客を呼ぶより難しい仕事を前に、レイニャは真剣な顔で店を見比べていた。
焼いた肉には香ばしい脂が光っている。
魚からは湯気が上がり、隣の鍋では色鮮やかな野菜がスープの中を揺れていた。
少し離れた店では、茹で上がった麺が大きな器へ移されている。
どれか一つを選べば、残りは食べられない。
どれも選ばなければ、もっと食べられない。
考えれば考えるほど難しくなった。
「肉は食べたいニャ」
「それなら肉にしますか?」
「魚も捨てがたいニャ」
「では魚に」
「あの麺も、まだ食べたことがないニャ」
理央が返事をやめた。
代わりに、リュシアが腕を組む。
「腹は一つしかないんだよ」
「今日ほど残念に思ったことはないニャ」
「大げさだね」
レイニャは再び店を見渡した。
そこで、料理ではないものが目に入った。
先ほどまで空いていた卓へ人が座り、店員が忙しく料理を運んでいる。
共同商館の前で歌を聞いていた親子も、買い物帰りの女たちもいた。
自分の歌を聞き、そのまま中へ入ってきた客たちだ。
料理を選んでいる者もいれば、もう食べ始めている者もいる。
「せっかく、いっぱい入ったニャ」
「はい」
理央が頷く。
「今度は中で歌うニャ」
「ご飯は?」
「歌ってからニャ」
リュシアが片方の眉を上げた。
「あんた、さっき歌ったら腹が減るって言ってなかったかい?」
「もう減ってるニャ」
「だったら食べな」
「でも、今は歌いたいニャ」
レイニャは、入口から入ってきた客が空いている卓を探す様子を見た。
外で歌って呼んだだけでは、何となく途中で止めたような気がした。
食事をしている者へ無理に聞かせるつもりはない。
けれど、今なら昨日とは違う歌を大勢に試せる。
リュシアはレイニャの顔を見たあと、配膳する者たちの通り道へ目を向けた。
「あそこの柱の横なら邪魔にならないよ」
「歌っていいニャ?」
「客を追い返さない歌ならね」
「任せるニャ〜」
「そこまで自信満々だと少し心配になるね」
レイニャは料理への未練を振り切り、教えられた柱の横へ移動した。
ハープを構え、弦を一つずつ確かめる。
高い音を少し直してから、短く和音を鳴らした。
近くの卓から順に、客の顔がこちらへ向いた。
「西から来たケット・シーのレイニャだニャ」
昨日から知っている者が笑う。
初めて見る者は、猫耳とハープを順番に見た。
「吟遊詩人をやってるニャ〜」
「外でも歌ってた子だ」
「あの猫の曲か」
そんな声が客席から聞こえる。
レイニャは得意そうに耳を立てた。
「今日は、美味しいご飯を食べに来た人のために歌うニャ」
それから、忙しく店員へ指示を出しているリュシアへ片手を向ける。
「ここを仕切ってるリュシアさんにも拍手ニャ〜」
「ちょっと待ちな」
止めるより先に拍手が起きた。
よく知る客からは、囃す声まで飛んでくる。
リュシアは一度額へ手を当てた。
「私が全部やってるわけじゃないよ」
「じゃあ、ご飯を作ってる人にも拍手ニャ〜」
今度は料理店の者たちへ手を向ける。
鍋を見ていた料理人が、空いた手だけを軽く上げた。
魚を焼いていた男は、照れたように顔を逸らす。
売り子や配膳をしていた者にも、客から拍手が送られた。
「それならいいよ」
リュシアが頷く。
「リュシアさん、細かいニャ」
「商売は細かいところが大事なんだよ」
「今のも歌にするニャ?」
「しなくていい」
即答に、店内から笑いが起きた。
レイニャは笑いが静まるのを待ち、明るく弦を鳴らした。
「最初は、午後も元気に働ける歌ニャ〜」
朝から荷を運んだ男が、もう疲れたと腰を下ろす。
店を開けた商人は、昼までに何度も釣り銭を数え直す。
家具職人は木を削り、売り子は立ったまま客へ笑いかける。
待ちに待った昼飯を腹いっぱい食べれば、今度は瞼が重くなる。
それでも仕事はまだ半分残っている。
どこにでもある一日の話へ、客たちが自分の仕事を重ねていく。
「仕事が終わったら、美味しい酒ニャ〜」
「それを楽しみに働くか!」
奥の卓から声が上がった。
「酒がなくても働け!」
同じ卓の男がすぐに返す。
「それじゃ元気が出ないだろ!」
「昼から飲む気でいるから言ってるんだ!」
歌の途中で言い争いが始まり、周囲が笑った。
レイニャも笑いを声へ混ぜたまま、最後の音を軽く跳ねさせる。
「午後の分まで、食べて働くニャ〜」
「結局、働かせる歌じゃないか」
「ご飯をもらう約束ニャ」
「そっちかよ」
最初の曲が拍手で終わる。
レイニャはすぐに次の旋律へ移った。
「次は、ご飯が美味しく食べられる歌ニャ」
ゆっくりした前奏を弾きながら、目の前の卓を見渡す。
厚く切った肉を頬張る男がいた。
その皿を歌へ入れる。
次の卓には、焼き魚を少しずつ分ける親子がいた。
香ばしい皮と柔らかい身も歌へ加える。
パンをスープへ浸す女たちの前では、野菜の甘さと湯気を歌った。
食べかけの皿が次々と歌へ変わるたび、自分の卓を見てもらった客が笑う。
前の方に座っていた子どもが、両手で小さな皿を持ち上げた。
「これも!」
皿には、芋を潰して焼いたものが一つ残っている。
「丸くて、焼けてて、美味しそうニャ〜」
「名前は?」
歌いながら聞く。
「芋焼き!」
「見たままニャ〜」
「ほんとにそういう名前だもん!」
子どもが抗議し、大人たちがまた笑った。
レイニャは芋焼きまできちんと歌へ加え、最後に店内の料理を大きく手で示した。
「どれも冷める前に食べるニャ〜」
「結局そこなんですね」
近くで聞いていた理央が言う。
「美味しく食べる一番の方法ニャ」
間違ってはいないため、理央も否定しなかった。
拍手が収まると、レイニャは一度だけ深く息を吸った。
三曲目は、それまでより柔らかな音から始めた。
「最後は、友情をはぐくむ歌ニャ」
歌の中では、向かい合って座る者たちが同じ水差しから水を注いだ。
一つのパンを分け、皿を交換し、相手の料理を少しだけ味見する。
昨日まで知らなかった相手とも、同じ卓を囲めば一緒に笑える。
道を尋ねただけの出会いが、その日の寝床へつながることもある。
市場で聞いた歌が、知らない町まで連れていってくれることもある。
レイニャは歌いながら、昨日から出会った顔を思い出した。
最初に浮かんだのは、何でも見たがる理央の顔だった。
真面目な顔で転移を使ったヴァルトや、白い猫神様のようなシロガネの姿も続く。
泊まる場所を用意してくれた澪たちと、子守歌をせがんだ子どもたちの顔も忘れていない。
そして今は、男の子のような服を着た姫様が、正面の卓で静かに歌を聞いている。
名前を歌へ入れなくても、自分の声は昨日より温かくなった気がした。
最後の一音を長く残す。
話し声も食器の音も、その間だけ小さくなっていた。
弦の震えが消える。
すぐには誰も声を出さなかった。
それから、エレナが最初に手を叩いた。
隣で控えていたオスカーも続き、客席の拍手が一気に広がる。
料理人まで、今度は両手で拍手していた。
レイニャは頭を下げる。
顔を上げると、一枚の硬貨が足元へ置かれた。
続けて二枚目が落ちる。
近くの卓からも、奥の席からも、少しずつ硬貨が集まってきた。
「いっぱいニャ〜」
昨日は何が起きたのか分からず、投げ銭を前に動けなくなった。
今日は、自分で袋を開き、一枚ずつ受け取っていく。
慣れたつもりでも、嬉しさは昨日とほとんど変わらない。
袋が少し重くなったところで、レイニャは客席へもう一度頭を下げた。
「今日も幸せニャ〜」
笑いと一緒に、もう一度拍手が返ってくる。
レイニャの尻尾は、隠す気もなく左右へ大きく揺れていた。
演奏を終え、投げ銭を数え始める前に、三人の商人がレイニャへ近づいてきた。
「あんた、今週はまだ領都にいるのか?」
「そのつもりニャ」
「なら、うちの店でも歌ってくれないか」
最初の男は、夜になると酒と料理を出す店を営んでいるという。
隣の男もすぐに割り込む。
「うちの方が客は多いぞ」
「声を掛けたのは俺が先だ」
「日を分ければいいだろう」
三人目は、すでに予定を組むつもりで話へ加わっていた。
自分から売り込まなくても仕事が来た。
レイニャの耳が嬉しそうに前へ向く。
「行くニャ〜」
「待ちな」
返事へ重ねるように、リュシアの声が飛んだ。
レイニャの耳だけが、後ろへ向く。
「ニャ?」
「何を聞いて引き受けたんだい」
「店で歌うニャ」
「それしか聞いてないだろう」
言われてみれば、その通りだった。
レイニャは三人の商人へ向き直る。
「ご飯は出るニャ?」
「そこからかい」
リュシアが呆れる。
最初の男は笑って頷いた。
「一食つける」
「投げ銭は?」
「お前さんのものだ」
「何曲歌うニャ?」
「宵の客が入ってから、休みを挟んで何曲か頼みたい」
「帰りが真夜中になるのは困るニャ」
「そこまで引き留めない、今夜だ」
レイニャが今度こそ頷きかける。
リュシアは男へ店の名前と場所を尋ねた。
返事を聞くと、表情を少し緩める。
「そこなら知ってるよ」
「だろう?」
「支払いは先に半分だ」
「信用がないみたいに言うな」
「旅人相手だから確認してるんだよ」
男は不満そうに口を曲げたが、すぐに頷いた。
最初の男とは、今夜に歌うことで話がまとまった。
出演料と食事、それに投げ銭の扱いをもう一度確かめる。
もう一人の店も、共同商館から遠くない場所にあった。
こちらは明るいうちから客が入り、夜が深くなる前に演奏を終えるという。
帰りは店の者が孤児院の近くまで送ると約束した。
「それならいいね」
リュシアが認める。
残っていた三人目が、自分の店の名を告げた。
その瞬間、リュシアの顔から笑みが消えた。
「そこは駄目だよ」
「何でだ」
「何でって、自分の店の評判を知らないのかい?」
「客は入ってる」
「旅人と支払いで揉める話も、酔った客を放っておく話も聞いてるよ」
「大げさだ」
「この子を呼ぶ前に、自分の店を何とかしな」
男は何か言い返そうとしたが、周囲の視線に気づいて口を閉じた。
舌打ちまではしなかったものの、納得していない顔で離れていく。
レイニャは、その背中とリュシアを見比べた。
「リュシアさん、怒ったニャ」
「あんたが何でも引き受けるからだよ」
「まだ何でもとは言ってないニャ」
「最初の一言が『行く』だっただろう」
逃げ道がなかった。
「レイニャさんのためですよ」
理央に言われ、レイニャは小さく頷いた。
自分には、歌を聞いた客の顔も、投げ銭を出す手も見える。
話し方や服装から、値段を相談することもできる。
けれど、初めて来た町の店が、過去に誰と揉めたかまでは分からない。
「ありがとニャ」
素直に礼を言うと、リュシアは少しだけ目を細めた。
「知らない町で仕事を受けるなら、地元を知ってる者へ店の評判を聞きな」
「覚えたニャ」
「食事の有無より先にね」
「それは大事ニャ」
「まったく」
リュシアは呆れながらも、残った二人との約束を帳面へ書き留めた。
レイニャも日を間違えないよう、自分の小さな手帳へ印をつける。
今週の夜だけで、二つの仕事が決まった。
領都へ来た時には、一度歌えればよいと思っていた。
それが三日目には、先の仕事まで決まっている。
「仕事が増えたニャ〜」
「先に昼飯を食べな」
リュシアが言うまで、空腹を忘れていた。
思い出した途端、腹が大きな声で鳴った。
近くにいた理央が、聞かなかったふりをして顔を逸らす。
「今のはハープじゃないニャ」
「分かってます」
リュシアが用意したのは、一つの大皿ではなかった。
焼いた肉と野菜、魚、スープ、それに少量の麺が、それぞれ小さな器へ分けられている。
「全部ニャ〜」
「今日だけだよ」
「明日も客を呼ぶニャ」
「明日は自分で払いな」
レイニャは返事をせず、まず肉を口へ入れた。
噛んでいる間に魚へ目を移し、飲み込むとすぐに箸を伸ばす。
「返事は?」
「美味しいニャ」
「都合の悪いところだけ聞こえなくなるんですね」
理央が向かいから言う。
「今は食べるのに忙しいニャ」
同じ卓にはエレナも座っていた。
オスカーはいつものように後ろへ控えようとしたが、エレナに食べないのかと聞かれ、少し離れた席へ腰を下ろしている。
仕事が決まった話を聞くと、エレナは満足そうに頷いた。
「領都が気に入ったようだな」
「面白いものが多いニャ」
「まだ三日目ですよ」
理央が訂正する。
「三日でこれだけあったニャ」
レイニャは肉を指したあと、地下へ流れるギターの曲へ耳を向けた。
「まだ増えそうニャ〜」
「そういえば、飛行船の町へは行ったか?」
エレナが何気なく尋ねた。
レイニャは麺を持ち上げたところで止まった。
「……ニャ?」
「飛行船だ」
「空を飛ぶ船ニャ?」
「うむ」
持ち上げた麺が、器へ滑り落ちる。
「ニャニャ?」
理央が口元へ手を当てた。
少し前まで、自分も同じような顔をしていたことを思い出したらしい。
「聞いたことないニャ」
「町の外にあるぞ」
「町の外に、空飛ぶ船の町があるニャ!?」
「飛行船だけではない」
エレナはスープを一口飲んでから続けた。
「人が住むための町だ」
「船を置く場所だけじゃないニャ?」
「学校も診療所もある」
「学校も?」
「公園もあるぞ」
「船の横で遊ぶニャ?」
「真横ではない」
当然の返事だった。
理央も会話へ加わる。
「商店や食堂もあります」
「普通の町ニャ」
「飛行船を除けば、そうですね」
「それが普通から一番遠いニャ」
レイニャは食事を再開したが、耳は完全にエレナの方へ向いていた。
「途中には葡萄畑もある」
「葡萄畑?」
「ワイナリーで葡萄酒を造っておる」
レイニャの目が輝く。
「それは見たいニャ」
「温浴施設もありますよ」
理央が付け加えた。
「お風呂はいらないニャ」
返事だけが急に速かった。
「そこだけ迷わないんですね」
「濡れるニャ」
「雨は平気なんですか?」
「雨はレイニャが選んで入るものじゃないニャ」
「お風呂も入れられるんじゃなくて、自分で入るものですよ」
「だから入らないニャ」
レイニャの理屈は一貫していた。
エレナは面白そうに二人のやり取りを聞いていた。
「飛行船は見たいのだろう?」
「見るニャ」
「いつ行く?」
「今からニャ」
また返事が速い。
理央が卓上の食事を見る。
「まだ食べ終わってませんよ」
「食べてから行くニャ」
「そこは行くより先なんですね」
「大事ニャ」
リュシアは近くの店員を呼び、午後の乗合馬車の時刻を確かめた。
「朝に新町を出た便が、もうすぐ向こうへ戻るそうだよ」
「それに乗るニャ」
「帰りの領都行きも先に確かめな」
「帰れなくなるニャ?」
「夕方の便を逃したらね」
レイニャは食べる速度を少しだけ上げた。
「慌てて喉へ詰まらせるんじゃないよ」
今度は少しだけ遅くなった。
理央は午後の仕事があるため、家具工房へ戻ることになった。
エレナも侯爵邸へ帰る予定があり、オスカーがその時間を静かに伝える。
「一人で行けるか?」
エレナが尋ねる。
「ここまで一人で旅してきたニャ」
「そうだったな」
「馬車の乗り場だけ教えてほしいニャ」
「それなら私が途中まで案内します」
理央の帰り道と、乗り場へ向かう道は途中まで同じだった。
食事を終えたレイニャは、投げ銭と仕事の予定を確かめ、ハープを背負い直す。
「行ってくるニャ〜」
「夕方の便を忘れるんじゃないよ」
リュシアが念を押す。
「飛行船を見ても、勝手に中へ入るな」
エレナも続ける。
「入れないニャ?」
「今日は見るだけにしておけ」
レイニャは少し残念そうな顔をした。
「分かったニャ」
その返事を、エレナと理央とオスカーが同時に聞いていた。
三人とも、なぜか完全には安心していない顔だった。
領都の乗り場には、大きな客車が停まっていた。
二頭の馬が前へ並んでいるが、どちらも息を荒らしていない。
尾は動かず、耳も同じ角度のままだった。
レイニャは運賃を払う前に、その一頭へ顔を近づけた。
「馬の匂いがしないニャ」
「機械馬ですからね」
切符を渡す男が、慣れた声で答えた。
「馬じゃないニャ?」
「走りますよ」
「そこを聞いてないニャ」
乗車を待つ者が後ろへ並び始めたため、レイニャは名残惜しそうに機械馬から離れた。
行きと帰りの時刻を切符売り場で確かめる。
新町へ着いてから、夕方の領都行きが出るまでには少し時間があった。
レイニャは時刻を二度聞き、忘れないよう手帳へ印をつけた。
客車へ乗ると、ハープを邪魔にならないよう膝の上へ抱える。
向かいには荷物を持った商人が座り、その隣には領都で用事を済ませたらしい親子がいた。
鐘が鳴る。
二頭の機械馬が、まったく同じ瞬間に脚を踏み出した。
客車はほとんど揺れずに動き始める。
「本当に走ったニャ」
「毎日走ってるよ」
向かいの商人が笑う。
「押入商会ニャ?」
「何がだ?」
「この馬ニャ」
「そこまでは知らんな」
聞けば何でも押入商会の名前が出てきたため、つい尋ねてしまった。
レイニャは窓の外へ顔を向ける。
領都の建物が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
道の両側には畑が広がり、その間を荷車や歩く人が行き交っていた。
しばらく進むと、低い支柱へ沿って伸びる葡萄の木が見えてきた。
春になったばかりで、枝の緑はまだ薄い。
それでも畑は何列も続き、奥には作業用らしい建物が立っている。
「あれがワイナリーかニャ?」
「葡萄酒を造ってるのは、もう少し向こうだ」
商人が窓の先を指した。
「今日は寄れないニャ」
「馬車は待ってくれんぞ」
「また来る理由が増えたニャ〜」
道が緩く曲がるたび、新しい景色が窓へ入る。
転移なら、一瞬で目的地へ着く。
エアカーなら、地上の道を気にせず進める。
けれど、畑の匂いを嗅ぎ、途中の家を数え、同じ馬車の者から土地の話を聞けるのは、こういう旅だった。
「こういうのも好きニャ〜」
レイニャは窓枠へ頬杖をつき、機械馬が刻む正確な足音を聞き続けた。
新町へ着いて最初に見えたのは、飛行船ではなかった。
停車場の屋根の向こうへ、白い石畳が真っ直ぐ伸びている。
その両側には新しい住宅が並び、店の前では野菜や日用品が売られていた。
荷物を降ろす者の横を、買い物籠を持った女が通り過ぎる。
少し離れた食堂からは、遅い昼食の匂いも流れてきた。
「本当に町ニャ」
飛行船を置くための広場に、何軒か店が付いているだけだと思っていた。
目の前にあるのは、領都より小さくても、人が暮らすために造られた町だった。
レイニャは駅舎へ入り、帰りの乗り場をもう一度確かめた。
「鐘が鳴ったら、ここへ戻ればいいニャ?」
「最初の鐘で荷物を積みます」
駅の者が答える。
「二度目で乗車、三度目で出発です」
「三度目まで待ってくれるニャ」
「三度目が鳴ったら待ちませんよ」
「二度目で戻るニャ」
「そうしてください」
帰り道を失わないよう駅舎を振り返り、屋根の形を覚える。
それから、通りにいた男へ飛行船の場所を尋ねた。
男は答える代わりに、レイニャの背後を指した。
「ニャ?」
レイニャが振り返ると、町の向こうに切り立った岩壁があった。
その一部へ、城門など比べものにならないほど巨大な開口部が造られている。
中は暗く、外からでは奥まで見通せない。
けれど、その暗がりを横切るように、何かが長く伸びていた。
それは建物の壁でも、岩でもなかった。
日が当たった表面だけが、鈍く光を返している。
レイニャはゆっくり首を上げ、さらに後ろへ反らした。
まだ全体が視界へ入らない。
耳の先まで動きを止めたまま、駅前から岩壁の方へ歩き出す。
近づくほど、暗がりの中から長大な船体が浮かび上がってきた。
地上の船とは比べられないほど大きく、地下ドックの奥を埋めるように横たわっている。
町側から近づける場所の端には印があり、その先で作業員が行き来していた。
レイニャが印を越えそうになると、近くの係員が片手を上げる。
「見られるのは、そこまでです」
「見るだけニャ」
「その位置なら、いくらでも」
レイニャは足を止めた。
船体を端から端まで目で追おうとする。
だが、片方を見れば、もう片方が視界から外れた。
「…………ニャ」
船の下では、人が小さく見える。
船底と床の間には、細い隙間があった。
巨大な船体は、支柱の上へ載っているのではない。
「船ニャ」
返事をする者はいない。
ここを通る住民には、もう見慣れた光景らしい。
レイニャは一歩だけ横へ動き、船底の下をもう一度覗いた。
「地面についてないニャ」
「浮いてますから」
先ほどの係員が答えた。
あまりにも普通の言い方だった。
レイニャは勢いよく振り返る。
「これが浮くのは普通じゃないニャ!」
「ここでは毎日見ます」
「毎日見てもおかしいものは、おかしいニャ〜!」
係員は笑いをこらえるように口元を引き締めた。
レイニャはもう一度、飛行船を見上げる。
西の海で何隻もの船を見てきた。
帆柱の高い船も、腹いっぱいに荷を積んだ大船も知っている。
目の前のものは、そのどれとも違った。
海へ浮かぶのではない。
この巨体が、空へ上がる。
「本当に空を飛ぶ船ニャ〜!?」
地下ドックへ声が響く。
何人かの作業員が振り返り、すぐに自分の仕事へ戻った。
係員は、今度こそ声を立てて笑った。
飛行船の前で首が痛くなるまで上を見たあと、レイニャはようやく町の方へ戻った。
広い道路の先には庁舎があり、その向かいでは荷物を積んだ馬車が店の裏へ回っていく。
診療所の入口から親子が出てきた。
少し先には学校があり、その向かいには遊具と屋根付きの休憩場所がある公園も見える。
「空飛ぶ船があるのに、普通に暮らしてるニャ」
道端で荷物をまとめていた女が、猫耳へ目を向けた。
「船があっても、腹は減るからね」
「それは大事ニャ」
レイニャはすぐに納得した。
「お風呂もあるって聞いたニャ」
「あの道を行った先だよ」
女が町の端へ延びる道を指す。
木立の向こうに、それらしい建物の屋根が見えた。
春の昼下がりでは、冬のように白い湯気が遠くから目立つことはない。
「本当にあるニャ……」
レイニャは少し考えた。
「行かないニャ」
「聞いたのはあんただろう」
「あるか知りたかっただけニャ」
女は呆れたように笑い、荷物を持って去っていった。
レイニャは、今度は学校へ目を向ける。
ちょうど扉が開き、子どもたちが何人も外へ出てきた。
紙を束ねて抱える子もいれば、鞄を肩へ掛けた子もいる。
友達を待って立ち止まる子の横を、先に帰る者たちが走っていく。
その一人が、通りに立つレイニャへ気づいた。
「ケット・シーだ!」
声を聞いた子どもたちが、次々とこちらを見る。
レイニャは隠す理由もないため、片手を上げた。
「そうニャ〜」
「耳、本物?」
「本物ニャ」
「尻尾も?」
「これも本物ニャ」
一人が後ろへ回り込もうとしたため、尻尾を反対側へ逃がす。
「触るなら聞いてからニャ」
「触っていい?」
「今日は駄目ニャ」
「聞いたのに!」
「聞いたら必ず触れるとは言ってないニャ」
近くの子が笑う。
別の子は、耳より背中のハープが気になったらしい。
「吟遊詩人?」
「そうニャ」
「歌うの?」
「歌うニャ」
「今歌って!」
「さっき三曲歌ってきたニャ」
「じゃあ、お話は?」
別の子が尋ねる。
レイニャはハープへ触れかけた手を止めた。
「お話もするニャ」
「聞きたい!」
「海の話!」
「竜がいい!」
「怖いやつ!」
一斉に声が上がる。
通りの真ん中で始めれば邪魔になる。
レイニャは学校の向かいにある公園を見た。
「じゃあ、公園で話すニャ」
言い終わる前に、子どもたちは公園へ走り始めた。
「レイニャより先に行っても、お話は始まらないニャ〜」
そう言いながら、レイニャも少しだけ足を速めた。
公園の屋根付き休憩所には、腰を下ろせる長椅子があった。
レイニャは、その前へハープを置く。
子どもたちは長椅子だけでは足りず、芝の上や遊具のそばにも集まった。
「何の話がいいニャ?」
「怖い話!」
「竜!」
「英雄!」
「海の怪物!」
また一斉に違う答えが返ってくる。
「一人ずつニャ〜」
「全部!」
誰かが言うと、ほかの子どもたちも賛成した。
「欲張りが多い町ニャ」
「飛行船もあるよ!」
「それは欲張りと関係ないニャ」
レイニャは少し考え、ハープの縁を指先で軽く叩いた。
「じゃあ、西の海で聞いた怪物の話からニャ」
先ほどまでの軽い声を、一段だけ低くする。
月のない夜だった。
海は黒く、空との境目も見えない。
一隻の漁船が港へ戻ろうとした時、船底よりずっと下から、重いものが網を引いた。
綱を放せば、大切な網を失う。
引けば、船ごと海へ沈められる。
漁師たちは声を殺し、暗い水面を見つめた。
波の下を、船より大きな影が横切る。
子どもたちから声が消えた。
レイニャは片手をゆっくり持ち上げる。
黒い影も、船の横へ浮かび上がる。
水面から現れたのは、家ほどもある頭だった。
口には鋭い牙が並び、目は夜の中で白く光っていた。
「それで!?」
一番前の子が、待ちきれずに聞く。
レイニャはすぐには答えない。
怪物が大きく口を開く。
漁師たちも、これまでだと思った。
ところが次の瞬間、怪物の方が大慌てで暴れ始めた。
「どうして?」
「網が牙へ引っかかって、取れなくなったニャ」
「怪物が引っかかったの?」
「漁師より慌てたニャ」
怪物は頭を振り、船を引き、最後には網ごと沖へ逃げていった。
残された漁師たちは助かったが、その年は新しい網を買うまで魚を獲れなかったという。
「勝ったの?」
「生きて帰ったから勝ちニャ」
「網は取られたよ」
「海では、帰れた方が勝ちニャ」
子どもたちは少し考え、それなら勝ちだと頷き合った。
怖がっていた顔が笑顔へ変わったところで、レイニャは次の話へ移る。
「次は、百人の敵を一人で倒した英雄の話ニャ」
今度は胸を張り、太い声を作る。
英雄は大きな剣を持ち、戦場では誰よりも強かった。
敵が十人来ても退かず、二十人来ても倒れない。
百人を破り、町へ戻った夜には、広場いっぱいの人から祝福された。
「すごい!」
「竜も倒した?」
「その話には竜は出ないニャ」
「出してよ」
「勝手に増やすと、あとで英雄に怒られるニャ」
「もう死んでるんじゃない?」
「それでもニャ」
レイニャは話を戻す。
祝宴を終えた英雄は、宿へ帰った。
ところが、長い廊下のどこまで歩いても、自分の部屋が見つからない。
右を見ても同じ扉。
左を見ても同じ扉。
百人の敵を前にしても迷わなかった英雄が、宿の中で一晩中迷った。
「お酒飲んだからでしょ!」
「たぶん飲みすぎたニャ」
「朝まで見つからなかったの?」
「最後は宿のおかみさんに連れていってもらったニャ」
「英雄なのに!」
「英雄でも、部屋は教えてもらわないと分からないニャ」
子どもたちが声を上げて笑う。
その声を聞きつけ、帰り道の別の子どもたちも公園へ入ってきた。
レイニャは少し場所を詰めさせ、三つ目の話を始めた。
「最後は、山の精霊ニャ」
深い山へ入った旅人は、同じ木の前を何度も通ることがある。
道を間違えたつもりはないのに、朝に見た岩が夕方にも現れる。
そんな時は、山の精霊が旅人を帰したくないのだという。
怒鳴っても、剣を振っても、道は見つからない。
けれど、甘い菓子を一つ岩の上へ置き、山を褒めると、次に振り返った時には正しい道が現れる。
「どんなお菓子?」
「甘ければ何でもいいらしいニャ」
「本当に?」
「知らないニャ」
あっさり答えると、子どもたちが一斉に不満そうな顔をした。
「知らないの?」
「レイニャは精霊に会ってないニャ」
「じゃあ、誰が見たの?」
「山を越えた町の、お菓子屋のおばあさんから聞いたニャ」
「お菓子を売りたかっただけじゃない?」
一人の少女が冷静に指摘した。
レイニャは数秒黙った。
「その可能性はあるニャ」
また笑いが起きる。
「でも、昔から話が残ってるの?」
「残ってるニャ」
「じゃあ本当かもしれない」
「そうかもしれないし、違うかもしれないニャ」
レイニャは人差し指を立てる。
「伝説は、全部を信じるものじゃないニャ」
今度は、もう一本の指を立てた。
「でも、全部を嘘にしたら旅がつまらなくなるニャ」
「じゃあ、お菓子を持っていけばいい?」
「遭難するような山へ、子どもだけで行ったら駄目ニャ」
「行かないよ」
「なら、お菓子はここで食べればいいニャ」
「精霊の分は?」
「一つ残すニャ」
「レイニャが食べるんじゃない?」
「どうして分かったニャ?」
笑い声が、公園の外まで広がった。
話を三つ終えた頃には、長椅子の周りにいた子どもの数が倍ほどになっていた。
「もう一つ!」
「今度は竜!」
「歌も聞きたい!」
レイニャは嬉しかったが、駅で聞いた三度の鐘を思い出した。
ちょうど遠くから、低い音が一度だけ届く。
荷物を積み始める鐘だ。
「今日はここまでニャ〜」
「えー!」
「帰りの馬車に置いていかれるニャ。今夜はお店で演奏の仕事があるニャ」
「明日も来る?」
「明日も領都で仕事があるニャ」
「じゃあ、その次は?」
「約束はしないニャ」
「どうして?」
「旅人だからニャ」
子どもたちの顔が少しだけ曇る。
レイニャはハープを背負い、公園の向こうへ見える岩壁を振り返った。
巨大な開口部の中には、飛行船の一部がまだ見えている。
今日は外から眺めただけだった。
町には見ていない店があり、葡萄酒を造る場所にも寄っていない。
温浴施設は見なくてもよい。
「でも、この町はまだ面白そうニャ〜」
「じゃあ、また来る?」
一番前の子が、すぐに聞き返す。
レイニャは飛行船へ目を細めた。
「次は、あれに乗ってみたいニャ」
「やっぱり来るんじゃん!」
「約束はしてないニャ〜」
二度目の鐘が鳴った。
レイニャは子どもたちへ大きく手を振り、駅舎へ向かって走り出した。