押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第366話 触るな

 

 周明宇は、いつもと同じ時刻に自分の席へ着いた。

 

 胸に痛みはない。

 

 息苦しさも、思考の濁りもなかった。

 

 押入商会の監視を終えた夜、強い疲れから車内で短く眠ってしまった。

 

 彼の記憶に残っている異常は、それだけである。

 

 郭文博から上がってきた報告にも、特別なことは書かれていない。

 

 押入商会は、提携話に興味を示さなかった。

 

 不自然な質問はなかった。

 

 こちらの素性を疑った様子もない。

 

 条件が合わず、次の話へ進まなかった商談の一つ。

 

 郭はそう結んでいた。

 

「すぐに次を動かす必要はないでしょう」

 

 資料を読み終えた趙麗華が言った。

 

「元々、短期間で結果を出す案件ではありません」

 

「はい」

 

「東都側の情報も、もう一度整理してください」

 

「分かりました」

 

 周は資料を受け取り、自席へ戻った。

 

 部屋の中では、普段どおりの小さな報告が行き交っている。

 

 誰も声を荒げていない。

 

 押入商会からの抗議も、警告も、脅迫も届いていなかった。

 

 第三処の認識では、案件は一度足を止めただけだった。

 

 何も起きていない。

 

 

 

 恋澄防衛大臣の机に置かれた封筒には、差出人の名前がなかった。

 

 封筒だけなら、そのまま処理されていたかもしれない。

 

 中に書かれていた日付と実名が、それを許さなかった。

 

 企業名。

 

 研究機関。

 

 複数の人物が同じ日に会った場所。

 

 法人の公開情報から追える役員の異動。

 

 未確認の推測には、そうと分かる印まで付けられている。

 

 恋澄は最後の頁まで読み、最初の頁へ戻った。

 

「結論は信じなくていい」

 

 向かいに座る男が、わずかに目を見開いた。

 

「はい?」

 

「ここにある日付を三つ、人物を二人、会合が実際にあったかだけを確かめてくれ」

 

「資料全体ではなく?」

 

「最初から全てを追えば、資料に引きずられる」

 

 恋澄は封筒を伏せた。

 

「まず、それが怪文書かどうかを確かめる」

 

 同じ頃、首相官邸でも、別の封筒が開かれていた。

 

 そちらの資料で大きく扱われていたのは、前首相の時代に党幹事長を務めた老政治家の周辺だった。

 

 官邸側も結論は保留した。

 

 ただし、具体的に書かれた日付まで無視することはできなかった。

 

 

 

「予定時刻を過ぎました」

 

 報告を受けた周は、目元の時刻を確認した。

 

 まだ昼前である。

 

「どれくらいだ」

 

「十二分です」

 

 それだけの遅れなら、異常と呼ぶほどではない。

 

 予定を勘違いしている。

 

 移動が遅れている。

 

 急な用事が入った。

 

 理由はいくらでも考えられる。

 

「もう少し待て」

 

「分かりました」

 

 周は手元の仕事へ戻った。

 

 三十分後、同じ人物から、まだ反応がないと報告が入った。

 

 周は予定表へ目を通し、次の確認時刻を指定した。

 

 それでも、まだ一件だけだった。

 

 昼を過ぎた頃、別の担当者が来た。

 

「二件目です」

 

 周が顔を上げる。

 

「同じ経路か?」

 

「いえ。所属も案件も別です」

 

 一つ目は、定められた応答を返さない。

 

 二つ目は、献金を行っている企業の関係者が、その日の予定を急に取り消していた。

 

 理由は伝えられていない。

 

「先方の都合では?」

 

「その可能性はあります」

 

「では、まだ分けて扱え」

 

 担当者が去る。

 

 周は姿勢を変えなかった。

 

 ただ、開いていた資料の文字を、しばらく追っていなかった。

 

 午後、三つ目が消えた。

 

 研究機関にいる協力者が、予定していた場所へ現れない。

 

 連絡も戻らない。

 

 さらに、企業内の別の接点が、急に面会を断ってきた。

 

 所属はすべて違う。

 

 担当している案件も重なっていない。

 

 対象となった人物同士に、直接のつながりはなかった。

 

 共通しているのは、周明宇が担当する範囲にいたことだけだった。

 

「一覧を作ってくれ」

 

 周は初めて、待てとは言わなかった。

 

 

 

 劉浩は、反応を失った人物を案件ごとに並べた。

 

 一人目は政治関係の経路。

 

 二人目は法人側の協力者。

 

 三人目は研究機関の内部。

 

 別の一人は、押入商会とはおよそ関係のない案件にいた。

 

「この三人は、宮坂の案件を知りません」

 

 劉の言葉に、趙麗華が視線を上げた。

 

「東都との接点は?」

 

「ありません」

 

「特殊材料の調査は?」

 

「そちらも無関係です」

 

 机の奥に座っていた王建国が、列の一番下へ目を落とした。

 

 そこには、宮坂遼平の名がある。

 

 その上に並ぶ人物と、宮坂の間には何もなかった。

 

「漏れたのは、宮坂の情報ではない」

 

「はい」

 

 趙が答える。

 

「宮坂に関する報告より、もっと広い情報が渡っている可能性があります」

 

「広いだけでは説明にならん」

 

 王は項目を一つずつ見た。

 

「この名前を同じ紙へ並べられる者は、それほど多くない」

 

 誰かが漏らした。

 

 それはほぼ間違いない。

 

 しかし、誰が、どこから、どの方法で、という問いには、まだ一つも答えがなかった。

 

 

 

 翌日、米国側から報告が入った。

 

 日本国内の数と比べれば少ない。

 

 しかし、内容は同じだった。

 

 先端材料を扱う企業内の接点。

 

 光学関係の研究機関。

 

 技術情報の収集に利用していた協力者。

 

 一部が同時に使えなくなっている。

 

「日本だけではありません」

 

 趙が、追加された項目を示した。

 

「どこまでだ」

 

「周明宇が参照できた範囲と一致します」

 

 劉が表を見直した。

 

「多すぎるのではありません」

 

「いいえ」

 

 趙は首を横に振った。

 

「正確すぎるんです」

 

 米国にある第三処の網が、すべて潰れたわけではない。

 

 趙や王しか知らない案件は、動いている。

 

 別の地域にいる要員も、何も起きていない。

 

 切られたのは、周の担当する日本からつながった線だけだった。

 

 趙は幾つかの表を重ねた。

 

「誰かが、周明宇の見える範囲を丸ごと持っています」

 

 王はすぐに答えなかった。

 

 部屋の中で、書類の紙が元の形へ戻ろうとする小さな音だけがした。

 

 

 

 周は、三十分も待たず呼ばれた。

 

 趙の正面へ座る。

 

 横には王がいた。

 

 誰も声を強めない。

 

 それが、かえって通常の報告とは違っていた。

 

「商談後の行動を、もう一度説明して」

 

 周は記憶をたどった。

 

 郭文博たちが押入商会の新事業所から出てくる。

 

 実働要員の三人は、すでに所持品の回収を終えていた。

 

 商談は成立していない。

 

 追加の指示もない。

 

「実働要員を撤収させ、自分も帰宅しました」

 

「押入商会の人間と接触は?」

 

「ありません」

 

「追跡された可能性は?」

 

「確認できません」

 

 言い切ってから、周はその答えが否定ではないことに気づいた。

 

「確認していない、ということ?」

 

「はい」

 

 周は取り繕うようなことを言わなかった。

 

 彼の中に、追跡された記憶はない。

 

 それでも、記憶にないことを、なかったと断定するのは間違いだった。

 

「私が、何かを見落とした可能性はあります」

 

 趙は周の顔を見た。

 

「押入商会に、こちらを警戒した反応は?」

 

「ありません」

 

「断定できる?」

 

「いえ」

 

 周の声は変わらなかった。

 

 嘘をついている人間の反応ではない。

 

 それを信じることと、周への疑いを消すことは別だった。

 

 周の権限を確認した結果、権限外の情報へ入った形跡はなかった。

 

 日本担当責任者として、周が日常的に参照できる情報だけである。

 

 担当範囲を点検することも、彼の業務から外れていない。

 

 情報を外へ送ったという証拠も、その場では見つからなかった。

 

「今は通常業務だけを続けて」

 

 趙が言った。

 

「分かりました」

 

 周は一度頭を下げ、部屋から出ていった。

 

 王は扉が閉じるのを待った。

 

「どう見る」

 

「嘘をついているようには見えません」

 

「無実という意味か」

 

「いいえ」

 

 趙はすぐに否定した。

 

「本人の中では、報告した通りの記憶なのだと思います」

 

「記憶の間違いか」

 

「まだ分かりません」

 

 記憶を書き換えられたという発想ではない。

 

 彼が異常な体験だと認識できなかった。

 

 疲労の影響。

 

 見落とし。

 

 本人の理解が間違っている可能性。

 

 そこまでの考えなら、現実の範囲に収まっていた。

 

「分かることを並べます」

 

 劉が口を開いた。

 

「周の権限範囲が狙われています」

 

「宮坂と無関係の案件も含まれます」

 

「日本と米国で、同じ時期に複数の接点が使えなくなっています」

 

「郭も周も帰っています」

 

「押入商会からの警告はありません」

 

「最後に、情報を取られた方法が分かりません」

 

 一番悪いのは、最後の一項だった。

 

 内部から漏れたのか。

 

 別の場所で個別に拾われた情報が、まとめられたのか。

 

 第三処が気づいていない別の穴があるのか。

 

 どの仮説も、消えた名前が周の権限とだけ正確に重なる理由を説明しきれない。

 

 王は、その答えが出るまで待とうとは思わなかった。

 

「日本の案件を止めろ」

 

 趙が王を見た。

 

「押入商会だけですか?」

 

「全部だ」

 

 王の声に迷いはなかった。

 

 日本国内で動いている案件を一時凍結。

 

 露見した可能性のある要員は撤収。

 

 急な撤収の方が不自然な者は、その場に残して活動を止める。

 

 協力者への接触も中止する。

 

 現地へ残せば危険な資料は処分する。

 

 ただし、中央に集約された分析情報まで破棄する必要はない。

 

「米国は?」

 

 王は、米国側で沈黙した接点の数を見た。

 

 すべてではない。

 

 周が存在を知っていた線だけだった。

 

「周の一覧に含まれる線は切れ」

 

 趙が小さく頷いた。

 

 第三処全体は残る。

 

 米国の全工作網を自ら捨てる理由もない。

 

 それでも、日本で長年築いてきたものの大部分は、この命令で動かなくなる。

 

 押入商会への接触は、その中でも優先して停止された。

 

 命令は、その日のうちに日本担当の各班へ回った。

 

 理由を詳しく知る者は限られている。

 

 現場へ届いたのは、進行中の接触を止め、次の指示があるまで新しい行動を起こすなという短い命令だけだった。

 

 昨日まで準備していた面会が消える。

 

 長く育ててきた協力者との連絡も止まる。

 

 何年も表向きの仕事を続けてきた者には、生活を変えず、その場から動くなと伝えられた。

 

 急に姿を消せば、それ自体が答えになるからだった。

 

 第三処の中でも、理由を知らされない者から問い合わせが相次いだ。

 

 その一つ一つに答えている時間はない。

 

 趙は、命令が届いたことだけを確認させた。

 

 郭文博が呼ばれたのは、最後だった。

 

「押入商会との案件は中止ですか?」

 

「中止よ」

 

「別の名義でも?」

 

「全部です」

 

 郭は一瞬だけ黙った。

 

 提携先を装った会社も、用意した経歴も、商談用の資料も、まだ使える状態にある。

 

 押入商会から疑われた手応えもなかった。

 

「私の商談に問題がありましたか」

 

「現時点では、そう判断していません」

 

「では、何が?」

 

「答えられません」

 

 趙がそう言うと、郭はそれ以上聞かなかった。

 

 命令の重さを理解できない人間なら、最初からこの仕事には選ばれていない。

 

「押入商会には、今後一切接触しないでください」

 

「分かりました」

 

 郭は席を立ち、扉の前で一度だけ振り返った。

 

「周さんにも、同じ命令が?」

 

「あなたが知る必要はありません」

 

 郭は頷いて部屋を出た。

 

 廊下の向こうでは、周が別の担当者へ普段どおり指示を出している。

 

 商談へ行った郭も戻った。

 

 監視していた周も戻った。

 

 押入商会に近づいた人間は、全員無事に戻っている。

 

 それなのに、その背後にあったものだけが消えていた。

 

 趙には、その事実が誰か一人を失うよりも不気味に思えた。

 

 

 

 王建国は、押入商会に関する報告をもう一度読んだ。

 

 東都特殊金属試作へ入った宮坂遼平は、普通のフローライトを持ち帰った。

 

 郭文博は、商談を断られただけで帰ってきた。

 

 周明宇も、押入商会を監視した後、普段どおり出勤している。

 

 誰も捕まっていない。

 

 脅迫状も届かない。

 

 警告の電話もない。

 

 それでいて、周の担当範囲にあった人間が、一人ずつ消えている。

 

 押入商会がやったと証明するものはない。

 

 それどころか、押入商会が何かをした形跡すらなかった。

 

 だが、接触した直後に、押入商会とは無関係の案件まで露出した。

 

 王は、証明できないから安全だとは考えなかった。

 

 与えた損害より、受けた損害の方がはるかに大きい。

 

 そして今も、押入商会の材料がどこから来るのか、まるで分かっていない。

 

 手段が見えない。

 

 限界も見えない。

 

 それが、どんな攻撃よりも扱いにくかった。

 

 劉は、考えられる可能性を三つに分けた。

 

 一つ目は、第三処内部からの漏洩。

 

 二つ目は、日本側が長い時間をかけて個別の接点を把握していた可能性。

 

 三つ目は、その両方でも説明できない別の手段だった。

 

「内部漏洩なら、周さんの範囲だけに留まる理由が弱いです」

 

 劉が最初の項目へ印を付けた。

 

「周本人が渡したのなら一致します」

 

「だが、証拠がない」

 

「はい」

 

 王の指摘に、劉はすぐ頷いた。

 

「日本側が以前から把握していたなら?」

 

 趙が尋ねる。

 

「全員が同じ時期に動いた理由が残ります」

 

「匿名資料が届いたから動いた可能性はある」

 

「あります」

 

 劉は否定しなかった。

 

「ただ、その資料を誰が作ったのかという問いへ戻ります」

 

 どの仮説を選んでも、最後には同じ空白が残る。

 

 周明宇の知る情報を、誰が手にしたのか。

 

 いつ手にしたのか。

 

 なぜ周本人が、それに気づいていないのか。

 

 王は三つ目の項目を見た。

 

 説明できないからといって、超常的な答えを置くつもりはない。

 

 分からないものは、分からないまま危険として扱う。

 

 情報を扱う組織にとって、それは敗北を認めることではなかった。

 

 次の損失を止めるために必要な判断だった。

 

 

 

 日本国内では、匿名資料の一部が事実と一致した時点で、確認の範囲が広げられた。

 

 恋澄のもとへ、最初の報告が戻ってきたのは、封筒を開けた日の夕方だった。

 

「日付は一致しました」

 

「人物は?」

 

「実在します」

 

「会っていたか」

 

「別の記録でも確認できました」

 

 恋澄は答えを聞き終えても、すぐに資料を開かなかった。

 

「残りも確かめろ」

 

「全てですか?」

 

「証明できるものだけでいい」

 

「分かりました」

 

 数日後、首相官邸側で確認された内容と、恋澄の側で確認された内容が重なった。

 

 首相官邸側が追ったのは、党内の人脈と政治資金だった。

 

 恋澄側が追ったのは、技術情報と研究機関へ伸びた線だった。

 

 入り口は違っていた。

 

 それでも、両方の線は同じ場所へ返ってきた。

 

 前首相の時代に党幹事長を務めた老政治家の周辺である。

 

 中国籍の私設秘書がいる。

 

 その国籍自体に問題があるわけではない。

 

 問題は、秘書が周明宇の記録にある仲介者と複数回接触していたことだった。

 

 日本人秘書は、献金企業の役員と同じ会合へ出ている。

 

 その企業には、中国系投資会社から出資と融資がある。

 

 これも、それだけなら異常とは言えない。

 

 献金も、個々の書類だけを見れば、形式の上では通常の政治活動に見える。

 

 しかし、時期を並べる。

 

 人物を結ぶ。

 

 行われた要望と、第三処の案件を重ねる。

 

 すると、別々に見えていた線が、同じ方向へ並んだ。

 

 その段階で、恋澄と首相官邸は、互いが同系統の資料を受け取っていたことを知った。

 

 もう一方だけで止めることはできない。

 

 さらに、米国側でも日本から届いた資料の一部が、既存の断片と一致していた。

 

 三つの封筒は、差出人が分からないまま、三つとも残った。

 

 

 

 米国へ送られた資料も、最初から事実として扱われたわけではなかった。

 

 匿名の情報には、送り主の意図が混じる。

 

 一部だけが正しく、残りが誘導ということもある。

 

 受け取った側は、資料に書かれた結論を外し、確認できる日付と接点だけを抜き出した。

 

 すると、日本の企業とつながる一人の名前が、以前から保留されていた記録と重なった。

 

 別の研究関係者についても、資料にある時期と、説明のつかない情報の動きが一致した。

 

 二つが一致しても、全体が正しい証明にはならない。

 

 それでも、何もしない理由はなくなった。

 

 関係する組織へ、通常の確認が入った。

 

 連絡先として使われていた人物は、第三処との接触を止めた。

 

 もう一人は、所属先の判断で担当から外れた。

 

 遠く離れた米国で起きた小さな変化は、第三処の報告書では、二つの経路が同時に失われたという一行へ変わった。

 

 そこにも、押入商会の名前は出てこない。

 

 真壁久忠の名前も、篠原澪の名前もない。

 

 第三処から見れば、自分たちの指先だけが、理由も分からず一つずつ切り落とされているようなものだった。

 

 

 

 恋澄が首相と会ったのは、公の予定に載らない時間だった。

 

 机の上には、同じ人物と企業の名前が、別々の経路から並んでいる。

 

「君も、あの人には随分と邪魔をされたそうだな」

 

 首相が老政治家の名前を見ながら言った。

 

「予算、人事、法案。どれからお聞きになりますか」

 

「全部聞いていたら朝になるな」

 

 恋澄は農水省にいた頃、老政治家から何度も足を掛けられた。

 

 大詰めとなった予算折衝の前に、党側から別の条件を差し込まれた。

 

 決まりかけていた人事案を翻された。

 

 進めていた政策は党内の手続で寝かされ、遅れが出た後には農水省の調整不足だと言われた。

 

 一つなら政治の中で起き得る。

 

 二つでも、偶然という言葉は使えた。

 

 しかし恋澄は、ひとつも忘れていなかった。

 

「では、結論だけ申し上げます」

 

 恋澄は確認済みの資料を閉じた。

 

「見逃す理由はありません」

 

「私もだ」

 

 首相の返事は短かった。

 

 他の人物の名なら、もう少し別の言い方をしたかもしれない。

 

 現首相の派閥が政治資金問題で弱った時、老政治家は混乱へ付け込んだ。

 

 首相側の人間を切り崩し、党内の退陣論を強めた。

 

 弱った人間へ手を緩めるような老政治家ではなかった。

 

「私の首を取りに来た時、あの人は政治とはそういうものだと言った」

 

「覚えておられたのですか」

 

「忘れる理由がない」

 

 首相は老政治家の名前から、周辺人物の一覧へ視線を移した。

 

 本人が、第三処という組織の正体まで知っていたという証拠はない。

 

 組織から直接指示を受けた形跡もまだ出ていない。

 

 しかし、自分の私設秘書と献金企業が、結果として外部の意向を政治の中へ運べる位置にいた。

 

 党首として、それを放置できない。

 

 個人として、放置したくもなかった。

 

「確認できるものは、全て確認しろ」

 

 首相は言った。

 

「証明できないことは使うな」

 

「承知しました」

 

「ただし、確認できたものは一つも落とすな」

 

 恋澄はわずかに目を細めた。

 

「容赦はしない、と」

 

「先生には、政治のやり方を教わったからな」

 

 首相は、数秒だけ老政治家の名前を見た。

 

「ならば、こちらも政治をしよう」

 

 

 

 それから数週間、老政治家の周辺からは、一つずつ実際の問題が見つかった。

 

 私設秘書と仲介者の会合。

 

 献金企業の役員と投資会社の関係。

 

 融資が行われた時期と、政治側から要望が出された時期の重なり。

 

 それぞれが、匿名資料の記載と同じ方向を示していた。

 

 老政治家本人が、第三処の存在を知っていたという証拠は最後まで出なかった。

 

 だが、本人の周囲にあった幾つもの線が、利用されていたことは否定できない。

 

 党内では、老政治家と距離を置く人間が増えた。

 

 長年、老政治家の部屋へ顔を出していた議員が、急に予定を入れなくなった。

 

 会合へ出席するはずだった人数が、日を追うごとに減った。

 

 政治家にとって、それは新聞の見出しより早く結果を告げる動きだった。

 

 首相は、老政治家へ確認された事実だけを示した。

 

 第三処の名前について知っていたとは言わない。

 

 未確認の意図も問わない。

 

 秘書、企業、投資会社、仲介者の間で、実際に確認された事実だけが机に並べられた。

 

「これで私を犯罪者にでもするつもりか」

 

 老政治家の声には、まだ力があった。

 

「現時点で、私からそう申し上げるつもりはありません」

 

 首相は穏やかに答えた。

 

「では、何の話だ」

 

「政治の話です」

 

 老政治家の目が、わずかに細くなった。

 

 首相は、党として次の選挙で支えることはできないと伝えた。

 

 党の要職に残ることも難しい。

 

 引退しても、周辺人物と資金の線に対する確認は止まらない。

 

 それは脅しではなかった。

 

 既に動き始めている事実の説明だった。

 

「私が引けば、丸く収まると?」

 

「政治的な混乱は小さくできます」

 

「調査は止まらんのだろう」

 

「それを決めるのは、私ではありません」

 

 党内の支えを失い、次の選挙で公認されない。

 

 その状態で周辺の問題を問われ続ければ、老政治家の派閥も残らない。

 

 この男は、それを説明されるまでもなく理解していた。

 

「随分と用意がいいな」

 

「先生ほどではありません」

 

 その返事を聞き、老政治家は初めて苦笑した。

 

 誰に仕込まれた資料なのか。

 

 自分を狙って作られたものなのか。

 

 それを問うことに、もう政治的な意味はなかった。

 

 逃げ道は、すでに一つしか残っていない。

 

 

 

 前首相時代に党幹事長を務めた老政治家が、次回選挙へ出馬しない意向を表明した。

 

 後進へ道を譲る。

 

 世代交代が必要な時期に来た。

 

 発表の場では、穏やかな言葉が並んだ。

 

 党の要職からも離れる。

 

 引退は一時的な休養ではなかった。

 

 次の選挙に出ないことと、政界から身を引くことが明言された。

 

 ただし、引退と同時に、秘書や献金企業に対する確認まで終わったわけではない。

 

 老政治家本人がどこまで知っていたのかも、未だ確認の対象だった。

 

「引くそうだ」

 

 首相が恋澄へ伝えた。

 

「そうですか」

 

「嬉しそうには見えないな」

 

 恋澄は、一瞬だけ返事を選んだ。

 

「農水省にいた頃よりは、ずっと穏やかな終わり方です」

 

 首相は口元を緩めなかった。

 

 ただ、報告書を閉じる指に、少しだけ力が入った。

 

 

 

 澪がその報道を見たのは、大学から新事業所へ戻った後だった。

 

 スマートフォンの画面には、老政治家の引退会見が映っている。

 

 数週間前の澪なら、見出しを読んだだけで次の記事へ送っていたかもしれない。

 

 今は、表向きの理由をそのまま受け取れなかった。

 

「真壁さん」

 

 共用机で書類を見ていた真壁が、顔を上げた。

 

「これ、私たちが送った資料のせいですよね」

 

 真壁は澪が差し出した画面を見た。

 

「他の理由もあったのだろう」

 

「でも、きっかけにはなってます」

 

「そうかもしれん」

 

 真壁はそれ以上、自分の手柄のようには言わなかった。

 

 澪はもう一度、画面の中で頭を下げる老人を見た。

 

 ノートに名前と日付を書いていた時は、まだ文字だった。

 

 封筒へ入れた時も、調べる入り口になればと思っていた。

 

 その向こうで、本当に人と組織が動いた。

 

 正しいことをしたと、なかったことにするのは違う。

 

 それでも、自分の書いた一行が、誰かの人生を動かしたと知れば、何も感じずにはいられない。

 

「引退して、終わりなんですか?」

 

「いや」

 

 真壁の答えは早かった。

 

「周辺の調査は残るだろう」

 

「そうですよね」

 

「引退は罰ではない」

 

 真壁はスマートフォンから視線を外した。

 

「政治家としての処遇を、政治家が決めただけだ」

 

「確かめて、決めたのは彼らですか」

 

「ああ」

 

 澪は画面を閉じた。

 

 引退の記事は消えたが、胸に残った重さは消えない。

 

 何もしなければ、押入商会を狙っていた網も、政治の中へ伸びた線もそのまま残っていた。

 

 止めるために必要だったと、頭では分かっている。

 

 分かっていても、重いものは重かった。

 

 

 

 趙麗華が最後の報告を持って来た時、王建国は老政治家の引退記事を読んでいた。

 

 日本国内で、露見した可能性のある経路は切った。

 

 撤収できる要員は撤収した。

 

 急に動かせない者は、その場へ残して休眠させている。

 

 米国側でも、周の情報から露見する経路は切断された。

 

 日米の工作網全体が失われたわけではない。

 

 第三処も存続している。

 

 それでも、日本担当責任者の権限内にあった人員、協力者、企業、研究機関、政治経路の大部分は使えなくなった。

 

 長い時間と費用をかけ、一つずつ作った線だった。

 

 押入商会を調べた後、それらがほぼ同時に切られた。

 

 それでも、なぜ切られたのか、方法は分からない。

 

 趙は、篠原澪の資料を机へ置いた。

 

 武刺大学経済学部3年生。

 

 押入商会代表。

 

 外見だけなら、珍しい会社を経営している若い学生にしか見えない。

 

 その会社が、製造元の見えない特殊材料を継続供給している。

 

 そして今は、方法の分からない反撃まで可能な相手として、第三処の記録に残った。

 

「日本案件は、いつまで凍結しますか」

 

 王は引退記事を閉じた。

 

「凍結ではない」

 

 趙が篠原澪の資料へ目を落とした。

 

「では、押入商会は?」

 

 王はすぐに答えなかった。

 

 特殊材料の供給元を知りたかっただけだった。

 

 しかし、材料の正体は何一つ分かっていない。

 

 何も得られないまま、日本で築いたものの大部分と、米国へ伸びた線の一部を失った。

 

 王は篠原澪の資料を伏せた。

 

「今後、新しい材料が出た場合は?」

 

「記録だけ残せ」

 

「公開情報の確認は続けますか」

 

「向こうに見える動きはするな」

 

 趙は、押入商会の資料を回収しようと手を伸ばした。

 

 王は、その手が触れる前に資料を閉じた。

 

 凍結なら、状況が変われば再開できる。

 

 今回は違う。

 

 新しい命令が出るまで待て、という意味でもなかった。

 

 対象として扱うこと自体をやめろという命令だった。

 

「触るな」

 

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