赤い反応は、律儀に《世界地図》の上を動き続けていた。
こちらへ戻ってくる気配はない。
先に離れた実働要員の三人とも合流せず、単独のまま道路を進んでいる。
「まだ見えてます」
助手席の澪は、膝に置いた鞄を抱え直した。
「なら、その距離でよい」
真壁は前の車を追っているようには見えない運転を続けていた。
赤信号に引っかかっても慌てない。
相手が角を曲がっても、同じ角へすぐには入らない。
一本先の道を使い、《世界地図》から反応が外れない距離だけを保っている。
「尾行って、もっとこう、ぎりぎりで追いかけるものだと思ってました」
「映画の見すぎだな」
「まだ映画の話はしてませんよ」
「これからする顔だった」
澪は口を閉じた。
確かに、少しだけカーチェイスを想像していた。
しかし実際にやっているのは、地図上の点が感知範囲から出ないよう、淡々と道路を選ぶ作業だった。
速さより、見失わないことの方が大切らしい。
「止まりました」
赤い反応が、道路沿いの区画で動きを止めた。
真壁はそのまま通り過ぎた。
「行っちゃいますよ?」
「近くで待つ必要はない」
しばらく走った先で車を止める。
周明宇の反応は、まだ《世界地図》の中にあった。
周囲には店も人家もある。
ここで何かをすれば、無関係な人間まで巻き込みかねない。
澪は時刻を確認した。
商談が終わってから、すでに何時間も経っている。
「このまま帰ったら、どうします?」
「明日以降へ延ばす」
「今日、捕まえなくてもいいんですか?」
「捕まえることが目的ではないからな」
真壁は運転席の背もたれへ身体を預けた。
「相手が誰とつながり、何を知っているかを確認する」
「素直に教えてくれますかね」
「素直かどうかは、あまり関係ない」
言い方が少し気になった。
澪が横顔を見ても、真壁は赤い反応がある方向を見ているだけだった。
やがて点が再び動いた。
真壁も車を出す。
周は途中で何度か止まり、人の出入りがある場所を経由した。
誰かと接触しているのか、単に用事を済ませているのかまでは分からない。
澪に見えるのは位置だけである。
相手が何を考えているかまで表示してくれるほど、《世界地図》は親切ではなかった。
「便利なのに、肝心なところは自分で考えないと駄目なんですね」
「答えまで出るなら、地図ではなく神託だろう」
「神様、近くに二柱もいるんですけど」
「なら、あとで聞いてみるといい」
『聞いてもよいぞ』
シロガネが、待っていたように割り込んできた。
澪は思わず窓の外へ顔を向けた。
「聞いてたんですか」
『澪が退屈そうにしておったのでな』
「退屈じゃありません」
むしろ緊張しすぎて、どうでもいい話をしたくなっている。
生体収納の中からは、マカミの警戒も細く伝わっていた。
商談中ほど激しくはない。
それでも澪の近くに敵がいることは、今も分かっているらしい。
澪が大丈夫だと意識を返すと、警戒は残したまま少しだけ静かになった。
日付が変わる頃、赤い反応は建物の多い地域を離れた。
周は人気のない一角で車を止めた。
点が車から少し離れる。
「降りました」
「ほかは?」
澪は表示範囲を広げた。
周囲に別の赤い反応はない。
道路を通る車も途切れている。
「今は一人です」
「なら行く」
真壁がシートベルトを外した。
「私もですか?」
「位置を見失わないでくれ」
澪も慌てて外へ出た。
夜気は思っていたより冷たかった。
少し先に、周明宇の背中が見える。
周はスマートフォンを確かめ、車へ戻ろうとしていた。
真壁は名前を呼ばなかった。
警告もしなかった。
一歩だけ前へ出る。
次の瞬間、周の身体が不自然に止まった。
肩が落ちる。
膝が折れる。
地面へ倒れる直前に、真壁が腕を取った。
音らしい音は、靴底が舗装へ触れた程度だった。
「え?」
澪が駆け寄る。
周は目を閉じたまま動かない。
真壁が首筋へ指を当てた。
澪も手首へ触れる。
脈がなかった。
「真壁さん!?」
「声を抑えたまえ」
「だって、心臓が動いてません!」
「止めたからな」
「何でそんなに普通に言えるんですか!」
「心臓を止めただけだ」
真壁は周の瞼を開き、反応を確かめた。
「脳は傷つけていない」
「心臓を止めただけ、という言い方がおかしいんです」
「詳しく説明している時間はない」
「説明が詳しいかどうかの問題じゃありません」
澪が言い終わる前に、周の身体が靄へ包まれた。
人一人分の重さが消え、真壁の腕だけが残る。
周明宇は通常《収納》へ入っていた。
澪は、誰もいなくなった地面と真壁を交互に見た。
「生きてる人は、普通の収納には入らないんじゃなかったんですか?」
「通常ならな」
「今の人も通常ではないんですか?」
「生命活動が仮死状態まで落ちれば、収納側は生体として判定しない」
真壁は周囲を見回し、澪を車へ促した。
「以前、討伐対象のゴブリンで境界を確認してある」
澪の足が止まった。
「……ゴブリンで何を研究してたんですか」
「脳を損傷させずに心肺を止めた場合の収納可否と、エリクサーで戻せる限界だ」
「ものすごく嫌な研究名が、すらすら出てきましたね」
「名前を付けて研究していたわけではない」
「そこは安心するところですか?」
「必要な確認だった」
アルヴェラで侯爵邸を襲った者たちも、同じ方法で収納したと聞いている。
その後、記憶を操作され、ベルセナ村で働いていた男たちである。
あの時は、すでに人へ使った後の話を聞いただけだった。
その前段階で、ゴブリンを使って何度も条件を確かめていたらしい。
澪は知りたいような、知らない方がよいような気持ちになった。
「何体です?」
「何がだね」
「実験に使ったゴブリンです」
真壁は車のドアへ手をかけたまま、少しだけ考えた。
「澪君」
「はい」
「君は《雷》スキルを覚えるために収穫したビッグバスの数を覚えているのかな」
予想していなかった方向から返された。
澪は、自分が収納へ入れた魚の山を思い出そうとした。
一匹ずつ数えた記憶はない。
「……覚えてませんけど」
「そういうことだ」
「そういうことにしないでください」
真壁は答えず、運転席へ戻った。
結局、何体だったのか分からない。
分からない方が、少し怖かった。
車内へ戻ると、真壁は周明宇を収納したまま目を閉じた。
澪はすぐに声をかけられなかった。
助手席から見える真壁は、ただ考え込んでいるようにしか見えない。
けれど意識は、通常《収納》の中にいる周へ向けられている。
「状態は?」
「変わらん」
「本当に戻せますよね?」
「そのために確認してきた」
先ほどのゴブリンたちのことを言っているらしい。
安心材料として出されたはずなのに、あまり安心できなかった。
「記憶を見る」
真壁が言った。
澪は膝の上で両手を組んだ。
「関係ないところまでは見ないでください」
「そのつもりだ」
「家族とか、子どもの頃とか、任務と関係ないことです」
「必要ない」
「書き換えるのも、今日のことだけですよ」
「十分だ」
返事に迷いはなかった。
真壁にとっては、最初から見る範囲が決まっていたのだろう。
それでも澪は、口にしておきたかった。
相手は押入商会を狙っている。
盗聴器を仕掛け、外には実働要員まで置いていた。
だから何をしてもよいと思い始めたら、自分たちの方にも止まる場所がなくなる。
真壁の呼吸が浅くなる。
収納の中から拾ったものを確かめるように、言葉を一つずつ落とした。
「宮坂遼平」
澪は鞄からノートを出した。
「李昊然」
同じ人物の二つの名前を並べて書く。
「周明宇が、日本で直接報告を受けていた」
「やっぱり宮坂さんとつながってたんですね」
「ああ」
北辰新素材研究所の情報を聞き、最初に罠を疑ったのも周だった。
普通のフローライトを持ち帰った宮坂を回収し、分析結果を上へ報告した記憶もある。
真壁の眉がわずかに動いた。
「郭文博」
「今日の人ですね」
「押入商会へ接触する役を与えられている」
周は商談そのものへは入らず、外に実働要員を待機させていた。
商談が不成立だっただけなら動かさない。
上から追加の指示が来た時だけ使うつもりだった。
「じゃあ、今日は最初から襲う予定だったわけじゃないんですか」
「そのようだな」
「ちょっとだけ安心しました」
「盗聴器を三つ置かれてもかね」
「安心した分、返してください」
澪は書きかけた文字の横へ線を引いた。
普通の客ではなかったが、最初から殺しに来た相手でもない。
分かったことが増えるたび、単純な敵という言葉から少しずつ遠ざかる。
真壁は次の記憶をたどった。
周が報告を受ける部屋。
画面越しに話す女。
資料の上に記された組織名。
「国家先端産業情報局」
澪のペンが止まった。
「国の組織なんですか?」
「少なくとも、周はそう認識している」
「長い名前ですね」
「第三処」
「急に短くなりました」
「その中の部署だ」
国外で生まれた新素材。
先端製造技術。
既存の分析では説明しにくい性能差。
第三処が扱うのは、そのような技術情報だった。
押入商会の特殊材料は、東都特殊金属試作の内部へ宮坂を送り込むほどの継続調査対象になっている。
「趙麗華」
真壁が続ける。
「周の上にいる実務責任者らしい」
さらに記憶の奥で、王建国という名前が現れた。
周が直接会う機会は少ない。
報告書や会議の中で見聞きしただけの記憶も混じっている。
「王建国」
「一番上の人ですか?」
「そこまでは分からん」
真壁はすぐに線を引いた。
「この案件を上で承認している人物ではあるようだ」
澪は名前の横へ、断定ではない、と小さく書き添えた。
記憶は名簿ではない。
周がそう思っていること。
周が実際に命令を受けたこと。
誰かから聞いただけの話。
同じように見えても、重さは違った。
真壁が、不意に言葉を止めた。
周の記憶を、別の方向へたどっているらしい。
「日本国内の政治家へつながる経路がある」
澪のペン先が止まった。
「政治家までいるんですか?」
「周の認識では、使える筋の一つだ」
出てきたのは、前首相の時代に党幹事長を務めた老政治家だった。
現首相側の派閥が政治資金問題で弱った後、党内で再び影響力を増している。
ただし、周がその老人本人と工作の相談をした記憶はない。
第三処の存在を伝えた記憶もなかった。
線は、老人の周囲へ伸びている。
中国籍の私設秘書。
日本人秘書。
献金企業の役員。
中国系投資会社の担当者。
会合の日程を取り持つ仲介者。
同じ人物が、別の場所では別の肩書きで現れる。
「この人自身も、第三処の協力者なんですか?」
「本人が協力者とは限らん」
「でも、周りはつながってます」
「知らぬまま周囲を使われている可能性もある」
真壁は目を閉じたまま答えた。
「本人へ疑いを向ける材料にはなるが、結論にはならんな」
澪は政治家の名前を丸で囲むのをやめた。
代わりに、秘書、企業、投資会社を一本ずつ線で結んだ。
記憶の中には、複数の日本法人から政治資金が流れた記録もあった。
いずれも日本で設立され、長く上場している会社である。
外国資本の比率が高いというだけで、個々の献金が直ちに違法になるわけではない。
「じゃあ、献金自体は普通なんですか?」
「書類だけを見れば、そう見えるものもある」
「普通の会社から、普通に献金されたように?」
「ああ」
真壁は短く答えた。
「問題は国籍でも、資本が入っていることだけでもない」
複数社の献金時期。
役員と投資会社の接点。
秘書を通じて動いた要望。
周の任務と重なる日付。
「誰が同じ方向へ動かしたかだ」
澪は、会社名の横へ日付を書くための空欄を残した。
周の記憶だけでは、正式な社名や数字が曖昧なものもある。
何度も見た一覧なら形は残っていても、一行ずつ正確に暗記しているわけではない。
米国内へ伸びる線も同じだった。
先端材料を扱う企業。
光学関係の研究機関。
半導体の開発部門。
現地の連絡役。
周が直接連絡した相手もいれば、名前だけ見た人物もいる。
「アメリカにもいるんですね」
「日本だけで終わる組織ではないようだ」
「押入商会だけを狙って作られたわけでもない」
「当然だろう」
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
狙われていることが軽くなったわけではない。
それでも、自分たちだけのために国家規模の組織が作られた、という話でなくてよかった。
「全部、分かりますか?」
「いや」
真壁の答えは早かった。
周が知るのは、自分が担当する層までである。
別の地域に何人いるのか。
趙麗華がほかに誰を動かしているのか。
王建国がどこまで報告を上げているのか。
周の記憶は、その手前で途切れていた。
「一人捕まえたら、組織図が全部出てくるわけじゃないんですね」
「そのような組織なら、とっくに消えている」
「嫌なところだけ、ちゃんとしてますね」
「ちゃんとしているから、今まで続いているのだよ」
真壁がゆっくり目を開けた。
澪のノートには、名前と矢印が増えている。
それでも空白の方が多かった。
「頭の中にあるものだけでは足りんな」
「これでも、かなり出ましたよ」
「正確な一覧ではない」
人名の表記。
使用している別名。
担当する拠点。
企業名。
案件番号。
一文字違えば、別人や別会社を疑うことになる。
「じゃあ、どうするんですか?」
「本人に送ってもらう」
澪はノートから顔を上げた。
「起こして、お願いするんですか?」
「お願いして聞く相手ではないだろう」
もっともだった。
しかし、真壁の口調には、別の方法がすでに決まっている響きがあった。
真壁は再び周の記憶へ意識を向けた。
周には、日本担当の現地責任者として与えられた権限がある。
担当圏内の人員。
直接の協力者。
接触に使う拠点。
関連する案件。
米国側との一部連絡窓口。
そして、中国系資本による出資や融資、役員派遣を通じ、第三処が実質的な影響下へ置いたと管理している企業一覧。
すべてを周が暗記しているわけではない。
だが、本人の権限で内部情報を確認することはできる。
「次に組織の情報へ接続した時、自分の担当範囲を確認させる」
真壁が言った。
「人員、使用名、役割、拠点、案件、協力者、それに企業一覧をまとめさせる」
「周さんにですか?」
「彼の権限で見える範囲だけだ」
「そのあと、こっちへ送らせる?」
「暗号化してな」
真壁は、受信者の分からない電子メールアドレスを周の記憶へ組み込むつもりだった。
送信先の名前も組織も、周には分からない。
ただ指定された宛先へ、まとめた資料を送る。
送信後は、作業に使った情報と記録を消す。
最後に、自分がそれを行った記憶も失う。
「それ、暗示ですよね」
「そうなる」
「人を操るやつですよね」
「一度、彼の権限内にある資料を送ってもらうだけだ」
「だけ、の使い方がさっきから大きすぎません?」
心臓を止めただけ。
資料を送らせるだけ。
真壁の「だけ」は、澪が普段使っているものより範囲が広い。
「人格や忠誠心まで変えないでください」
「必要ない」
「終わったあとも、ずっと命令を聞くようにはしない」
「一度で消えるようにする」
「関係ない情報へ勝手に入らせない」
「本人のセキュリティレベルまでだ」
澪が一つずつ確認すると、真壁も一つずつ答えた。
その返事を聞き終えても、胸のつかえが消えたわけではない。
けれど、周を殺して情報を奪うよりは戻れる場所が残る。
真壁は短く息を吐いた。
「またインテリジェンス活動か」
「また?」
「澪君は『007』は知らないか」
あまりに急に話が曲がったため、澪は一拍遅れた。
「『ミッション:インポッシブル』なら知ってますよ。トム・クルーズの」
「ショーン・コネリーなど知らないだろうな」
「名前くらい知ってます」
「作品は?」
「……ちゃんと見たことはありません」
「やはりな」
「何の確認ですか」
「世代の確認だよ」
「今する確認じゃないですよね」
真壁の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
澪は呆れながらも、張り詰めていた息をようやく吐けた。
深夜の車内で、仮死状態の工作員を収納しながら話す映画ではないと思う。
少なくとも、澪が知っている『ミッション:インポッシブル』には、こんな地味で怖い場面はなかった。
真壁は必要な指示だけを周の記憶へ組み込んだ。
次に第三処の情報へ接続した時、それを通常業務だと思って実行する。
権限内の情報をまとめる。
暗号化する。
指定されたアドレスへ電子メールで送る。
送信した痕跡を、自分が消せる範囲ですべて消す。
そして、実行したことを忘れる。
命令は一度だけで消える。
周の人格も、第三処で積み上げた知識も残る。
「これでよい」
真壁が目を開けた。
次に、今日の商談が終わってからの記憶を整える。
郭たちとの商談は予定どおり終わった。
実働要員は指示どおり撤収した。
押入商会に異常はなかった。
自分は一人で移動し、疲れを感じて車を止めた。
澪と真壁に追われた記憶はない。
《重力》で倒された記憶もない。
澪は、周が消えたままの助手席前方を見た。
日付は、もう変わっている。
「昨日のことは忘れてください」
口にしてから、ずいぶん一方的な言葉だと思った。
「……って、言って済む話じゃないですよね」
「済ませるためではない」
真壁は収納へ意識を向けたまま答えた。
「これ以上、誰かを動かさせないためだ」
真壁が周明宇を取り出すと、靄の中から人の身体が戻った。
心臓は止まったままである。
呼吸もない。
澪の胸が、また強く鳴り始めた。
「時間、大丈夫ですよね?」
「ああ」
真壁はエリクサーを使った。
周の喉が小さく動く。
胸が一度だけ持ち上がり、そのまま止まった。
澪は息を詰めた。
次の瞬間、もう一度胸が動く。
浅い呼吸が続いた。
真壁が首筋へ指を当てる。
「戻った」
「本当に?」
「確認したまえ」
澪は周の手首へ触れた。
今度は、弱いながらも脈がある。
「あります」
自分の声が、思ったより大きく出た。
「よかった……」
「最初から戻すつもりだ」
「分かってても、止まってるのを見たら怖いんです」
周はすぐには目を覚まさなかった。
呼吸と脈が安定するまで待ち、真壁は本人の車へ運んだ。
争った痕跡は残っていない。
所持品も、車内も変わらない。
二人は離れた場所へ戻り、《世界地図》で赤い反応を見守った。
しばらくして、点がわずかに動く。
「起きました」
周は運転席で時計を見た。
強い疲労で、少し意識を失っていたと思っている。
胸元へ一度手を当てたが、異常は感じなかったらしい。
車の明かりがつく。
赤い反応が道路へ戻った。
「帰りますね」
「そのようだな」
点が住宅地の一角で止まるまで、澪は地図を閉じなかった。
「帰りました」
「では、我々も戻ろう」
緊張が抜けた途端、澪は座席へ深く沈んだ。
大学三年生の春にする経験ではない。
大学院を断った時に口にした本業が、深夜の工作員追跡と記憶操作だったとは、高槻教授も想像していないはずである。
「教授には、やっぱり会社の詳しい業務内容は言えませんね」
「言うつもりだったのかね」
「金属材料を輸入してます、までです」
「それで十分だ」
澪は窓の外へ流れる街灯を見た。
十分という言葉の意味が、今日だけで何度も変わった気がした。
翌朝、周明宇は普段と変わらない時刻に起きた。
胸に痛みはない。
昨夜、車内で少し眠ってしまったことだけは覚えている。
押入商会への接触は、表向きの商談として終わった。
郭文博からの報告も、特に異常はない。
周はいつもの場所で、第三処の情報へ接続した。
その瞬間、自分の担当範囲を点検しておく必要があると思った。
唐突ではあったが、不自然とは感じなかった。
担当する人員。
現地要員の実名と使用名。
協力者。
接触先。
拠点。
案件。
米国内の連絡窓口。
中国系資本の出資や融資を通じ、第三処が実質的な影響下へ置いたと管理している企業。
周は自分の権限で開ける情報だけを集めた。
権限外の領域には触れない。
一覧を一つにまとめ、暗号化する。
送信先は、見覚えのない電子メールアドレスだった。
誰が使っているのかは分からない。
それでも周は、疑問を持たなかった。
宛先へ資料を送り、送信完了を確認する。
作業に使った一時情報と、端末上に残る記録を消す。
最後の処理が終わると、周は一度だけ瞬きをした。
画面には、普段使っている業務資料が開いている。
何か別の作業をしていた感覚はない。
席を立ち、いつものように次の予定へ向かった。
押入商会の新事業所で、真壁の端末が短く通知音を鳴らした。
画面に表示されたのは、送り主の分からない一通の電子メールだった。
件名にも意味のある言葉はない。
「来た」
真壁の声に、澪が隣の席から寄ってきた。
「周さんからですか?」
「そのようだ」
「本人は覚えてないんですよね」
「覚えていれば、暗示が失敗している」
「失敗したかどうかは、どうやって確認するんです?」
「今すぐ周さんへ聞きに行くかね」
「行きません」
澪は即答した。
もう一度心臓を止める流れになりそうで嫌だった。
真壁が資料を開く。
昨夜、記憶から拾った断片とは比べものにならない量だった。
実名。
使用名。
所属。
担当する地域。
接触先。
拠点。
案件の識別情報。
日本と米国をつなぐ連絡役。
周のセキュリティレベルで参照できる範囲が、一覧として並んでいる。
「多いですね」
「これでも、第三処のすべてではない」
「周さんが見られる分だけですよね」
「ああ」
別の一覧には、日本法人の名前が並んでいた。
中国系資本が入っている会社を無差別に集めたものではない。
第三処が、資金、役員、仲介者などを通じ、影響を及ぼせる先として管理している企業だった。
「ここに載ってる会社は、全部悪い会社なんですか?」
「そう決めるのは早い」
真壁は一覧を閉じずに答えた。
「経営陣全員が知っているとは限らん。社内の一部だけが利用されている会社もあるだろう」
「じゃあ、この一覧だけで決めつけない」
「調べる入口にはなる」
昨夜見た献金企業も、その中にあった。
役員名。
投資会社との関係。
周の側で管理されていた接触先。
記憶だけでは曖昧だった日付も、資料には正確に残っている。
「本当に送ってきましたね」
「自分で送ったのだよ」
「そこが一番怖いんです」
澪は画面から真壁へ視線を移した。
「……真壁さんって、敵に回したくない人ですよね」
真壁は少し考えた。
「今さらではないかね、澪君」
「前から知ってましたけど、今日は更新されました」
「何がだね」
「敵に回したくない人ランキングです」
「一位か」
「ほかに候補がいません」
「それはランキングとは言わんな」
「じゃあ殿堂入りで」
「不名誉な殿堂だな」
澪は小さく笑った。
笑ってから、昨夜から胸に残っていた固いものが少しだけほどける。
「でも、せめて心臓を止める前に言ってください」
「言えば止めただろう」
「止めますよ」
「だから言わなかった」
「そこで綺麗につなげないでください」
真壁は何も答えず、資料の次の項目を開いた。
納得していないのは澪の方だけらしい。
その日の夜、共用机の上には二組の資料が並んだ。
一つは日本向け。
もう一つは米国向けである。
周から届いた一覧を、そのまま送りつけるわけではない。
出所不明の内部資料だけでは、受け取った側も動き方を決められない。
真壁は公開されている法人情報、政治資金の記録、役員のつながり、会合や訪問の日付を重ねた。
澪は昨夜のノートと受信資料を照らし合わせた。
「この人は、周さんが直接会ってます」
「日付は?」
「資料では三月十二日です。公表されている会合も同じ日ですね」
「両方を書いておこう」
誰が工作員かを断定するのではない。
この日付を調べれば、別の記録と一致する。
この会社の資金を追えば、同じ仲介者へつながる。
この人物の移動を確認すれば、周の担当案件と重なる。
受け取った側が、自分たちの権限で裏を取れる形へ変えていく。
「老政治家の名前は、どうします?」
「周辺との線は載せる」
「本人が知っていたとは書かない?」
「分からないことを書く必要はない」
真壁は、政治家本人の欄へ断定を置かなかった。
代わりに私設秘書、別の日本人秘書、献金企業の役員、投資会社、仲介者の接点を並べる。
「これを見た人が調べるんですね」
「それが彼らの仕事だ」
米国向けには、米国内の連絡役、対象企業、研究機関、日本側の周へつながる接点をまとめた。
こちらも、結論ではなく確認できる入口を優先する。
資料を作り終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。
澪は肩を回した。
「産業スパイ対策って、最後は書類仕事なんですね」
「銃撃戦の方がよかったかね」
「よくないです」
「なら、平和で結構ではないか」
「昨日、人の心臓を止めた人が言う台詞じゃありません」
「今日は止めていない」
「一日で区切らないでください」
真壁は、日本向け資料を二つに分けた。
一つは恋澄防衛大臣。
技術流出と、米国側の工作網へつながる内容を含める。
もう一つは首相官邸。
首相兼与党党首へ、党内の老政治家周辺に伸びた線を直接届けるためである。
「同じものを二か所へ送るんですか?」
「片方で止まっても、もう片方がある」
「信用してないんですね」
「信用することと、経路を一つにすることは別だ」
米国向けは、在日米国公館へ送る。
匿名の資料として扱われるだろう。
それでも、中に記した固有名と日付を照合すれば、ただの怪文書ではないと分かるはずだった。
翌朝、机の上には三つの封筒が並んでいた。
宛先だけが違う。
恋澄防衛大臣。
首相官邸。
在日米国公館。
真壁が最後の封を閉じる。
澪は、三つ並んだ封筒を見た。
これだけの名前と拠点と企業が入っている。
受け取った側が動けば、第三処の日本での活動も、米国の線も大きく崩れるかもしれない。
「これで終わりますか?」
「いや」
「え?」
真壁は封筒から手を離した。
「我々がやるのは、ここまでだ」
少し間を置く。
「ここからは、彼らの仕事だよ」