ヴァルディス侯爵領へ着いたレイニャが、最初に足を向けたのは、目の前に立つ大きな建物だった。
リヴェルナでは見かけなかった造りで、店のようにも見えるが、外から眺めただけでは中の様子まで分からない。
レイニャは早速、覚えたばかりの《鑑定》を使った。
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大型建築物
分類:建築物
用途:商業施設
状態:良好
詳細:不明
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「大きすぎて分からないニャ」
「建物まで鑑定してるんですか?」
理央が横から表示を見ることはできないが、レイニャの落胆した顔だけで結果は想像できた。
「見たことがないものを見つけたら、試さないともったいないニャ」
「さっき覚えたばかりなのに、もう使い方が決まってますね」
共同商館の入口では、品物を運び終えた者と、夕食を求めて入っていく者が行き交っていた。
中へ入れば、外から見た以上に扉が多く、廊下の明かりもレイニャには珍しいらしい。
足を止めては見上げるため、数歩先へ進んだラウが何度も振り返った。
「レイニャさん、こっちです」
「この明かり、火じゃないニャ」
「説明はあとで聞きましょう」
ヴァルトに促され、レイニャは名残惜しそうに天井から目を離した。
二階へ上がると、授業を終えた子どもたちが、石板や筆記具を片づけていた。
王都から来た二十人と、リオ、メルを合わせた二十二人である。
ラウが一足先に教室へ入った。
「みんな、先生が吟遊詩人を連れてきたぞ」
「私が連れてきたのではありませんよ」
ヴァルトはすぐに訂正した。
「自分でついてきたニャ」
戸口からレイニャが顔を出す。
最初に子どもたちの目を引いたのは、頭の上に立つ猫の耳だった。
次に、外套の後ろで揺れる尾へ視線が集まる。
最後に背負っている小型ハープを見つけると、教室の空気が一気に騒がしくなった。
「本当に猫の人だ」
「ラウが言ってた吟遊詩人?」
「歌うの?」
「楽器も弾く?」
ベスやトマ、キリまで席を離れ、リオとメルもほかの子どもたちの間から覗き込む。
レイニャは一歩だけ教室へ入り、胸へ手を当てた。
「レイニャだニャ」
「本当に吟遊詩人?」
「まだLv2です」
「歌える?」
「歌える」
「今?」
「今はまだニャ」
期待していた子どもたちの肩が、そろって少し下がった。
「歌わないとは言ってないニャ」
尾を揺らしながら付け足すと、肩がすぐに戻る。
別の子が猫耳をじっと見つめた。
「その耳、本物?」
「本物」
確かめようとした手が伸びかける。
レイニャは怒らず、耳が届かない分だけ上体を後ろへ引いた。
「勝手に触るのは禁止」
「ごめんなさい」
「聞いてからなら考えるニャ」
子どもは慌てて手を引っ込めた。
すぐ隣にいたメルが、自分の両手を背中へ回してから尋ねる。
「触ってもいい?」
「今は荷物が邪魔だから、またあとでニャ」
「分かった」
断られても、きちんと聞いたことは認めてもらえたらしい。
メルは嬉しそうに頷いた。
ラウがヴァルトを振り返る。
「言ったでしょう」
「まだ歌っていませんよ」
「もう人気です」
レイニャの尾が、先ほどより少し高く持ち上がった。
「地下へ行きません?」
理央が言うと、レイニャの耳がそちらへ向いた。
「地下には何があるニャ?」
「食べるところです」
子どもたちも夕食へ向かう時間だった。
レイニャを先頭にするつもりはなかったが、料理の匂いを見つけた耳と鼻は、階段の場所を教える前から正しい方向を向いていた。
地下へ下りるほど、焼いた肉と揚げ物、香辛料の匂いが濃くなった。
共同商館の地下に広がる食品街では、仕事を終えた商人や職人たちが席を埋め始めている。
厨房から食器の触れ合う音が響き、料理を受け取った客が空いている卓を探して歩いていた。
「地下なのに明るいニャ」
「暗かったら食べにくいですから」
「そういう問題じゃないニャ」
理央の答えに首を振りながらも、レイニャの視線は次の珍しいものへ移っている。
空いた卓の近くにはリュシアが立ち、店の者から受け取った帳面を確かめていた。
少し離れた席では、セルマが弟子たちと遅めの休憩を取っている。
「リュシアさん、セルマさん」
理央が呼ぶと、二人が同時に顔を上げた。
「連れてきました」
リュシアはレイニャの耳とハープを順に見た。
「本当に連れてきたのかい」
「ついてきたんです」
「レイニャだニャ」
「リュシアだよ」
「セルマよ」
セルマの弟子たちにも名前と職業を伝えると、朝に理央から聞かされた話を思い出したリュシアが呆れたように笑った。
「朝にケット・シーや吟遊詩人のことを聞いていたと思ったら、夕方には本人がいるんだね」
「私も、そこまでは予定してませんでした」
「面白そうだったから、ついてきたニャ」
「行動が早い子だね」
「旅は、行きたいと思った時に行くものニャ」
レイニャが得意そうに言い切ったところで、地下に流れていた曲が切り替わった。
会話の後ろへ、柔らかな弦の音が入ってくる。
レイニャの右耳が動いた。
少し遅れて左耳も向きを変える。
「……ニャ?」
壁を見た。
天井を見た。
近くの店と、向かいの通路まで見回す。
演奏している者はどこにもいない。
「レイニャさん?」
理央が呼んでも、返事は半拍遅れた。
一定の速さで進みながら、音は急がない。
弦を鳴らす位置は軽く、音と音の間にも余裕がある。
レイニャが知るハープとは響きが違い、旅先で聞いたどの弦楽器とも拍の置き方が違っていた。
「な、なんだニャ〜、この音楽……」
「ボサノバです」
「ボサ……?」
「ボサノバ」
理央がもう一度ゆっくり言う。
「どこの国の音楽ニャ?」
「ものすごく遠いところです」
「演奏してる人はどこニャ?」
「ここにはいません」
レイニャはもう一度、音が出てくる場所を探した。
「いない人の演奏が聞こえるニャ?」
「真壁が入れた音だよ」
リュシアが帳面を閉じた。
「ここではいつも流してる」
「いつも?」
初めて耳にする音楽が、この地下では食器の音や話し声と一緒に流れている。
周囲の客は曲が替わっても驚かず、食事を続けていた。
「こんなのを、ずっと流してるニャ……?」
「違う曲もありますよ」
「ほかにもあるニャ!?」
レイニャは理央へ詰め寄りかけ、背中のハープが卓へ当たりそうになって慌てて止まった。
それから空いている椅子へ座り、ハープを膝へ移す。
「どうしたんです?」
「聞くニャ」
「座らなくても聞けますよ」
「弾きながら聞く」
レイニャは曲の流れを追い、一本の弦を鳴らした。
響きを聞いた途端、眉が寄る。
「違うニャ」
次は二つの音を重ねた。
今度も首を傾げる。
ギターの音そのものをハープで作ることはできない。
その代わり、軽く置かれる拍と、次の音まで残された間を拾おうとしていた。
一度合わせては止まり、少し位置を変えてまた鳴らす。
上手く入ったと思った次の小節では早くなり、自分で気づいて指を止めた。
「もう真似してる」
理央が覗き込む。
「まだ真似になってないニャ」
「聞くだけでは済まないようですね」
ヴァルトが言うと、レイニャは答えず、曲の続きを待った。
セルマの弟子の一人も食事の手を止めている。
「今の、さっきより近かった」
「もう一回」
同じところへ戻ってくれと頼んでも、流れている音は待ってくれない。
レイニャは耳で追いながら、次に似た流れが来たところで改めて指を動かした。
何度か外し、何度か止まるうち、尾の先が曲の拍に合わせて揺れ始める。
理央たちの後から下りてきた二十二人も、夕食を受け取りながら少しずつ近くの席へ集まっていた。
曲が終わる頃には、レイニャの周りだけ客席のようになっている。
最後の音が消えた。
レイニャはハープの弦へ置いていた指を上げる。
「一曲、歌うニャ」
「今ですか?」
「今、歌いたいニャ」
リュシアは周囲の客と店の様子を確かめた。
「通路を塞がず、客の邪魔をしないならいいよ」
「聞かせて」
セルマが短く言う。
期待していた子どもたちは、もう空いた椅子を運び始めていた。
「その前に、こっちの音は止めるよ」
リュシアが奥へ回ると、地下に流れていた次の曲が静かに止まった。
食事の音と人の声だけになった空間で、レイニャはフードコートの片隅へ椅子を置いた。
ハープを構え、一度だけ弦を上から下へ撫でる。
最初に始まったのは、西の海を渡る船乗りと旅人を歌った曲だった。
港を離れる寂しさより、その先に待つ土地への期待が大きい歌である。
弾き慣れた旋律の中へ、先ほど拾ったばかりの軽い拍が入る。
最初の一度は早すぎた。
レイニャは歌を止めず、次は一呼吸待ってから指を置く。
完全に同じ音楽にはならない。
西の旅歌の中へ、まだ名前しか知らない遠い音楽が一滴だけ落ちている。
その不揃いさが、聞き慣れた旅歌を少しだけ新しくしていた。
「潮を越えた旅人は」
「夕陽を追って東へ行く」
「地の底で、知らない弦の夢を聞く」
最後の一節は、今日の出来事へ変わった。
レイニャ自身が途中で可笑しくなったのか、歌声へ笑いが混じる。
それでも音は崩れない。
むしろ聞いていた者たちの表情まで緩み、子どもたちの足が卓の下で拍を取った。
曲の終わりに向かうほど、レイニャの尾は大きく揺れた。
最後の弦を鳴らし、響きが消えるまで手を置いたまま待つ。
一瞬だけ、地下が静かになった。
最初に拍手したのはラウだった。
すぐにベスやトマたちが続き、二十二人分の手が一斉に鳴る。
セルマの弟子たちも手を叩いた。
料理店の者が調理台の向こうから拍手し、食事をしていた商人や職人まで振り返る。
拍手はレイニャが予想していた範囲を越え、地下の端まで広がった。
「……ニャ」
リヴェルナの広場でも拍手はもらった。
理央が置いた硬貨も、今のレイニャにとって大切な一枚である。
けれど、これほど多くの者が同時に自分の歌へ手を叩いたことはなかった。
前の席にいた商人が立ち、レイニャの前へ小銭を置く。
それを見た職人も一枚置いた。
店を離れられない売り子は、近くの者へ硬貨を預けて持ってきてもらう。
一枚、二枚と増え、やがて片手ではまとめきれなくなった。
子どもたちは硬貨ではなく、もう一度大きな拍手を送った。
レイニャは何度も頭を下げた。
耳が伏せそうになり、次には嬉しさを隠せないままぴんと立つ。
拍手が落ち着いてから床へ置かれた硬貨を集め、椅子の上へ並べた。
一度数える。
途中で分からなくなり、最初から数え直す。
もう一度途中で止まった。
「……ニャ?」
「どうしました?」
理央が隣へしゃがむ。
「こんなにもらったの、初めてニャ」
白魔道士だった頃にも、礼を言われたことはある。
苦しんでいる者を治せば喜ばれ、仕事として報酬を受け取ったことも一度や二度ではない。
それを嫌って吟遊詩人になったわけではなかった。
ただ、自分で行きたい道を選び、自分が歌いたいから歌った曲を、これほど大勢が笑って聞いてくれたことはない。
レイニャは古いハープを見た。
品質は並で、何度も直され、買った時に聞かされたほど高価ではなかった楽器である。
それでも、この拍手を生んだ音は確かにこのハープから出た。
顔を上げると、まだこちらを見ている客たちがいる。
レイニャの尾が真っ直ぐ立った。
「人生で一番嬉しい日だニャ」
「よかったですね」
ヴァルトは、それ以上の言葉を重ねなかった。
理央も笑いながら頷いた。
旅をし、知らない土地の物語を歌う者へ憧れた理由が、少しだけ目の前に見えた気がした。
拍手の余韻がようやく薄れた頃、地下へ下りてくる二人の姿があった。
「何かやっているんですか?」
ゲンダイ側から戻った澪が、人の集まっている一角を覗き込む。
その後ろには真壁もいた。
「あ、澪さん」
理央が立ち上がる。
「ただいま――」
澪の挨拶が途中で止まった。
椅子へ座った見知らぬ女性には、猫の耳と尾がある。
膝にはハープがあり、その周囲には投げ銭が並んでいた。
「紹介します」
理央がレイニャを示した。
「レイニャさんです」
「レイニャだニャ」
「篠原澪です」
ここまでは普通の挨拶だった。
「吟遊詩人です」
「……吟遊詩人?」
澪の目がハープへ戻る。
次に、理央を見た。
「私はなってませんよ」
尋ねられる前に理央が答えた。
「増えてるじゃないですか!」
「私が呼んだわけじゃありません」
「朝に探してたって聞いたよ」
リュシアが余計な事実を足した。
「探したというか、会えるか聞いただけです」
「それで会いに行ったんですよね?」
「結果としては」
「君が止めたのは、理央君の転職だったはずだ」
真壁が澪の後ろから言う。
「そうですけど!」
レイニャは二人を交互に見た。
「吟遊詩人、嫌いニャ?」
「違います!」
「私がなるのだけ止められました」
「理央ちゃん!」
「何があったニャ?」
「何もありません」
澪の答えが早すぎたため、レイニャの耳が興味深そうに前へ向く。
「ありますね」
「ありません」
「楽器の話です」
「理央ちゃん!」
真壁は説明せず、並べられた硬貨へ目を落とした。
「盛況だったようだな」
「すごかったですよ」
理央が答えると、レイニャは照れたようにハープの縁を撫でた。
その時、澪の足元に白い姿が現れた。
いつ収納から出たのか、シロガネが音もなく通路へ降り立っている。
レイニャの耳が立った。
身体も止まる。
「……ニャ」
シロガネが一歩進む。
レイニャの顔も同じ距離だけ動いた。
「カワイイニャ〜」
もう一歩、近づく。
「白いニャ〜」
シロガネが足を止め、レイニャを見上げた。
レイニャは両手を胸元へ寄せた。
「伝説の猫神様みたいだニャ〜」
澪は何とも言えない顔になった。
白猫の姿をしたシロガネには、建御名方神の御分霊が宿っている。
レイニャは正体を知らず、見た目と雰囲気だけで言っているはずだった。
……間違いだと言い切れないんですよね。
「本当に猫神様ニャ?」
「説明すると長いです」
シロガネは騒ぐレイニャを嫌がる様子もなく、その場に座った。
レイニャはすぐに抱き上げず、両手を膝へ置いたまま目線を合わせる。
「触っていい?」
白い耳が一度動いた。
シロガネは立ち上がると、自分からレイニャの指先へ頬を寄せた。
「ニャ〜……」
レイニャは壊れ物に触れるように、頭から背へ一度だけ手を滑らせる。
「柔らかいニャ〜」
「そこは普通の感想なんですね」
理央が言うと、レイニャは真剣な顔で頷いた。
「柔らかさは大事ニャ」
シロガネはもう一度だけ指へ身体を擦り、満足したように澪の足元へ戻った。
その頃には、地下へ差し込む外の光も夕方の色を失い始めていた。
二十二人は食事を終え、順に三階の弟子住居へ戻っていく。
ラウだけはヴァルトのそばへ残り、レイニャは投げ銭を袋へしまっていた。
「ところで、今晩はどこに泊まるかニャ〜」
袋の口を閉じながら、レイニャが言う。
周囲が一瞬だけ静かになった。
「決めてなかったんですか?」
理央が尋ねる。
「ここへ来るって今日決めたニャ」
「それはそうですけど」
「旅人らしいっちゃ旅人らしいね」
リュシアは驚くより先に納得した。
「宿を探すなら、まだ間に合うでしょうか」
澪が言うと、ヴァルトは少し考えた。
「孤児院の病人用離れに、空いている部屋があるかもしれません」
「あそこですか」
「ええ」
ヴァルトはレイニャへ向き直った。
「ただし、療養に使うための建物ですから、こちらだけで決めることはできません」
「空いてるか、聞きに行くニャ?」
「司祭様へ伺ってみましょう」
「孤児院って、さっき話してたところニャ?」
「はい」
ラウが答える。
「歌を聴きたい子どもがいるところ?」
「いっぱいいます」
レイニャの耳がまた立った。
澪はその反応を見て、泊まる場所より先に歌う場所が決まった気がした。
「澪君、我々は戻るぞ」
真壁が時間を確かめる。
ゲンダイ側には、今夜中に片づける仕事が残っていた。
「はい」
澪はレイニャへ向き直った。
「また明日、ゆっくり話しましょう」
「今度は澪の楽器の話も聞くニャ」
「それは話しません」
初対面の約束が一つ、成立しないまま決まった。
ヴァルトと理央、ラウに案内され、レイニャは孤児院へ向かった。
司祭は突然現れたケット・シーの旅人にも驚いたが、まずヴァルトの話を最後まで聞いた。
レイニャが今日、西の王都から来たこと。
今夜の宿をまだ決めていなかったこと。
明日以降をどうするかは、本人も含めて改めて考えること。
「一晩だけ、空いている部屋をお借りできないでしょうか」
ヴァルトが頼むと、司祭はすぐに許可を出さず、シスターへ現在の使用状況を確かめた。
病人を隔離している区画はなく、今夜は地上階の一室を使えるという返事が戻ってくる。
「療養が必要な方が来た場合は、そちらを優先します」
「もちろんニャ」
「それでよろしければ、今夜はお使いください」
「助かるニャ」
レイニャは深く頭を下げた。
案内された離れを前にすると、その頭がゆっくり上がる。
周囲の建物へ外観を合わせてあるものの、地上には三階まで窓が並んでいる。
レイニャが想像していた、小さな別棟とは明らかに大きさが違った。
「……これが離れニャ?」
「私も、最初に聞いたら同じことを言うと思います」
理央が建物を見上げる。
「地上三階だけではありませんよ」
「まだあるニャ?」
「地下も三階あります」
レイニャは建物から足元へ視線を落とした。
「離れって、どこまで大きくしていい言葉ニャ……」
「真壁殿が建てたものです」
ヴァルトの説明で、レイニャは妙に納得した顔になった。
「音のいない演奏を流して、離れを地下三階まで造る人ニャ」
「まだ二つしか知りませんよね?」
「二つで十分すごいニャ」
中へ入ると、外観から想像した石や木とは違う、硬く平らな壁が続いていた。
療養する者と日用品を分けて扱えるように、部屋だけでなく、物資や薬、食器を置く場所も区切られている。
今夜借りる一室には寝台と小さな机があり、掃除もされていた。
レイニャは旅の鞄を寝台の脇へ置き、ハープを壁際へ立てかける。
「屋根があって眠れれば十分だったニャ」
「屋根は三つ重なっていますね」
「地下にも三つあるニャ」
理央と顔を見合わせ、レイニャは笑った。
宿が決まったところで、ヴァルトはラウを共同商館へ連れて戻ることにした。
ラウを含む二十二人は、今夜も共同商館三階の弟子住居で暮らす。
「明日、また歌ってください」
「聞きたいなら歌うニャ」
「約束ですよ」
ラウは満足そうに頷き、ヴァルトと一緒に孤児院を出た。
理央も、レイニャがシスターへ引き継がれたことを確かめてから共同商館へ戻っていく。
レイニャが一人で来た時より、一人になる心配のない場所だった。
離れへ荷物を置いて本館へ戻ると、話はすでに広がっていた。
「猫の人!」
「吟遊詩人!」
「歌ってくれる人!」
廊下の先から子どもたちが集まってくる。
レイニャは人数を数えようとして、途中で諦めた。
「誰が広めたニャ?」
近くにいたシスターが笑う。
「お客様が来たと聞いただけで、あとは子どもたちが自分で増やした話ですよ」
「もう吟遊詩人まで知られてるニャ」
「ハープを持って歩けば、隠すのは難しいでしょうね」
正面にいた小さな子が、レイニャの耳へ手を伸ばしかけた。
隣の年長の子が、その手を慌てて押さえる。
「勝手に触っちゃ駄目なんだよ」
「どうして知ってるニャ?」
「さっき来た人が言ってた」
ラウが教えたらしい。
小さな子は手を下ろし、改めてレイニャを見上げた。
「触ってもいい?」
「優しく、一回だけならいいニャ」
レイニャは膝を曲げ、片方の耳を少しだけ近づけた。
子どもの指が毛先へ触れ、すぐに離れる。
「あったかい」
「冷たかったら困るニャ」
周りの子どもたちが笑った。
「楽器も触っていい?」
「これは勝手に触ったら駄目」
レイニャは一度断ってから、ハープを抱え直した。
「でも、順番を守るなら一本ずつ鳴らしていいニャ」
床へ座り、子どもの手を取って一本の弦へ導く。
小さな音が鳴ると、触れた本人だけでなく、周りからも声が上がった。
次の子を呼び、また一本だけ鳴らさせる。
待てずに前へ出る子には順番を示し、怖がって後ろにいる子には無理に触らせない。
白魔道士として各地を歩いていた頃から、子どもへ近づく速さは知っていた。
全員が一度ずつ音を出したところで、レイニャが弦をまとめて鳴らす。
「次は、歌うニャ」
「さっきの歌?」
「さっきの歌を聞いた子がいるニャ?」
「いない!」
「じゃあ、さっきの歌かどうか分からないニャ」
子どもたちは少し考え、それから一斉に笑った。
レイニャが選んだのは、旅人が雨宿りする場所を探して歩く、短くて明るい歌だった。
同じ言葉が何度も戻ってくるため、二度目には子どもたちも声を合わせられる。
歌詞を覚えきれない子は「ラララ」だけで入り、拍がずれても誰も止めなかった。
共同商館では、自分の歌を聞き、拍手を返してくれる者たちがいた。
ここでは、歌の中へ一緒に入ってくる者たちがいる。
レイニャは一人で歌い切ろうとせず、子どもたちの声が追いつくところで少し待った。
最後は、歌より笑い声の方が大きくなった。
「もう一回!」
「同じ歌?」
「違う歌!」
「注文が多いニャ〜」
口では困ったように言いながら、レイニャの尾は楽しそうに床を叩いていた。
夜が深くなると、シスターが手を叩いた。
「そろそろ寝る時間ですよ」
まだ騒いでいた子どもたちから、不満の声が上がる。
「もう一曲!」
「もう一曲だけ!」
レイニャは窓の外を見てから、ハープへ視線を落とした。
「寝る曲なら、一曲だけニャ」
「寝たくない」
「寝る曲を聞くなら、布団へ入るのが決まり」
そんな決まりが本当にあるのか、子どもたちには分からない。
けれど、もう一曲を聞くためならと、驚くほど素直に寝室へ移っていった。
明かりが落とされ、部屋の中が静かになる。
レイニャは寝台の間を通り、全員から見える壁際へ腰を下ろした。
昼に聞いたボサノバとも、先ほど皆で歌った曲とも違う音を鳴らす。
それは、レイニャが幼い頃、故郷で聞いた子守歌だった。
遠くへ旅に出た者にも同じ月が見えること。
夜の道の先には、帰ってくる者を待つ灯があること。
眠れば、明日はまた誰かに会えること。
「夜の道にも月はあり」
「遠い窓にも灯はあり」
「おやすみ、明日が迎えにくるまで」
弦を弾く指は、共同商館で歌った時よりずっとゆっくり動いた。
一人分の声が消える。
少しして、別の寝台から聞こえていた小さな話し声も止まった。
最後まで目を開けていた子が欠伸をし、毛布へ頬を沈める。
レイニャは歌を短く繰り返した。
終わりを急がず、寝息の間へ音を一つずつ置いていく。
やがて、もう一曲と頼む声は誰からも上がらなくなった。
最後の弦へ指を触れ、響きがなくなるまで待つ。
「おやすみニャ」
返事の代わりに、重なった寝息が聞こえた。
病人用離れの一室へ戻ると、急に今日一日の長さが身体へ戻ってきた。
レイニャはハープを壁際へ置き、共同商館でもらった投げ銭の袋を机へ載せた。
もう数え直す必要はなかった。
袋を見るだけで、地下いっぱいに広がった拍手を思い出せる。
空を飛ぶ車。
物を丸ごと消す収納。
遠い土地を一息で越える転移。
人のいない場所から流れる音楽。
白い猫神様のようなシロガネ。
そして、知らない自分を歌の中へ迎え入れた子どもたち。
一日で出会うには、多すぎるほど知らないものが増えた。
レイニャは寝台へ腰を下ろし、窓を少しだけ開けた。
夜の空気が入り、遠くから領都の音がかすかに届く。
今までも、旅の途中で知らない町に泊まったことは何度もある。
けれど、朝まで名前も知らなかった土地に、これほど早く自分の歌を待つ者ができたのは初めてだった。
机の上の袋へ、もう一度目を向ける。
それから窓の外に見える夜空を見上げた。
「故郷のみんな、おやすみニャ」
窓を閉め、寝台へ横になる。
今日の出来事を一つずつ思い返すつもりだった。
けれど、三つ目まで辿り着く前に目が閉じる。
間もなく、部屋には小さな寝息が聞こえ始めた。