劉浩の画面には、押入商会という会社の名前が表示されていた。
その下へ、確認できた事実だけが並んでいる。
代表者は篠原澪。
武刺大学経済学部の3年生。
特殊な金属や材料を扱い、東都特殊金属試作との取引を継続している。
東都へ渡った材料は一種類ではない。
一度限りの試験で終わったわけでもない。
受入れと評価を繰り返し、追加の供給も行われている。
そこまでなら、規模は分からなくても事業の形は見える。
劉は画面の横へ、もう一つ枠を作った。
製造元。
何も入力しない。
次は研究を担う者。
そこも空欄だった。
保管場所。
材料供給の起点。
押入商会まで材料を運ぶ流れ。
どれも、確認できた事実としては埋められない。
国家先端産業情報局第三処が持つのは、公開されている範囲の情報と、李昊然が宮坂遼平として東都で見聞きした報告である。
李は、権限のない資料へ手を伸ばしていない。
東都側も情報を分けていた。
見えない部分が多いのは、その二つが重なった結果かもしれない。
それでも、空欄の多さは無視できなかった。
「製造会社ではありません」
劉が言うと、向かいの趙麗華が資料から顔を上げた。
「最初から商社でしょう」
「はい」
劉は否定しなかった。
「ですから、製造元が別にいるはずです」
「自社で作っていないなら、どこかから仕入れている」
「その相手が見えない?」
「今ある情報からは」
劉は製造会社として見た場合の欄を開いた。
特殊材料を継続して作るなら、研究、製造、品質の確認、保管のどこかに実体が要る。
それらをすべて一つの会社が担う必要はない。
研究と生産が別でもよい。
製造を外部へ委託していてもよい。
しかし、押入商会自身が大きな製造機能を持つと考えるには、外から確認できる姿が薄かった。
「ないとは言い切れないわね」
趙が言う。
「はい」
「私たちに見えていないだけかもしれない」
「その可能性は残しています」
劉は、事実とは別に設けた仮説の欄を示した。
非公開の製造拠点。
外部の製造会社。
国外を含む別の供給元。
限定された取引だけを行う研究者や企業。
考えられるものは複数ある。
どれかを選ぶ材料はなかった。
「見えないことと、ないことは違う」
「はい」
「ですから、工場がないとも、秘密工場があるとも断定していません」
趙は小さく頷いた。
情報がない場所へ、都合のよい答えを入れれば分析ではなくなる。
劉が分けているのは、分かったことと、分からないことと、まだ根拠のない仮説だった。
次に劉は、押入商会を一般的な商社として見た。
商品を作らない商社なら、仕入先から買い、必要に応じて保管し、取引先へ納める。
規模も方法も会社ごとに違う。
すべてを自社で行う必要もない。
それでも商品が動く以上、どこかに流れはある。
「李の報告に、仕入先は?」
「ありません」
「輸送元は?」
「押入商会より前は確認できていません」
「保管は?」
「特殊材料の供給量を説明できる場所は分かりません」
趙の視線が画面の空欄を追った。
「東都が知らないだけでは?」
「十分にあり得ます」
東都にとって必要なのは、届いた材料の品質と契約どおりに供給されることである。
押入商会の仕入先を、現場の全員が知る必要はない。
まして情報管理を強化したあとなら、新人の宮坂へ見せないのは自然だった。
それでも、実際に材料を扱った李の報告を重ねても、押入商会より前へ一度も線が伸びない。
「供給元が見えないこと自体を、異常とは判断できません」
劉は先に線を引いた。
「取引上の秘密である可能性もあります」
「小さな会社が、限られた供給者とだけ結んでいることもある」
「はい」
「問題は別です」
劉が東都の受入れ記録を要約した画面へ戻る。
押入商会から材料は届いている。
一度ではない。
東都が評価し、次の供給を求めれば応じている。
同じ名で扱われる材料の品質も、大きく崩れていない。
偶然手に入れた少量の在庫を売り切って終わる会社とは考えにくかった。
「供給能力は実在しています」
「供給元は?」
「そこが見えません」
趙が腕を組んだ。
「能力はある」
「はい」
「しかし、その能力がどこにあるのか分からない」
「押入商会自身なのか、外部なのかも含めてです」
これまでの押入商会は、変わった材料を持ち込む会社として見られていた。
今、劉の画面にあるのは別の姿だった。
製造元が見えないまま、安定した材料を繰り返し供給する会社である。
不思議なのは商品だけではない。
商品が現れるまでの構造そのものだった。
劉は、供給能力という言葉をさらに分けた。
必要な量を一度だけ集める力。
同じ品質の物を繰り返し用意する力。
依頼を受けてから、取引先が使える状態で納める力。
東都の記録が示しているのは、少なくとも後ろの二つだった。
もし押入商会が、どこかに残っていた希少な在庫を買い集めて売っているだけなら、追加供給のたびに品質や形が大きく揺れる可能性が高い。
だが、東都は評価を積み重ねた上で取引を続けている。
供給された全量が同じだとまでは分からない。
それでも、試験を続けられる程度には材料として揃っている。
「作る者がいなくても、選び分ける者は要ります」
劉が言った。
「品質を揃えているということ?」
「はい」
「製造元で行っているのか、押入商会が行っているのかは分かりません」
「しかし、何も見ずに右から左へ流しているだけではない」
趙はその部分へ印を付けた。
製造設備が見えなくても、品質を判断する知識まで存在しないことにはならない。
むしろ複数の特殊材料を扱い、取引先の評価へ耐える物を選んでいるなら、どこかに判断できる人間がいる。
会社の外形が薄いほど、その人間の存在は重要になった。
劉は代表者の欄を開いた。
「篠原澪、武刺大学経済学部3年生」
「若いわね」
「若い起業家であること自体は、分析上の問題ではありません」
「ええ」
「ただ、この材料を篠原澪一人の技術で作っているとは考えにくい」
「経済学部だから?」
「それだけではありません」
専攻が違っていても、別分野の技術を持つ人間はいる。
年齢だけで技術力を否定することもできない。
しかし、複数の特殊材料を研究し、安定した品質で供給し、取引まで一人で成立させていると考えるには無理がある。
「技術者が別にいる」
趙が言った。
「あるいは、技術を持つ供給元がいる」
「はい」
劉は李が送っていた過去の報告へ移った。
押入商会の代表として東都へ来る篠原澪。
その隣に、何度か同じ名前がある。
真壁久忠。
押入商会の相談役。
澪と同行して東都を訪れ、特殊材料の評価にも立ち会っている。
鷺沼佳樹と、取引だけでなく情報管理や評価上の話もしていた。
李が持ち帰ったフローライトを、東都へ持ち込んだのも真壁だった。
「李は、この人物を気にしています」
「理由は?」
「具体的な行動は挙げていません」
劉は報告の該当部分を表示した。
初対面の時、何かを見られたように感じた。
考えていることが読みづらい。
北辰新素材研究所の情報が出た時期にも、真壁は東都へ来ていた。
どれも証拠にはならない。
李自身も、感覚と事実を分けて報告している。
「真壁久忠が技術の中心人物?」
「まだ、そこまでは言えません」
「分かっているのは、代表者と一緒に動き、特殊材料の案件へ関わっていることです」
劉は真壁の名を、重要人物の候補として残した。
押入商会を調べる上で無視はできない。
しかし、この時点では何者なのかを決める材料もなかった。
劉は、真壁の名へ技術者とは書かなかった。
情報担当とも書かない。
押入商会相談役という確認できた立場だけを残す。
「慎重ね」
趙が言った。
「相談役という肩書だけで、実際の役割は決まりません」
「特殊材料を理解しているから評価へ立ち会ったのかもしれない」
「篠原澪の補佐として、契約や管理だけを見ていたのかもしれない」
「両方かもしれない」
「はい」
「今は、どれも仮説です」
李が真壁を警戒したという感覚も、切り捨てはしない。
長く現場で働いた人間の違和感が、あとで意味を持つことはある。
同時に、違和感だけで一人の役割を作り上げれば、その後の情報をすべて同じ形へ曲げてしまう。
劉は結論を急がなかった。
押入商会について分かったことが少ないのと同じように、真壁久忠についても、まだ名前が残っただけだった。
押入商会の事務所で、澪はノートと画面を交互に見ていた。
画面には、取引先や仕事ごとに分けた一覧が開いている。
誰が、何を、どこまで知る必要があるか。
東都から戻る車の中で書いた一行を、実際の仕事へ当てはめたものだった。
押入商会の内部で扱う情報。
取引先へ伝える情報。
加工や評価に必要な情報。
知らなくても仕事に困らない情報。
分け始めると予想より多かったが、形にはなってきている。
「これで、誰が何を知る必要があるかは大体分かりました」
澪はノートを真壁の方へ向けた。
「すぐ直した方がいいところもありますけど、全部が混ざっているわけではなかったです」
「そうか」
真壁は一覧を上から下まで見た。
「では、次だな」
「まだあるんですか?」
「これは内側の話だろう」
真壁が、澪の書いた見出しを指した。
「次は、押入商会を外から見てみよう」
「外から?」
「何も知らない者のつもりでだ」
澪は自分の事務所を見回した。
机がある。
椅子がある。
仕事用の端末もあり、書類もある。
会社の事務所として困るようなものはない。
「普通の事務所に見えますけど」
「部屋の話ではないよ」
「ですよね」
少しだけ期待した自分が恥ずかしい。
真壁は新しい紙を一枚出した。
上へ、商品と書く。
「澪君、この会社は何を売っている?」
「特殊金属とか、材料です」
「どこから仕入れている?」
「……異世界です」
「それを知らない者には?」
「分かりません」
最初の質問から止まった。
真壁は紙へ、仕入先と書き足した。
その横は空欄のままにする。
「製造元は?」
「向こうです」
「ゲンダイでは?」
「説明できませんね」
「工場は?」
「収納内のプラントです」
「それを知らない者には?」
「……分かりません」
同じ答えになった。
澪はだんだん、この確認が嫌になってきた。
「研究している人は?」
「真壁さんとヴァルトさんです」
「会社の外から分かるかね」
「分かりません」
「保管は?」
「収納です」
「それを知らない者には?」
「分かりませんって、さっきからそればっかりじゃないですか」
「私が答えているのではないがね」
「質問してるのは真壁さんです」
澪は口を尖らせたものの、紙の空欄は消えなかった。
ゲンダイ側にも、押入商会が実際に使っている事業所や設備はある。
普通の仕事に必要な物を置く場所もある。
しかし、特殊材料の取扱量に見合う製造設備や、大規模な保管設備として外から説明できるものではない。
そもそも、収納があるから必要としてこなかった。
「じゃあ、どうやって東都へ運んでいる?」
「私たちが持っていきます」
「その前は?」
「収納に入っています」
「収納へ入る前は?」
「異世界です」
「外からは?」
「……突然、商品が出てきます」
言葉にするとひどかった。
材料は確かに存在する。
品質も揃っている。
必要な時に取り出し、納品できる。
澪たちにとっては、どこにも不思議はない。
製造している場所も、保管している場所も、運ぶ方法も知っているからだ。
しかし、そのどれもゲンダイ側からは見えない。
何も知らない者が見れば、押入商会から先だけが切れている。
「では、取引先から聞かれたつもりで答えてみよう」
真壁が言った。
「まだ続くんですか」
「会社を外から見るのだろう」
「真壁さんが始めたんですけど」
「新しい取引先が、継続供給できる理由を聞いた」
澪は姿勢を正した。
代表として答えるなら、今までの取引実績や品質評価について話せる。
約束した量を納められるかも、自分たちの在庫を確認すれば判断できる。
「必要な数量と納期を確認して、対応できる範囲でお受けします」
「その材料は、今後も同じように仕入れられるのかね」
「……仕入れられます」
「どこから?」
「答えられません」
「仕入先に問題が起きた場合は?」
「こちらで在庫を持っています」
「どこに?」
「収納です」
澪は自分で言ってから目を閉じた。
「外には言えませんね」
「そうだな」
「では、保管状態と残っている量を、取引先はどう確かめる?」
「私たちが保証します」
「その保証を支えるものは?」
澪は答えに詰まった。
これまで納品を守ってきた実績はある。
東都との信頼も積み上がっている。
だが、初めて取引する相手が見られるものとしては弱い。
倉庫に並ぶ在庫もない。
通常の製造計画もない。
供給元との契約を見せることもできない。
「信用してください、しか言えません」
「東都は、実際の取引で信用した」
「はい」
「だが、その信用を得る前の相手には通じにくい」
澪は頷いた。
今までは、商品を見せれば話が進んだ。
普通には手に入らない性能があり、実物を評価すれば価値が分かる。
だから、会社そのものの説明が薄くても、商品が先へ進めてくれた。
宮坂の背後にいる者が見ているのは、商品の価値だけではない。
その商品を押入商会が出し続けられる理由だった。
「次です」
澪は半分やけになって言った。
「不具合が出た場合、製造工程まで遡って確認できるかね」
「真壁さんたちと調べます」
「誰が調べる?」
「今、真壁さんって言いましたよね」
「外から見て、その役割が分かるかという話だよ」
「……分かりません」
結局、また同じ答えへ戻った。
澪は、空欄の横へ小さく『説明できない』と書いた。
存在しないわけではない。
供給も品質確認も、問題が起きた時の対応も、自分たちの中では行える。
ただ、それを支える仕組みがゲンダイ側の会社として見えていなかった。
澪は紙を自分の方へ引き寄せた。
商品。
売り先。
納品実績。
そこには書けることがある。
仕入先。
製造元。
保管。
押入商会へ届くまでの輸送。
こちらは空欄ばかりだった。
「商品と取引だけが大きくなって、そこまでの道が何も見えません」
澪は自分で書いた紙を見つめた。
「……会社が薄すぎます」
「今気づいたのかね」
「私たちは全部知ってますから」
「相手は知らん」
「そうですけど」
澪は机へ額をつけたくなった。
小さな会社だと思っていた。
実際、ゲンダイ側で大勢の社員を抱えているわけではない。
それなのに、扱っている商品と取引だけを見れば、どこかに研究者も製造設備も倉庫もあるはずの会社だった。
外から見えるものが少ないというより、見えるものと見えないものの差が大きすぎる。
売っている物だけを見れば、普通の小さな商店ではない。
大学生が空いた時間に仕入れて売る品物でもない。
真壁やヴァルトが収納内で行ってきた試験も、製造も、品質の確認も、ゲンダイ側の帳簿からは見えない。
見えないところで巨大なことをしているつもりはなかった。
必要な設備を収納へ入れ、必要な材料を異世界から用意した結果、そうなっただけである。
しかし外側の人間に、そこまでの事情は関係ない。
取引が大きいのに、それを支える場所も人も見えない。
理由を知らなければ、隠していると考える方が自然だった。
「怪しい会社ですね」
澪が改めて言う。
「先ほどより実感がこもっているな」
「代表が一番怪しいと思ってなかったんですから、仕方ないじゃないですか」
「胸を張るところではないよ、澪君」
「分かってます」
澪は胸を張る代わりに、肩を落とした。
「これ、よく今まで大丈夫でしたね」
「取引の規模が小さかったからな」
真壁は澪が書いた空欄へ目を落とした。
「最初は、限られた相手へ少量を売っていた」
「余計な情報を出さず、聞かれたことへ必要な範囲で答えればよかった」
「それが間違いだったわけではない」
異世界の存在を隠す。
収納を隠す。
魔素や魔石化を隠す。
どれも今後も守らなければならない。
しかし、会社そのものが注目されるほど取引が増えれば、隠している部分の形まで見られるようになる。
「隠すものが増えたのではない」
「違うんですか?」
「見えない部分が目立つようになったのだよ」
真壁の指が、紙の空欄を順に通った。
以前から、ここは何も変わっていない。
仕入先も製造元も異世界側にある。
収納を使う物流も同じである。
変わったのは、その先にある取引の太さだった。
細い取引の後ろに空白があっても、わざわざ調べる者は少ない。
価値の高い材料が安定して届くようになれば、空白そのものが理由を探される対象になる。
宮坂は、その空白へ近づくために東都へ入った。
次の相手が同じ場所から来るとは限らない。
澪は机から顔を上げた。
「仕入先があるように見せるんですか?」
「偽物を作るということかね」
「北辰新素材研究所みたいに」
「あれは確認のために置いた、一度限りの情報だ」
「会社の土台にするものではない」
「やっぱり駄目ですか」
「仕入先を一つ作れば、次はそこで誰が働いているかを作ることになる」
「工場を作れば、材料と設備と出荷の記録が要る」
「維持するほど、嘘が嘘を必要とする」
真壁は首を横に振った。
「それでは長くは持たん」
「じゃあ、どうするんです?」
「普通の商売を増やす」
澪は瞬きをした。
「普通の商売?」
「ゲンダイで普通に仕入れられる材料を扱う」
「実際に使う保管場所を持つ」
「必要なものは通常の物流で運ぶ」
「特殊材料以外の取引も、事業として成立する範囲で増やす」
真壁は一つずつ挙げたが、紙にはまだ書き込まなかった。
何を扱い、どこへ置き、誰と取引するかを今決める話ではない。
方向を間違えれば、普通に見せるためだけの赤字事業を抱えることになる。
「隠すために、必要のない物を売るんですか?」
「それでは偽装と変わらんよ」
「実際に需要があり、押入商会にも利益が出る仕事を選ぶ」
「普通の会社に見せるのではない」
「普通の会社として行う仕事を増やすのだ」
澪は、その違いを考えた。
見せるためだけの倉庫を用意するのではなく、本当に荷物を置く。
架空の仕入先を作るのではなく、ゲンダイで仕入れた商品を本当に売る。
名前だけの社員を置くのではなく、必要な仕事をする人が働く。
そうして増えた実体なら、誰かに見られても説明のための嘘は要らない。
「それに、普通の仕事は秘密を隠すためだけのものではない」
真壁が続ける。
「どういうことです?」
「特殊材料だけに頼る会社は、商売としても偏っている」
「扱える取引が増えれば、売上の入口も増える」
「物流や保管を実際に使えば、今後さらに取引が増えた時の土台にもなる」
「偽装のために払うお金じゃないんですね」
「必要な事業へ払う金だ」
真壁は、普通の材料を一つ仕入れれば十分だとは言わなかった。
倉庫を借りれば急に安全になるとも言わない。
外から見える形だけを整えれば、別の空白が生まれる。
取引、保管、輸送、働く人間が、本当の仕事としてつながって初めて会社の厚みになる。
「ただし、特殊材料の出どころを普通の取引へ混ぜる必要はない」
「そこは今までどおり隠すんですか」
「当然だ」
「普通の事業を増やしても、異世界から来た物を普通の仕入品だとは言わない」
「聞かれたら?」
「取引上、公開しない範囲は答えない」
「答えないために、嘘の会社を出すことはしない」
言わないことと、存在しないものをあると言うことは違う。
押入商会には守らなければならない秘密がある。
だからこそ、その周囲まで嘘で埋めれば、どこか一つが崩れた時に秘密まで引かれてしまう。
「普通の部分は、本当に普通にする」
澪は確認するように言った。
「秘密の部分だけ、出さない」
「そうだ」
「簡単に言うと、それだけだな」
「やることは全然簡単じゃないですよね」
「商売だからな」
真壁は当然のように答えた。
澪は反論しかけてやめた。
確かに、押入商会はもう、秘密を運ぶためだけの名義ではない。
取引先があり、約束した納品があり、そこで働く人の生活にも影響する会社になっている。
普通の商売を増やすことは、外からの目をそらすためだけではなく、その会社を続けるための仕事でもあった。
「会社を隠れ蓑にするんじゃなくて、会社そのものを育てるんですね」
「そういうことだ」
「でも、仕事が増えます」
「会社を厚くするのだから、当然だろう」
「薄いままじゃ駄目ですか」
「先ほど自分で怪しいと言ったばかりではないかね」
「言いましたけど、厚くする大変さまでは考えてませんでした」
澪は空欄の多い紙の隣へ、新しい紙を置いた。
今すぐ決めること。
調べてから決めること。
まだ増やさないこと。
まず三つに分ける。
真壁はそれを止めなかった。
「会社が育ちすぎたな」
「育つのって、悪いことでしたっけ」
「普通は良いことだ」
「普通じゃないんですね」
「押入商会だからな」
澪は思わず笑った。
笑ってから、目の前の空欄をもう一度見る。
最初に会社を作った時は、異世界から持ってきた物を売るための入れ物に近かった。
仕事が増え、取引先が増え、扱う責任も大きくなった。
大学の教授から、レポートが妙に現場くさいと言われるほどには、澪自身も会社の仕事をしている。
それでも会社の外形だけは、始めた頃の小ささを引きずっていた。
「守り方も変えないといけないんですね」
「そうだ」
「秘密を減らせない以上、秘密ではない部分を増やす」
「その方が、余計な空白を作らずに済む」
澪はペンを持ち直した。
「普通に仕入れられる材料」
最初の候補として書く。
「実際に使う保管場所」
その下へ続ける。
「通常の物流と、特殊材料以外の取引」
書いたものを見て、少し考える。
「社員が普通の仕事をする場所も、ですね」
「必要になればな」
「増やすことを先に決めるなよ、澪君」
「分かってます」
「今、ちょっと楽しそうに見えたがね」
「新しい事業を考えるのは、少し楽しいです」
「だから先に需要を調べるのだよ」
「はい」
返事をしながら、澪は候補の横へ大きく『要調査』と書いた。
新しい倉庫も、新しい取引も、まだ何一つ決まっていない。
決まったのは、押入商会を嘘で飾るのではなく、本物の仕事で厚くすることだけだった。
澪は、最後にもう一つ見出しを作った。
今ある実体。
事業所。
現在使っている設備。
実際に行っているゲンダイ側の取引。
今の物流で、通常の手段を使っている部分。
新しいものを足す前に、すでにあるものを正確に把握するためだった。
「最初から増やすんじゃなくて、今あるものを整理します」
「それが先だな」
「足りないところが分かってから、必要な事業を考えます」
「うむ」
真壁が頷く。
澪はそこで、ようやく一つ目の紙を裏返した。
空欄が消えたわけではない。
ただ、空欄を偽物で埋めずに済む道は見え始めていた。
宮坂の背後にいる者が、すでに同じ会社を外から見始めていることを、澪は知らない。
第三処の会議室で、劉は途中結果を二つに分けていた。
分かったこと。
分からないこと。
最初の欄には、押入商会の供給能力が実在することが入っている。
東都へ継続して材料を納めている。
供給された品質も、単発の偶然では説明しにくい程度には安定している。
篠原澪一人だけで、材料の研究から製造まで担っているとは考えにくい。
分からない欄には、さらに多くの項目が残った。
製造元。
供給の起点。
特殊材料の量に見合う保管場所。
押入商会へ届くまでの流れ。
通常品との差が生まれる工程。
技術の核心を知る人物。
「会社を見ても、途中で切れます」
劉が報告すると、趙は空欄の多い画面を見た。
「供給元が見えない?」
「はい」
「押入商会で線が止まります」
「意図的に隠していると考える?」
「断定できません」
劉は仮説の欄を開いた。
「供給者が、もともと限られた相手としか取引していない可能性があります」
「製造や保管を複数の外部へ分け、押入商会が窓口だけを担っている可能性もあります」
「小規模な会社で、情報が表へ出ていないだけとも考えられます」
「秘密にしている場合も含めて、どれも残っている」
「はい」
「会社構造だけでは、選べません」
「公開されていない契約が一つ見つかれば、全部埋まる可能性もある」
趙が言う。
「あります」
「逆に、会社をいくら見ても出ない可能性もある」
「あります」
「押入商会は、材料が通る窓口に過ぎないかもしれないから」
「はい」
押入商会の外形が薄いという事実だけでは、どちらにも決められない。
会社が意図して隠しているのか。
供給元が姿を見せないだけなのか。
商取引の形が、第三処の持つ情報に現れていないだけなのか。
会社という箱を見続けても、その外にいる相手が自動的に出てくるわけではない。
「会社の次に人を見るとしても、直接動かす必要はありません」
劉が言った。
「まず確認できる事実を整理するだけです」
「経歴と、押入商会での役割」
「どの案件で、誰と一緒に動いているか」
「そこから先は、その結果を見て判断します」
趙は頷いた。
新しい人間を送り込む話でも、本人へ接触する話でもない。
押入商会と同じように、まず分かることと分からないことを分ける。
会社の分析で答えが出なかったからといって、人へ勝手な答えを着せれば同じ失敗を繰り返すだけだった。
趙は指先で机を一度叩いた。
「押入商会が嘘の会社というわけではない」
「取引は実在しています」
「代表者も、東都との仕事も実在する」
「はい」
「なのに、その手前だけが見えない」
「製造会社としても、一般的な商社としても、外から見える供給構造が薄い状態です」
劉は、薄いという言葉を資産や事業能力の意味では使っていない。
結果を出している会社であることは間違いない。
ただ、その結果へ至るまでの道が画面の中に現れない。
「このまま会社の外形を追っても、同じ場所を回る可能性があります」
「では、何を見る?」
「実際に材料と一緒に動いている人物です」
劉は代表者と関係者の一覧を開いた。
最初に篠原澪。
その下に、真壁久忠。
東都側の鷺沼佳樹もいるが、材料を受け取る側であることは確認できている。
趙の視線が、真壁の名で止まった。
「上へ出しましょう」
王建国は報告の細部を読み上げさせなかった。
趙が結論と、その根拠を分けて話す。
「供給元は?」
「確認できません」
「製造設備は?」
「押入商会自身が持つものとしては、供給規模の説明がつきません」
「持っていない?」
「そう断定できる情報もありません」
王が劉を見る。
「代表者は?」
「篠原澪、武刺大学経済学部3年生です」
「技術者か」
「確認できた経歴からは判断できません」
「ただし、複数の特殊材料を一人で研究、製造していると考える根拠はありません」
「別に技術者か供給者がいる」
「その可能性が高いと見ています」
王は画面の会社名を見た。
押入商会。
材料はそこから出てくる。
だが、その前へ線を伸ばそうとすると空欄になる。
会社を調べるだけでは、材料が生まれる場所にも、違いを作る者にも届かない。
「篠原澪が何も知らない可能性は?」
王が尋ねた。
「会社代表として取引に関わっています」
趙が答える。
「少なくとも、材料を用意できる相手とのつながりはあると考えます」
「技術の核心まで知っているかは?」
「分かりません」
「なら、代表だけを見ても同じところで止まるかもしれない」
王は人物一覧へ視線を移した。
会社の代表者が重要なのは、調べる前から分かっている。
しかし、若い代表者一人へすべての役割を集めれば、会社分析で残した空欄を別の形で埋めることになる。
王が求めているのは、分かりやすい中心人物ではない。
材料へ関わりながら、役割の見えない人物だった。
「会社を見るな」
王が言った。
「では?」
「人を見ろ」
趙は人物一覧へ目を移した。
「篠原澪ですか」
「代表なのは分かっている」
「押入商会の窓口であり、材料と動く中心人物であることもな」
「では、周囲から?」
「代表の隣で、何をしているか見えない者がいる」
劉が一つの報告を開いた。
「李の報告に、何度か出てくる人物です」
画面から、ほかの名前が消える。
中央に一人だけ残った。
真壁 久忠。
押入商会相談役。
篠原澪とともに東都へ来る。
特殊材料の評価へ関与する。
鷺沼と技術や情報管理の話をしている。
李昊然が、初対面から読みづらいと感じた人物。
第三処は、真壁が異世界を知ることも、行商人であることも知らない。
《収納》も《鑑定》も《転移》も、《錬金》も知らない。
指揮や軍略に長けていることも、当然記録にはない。
彼らの画面にいるのは、若い代表者のそばで特殊案件へ関わる、経歴を確認すべき男だけだった。
「まず、その男からだ」
王は真壁の名を指した。
「李が気にしていた理由を調べろ」