押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第361話 何も起きません

 

 机の上に置かれたケースは、東都特殊金属試作から持ち出された時のままだった。

 

 蓋に貼られた管理番号も、宮坂遼平の名で受け取った時と変わっていない。

 

 宮坂――李昊然は、ケースから手を離した。

 

「これです」

 

 向かいに立つ女が白い手袋をはめ、留め具を外した。

 

 陳佳琳。

 

 結晶材料と光学材料を専門とする、国家先端産業情報局第三処の協力技術者であり、材料分析主任を務めている。

 

 ここがどこなのか、李は正確には知らされていない。

 

 分かるのは、持ち込まれた材料を分析するための設備が揃っていることだけだった。

 

 陳が蓋を開く。

 

 緩衝材の中央に、淡い色の透明な結晶が収まっていた。

 

 見た目は、どこにでもあるフローライトと変わらない。

 

「東都では、どんな結果だったの?」

 

「通常品と比べて、横へ逃げる光が明らかに少なくなりました」

 

 李は、評価室で見た画面を思い出しながら答えた。

 

「正面側へ出る光が増えて、光の広がりも小さくなっています」

 

「一度だけ?」

 

「再測定を頼みました」

 

「条件は?」

 

「光源も試料位置も同じです」

 

 陳は短く頷き、結晶を光へかざした。

 

 表面を角度ごとに確かめ、欠けや曇りを見ていく。

 

 その少し後ろで、第三処の日本担当を預かる周明宇は何も言わず二人を見ていた。

 

 李が日本で直接連絡を取る相手は、原則として周だけだった。

 

 北辰新素材研究所の名が出た時、最初に罠を疑ったのも周である。

 

 今回も、現物を確保する価値があるか上へ判断を求めたのは周だった。

 

 陳がケースの管理番号を読み上げる。

 

 李は間違いないことを確認した。

 

 東都の管理票で見た数字と、最後の一桁まで同じだった。

 

 ケースの小さな擦り傷にも見覚えがある。

 

 別の箱を渡された可能性は低い。

 

 李はそう判断していたが、陳は本人の記憶だけを根拠にはしなかった。

 

 重さを量り、寸法を記録し、ケースに残された以前の記載とも照合する。

 

 急ぐ様子はない。

 

 第三処から求められているのは、期待された答えではなく、現物から得られる答えだった。

 

「外観上、変わったところはないわね」

 

 陳は結晶を測定用の台へ移した。

 

 機器が動き始め、低い音が室内へ広がった。

 

 李は画面から目を離さなかった。

 

 東都で最初の光点が出た時は、驚きより先に測定条件を疑った。

 

 だから、光源も試料の形も確かめた。

 

 再測定まで頼んだ。

 

 それでも差は消えなかった。

 

 あれが装置側の演出でないなら、この石に何かがある。

 

 第三処も、同じ判断をしたからこそ現物の確保を命じたはずだった。

 

「基準を取ります」

 

 陳が通常のフローライトを装置へ入れた。

 

 画面に、中央から周囲へ薄く広がる光が映る。

 

 数値が安定するまで待ち、陳が記録を残した。

 

 次に、李が持ち帰った結晶へ交換する。

 

「始めます」

 

 画面が切り替わった。

 

 李は黙って結果を待った。

 

 光は結晶を通り、正面側へ抜ける。

 

 同時に、周囲へも広がった。

 

 先ほどの基準と、大きな違いはない。

 

 陳が数値を確認する。

 

 横へ抜ける光も、正面側の出力も、通常のフローライトとして説明できる範囲に収まっていた。

 

 正面側の数字がわずかに動くたび、李の目が止まる。

 

 しかし、陳はその一つずつを基準側の揺れと比べて消していった。

 

 差に見える数字だけを拾えば、それらしい結論は作れる。

 

 同じ条件で繰り返せば、その差は残らなかった。

 

「もう一度やります」

 

 李が口を開くより先に、陳が言った。

 

 試料の位置を確かめ、光源条件を呼び出す。

 

 最初から測定をやり直した。

 

 結果は変わらない。

 

 東都で見たような差は、どこにも出なかった。

 

「条件を変えます」

 

 陳は別の範囲でも確認した。

 

 それでも、基準との差は誤差の中に収まる。

 

 周は途中で一度も口を挟まなかった。

 

 李も、三度目が終わるまで待った。

 

「結果は?」

 

 初めて周が尋ねた。

 

 陳は画面から視線を外した。

 

「何も起きません」

 

 室内に、機器の作動音だけが残った。

 

「もう一度お願いします」

 

 李は自分でも、声が硬くなったのが分かった。

 

「すでに三つの条件で確認しています」

 

「東都では出たんです」

 

「あなたが嘘を言っているとは言っていません」

 

 陳は感情を動かさず、二つの結果を並べた。

 

「でしたら、東都とここで何かが違います」

 

「試料は同じです」

 

「少なくとも、今ここにある試料からは、あなたが見た結果は出ません」

 

 陳が結晶をケースへ戻す。

 

「組成も確認します」

 

 その言葉に、李は頷くしかなかった。

 

 

 

 分析には、さらに時間がかかった。

 

 李と周は途中で一度部屋を出され、結果が揃ってから呼び戻された。

 

 待っている間も、周は予測を口にしなかった。

 

 李も、自分から東都で見た結果を繰り返そうとはしなかった。

 

 何度説明しても、今ここにある石の性質は変わらない。

 

 結論は、最初の光学測定よりも簡単だった。

 

「フッ化カルシウムです」

 

 陳は結果を一枚ずつ送った。

 

「目立った添加元素はありません」

 

「表面も、特別な加工が施されているようには見えません」

 

「内部は?」

 

 周が尋ねる。

 

「この結果だけなら、普通のフローライトです」

 

「加工で性質が変わっている可能性は?」

 

「可能性という言葉だけなら、何にでも使えます」

 

 陳はケースの中の結晶を見た。

 

「でも、今の結果に、未知の加工を持ち出す理由はありません」

 

「光学特性も組成も、普通の石として説明できます」

 

 李は黙っていた。

 

 管理番号は合っている。

 

 東都で預かったあと、別の試料と取り違えたこともない。

 

 会社を出る直前まで、ケースは自分の管理下にあった。

 

 それなのに、石は普通だった。

 

 東都で見た測定結果だけが、現在の分析から浮いている。

 

「東都の装置に細工があったと思う?」

 

 陳が尋ねた。

 

「疑いました」

 

「その場では?」

 

「はい」

 

 李は、測定担当者へ再測定を頼んだ時のことを話した。

 

 条件を確認し、同じ試料を続けて測ったこと。

 

 二度とも、通常品より横へ逃げる光が少なかったこと。

 

 陳は最後まで聞き、結果の横へ短い所見を足した。

 

「なら、現物だけ見ても答えは出ないわね」

 

 その言葉で、李の中に残っていた疑いが一つの形を取った。

 

 北辰新素材研究所の情報が出た時から、出来すぎているとは思っていた。

 

 それでも東都の社内に変化はなく、二つ目、三つ目の情報も自然な業務の中へ置かれていた。

 

 最後に渡された試料も、評価担当として扱って不自然ではなかった。

 

 自分は警戒を解かなかった。

 

 第三処も罠の可能性を理解した上で、現物には確認する価値があると判断した。

 

 それでも、今ここにあるのは普通の蛍石だった。

 

 罠を疑っていたことは、罠へ入らないことを意味しない。

 

 警戒した上で、組織として価値があると判断し、正しい手順で命令を受けた。

 

 李個人の焦りで現物を盗んだわけではない。

 

 それでも相手が、その判断の先まで用意していたのなら、警戒の有無は結果を変えなかった。

 

「罠だったということか」

 

 李が呟く。

 

 周は肯定しなかった。

 

「何をされたか分からないうちは、断定するな」

 

「はい」

 

「分からないものを、分かったことにする方が危険だ」

 

 陳が分析結果を閉じた。

 

 石から答えを得る作業は、そこで終わった。

 

 

 

 別室へ移ると、周は李の正面へ座った。

 

 机の上には何も置かなかった。

 

「宮坂遼平は、もう使えない」

 

「分かっています」

 

 無断欠勤だけではない。

 

 担当していた評価材を返さず、会社から姿を消した。

 

 東都へ同じ名前で戻れる余地はなかった。

 

「惜しいか」

 

 周の問いに、李はすぐには答えなかった。

 

 東京大学を卒業した経歴は本物だった。

 

 宮坂家との養子関係も、書類の上だけに作られたものではない。

 

 日本で暮らし、学び、東都の採用を通った。

 

 専門知識を身につけた時間も、周囲から信用を得るために働いた時間も、消せるものではなかった。

 

 鷺沼から仕事を任されるようになったのも、演技だけで得た評価ではない。

 

 朝に同じ門を通り、同じ席へ座る生活も終わった。

 

 同僚と交わした何気ない会話も、次の評価材について考えながら帰った夜も、宮坂遼平の側へ残される。

 

 李昊然として持ち帰れたのは、一個の普通の石だけだった。

 

「東都では、もう少し時間をかけられると思っていました」

 

「私もだ」

 

 周は慰めなかった。

 

 李も、慰めを求めてはいなかった。

 

「試料から目を離した時間は?」

 

「測定中です」

 

「どの程度だ」

 

「遮光カバーが閉じている間は、内部を直接見ていません」

 

「その間に入れ替えられた可能性は?」

 

 李は評価室を思い返した。

 

 測定担当者は操作盤の前にいた。

 

 鷺沼も澪も、装置へ近づいていない。

 

 真壁は壁際から動かなかった。

 

 遮光カバーが閉じていた時間だけで、試料を別の物へ替え、測定後に元へ戻す。

 

 目の前にいた人間の動きだけを考えれば、不可能だった。

 

「人の手で入れ替えたとは考えにくいです」

 

「装置側は?」

 

「仕掛けがあった可能性はあります」

 

「ほかには」

 

「測定前の処理、温度、光源側の機構」

 

 李は思いつくものを挙げた。

 

 しかし、どれも東都で見た結果と今の石を一つにつなぐには足りない。

 

 何らかの条件が揃っている時だけ性質が変わるのかもしれない。

 

 そもそも石には何もなく、測定結果の方を見せられただけかもしれない。

 

 それなら、なぜ自分が再測定を頼むことまで許したのか。

 

 考えるほど、可能性だけが増えていく。

 

「分かりません」

 

 李は最後にそう答えた。

 

 周は表情を変えなかった。

 

「なら、そう報告する」

 

「私の判断で、身分を一つ失いました」

 

「違う」

 

 周が遮る。

 

「現物確保は上の判断だ」

 

「おまえは、変化があれば中止しろという条件を守った」

 

「変化を見抜けませんでした」

 

「見抜けなかったのが、おまえだけだと決まったわけではない」

 

 周は立ち上がった。

 

「失敗の形を整えるために、事実を曲げる必要はない」

 

 怒鳴り声も、処罰を匂わせる言葉もなかった。

 

 その方が、李には重かった。

 

 何をされたか分からない。

 

 それが、現時点で最も正確な報告だった。

 

 

 

 宮坂の失踪から数日後、澪は真壁とともに東都特殊金属試作を訪れた。

 

 以前と同じ建物なのに、専門部門の一角だけ空気が違って見えた。

 

 宮坂が使っていた机から、私物はすでに片づけられている。

 

 会社の端末と文房具だけが残り、椅子はきれいに机の下へ収められていた。

 

 急に消えた人の席とは思えないほど整っている。

 

「引き継ぎで困るような残し方はしていませんでした」

 

 鷺沼は端末の画面を見ながら言った。

 

「処理した案件には印がある」

 

「途中のものは、次に何を確認すべきかまで書いてある」

 

「本当に、仕事はできたんですよ」

 

「そうでしょうな」

 

 真壁は静かに答えた。

 

 鷺沼が椅子の背へ手を置く。

 

「そこが余計に腹が立つんです」

 

 声を荒らげてはいない。

 

 けれど、澪がこれまで聞いた鷺沼の声より低かった。

 

「仕事が遅いなら、こちらも早く気づけたなんて話ではありません」

 

「覚えが早くて、確認も細かくて、ほかの社員から質問されれば普通に教えていた」

 

「あれまで全部、嘘だったとは思えないんです」

 

「嘘ではなかったのでしょう」

 

 真壁は宮坂の机を見た。

 

「技術を知らなければ、あの仕事はできません」

 

「真面目に働いていた時間があったことと、会社を裏切ったことは別です」

 

 鷺沼が苦く笑った。

 

「分けて考えるしかありませんか」

 

「混ぜれば、仕事ができたという鷺沼さんの評価まで間違いだったことになる」

 

「それは違うでしょう」

 

「……ええ」

 

 鷺沼は椅子から手を離した。

 

 澪も、初めて宮坂に会った日のことを思い出した。

 

 押入商会へ不自然な興味を示すことはなく、担当者として必要なことだけを尋ねていた。

 

 その時の澪には、本当に感じのいい優秀な新人にしか見えなかった。

 

 今でも、あの記憶と産業スパイという言葉が同じ人物の中でうまく重ならない。

 

「外の確認についても、報告が来ています」

 

 鷺沼が二人を小会議室へ案内した。

 

 扉を閉めてから、薄い報告書を机へ置く。

 

 真壁が別に手配すると言っていた、会社の外へ出たあとの確認だった。

 

 東都の社員を動かさず、依頼を受けた専門家が法の範囲で確認した内容だけが記されている。

 

「宮坂は、一人で消えたわけではありません」

 

 鷺沼が一枚目を開く。

 

「会社を離れたあと、別の人物と接触しています」

 

「サンプルも、その相手へ渡った可能性が高いそうです」

 

「相手は分かったんですか?」

 

 澪が尋ねる。

 

「いいえ」

 

 鷺沼は首を振った。

 

「確認できたのは、宮坂とは別の人物が関わっているところまでです」

 

「その先は追えなかった?」

 

「無理に踏み込ませてはいません」

 

 真壁が報告書へ目を通す。

 

「それで十分です、鷺沼さん」

 

「十分ですか」

 

「少なくとも、宮坂さん一人の思いつきで石を持ち出したのではないと考える理由にはなる」

 

「組織がいるんでしょうか」

 

 澪の言葉に、真壁はすぐ頷かなかった。

 

「協力者がいることと、組織の全体像が分かることは別だよ」

 

「今は、後ろに誰かがいた可能性が高いところまでだ」

 

 澪は報告書の閉じた表紙を見た。

 

 報告書が示しているのは、宮坂の後ろに別の人間がいたという輪郭の端だけだった。

 

 相手の名前も所属も、石が運ばれた場所も分からない。

 

 澪は、見えないものがなくなったのではなく、見えないものの大きさだけが増したように感じた。

 

 

 

「社内の記録も確認しました」

 

 鷺沼が別の資料を机へ置いた。

 

「念のため、担当外への接触も含めて、もう一度です」

 

「結果は?」

 

「最初に確認した時と変わりません」

 

 宮坂は、権限のない場所へ無理に入っていない。

 

 契約金額の全体を見ようともしていない。

 

 押入商会以外を含む顧客一覧や、取引先全体の情報にも手を伸ばしていなかった。

 

 私物端末への転送も、大量の印刷もない。

 

 与えられた仕事の中から、覚えられるものを拾っていた。

 

 北辰の情報も、評価候補も、フローライトも、すべて正式な業務として宮坂のところへ来たものだった。

 

「では、何を見ていたんです?」

 

 澪が資料を覗き込む。

 

 鷺沼は、宮坂が関わった案件だけをまとめた一覧を示した。

 

「新しい材料です」

 

 評価条件。

 

 通常品との差。

 

 次の試料がいつ来るか。

 

 受入れ側で、どの結果が異常と判断されたか。

 

 そして、その材料がどこから来たものとして扱われているか。

 

 宮坂が必要な範囲で残したメモには、数字だけでなく比較の理由まで整理されていた。

 

「会社のお金とか、取引先が目的じゃなかったんですか」

 

「それなら、もっと別の情報へ手を伸ばしていただろうな」

 

 真壁が答える。

 

「宮坂さんが追っていたのは、押入商会から来る材料が、なぜ普通の材料と違う結果を出すかだ」

 

「石や金属そのものより、違いの理由ですか」

 

「そう考えると、行動が揃う」

 

 北辰新素材研究所へ反応したのも、押入商会とは別に同じような供給元があると思ったからだ。

 

 評価材の予定を外へ伝えたのも、新しい材料がいつ現れるか知りたかったからだ。

 

 最後に身分を捨ててまでフローライトを持ち出したのは、異常な結果を現物で確かめるためだった。

 

 契約金額よりも、顧客一覧よりも、宮坂にとっては一個の石の方が重要だった。

 

 澪の背中へ、遅れて冷たいものが走った。

 

「本当の特殊材料に、近づかれてるってことですか」

 

「いや」

 

 真壁は即答した。

 

「でも、違いを探してるんですよね」

 

「彼らの手元にあるのは、ただの蛍石だよ」

 

「分析しても、普通のフローライトという答えしか出ない」

 

 東都で何が起きたのかという疑問は残っても、その答えを示す物は宮坂の側へ一度も渡っていない。

 

「東都で何が起きたかも分からないはずだ」

 

「まだ、入口にも立ってはいない」

 

 澪はほっと息を吐きかけた。

 

 けれど、真壁の顔を見て途中で止める。

 

「安心していいわけじゃないんですね」

 

「分からなければ、興味を失うとは限らないからな」

 

 むしろ、既知の分析で普通としか出ないのに、性能だけが違って見える。

 

 その矛盾が、相手の関心を強める可能性もある。

 

 真壁が心配しているのは、秘密へ近づかれたことではない。

 

 秘密があると、強く思わせたことだった。

 

 澪は、自分の会社の名が急に大きなものになったように感じた。

 

 押入商会は、押入れの向こうから持ってきた物を売るために始めた会社だ。

 

 最初は、真壁と二人で納品できる量しか動かしていなかった。

 

 今は、専門部門が作られ、優秀な人材が時間をかけて入り込むだけの対象になっている。

 

 売上が増えた時とは違う形で、会社が大きくなった重さを感じた。

 

「気になるのは別のことだ」

 

 真壁が資料を閉じる。

 

「何ですか?」

 

「宮坂さんほどの人間を用意するには、時間がかかる」

 

 大学で専門を学び、実際に東都で通用する知識を持つ。

 

 採用審査を通るだけの経歴があり、入社後も仕事で高い評価を得た。

 

 短い準備で作れる人材ではない。

 

「彼一人のためだけに、そこまで時間をかけるものかね」

 

 澪は答えられなかった。

 

 鷺沼の表情も変わる。

 

「ほかにもいると?」

 

「いると決めつける必要はありません」

 

 真壁はすぐに線を引いた。

 

「ただ、宮坂さん一人だったと考える理由もない」

 

「可能性を考えて、備えておくべきでしょうな」

 

 鷺沼がゆっくり頷いた。

 

「社員については、もう一度確認します」

 

「お願いします」

 

「権限も、今の仕事に合っているか見直します」

 

「それも必要でしょう」

 

 真壁はそこで、机の資料から視線を上げた。

 

「ただし、東都だけを見ても仕方ありませんな」

 

「といいますと?」

 

「押入商会の材料を見るのは、東都の方だけではない」

 

 評価先。

 

 加工先。

 

 輸送に関わる人間。

 

 材料が事業として広がれば、周辺の取引先も増えていく。

 

 全員へ核心を見せているわけではない。

 

 それでも、押入商会という会社の存在そのものは、もう二人だけで隠せる大きさではなかった。

 

「うちも見直すんですか」

 

「誰が悪いと決めて調べるのではない」

 

「どの情報が、どこまで流れているかを確認する」

 

「増えた取引に、管理が追いついているかを見るのだよ」

 

 疑わしい人間を探すのではなく、知らなくてよい人へ情報が集まる形になっていないかを確かめる。

 

 宮坂のような人間が来ることを前提にしても、普通に仕事をしている人まで疑わずに済む形へ整える。

 

 澪は、以前に真壁が鷺沼へ警告した時のことを思い出した。

 

 あの時から東都が情報を分けていたから、宮坂は一度も核心へ触れられなかった。

 

 今回必要なのは、その範囲を押入商会の周りへ広げることだった。

 

「……他にもいるかもしれないんですね」

 

「そう考えて備えておくべきだろうな」

 

「でも、全員を疑うわけではない」

 

「はい」

 

 答えながらも、澪の中の不安は完全には消えなかった。

 

 宮坂は、疑われないように不審なことをしなかった。

 

 仕事も本当にできた。

 

 次に同じような人間が現れたとして、自分に見抜けるとは思えない。

 

 そんな澪の顔を見て、真壁が続けた。

 

「一人で見抜こうとする必要はないよ、澪君」

 

「見抜けなければ守れない仕組みにはしない」

 

 澪は真壁を見た。

 

 不安が消えたわけではない。

 

 それでも、何から手をつければよいかは見えた。

 

「分かりました」

 

「押入商会の方は、私が一覧にします」

 

「そうしてくれ」

 

 鷺沼も資料をまとめ直した。

 

「東都の見直し結果は、必要な範囲で共有します」

 

「ありがとうございます、鷺沼さん」

 

 空になった机は、最後まで整ったままだった。

 

 そこにいた人間の能力も、裏切りも、どちらか一方だけ消すことはできなかった。

 

 

 

 東都を出たあと、澪は車へ乗ってからもしばらく口を開かなかった。

 

 助手席の膝には、押入商会側で確認する項目を書いたノートがある。

 

 まだ一行も書いていない。

 

 真壁が車を発進させ、東都の建物が後ろへ遠ざかったところで、澪はようやく顔を上げた。

 

「鷺沼さんには、言わないんですね」

 

「何をだね」

 

「宮坂さんの本当の名前と、中国籍だってことです」

 

 真壁は前を見たまま答えた。

 

「それを鷺沼さんへ話して、何になるのだね」

 

「採用の時の身元確認とか……」

 

「宮坂遼平という名も、宮坂家との養子関係も、東京大学を卒業した経歴も実在する」

 

「会社が通常の手段で確認できるところに、嘘があったわけではない」

 

「でも、本名は李昊然ですよね」

 

「それは《鑑定》で知ったことだ」

 

 信じてもらえるかどうか以前に、ゲンダイ側で処分や捜査の根拠として使えるものではない。

 

 真壁と澪が知っていることと、東都が会社として扱える事実は分ける必要がある。

 

「中国籍であること自体も、何の問題にもならんよ」

 

「問題なのは、会社の情報を外へ流し、預かった物を持ち出した行動だ」

 

「そちらは記録が残っている」

 

 澪は膝のノートへ目を落とした。

 

 先に国籍を聞いていれば、自分は宮坂を見る目を変えていたかもしれない。

 

 けれど、それでは宮坂が本当に行ったことではなく、出身だけを疑うことになる。

 

「鷺沼さんに、使えない情報まで背負わせないんですね」

 

「必要になれば別だが、今はな」

 

「分かりました」

 

 澪は一度頷き、今度は別の疑問を口にした。

 

「さっき、本当の材料に近づいてないって言いましたよね」

 

「ああ」

 

「魔石化のことを知られる可能性は、本当にないんですか」

 

「宮坂さんが持っていった蛍石には、固定魔素も遊離魔素もない」

 

「向こうで何度調べても、普通のフッ化カルシウムだ」

 

「東都で測った時だけ、完全魔石化した方へ入れ替えていたから結果が変わった」

 

 光を通した間、遊離魔素が光軸の方向へ揃う。

 

 横へ逃げる光が減り、正面側へ出る光が増える。

 

 光を止めれば配向はほどけ、遊離魔素そのものは消費されない。

 

 東都で示したのはその結果だけで、原因となる材料は遮光カバーが開く前に収納へ戻してある。

 

「じゃあ、分析しても魔素は見つからない」

 

「見つけようがないな」

 

「測定中に石が替わったことも?」

 

「通常の手段で考えれば、候補にも上がらんだろう」

 

 澪は少しだけ安心し、それから別の意味で眉を寄せた。

 

「それ、向こうからしたら気味が悪くないですか」

 

「東都では二度出たのに、持ち帰ったら普通なんですよね」

 

「そうなるな」

 

「諦めてくれますかね」

 

「期待はしない方がよいだろう」

 

 真壁は赤信号で車を止めた。

 

「答えが見つからないから終わる相手なら、宮坂さんのためにあれほど時間を使ってはいない」

 

「……ですよね」

 

 信号が変わる。

 

 車が再び動き出した。

 

 澪はノートを開き、最初の一行へ『誰が、何を、どこまで知る必要があるか』と書いた。

 

 敵の名前を探すより先に、自分たちの情報が流れる形を知る。

 

 真壁が言ったことを、押入商会の仕事へ置き直した言葉だった。

 

 

 

 周明宇が再び李昊然と会ったのは、分析結果が上へ送られたあとだった。

 

 東都で働いていた宮坂遼平ではなく、李昊然として指示を受けるためだった。

 

「しばらく表へ出るな」

 

「分かりました」

 

「宮坂遼平として東都へ戻ることもない」

 

「はい」

 

 李は短く答えた。

 

「次の任務は?」

 

「まだない」

 

「今回の件は継続されますか」

 

「それを決めるのは私ではない」

 

 周は少し間を置いた。

 

「ただ、普通の石しか持ち帰れなかったから終わり、とはならないだろう」

 

 李は視線を下げた。

 

「東都は、私が何を見ていたか知っていたのでしょうか」

 

「可能性はある」

 

「いつからです」

 

「分からない」

 

 北辰からだったのか。

 

 その前からだったのか。

 

 初めて真壁と握手を交わした時には、すでに何かを見抜かれていたのか。

 

 今となっては確かめる方法がない。

 

「真壁久忠ですか」

 

 李が名前を出す。

 

 周は答えなかった。

 

 何の証拠もない段階で、一人の人間へ理由を集めるべきではない。

 

「おまえの報告は受け取った」

 

「今は、それ以上を考える必要はない」

 

「分かりました」

 

「李昊然」

 

 日本名ではなく、本名を呼ばれる。

 

 李が顔を上げた。

 

「宮坂遼平の身分が使えなくなっても、おまえの知識までなくなったわけではない」

 

「しばらく待て」

 

「はい」

 

 失敗したから消されるわけではない。

 

 同時に、すぐ別の仕事を与えられるわけでもない。

 

 李は、自分の知識と判断がどこまで信頼を残したのかも知らされなかった。

 

 ただ命じられたとおり、表から姿を消すことになった。

 

 

 

 第三処の会議室では、技術情報分析を担当する劉浩が集めた情報を順に並べていた。

 

 東都で記録された二度の測定結果。

 

 李昊然が持ち帰った試料の分析結果。

 

 北辰新素材研究所を含む、それ以前の報告。

 

 押入商会が表へ出している会社情報。

 

 どれも単独では短い資料だった。

 

 重ねても、矛盾は埋まらない。

 

 第三処が扱う案件の中には、国外で発表された新素材も、製造工程の変化もある。

 

 性能が高いだけなら、公開された論文や製品の延長として評価できるものも多い。

 

 押入商会の材料が継続対象になった理由は、性能の高さだけではなかった。

 

 通常の方法で調べれば、既知の元素と既知の結晶として説明できる。

 

 ところが評価へ回すと、同じ組成の通常品とは違う結果が残る。

 

 どこに差があるのかを探しても、分析結果の中には見つからない。

 

 第三処にとって重要なのは、その説明できない空白だった。

 

「東都では、通常品との差が確認されています」

 

 劉が画面を切り替える。

 

「持ち帰った現物は、通常のフローライトでした」

 

「同一の物だと李は認識している」

 

 第三処の副処長である趙麗華が確認する。

 

「はい」

 

「取り違えの可能性は?」

 

「管理番号は一致しています」

 

「番号が一致していることと、石が同じことは別よ」

 

「そのとおりです」

 

 劉は否定しなかった。

 

「ただし、どの時点で何が変わったかを示す情報はありません」

 

 趙が周を見る。

 

「石は普通だった?」

 

「分析では」

 

「東都では性能が出た」

 

「はい」

 

「再現はできない」

 

「できません」

 

 趙はしばらく画面を見た。

 

「なら、まだ何も分かっていない」

 

 宮坂遼平としての潜入が終わったことは、失敗である。

 

 しかし、それだけで案件全体の価値が消えるわけではない。

 

 普通の試料を高性能に見せる測定上の仕掛けだったのか。

 

 東都にしかない条件が働いたのか。

 

 一定時間だけ性質を変える処理があったのか。

 

 あるいは、李が気づかないところで試料そのものが替わったのか。

 

 どれも可能性に過ぎず、選ぶ根拠がない。

 

「物そのものではなく、東都で行われた何かが差を作った可能性があります」

 

 劉が言う。

 

「東都の技術?」

 

「それも断定できません」

 

「評価室へ試料を持ち込んだのは、押入商会の真壁久忠です」

 

「東都が知っているのか、押入商会だけが知っているのか、それさえ分かりません」

 

 趙は資料を閉じた。

 

「分からないことを増やしたわね」

 

「はい」

 

「けれど、普通の石だったという結果も捨てないで」

 

「承知しました」

 

「東都が性能差を作った可能性は?」

 

 趙の問いに、劉は画面を一つ戻した。

 

「否定はできません」

 

「ただ、東都は材料を受け入れて評価する側です」

 

「過去の記録でも、異常な結果は押入商会から来た材料に偏っています」

 

「東都の設備そのものが原因なら、ほかの供給元でも似た結果が出るはずです」

 

「出ていない?」

 

「今ある情報の範囲では」

 

 東都が核心を知っている可能性は残る。

 

 しかし、東都だけを見続けても、材料が生まれる場所には届かない。

 

 李が社内で得られなかった情報も、結局はそこだった。

 

 押入商会がどこから材料を持ってくるのか。

 

 誰が性能差を生む工程を知っているのか。

 

 その二つは、東都の記録にはなかった。

 

「李の処遇は?」

 

 趙が周へ尋ねる。

 

「表へ出さず、待機させています」

 

「それでいい」

 

「技術要員を、一度の失敗で捨てる必要はないわ」

 

 趙が立ち上がる。

 

「上へ報告します」

 

「必要な事実だけ、もう一度まとめて」

 

 国家先端産業情報局の技術情報部門を束ねる王建国は、細かな経緯から聞こうとはしなかった。

 

 趙が報告を始めると、最初に四つだけ確認した。

 

「石は普通だった?」

 

「はい」

 

「東都では?」

 

「通常品とは異なる結果が出ています」

 

「再現は?」

 

「できません」

 

「理由は?」

 

「不明です」

 

 王は椅子へ背を預けた。

 

 机には、フローライト以外の押入商会由来材料についても、短い資料が置かれている。

 

 既知の元素。

 

 既知の結晶。

 

 分析だけを見れば、説明できる材料。

 

 それにもかかわらず、通常品との差を示す評価がいくつも残っている。

 

 第三処が追っていたのは、一個の製品を複製する方法ではない。

 

 同じに見える物へ、何が差を生じさせているのか。

 

 その原因だった。

 

「欲しいのは石ではない」

 

 王が言った。

 

「では?」

 

「製品を追うな」

 

 趙は黙って次の言葉を待った。

 

「違いを作っているものを追え」

 

 東都の評価室で起きた現象は、持ち帰ることができなかった。

 

 だからこそ、物だけを追う調査では足りない。

 

「東都への接近を続けますか」

 

「東都はもういい」

 

「では?」

 

 王は、机の上に置かれた一枚目の資料へ指を置いた。

 

 そこには、代表者として篠原澪の名が記されている。

 

「押入商会だ」

 

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