澪と真壁が朝からゲンダイへ出ている日は、新事業所が少しだけ広く感じられた。
人が二人いないだけで、本当に部屋が広がるわけではない。
ただ、真壁が共用机で資料をめくる音も、澪が何かを思い出して立ち上がる気配もないと、普段より静かだった。
理央は頼まれていた記録をまとめ、最後の数字を確かめてからノートを閉じた。
向かいでは、リュシアが仕入れ帳を見ている。
まだ昼には早い。
次の仕事へ移る前に、理央は自分の《世界地図》を開いた。
《世界地図》に見えるのは、理央がこれまで訪れ、登録してきた土地だけだ。
理央は訪問済みの道を西へ追い、机の上へ広げた紙の地図と見比べた。
西境山脈の向こうにあるセレヴィアは、もう地図の外にある名前だけの国ではない。
国境近くのカルディオ。
霧の都アルヴェラ。
北岸のベルセナ村と港町トルヴィア。
澪や真壁と歩いた道は、《世界地図》の上にも細く刻まれていた。
ただし、その道からさらに西へ離れた海上の大きな島には、《世界地図》の記録が何もない。
「リュシアさん、セレヴィアの王都って、この島ですよね」
リュシアが帳面から顔を上げた。
「そうだよ」
理央が紙の地図で示した島を見て、リュシアは椅子ごと少し近づいた。
「王都リヴェルナだ」
「私、半島と北岸には行ったのに、王都は全然知らないんですよね」
「海洋国家の王都だからね」
大島に築かれたリヴェルナは、周囲の島々や大陸側の港町と船で結ばれているという。
東西の船が集まるため、セレヴィアの中でも特に人と文化が混じる町らしい。
理央は、《世界地図》にある訪問済みの土地と、紙の地図にある王都を見比べた。
「こういうところなら、大森林にエルフの里があったりしません?」
「ないよ」
リュシアは即答した。
「とっくに人に混じってる」
「……とっくに?」
「昔はまとまって暮らしてたって話もあるけどね」
今では人の町で働き、人と同じ店へ入り、近くに住んでいるという。
森の奥に隠された里を想像していた理央は、少しだけ肩を落とした。
「ドワーフは?」
「それも似たようなもんだね」
「幻想がどんどん普通に暮らしてます」
「暮らしてちゃ悪いのかい?」
「悪くはないですけど」
普通に暮らしている本人たちからすれば、勝手に森や地下へ戻されても困るだろう。
理央は次の希望を探した。
「じゃあ、獣人のお姉さんとか……」
「お姉さん限定なのかい?」
「そこは重要じゃないです」
「今、自分で付けたんだろう」
リュシアは笑いながら、西の島を指した。
「獣人族なら、セレヴィアの王都へ行けば会えるかもね」
理央の目が地図へ戻った。
「旅芸人とか、吟遊詩人もいます?」
「ケット・シーには多いって聞くよ」
「ケット・シー」
猫の獣人。
旅好きで、行商人や旅芸人になる者が多い。
その説明だけで、理央の中では、知っている国のまだ知らない王都へ行く理由がほとんど出来上がった。
以前、転職候補に現れ、澪から即座に止められた職業まで待っているかもしれない。
理央は《世界地図》を閉じた。
「リュシアさん」
「何だい?」
「ヴァルトさん、どこにいます?」
「行く気なのかい」
「まだ聞いてみるだけです」
「その顔で言っても遅いよ」
廊下の先でヴァルトを見つけた理央は、少しだけ歩調を速めた。
「ヴァルトさん」
「何でしょう」
「まだ何も言ってません」
「頼み事でしょう?」
声をかけただけで見抜かれた。
伯父だと知る前から、こういうところは変わらない。
「セレヴィアの王都へ行きませんか」
「急ですね」
「紙の地図と見比べたら、王都のところに《世界地図》の記録がなくて」
「それだけですか?」
ヴァルトは、先ほどのリュシアと同じように一度で先を読んだ。
「……獣人族がいるそうです」
「なるほど」
「あと、吟遊詩人も」
「そちらが本命では?」
「両方です」
理央が言い切ると、ヴァルトはすぐには答えなかった。
澪と真壁はゲンダイ側で仕事をしている。
異世界側には、今すぐ二人を呼び戻すような案件はない。
理央は商人としてカルディオやトルヴィアの市場を見ているが、海洋国家の中心である大島へは行っていない。
ヴァルト自身にとってもセレヴィアは未訪問で、ラウにとっては初めての外国になる。
観光だけなら断るところだが、同じ国でも地方によって商いと暮らしがどう変わるのかを見せる機会として考えれば意味はあった。
「条件があります」
「はい」
「一人で離れないこと」
「はい」
「王都と、その周辺だけにすること」
「はい」
「危険を感じたら、予定に関係なく帰ります」
「分かりました」
「今回は商談を目的にしません」
「見るだけですね」
「食べることは構いません」
理央は一度瞬いた。
「そこまで分かるんですか?」
「港町へ行って、何も食べずに帰るつもりでしたか?」
「ありません」
「では、ラウ君も連れて行きましょう」
「ラウ君もですか?」
「地図で国名を覚えるだけでは、人までは分かりません」
王都から救い出された二十人の中で、ラウは周囲をよく見ている。
教室で学んだ知識と、実際の国や人を結び付けるにはよい機会だった。
呼ばれたラウは、行き先を聞いた途端に目を輝かせた。
それでも、先にヴァルトの顔を確かめる。
「先生、本当に行っていいんですか?」
「勉強です」
「私もですよね?」
「理央さんは、自分で行くと決めたのでしょう」
「同じ扱いじゃないんですか?」
「言い出した人と、連れて行かれる人ですから」
ラウが笑った。
理央とヴァルトの血縁を知らないラウには、いつもの先生と、少し年上の仲間が話しているようにしか見えない。
二人も、その関係を説明しなかった。
理央が《転移》を使うと、三人の周囲から新事業所の景色が消えた。
次に足元を感じた時には、潮と魚の匂いが満ちている。
到着したのは、トルヴィア郊外の人目がない安全地点だった。
理央には見覚えのある港だが、ヴァルトとラウが訪れるのは初めてだった。
理央が収納から4座の空陸エアカーを出す。
靄が薄れると、石畳の端に車体が現れた。
ヴァルトが操縦席へ座り、理央は助手席、ラウは後部座席へ乗り込む。
港の外へ出てから翼を開くと、車輪が地面を離れた。
建物が低くなり、海岸線が一本の線へ変わっていく。
やがて陸地が切れた。
その先は、どこまでも海だった。
理央は窓の下を覗き込んだ。
白い波の間を漁船が進み、その沖には大きな交易船が帆を張っている。
大小の島が点々と浮かび、島と島の間を船が行き交っていた。
「……異世界っぽい」
「今までは何だと思っていたのです?」
「仕事です」
後ろでラウが吹き出した。
「今回も遊びではありませんよ」
「えっ」
「理央さん、遊びだと思ってたんですか?」
「文化調査です」
「さっきは、獣人族と吟遊詩人って言ってませんでした?」
「それも文化です」
理央が言い返している間も、飛行は穏やかに続いた。
海から吹く風は進路を大きく乱さない。
《順風満帆》が働いているのかもしれないが、比べる相手がいない以上、理央にも断定はできなかった。
しばらくすると、海の先に大きな島が見えた。
島の入り江へ何本もの桟橋が伸び、その奥に白や淡い黄土色の建物が密集している。
あれがセレヴィア王国の王都リヴェルナだった。
ヴァルトは市街の上へ入らず、島の外縁に沿って高度を落とした。
空を飛ぶ乗り物は、この国でも見慣れたものではない。
《境界》で遠くからの視線を逸らし、人のいない平地へ着陸する。
エアカーは理央の収納へ戻した。
そこからは、三人とも普通の旅行者として歩く。
街門を通り、王都の地面へ足を着けると、《世界地図》へ新しい道が少しずつ刻まれ始めた。
自分たちの歩みに合わせ、王都の街路が広がっていく。
理央は《世界地図》を閉じた。
今は表示を見るより、目の前の町を見る方が忙しかった。
王都リヴェルナは、港の匂いまでトルヴィアとは違っていた。
潮と魚に、木材、油、酒、香辛料が混じっている。
倉庫の前には色の強い布が積まれ、船具を扱う店では太い縄と滑車が軒先まで並んでいた。
通りを歩く人の服も、聞こえてくる言葉も一種類ではない。
早い抑揚のセレヴィア語は、以前に来た時と同じく、理央にはまだところどころしか聞き取れなかった。
その一方で、東から来た船乗りや商人を相手にする者は、ヴェルデン側の言葉も使っている。
理央が右を見て、次に左を向いたところで足を止めた。
大柄な男が、人間なら二人で抱える木箱を一人で肩へ載せている。
太い腕。
頭の上の耳。
犬や狼を思わせる顔立ち。
「……コボルト」
「知ってるんですか?」
ラウが同じ男を見た。
「知ってるコボルトと違う」
「人ですよ」
ヴァルトの声が少し低くなった。
「分かってます」
理央は慌てて声を落とした。
「分かってますけど、私が知ってるのは、もっとこう……」
「こう?」
「敵として出てくる方です」
目の前のコボルト族は、理央の知る物語の敵とはほど遠かった。
箱を倉庫へ運び終えると、雇い主らしい人間へ今日の賃金を確認している。
別のコボルト族は荷車の車輪を直し、若い二人は休憩中のパンを分けていた。
建築現場では、木材を支える者へ人間の職人が声をかけている。
誰も彼らを珍しがらない。
彼らも人間だけを特別扱いしていなかった。
「普通に働いてますね」
「暮らしているのですから、働くでしょう」
「そうなんですけど」
異世界の種族ではなく、この町で今日を暮らす人だった。
理央がようやく視線を外すと、木箱を運び終えた男と目が合った。
男は三人を東からの旅行者と見たのか、ヴェルデン側の言葉で声をかけた。
「荷運びか?」
「違います」
「なら、そこは荷車が通るぞ」
言われて三人が端へ寄る。
直後、大きな荷車が先ほどまで立っていた場所を通り過ぎた。
「ありがとうございます」
「港で立ち止まるなら、後ろも見な」
男はそれだけ言い、次の箱を取りに戻った。
理央は素直に後ろも確認してから歩き出した。
市場を一周する頃には、三人とも空腹になっていた。
店先へ並ぶ魚は、切り身より丸ごとの方が多い。
銀色の小魚の隣には平たい魚が置かれ、その奥では貝が水を吐いている。
ヴェルデンでは少量ずつ売られている香辛料が、ここでは山のように盛られていた。
赤、黄、茶、深い緑。
通りを吹く風まで辛そうだった。
三人は、魚を炭火で焼いている食堂へ入った。
白身魚には香辛料がすり込まれ、小魚は丸ごと揚げたあとに塩と粉末をまぶしてある。
魚と貝の汁物からは、香草の匂いが立っていた。
平たいパンまで並ぶと、卓の上だけで知らない土地へ来たことが分かる。
理央は焼いた白身魚を一口食べた。
「辛い」
水へ手を伸ばしかけ、もう一口食べる。
「でも、おいしい」
「どちらですか?」
「両方です」
ラウも額へ汗を浮かべながら、小魚を噛んだ。
「魚って、こんな味にもなるんですね」
「香辛料を惜しまず使える港だからでしょう」
ヴァルトは汁物を味わい、市場の方へ視線を向けた。
船で運ばれてきた品が市場へ並び、町の食堂へ入り、庶民の皿へ届く。
理央にも、先ほど見た香辛料の山と目の前の魚がつながった。
商人として考えれば、産地と値段も知りたい。
けれど今日は、知らない料理を食べているだけでも楽しかった。
「こういうの、旅行っぽいです」
「文化調査では?」
「食文化調査です」
「さっきから名前を変えてません?」
ラウに指摘され、理央はパンで口元を隠した。
食事を終えて広場へ戻ると、人の声の間から澄んだ弦の音が聞こえた。
理央の足が止まる。
一つの音が次の音を呼び、波のように広場へ流れていた。
「ヴァルトさん」
「聞こえています」
理央は音のする方へ向かった。
市場の先にある広場へ、小さな人だかりができていた。
人の肩越しに、古びた小型ハープが見える。
それを抱えているのは、旅装の若い女性だった。
髪の間から猫の耳が出ている。
腰の後ろでは、長い尾が演奏の調子に合わせてゆっくり動いていた。
ケット・シー族。
女性は、ヴェルデン側の言葉で、西の海を渡った古い船の話を歌っていた。
発音には西の訛りがあったが、旅人の多い広場に合わせて歌を選んでいるらしい。
嵐へ消えた船。
船を待ち続けた島。
海の向こうから流れ着いた甘い果実。
夜の波間へ背を見せる巨大な海獣。
どこまでが史実で、どこからが物語なのかは分からない。
演奏だけなら、息をするのも忘れるほどの名手ではなかった。
時折、指が弦を探すようにわずかに遅れる。
それでも、語り始めると広場の景色が変わった。
旅先で見た海や島を、本当に楽しかったのだと分かる声で歌う。
聞いているうちに、その場所を自分でも見たくなる。
「……吟遊詩人」
理央の声は、演奏を邪魔しないほど小さかった。
「知り合いですか?」
「違うよ」
理央は人垣の向こうを見たまま答えた。
「職業」
少し間を置く。
「憧れの……」
「澪さんに止められていましたね」
「なるのを止められただけです」
「聴くことまでは?」
「言われてません」
ヴァルトの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「では、聴いていきましょう」
「ほんとですか?」
「もう聴いているでしょう」
歌が終わるまで、理央はほとんど動かなかった。
ラウも隣で素直に聴き入っている。
最後の弦の震えが消えると、広場に拍手が起きた。
理央も手を叩き、前へ出て小銭を置いた。
女性の耳が理央の方へ向く。
「初めて見る顔だニャ」
「この王都へ来たのは、今日が初めてです」
「東から?」
「かなり東です」
女性の耳がぴんと立った。
「面白そうニャ」
女性はレイニャと名乗った。
演奏が一区切りついたところで、理央は聞きたかったことを次々と口にした。
「歌は全部、自分で作るんですか?」
「昔からある歌も、自分で作る歌もあるニャ」
「旅先の話は、どうやって集めるんです?」
「人に聞く」
レイニャは指を一本立てた。
「自分で見る」
二本目を立てる。
「少し面白くする」
三本目が立った。
「最後の、いいんですか?」
「面白くしすぎなければいいニャ」
「どこまで本当か分からなかったんですけど」
「それなら成功ニャ」
理央が質問する一方で、レイニャも三人へ興味を持っていた。
東のどこから来たのか。
なぜ先生と呼ばれているのか。
理央とラウは何をしているのか。
互いの質問が重なり始めた時、近くで子どもの泣き声がした。
走っていた子どもが石につまずき、手と膝を深く擦っている。
レイニャは話を止め、ハープを布の上へ置いた。
「見せて」
先ほどまでの軽い口調が消える。
傷へ付いた砂を払い、手早く状態を確かめると、淡い光が掌から広がった。
血が止まり、赤く裂けていた皮膚が閉じていく。
子どもの泣き声も少しずつ小さくなった。
「今日は走るなニャ」
最後だけ、いつもの口調へ戻る。
子どもが何度も頷き、母親と一緒に去っていった。
理央はハープを持ち直すレイニャを見た。
「……吟遊詩人ですよね?」
「今はニャ」
「今は?」
「前は白魔道士ニャ」
理央はレイニャへ《鑑定》を向けた。
--------------------------------
レイニャ
種族:ケット・シー族
性別:女
現在ジョブ:吟遊詩人Lv2
前職:白魔道士Lv9
状態:正常
--------------------------------
既得スキル
地図:5
演奏:3
歌唱:2
語り:3
聞き耳:6
野営:6
交渉:3
白魔法:8
治癒:8
解毒:7
浄化:6
鑑定:芽あり(+)
--------------------------------
未使用SP
1
--------------------------------
「そっちの方が、ずっと高いじゃないですか」
「高いニャ」
「なんで転職したんです?」
「旅がしたかったからニャ」
レイニャは不思議そうに答えた。
白魔道士として働き続ければ、安定した居場所も収入もあったという。
治療を求められ、役に立っている実感もあった。
「嫌だったんですか?」
「嫌いじゃなかったニャ」
「じゃあ、どうして?」
「呼ばれた場所へ行くのと、自分が行きたい場所へ行くのは違うニャ」
向いていた仕事を嫌って捨てたのではない。
やりたいことが、別にできただけだった。
理央は、転職候補を前にした日のことを思い出した。
作家になるのが一番自然だと言われた。
自分でもそう思っていたのに、選んだのは商人だった。
ヴァルトが言ったとおり、自然な道と本人が選びたい道は同じとは限らない。
その言葉どおりに旅をしている相手が、今、目の前にいる。
ヴァルトも、少し遠くを見るような目でレイニャを見ていた。
国家魔術師から商人へ転職し、今は行商人としてここにいる。
国家魔術師の道だけを歩いていたなら、澪にも真壁にも、ラウたちにも、理央にも会っていなかった。
「後悔してません?」
理央が尋ねる。
「してないニャ」
レイニャは古いハープを軽く鳴らした。
「まだ下手だけど、知らない町で歌えるニャ」
その答えに迷いはなかった。
理央は、鑑定表示の最後に残っていた文字を思い出した。
「レイニャさん」
「ニャ?」
「《鑑定》の芽が出てますよ」
「鑑定?」
「物を見たら、何なのか分かる技能です」
レイニャの耳が立った。
「見たことない物も?」
「レベル次第ですけど」
「欲しいニャ」
答えが早かった。
「即決なのですね」
ヴァルトが確認する。
「見たことない物を見るために旅してるニャ」
レイニャは自分の未使用SPを確認した。
「見れば分かるなら、欲しいニャ」
迷う時間は、ほとんどなかった。
--------------------------------
鑑定:芽あり(+)
↓
鑑定:1
--------------------------------
未使用SP
1 → 0
--------------------------------
新しい技能を得たレイニャは、すぐに周囲を見回した。
「最初は何を見ます?」
「もちろん、これニャ」
抱き上げたのは、自分のハープだった。
長い旅を一緒にしてきた古い小型ハープである。
以前、楽器商から古い職人が作った良い品だと勧められ、旅の稼ぎをかなり使って買ったらしい。
レイニャがハープを見つめる。
--------------------------------
小型ハープ
分類:弦楽器
材質:木/金属弦
年代:古い
状態:使用可
品質:並
修理歴:複数
装飾:後付け
推定価値:一般的な中古楽器相当
--------------------------------
レイニャの動きが止まった。
もう一度、ハープを見る。
表示は変わらない。
「……ニャ」
「どうしました?」
「ニャニャ……」
「はい?」
「ニャント……」
耳が伏せた。
尾も力なく下がる。
「あんなに高かったのに……」
ハープを抱えたまま、その場へしゃがみ込んだ。
「でも、音が気に入って買ったんですよね?」
「気に入ってるニャ」
「今も演奏できてますよね?」
「できるニャ」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「それとこれは別ニャ」
音が好きなことと、値段の説明がかなり盛られていたことは、同時に成立するらしい。
ヴァルトも無理に慰めなかった。
「今後は、買う前に確かめられますね」
「もっと早く欲しかったニャ……」
立ち直るまで時間がかかるかと思ったが、数分後にはレイニャの耳が別の方向へ向いた。
「あれは何ニャ?」
香辛料を量っている店を見ている。
「鑑定してみたら分かるんじゃないですか?」
「そうだったニャ」
レイニャは立ち上がった。
赤い粉を見る。
干した魚を見る。
積まれた布を見る。
古道具屋の陶器へ顔を近づけ、酒瓶の表示まで一つずつ確かめる。
Lv1では、名前と大まかな材質しか分からない物も多かった。
分からないと、レイニャは落ち込むどころか余計に近くから見る。
「先ほどまで、落ち込んでいたのでは?」
「それはそれニャ」
「完全にはまってますね」
理央が言うと、レイニャは否定せず、今度は道端の木の実へ《鑑定》を向けた。
日が傾き始めた頃、ヴァルトが帰る時間を告げた。
レイニャは名残惜しそうに古道具から目を離す。
「そういえば、かなり東から来たって言ってたニャ」
「はい」
「船の時間に間に合うニャ?」
「船では来てません」
理央が答えると、レイニャの耳がまた動いた。
「どうやって来たニャ?」
「途中までは《転移》で、トルヴィアからはエアカーです」
「エアカー?」
知らない言葉を聞いた時の反応は、鑑定を知った時より早かった。
「見たいニャ」
理央はヴァルトを見た。
「人目のない場所なら、構わないでしょう」
四人は王都の外縁へ移動した。
街道から外れ、周囲に人がいないことを、理央の《世界地図》とヴァルトの《境界》で確かめる。
理央が収納へ意識を向けた。
靄が広がる。
次の瞬間、何もなかった場所へ4座の空陸エアカーが現れた。
レイニャが数秒止まる。
耳が立ち、尾が一気に膨らんだ。
「ニャニャニャ!?」
一歩下がり、すぐ二歩近づく。
「突然出たニャ!」
「収納から出しました」
「収納ニャ!」
ケット・シー族には行商人が多いため、収納という技能自体は知っている。
ただし、車両一台が入る規模を目の前で見る機会はなかったらしい。
レイニャは早速《鑑定》を使った。
--------------------------------
空陸エアカー
分類:乗り物
主材:複合素材
用途:陸上走行/飛行
状態:良好
機構:詳細不明
--------------------------------
「分からないニャ!」
「普通は困るところじゃないですか?」
「見たことないニャ!」
レイニャは車体の周囲を回り始めた。
窓を見る。
タイヤを見る。
収納されている翼の境目を見つけ、姿勢を低くして覗き込む。
「これは飛ぶ時に出るニャ?」
「はい」
「中も見ていいニャ?」
「帰りますよ」
「これに乗って?」
「いいえ」
ヴァルトが答えた。
「帰りは《転移》です」
レイニャの動きが止まった。
「……転移?」
「ええ」
今度はヴァルトへ《鑑定》を使いそうな顔をしたが、さすがに本人へ無断で向けることはしなかった。
「行商人の上級スキルニャ」
ケット・シー族の行商人でも、遠距離を安全に移動できるほど《転移》を伸ばした者は多くないという。
「そこまで使える人、なかなかいないニャ」
「必要でしたから」
理央は、それだけでは済まない時間だと知っている。
けれど、ヴァルトが話さない前世のことまで説明しなかった。
レイニャはエアカーを見た。
理央の収納を見るように視線を移した。
最後に、ヴァルトを見る。
尾の先が、少しずつ大きく動き始めた。
「どこへ帰るニャ?」
「ヴァルディス侯爵領です」
「東ニャ?」
「かなり東です」
「そこに何があるニャ?」
理央は答えようとして止まった。
共同商館。
押入商会の新事業所。
飛行船の施設。
見たことのない品が並ぶ工房や店。
普通に説明しても、あまり普通に聞こえないものばかりだった。
「説明が難しいです」
「面白そうニャ」
「まだ何も説明してませんよ」
「説明しにくい物があるニャ」
レイニャの中では、それだけで十分らしい。
レイニャはハープを背負い直した。
旅用の鞄を肩へ掛ける。
動きに迷いがなかった。
「ついていくニャ」
「え?」
「東へ行くニャ」
「今決めたんですか?」
「今決めたニャ」
理央はヴァルトを見た。
歓迎したい気持ちが、そのまま顔へ出ている。
ヴァルトはすぐに許可せず、レイニャ本人へ向き直った。
「こちらで約束している仕事は?」
「ないニャ」
「帰りを待っている方は?」
「今はいない」
気分だけで仕事や家族を放り出すわけではないことを確認し、ヴァルトは次を聞いた。
「一度行けば、好きな時に私を使って戻れるわけではありませんよ」
「東から西へ戻る道があるなら十分ニャ」
「我々のところに、面白い物がある保証もありません」
レイニャはエアカーを指した。
「空飛ぶ車を収納から出して、帰りは転移する人が言っても説得力ないニャ」
理央が笑った。
ラウも、すでに一緒に帰るつもりの顔をしている。
ヴァルトは小さく息を吐いた。
「孤児院へ行けば、子どもたちの人気者になるでしょうね」
「孤児院?」
「歌を聴きたい子は多いと思います」
ラウがすぐに口を挟んだ。
「孤児院だけじゃないですよ」
「そうですか?」
「先生の弟子たちにもですよ」
「弟子?」
「僕たちです」
ラウは少し誇らしそうに胸を張った。
「二十二人います」
レイニャの耳がぴくりと動く。
「二十二人も聴いてくれるニャ?」
「歌ってくれるなら」
「行くニャ」
「そこが決め手なんですか?」
「吟遊詩人は、お客さんがいるところへ行くニャ」
筋は通っていた。
「では、決まりですね」
ヴァルトが言うと、理央はエアカーを収納へ戻した。
靄の中へ車体が消えていく。
「ニャ……」
レイニャの手が、名残惜しそうに空を切った。
「向こうでまた出します」
「約束ニャ」
ヴァルトが四人を確認する。
理央。
ラウ。
レイニャ。
そして自分。
帰還先は、登録済みの侯爵領である。
「行きますよ」
ヴァルトが《転移》を使った。
海風と香辛料の匂いが、一瞬で消える。
次に足元を感じた時には、見慣れた侯爵領の建物が目の前にあった。
レイニャはその場から動かなかった。
耳だけが、周囲の音を拾うように左右へ動く。
「……本当に着いたニャ」
「先生ですから」
「それ、説明になってないニャ」
理央は笑った。
レイニャは初めて見る建物と、道を行く人々と、遠くに見える施設を順番に見た。
ラウが話した、まだ会っていない二十一人の仲間たちがいる。
孤児院にも、歌を待つ子どもがいる。
そして、覚えたばかりの《鑑定》がある。
「次は何があるニャ?」
理央は押入商会の周囲にあるものを思い浮かべた。
どれから見せれば一番驚くのか、すぐには決められない。
「……たぶん、見たことないものだらけです」
レイニャの尾が大きく揺れた。
「最高ニャ」
もっと早く出しておけば、人気がでたのにっ!