押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第370話 空を飛ぶ船ニャ?

 

 客を呼ぶより難しい仕事を前に、レイニャは真剣な顔で店を見比べていた。

 

 焼いた肉には香ばしい脂が光っている。

 

 魚からは湯気が上がり、隣の鍋では色鮮やかな野菜がスープの中を揺れていた。

 

 少し離れた店では、茹で上がった麺が大きな器へ移されている。

 

 どれか一つを選べば、残りは食べられない。

 

 どれも選ばなければ、もっと食べられない。

 

 考えれば考えるほど難しくなった。

 

「肉は食べたいニャ」

 

「それなら肉にしますか?」

 

「魚も捨てがたいニャ」

 

「では魚に」

 

「あの麺も、まだ食べたことがないニャ」

 

 理央が返事をやめた。

 

 代わりに、リュシアが腕を組む。

 

「腹は一つしかないんだよ」

 

「今日ほど残念に思ったことはないニャ」

 

「大げさだね」

 

 レイニャは再び店を見渡した。

 

 そこで、料理ではないものが目に入った。

 

 先ほどまで空いていた卓へ人が座り、店員が忙しく料理を運んでいる。

 

 共同商館の前で歌を聞いていた親子も、買い物帰りの女たちもいた。

 

 自分の歌を聞き、そのまま中へ入ってきた客たちだ。

 

 料理を選んでいる者もいれば、もう食べ始めている者もいる。

 

「せっかく、いっぱい入ったニャ」

 

「はい」

 

 理央が頷く。

 

「今度は中で歌うニャ」

 

「ご飯は?」

 

「歌ってからニャ」

 

 リュシアが片方の眉を上げた。

 

「あんた、さっき歌ったら腹が減るって言ってなかったかい?」

 

「もう減ってるニャ」

 

「だったら食べな」

 

「でも、今は歌いたいニャ」

 

 レイニャは、入口から入ってきた客が空いている卓を探す様子を見た。

 

 外で歌って呼んだだけでは、何となく途中で止めたような気がした。

 

 食事をしている者へ無理に聞かせるつもりはない。

 

 けれど、今なら昨日とは違う歌を大勢に試せる。

 

 リュシアはレイニャの顔を見たあと、配膳する者たちの通り道へ目を向けた。

 

「あそこの柱の横なら邪魔にならないよ」

 

「歌っていいニャ?」

 

「客を追い返さない歌ならね」

 

「任せるニャ〜」

 

「そこまで自信満々だと少し心配になるね」

 

 レイニャは料理への未練を振り切り、教えられた柱の横へ移動した。

 

 ハープを構え、弦を一つずつ確かめる。

 

 高い音を少し直してから、短く和音を鳴らした。

 

 近くの卓から順に、客の顔がこちらへ向いた。

 

「西から来たケット・シーのレイニャだニャ」

 

 昨日から知っている者が笑う。

 

 初めて見る者は、猫耳とハープを順番に見た。

 

「吟遊詩人をやってるニャ〜」

 

「外でも歌ってた子だ」

 

「あの猫の曲か」

 

 そんな声が客席から聞こえる。

 

 レイニャは得意そうに耳を立てた。

 

「今日は、美味しいご飯を食べに来た人のために歌うニャ」

 

 それから、忙しく店員へ指示を出しているリュシアへ片手を向ける。

 

「ここを仕切ってるリュシアさんにも拍手ニャ〜」

 

「ちょっと待ちな」

 

 止めるより先に拍手が起きた。

 

 よく知る客からは、囃す声まで飛んでくる。

 

 リュシアは一度額へ手を当てた。

 

「私が全部やってるわけじゃないよ」

 

「じゃあ、ご飯を作ってる人にも拍手ニャ〜」

 

 今度は料理店の者たちへ手を向ける。

 

 鍋を見ていた料理人が、空いた手だけを軽く上げた。

 

 魚を焼いていた男は、照れたように顔を逸らす。

 

 売り子や配膳をしていた者にも、客から拍手が送られた。

 

「それならいいよ」

 

 リュシアが頷く。

 

「リュシアさん、細かいニャ」

 

「商売は細かいところが大事なんだよ」

 

「今のも歌にするニャ?」

 

「しなくていい」

 

 即答に、店内から笑いが起きた。

 

 レイニャは笑いが静まるのを待ち、明るく弦を鳴らした。

 

「最初は、午後も元気に働ける歌ニャ〜」

 

 朝から荷を運んだ男が、もう疲れたと腰を下ろす。

 

 店を開けた商人は、昼までに何度も釣り銭を数え直す。

 

 家具職人は木を削り、売り子は立ったまま客へ笑いかける。

 

 待ちに待った昼飯を腹いっぱい食べれば、今度は瞼が重くなる。

 

 それでも仕事はまだ半分残っている。

 

 どこにでもある一日の話へ、客たちが自分の仕事を重ねていく。

 

「仕事が終わったら、美味しい酒ニャ〜」

 

「それを楽しみに働くか!」

 

 奥の卓から声が上がった。

 

「酒がなくても働け!」

 

 同じ卓の男がすぐに返す。

 

「それじゃ元気が出ないだろ!」

 

「昼から飲む気でいるから言ってるんだ!」

 

 歌の途中で言い争いが始まり、周囲が笑った。

 

 レイニャも笑いを声へ混ぜたまま、最後の音を軽く跳ねさせる。

 

「午後の分まで、食べて働くニャ〜」

 

「結局、働かせる歌じゃないか」

 

「ご飯をもらう約束ニャ」

 

「そっちかよ」

 

 最初の曲が拍手で終わる。

 

 レイニャはすぐに次の旋律へ移った。

 

「次は、ご飯が美味しく食べられる歌ニャ」

 

 ゆっくりした前奏を弾きながら、目の前の卓を見渡す。

 

 厚く切った肉を頬張る男がいた。

 

 その皿を歌へ入れる。

 

 次の卓には、焼き魚を少しずつ分ける親子がいた。

 

 香ばしい皮と柔らかい身も歌へ加える。

 

 パンをスープへ浸す女たちの前では、野菜の甘さと湯気を歌った。

 

 食べかけの皿が次々と歌へ変わるたび、自分の卓を見てもらった客が笑う。

 

 前の方に座っていた子どもが、両手で小さな皿を持ち上げた。

 

「これも!」

 

 皿には、芋を潰して焼いたものが一つ残っている。

 

「丸くて、焼けてて、美味しそうニャ〜」

 

「名前は?」

 

 歌いながら聞く。

 

「芋焼き!」

 

「見たままニャ〜」

 

「ほんとにそういう名前だもん!」

 

 子どもが抗議し、大人たちがまた笑った。

 

 レイニャは芋焼きまできちんと歌へ加え、最後に店内の料理を大きく手で示した。

 

「どれも冷める前に食べるニャ〜」

 

「結局そこなんですね」

 

 近くで聞いていた理央が言う。

 

「美味しく食べる一番の方法ニャ」

 

 間違ってはいないため、理央も否定しなかった。

 

 拍手が収まると、レイニャは一度だけ深く息を吸った。

 

 三曲目は、それまでより柔らかな音から始めた。

 

「最後は、友情をはぐくむ歌ニャ」

 

 歌の中では、向かい合って座る者たちが同じ水差しから水を注いだ。

 

 一つのパンを分け、皿を交換し、相手の料理を少しだけ味見する。

 

 昨日まで知らなかった相手とも、同じ卓を囲めば一緒に笑える。

 

 道を尋ねただけの出会いが、その日の寝床へつながることもある。

 

 市場で聞いた歌が、知らない町まで連れていってくれることもある。

 

 レイニャは歌いながら、昨日から出会った顔を思い出した。

 

 最初に浮かんだのは、何でも見たがる理央の顔だった。

 

 真面目な顔で転移を使ったヴァルトや、白い猫神様のようなシロガネの姿も続く。

 

 泊まる場所を用意してくれた澪たちと、子守歌をせがんだ子どもたちの顔も忘れていない。

 

 そして今は、男の子のような服を着た姫様が、正面の卓で静かに歌を聞いている。

 

 名前を歌へ入れなくても、自分の声は昨日より温かくなった気がした。

 

 最後の一音を長く残す。

 

 話し声も食器の音も、その間だけ小さくなっていた。

 

 弦の震えが消える。

 

 すぐには誰も声を出さなかった。

 

 それから、エレナが最初に手を叩いた。

 

 隣で控えていたオスカーも続き、客席の拍手が一気に広がる。

 

 料理人まで、今度は両手で拍手していた。

 

 レイニャは頭を下げる。

 

 顔を上げると、一枚の硬貨が足元へ置かれた。

 

 続けて二枚目が落ちる。

 

 近くの卓からも、奥の席からも、少しずつ硬貨が集まってきた。

 

「いっぱいニャ〜」

 

 昨日は何が起きたのか分からず、投げ銭を前に動けなくなった。

 

 今日は、自分で袋を開き、一枚ずつ受け取っていく。

 

 慣れたつもりでも、嬉しさは昨日とほとんど変わらない。

 

 袋が少し重くなったところで、レイニャは客席へもう一度頭を下げた。

 

「今日も幸せニャ〜」

 

 笑いと一緒に、もう一度拍手が返ってくる。

 

 レイニャの尻尾は、隠す気もなく左右へ大きく揺れていた。

 

 

 

 演奏を終え、投げ銭を数え始める前に、三人の商人がレイニャへ近づいてきた。

 

「あんた、今週はまだ領都にいるのか?」

 

「そのつもりニャ」

 

「なら、うちの店でも歌ってくれないか」

 

 最初の男は、夜になると酒と料理を出す店を営んでいるという。

 

 隣の男もすぐに割り込む。

 

「うちの方が客は多いぞ」

 

「声を掛けたのは俺が先だ」

 

「日を分ければいいだろう」

 

 三人目は、すでに予定を組むつもりで話へ加わっていた。

 

 自分から売り込まなくても仕事が来た。

 

 レイニャの耳が嬉しそうに前へ向く。

 

「行くニャ〜」

 

「待ちな」

 

 返事へ重ねるように、リュシアの声が飛んだ。

 

 レイニャの耳だけが、後ろへ向く。

 

「ニャ?」

 

「何を聞いて引き受けたんだい」

 

「店で歌うニャ」

 

「それしか聞いてないだろう」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 レイニャは三人の商人へ向き直る。

 

「ご飯は出るニャ?」

 

「そこからかい」

 

 リュシアが呆れる。

 

 最初の男は笑って頷いた。

 

「一食つける」

 

「投げ銭は?」

 

「お前さんのものだ」

 

「何曲歌うニャ?」

 

「宵の客が入ってから、休みを挟んで何曲か頼みたい」

 

「帰りが真夜中になるのは困るニャ」

 

「そこまで引き留めない、今夜だ」

 

 レイニャが今度こそ頷きかける。

 

 リュシアは男へ店の名前と場所を尋ねた。

 

 返事を聞くと、表情を少し緩める。

 

「そこなら知ってるよ」

 

「だろう?」

 

「支払いは先に半分だ」

 

「信用がないみたいに言うな」

 

「旅人相手だから確認してるんだよ」

 

 男は不満そうに口を曲げたが、すぐに頷いた。

 

 最初の男とは、今夜に歌うことで話がまとまった。

 

 出演料と食事、それに投げ銭の扱いをもう一度確かめる。

 

 もう一人の店も、共同商館から遠くない場所にあった。

 

 こちらは明るいうちから客が入り、夜が深くなる前に演奏を終えるという。

 

 帰りは店の者が孤児院の近くまで送ると約束した。

 

「それならいいね」

 

 リュシアが認める。

 

 残っていた三人目が、自分の店の名を告げた。

 

 その瞬間、リュシアの顔から笑みが消えた。

 

「そこは駄目だよ」

 

「何でだ」

 

「何でって、自分の店の評判を知らないのかい?」

 

「客は入ってる」

 

「旅人と支払いで揉める話も、酔った客を放っておく話も聞いてるよ」

 

「大げさだ」

 

「この子を呼ぶ前に、自分の店を何とかしな」

 

 男は何か言い返そうとしたが、周囲の視線に気づいて口を閉じた。

 

 舌打ちまではしなかったものの、納得していない顔で離れていく。

 

 レイニャは、その背中とリュシアを見比べた。

 

「リュシアさん、怒ったニャ」

 

「あんたが何でも引き受けるからだよ」

 

「まだ何でもとは言ってないニャ」

 

「最初の一言が『行く』だっただろう」

 

 逃げ道がなかった。

 

「レイニャさんのためですよ」

 

 理央に言われ、レイニャは小さく頷いた。

 

 自分には、歌を聞いた客の顔も、投げ銭を出す手も見える。

 

 話し方や服装から、値段を相談することもできる。

 

 けれど、初めて来た町の店が、過去に誰と揉めたかまでは分からない。

 

「ありがとニャ」

 

 素直に礼を言うと、リュシアは少しだけ目を細めた。

 

「知らない町で仕事を受けるなら、地元を知ってる者へ店の評判を聞きな」

 

「覚えたニャ」

 

「食事の有無より先にね」

 

「それは大事ニャ」

 

「まったく」

 

 リュシアは呆れながらも、残った二人との約束を帳面へ書き留めた。

 

 レイニャも日を間違えないよう、自分の小さな手帳へ印をつける。

 

 今週の夜だけで、二つの仕事が決まった。

 

 領都へ来た時には、一度歌えればよいと思っていた。

 

 それが三日目には、先の仕事まで決まっている。

 

「仕事が増えたニャ〜」

 

「先に昼飯を食べな」

 

 リュシアが言うまで、空腹を忘れていた。

 

 思い出した途端、腹が大きな声で鳴った。

 

 近くにいた理央が、聞かなかったふりをして顔を逸らす。

 

「今のはハープじゃないニャ」

 

「分かってます」

 

 

 

 リュシアが用意したのは、一つの大皿ではなかった。

 

 焼いた肉と野菜、魚、スープ、それに少量の麺が、それぞれ小さな器へ分けられている。

 

「全部ニャ〜」

 

「今日だけだよ」

 

「明日も客を呼ぶニャ」

 

「明日は自分で払いな」

 

 レイニャは返事をせず、まず肉を口へ入れた。

 

 噛んでいる間に魚へ目を移し、飲み込むとすぐに箸を伸ばす。

 

「返事は?」

 

「美味しいニャ」

 

「都合の悪いところだけ聞こえなくなるんですね」

 

 理央が向かいから言う。

 

「今は食べるのに忙しいニャ」

 

 同じ卓にはエレナも座っていた。

 

 オスカーはいつものように後ろへ控えようとしたが、エレナに食べないのかと聞かれ、少し離れた席へ腰を下ろしている。

 

 仕事が決まった話を聞くと、エレナは満足そうに頷いた。

 

「領都が気に入ったようだな」

 

「面白いものが多いニャ」

 

「まだ三日目ですよ」

 

 理央が訂正する。

 

「三日でこれだけあったニャ」

 

 レイニャは肉を指したあと、地下へ流れるギターの曲へ耳を向けた。

 

「まだ増えそうニャ〜」

 

「そういえば、飛行船の町へは行ったか?」

 

 エレナが何気なく尋ねた。

 

 レイニャは麺を持ち上げたところで止まった。

 

「……ニャ?」

 

「飛行船だ」

 

「空を飛ぶ船ニャ?」

 

「うむ」

 

 持ち上げた麺が、器へ滑り落ちる。

 

「ニャニャ?」

 

 理央が口元へ手を当てた。

 

 少し前まで、自分も同じような顔をしていたことを思い出したらしい。

 

「聞いたことないニャ」

 

「町の外にあるぞ」

 

「町の外に、空飛ぶ船の町があるニャ!?」

 

「飛行船だけではない」

 

 エレナはスープを一口飲んでから続けた。

 

「人が住むための町だ」

 

「船を置く場所だけじゃないニャ?」

 

「学校も診療所もある」

 

「学校も?」

 

「公園もあるぞ」

 

「船の横で遊ぶニャ?」

 

「真横ではない」

 

 当然の返事だった。

 

 理央も会話へ加わる。

 

「商店や食堂もあります」

 

「普通の町ニャ」

 

「飛行船を除けば、そうですね」

 

「それが普通から一番遠いニャ」

 

 レイニャは食事を再開したが、耳は完全にエレナの方へ向いていた。

 

「途中には葡萄畑もある」

 

「葡萄畑?」

 

「ワイナリーで葡萄酒を造っておる」

 

 レイニャの目が輝く。

 

「それは見たいニャ」

 

「温浴施設もありますよ」

 

 理央が付け加えた。

 

「お風呂はいらないニャ」

 

 返事だけが急に速かった。

 

「そこだけ迷わないんですね」

 

「濡れるニャ」

 

「雨は平気なんですか?」

 

「雨はレイニャが選んで入るものじゃないニャ」

 

「お風呂も入れられるんじゃなくて、自分で入るものですよ」

 

「だから入らないニャ」

 

 レイニャの理屈は一貫していた。

 

 エレナは面白そうに二人のやり取りを聞いていた。

 

「飛行船は見たいのだろう?」

 

「見るニャ」

 

「いつ行く?」

 

「今からニャ」

 

 また返事が速い。

 

 理央が卓上の食事を見る。

 

「まだ食べ終わってませんよ」

 

「食べてから行くニャ」

 

「そこは行くより先なんですね」

 

「大事ニャ」

 

 リュシアは近くの店員を呼び、午後の乗合馬車の時刻を確かめた。

 

「朝に新町を出た便が、もうすぐ向こうへ戻るそうだよ」

 

「それに乗るニャ」

 

「帰りの領都行きも先に確かめな」

 

「帰れなくなるニャ?」

 

「夕方の便を逃したらね」

 

 レイニャは食べる速度を少しだけ上げた。

 

「慌てて喉へ詰まらせるんじゃないよ」

 

 今度は少しだけ遅くなった。

 

 理央は午後の仕事があるため、家具工房へ戻ることになった。

 

 エレナも侯爵邸へ帰る予定があり、オスカーがその時間を静かに伝える。

 

「一人で行けるか?」

 

 エレナが尋ねる。

 

「ここまで一人で旅してきたニャ」

 

「そうだったな」

 

「馬車の乗り場だけ教えてほしいニャ」

 

「それなら私が途中まで案内します」

 

 理央の帰り道と、乗り場へ向かう道は途中まで同じだった。

 

 食事を終えたレイニャは、投げ銭と仕事の予定を確かめ、ハープを背負い直す。

 

「行ってくるニャ〜」

 

「夕方の便を忘れるんじゃないよ」

 

 リュシアが念を押す。

 

「飛行船を見ても、勝手に中へ入るな」

 

 エレナも続ける。

 

「入れないニャ?」

 

「今日は見るだけにしておけ」

 

 レイニャは少し残念そうな顔をした。

 

「分かったニャ」

 

 その返事を、エレナと理央とオスカーが同時に聞いていた。

 

 三人とも、なぜか完全には安心していない顔だった。

 

 

 

 領都の乗り場には、大きな客車が停まっていた。

 

 二頭の馬が前へ並んでいるが、どちらも息を荒らしていない。

 

 尾は動かず、耳も同じ角度のままだった。

 

 レイニャは運賃を払う前に、その一頭へ顔を近づけた。

 

「馬の匂いがしないニャ」

 

「機械馬ですからね」

 

 切符を渡す男が、慣れた声で答えた。

 

「馬じゃないニャ?」

 

「走りますよ」

 

「そこを聞いてないニャ」

 

 乗車を待つ者が後ろへ並び始めたため、レイニャは名残惜しそうに機械馬から離れた。

 

 行きと帰りの時刻を切符売り場で確かめる。

 

 新町へ着いてから、夕方の領都行きが出るまでには少し時間があった。

 

 レイニャは時刻を二度聞き、忘れないよう手帳へ印をつけた。

 

 客車へ乗ると、ハープを邪魔にならないよう膝の上へ抱える。

 

 向かいには荷物を持った商人が座り、その隣には領都で用事を済ませたらしい親子がいた。

 

 鐘が鳴る。

 

 二頭の機械馬が、まったく同じ瞬間に脚を踏み出した。

 

 客車はほとんど揺れずに動き始める。

 

「本当に走ったニャ」

 

「毎日走ってるよ」

 

 向かいの商人が笑う。

 

「押入商会ニャ?」

 

「何がだ?」

 

「この馬ニャ」

 

「そこまでは知らんな」

 

 聞けば何でも押入商会の名前が出てきたため、つい尋ねてしまった。

 

 レイニャは窓の外へ顔を向ける。

 

 領都の建物が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。

 

 道の両側には畑が広がり、その間を荷車や歩く人が行き交っていた。

 

 しばらく進むと、低い支柱へ沿って伸びる葡萄の木が見えてきた。

 

 春になったばかりで、枝の緑はまだ薄い。

 

 それでも畑は何列も続き、奥には作業用らしい建物が立っている。

 

「あれがワイナリーかニャ?」

 

「葡萄酒を造ってるのは、もう少し向こうだ」

 

 商人が窓の先を指した。

 

「今日は寄れないニャ」

 

「馬車は待ってくれんぞ」

 

「また来る理由が増えたニャ〜」

 

 道が緩く曲がるたび、新しい景色が窓へ入る。

 

 転移なら、一瞬で目的地へ着く。

 

 エアカーなら、地上の道を気にせず進める。

 

 けれど、畑の匂いを嗅ぎ、途中の家を数え、同じ馬車の者から土地の話を聞けるのは、こういう旅だった。

 

「こういうのも好きニャ〜」

 

 レイニャは窓枠へ頬杖をつき、機械馬が刻む正確な足音を聞き続けた。

 

 

 

 新町へ着いて最初に見えたのは、飛行船ではなかった。

 

 停車場の屋根の向こうへ、白い石畳が真っ直ぐ伸びている。

 

 その両側には新しい住宅が並び、店の前では野菜や日用品が売られていた。

 

 荷物を降ろす者の横を、買い物籠を持った女が通り過ぎる。

 

 少し離れた食堂からは、遅い昼食の匂いも流れてきた。

 

「本当に町ニャ」

 

 飛行船を置くための広場に、何軒か店が付いているだけだと思っていた。

 

 目の前にあるのは、領都より小さくても、人が暮らすために造られた町だった。

 

 レイニャは駅舎へ入り、帰りの乗り場をもう一度確かめた。

 

「鐘が鳴ったら、ここへ戻ればいいニャ?」

 

「最初の鐘で荷物を積みます」

 

 駅の者が答える。

 

「二度目で乗車、三度目で出発です」

 

「三度目まで待ってくれるニャ」

 

「三度目が鳴ったら待ちませんよ」

 

「二度目で戻るニャ」

 

「そうしてください」

 

 帰り道を失わないよう駅舎を振り返り、屋根の形を覚える。

 

 それから、通りにいた男へ飛行船の場所を尋ねた。

 

 男は答える代わりに、レイニャの背後を指した。

 

「ニャ?」

 

 レイニャが振り返ると、町の向こうに切り立った岩壁があった。

 

 その一部へ、城門など比べものにならないほど巨大な開口部が造られている。

 

 中は暗く、外からでは奥まで見通せない。

 

 けれど、その暗がりを横切るように、何かが長く伸びていた。

 

 それは建物の壁でも、岩でもなかった。

 

 日が当たった表面だけが、鈍く光を返している。

 

 レイニャはゆっくり首を上げ、さらに後ろへ反らした。

 

 まだ全体が視界へ入らない。

 

 耳の先まで動きを止めたまま、駅前から岩壁の方へ歩き出す。

 

 近づくほど、暗がりの中から長大な船体が浮かび上がってきた。

 

 地上の船とは比べられないほど大きく、地下ドックの奥を埋めるように横たわっている。

 

 町側から近づける場所の端には印があり、その先で作業員が行き来していた。

 

 レイニャが印を越えそうになると、近くの係員が片手を上げる。

 

「見られるのは、そこまでです」

 

「見るだけニャ」

 

「その位置なら、いくらでも」

 

 レイニャは足を止めた。

 

 船体を端から端まで目で追おうとする。

 

 だが、片方を見れば、もう片方が視界から外れた。

 

「…………ニャ」

 

 船の下では、人が小さく見える。

 

 船底と床の間には、細い隙間があった。

 

 巨大な船体は、支柱の上へ載っているのではない。

 

「船ニャ」

 

 返事をする者はいない。

 

 ここを通る住民には、もう見慣れた光景らしい。

 

 レイニャは一歩だけ横へ動き、船底の下をもう一度覗いた。

 

「地面についてないニャ」

 

「浮いてますから」

 

 先ほどの係員が答えた。

 

 あまりにも普通の言い方だった。

 

 レイニャは勢いよく振り返る。

 

「これが浮くのは普通じゃないニャ!」

 

「ここでは毎日見ます」

 

「毎日見てもおかしいものは、おかしいニャ〜!」

 

 係員は笑いをこらえるように口元を引き締めた。

 

 レイニャはもう一度、飛行船を見上げる。

 

 西の海で何隻もの船を見てきた。

 

 帆柱の高い船も、腹いっぱいに荷を積んだ大船も知っている。

 

 目の前のものは、そのどれとも違った。

 

 海へ浮かぶのではない。

 

 この巨体が、空へ上がる。

 

「本当に空を飛ぶ船ニャ〜!?」

 

 地下ドックへ声が響く。

 

 何人かの作業員が振り返り、すぐに自分の仕事へ戻った。

 

 係員は、今度こそ声を立てて笑った。

 

 

 

 飛行船の前で首が痛くなるまで上を見たあと、レイニャはようやく町の方へ戻った。

 

 広い道路の先には庁舎があり、その向かいでは荷物を積んだ馬車が店の裏へ回っていく。

 

 診療所の入口から親子が出てきた。

 

 少し先には学校があり、その向かいには遊具と屋根付きの休憩場所がある公園も見える。

 

「空飛ぶ船があるのに、普通に暮らしてるニャ」

 

 道端で荷物をまとめていた女が、猫耳へ目を向けた。

 

「船があっても、腹は減るからね」

 

「それは大事ニャ」

 

 レイニャはすぐに納得した。

 

「お風呂もあるって聞いたニャ」

 

「あの道を行った先だよ」

 

 女が町の端へ延びる道を指す。

 

 木立の向こうに、それらしい建物の屋根が見えた。

 

 春の昼下がりでは、冬のように白い湯気が遠くから目立つことはない。

 

「本当にあるニャ……」

 

 レイニャは少し考えた。

 

「行かないニャ」

 

「聞いたのはあんただろう」

 

「あるか知りたかっただけニャ」

 

 女は呆れたように笑い、荷物を持って去っていった。

 

 レイニャは、今度は学校へ目を向ける。

 

 ちょうど扉が開き、子どもたちが何人も外へ出てきた。

 

 紙を束ねて抱える子もいれば、鞄を肩へ掛けた子もいる。

 

 友達を待って立ち止まる子の横を、先に帰る者たちが走っていく。

 

 その一人が、通りに立つレイニャへ気づいた。

 

「ケット・シーだ!」

 

 声を聞いた子どもたちが、次々とこちらを見る。

 

 レイニャは隠す理由もないため、片手を上げた。

 

「そうニャ〜」

 

「耳、本物?」

 

「本物ニャ」

 

「尻尾も?」

 

「これも本物ニャ」

 

 一人が後ろへ回り込もうとしたため、尻尾を反対側へ逃がす。

 

「触るなら聞いてからニャ」

 

「触っていい?」

 

「今日は駄目ニャ」

 

「聞いたのに!」

 

「聞いたら必ず触れるとは言ってないニャ」

 

 近くの子が笑う。

 

 別の子は、耳より背中のハープが気になったらしい。

 

「吟遊詩人?」

 

「そうニャ」

 

「歌うの?」

 

「歌うニャ」

 

「今歌って!」

 

「さっき三曲歌ってきたニャ」

 

「じゃあ、お話は?」

 

 別の子が尋ねる。

 

 レイニャはハープへ触れかけた手を止めた。

 

「お話もするニャ」

 

「聞きたい!」

 

「海の話!」

 

「竜がいい!」

 

「怖いやつ!」

 

 一斉に声が上がる。

 

 通りの真ん中で始めれば邪魔になる。

 

 レイニャは学校の向かいにある公園を見た。

 

「じゃあ、公園で話すニャ」

 

 言い終わる前に、子どもたちは公園へ走り始めた。

 

「レイニャより先に行っても、お話は始まらないニャ〜」

 

 そう言いながら、レイニャも少しだけ足を速めた。

 

 

 

 公園の屋根付き休憩所には、腰を下ろせる長椅子があった。

 

 レイニャは、その前へハープを置く。

 

 子どもたちは長椅子だけでは足りず、芝の上や遊具のそばにも集まった。

 

「何の話がいいニャ?」

 

「怖い話!」

 

「竜!」

 

「英雄!」

 

「海の怪物!」

 

 また一斉に違う答えが返ってくる。

 

「一人ずつニャ〜」

 

「全部!」

 

 誰かが言うと、ほかの子どもたちも賛成した。

 

「欲張りが多い町ニャ」

 

「飛行船もあるよ!」

 

「それは欲張りと関係ないニャ」

 

 レイニャは少し考え、ハープの縁を指先で軽く叩いた。

 

「じゃあ、西の海で聞いた怪物の話からニャ」

 

 先ほどまでの軽い声を、一段だけ低くする。

 

 月のない夜だった。

 

 海は黒く、空との境目も見えない。

 

 一隻の漁船が港へ戻ろうとした時、船底よりずっと下から、重いものが網を引いた。

 

 綱を放せば、大切な網を失う。

 

 引けば、船ごと海へ沈められる。

 

 漁師たちは声を殺し、暗い水面を見つめた。

 

 波の下を、船より大きな影が横切る。

 

 子どもたちから声が消えた。

 

 レイニャは片手をゆっくり持ち上げる。

 

 黒い影も、船の横へ浮かび上がる。

 

 水面から現れたのは、家ほどもある頭だった。

 

 口には鋭い牙が並び、目は夜の中で白く光っていた。

 

「それで!?」

 

 一番前の子が、待ちきれずに聞く。

 

 レイニャはすぐには答えない。

 

 怪物が大きく口を開く。

 

 漁師たちも、これまでだと思った。

 

 ところが次の瞬間、怪物の方が大慌てで暴れ始めた。

 

「どうして?」

 

「網が牙へ引っかかって、取れなくなったニャ」

 

「怪物が引っかかったの?」

 

「漁師より慌てたニャ」

 

 怪物は頭を振り、船を引き、最後には網ごと沖へ逃げていった。

 

 残された漁師たちは助かったが、その年は新しい網を買うまで魚を獲れなかったという。

 

「勝ったの?」

 

「生きて帰ったから勝ちニャ」

 

「網は取られたよ」

 

「海では、帰れた方が勝ちニャ」

 

 子どもたちは少し考え、それなら勝ちだと頷き合った。

 

 怖がっていた顔が笑顔へ変わったところで、レイニャは次の話へ移る。

 

「次は、百人の敵を一人で倒した英雄の話ニャ」

 

 今度は胸を張り、太い声を作る。

 

 英雄は大きな剣を持ち、戦場では誰よりも強かった。

 

 敵が十人来ても退かず、二十人来ても倒れない。

 

 百人を破り、町へ戻った夜には、広場いっぱいの人から祝福された。

 

「すごい!」

 

「竜も倒した?」

 

「その話には竜は出ないニャ」

 

「出してよ」

 

「勝手に増やすと、あとで英雄に怒られるニャ」

 

「もう死んでるんじゃない?」

 

「それでもニャ」

 

 レイニャは話を戻す。

 

 祝宴を終えた英雄は、宿へ帰った。

 

 ところが、長い廊下のどこまで歩いても、自分の部屋が見つからない。

 

 右を見ても同じ扉。

 

 左を見ても同じ扉。

 

 百人の敵を前にしても迷わなかった英雄が、宿の中で一晩中迷った。

 

「お酒飲んだからでしょ!」

 

「たぶん飲みすぎたニャ」

 

「朝まで見つからなかったの?」

 

「最後は宿のおかみさんに連れていってもらったニャ」

 

「英雄なのに!」

 

「英雄でも、部屋は教えてもらわないと分からないニャ」

 

 子どもたちが声を上げて笑う。

 

 その声を聞きつけ、帰り道の別の子どもたちも公園へ入ってきた。

 

 レイニャは少し場所を詰めさせ、三つ目の話を始めた。

 

「最後は、山の精霊ニャ」

 

 深い山へ入った旅人は、同じ木の前を何度も通ることがある。

 

 道を間違えたつもりはないのに、朝に見た岩が夕方にも現れる。

 

 そんな時は、山の精霊が旅人を帰したくないのだという。

 

 怒鳴っても、剣を振っても、道は見つからない。

 

 けれど、甘い菓子を一つ岩の上へ置き、山を褒めると、次に振り返った時には正しい道が現れる。

 

「どんなお菓子?」

 

「甘ければ何でもいいらしいニャ」

 

「本当に?」

 

「知らないニャ」

 

 あっさり答えると、子どもたちが一斉に不満そうな顔をした。

 

「知らないの?」

 

「レイニャは精霊に会ってないニャ」

 

「じゃあ、誰が見たの?」

 

「山を越えた町の、お菓子屋のおばあさんから聞いたニャ」

 

「お菓子を売りたかっただけじゃない?」

 

 一人の少女が冷静に指摘した。

 

 レイニャは数秒黙った。

 

「その可能性はあるニャ」

 

 また笑いが起きる。

 

「でも、昔から話が残ってるの?」

 

「残ってるニャ」

 

「じゃあ本当かもしれない」

 

「そうかもしれないし、違うかもしれないニャ」

 

 レイニャは人差し指を立てる。

 

「伝説は、全部を信じるものじゃないニャ」

 

 今度は、もう一本の指を立てた。

 

「でも、全部を嘘にしたら旅がつまらなくなるニャ」

 

「じゃあ、お菓子を持っていけばいい?」

 

「遭難するような山へ、子どもだけで行ったら駄目ニャ」

 

「行かないよ」

 

「なら、お菓子はここで食べればいいニャ」

 

「精霊の分は?」

 

「一つ残すニャ」

 

「レイニャが食べるんじゃない?」

 

「どうして分かったニャ?」

 

 笑い声が、公園の外まで広がった。

 

 

 

 話を三つ終えた頃には、長椅子の周りにいた子どもの数が倍ほどになっていた。

 

「もう一つ!」

 

「今度は竜!」

 

「歌も聞きたい!」

 

 レイニャは嬉しかったが、駅で聞いた三度の鐘を思い出した。

 

 ちょうど遠くから、低い音が一度だけ届く。

 

 荷物を積み始める鐘だ。

 

「今日はここまでニャ〜」

 

「えー!」

 

「帰りの馬車に置いていかれるニャ。今夜はお店で演奏の仕事があるニャ」

 

「明日も来る?」

 

「明日も領都で仕事があるニャ」

 

「じゃあ、その次は?」

 

「約束はしないニャ」

 

「どうして?」

 

「旅人だからニャ」

 

 子どもたちの顔が少しだけ曇る。

 

 レイニャはハープを背負い、公園の向こうへ見える岩壁を振り返った。

 

 巨大な開口部の中には、飛行船の一部がまだ見えている。

 

 今日は外から眺めただけだった。

 

 町には見ていない店があり、葡萄酒を造る場所にも寄っていない。

 

 温浴施設は見なくてもよい。

 

「でも、この町はまだ面白そうニャ〜」

 

「じゃあ、また来る?」

 

 一番前の子が、すぐに聞き返す。

 

 レイニャは飛行船へ目を細めた。

 

「次は、あれに乗ってみたいニャ」

 

「やっぱり来るんじゃん!」

 

「約束はしてないニャ〜」

 

 二度目の鐘が鳴った。

 

 レイニャは子どもたちへ大きく手を振り、駅舎へ向かって走り出した。

 

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