2027年4月。
武刺大学の構内へ、新入生の姿が戻ってきた。
澪も、経済学部の3年生になった。
案内図を手に立ち止まる学生や、同じ学科らしい相手を探して周囲を見回す学生がいる。
その間を抜けて歩きながら、澪は自分も2年前には同じ顔をしていたのだろうかと考えた。
年度初めのガイダンスは、すでに終わっている。
専門科目とゼミを含めた履修登録も、あとは細かな調整を残すだけだった。
澪は講義室の前で、スマートフォンへ入れた時間割をもう一度開いた。
1、2年の頃ほど、毎日大学へ来る必要はない。
授業の組み方次第では、平日に丸一日空けられる曜日もあった。
「これなら、平日に丸一日動ける日もありますね」
誰に言うでもなく呟いてから、口元が緩んだ。
農家を回るにも、侯爵領で打ち合わせをするにも、まとまった時間がある方がいい。
納品日も組みやすくなる。
普通の大学生なら、空いた日をアルバイトや遊びへ使うのかもしれない。
澪の頭には、最初から押入商会の仕事しかなかった。
時間割の空白を見ると、休みではなく移動可能時間に見える。
午前中にゲンダイで用事を済ませ、午後から侯爵領へ行くこともできる。
授業のない曜日なら、遠方の農家を回っても翌日の講義へ間に合う。
そんな予定を頭の中で組み始めてから、澪は自分が新学期の時間割を見ていたことを思い出した。
大学生活に余裕ができたはずなのに、余裕の分まで仕事で埋まりかけている。
それでも、嫌だとは思わなかった。
そのことを不思議に思わないまま、澪は今年最初のゼミへ向かった。
ゼミが終わり、学生たちが教室を出ていく。
澪もノートを閉じたところで、担当の高槻教授に呼び止められた。
「篠原さん、少しいいかな」
「はい」
何か提出物を忘れただろうかと考えながら、教卓の前へ行く。
高槻は出席簿を閉じ、澪へ椅子を勧めた。
「まだ3年になったばかりだから、すぐに決める話ではないんだが」
「はい?」
「大学院は考えていないのか」
「大学院、ですか?」
予想していなかった言葉に、澪は聞き返した。
「成績のことだけではないよ」
高槻は、ゼミで澪が提出した短いレポートを指で示した。
「君は経営や物流を見る時、教科書の数字だけで考えないだろう」
「そうでしょうか」
「物をどこで止めるか、誰に持たせるか、代金をいつ回収するかまで考えている」
澪には、その理由が分かっていた。
実際に商品を仕入れ、保管し、運んで売っているからである。
相手が支払えない場合や、道そのものが使えなくなる場合まで考えなければならない商売もしてきた。
ただし、取引先の一部が異世界の侯爵家だとは説明できない。
「実際の商売を見てきた人の考え方に近い」
「……ありがとうございます」
「研究として掘り下げても面白いと思ってね」
評価してもらえたことは嬉しかった。
大学院で学べば、今の仕事へ役立つ知識も増えるのかもしれない。
研究という道を想像してみる。
知らないことを調べ、考えたことを文章にして、誰かへ伝える。
それ自体は面白そうだった。
もし押し入れが開かなければ、素直に進学を考えていたかもしれない。
けれど、澪の生活の中心には、もう別のものがある。
会社があり、雇っている人たちがいる。
侯爵領や孤児院で、澪たちが運ぶ品を待っている人もいた。
「ありがとうございます。でも、本業がありますので」
高槻の動きが止まった。
「……本業?」
澪も止まった。
「……あ」
大学3年生が大学院を断る理由としては、かなりおかしい。
「ええと、家の仕事みたいなものです」
「家業を手伝っているのか」
「そんな感じです」
代表取締役です、とは言えなかった。
高槻はそれ以上追及せず、穏やかに頷いた。
「事情があるなら、今決める必要はない」
「すみません」
「謝ることではないよ」
高槻は先ほどのレポートを澪へ返した。
「研究を続けたいと思ったら、いつでも相談に来なさい」
「はい。ありがとうございます」
研究室を出て廊下を歩きながら、澪は両手で顔を覆いたくなった。
「本業って言っちゃいました……」
間違いではない。
間違いではないことが、余計に恥ずかしかった。
数日後、澪は真壁の運転する車に乗っていた。
向かう先は、東都特殊金属試作である。
後部の荷物はすべて澪たちの収納へ入っているため、車内はいつもと変わらない。
大学の話になり、澪は高槻教授との会話を思い出した。
「大学院、勧められました」
「ほう」
真壁は前を見たまま、短く返した。
「断りました」
「そうかね」
「本業がありますのでって」
真壁が一拍黙った。
「……そう言ったのかね」
「言ってから変だって気づきました」
「間違ってはいないだろう」
「大学生の本業って、普通は大学ですよね」
「少なくとも、高槻教授はそう考えただろうな」
「やっぱり変だったんじゃないですか」
真壁はわずかに口元を緩めただけで、笑いはしなかった。
車は東都特殊金属試作の敷地へ入り、来客用の区画で止まった。
今日の本業は、素材の納品で終わるはずだった。
受付を済ませると、鷺沼佳樹が自ら迎えに来た。
以前は営業技術部の課長だったが、今は押入商会の案件を扱う専門部門の部長になっている。
肩書きも担当範囲も変わったが、澪と真壁へ向ける態度は以前と同じだった。
「篠原さん、真壁さん、お待ちしていました」
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
受入区画へ移り、納品する品目と数量を確認する。
素材は規格ごとに分けてあり、鷺沼が用意した一覧とも一致した。
押入商会からの納品は、すでに特別な催しではない。
受け入れる担当者も手順を覚え、確認は静かに進んだ。
「取引が増えたので、こちらも人を増やしましてね」
確認表へ署名しながら、鷺沼が言った。
「専門部門にも、今年から新人が入りました」
「新人さんですか」
「ええ」
鷺沼の表情から、本当に期待していることが分かった。
「今年入った中でも、特に優秀ですよ」
鷺沼は近くにいた社員へ声をかけた。
「宮坂君、少しいいか」
呼ばれた青年が、持っていた端末を置いてこちらへ来た。
年齢は20代半ばほどに見える。
服装は周囲の社員と変わらず、清潔感があった。
「宮坂遼平君です。東京大学を出てましてね」
「覚えも早いですし、今年入った中では特に期待しています」
「宮坂です。よろしくお願いします」
必要以上に頭を下げず、けれど失礼でもない。
声にも表情にも、無理をしている様子はなかった。
「篠原です。よろしくお願いします」
「真壁です。よろしく」
真壁が宮坂と視線を合わせた。
その瞬間、澪には分からないところで《鑑定》が働いた。
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李 昊然(リー・ハオラン)
分類:人間
性別:男
年齢:26歳
国籍:中国
日本名:宮坂 遼平
身分関係:宮坂家養子
学歴:東京大学卒
現在職:東都特殊金属試作
状態:正常
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真壁の目が、ほんの一瞬だけ止まった。
それだけだった。
「こちらは、従来と同じ受入検査でよろしいでしょうか」
宮坂は納品された素材の一つを示した。
「ええ。ただ、今回の分は厚みの指定が違います」
鷺沼が答える前に、宮坂は一覧の該当箇所を開いた。
「こちらですね」
「そうです」
「検査順だけ入れ替えて、同じ設備へ流します」
質問は担当業務の範囲を出ていない。
押入商会について探ろうとする様子もなかった。
説明を一度聞いただけで要点を掴み、必要な作業へ戻っていく。
澪は、その背中を見送った。
鷺沼が期待するのも分かる気がした。
真壁も、いつもと変わらない顔で納品確認を続けていた。
宮坂遼平として東都特殊金属試作へ入ってから、李昊然は一度も急いでいなかった。
専門部門へ配属されたからといって、押入商会の情報がすべて見られるわけではない。
むしろ、情報は予想以上に細かく分けられていた。
材料を受け入れる担当者が知るのは、規格と検査方法までだった。
加工条件は、必要な工程の担当者にしか見えない。
契約と供給量の全体を知るのは、鷺沼を含む限られた管理職だけである。
新人である宮坂へ与えられた権限は、仕事に必要な範囲を一歩も越えていない。
自分が警戒された結果ではない。
配属前の記録を見ても、今の運用は以前から続いている。
会社が組織として情報を分けているのだ。
宮坂は、それを不満には思わなかった。
半年でも一年でもかまわない。
露骨なアクセスを一度行えば、何年もかけて整えた身元と経歴が無駄になる。
東京大学を卒業した経歴は本物だった。
専門知識も、試験を通過するためだけに覚えたものではない。
まずは優秀な社員として働き、周囲から仕事を任されるようになればいい。
情報へ近づくのは、その後でよかった。
ただ、今日会った2人については、記憶へ残した。
篠原澪は、外見だけならどこにでもいる大学生だった。
巨大な取引を動かす会社の代表には見えない。
真壁久忠は、違った。
何を考えているのか、短い挨拶だけでは何も読めなかった。
初めて視線が合った時、何かを見られたように感じた。
だが、真壁の態度には変化がない。
宮坂は、その感覚を自分の緊張だと処理した。
納品作業が終わり、宮坂が受入区画を離れた後だった。
真壁が鷺沼へ声をかけた。
「鷺沼さん、少しよろしいですか」
「はい?」
「できれば、人のいないところで」
鷺沼は理由を尋ねず、小さな会議室へ2人を案内した。
扉を閉め、外から使用中の表示が分かるようにする。
「どうしました?」
「以前、お話しした件です」
鷺沼の表情が変わった。
押入商会との取引が増えれば、その素材と供給元を探ろうとする者が出る。
真壁が以前伝えた、産業スパイへの警告である。
「……まさか」
「宮坂さんについて、静かに確認した方がよいでしょう」
鷺沼はすぐに反論しなかった。
視線を机へ落とし、数秒考える。
「何か分かったのですか?」
「今は申し上げられません」
真壁は、宮坂の本名も国籍も口にしなかった。
《鑑定》で得た情報を、ゲンダイの会社が人事判断へ使える証拠にするつもりもない。
「ですから、彼への対応も変えないでください」
「処分を求めているわけではない、と」
「ええ。現時点では、疑いがあるというだけです」
鷺沼はゆっくり息を吐いた。
「宮坂の仕事ぶりは、本当に優秀です」
「それは私も拝見しました」
「採用時の確認でも、問題は出ていません」
「ならば、なおさら扱いを変えるべきではないでしょうな」
真壁の返答に、鷺沼が顔を上げた。
「以前、真壁さんから言われてから、アクセス権限も見直しました」
「記録も残していますし、押入商会に関する情報は部門内でも分けています」
鷺沼は、強化した内容を必要な範囲だけ説明した。
素材の入荷量を知る者が、契約額まで同時に見られないようにした。
加工条件を扱う担当者にも、供給元の詳細までは渡していない。
誰がいつ資料を開いたかは残るが、社員を疑うためではなく、事故が起きた時に経路を追える形へ変えたという。
宮坂が押入商会の全体像を掴めなかったのは、この運用が実際に機能していたからだった。
「それでよいのです」
「アクセス記録を重点的に確認しますか?」
「彼が本当に優秀なら、そこには何も出ないでしょうな」
鷺沼は黙った。
権限外のフォルダを開く。
大量に印刷する。
私物の端末へ送る。
そのような分かりやすい行動を取る相手なら、通常の記録確認で見つけられる。
しかし、宮坂は仕事の境界を正確に理解していた。
「では、何を確認するんです?」
澪が尋ねた。
「こちらから、彼の仕事の中へ情報を置けばよいのだよ」
「情報を?」
「何もしなければ、何も起こらない情報だ」
「罠ですか?」
「確認だよ、澪君」
真壁は淡々と答えた。
罠という言葉を楽しんでいる様子はなかった。
「本当に何もなければ、彼は仕事をしただけで終わる」
鷺沼が小さく頷いた。
「分かりました」
「こちらでも、通常の管理の範囲で確認します」
「お願いします」
会議室を出る時も、鷺沼の表情は普段どおりに戻っていた。
宮坂が近くを通っても、声の調子一つ変わらなかった。
会社を出て車へ戻ると、澪は助手席の扉を閉めてから真壁を見た。
「宮坂さん、何があったんですか?」
「鑑定した」
真壁は周囲に人がいないことを確かめ、先ほど見た内容を澪へ伝えた。
本名は李昊然。
中国籍。
日本では宮坂遼平という名を使い、宮坂家の養子になっている。
東京大学卒という学歴も、東都特殊金属試作に勤めていることも事実だった。
「でも、中国の人だからっていうだけでは……」
「無論、何の問題もない」
真壁は即座に答えた。
「名前も養子関係も学歴も、表示上は成立している」
「じゃあ、どうして疑ったんですか?」
「それだけなら、疑いもしなかっただろう」
真壁は車を発進させず、ハンドルへ手を置いたまま続けた。
「だが、押入商会の素材を扱う専門部門へ、この時期に入ってきた」
「以前から、素材の出所を探る者が来る可能性は考えていた」
「そこへ、二つの名と慎重に整えられた身元を持つ人物が現れた」
「重なりすぎている、ということですか」
「確認する理由にはなる」
真壁は、断定する理由になるとは言わなかった。
澪は先ほどの宮坂を思い出した。
受け答えは自然で、仕事も速かった。
押入商会へ余計な質問もしなかった。
「私には、全然そう見えませんでした」
「そう見えないようにするのも仕事なのだろう」
「やっぱり、もうスパイだと思ってるんですか?」
「まだだよ」
真壁はそこでようやく車を動かした。
「だから、ゲンダイで通用する形で確かめる」
数日後、真壁と澪は再び東都特殊金属試作を訪れた。
今度は納品ではなく、鷺沼から連絡を受けての訪問だった。
前と同じ小会議室の机に、社内資料を抜いた簡単な見取り図が広げられている。
「まず、現状を確認しておいてください」
鷺沼は図の一部を指した。
受入担当が見られるのは、届いた素材の規格と検査項目まで。
加工担当が扱う資料には、仕入先との契約条件が載らない。
契約担当も、押入商会の保管場所や輸送前の経路は知らない。
情報を分けただけではなく、誰に何を渡したかも案件ごとに残してあった。
「宮坂の権限は、同じ担当の新人と同じです」
「押入商会の案件に関わる時も、その作業に必要な範囲しか見せていません」
「不自然なアクセスは?」
真壁が尋ねた。
「ありません」
鷺沼は迷わず答えた。
「印刷も、外部送信も、担当外の資料を開こうとした記録もないです」
「やはり、そこは当てにできませんな」
「ええ」
鷺沼にも落胆した様子はなかった。
記録に何もないのは、強化した管理が破られていないということでもある。
「確認用の情報を作るとしても、条件があります」
鷺沼は白紙を一枚取り出した。
「本当の技術は使わない」
「会社や取引先に損害が出る内容にも、危険な実験へつながる内容にもしない」
「それから、宮坂が何もしなければ、本人の評価に一切影響させない」
最後の一つを言う時だけ、鷺沼の声が少し強くなった。
優秀だと評価して迎えた部下である。
疑いを告げられたからといって、証拠もなく犯人として扱うつもりはなかった。
「結構です」
真壁が頷いた。
「何も起こらなければ?」
澪が尋ねた。
「この確認では、何もなかったということだよ」
「少なくとも、この情報を理由に彼の扱いを変えることはない」
真壁は当然のこととして答えた。
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
宮坂が無実である可能性も、最初から手順の中に残されている。
「ちょうど来月、新規供給候補の比較をする予定があります」
鷺沼が別の資料を出した。
押入商会との取引が増え、専門部門では補助材や消耗材を含めた仕入先の見直しを進めていた。
候補ごとに規格、価格、供給量、受入検査の準備項目を揃える作業である。
「新人にも振る仕事ですか?」
「はい」
「去年も同じ時期にやっていますし、宮坂だけへ渡しても不自然ではありません」
真壁はすぐには答えず、前年の実施記録と今年の分担案を見比べた。
「宮坂さんだけではいけませんな」
「分かっています」
鷺沼は、すでに複数の社員へ分けた案を用意していた。
他の社員にも、それぞれ別の供給候補を整理させる。
宮坂の権限を広げず、秘密資料を扱うという特別な注意も与えない。
普段からある仕事の一件として、その中へ確認用の候補を入れる形だった。
「これなら、仕事として渡されても変ではないですね」
「ただ、偽の会社を一つ混ぜるだけでは足りません」
鷺沼は分担案の宮坂の欄を見た。
「外で名前を検索されただけなら、偶然かもしれない」
「こちらが知りたいのは、彼へ渡した情報が外へ出たかどうかです」
「ならば、彼にしか渡さない印が要りますな」
真壁の言葉に、鷺沼が頷いた。
そうして作られたのが、実在しない新規供給候補だった。
名称は、北辰新素材研究所。
新しい特殊素材の試作を進めており、東都へ供給を打診していることにする。
素材の性能も、試作品番号も、供給可能量も、すべて架空だった。
本物の製造条件や押入商会の情報は、一つも入れない。
性能欄も、既存素材を少し上回るという程度に留めた。
万一外部へ伝わっても、誰かが危険な試作を始められる内容ではない。
実在する企業や研究者と偶然重ならないことも、東都側で確認した。
宮坂へ渡す資料には、確認用に一つだけ固有の試作品番号を入れた。
同じ番号は、他の社員へ配る資料には使わない。
業務資料として誰へどの番号を配ったかは、鷺沼と社内の管理担当だけが別に記録する。
番号そのものに意味はない。
だが、それが外から戻ってくれば、どの資料を見た者から流れたかを絞れる。
「外から北辰を調べた時は、どこへ行き着くんですか?」
「東都が確認できる窓口です」
鷺沼が答えた。
北辰が公表前の小さな研究組織であるように見える範囲だけ、問い合わせを受けられる形を整える。
そこへ置く説明も、実在する会社や設備にはつながらない。
相手が会社の存在を周辺から調べても、最後に確かめられるのは用意した情報だけだった。
「でも、東都に連絡が来なかったら?」
「来ないでしょうな」
真壁が答えた。
「慎重な相手なら、東都に内部の情報を知っているとは知らせない」
「供給元の方から確かめる、と」
「私ならそうする」
鷺沼は北辰の資料をもう一度見直した。
「では、そちらへ探りが入った時だけ分かるようにしておきます」
架空の資料を作るだけではない。
それが社外へ出た後、慎重な相手が取るであろう順序までが、確認の中へ組み込まれていた。
「よくできていますね」
完成した資料を確認した澪は、感心するより先に少し怖くなった。
見た目は、どこにでもありそうな検討資料だった。
北辰だけ紙質が違うことも、書式が新しいこともない。
社内で実際に使っている様式へ合わせ、承認欄や整理期限も他の候補と同じにしてある。
これを渡された側が、最初から自分だけのために作られたと気づくのは難しい。
「本当の情報は入っていないのだよ」
真壁は資料を閉じた。
「彼が与えられた仕事だけをすれば、それで終わる」
「不正アクセスをしなくても、持ち出したか分かるんですね」
「だからこそ、彼の権限は変えない」
鷺沼が言った。
「特別に見られる資料を増やしたら、それだけで警戒されます」
「それに、権限を破らせるのが目的ではありません」
宮坂は、自分の担当として渡された資料を読むだけでよい。
そこまでは、何も問題のない業務だった。
境目は、その内容を仕事の外へ渡すかどうかにある。
「持ち出したら?」
「その先を見る」
真壁の返事は、前と変わらず短かった。
数日後、鷺沼は宮坂の机へ数件分の資料を置いた。
「宮坂君、これを整理しておいてくれるか」
「新規供給候補ですか?」
「ああ。まだ話が来ている段階だが、比較できる形にしておきたい」
「分かりました」
宮坂は北辰の資料だけを先に取らなかった。
受け取った順に内容を確認し、規格、想定価格、供給量、受入検査で必要になりそうな項目を整理していく。
資料に不足している箇所は、推測で埋めずに空欄とした。
1時間もしないうちに、比較表の骨組みができた。
「早いな」
途中経過を見た鷺沼の評価は、疑いが出る前と変わらなかった。
「形式を揃えただけです」
「それを早く正確にできる人間は、案外少ないんだよ」
「ありがとうございます」
宮坂は素直に礼を言い、作業へ戻った。
北辰新素材研究所。
押入商会とは別系統の、特殊素材供給元候補。
探していたものに近すぎる情報だった。
宮坂は、資料の価値より先に、その都合のよさを疑った。
東都へ入ってから取れなかった情報が、篠原と真壁に会った直後に現れている。
偶然と考えるには、時期がよすぎた。
自分の配属を警戒して用意されたものなら、最初に反応した時点で終わる。
反対に、本物なら見送る損失は大きかった。
宮坂は、どちらかへ急いで決めること自体が危険だと考えた。
それでも、資料を閉じることはしなかった。
与えられた業務として、他の候補と同じように処理する。
試作品番号と供給量は記憶したが、その日のうちに誰かへ伝えることもしなかった。
数日間、宮坂は周囲を見た。
北辰の案件だけが、自分へ与えられた不自然な餌ではないか。
他の社員も別の候補を整理しており、鷺沼は比較表全体を確認していた。
少なくとも表面上は、北辰だけが特別に扱われていない。
宮坂は仕事上必要な質問を一つだけ選んだ。
「鷺沼部長、北辰の件ですが、受入検査の準備は先に進めますか?」
「いや、まだいい」
鷺沼は端末から目を上げ、資料の予定欄を確認した。
「正式に決まったわけじゃない。先方から次の話が来てからでいい」
「分かりました」
答えは自然だった。
だからといって、宮坂は警戒を解かなかった。
出来すぎているという最初の感覚も、捨てなかった。
鷺沼の返答だけで安全だと決めれば、それまでの慎重さが無駄になる。
北辰を担当業務の外へ出さず、さらに数日、社内での扱いだけを見ることにした。
退勤後、宮坂はまっすぐ連絡役のもとへ向かわなかった。
普段と同じ店で夕食を取り、買い物を済ませ、自宅へ戻る。
接触したのは別の日だった。
場所も、外から見れば仕事帰りの人間が立ち寄るだけの小さな飲食店である。
向かいに座った男も、周囲の客と変わらない服装をしていた。
「東都の情報分離は、予想以上です」
宮坂は声を抑え、必要なことだけを伝えた。
「押入商会の製造元は、まだ分かりません」
「篠原澪と真壁久忠には会いました」
「篠原は?」
「普通の大学生に見えます」
「見えるだけか」
「判断できません」
「真壁は?」
「読みづらい人物です」
男は先を促した。
「押入商会とは別に、北辰新素材研究所という供給候補が出ました」
「罠ではないのか」
「可能性はあります」
「なら触るな」
「東都には触れません」
宮坂は即答した。
東都へ試作品について問い合わせれば、社内に情報源がいると知らせることになる。
資料を持ち出すつもりも、担当外の記録を調べるつもりもなかった。
「供給元だけ確認します」
宮坂は、記憶していた試作品番号と供給情報の概要を男へ伝えた。
「直接接触は避けろ」
「裏が取れるまでは、動かない方がいいでしょう」
男も宮坂も、北辰を信じてはいなかった。
ただし、本当に別の供給元が存在する可能性を、確認せず捨てることもできなかった。
「もし向こうが、東都へ問い合わせなかったら分からないんじゃないですか?」
押入商会の事業所で、澪は真壁へ尋ねた。
北辰の資料を渡してから数日が過ぎている。
鷺沼から異常の連絡はなく、宮坂もいつもどおり働いていた。
「東都へ問い合わせるとは思っていないよ」
「え?」
「そんなことをすれば、内部に情報源がいると教えるようなものだからな」
「じゃあ、どこを見てるんです?」
「その先だよ」
真壁は北辰新素材研究所の名が入った資料を指で叩いた。
「外へ出た情報が本物か確かめるなら、供給元を調べる」
「でも、北辰は存在しませんよね」
「存在するように見える入口は用意してある」
東都へ連絡する必要はない。
会社の存在、事業内容、関係者、取引実績を外側から確かめようとすれば、北辰のために用意された窓口へ近づく。
そこで重要なのは、誰が調べたかを無理に突き止めることではなかった。
公開していない試作品情報が、外から現れるかどうかである。
「彼らが慎重であることを前提にしておけばいい」
「真壁さん、最初から東都への問い合わせは待ってなかったんですね」
「待っていれば、何も出ないだろうな」
真壁はそれ以上説明せず、別の書類へ目を移した。
自慢するような口調ではなかった。
澪は、自分が罠だと思っていたものの入口が、東都ではなかったことにようやく気づいた。
外部側も、北辰へいきなり連絡することはしなかった。
まず、会社としての存在を確かめようとした。
公に確認できる記録を当たり、特殊素材分野との関係や過去の取引を周辺から探る。
北辰の名を大きく掲げた場所も、目立った発表も見つからなかった。
しかし、それだけで架空とは決められない。
企業として独立する前の小さな研究組織なら、表へ出る情報が少なくても不自然ではなかった。
連絡役は、東都にも押入商会にも触れないよう念を押した。
東都との取引を尋ねれば、情報の出所を自分たちで明かすことになる。
調べるのは、北辰が実在し、試作品を外へ供給できる立場にあるかどうかだけだった。
最初の探りでは、北辰という名称しか使われなかった。
それだけでは、同じ分野の誰かが偶然たどり着いた可能性を捨てられない。
東都側の管理担当は記録だけを残し、何も判断しなかった。
数日後、別の照会が入った。
今度は、供給予定の有無を確かめる材料として、試作品番号が添えられていた。
一般には公開していない番号だった。
北辰の表向きの説明にも、外から確認できる情報にも載せていない。
管理担当は、鷺沼が保管していた配布記録と照合した。
他の社員へ渡した候補資料には、それぞれ別の番号が入っている。
戻ってきた番号が記された資料を、業務として渡された社員は宮坂だけだった。
問い合わせた者が何者なのかまでは分からない。
宮坂がどのような方法で外へ伝えたのかも分からない。
それでも、社内だけに置いたはずの情報が、想定した経路から戻ってきた。
管理担当は照合結果を保存し、鷺沼へ報告した。
北辰を調べ始めた事実と、宮坂向けの情報が使われた事実が、そこで初めて一つにつながった。
鷺沼から連絡が来たのは、次の納品日を確認した直後だった。
「真壁さん」
電話越しの声は落ち着いていたが、普段より低かった。
「出ました」
「そうですか」
「北辰の方です」
真壁は驚かなかった。
「番号は?」
「宮坂に渡したものと一致しました」
「他の資料には?」
「使っていません」
鷺沼は一つずつ、確認した事実だけを答えた。
「公開情報から出る番号でもありません」
「試作品のことまで知っていました」
連絡を聞いていた澪は、息を止めた。
架空の研究所。
架空の素材。
宮坂にしか渡していない試作品情報。
それが外部から戻ってきた。
「分かりました。予定どおり、何も変えないでください」
「はい」
短いやり取りで電話が終わった。
「……本当に流したんですか」
澪は声を落として尋ねた。
「その可能性は高いな」
「これで宮坂さんを捕まえるんですか?」
「まだだな」
「まだ?」
自分にしか渡されていない情報が外へ出たのなら、十分だと思った。
けれど、真壁は首を横へ振った。
「誰へ渡しているのか分からん」
「宮坂さんだけを辞めさせても、別の人が来るかもしれないってことですか」
「それもある」
真壁は机の上の予定表を閉じた。
「彼一人を追い出して終わるなら、苦労はしないのだよ」
現時点で得たのは、宮坂へ渡した情報が外部へ流れた可能性を示す強い状況証拠である。
本人がどのように伝え、誰が受け取り、どこまで組織がつながっているかは分からない。
宮坂へ疑いを悟らせれば、背後にいる者が消えるかもしれない。
鷺沼も同じ判断をしていた。
宮坂への態度は変えない。
担当業務も、評価も、疑いが出る前と同じにする。
働かせたまま、次にどこへ手を伸ばすのかを見る。
澪には、それが必要だと理解できても、平気なふりをできる自信はなかった。
「次に会った時、普通に挨拶できるかな……」
「してもらわなければ困るな」
「真壁さんはできますよね」
「無論だ」
即答だった。
澪はもう一度、宮坂と挨拶した時のことを思い出した。
あの自然な笑顔の裏で、自分たちの会社や素材の出所を探していたのだとすれば、少し怖い。
それでも、鑑定結果だけで排除していれば、外部へ情報が渡った事実も、背後にいる誰かの存在も見えなかった。
真壁が証拠にこだわった理由が、澪にもようやく分かった。
次に東都特殊金属試作を訪れた時も、社内は何も変わっていなかった。
宮坂は自分の机で、受入検査の記録をまとめている。
作業を終えると端末を持って鷺沼のところへ行き、要点を簡潔に報告した。
鷺沼も、いつもどおり内容を確認する。
「この部分だけ、前回分と並べておいてくれるか」
「分かりました」
声にも表情にも、疑いは出ていない。
2人のやり取りだけを見れば、期待されている新人と、その上司だった。
宮坂が澪と真壁に気づき、軽く会釈した。
澪も反射的に頭を下げた。
「本当に、全然分かりません」
宮坂に届かない声で、澪は呟いた。
「分からないようにするのが仕事なのだろう」
「でも、もう罠に入ってるんですよね」
「まだ入口だよ、澪君」
真壁は宮坂を見ず、納品書へ目を落とした。
宮坂もまた、真壁が自分を見抜いたとは考えていなかった。
初対面で感じた視線は、今も時折思い出す。
しかし、北辰について東都側が何か反応した様子はない。
鷺沼の態度も、担当業務も、入社した時から何一つ変わっていなかった。
外部へは、北辰との直接接触を避けるよう念を押してある。
慎重に周囲から確かめている限り、東都に気づかれる理由はない。
宮坂はそう判断し、目の前の仕事へ戻った。
自分たちが北辰を調べ始めたことを、真壁側がすでに把握しているとは知らない。
そして、価値のある新しい供給元へ近づいたと思っている。
その情報が、最初から宮坂一人のために用意されたものだとも知らなかった。