マカミが眷属になってから、数日が過ぎた。
森や侯爵領の敷地など、人目を気にしなくてよい場所では、マカミは澪のそばへ出てくるようになった。
けれど、ゲンダイの街中や大学へ連れていくわけにはいかない。
体長約3mのダイアウルフをキャンパスへ連れていけば、授業どころではなくなる。
その間、マカミは《生体収納》の中で過ごしていた。
自分で出入りできるものの、出てはいけないという澪の意思は伝わるらしい。
それを嫌がる様子もなく、空いている場所で身体を伏せている。
今日も澪が講義の支度をしていると、足元から声がした。
『おい』
「はい?」
『マカミに寝床を作ってやれ』
「寝床?」
机へ置こうとしていたノートを持ったまま、澪はシロガネを見下ろした。
白猫はいつものように前脚を揃え、澪を見上げている。
『いつまでも何もないところへ寝かせておく気か』
澪は《生体収納》へ意識を向けた。
マカミは飼育区画から少し離れた場所で、前脚の間へ鼻先を置いていた。
眠ってはいない。
耳だけは時々動き、周囲の気配を拾っている。
不満や不安が伝わってくるわけではなかった。
ただ、そこは本当に何もない場所だった。
魚には生け簀がある。
鶏には飼育区画があり、植物には畑がある。
マカミだけが、空いていた場所を勝手に寝床へしている。
「……言われてみれば、そうですね」
今まで気づかなかったことが、少し申し訳なくなった。
マカミは森で生きてきた魔物だから、屋根がなければ休めないわけではない。
それでも、自分の眷属になった相手へ、空いている場所を使ってください、で済ませるのは違う気がする。
「じゃあ、犬小屋でも作りますか」
『犬ではないがな』
「シロガネが寝床を作れって言ったんじゃないですか」
『寝床と犬小屋は別だ』
「別なんですか?」
『別だ』
言い出した本人が、最初から面倒だった。
澪は新事業所へ着くと、真壁へ相談した。
「マカミの寝床を作りたいんですけど」
「寝床?」
「シロガネに言われました」
「なるほど」
真壁は妙に納得した顔で頷いた。
理由を聞かないところを見ると、シロガネなら言い出すと思ったらしい。
「大きめの犬小屋でいいかなって」
「澪君」
「はい?」
「あれは3mあるのだろう」
「あります」
「普通の犬小屋では入らんだろう」
「……あ」
分かっていたはずなのに、犬小屋という言葉に引っ張られていた。
マカミが中で立てる高さがいる。
身体の向きを変えられる幅もいる。
脚を伸ばして伏せるなら、奥行きにはさらに余裕が必要だった。
紙へ寸法を書き出していくと、小屋という言葉から遠ざかっていく。
「これ、馬房みたいになりません?」
「相手の大きさを考えれば、そうなるだろうな」
「犬小屋の話だったのに」
「ダイアウルフの寝床だよ」
豪華な建物にする必要はない。
必要なのは雨風ではなく、身体を落ち着けられる囲いだった。
真壁は寸法を見ながら、骨組みの形と必要な部材を決めた。
外側で木材を切り、差し込みやすいよう接合部も加工する。
組み立てる順番が分かるよう、部材ごとに印も付けた。
「ここまで用意すれば、中で配置できるだろう」
「やってみます」
澪は加工を終えた部材を収納した。
真壁ができるのはここまでである。
《生体収納》の中を把握し、内部で物を動かせるのは澪だけだった。
澪は《生体収納》へ意識を沈め、空いている場所へ部材を並べた。
最初に土台を置く。
次に柱を立て、印を合わせて横木を差し込む。
外から準備した固定具を順番に収め、屋根と三方の壁を組み上げた。
正面はマカミが出入りできるよう広く開けてある。
少し離して全体を確かめる。
確かに寝床である。
ただし、大きい。
澪が思い浮かべていた犬小屋のかわいらしさは、どこにもなかった。
これだけ置いて終わると、周囲の何もなさが余計に目立った。
「……寝床だけっていうのも、味気ないかな」
澪は寝床の周りへ、用意しておいた芝を広げた。
走り回るための運動場ではない。
マカミが外へ出て、身体を伸ばして休める程度の広さである。
その端には、大きな水桶を置いた。
水が減れば澪が補充すればよい。
さらに外周へ、背の低い植物を間隔を空けて配置した。
その中に、ラベンダーも少しだけ混ぜる。
人間なら、香りで落ち着くこともあるらしい。
ダイアウルフに同じ効果があるかは分からないので、寝床からは離してある。
嫌がるようなら、すぐ撤去するつもりだった。
すべてを置き終え、澪はマカミへ、こっちへ来て、と意識を向けた。
マカミが立ち上がる。
芝の手前で一度止まり、鼻先を低くした。
匂いを確かめながら芝へ前脚を載せる。
水桶の周りを歩き、縁へ鼻を近づけた。
外周の植物へも顔を向ける。
ラベンダーの近くでは、鼻を一度動かしただけで離れた。
嫌がっている感覚は伝わってこない。
最後に、マカミは大きな寝床へ入った。
中で身体の向きを変え、前脚を伸ばして伏せる。
耳は外へ向けたままだったが、全身から張りつめたものが少し抜けた。
澪へ、薄い安心が返ってくる。
「……気に入ったみたい」
思わず声に出すと、マカミの耳が澪の方へ動いた。
外へ意識を戻した澪は、真壁へ出来上がりを説明した。
「芝を敷いて、水桶を置いて、寝床もできました」
「ほう」
「周りに植物もちょっと置きました」
真壁が一拍置く。
「澪君」
「はい?」
「最初は犬小屋ではなかったかね」
「犬小屋のつもりだったんですけど」
「話を聞く限りでは、だいぶ大掛かりになったようだな」
「3mありますから」
体長のせいにしておけば、たいていのことは説明できそうだった。
『おい』
足元から、また声がした。
「……はい?」
先ほどと同じ呼び方だった。
それだけで、澪は少し嫌な予感がした。
シロガネが金色の目で澪を見上げている。
『私にもよこせ』
「何をです?」
『部屋だ』
「部屋?」
『マカミには作ったであろう』
「マカミは寝る場所がなかったからですよ」
『私にもない』
「シロガネ、今まで好きなところで寝てたじゃないですか」
ベッドの上。
机の上。
窓辺。
澪の膝。
どこでも好きに使っていた。
『それとこれとは別だ』
「別なんですか?」
『別だ』
また同じ理屈だった。
マカミへ寝床を作れと言った時点で、自分の分まで考えていたのではないか。
澪は疑ったが、確かめても素直に答える相手ではない。
「……どんな部屋がいいんですか」
聞いてから、聞かない方がよかったかもしれないと思った。
シロガネは迷わなかった。
『畳だ』
「畳?」
『和室がよい』
「何畳です?」
『8畳はくれ』
「8畳!?」
新事業所に澪の声が響いた。
真壁が机から顔を上げる。
「……私の部屋、六畳間なんですけど」
『それがどうした』
「シロガネの方が2畳広いんですよ?」
『狭いのが嫌なら、お前も広い部屋へ移ればよかろう』
「簡単に言わないでください」
家賃を払うのはシロガネではない。
そもそも、猫のために8畳を用意する話から、澪が引っ越す話になるのがおかしい。
『それと、こたつもだ』
「まだ増えるんですか!?」
『こたつはいる』
「シロガネ、寒くないですよね?」
『それとこれとは別だ』
「便利ですね、その言葉」
シロガネは答えなかった。
マカミの芝生区画から少し離れた場所へ、8畳和室を作ることになった。
真壁は話を聞くと、止めるでも笑うでもなく、必要な部材を数え始めた。
「本当に作るのかね」
「断っても、毎日言われそうなので」
『当然だ』
「ほら」
床を支える枠と、畳8枚。
壁と屋根になる部材。
こたつと座布団。
外側で形と接合部を整え、澪が順番に収納していく。
《生体収納》内では、澪がマカミの区画から少し離れた位置へ土台を置いた。
畳を1枚ずつ並べる。
8枚目を収めた時点で、すでに六畳間より広い。
澪は数え直した。
何度数えても8枚だった。
壁と屋根を組み、こたつを中央へ置く。
座布団は、シロガネが好きな位置へ動かせるよう、こたつの横へ置いた。
これで完成だと思った時、シロガネが口を開いた。
『外を見られる場所も欲しい』
「まだあるんですか?」
『マカミの様子が見えぬ』
澪は少し黙った。
最初にマカミの寝床を気にしたのも、シロガネだった。
「……縁側でいいですか」
『それでよい』
和室の一面へ、小さな縁側を追加した。
そこからなら、少し離れた芝生とマカミの寝床が見える。
完成した区画を、澪は改めて見渡した。
8畳。
こたつ。
座布団。
縁側。
自分よりいい部屋に住む白猫が、誕生しようとしていた。
シロガネの周囲へ靄が広がり、白い姿が消えた。
《生体収納》へ移ったシロガネは、畳の上をゆっくり歩いた。
前脚で畳の感触を確かめ、座布団へ一度載る。
そこへ丸くなるのかと思えば、すぐに降りた。
次に向かったのは、こたつだった。
掛け布団の隙間へ頭を入れ、そのまま白い身体が吸い込まれていく。
最後に尾の先が消えた。
「本当にこたつ必要だったんですか?」
『必要だ』
「絶対いらないと思うんですけど」
『良い部屋だ』
満足しているらしい。
暖を取っているというより、こたつへ入ること自体が目的に見えた。
少し離れた芝生では、マカミが大きな寝床の前へ身体を伏せている。
顎は前脚の上に載せているが、耳は周囲の音に合わせて動いていた。
飼い犬のように気を抜いてはいない。
それでも、澪へ伝わってくる感覚は穏やかだった。
縁側から、シロガネの顔だけが出る。
金色の目がマカミを一度確かめ、またこたつの中へ引っ込んだ。
白い霊体の猫は8畳和室のこたつ。
体長約3mの巨大な雌狼は、芝生と大きな寝床。
妙な組み合わせだが、どちらも落ち着いていた。
畑や生け簀とは違い、そこで何かを作る予定はない。
ただ休んで、好きに過ごすための場所だった。
一通り満足したのか、シロガネは再び靄に包まれ、澪の足元へ戻ってきた。
外へ意識を戻した澪は、真壁へ結果を報告した。
「結局、8畳になりました」
「8畳だったかね」
「はい」
澪は言うか迷った。
けれど、どうしても黙っていられなかった。
「私の部屋、六畳なんですけど」
「君の部屋より広いわけだな」
「言わないでください。ちょっと気にしてるんですから」
真壁が足元のシロガネを見る。
「ずいぶん贅沢な猫だな」
『誰が猫だ』