押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第360話 ただの蛍石ですよ

第360話 ただの蛍石ですよ

 

 数日後、ゼミが終わって学生たちが席を立ち始めたところで、澪はまた高槻教授に呼び止められた。

 

「篠原さん、この前の大学院の話なんだが」

 

 鞄へ入れかけていたノートが、半分だけ口から出たところで止まった。

 

「はい」

 

「少しは考えてくれたか」

 

 忘れてくれてはいなかったらしい。

 

 澪はノートを押し込み、ファスナーを閉めてから教卓の前へ戻った。

 

「考えました」

 

「それで?」

 

「やっぱり、大学院は難しいと思います」

 

 高槻は残念そうに眉を下げたものの、すぐに頷いた。

 

「そうか」

 

 そこで話が終わるかと思ったが、高槻は机の上の資料を片づけながら続けた。

 

「前に、本業があると言っていただろう」

 

「……はい」

 

 そこを覚えていた。

 

「家の仕事みたいなものだとも言っていたが、そんなに忙しいのか?」

 

 前回は勢いで「本業がありますので」と言ってしまい、慌てて家業のようなものだとごまかした。

 

 もう一度同じ説明をすることもできる。

 

 ただ、それをやると次に聞かれた時の言い訳が増えそうだった。

 

 異世界の話をしなければ、会社そのものまで隠す必要はない。

 

 澪は一度だけ教室の入口を見て、残っている学生がいないことを確かめた。

 

「実は、昨年起業したんです」

 

 高槻の手が止まった。

 

「……起業?」

 

「はい」

 

「君が?」

 

「私が代表です」

 

 今度は本当に目を丸くされた。

 

 大学院を勧められた時より、ずっと分かりやすい反応だった。

 

「昨年というと、2年生の時か」

 

「そうなります」

 

 高槻は椅子へ座り直し、澪にも向かいの席を勧めた。

 

「何の会社なんだ?」

 

「特殊な金属材料を輸入して、国内の会社へ卸しています」

 

「金属材料?」

 

「はい、普通にはあまり流通していないものが中心です」

 

 輸入元について聞かれたら困ると思ったが、高槻はそこには踏み込まなかった。

 

「事業は、うまくいっているのか?」

 

「ありがたいことに、かなり」

 

 かなり、と言ったあとで少し控えめだったかもしれないと思った。

 

 しかし、ここで売上の話まで始めたら別の意味で面倒になる。

 

 高槻は背もたれへ体を預け、しばらく澪を見た。

 

「なるほどな」

 

「何でしょう」

 

「君のレポートが妙に現場くさい理由が分かった」

 

「それ、褒められてます?」

 

「褒めているよ」

 

 高槻は笑いながら、先日のレポートを机から取り出した。

 

「物流の話をさせると、君は運賃より先に、荷物が止まった時に誰が困るかを考える」

 

「ああ……」

 

「在庫も、数字だけではなく置き場所と次の入荷を一緒に見る」

 

 言われてみれば、どちらも普段やっていることだった。

 

 荷物が止まれば困る人の顔まで思い浮かぶ仕事を、もう一年近く続けている。

 

「実務をやっているなら納得だ」

 

「大学の課題に出ちゃってましたか」

 

「かなりな」

 

 澪は視線を落とした。

 

 高槻は少し考えてから、レポートを机へ戻した。

 

「むしろ、研究対象としては面白いんだがな」

 

「会社を研究するんですか?」

 

「会社そのものではなくても、実務から疑問を拾える人は強い」

 

 大学院の勧誘が少しだけ復活した気がする。

 

 澪が困った顔をしたのが分かったのか、高槻は手を振った。

 

「今すぐ答えを変えろとは言わないよ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、会社が忙しくても大学は卒業してくれ」

 

「それはちゃんとします」

 

 そこだけは即答した。

 

 高槻が苦笑する。

 

「返事が早いな」

 

「そこは本業じゃなくても大事なので」

 

「今度は言い方が上手くなったな」

 

 教室を出た澪は、廊下でスマートフォンを開いた。

 

 午後の予定には、東都特殊金属試作との打ち合わせが入っている。

 

 大学の話をした直後なのに、空いた時間が仕事へつながっている。

 

 澪は画面を見ながら小さく息を吐いた。

 

「……やっぱり本業ですね」

 

 

 

 宮坂遼平は、北辰新素材研究所の件から数日が過ぎても、仕事の速度を変えなかった。

 

 朝は決まった時刻に来て、机へ鞄を置き、前日に残した案件から片づける。

 

 受入れ記録に不足があれば担当者へ戻し、数字が揃えば次へ回す。

 

 押入商会に関係する資料でも、担当外なら開こうとしない。

 

 鷺沼から見れば、相変わらず手のかからない新人だった。

 

「宮坂君、昨日の比較表見たよ」

 

「何か抜けていましたか?」

 

「いや、逆だ」

 

 鷺沼は紙の端を指で軽く叩いた。

 

「受入れ側が見たい順に並んでるから、このまま使える」

 

「ありがとうございます」

 

 宮坂は短く頭を下げ、それ以上は喜んだ様子も見せず仕事へ戻った。

 

 褒められることそのものが目的ではない。

 

 任せても問題ない社員だと思われることの方が重要だった。

 

 同時に、宮坂は東都側の変化を見ていた。

 

 北辰について外へ伝えたあとも、権限は狭められていない。

 

 担当を外されてもいない。

 

 鷺沼の声の調子も、ほかの社員の距離も変わらなかった。

 

 だからといって、北辰を本物だと決めたわけではない。

 

 あの情報が出てきた時期は、今でも引っかかっている。

 

 篠原澪と真壁久忠に会った直後だった。

 

 特に真壁は、初対面の一瞬だけ妙な感じがした。

 

 見られた、というより、こちら側まで量られたような感覚だった。

 

 しかし、その後の真壁は何もしてこない。

 

 会社へ来ても宮坂を呼びつけず、廊下ですれ違えば普通に会釈するだけだった。

 

 宮坂は違和感を捨てず、同時に違和感だけで仕事を止めることもしなかった。

 

「宮坂君、これも頼めるか」

 

 ある日の午後、鷺沼が薄いファイルを机へ置いた。

 

「次回の評価材ですか」

 

「まだ仮予定だが、受入れ側だけ先に見ておきたい」

 

「分かりました」

 

 中身は、次回評価材の搬入予定と仮の識別番号だった。

 

 宮坂はほかの案件と同じように確認し、必要な欄だけ比較表へ移した。

 

 日付を見ても、番号を見ても、表情は変えない。

 

 その日は、それで終わった。

 

 翌日も何もしなかった。

 

 さらに一日置いてから、仕事上必要な一点だけを鷺沼へ尋ねた。

 

「この予定日は、受入れ設備を空けておく必要がありますか?」

 

「いや、まだいい」

 

 鷺沼は資料へ目を落としただけだった。

 

「確定したらこちらから言うよ」

 

「了解しました」

 

 宮坂はそれ以上聞かなかった。

 

 その後も社内に変化はない。

 

 数日待ち、ほかの案件と同じように予定が流れていくのを見てから、宮坂は初めて外へ情報の一部を伝えた。

 

 その翌朝も、いつもと同じ時刻に出社した。

 

 

 

「二つ目も出ました」

 

 数日後、鷺沼は小会議室の机へ一枚の紙を置いた。

 

 向かいには真壁と澪が座っている。

 

 紙には、宮坂へだけ渡した仮予定と一致する内容が残っていた。

 

 澪は紙を手に取らず、上から覗き込んだ。

 

「またですか」

 

「ええ」

 

 鷺沼は椅子へ深く座り直した。

 

「北辰の時とは別の情報です」

 

 真壁は紙の端を指で押さえ、短く目を通した。

 

「宮坂さんの様子は?」

 

「変わりません」

 

「なら、そのままで結構です、鷺沼さん」

 

 鷺沼は頷いたものの、紙から手を離さなかった。

 

「こちらとしては、かなり黒に見えています」

 

「私も同じですよ」

 

 真壁は否定しなかった。

 

「だったら、もう止めてもいいんじゃないですか?」

 

 澪が口を挟むと、鷺沼も真壁を見た。

 

 真壁はすぐに答えず、二枚の記録を重ねた。

 

「北辰だけでは一つだった」

 

 その上へ、今の紙を置く。

 

「これで二つです」

 

「十分じゃないですか?」

 

「疑うには十分だろう」

 

 真壁は紙を揃えた。

 

「だが、本人へ突きつけるなら、私はもう一つ欲しい」

 

 鷺沼が息を吐いた。

 

「同じものを三回やったら、さすがに気づきませんか」

 

「だから同じ形にはしない」

 

 真壁は鷺沼が用意していた次の案件一覧へ目を移した。

 

 押入商会とは直接関係のない評価案件も混じっている。

 

 その中に、外部との共同評価を検討している案件があった。

 

「これを使えますか」

 

「実在する案件です」

 

「中身を変える必要はない」

 

 真壁が指したのは、日程調整用の欄だった。

 

「宮坂さんへ渡す予定だけ、実際には存在しないものにする」

 

 鷺沼は少し考え、首を横に振った。

 

「一人だけ違う資料を渡すのは不自然です」

 

「では、複数案を作る理由を業務側に置けばよい」

 

 鷺沼は黙って一覧を見直した。

 

 しばらくして、別の欄へ指を移す。

 

「評価先を決める前の比較案なら、担当ごとに候補を分けても不自然ではありません」

 

「それなら良いでしょう」

 

 澪は二人のやり取りを聞きながら、机の紙を見た。

 

 宮坂だけを特別扱いしない。

 

 宮坂が普通に仕事をすれば、何も起こらない。

 

 最初の確認から、真壁が崩していない条件だった。

 

「これで何も出なかったら?」

 

「この確認は、そこで止める」

 

「すでに出た二つを、なかったことにはしないがね」

 

 真壁はあっさり答えた。

 

「では、三つ目が出ないから黒、という決め方はしないんですね」

 

「そんな確認に意味はないだろう」

 

 澪は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 疑いがあるからといって、反応が出るまで餌を置き続けるつもりではないらしい。

 

 

 

「三つ目も、出ました」

 

 さらに数日後、同じ小会議室で鷺沼が言った。

 

 前回よりも声が低い。

 

 宮坂へ渡した候補だけが、社外で確認された記録が机に置かれている。

 

 真壁は一度読んだだけで、紙を鷺沼へ戻した。

 

「これで三つですな」

 

「ええ」

 

 鷺沼は紙をファイルへしまった。

 

「宮坂の勤務態度は、まだ何も変わっていません」

 

「それでよいのです」

 

「正直に言うと、そこが一番気味が悪いです」

 

 鷺沼は苦笑した。

 

「これだけ外で動きが出ているのに、社内では本当に優秀な新人のままですから」

 

 澪にも、その感覚は分かった。

 

 会えば普通に挨拶をし、頼まれた仕事は早く、余計なことも聞かない。

 

 怪しい人物という言葉と、宮坂の姿がまだきれいには重ならない。

 

「これで終わりにしますか?」

 

 澪が聞くと、真壁は足元に置いていた小さなケースを机へ上げた。

 

「情報の確認は、ここまででよいだろう」

 

「じゃあ」

 

「最後に、一つだけ物を使う」

 

 鷺沼の目がケースへ向いた。

 

「物ですか?」

 

 真壁が蓋を開ける。

 

 中には淡い色の透明な結晶が収まっていた。

 

「フローライト?」

 

 澪には見覚えがあった。

 

 東都へ納めているSFP用の小さな光学部品にも使っている鉱物だ。

 

 ただ、ケースの中にあるものは、それよりずっと大きい。

 

「これまでの部品とは用途が違うんですか?」

 

「そう見せる」

 

 真壁はケースを閉じた。

 

「見せる?」

 

「長い光路で使える新しい評価材ということにする」

 

 鷺沼の眉がわずかに上がる。

 

「本物の技術は?」

 

「持ち出されても漏れないようにしてあります」

 

「危険な物でもない?」

 

「ええ」

 

 鷺沼はそこで少し考えた。

 

「もし、これを持ち出されたらどうします」

 

「会社として、管理記録の保全と必要な手続きをお願いします」

 

「出口で止めるのではなく?」

 

「止めれば、宮坂さん一人の行動を確認して終わります」

 

 真壁は閉じたケースへ手を置いた。

 

「知りたいのは、その先です」

 

 鷺沼の顔から、わずかに残っていた迷いが消えた。

 

「東都の人間に、社外まで追わせるつもりですか」

 

「いいえ」

 

「それは別に手配します」

 

「もちろん、法に触れるやり方はしません」

 

「鷺沼さんには、記録を残し、持ち出しが確認できたら会社として必要な手続きを進めていただきたい」

 

 鷺沼はしばらく真壁を見てから、ゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

「ただし、宮坂が手を出さなければ、試料は予定どおり返却するだけです」

 

「それで結構です」

 

 持ち出すところまでが、確認の範囲に入っている。

 

 澪はそこで初めて、真壁が石を見せた理由の重さに気づいた。

 

「宮坂に特別な権限を渡す必要はありますか」

 

「ありません」

 

「なら、評価担当として触らせることはできます」

 

 真壁が頷いた。

 

「それで結構です」

 

 澪はケースと真壁を交互に見た。

 

「これを見せて、何を確認するんです?」

 

「石を見せたいのではないのだよ」

 

 真壁の視線がケースから外れた。

 

「光を見せる」

 

 

 

 東都特殊金属試作の評価室では、装置の冷却ファンが低い音を立てていた。

 

 作業台の中央には、真壁が持ち込んだフローライトが置かれている。

 

 宮坂は手袋をはめ、ケースから取り出された結晶を横から眺めた。

 

「これまでのSFP用とは、かなり大きいですね」

 

「長い光路でどうなるか見たいそうだ」

 

 鷺沼が答えた。

 

「量産の話ではありません」

 

「承知しました」

 

 宮坂は結晶を戻し、測定担当者へ場所を譲った。

 

 余計な質問はしない。

 

 その態度は、ここ数日と何も変わらなかった。

 

 澪は少し離れたところから、真壁と宮坂を交互に見た。

 

 ケースの中身について真壁から聞かされたのは、持ち出されても困らない試料だということだけだった。

 

 何をどう見せるのかは教えられていない。

 

「まず基準を取ります」

 

 測定担当者が通常のフローライトをホルダーへ固定した。

 

 遮光カバーが閉じる。

 

 モニターに出た光点は、中央が明るいものの、周囲へ薄く広がっていた。

 

 担当者が記録を保存する。

 

「基準、取りました」

 

「次をお願いします」

 

 鷺沼の声に、担当者が試料を交換した。

 

 真壁が持ってきた結晶がホルダーへ入る。

 

 カバーが閉じる。

 

 真壁は壁際から動かなかった。

 

 澪が横顔を見ても、何を待っているのかは分からなかった。

 

「照射します」

 

 画面が切り替わった。

 

 澪は思わず一歩近づいた。

 

 さっきまで周囲へぼやけていた光が、今度は中央へ細くまとまっている。

 

 同じ位置から光を入れているのに、出てきた光の広がりが明らかに違った。

 

 数字より先に、画面の形だけで差が分かる。

 

「……収束している」

 

 宮坂の声が小さく落ちた。

 

 鷺沼は画面を見たまま答える。

 

「そう見えるな」

 

 宮坂が数値表示へ顔を寄せた。

 

「試料の形状は基準側と合わせていますか?」

 

「合わせています」

 

「光源条件も?」

 

「変えていません」

 

 担当者の返事を聞き終える前に、宮坂の視線はもう別の欄へ移っていた。

 

 疑うところを順番に潰している。

 

 鷺沼が期待するだけあって、結果だけ見て騒ぐタイプではない。

 

「再測定をお願いできますか」

 

「構いません」

 

 いったん照射が止まる。

 

 担当者は光源条件を呼び上げ、前回と同じ値になっていることを確認してからもう一度測った。

 

 結果はほとんど変わらない。

 

 光点は細いままだった。

 

 宮坂の顔から驚きは消えていた。

 

 代わりに、仕事中の目になっている。

 

 画面を見ながら、口元へ指を当てた。

 

「組成分析は?」

 

「まだ途中です」

 

 鷺沼が答える。

 

「供給できる大きさは、この程度までですか?」

 

「そこも確認中だ」

 

 真壁が短く返した。

 

 宮坂は一度だけ頷いた。

 

「分かりました」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 測定が終わり、遮光カバーが開く。

 

 担当者が結晶を取り出してケースへ戻した。

 

 宮坂は手を伸ばさない。

 

 澪は拍子抜けして、真壁の横へ寄った。

 

「何もしませんね」

 

「仕事中だからな」

 

「もっと気にするかと思いました」

 

「気にしているからこそ、触らないのだろう」

 

 真壁は宮坂の方を見ずに言った。

 

 鷺沼は評価表を閉じ、宮坂を呼び戻した。

 

「宮坂君、この結果をまとめておいてくれるか」

 

「はい」

 

「試料も一緒に管理してくれ」

 

「分かりました」

 

 宮坂はケースを受け取り、管理票へ自分の名前を書いた。

 

 特別な鍵も、特別な注意もない。

 

 ほかの評価材と同じ扱いだった。

 

 ただし、誰に渡したかだけは記録に残る。

 

 澪はその様子を見ながら、自分の肩に力が入っていることに気づいた。

 

 真壁は平然としている。

 

 鷺沼も普段どおりだ。

 

 自然に見えないのは、自分だけかもしれない。

 

 宮坂がこちらを振り返る前に、澪は慌てて評価画面へ視線を戻した。

 

 

 

 宮坂は、その日のうちにフローライトを持ち出さなかった。

 

 翌日も、ケースは社内にあった。

 

 三日目も同じだった。

 

 評価表へ結果を移し、必要な寸法を確認し、決められた場所へ戻す。

 

 それ以上のことはしない。

 

 鷺沼が近くを通れば、ほかの案件と同じように進捗を報告した。

 

「光学側の記録はまとめました」

 

「助かる」

 

「組成の結果が来たら追記します」

 

「頼む」

 

 会話はそれだけで終わった。

 

 けれど、測定画面で見た光は頭から離れなかった。

 

 SFP用の小片とは違う。

 

 大きな結晶を通ったあと、光が目に見えてまとまっていた。

 

 装置側の仕掛けは疑った。

 

 測定担当者との示し合わせも考えた。

 

 だから一度目の結果では判断せず、再測定を求めた。

 

 条件を確認しても結果は同じだった。

 

 それでも真壁が持ち込んだ物だという一点だけは消えない。

 

 宮坂はさらに待った。

 

 鷺沼の態度に変化はない。

 

 担当業務も変わらない。

 

 北辰以降の情報についても、会社側が自分を疑っている兆候は見つからなかった。

 

 数日後、宮坂は連絡役と会った。

 

 前と同じように、仕事の延長にしか見えない短い時間だった。

 

「新しい試料が出ました」

 

「何だ」

 

「フローライトです」

 

 男の目が少しだけ動いた。

 

「すでに扱っている物だろう」

 

「今回は大きさが違います」

 

 宮坂は測定で見た結果だけを話した。

 

 入射した光が、通過後に明らかにまとまったこと。

 

 再測定でも同じだったこと。

 

 現物が自分の担当サンプルとして社内にあること。

 

「罠ではないのか」

 

「可能性はあります」

 

「なら触るな」

 

 即答だった。

 

 宮坂も反論しなかった。

 

「承知しました」

 

「測定条件と結果を、覚えている範囲で出せ」

 

 宮坂は、光源条件、試料の大きさ、再測定で結果が変わらなかったことを順に伝えた。

 

 資料も写真も持ち出していない。

 

 口頭で説明できる範囲だけだった。

 

「現物を確認できれば、装置側の細工かどうかは切り分けられます」

 

「分かっている」

 

 男は宮坂の言葉を遮った。

 

「だからこそ、おまえが決めるな」

 

 宮坂は黙った。

 

「この数字は上へ回す」

 

「外の技術担当にも見せた上で、現物へ手を出す価値があるか判断させる」

 

「返却期限は?」

 

「来週です」

 

「それまでに答えを出す」

 

 男の声は低いままだった。

 

「許可がなければ、何があっても触るな」

 

「はい」

 

 宮坂は、それ以上一言も足さなかった。

 

 東京大学を卒業し、東都へ入り、周囲から信頼を得るまでに使った時間は短くない。

 

 一個の石を前にした個人の判断で、それを捨てるつもりはなかった。

 

 話はそれで終わった。

 

 宮坂は店を出たあとも、歩く速さを変えなかった。

 

 現物確保に任務上の価値があるかを決めるのは、もう宮坂ではない。

 

 それでも、命令が出た時に従うかどうかだけは、自分で決めなければならなかった。

 

 

 

 三日後、宮坂は再び男と向かい合った。

 

 前とは違う店だったが、周囲には仕事帰りの客しかいない。

 

 男は飲み物へ口をつけず、短く告げた。

 

「上の判断が出た」

 

 宮坂は返事を待った。

 

「報告された結果が事実なら、現物を調べる価値がある」

 

「装置側の細工である可能性は残っています」

 

「承知の上だ」

 

「普通のフローライトだった場合も?」

 

「その時は、東都がこちらを炙り出すために用意した物だと判断できる」

 

 どちらへ転んでも、情報にはなるということだった。

 

「小片ではなく、報告どおりの大きさで同じ性質が出るなら、用途はこれまでとは比べものにならない」

 

「同じ機会が、もう一度来る保証もない」

 

 技術担当の評価も、上の判断も、その二点で一致したらしい。

 

「現物を確保しろ」

 

 男はそこで初めて、宮坂の目を正面から見た。

 

「ただし、社内に一つでも変化があれば中止しろ」

 

「持ち出した時点で、今の身分には戻れません」

 

「分かっている」

 

「その損失も含めた決定だ」

 

「回収後の準備も進める」

 

 どこへ行き、誰と会うのかまでは、その場で告げられなかった。

 

 宮坂自身も聞かなかった。

 

 知る必要のない情報を先に持つことは、危険を増やすだけだった。

 

「断るなら、今だ」

 

 宮坂はすぐには答えなかった。

 

 宮坂遼平として積み上げた経歴。

 

 東都で得た信用。

 

 それを捨てる重さは、誰より自分が知っている。

 

 それでも、その身分は最初から任務のために用意されたものだった。

 

「受けます」

 

 答えた声は、普段と変わらなかった。

 

 

 

 さらに数日が過ぎた。

 

 フローライトのケースは、宮坂の机の脇にある保管棚と評価室を行き来した。

 

 鷺沼は一度も急かさなかった。

 

 真壁も姿を見せない。

 

 押入商会から別の納品があった日にも、宮坂の前へ来たのは通常の受入れ資料だけだった。

 

 返却期限だけが近づいていた。

 

「結果、今日中にまとめられそうか?」

 

 午後、鷺沼が宮坂の画面を覗いた。

 

「はい、あと一項目です」

 

「終わったら試料も戻しておいてくれ」

 

「分かりました」

 

 それだけだった。

 

 宮坂は画面へ視線を戻した。

 

 返却すれば、試料は次の担当へ移る。

 

 もう一度自分の手元へ来る保証はない。

 

 夕方になり、周囲の席が少しずつ空き始めた。

 

 遠くで椅子が机へ収まる音がした。

 

 複合機の動作音も止まり、部屋の空調だけが残る。

 

 宮坂は評価表を保存し、会社の端末を閉じた。

 

 机の上には、フローライトのケースが残っている。

 

 蓋の上には管理番号。

 

 中にあるのは、何度見ても普通の鉱物にしか見えない。

 

 ケース越しに見ただけでは、測定画面に出た違いを説明できるものは何もなかった。

 

 罠の可能性は、最後まで消えていない。

 

 それでも組織は、今の身分を失う危険より、現物を確かめる価値の方が大きいと判断した。

 

 宮坂の役割も、長く東都へ残ることから、試料を確保して離れることへ変わっている。

 

 宮坂は時計を見た。

 

 次にケースを見るまで、少し間が空いた。

 

 その間にも、社内の空気は変わらない。

 

 鷺沼の態度も、周囲の視線も、担当業務も昨日までと同じだった。

 

 わずかでも異常があれば中止するつもりだった。

 

 だが、中止する理由は一つも見つからなかった。

 

 宮坂はケースを手に取った。

 

 翌朝、東都の社員がそのケースを見ることはなかった。

 

 

 

 翌朝、始業時刻を過ぎても宮坂は来なかった。

 

 鷺沼が時計を見たのは、いつもの席が空いたままだったからだ。

 

 遅刻の連絡はない。

 

 電話をかけてもつながらなかった。

 

 最初のうちは、体調不良か交通事情だと思った。

 

 宮坂は無断で仕事を放り出すような社員ではなかったからだ。

 

 三十分を過ぎても状況は変わらない。

 

 鷺沼は宮坂の机へ向かった。

 

 会社の端末は残っている。

 

 前日に使った資料も、決められた場所へ戻されていた。

 

 画面脇のメモには、処理済みの案件へ小さく印まで付いている。

 

 仕事だけ見れば、昨日も最後まで普段どおりだった。

 

 鷺沼は評価材の管理記録を開いた。

 

 宮坂へ貸し出したフローライトに、返却の記録がない。

 

 保管棚を確認する。

 

 評価室にもない。

 

 担当者へ聞いても、昨日は返されていないという。

 

 鷺沼はそこで、もう一度宮坂へ電話をかけた。

 

 やはり応答はなかった。

 

 午前が終わっても連絡はつかない。

 

 社内で確認できる範囲を当たっても、所在は分からなかった。

 

 鷺沼は社内保安と法務への連絡、記録の保全、警察へ届ける準備を担当者へ頼み、自分は会議室へ入った。

 

 扉を閉めてから、別の番号を呼び出す。

 

「真壁さん」

 

『鷺沼さん、どうしました』

 

「宮坂が出社していません」

 

 電話の向こうで間はなかった。

 

『連絡は?』

 

「つきません」

 

『サンプルはありますか』

 

 鷺沼は手元の管理画面を見た。

 

「ありません」

 

『フローライトですね』

 

「はい」

 

 そこで初めて、鷺沼は背もたれへ深くもたれた。

 

「会社として必要な対応はこちらで進めます」

 

『お願いします』

 

「真壁さん」

 

『はい』

 

「これで、あなたの見立てどおりだったということでしょうか」

 

 少しだけ間があった。

 

『少なくとも、本人の行動として確認すべきものは出ましたな』

 

 鷺沼は目を閉じた。

 

 優秀な新人だったという評価まで、嘘だったわけではない。

 

 むしろ仕事ができたからこそ、社内で普通に任せられる範囲まで来ていた。

 

「正直、残念です」

 

『そうでしょうな』

 

 真壁はそれ以上何も言わなかった。

 

 慰められるより、その方が鷺沼にはありがたかった。

 

 

 

 鷺沼からの電話が終わると、澪は真壁がスマートフォンを机へ置くのを待って声をかけた。

 

「持っていったんですか?」

 

「そのようだな」

 

「でも、あれはまずくないですか?」

 

「何がだね」

 

「フローライトです」

 

 澪は評価室の画面を思い出した。

 

 基準試料では周囲へ広がっていた光が、あの結晶を通した時だけ細くまとまった。

 

 SFP用の小片とは比べものにならない大きさだった。

 

 あのまま分析されれば、押入商会が隠してきた部分へ手をかけられるかもしれない。

 

「あんな性能の物を、そのまま持っていかれたんですよね?」

 

「澪君」

 

「はい?」

 

「あれはただの蛍石だよ」

 

 澪は真壁を見た。

 

「……はい?」

 

「宮坂さんが持っていった物は、魔石化していない普通のフローライトだ」

 

「でも、測った時は収束してましたよね」

 

「測定中だけ入れ替えた」

 

 真壁は何でもないことのように言った。

 

「遮光カバーが閉じている間だけ、完全魔石化した方を入れていた」

 

 澪の頭の中で、あの日の評価室が巻き戻った。

 

 真壁は装置へ近づいていない。

 

 けれど、それは真壁には必要ない。

 

 閉じたカバーの内側で試料だけを収納し、別の物を同じ位置へ出していた。

 

「収納……」

 

「そういうことだ」

 

「じゃあ、最初から?」

 

「最初からだ」

 

「私にも言ってませんでしたよね」

 

「言えば、宮坂さんが試料を持った時に顔を見るだろう」

 

「見ません」

 

 澪は反射で言い返した。

 

 真壁は何も言わない。

 

 その沈黙が腹立たしい。

 

「……たぶん」

 

「だから言わなかったのだよ」

 

「そこで納得しないでください」

 

 張りつめていたものが一気に抜け、澪は椅子へ座り直した。

 

 机の上のペンを一度転がし、また元へ戻す。

 

「向こうで測ったら、普通の結果しか出ませんよね」

 

「そうなるだろうな」

 

「絶対、おかしいと思いますよ」

 

「東都では二度測っている」

 

「だから余計にですよ」

 

 宮坂側が疑うのは装置か、持ち帰った試料か、それとも別の理由か。

 

 どこへ答えを求めるかまでは分からない。

 

「これで、宮坂さんのことは確定ですか」

 

 澪が尋ねると、真壁の表情からわずかな笑みが消えた。

 

「本人の行動としては十分だろう」

 

 偽情報だけなら、どこか別の経路から漏れた可能性を最後まで残せた。

 

 今回は違う。

 

 自分の担当として預かった現物を返さず、そのまま姿を消した。

 

「鷺沼さん、かなり落ち込んでましたね」

 

「本当に評価していたからな」

 

 真壁の返事は短かった。

 

 澪も、宮坂と初めて会った日のことを思い出した。

 

 質問は的確で、仕事も早かった。

 

 あの部分まで演技だったとは思えない。

 

「仕事ができたことまで、嘘だったわけじゃないんですね」

 

「そこまで否定する必要はないだろう」

 

 真壁は机の書類を閉じた。

 

「でも、逃げられました」

 

「東都から見れば、そうなるな」

 

「真壁さんから見れば違うんですか?」

 

「持って出るところまでは、想定していた」

 

 澪は評価前の会議を思い出した。

 

 社外へ出た後を確認する手は、別に用意する。

 

 真壁は確かにそう言っていた。

 

「追うんですか?」

 

 真壁はすぐには答えず、机の端を指で一度叩いた。

 

「あの石そのものには価値がない」

 

「はい」

 

「だが、宮坂さんは価値があると思って持っていった」

 

 澪は頷いた。

 

 蛍石を集めたかったわけではない。

 

 東都で見た性能を信じたから、今まで築いた立場を捨ててまで持ち出した。

 

「なら、見せる相手がいる」

 

 澪が口にすると、真壁が小さく頷いた。

 

「あるいは、調べる場所がある」

 

「宮坂さんの後ろですね」

 

「そこまでは、まだ分からん」

 

 真壁は即座に線を引いた。

 

「今分かっているのは、彼があれを持って消えたことだけだ」

 

 澪はそこで口を閉じた。

 

 北辰の時にも、先に答えを決めようとして真壁に止められたことを思い出した。

 

「じゃあ、次は?」

 

 澪が聞く。

 

 真壁は机の上のスマートフォンへ視線を落とした。

 

「問題は、次に誰の手へ渡るかだな」

 

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