新町を出た乗合機械馬車が領都へ近づくころ、窓から差し込む光はすっかり橙色になっていた。
レイニャは座席から身を乗り出し、前方の空を見た。
さっきまでは遠くに見えていた領都の屋根が、もう一つずつ見分けられる。
「まずいニャ」
膝の上のハープを抱え直し、腰の手帳を開く。
店へ入る時刻は、朝から何度も確かめていた。
帰りの便にも乗り遅れていない。
それでも、公園で子どもたちに最後の話まで聞かせてから走ったせいで、余裕と呼べるものはほとんど残っていなかった。
旅なら、日が暮れたところで休める場所を探せばいい。
今夜は違う。
自分が来るのを待っている店がある。
「今日の昼も仕事して、今夜も仕事ニャ」
口にすると少し嬉しかった。
その直後、機械馬車が駅へ滑り込み、レイニャは真っ先に立ち上がった。
扉が開く。
「通るニャ〜!」
「走るなら外へ出てからにしな」
御者に笑われた。
「分かってるニャ!」
返事をしながら降り、広場へ出たところで本当に走り出す。
背中のハープが跳ねた。
腰の硬貨も鳴った。
夕食時を迎えた通りには、仕事を終えた職人や、荷を片づけた商人が増えている。
その間を縫って進み、教えられた角を曲がる。
店先にはもう灯りがともっていた。
「間に合ったニャ!」
扉を開けるなり叫ぶと、卓を拭いていた店主が顔を上げた。
「まだ時間前だ」
「なら余裕ニャ」
「息を整えてから言え」
レイニャは胸を張ろうとして、途中で一度大きく息を吸った。
「余裕だったニャ」
「そういうことにしておくか」
店主は腰の袋から小さな革袋を取り出し、レイニャへ差し出した。
「先に半分だ」
レイニャは袋を受け取ったものの、すぐにはしまわなかった。
口を開けて中を確かめ、手帳に挟んである小さな紙と見比べる。
「食事あり」
「ああ」
「投げ銭はレイニャのもの」
「そうだ」
「宵の客が入ってから、休みを挟んで何曲か」
「真夜中まで引き留めたりはしない」
店主が先に答えた。
レイニャは満足して頷き、前金を昼の投げ銭とは別の袋へ入れた。
「大丈夫ニャ」
「細かいな」
「仕事だからニャ」
走ってきた時の慌ただしさは、もう消えていた。
店が客で埋まり始めたころ、レイニャは壁際に用意された椅子へ腰を下ろした。
共同商館のフードコートより天井は低い。
卓と卓の間も近く、酒と焼いた肉の匂いが濃かった。
職人らしい男たちが仕事の話をし、荷運びを終えた若者たちが杯をぶつけている。
旅人の一団は地図を広げ、商人二人は皿の脇で値段の話を続けていた。
「好きなようにやってくれ」
店主が言った。
「客が楽しめりゃいい」
「任せるニャ」
レイニャはハープを構えた。
最初に選んだのは、昼にも評判のよかった『黄金の風』だった。
朝日と麦畑と旅立ちを歌う、明るい旅歌だ。
弦を鳴らし、声を出す。
入口に近い卓から、一人がこちらを見た。
別の卓でも二人ほど顔を上げた。
しかし、奥では今日運んだ樽の重さについて言い争っている。
商人は値段の話をやめない。
酔い始めた客の笑い声が、歌の上を平気で横切った。
共同商館では、曲が始まれば自然と人の輪ができた。
ここでは輪になる前に、客がそれぞれの夜を始めている。
レイニャは予定どおり一曲を歌い切った。
まばらな拍手はあった。
聞いている者も確かにいた。
けれど、半分以上は歌が終わったことにも気づいていないように見えた。
「……ニャ?」
思わず口から漏れた。
店主が酒を運びながら笑う。
「酒場なんてこんなもんだ」
「誰も聞いてないニャ」
「聞いてないようで聞いてる奴もいる」
「もっと聞いてほしいニャ」
「そこは自分で何とかしてくれ」
店主は助けてくれなかった。
約束どおり、好きにやらせるつもりらしい。
レイニャはすぐに二曲目へ入らず、ハープへ置いた手を止めた。
猫耳が左右へ向く。
旅で身につけた《聞き耳》を働かせる。
大きな笑い声だけを追わず、その下にある会話を拾った。
奥の卓では、職人たちが故郷の町の話をしている。
今年は雪が多かったらしい。
隣の卓からは、朝から働き詰めだったという愚痴が聞こえた。
商人二人は商談がまとまったようで、さっきより声が明るい。
入口のそばの男は、もう何杯目かも怪しかった。
細かな話の中身は追わず、声が明るいか、疲れているかだけを拾った。
「昼と同じじゃ駄目ニャ」
昼は、これから食べる料理を楽しみにしている客だった。
今は、一日の仕事を終えた客だ。
レイニャは弦へ指を戻した。
次に鳴らしたのは、西を旅していたころに覚えた古い歌だった。
遠く離れた家と、どこから見ても同じ月と、いつか帰る道を歌う。
沈み込む歌ではない。
明日はまだ働き、季節が巡ったら家へ帰る者の歌だ。
最初の節では、奥の職人たちも話を続けていた。
二つ目の節に入ると、一人が杯を置いた。
三つ目の節で、隣の男が知っている部分だけを低く口ずさんだ。
レイニャはその声を拾った。
自分の演奏を少し弱める。
歌い慣れた者の声を押しのけず、隣へ自分の声を置く。
もう一人も加わった。
話し声の多かった卓が、いつの間にか一つの節を一緒に歌っている。
最後の音を短く残し、レイニャは指を止めた。
店の中に、ほんの少しだけ静けさが落ちた。
先ほどまで一番大きな声で話していた男が、空になった杯を持ち上げる。
「……もう一曲やってくれ」
レイニャの耳がぴんと立った。
「聞いてたニャ?」
「聞いてたよ」
「最初のも聞いてた?」
「あれは半分くらいだな」
「正直ニャ」
卓の男たちが笑った。
レイニャも笑い、今度は仕事帰りの足取りに合う、少し速い曲を始めた。
客の指が卓を叩く。
手拍子が一つ増える。
ようやく店と呼吸が合ってきた気がして、レイニャも強く弦を弾いた。
乾いた音が走った。
一本の弦が、目の前で跳ねる。
「ニャッ!?」
演奏が止まった。
卓を叩いていた客の手も止まる。
レイニャは切れた弦と自分の指を交互に見た。
怪我はない。
困ったのは、この先だった。
「まだ仕事の途中ニャ……」
古いハープであることは知っている。
品質は普通で、修理歴がいくつもある、一般的な中古楽器。
鑑定でそう見えた時は落ち込んだが、それでも今日まで一緒に旅をしてきた。
いつか直さなければならないとは思っていた。
今日の、今、この曲の途中で切れるとは思っていなかった。
「ちょっと見せて」
客席から若い男が立った。
服の袖や指先に、細かな木屑がついている。
「直せるニャ?」
「完全には無理だ」
「ニャ……」
「今夜だけなら何とかする」
「本当?」
レイニャはすぐに椅子を譲った。
若者はハープを膝に載せ、切れた弦の両端を確かめた。
持っていた細い予備弦を出し、木枠を横から見る。
弦を替えるだけかと思ったが、指で別の場所を押し、張り具合を何度も確かめていた。
「そこ、何を見てるの?」
「張った時の高さ」
「こっちは?」
「弦だけ新しくすると、ほかへ無理がかかることがある」
「いっぱい見るところがあるニャ」
「楽器だからな」
レイニャの《鑑定》では、弦の材質や用途くらいしか分からない。
若者の指が何を感じ取ったのかまでは表示されなかった。
「楽器を作る人ニャ?」
「まだ見習いだよ」
若者は木枠の古い補修跡へ目をやった。
「これ、何度も直してるだろ」
「一緒に旅してきたニャ」
「なら、なおさら一度ちゃんと見てもらった方がいい」
レイニャもハープを見た。
古いから替える、とは思えなかった。
「今度、工房へ持ってきて」
「場所を教えてほしいニャ」
「終わったら書くよ」
「約束するニャ」
修理を待つ間、店の空気が途切れかけた。
レイニャが何かないかと見回すと、年配の客が腰から古い笛を抜いた。
「それなら、俺の笛を使うか?」
「吹けるニャ?」
「地元の曲を少しだけな」
「十分ニャ」
「合わせたこともないぞ」
「知ってる歌なら何とかなるニャ」
男が半信半疑のまま笛を構えた。
最初に吹いた音は少しかすれた。
二つ目はきれいに伸びた。
店の客が知っている、祭りの帰りに歌う曲だった。
レイニャは最初の数小節を聞き、入る場所を決めた。
ハープはない。
笛と声だけで歌い始める。
地元の客がすぐに気づいた。
一人が手を叩き、別の男が節の終わりを歌う。
笛の男は驚いて一度音を外したが、レイニャが笑って続けると、つられて笑いながら吹き直した。
「ほら、次ニャ!」
「急かすな!」
客席から笑い声が上がる。
即席の演奏なのに、先ほどまでより店全体の息が揃っていた。
「できたよ」
楽器職人の見習いが、応急修理を終えたハープを持ち上げた。
レイニャは曲を切らずに受け取り、空いている音を一つだけ鳴らす。
張りを確かめ、次の節からハープを加えた。
笛と歌の間へ、軽い音が滑り込む。
卓を叩く音まで演奏の一部になった。
「こういうのも楽しいニャ〜」
「こっちも仕事にされそうだな」
笛の男が息を整えながら言った。
「今日の報酬は拍手ニャ」
「酒の一杯くらい欲しいぞ」
「それは店主に言うニャ」
「そこは払わんのか」
「レイニャもまだ前金半分しかもらってないニャ」
店主が離れたところから笑った。
曲が終わると、入口近くで飲んでいた商人が硬貨を数枚つまんだ。
ほかの投げ銭より明らかに多い。
商人はそれをレイニャの前へ置き、向かいの卓を顎で示した。
「次は、あいつらの店を笑いものにする歌をやれ」
「どの店ニャ?」
「名前を言えば分かる」
商人は同業らしい店の特徴を挙げ、酒で大げさになった失敗談を話した。
「金なら出すぞ」
レイニャは硬貨を見た。
今夜の出演料に足しても嬉しい額だった。
嬉しい額だから、何に対して払われる金なのかを考えた。
指先で硬貨をまとめ、商人の前へ戻す。
「その歌は歌わないニャ」
「足りないのか?」
「歌は売るニャ」
レイニャは商人を見た。
「でも、喧嘩は売らないニャ」
周りの笑い声が少しだけ遠のいた。
商人は押し返された硬貨とレイニャを見比べる。
「じゃあ、何なら歌う」
レイニャは男の杯と、すでに軽くなった財布を見た。
「飲みすぎて、明日の朝に財布を見て泣く歌なら歌えるニャ」
すぐ近くの卓が吹き出した。
向かいの客も笑い、店主まで手元を止めた。
商人は一人だけ笑っていなかったが、自分の財布を見てから少し遅れて肩を揺らした。
「それをやれ」
「硬貨は一枚でいいニャ」
「全部取らないのか」
「残しておかないと、明日の朝までに泣くニャ」
今度は商人本人が一番大きく笑った。
レイニャはその場で、杯の底と朝の財布について短い節を作った。
名前も店も出さない。
酔客なら誰でも身に覚えのある歌になり、店中から手拍子が返ってきた。
盛り上がった客の一人が、もう一杯頼もうと勢いよく立ち上がった。
後ろを通っていた店員と肩がぶつかる。
杯が床へ落ちた。
割れた陶器が散り、店員が慌ててしゃがみ込む。
「待つニャ」
レイニャの声が変わった。
店員が破片へ伸ばした手を止める。
指先には、もう細い血の筋ができていた。
「ちょっと血が出てるニャ」
「これくらいなら」
「動かさないでニャ」
レイニャはハープを椅子へ置き、すぐそばに膝をついた。
傷の深さを見て、陶器の欠片が残っていないことを確かめる。
触れる直前に、店員へ目を向けた。
「治していい?」
「え?」
「すぐ終わるニャ」
戸惑いながら頷くのを待ち、指先へ手を添えた。
指先へ《治癒》を通す。
淡い白い光が小さく灯る。
裂けた皮膚が寄り、血が止まった。
残った赤みも、ほどなく薄くなる。
店員は自分の指を曲げ伸ばしした。
「……吟遊詩人だよな?」
「今はニャ」
「今は?」
「前は白魔道士だったニャ」
「白魔道士!?」
近くの客まで声を揃えた。
レイニャは床の破片を指した。
「そっちは布を使って拾うニャ」
「あ、ああ」
「大きな怪我じゃないニャ」
椅子へ戻り、ハープを抱える。
「歌の途中だから戻るニャ」
特別なことをしたつもりはなかった。
だが、客の方はそうではなかったらしい。
年配の客が身を乗り出した。
「そこまで治せるのに、どうして白魔道士を辞めた?」
レイニャはすぐには答えず、応急修理された弦を軽く鳴らした。
「治すのが嫌だったわけじゃないニャ」
「なら、どうしてだ?」
「呼ばれた場所へ行くのと、自分が行きたい場所へ行くのは違うニャ」
年配の客は、続きを待った。
レイニャはそれ以上、長い説明をしなかった。
誰かが別の卓から声を投げる。
「今は行きたいところへ行けてるのか?」
「多すぎて困ってるニャ」
返事は早かった。
店内にまた笑いが戻る。
レイニャは何事もなかったように次の曲を始めた。
二度目の演奏を終えて休んでいると、店の扉が開いた。
先に入ってきたリュシアが店内を一度見回す。
その後ろに理央、澪、真壁が続いた。
「来たニャ〜!」
レイニャが手を振ると、理央が店内の人の多さに目を丸くした。
「すごい人ですね」
「最初は誰も聞いてくれなかったニャ」
「そうなんですか?」
「今は聞いてるニャ」
レイニャは少し胸を張った。
澪が、投げ銭の入った器と客席を交互に見る。
「もう仕事になってる……」
「吟遊詩人だからニャ」
「昼にも同じようなことを言ってませんでした?」
「昼も吟遊詩人だったニャ」
「それはそうですね」
リュシアは店主と短く言葉を交わした。
約束どおり前金が渡されたことと、何か問題がなかったかを確かめている。
一方の真壁は、空いている卓、料理が運ばれる速さ、客の滞在具合、それからレイニャの周りを順に見た。
「なるほど」
「真壁、また難しいところを見てるニャ」
「商売の場だからな」
「今日くらい普通に聞きません?」
澪が言う。
「聞いているとも」
「まだ歌ってないニャ」
真壁はレイニャを見た。
「では、始めてもらおうか」
「注文が先ニャ」
「商売人らしくなったものだ」
「吟遊詩人ニャ」
四人が席へ着いたところで、店員が料理と飲み物の注文を取りに来た。
レイニャはその間に水を飲み、次の曲を考えた。
そこへ、少し離れた卓から子どもの声が上がった。
「あっ!」
レイニャが振り向く。
父親と母親に挟まれていた子どもが、椅子から身を乗り出していた。
「さっき公園でお話してた吟遊詩人!」
「また会ったニャ〜」
新町の公園で、海の怪物や英雄の話を聞いていた子どもの一人だった。
母親が驚きながらも笑った。
「家へ戻ってから、ずっとあなたの話をしていたんですよ」
「何の話ニャ?」
「海の怪物!」
子どもが先に答える。
「あと飛行船!」
「怪物の話より飛行船の話の方が長かったぞ」
父親が横から付け足した。
「今夜はこちらへ用があってね」
「用事が済んだから、帰る前に夕飯を食べようと入ったら、まさか昼のケット・シーがいるとは思わなかった」
「レイニャも思わなかったニャ」
父親が思い出したように続ける。
「飛行船を見て、ずいぶん大きな声を出していたケット・シーがいたって、作業場の方でも話になってましたよ」
レイニャの耳が立った。
「もう広がってるニャ!?」
「乗りたいって言ってた!」
「言ったニャ」
「すごく言ってた」
「一回でいいニャ」
「何回も言ってたよ」
レイニャは子どもから目を逸らした。
「大きかったから仕方ないニャ」
「それ、理由になってます?」
理央が笑いをこらえながら聞いた。
「見たら分かるニャ」
「私は見たことあります」
「なら分かるニャ」
「大きいとは思いましたけど、町中に聞こえる声は出してないです」
「理央は我慢強いニャ」
「普通です」
話を聞いていたリュシアが、料理の皿を置いた。
「レイニャ」
「ニャ?」
「あんた、飛行船に乗りたいのかい?」
「乗りたいニャ!」
店の反対側まで届くほど早い返事だった。
「そんなにかい」
「今日見たニャ」
「それは聞いたよ」
「大きかったニャ」
「それも聞いた」
「浮いてたニャ」
「飛行船だからね」
「中も見たいニャ」
「まだあるのかい」
「飛んでるところにも乗りたいニャ」
一息に言い切ったレイニャを見て、澪が小さく笑った。
理央も分かるという顔で頷いている。
「なら、ちょうどいいね」
リュシアが言った。
レイニャは首を傾げた。
「来週、レヴァニアへ買い付けに行く予定なんだよ」
「レヴァニア?」
「南の交易国だ」
真壁が短く補った。
「大麦や豆を見て、向こうの商人とも話をする」
リュシアの言葉に、レイニャはまだ首を傾げている。
「今回は飛行船で行く」
動きが止まった。
猫耳だけが一度、前へ向く。
「……飛行船で?」
「そうだよ」
「レヴァニアまで?」
「そう」
「乗っていいニャ?」
「仕事の邪魔をしないならね」
「しないニャ!」
「返事が早いね」
「邪魔しないで、見て、歌うニャ」
「最後のは向こうで決めな」
真壁が卓の上で指を一度組み直した。
「国際便だ」
浮かれかけたレイニャが真壁を見る。
「出発日と到着予定、搭乗者、積荷は事前に知らせる必要がある」
「難しいニャ?」
「行くなら、今日のうちに搭乗者へ入れておこう」
「まだ間に合うニャ?」
「来週なら問題ない」
レイニャは椅子から立ち上がった。
「行くニャーーーー!」
何人もの客が振り返る。
さっきまで歌を聞いていた客は、また始まったという顔で笑った。
「座りな」
リュシアに言われ、レイニャは素直に座った。
「私も行きたいです」
今度は理央が言った。
「理央ちゃん?」
澪が隣を見る。
「飛行船、まだ乗ったことないんです」
レイニャが目を丸くした。
「理央もないニャ?」
「ないです」
「空飛ぶ車には乗ってたニャ」
「エアカーはあります」
レイニャは少し考えた。
「そっちの方がおかしくないニャ?」
「私も最近そう思います」
「慣れないでください」
澪が止めた。
レイニャと理央が同時に澪を見る。
「澪が言うニャ?」
「澪さんが一番言っちゃいけない気がします」
「どうして私が責められてるんですか」
「空を飛ぶ車を持ってるからニャ」
「作ったのは私だけじゃありません」
「持ってはいるんですね」
理央の一言に、澪が返事を詰まらせた。
リュシアが二人のやり取りを聞きながら肩をすくめる。
「仕事の邪魔をしないなら、理央も構わないよ」
「行きます」
こちらも返事が早かった。
「では、理央君も搭乗者へ追加だな」
真壁が言った。
「理央君」
「はい?」
「君も《順風満帆》を持っていたな」
「はい」
理央は頷いたあと、少し眉を寄せた。
「まだ、何がどう効くのか分からないですけど」
「ならば、ちょうどよい」
「何がですか?」
「《順風満帆》の効果を試してみるとよいな」
理央の顔から、飛行船へ乗れる喜びが少しだけ引いた。
「飛行船へ乗ったら、意識してみたまえ」
「意識するんですか?」
「名称どおりの性質なら、船で確認するのが分かりやすい可能性がある」
「何の話?」
レイニャが聞く。
「風がよくなるかもしれない話です」
「そんな便利なものを持ってるニャ!?」
「私もまだ分からないんです」
「分からないものを飛行船で試すニャ?」
「だから試すのだよ」
真壁は当然のように答えた。
レイニャは澪へ顔を向ける。
「真壁、やっぱり時々怖いニャ」
「分かります」
澪が即答した。
真壁の視線が澪へ移る。
「澪君」
「はい?」
「君は意識しないでくれたまえ」
「え?」
「君も《順風満帆》を持っている」
真壁は自分の胸元を指した。
「私もだ」
「三人同時に意識しては、何の影響か分からん」
「私だけですか?」
「まずは一人で確認する」
「完全に実験になってるんですけど」
澪が言った。
「私、飛行船に乗りたいって言っただけなんですけど」
理央も言った。
「乗る前から大変ニャ〜」
レイニャがしみじみ頷く。
真壁は三人の顔を順番に見た。
「危険な条件で試すつもりはない」
「風向き、揺れ、巡航状態、推進側の負荷を見ながら、理央君だけに意識してもらう」
「何も変わらなければ、それも結果だ」
理央は少し考えたあと、頷いた。
「分かりました」
「やってみます」
「うむ」
真壁だけが満足そうだった。
「理央、嫌なら断っていいニャ」
「大丈夫です」
理央は笑った。
「私も、何が起きるかは知りたいですから」
「理央もそっち側だったニャ」
「どっち側ですか?」
「やってみる側ニャ」
休憩が終わるころには、店の空いた席もほとんどなくなっていた。
レイニャは椅子へ戻り、応急修理された弦をそっと確かめた。
強く引きすぎない。
その代わり、客の声を使うことにした。
「最後は、みんなで歌える曲にするニャ」
「知らない歌だったらどうする」
奥の職人が声を上げる。
「最初にレイニャが歌うニャ」
「次は?」
「同じところを皆が歌うニャ」
「簡単だな」
「間違えても、隣の人より大きな声なら勝ちニャ」
「何の勝負だよ」
笑いが起きる。
レイニャは短い一節を歌った。
知らない土地へ行き、腹が減ったら町を探し、道に迷ったら歌う旅人の歌だ。
次の節で、客が同じ言葉を返す。
最初は揃わなかった。
二度目は声が増えた。
笛の客が、覚えた旋律を横から重ねる。
楽器職人の見習いも、修理を終えた席から手を叩いた。
新町の子どもは両親より先に覚え、大きな声で歌っている。
理央も歌った。
澪も笑いながら続く。
リュシアは歌より手拍子の方が大きかった。
真壁だけが静かに聞いている。
レイニャは演奏の途中で真壁を指した。
「真壁も歌うニャ〜!」
「私は聞く側でよかろう」
「駄目ニャ」
「なぜだね」
「もう店の客だからニャ」
周りの客が真壁を見る。
逃げ道がなくなった。
真壁は小さく息をつき、次の一節だけ低い声で合わせた。
「それニャ〜!」
「一節で十分だろう」
「ちゃんと歌えたニャ」
店内が笑いに包まれた。
最初の曲では、半分の客がこちらを見てもいなかった。
今は、誰かが音を外すたびに別の誰かが笑い、それでも歌は止まらない。
レイニャは皆の声の間へハープを置いた。
最後の一節だけ高く歌い、弦を鳴らして終える。
大きな拍手が返ってきた。
客が帰り始める前に、レイニャは投げ銭を集めた。
硬貨を数えるたび、尻尾がゆっくり左右へ動く。
「今日も幸せニャ〜」
「ほら」
店主が別の革袋を差し出した。
レイニャは投げ銭の袋を抱えたまま、首を傾げる。
「ニャ?」
「残り半分だ」
そこで、店へ着いた時にもらった前金を思い出した。
「ちゃんと残りもあるニャ」
「当たり前だ」
レイニャは投げ銭の袋と、店主から受け取った袋を見比べた。
「投げ銭とは別ニャ?」
「別だ」
「両方もらっていいニャ?」
「そういう契約だろ」
レイニャはすぐには返事をしなかった。
走って店へ来た時には、仕事になるかどうかも分からなかった。
最初の歌は半分も聞かれず、途中で弦まで切れた。
それでも曲を変え、借りた笛に合わせ、最後の一曲まで歌った。
今、店主が約束の残りを払っている。
「……吟遊詩人のお仕事のお金ニャ」
「最初からそう言ってる」
「ちゃんと仕事になったニャ」
店主が頷いた。
「また頼みたくなるくらいにはな」
レイニャの顔が一気に明るくなった。
「最高の仕事ニャ〜!」
「急に戻ったね」
リュシアが呆れたように言う。
「嬉しい時は喜ぶニャ」
「それでいいよ」
レイニャは二つの袋を別々にしまい、手帳へ今夜の仕事が終わった印をつけた。
その下には、今週中に行くもう一軒の予定が残っている。
店を出ると、領都の通りには夜の冷たい空気が降りていた。
レイニャはハープをいつもより丁寧に抱えた。
応急修理の弦があるため、背中へ乱暴に回す気にはなれない。
隣を理央が歩く。
少し後ろには澪と真壁、リュシアがいた。
「理央も一緒ニャ」
「はい」
「飛行船ニャ」
「飛行船です」
「レヴァニアニャ」
「レヴァニアです」
レイニャの足取りが弾む。
「来週は空の旅ニャ〜!」
「その前に、真壁さんの実験がありますけど」
足が止まった。
レイニャは後ろを振り返る。
真壁はいつもどおりの顔で歩いていた。
「忘れてたニャ」
「私も止められるなら止めたいんですけどね」
澪が苦笑する。
「危険なことをするつもりはない」
真壁が言った。
「その言い方、ちょっと不安になるニャ」
「条件を一つずつ分けて確認するだけだ」
「説明が増えると、もっと仕事っぽくなるニャ」
「仕事として行くんですよ」
理央に言われ、レイニャは瞬きをした。
「そうだったニャ」
皆が笑いながら夜道を進む。
レイニャは空を見上げた。
今夜は、あの巨大な船の姿は見えない。
それでも昼に見上げた船底と、地面から離れていた大きな船体は、はっきり思い出せた。
「次は、上から見るニャ」