押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第369話 ここも押入商会ニャ?

 目を開けると、見慣れない天井があった。

 

 レイニャは毛布の中で瞬きをし、耳だけを先に動かした。

 

 鳥の声がする。

 

 それより近くから、子どもたちの話し声と、木桶を置く音が聞こえてきた。

 

「……朝ニャ」

 

 身体を起こすと、昨夜の拍手が耳の奥へ戻ってきた。

 

 共同商館で聞いたギターの音も、投げ銭の重みも、白い猫神様のようなシロガネの姿も、まだ鮮やかに残っている。

 

 眠る前には、子どもたちへ故郷の子守歌も歌った。

 

 机の上には、昨夜置いた投げ銭の袋がそのまま残っている。

 

 レイニャは袋を持ち上げ、満足してから荷物へ戻した。

 

 服を整え、髪と耳の毛を手櫛で直し、最後に尻尾の乱れも確かめる。

 

 ハープは壁際へ置いたまま、まず部屋の外へ出た。

 

 病人用の離れには、まだ朝の静けさが残っていた。

 

 けれど、孤児院の建物へ近づくほど人の気配が増えていく。

 

 裏口から覗くと、小さな子が両手で食器を運び、年上の子がその後ろから落とさないようについていた。

 

 別の子は水差しを抱え、さらに別の子は寝癖のついた幼い子の服を直している。

 

 昨日、もう一曲と騒いでいた子たちが、すっかり朝の顔になって働いていた。

 

「みんな起きてたニャ」

 

 食器を持っていた子が振り返る。

 

「レイニャが遅いんだよ」

 

「昨日はいっぱい歌ったニャ」

 

「僕たちもいっぱい聞いたよ」

 

「それなら、みんな同じだけ眠いはずニャ」

 

「でも、レイニャが最後まで歌ってたもん」

 

 言い返そうとして、レイニャは口を閉じた。

 

 確かに、その通りだった。

 

「朝から賢いニャ」

 

「いつもだよ」

 

 胸を張った子の横で、服を直してもらっていた幼い子が大きな欠伸をした。

 

 年上の子が、その頭を軽く撫でる。

 

「ほら、レイニャも顔を洗ってきて」

 

「今行くニャ〜」

 

 旅先の朝は、起きたらすぐ荷物をまとめることが多い。

 

 誰かに顔を洗ってこいと言われたのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

 レイニャは少しだけ笑い、井戸の方へ向かった。

 

 

 

 朝食の席には、焼いたパンと温かいスープが並んでいた。

 

 皿には野菜と一緒に焼いた卵も載っている。

 

 宴会のご馳走ではない。

 

 けれど、育ち盛りの子どもたちが朝から食べるものとしては、十分すぎるほどだった。

 

「レイニャさんも、どうぞ」

 

 シスターに勧められ、レイニャも子どもたちの間へ座った。

 

 スープを一口飲む。

 

 野菜の甘みと、塩気のある温かさが身体へ染みていった。

 

 次に卵を口へ運び、最後にパンをちぎる。

 

「ここのご飯、美味しいニャ〜」

 

「昨日もいっぱい食べてたよ」

 

「昨日は歌った後だったから、特別お腹が減ってたニャ」

 

「今日は?」

 

「起きた後だから減ってるニャ」

 

「いつもじゃん」

 

 子どもたちが笑う。

 

 レイニャはパンをスープへ浸しながら、改めて卓上を見た。

 

 ケット・シーの町にも孤児はいる。

 

 旅の途中で、神殿や教会が子どもを預かっている場所へ立ち寄ったこともある。

 

 だから、どこの孤児院でも毎朝これだけ食べられるわけではないと知っていた。

 

「いつも、こんなに食べてるニャ?」

 

 向かいの子が卵を口へ入れ、よく噛んでから答えた。

 

「今はね」

 

「前は卵、たまにだったよ」

 

 隣の子も話へ加わる。

 

「魚も」

 

「でも冬もご飯あったもん」

 

「魚も食べた」

 

「卵も!」

 

「お豆のスープもあったよ」

 

 それぞれが自分の覚えている料理を言い始め、誰の皿に何が載ったことがあるかという話まで広がっていく。

 

 レイニャはパンを持ったまま、その声を聞いた。

 

「何か変わったニャ?」

 

「澪姉ちゃんたちが来てから」

 

「押入商会だよ」

 

「井戸の水も見てくれた」

 

「野菜も来るようになった」

 

「魚も運んできてくれるんだよ」

 

 奥から食器を運んできたシスターが、苦笑しながら口を挟んだ。

 

「畑で野菜を育ててくださる方や、魚を獲る方がいるからですよ」

 

「運ぶ人もいるって、澪姉ちゃんが言ってた」

 

「料理してくれるのはシスターだよ」

 

 小さな子が得意そうに付け足す。

 

 シスターは、今度こそ困ったように笑った。

 

「それは私たちの仕事です」

 

 レイニャは手元のパンを見た。

 

 昨日は収納や転移に驚き、共同商館で聞いた音楽へ夢中になった。

 

 けれど、子どもたちが覚えていたのは、冬にも食べられた魚や卵だった。

 

「押入商会が来てから、変わったのニャ……?」

 

「うん」

 

 返事をした子は、残っていた卵を口へ入れた。

 

 レイニャは卵をもう一口食べた。

 

「はてさて……」

 

「また言った」

 

「考えてる時に出るニャ」

 

「何を考えてるの?」

 

 レイニャは、残っていたパンを一口で食べた。

 

「押入商会が、何をしてるところなのかニャ」

 

 

 

 朝食を終えると、レイニャは病人用の離れへ戻ってハープを背負った。

 

 投げ銭の袋は荷物の奥へしまい、必要な分だけを小さな財布へ移しておく。

 

 出入口にいたシスターへ、町へ出ることも伝えた。

 

「押入商会に行ってみるニャ〜」

 

 近くで聞いていた子が首を傾げた。

 

「昨日も行ったんじゃないの?」

 

「昨日は共同商館ニャ」

 

「違うの?」

 

 レイニャは胸を張った。

 

「それを確かめに行くニャ」

 

 本当は、自分にも違いがよく分かっていない。

 

 けれど、分からないなら見に行けばよい。

 

 旅を始めてから、それで困ったことはあまりなかった。

 

「昼には一度戻ってきますか?」

 

 シスターに聞かれ、レイニャは少し考える。

 

「お昼ご飯が見つからなかったら戻るニャ」

 

「見つかりそうですね」

 

「レイニャもそう思うニャ」

 

 手を振る子どもたちへ振り返し、朝の領都へ出る。

 

 店先では商人が戸板を外し、通りには荷車が増え始めていた。

 

 焼きたてのパンの匂いが流れてくる。

 

 職人らしい男たちは道具を抱え、同じ方向へ足早に歩いていた。

 

 昨日は見るものすべてが珍しく、どこを通ったのか途中から分からなくなっていた。

 

 今日は道を聞きながら、押入家具工房を目指す。

 

 やがて、木材を運び込む荷車と、大きく開いた入口が見えてきた。

 

 共同商館とは造りが違うが、こちらも想像していたよりずっと大きい。

 

「押入商会って、もっと小さいと思ってたニャ〜」

 

 昨日会った澪は、どこから見ても若い娘だった。

 

 小さな店を一つ持っているくらいなら驚かなかった。

 

 ところが、大きな共同商館があり、孤児院の食卓を支える仕事があり、今度は大勢の職人が出入りする建物まである。

 

 入口の脇で帳面を確かめていた少年が、声に気づいて顔を上げた。

 

「あっ、理央だニャ〜」

 

「レイニャさん?」

 

 理央は一度目を丸くし、すぐに背中のハープへ目を向けた。

 

「来たニャ」

 

「それは見れば分かりますけど、どうしたんですか?」

 

「押入商会を見に来たニャ」

 

「昨日、共同商館にいましたよね」

 

「あれだけじゃないニャ?」

 

 理央は工房の中を振り返った。

 

「……あれだけじゃないです」

 

「やっぱりニャ」

 

 予想が当たったレイニャは、満足して頷いた。

 

「仕事中ですけど、少しなら案内できますよ」

 

「見るニャ!」

 

「作業しているところには入らないでくださいね」

 

「見るだけニャ」

 

「触るのも駄目ですよ」

 

「理央は心配性ニャ」

 

「昨日のレイニャさんを見てますから」

 

 何を見られたのか考えたが、思い当たることが多すぎた。

 

 レイニャは聞かなかったことにして、理央の後についていった。

 

 

 

 工房へ足を踏み入れた途端、乾いた木の香りが鼻へ届いた。

 

 鉋が木の表面を走り、薄い削り屑が長く伸びる。

 

 少し離れた場所では鋸の音が響き、別の作業台では金具を合わせる小さな音が続いていた。

 

 親方格らしい腕の太い職人が鉋を使い、その隣では少し細身の職人が引き出しを何度も出し入れしている。

 

 滑りが悪いところを見つけるたび、木の側面をごくわずかに削っていた。

 

 別の職人は差し金を当て、角がずれていないかを確かめている。

 

 ノギスで金具の厚みを測る者もいれば、若い見習いは床へ落ちた削り屑を集めながら、先輩の手元を盗み見ていた。

 

「おお〜……」

 

 レイニャの耳が、左右から来る音を追って忙しく動く。

 

 入口に現れた猫耳へ一瞬だけ視線を向ける者はいたが、誰も仕事の手は止めなかった。

 

 それがかえって面白い。

 

 レイニャは邪魔にならない線の外から、途中まで組み上がった棚へ《鑑定》を使った。

 

---------------------------------------------

木製収納棚

分類:家具

状態:製作途中

用途:物品収納

詳細:不明

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「途中なのは見れば分かるニャ」

 

「何か言いました?」

 

「こっちの話ニャ」

 

 今度は親方の手元にある道具を見る。

 

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鉋

分類:木工用工具

状態:良好

用途:木材表面の切削

詳細:不明

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 名前と用途は分かる。

 

 けれど、刃の違いや、どう調整しているのかまでは見えない。

 

 《鑑定》が示さないなら、自分の目で見ればよい。

 

 親方が鉋を引くと、木の表面から紙より薄い削り屑が浮き上がった。

 

 同じところを何度も削っているように見えるのに、手を止めた時には表面の光り方まで変わっている。

 

「すごいニャ〜」

 

「売り物ですから」

 

 理央は当たり前のように言った。

 

 レイニャは、引き出しを調整している職人へ視線を移す。

 

 差し込み、引き出し、横から覗き、またほんの少し削る。

 

「あれ、何回やるニャ?」

 

「きちんと動くまでじゃないですか?」

 

「終わる回数が決まってないニャ」

 

「家具の方に聞いてください」

 

 若い見習いが、二人の会話を聞いて笑いそうになり、慌てて顔を伏せた。

 

 レイニャは今度こそ声を落とした。

 

「みんな真剣ニャ」

 

「作った物を、お金を出して買う人がいますから」

 

 レイニャは肩越しのハープへ触れた。

 

 弦が緩んだまま歌えば、客は銅貨を投げてくれない。

 

 何度も引き出しを確かめる職人の手が、少しだけ身近に見えた。

 

「若い子もいるニャ」

 

「見習いです」

 

「あの親方、腕が太いニャ〜」

 

 声を抑えたつもりだったが、猫の耳にちょうどよい声量は、人の耳にも十分届いた。

 

 鉋を引いていた親方が手を止めずに答えた。

 

「家具は腕だけじゃ作れんぞ」

 

「耳もいいニャ」

 

「目も要る」

 

「どんどん増えるニャ」

 

「だから見て覚えろ」

 

 最後の言葉は、レイニャではなく、笑いをこらえていた見習いへ向けられていた。

 

「はい!」

 

 見習いが姿勢を正し、親方は何事もなかったように鉋を引き続ける。

 

 薄い削り屑が、くるりと丸まって作業台から落ちた。

 

 レイニャは拾ってみたくなったが、理央がこちらを見ている。

 

「触らないニャ」

 

「まだ何も言ってません」

 

「顔に書いてあったニャ」

 

「レイニャさんの顔に、拾いたいって書いてありました」

 

 先に読まれていた。

 

 レイニャは残念そうに尻尾を揺らし、理央の後を追った。

 

 

 

 工房の奥には、作業場とは低い仕切りで分けられた区画があった。

 

 机の上に帳面と木箱が並び、壁には紙を留めた板と、小さな看板が掛かっている。

 

 仕切りの脇には、検品を待つ品と発送を待つ品が札を分けて置かれていた。

 

 注文の数を読み上げる声と、それを帳面へ書き留める声が、工房の音へ混じっている。

 

「こっちが侯爵領事業所です」

 

 理央が看板を示した。

 

 レイニャは作業場と事業所を見比べる。

 

「ここも押入商会ニャ?」

 

「押入家具工房の中に、押入商会の侯爵領事業所があるんです」

 

「一つの建物に二つ入ってるニャ」

 

「始まった時からここですから」

 

「昨日の共同商館も押入商会ニャ?」

 

「関わってます」

 

「孤児院のご飯も?」

 

「押入商会だけじゃないですけど、関わってます」

 

 レイニャは腕を組んだ。

 

「押入商会の端が、全然見えないニャ〜」

 

「私にも全部は分かりません」

 

 理央がそう言うなら、自分に分からなくても仕方ない気がした。

 

 机の向こうから、一人の女性が顔を上げる。

 

「理央、その方が昨日話していた吟遊詩人?」

 

「はい、レイニャさんです」

 

「マルテです」

 

 落ち着いた声で名乗った女性は、机いっぱいに広げるのではなく、種類ごとに分けた帳面と紙を順番に片づけていた。

 

 理央が続けて、近くで働く者たちも紹介する。

 

「ミラ、ピナ、トルです」

 

 ミラの前には注文票があり、ピナは梱包を終えた箱の紐を確かめている。

 

 トルは壁の時計と手元の控えを見比べ、次に運ぶ品を確認していた。

 

「皆、はじめましてニャ」

 

 ミラとピナは、ほとんど同時にレイニャの耳を見た。

 

 トルは耳を見てからハープを見て、また耳へ戻る。

 

「昨日、共同商館で歌ってた人ですよね?」

 

 ミラが尋ねた。

 

「そうニャ」

 

「すごく人が集まったって聞きました」

 

「今日も歌うかもしれないニャ」

 

 ピナの顔が明るくなる。

 

 けれど、マルテが帳面を閉じる音を聞くと、二人とも仕事へ視線を戻した。

 

 叱られたわけでもないのに、動きが揃っている。

 

「若い子が多いニャ」

 

「ちゃんと働いてますよ」

 

 理央が言うと、ミラがすぐに顔を上げた。

 

「ちゃんとは余計です」

 

「私もそっち側なんだけど」

 

「言ったのは理央でしょ」

 

 ピナが笑い、トルも小さく頷いている。

 

 マルテが受け取った紙を一枚めくるたび、若い三人の手も次の仕事へ移っていく。

 

「もう一人、ルカンもいますけど、今日は市場側です」

 

 理央が付け足した。

 

「押入商会は市場にもいるニャ?」

 

「リュシアさんのところを手伝ってます」

 

「またリュシアさんが出てきたニャ」

 

 昨日の共同商館で、何人もの店員へ声を飛ばしていた姿を思い出す。

 

 レイニャは事業所を見回した。

 

「あれ?」

 

「どうしました?」

 

「澪はいないニャ?」

 

「今日はゲンダイです」

 

「真壁も?」

 

「真壁さんもです」

 

「今日も忙しいニャ〜」

 

「あのギターの曲、もっと聞きたかったニャ」

 

「真壁さんにですか?」

 

「昨日の音楽を、どこで見つけたのか知りたいニャ」

 

「真壁さんが演奏したものじゃありませんよ」

 

「それは昨日聞いたニャ」

 

 レイニャは腰へ手を当てた。

 

「聞きたい音を選んだなら、似た音も知ってるかもしれないニャ」

 

「ああ、そういうことですか」

 

「理央は、レイニャが真壁の生演奏を待ってると思ったニャ?」

 

「少しだけ」

 

「真壁が毎日、地下で弾いてたら怖いニャ」

 

「そこまでではないと思いますけど」

 

「見えない場所から音だけ聞こえるニャ」

 

 想像した二人が、同時に地下の天井を思い浮かべて黙った。

 

 そこへ、工房の入口からよく通る声が届いた。

 

「澪はおるか〜」

 

 理央が顔を上げる。

 

「あ」

 

 レイニャも入口へ目を向けた。

 

「また子どもが来たニャ〜」

 

 

 

 入ってきたのは、赤い髪の少女だった。

 

 動きやすそうな上着とズボンを身につけ、迷いのない足取りで工房を進んでくる。

 

 その半歩後ろには、周囲へ静かに目を配る青年がいた。

 

 少女へ誰かが近づけば、自然に間へ入れそうな位置を崩さない。

 

「澪はおらぬのか」

 

「今日はゲンダイです」

 

 理央の返事に、少女はあっさり頷いた。

 

「そうか」

 

 それから、見慣れない猫耳へ視線を向ける。

 

「そちらは?」

 

「昨日、領都へ来たレイニャさんです」

 

 理央は二人の間へ立った。

 

「レイニャさん、エレナ様です」

 

「エレナ?」

 

 レイニャが名前を繰り返した時、近くを通った職人が少女へ頭を下げた。

 

「おはようございます、姫様」

 

「うむ」

 

 エレナは慣れた様子で応じる。

 

 レイニャの耳が、ぴんと立った。

 

「お姫様ニャ?」

 

「侯爵家の者ではある」

 

 隠す様子も、偉ぶる様子もない。

 

 レイニャはエレナを上から下まで見た。

 

 赤い髪に少年のような服を合わせ、胸を張って立っている。

 

 先ほどまで職人の中にいても、違和感なく混ざりそうだった。

 

「男の子っぽいニャ〜」

 

「それ、本人に言うんですね」

 

 理央が小声で言った。

 

 半歩後ろにいる青年も、ほんのわずかに目を細めた。

 

 エレナ自身は、自分の服を一度見下ろしただけだった。

 

「何か問題があるか?」

 

「ないニャ」

 

 レイニャは即答した。

 

「似合ってるニャ」

 

「そうか」

 

 エレナはそれで納得した。

 

「私はエレナだ」

 

「レイニャニャ」

 

「それは先ほど聞いた」

 

「エレナ嬢、よろしくニャ〜」

 

 青年の視線が一度だけレイニャへ向いた。

 

 しかし、エレナは気にした様子もなく頷いた。

 

「うむ、よろしく頼む」

 

「こちらはオスカーさんです」

 

 理央が青年も紹介する。

 

「オスカーです」

 

「よろしくニャ」

 

 短く挨拶を交わすと、エレナがレイニャの背中へ目を向けた。

 

「それは楽器か?」

 

「ハープニャ」

 

「レイニャさん、吟遊詩人なんです」

 

 理央が説明する。

 

「歌うのか」

 

「歌うニャ」

 

「今か?」

 

 エレナの問いに、レイニャは周囲を見た。

 

 鉋と鋸の音が響き、職人たちは忙しく手を動かしている。

 

 ここで歌い始めたら、親方の目が先ほどより鋭くなるだろう。

 

「歌うなら、昨日のフードコートへ行くニャ」

 

「またですか?」

 

「昨日の音楽も聞きたいニャ」

 

「あそこか」

 

 エレナはすぐに場所を理解した。

 

「私も行こう」

 

「姫様」

 

 オスカーが呼びかける。

 

「何がだ?」

 

「まだ何も申しておりません」

 

「なら問題ないな」

 

 オスカーは小さく息を吐き、それ以上止めなかった。

 

「理央も来るニャ」

 

「私は仕事が」

 

 理央がマルテを見る。

 

 マルテは手元の帳面を確かめた。

 

「昼前の届け物がありますから、共同商館までお願いできますか」

 

「はい」

 

「仕事のついでになったニャ」

 

「私は最初から仕事です」

 

 レイニャを先頭に、理央とエレナ、それに半歩後ろのオスカーが工房を出た。

 

 

 

 共同商館の地下へ下りると、昨日とは違うギターの曲が流れていた。

 

 軽い打楽器の音へ、柔らかな弦の響きが重なっている。

 

 レイニャは階段の途中で立ち止まり、耳を左右へ動かした。

 

「これもいいニャ〜」

 

「止まると後ろが詰まりますよ」

 

 理央に言われ、慌てて階段を下りる。

 

 午前のフードコートは、昼の準備を始めた店員たちで忙しそうだった。

 

 鍋から湯気が上がり、切った野菜や肉が次々と運ばれていく。

 

 その中で、リュシアは店員へ指示を出しながら帳面も確認していた。

 

「あっ、リュシアさん」

 

 レイニャが手を振る。

 

「こんにちはニャ〜」

 

「あんた、朝から元気だね」

 

「ご飯も食べたニャ」

 

「それはよかったね」

 

 リュシアはハープを見るなり、口元を緩めた。

 

「今日も歌うのかい?」

 

「今日も歌わせてほしいニャ」

 

「昨日あれだけもらって、味を占めたかい?」

 

「それもあるニャ」

 

「否定しないんですね」

 

 理央が呆れた声を出す。

 

 レイニャは悪びれずに頷いた。

 

「でも、新しい音も試したいニャ」

 

 昨日聞いたギターの音を、夜のうちに何度も思い返した。

 

 同じ音はハープでは出せない。

 

 けれど、短く切る弾き方や、少し遅れて歌を乗せる間なら試せるかもしれない。

 

 そう考えるだけで、指が弦を探したくなる。

 

 レイニャは演奏場所を見たあと、共同商館の入口がある方向へ顔を向けた。

 

「その前に、客寄せしてくるニャ」

 

「客寄せ?」

 

「お昼ご飯、よろしくニャ」

 

「それが報酬かい」

 

「歌ったらお腹が減るニャ」

 

 リュシアはレイニャを見て、それから昼前の空席を見回した。

 

「本当に客を連れてきたらね」

 

「約束ニャ」

 

「分かったよ」

 

 レイニャはすぐに踵を返した。

 

「どこへ行く?」

 

 エレナが尋ねる。

 

「表ニャ」

 

「ここで歌うのではないのか」

 

「先に、中で聞く人を連れてくるニャ」

 

 

 

 共同商館の正面では、朝より人通りが増えていた。

 

 昼を前に買い物を済ませようとする者や、荷を運ぶ商人が行き交っている。

 

 レイニャは入口を塞がず、それでいて通りからよく見える場所を選んだ。

 

 ハープを構え、弦を一つ鳴らす。

 

 音の高さを確かめている間に、エレナが正面へ立った。

 

 オスカーはその半歩後ろを崩さない。

 

 理央は届け物を入口脇の店員へ渡してから、少し離れた場所へ戻ってきた。

 

「それじゃ、始めるニャ〜」

 

 最初に選んだのは、『黄金の風』だった。

 

 故郷を出る前から知っている、明るい旅の歌だ。

 

 黄金色の麦畑を抜ける風と、朝日に照らされた街道を歌う。

 

 まだ見たことのない町へ向かう旅人の背中を押す曲だ。

 

 軽やかな旋律へ、昨日のギターから拾った短い間を混ぜていく。

 

 いつもなら音をつなぐところで、ほんの少しだけ弦を休ませる。

 

 次の音が出た時、そこだけ風が跳ねたように聞こえた。

 

 レイニャの耳が嬉しそうに動く。

 

 上手くいった。

 

 通りを歩いていた子どもが足を止めた。

 

 その親も少し遅れて止まり、曲の続きを聞く。

 

 荷を背負った商人は歩調を緩め、店を開けたばかりの者が戸口から顔を出した。

 

 最初は数人だった輪が、歌を一節重ねるごとに少しずつ広がっていく。

 

 レイニャは集まった顔を一度見渡し、曲の終わりを朝日のように明るく締めた。

 

 拍手が起こる。

 

「ありがとニャ〜」

 

 頭を下げたあとも、すぐにはハープを下ろさない。

 

「次は、『招き猫のソナタ』ニャ〜」

 

「招き猫?」

 

 理央が聞き返す。

 

「お客さんと幸運を呼ぶ猫の曲ニャ」

 

 ケット・シーの町では、店開きや祝い事の時によく弾かれる縁起のよい曲だ。

 

 レイニャは最初の曲より短く、弾むように弦を鳴らした。

 

 右へ一つ。

 

 左へ二つ。

 

 尻尾の先で拍子を取り、身体も小さく揺らす。

 

 先ほどまで静かに聞いていた子どもが、真似をして腕を上げた。

 

 その姿を見て、周囲から笑い声がこぼれる。

 

「運気が良くなる曲ニャ〜」

 

 レイニャが、とびきり景気よく声を飛ばす。

 

「本当に良くなるのか?」

 

 輪の中から声が上がる。

 

「信じた方が得ニャ〜」

 

「ずるい言い方だな」

 

「旅人は言い方も商売ニャ」

 

 また笑いが起きた。

 

 レイニャは曲を止めず、共同商館の入口を片手で示した。

 

「聞くだけじゃ、もったいないニャ〜」

 

「中には美味しいものが、いっぱいあるニャ〜」

 

「お昼は共同商館ニャ〜」

 

 歌の合間へ言葉を乗せるたび、入口から漂ってくる料理の匂いへ顔を向ける者が増えた。

 

 家族連れの父親が、子どもへ何かを聞く。

 

 子どもは大きく頷き、三人で共同商館へ入っていった。

 

 別の二人連れも、入口の案内を見てから中へ続く。

 

 買い物帰りらしい女性たちは、少し相談したあと、昼を食べていこうと笑い合った。

 

「入ったニャ」

 

 レイニャは演奏しながら目で追う。

 

 また一組が入る。

 

「また入ったニャ」

 

 さらに商人が二人、荷物を抱えたまま入口へ向かった。

 

「どんどん入ってくニャ〜」

 

「本当に客寄せになってる……」

 

 理央が感心したように呟く。

 

「最初から、そのつもりで歌っているのだろう」

 

 エレナは腕を組みながらも、足先で小さく拍子を取っていた。

 

 オスカーがそこへ目を向けると、足だけがぴたりと止まる。

 

 レイニャは見なかったことにした。

 

 最後の音を高く跳ねさせ、両手で弦を押さえる。

 

 明るい余韻が消える前に、集まった者たちから拍手が返ってきた。

 

 エレナも組んでいた腕を解き、素直に手を叩いている。

 

「エレナ嬢も拍手してくれたニャ〜」

 

「よい曲だったぞ」

 

「ありがとニャ〜」

 

 レイニャは胸を張り、共同商館へ入っていく最後の一組を見送った。

 

「皆、入ってくるニャ〜」

 

「歌を聞いて帰った人もいますよ」

 

「全員入ったら、外を歩く人がいなくなるニャ」

 

「そこまで呼ぶつもりだったんですか?」

 

「できるなら呼びたいニャ」

 

 理央が笑い、エレナも口元を少し緩めた。

 

 レイニャはハープを抱え直し、客が吸い込まれていく入口を眺めた。

 

 投げ銭は一枚も増えていないのに、尻尾は機嫌よく揺れていた。

 

 

 

 地下へ戻ると、先ほどより明らかに席が埋まっていた。

 

 入口で歌を聞いていた家族が料理を選び、商人たちは空いた卓へ荷物を置いている。

 

 店員たちの動きも忙しくなっていた。

 

 リュシアは増えた客を見渡してから、戻ってきたレイニャへ向き直った。

 

「ずいぶん連れてきたじゃないか」

 

「約束のお昼ご飯ニャ」

 

「分かってるよ」

 

「本当にご飯が報酬なんですね」

 

 理央がまだ少し信じられない顔をしている。

 

「旅人には大事ニャ」

 

「何が食べたい?」

 

 リュシアに尋ねられ、レイニャは店を見回した。

 

 焼いた肉の匂いがする。

 

 隣では魚が焼け、さらに向こうの鍋からは香辛料の香りが流れてきた。

 

 パンもあり、麺らしい料理もある。

 

 レイニャの耳が右を向き、次に左を向く。

 

 尻尾まで迷うように揺れ始めた。

 

「一つに決めるとは聞いてないニャ」

 

「普通は一食だよ」

 

 客を呼ぶより難しい仕事を前に、レイニャは真剣な顔で店を見比べ始めた。

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