

 澪は「はい」を選んだ。

 

 通常鑑定の表示が開き直される。

 

---------------------------------------------

マカミ

 種族:ダイアウルフ

 分類:大型狼型魔物

 体長:約3m

 状態:麻痺・行動不能

 脚力:非常に高い

 瞬発力:非常に高い

 嗅覚:非常に高い

 耐久力:高い

 主な攻撃:牙・爪・体当たり

 特徴:ファングウルフの上位種

    複数のファングウルフを率いる

    通常のファングウルフを大きく上回る身体能力を持つ

---------------------------------------------

 

 名前が変わっただけだった。

 

 体長も、脚力も、耐久力も上がっていない。

 

 麻痺も治っていなかった。

 

 それでも、収納の中にいるものを意識した時の感覚は変わっている。

 

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【統率個体登録完了】

 

名称:マカミ

種族:ダイアウルフ

統率対象:登録済

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 続けて、もう一つ表示された。

 

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【生体収納接続】

 

主接続:篠原 澪

個体側接続:確立

自律出入:可能

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「自律出入……?」

 

 澪はこちらからマカミを見ている。

 

 だが、それだけではない。

 

 麻痺して動けないはずのマカミ側からも、細い何かがこちらへつながっているように感じた。

 

 収納から出して確かめようとは思わなかった。

 

 自律出入が可能でも、今のマカミは《雷》を受けた直後である。

 

 できると表示されたことと、今すぐやらせてよいことは別だった。

 

 

 

 澪の足元に白い影が現れた。

 

 靄は出ていない。

 

 霊体であるシロガネは以前からそうしていたように、何でもない顔で澪の収納から出てくる。

 

 生体収納を得てから初めてつながったマカミとは、最初から仕組みが違う。

 

『名付けたのか?』

 

『分かるんですか?』

 

『分からぬ方がおかしかろう』

 

 シロガネは座り、収納の中にいるマカミを見上げるように顔を上げた。

 

『マカミって付けました』

 

『ほう』

 

『大口真神からです。シロガネもいるので、並べるならこっちかなって』

 

 シロガネの尾が一度だけ地面を払った。

 

『鑑定に、自律出入が可能って出てるんです』

 

『名を得たのであろう』

 

『まだ麻痺してるので、試してませんけど』

 

『それでよい』

 

『名前だけで、そんなことになるんですか?』

 

『名前だけ、ではない』

 

『どういう意味です?』

 

『そのうち分かる』

 

『またそれですか』

 

 いつもなら、そこで話は終わる。

 

 けれど、シロガネはまだ収納の中へ意識を向けていた。

 

『内に置いておけばよい』

 

『収納の中に?』

 

『お主に何かあれば、寝てはおられまい』

 

『え?』

 

 澪が聞き返しても、シロガネは説明しなかった。

 

 細めた金色の目が、澪には見えない大きな狼を見ている。

 

『まぁ、良い番犬になるであろうよ』

 

『番犬……』

 

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