押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第371話 今夜も仕事ニャ

 

 新町を出た乗合機械馬車が領都へ近づくころ、窓から差し込む光はすっかり橙色になっていた。

 

 レイニャは座席から身を乗り出し、前方の空を見た。

 

 さっきまでは遠くに見えていた領都の屋根が、もう一つずつ見分けられる。

 

「まずいニャ」

 

 膝の上のハープを抱え直し、腰の手帳を開く。

 

 店へ入る時刻は、朝から何度も確かめていた。

 

 帰りの便にも乗り遅れていない。

 

 それでも、公園で子どもたちに最後の話まで聞かせてから走ったせいで、余裕と呼べるものはほとんど残っていなかった。

 

 旅なら、日が暮れたところで休める場所を探せばいい。

 

 今夜は違う。

 

 自分が来るのを待っている店がある。

 

「今日の昼も仕事して、今夜も仕事ニャ」

 

 口にすると少し嬉しかった。

 

 その直後、機械馬車が駅へ滑り込み、レイニャは真っ先に立ち上がった。

 

 扉が開く。

 

「通るニャ〜!」

 

「走るなら外へ出てからにしな」

 

 御者に笑われた。

 

「分かってるニャ!」

 

 返事をしながら降り、広場へ出たところで本当に走り出す。

 

 背中のハープが跳ねた。

 

 腰の硬貨も鳴った。

 

 夕食時を迎えた通りには、仕事を終えた職人や、荷を片づけた商人が増えている。

 

 その間を縫って進み、教えられた角を曲がる。

 

 店先にはもう灯りがともっていた。

 

「間に合ったニャ!」

 

 扉を開けるなり叫ぶと、卓を拭いていた店主が顔を上げた。

 

「まだ時間前だ」

 

「なら余裕ニャ」

 

「息を整えてから言え」

 

 レイニャは胸を張ろうとして、途中で一度大きく息を吸った。

 

「余裕だったニャ」

 

「そういうことにしておくか」

 

 店主は腰の袋から小さな革袋を取り出し、レイニャへ差し出した。

 

「先に半分だ」

 

 レイニャは袋を受け取ったものの、すぐにはしまわなかった。

 

 口を開けて中を確かめ、手帳に挟んである小さな紙と見比べる。

 

「食事あり」

 

「ああ」

 

「投げ銭はレイニャのもの」

 

「そうだ」

 

「宵の客が入ってから、休みを挟んで何曲か」

 

「真夜中まで引き留めたりはしない」

 

 店主が先に答えた。

 

 レイニャは満足して頷き、前金を昼の投げ銭とは別の袋へ入れた。

 

「大丈夫ニャ」

 

「細かいな」

 

「仕事だからニャ」

 

 走ってきた時の慌ただしさは、もう消えていた。

 

 

 

 店が客で埋まり始めたころ、レイニャは壁際に用意された椅子へ腰を下ろした。

 

 共同商館のフードコートより天井は低い。

 

 卓と卓の間も近く、酒と焼いた肉の匂いが濃かった。

 

 職人らしい男たちが仕事の話をし、荷運びを終えた若者たちが杯をぶつけている。

 

 旅人の一団は地図を広げ、商人二人は皿の脇で値段の話を続けていた。

 

「好きなようにやってくれ」

 

 店主が言った。

 

「客が楽しめりゃいい」

 

「任せるニャ」

 

 レイニャはハープを構えた。

 

 最初に選んだのは、昼にも評判のよかった『黄金の風』だった。

 

 朝日と麦畑と旅立ちを歌う、明るい旅歌だ。

 

 弦を鳴らし、声を出す。

 

 入口に近い卓から、一人がこちらを見た。

 

 別の卓でも二人ほど顔を上げた。

 

 しかし、奥では今日運んだ樽の重さについて言い争っている。

 

 商人は値段の話をやめない。

 

 酔い始めた客の笑い声が、歌の上を平気で横切った。

 

 共同商館では、曲が始まれば自然と人の輪ができた。

 

 ここでは輪になる前に、客がそれぞれの夜を始めている。

 

 レイニャは予定どおり一曲を歌い切った。

 

 まばらな拍手はあった。

 

 聞いている者も確かにいた。

 

 けれど、半分以上は歌が終わったことにも気づいていないように見えた。

 

「……ニャ?」

 

 思わず口から漏れた。

 

 店主が酒を運びながら笑う。

 

「酒場なんてこんなもんだ」

 

「誰も聞いてないニャ」

 

「聞いてないようで聞いてる奴もいる」

 

「もっと聞いてほしいニャ」

 

「そこは自分で何とかしてくれ」

 

 店主は助けてくれなかった。

 

 約束どおり、好きにやらせるつもりらしい。

 

 レイニャはすぐに二曲目へ入らず、ハープへ置いた手を止めた。

 

 猫耳が左右へ向く。

 

 旅で身につけた《聞き耳》を働かせる。

 

 大きな笑い声だけを追わず、その下にある会話を拾った。

 

 奥の卓では、職人たちが故郷の町の話をしている。

 

 今年は雪が多かったらしい。

 

 隣の卓からは、朝から働き詰めだったという愚痴が聞こえた。

 

 商人二人は商談がまとまったようで、さっきより声が明るい。

 

 入口のそばの男は、もう何杯目かも怪しかった。

 

 細かな話の中身は追わず、声が明るいか、疲れているかだけを拾った。

 

「昼と同じじゃ駄目ニャ」

 

 昼は、これから食べる料理を楽しみにしている客だった。

 

 今は、一日の仕事を終えた客だ。

 

 レイニャは弦へ指を戻した。

 

 

 

 次に鳴らしたのは、西を旅していたころに覚えた古い歌だった。

 

 遠く離れた家と、どこから見ても同じ月と、いつか帰る道を歌う。

 

 沈み込む歌ではない。

 

 明日はまだ働き、季節が巡ったら家へ帰る者の歌だ。

 

 最初の節では、奥の職人たちも話を続けていた。

 

 二つ目の節に入ると、一人が杯を置いた。

 

 三つ目の節で、隣の男が知っている部分だけを低く口ずさんだ。

 

 レイニャはその声を拾った。

 

 自分の演奏を少し弱める。

 

 歌い慣れた者の声を押しのけず、隣へ自分の声を置く。

 

 もう一人も加わった。

 

 話し声の多かった卓が、いつの間にか一つの節を一緒に歌っている。

 

 最後の音を短く残し、レイニャは指を止めた。

 

 店の中に、ほんの少しだけ静けさが落ちた。

 

 先ほどまで一番大きな声で話していた男が、空になった杯を持ち上げる。

 

「……もう一曲やってくれ」

 

 レイニャの耳がぴんと立った。

 

「聞いてたニャ?」

 

「聞いてたよ」

 

「最初のも聞いてた?」

 

「あれは半分くらいだな」

 

「正直ニャ」

 

 卓の男たちが笑った。

 

 レイニャも笑い、今度は仕事帰りの足取りに合う、少し速い曲を始めた。

 

 客の指が卓を叩く。

 

 手拍子が一つ増える。

 

 ようやく店と呼吸が合ってきた気がして、レイニャも強く弦を弾いた。

 

 乾いた音が走った。

 

 一本の弦が、目の前で跳ねる。

 

「ニャッ!?」

 

 演奏が止まった。

 

 卓を叩いていた客の手も止まる。

 

 レイニャは切れた弦と自分の指を交互に見た。

 

 怪我はない。

 

 困ったのは、この先だった。

 

「まだ仕事の途中ニャ……」

 

 古いハープであることは知っている。

 

 品質は普通で、修理歴がいくつもある、一般的な中古楽器。

 

 鑑定でそう見えた時は落ち込んだが、それでも今日まで一緒に旅をしてきた。

 

 いつか直さなければならないとは思っていた。

 

 今日の、今、この曲の途中で切れるとは思っていなかった。

 

「ちょっと見せて」

 

 客席から若い男が立った。

 

 服の袖や指先に、細かな木屑がついている。

 

「直せるニャ?」

 

「完全には無理だ」

 

「ニャ……」

 

「今夜だけなら何とかする」

 

「本当?」

 

 レイニャはすぐに椅子を譲った。

 

 若者はハープを膝に載せ、切れた弦の両端を確かめた。

 

 持っていた細い予備弦を出し、木枠を横から見る。

 

 弦を替えるだけかと思ったが、指で別の場所を押し、張り具合を何度も確かめていた。

 

「そこ、何を見てるの?」

 

「張った時の高さ」

 

「こっちは?」

 

「弦だけ新しくすると、ほかへ無理がかかることがある」

 

「いっぱい見るところがあるニャ」

 

「楽器だからな」

 

 レイニャの《鑑定》では、弦の材質や用途くらいしか分からない。

 

 若者の指が何を感じ取ったのかまでは表示されなかった。

 

「楽器を作る人ニャ?」

 

「まだ見習いだよ」

 

 若者は木枠の古い補修跡へ目をやった。

 

「これ、何度も直してるだろ」

 

「一緒に旅してきたニャ」

 

「なら、なおさら一度ちゃんと見てもらった方がいい」

 

 レイニャもハープを見た。

 

 古いから替える、とは思えなかった。

 

「今度、工房へ持ってきて」

 

「場所を教えてほしいニャ」

 

「終わったら書くよ」

 

「約束するニャ」

 

 

 

 修理を待つ間、店の空気が途切れかけた。

 

 レイニャが何かないかと見回すと、年配の客が腰から古い笛を抜いた。

 

「それなら、俺の笛を使うか?」

 

「吹けるニャ?」

 

「地元の曲を少しだけな」

 

「十分ニャ」

 

「合わせたこともないぞ」

 

「知ってる歌なら何とかなるニャ」

 

 男が半信半疑のまま笛を構えた。

 

 最初に吹いた音は少しかすれた。

 

 二つ目はきれいに伸びた。

 

 店の客が知っている、祭りの帰りに歌う曲だった。

 

 レイニャは最初の数小節を聞き、入る場所を決めた。

 

 ハープはない。

 

 笛と声だけで歌い始める。

 

 地元の客がすぐに気づいた。

 

 一人が手を叩き、別の男が節の終わりを歌う。

 

 笛の男は驚いて一度音を外したが、レイニャが笑って続けると、つられて笑いながら吹き直した。

 

「ほら、次ニャ!」

 

「急かすな!」

 

 客席から笑い声が上がる。

 

 即席の演奏なのに、先ほどまでより店全体の息が揃っていた。

 

「できたよ」

 

 楽器職人の見習いが、応急修理を終えたハープを持ち上げた。

 

 レイニャは曲を切らずに受け取り、空いている音を一つだけ鳴らす。

 

 張りを確かめ、次の節からハープを加えた。

 

 笛と歌の間へ、軽い音が滑り込む。

 

 卓を叩く音まで演奏の一部になった。

 

「こういうのも楽しいニャ〜」

 

「こっちも仕事にされそうだな」

 

 笛の男が息を整えながら言った。

 

「今日の報酬は拍手ニャ」

 

「酒の一杯くらい欲しいぞ」

 

「それは店主に言うニャ」

 

「そこは払わんのか」

 

「レイニャもまだ前金半分しかもらってないニャ」

 

 店主が離れたところから笑った。

 

 

 

 曲が終わると、入口近くで飲んでいた商人が硬貨を数枚つまんだ。

 

 ほかの投げ銭より明らかに多い。

 

 商人はそれをレイニャの前へ置き、向かいの卓を顎で示した。

 

「次は、あいつらの店を笑いものにする歌をやれ」

 

「どの店ニャ?」

 

「名前を言えば分かる」

 

 商人は同業らしい店の特徴を挙げ、酒で大げさになった失敗談を話した。

 

「金なら出すぞ」

 

 レイニャは硬貨を見た。

 

 今夜の出演料に足しても嬉しい額だった。

 

 嬉しい額だから、何に対して払われる金なのかを考えた。

 

 指先で硬貨をまとめ、商人の前へ戻す。

 

「その歌は歌わないニャ」

 

「足りないのか?」

 

「歌は売るニャ」

 

 レイニャは商人を見た。

 

「でも、喧嘩は売らないニャ」

 

 周りの笑い声が少しだけ遠のいた。

 

 商人は押し返された硬貨とレイニャを見比べる。

 

「じゃあ、何なら歌う」

 

 レイニャは男の杯と、すでに軽くなった財布を見た。

 

「飲みすぎて、明日の朝に財布を見て泣く歌なら歌えるニャ」

 

 すぐ近くの卓が吹き出した。

 

 向かいの客も笑い、店主まで手元を止めた。

 

 商人は一人だけ笑っていなかったが、自分の財布を見てから少し遅れて肩を揺らした。

 

「それをやれ」

 

「硬貨は一枚でいいニャ」

 

「全部取らないのか」

 

「残しておかないと、明日の朝までに泣くニャ」

 

 今度は商人本人が一番大きく笑った。

 

 レイニャはその場で、杯の底と朝の財布について短い節を作った。

 

 名前も店も出さない。

 

 酔客なら誰でも身に覚えのある歌になり、店中から手拍子が返ってきた。

 

 

 

 盛り上がった客の一人が、もう一杯頼もうと勢いよく立ち上がった。

 

 後ろを通っていた店員と肩がぶつかる。

 

 杯が床へ落ちた。

 

 割れた陶器が散り、店員が慌ててしゃがみ込む。

 

「待つニャ」

 

 レイニャの声が変わった。

 

 店員が破片へ伸ばした手を止める。

 

 指先には、もう細い血の筋ができていた。

 

「ちょっと血が出てるニャ」

 

「これくらいなら」

 

「動かさないでニャ」

 

 レイニャはハープを椅子へ置き、すぐそばに膝をついた。

 

 傷の深さを見て、陶器の欠片が残っていないことを確かめる。

 

 触れる直前に、店員へ目を向けた。

 

「治していい?」

 

「え?」

 

「すぐ終わるニャ」

 

 戸惑いながら頷くのを待ち、指先へ手を添えた。

 

 指先へ《治癒》を通す。

 

 淡い白い光が小さく灯る。

 

 裂けた皮膚が寄り、血が止まった。

 

 残った赤みも、ほどなく薄くなる。

 

 店員は自分の指を曲げ伸ばしした。

 

「……吟遊詩人だよな?」

 

「今はニャ」

 

「今は?」

 

「前は白魔道士だったニャ」

 

「白魔道士!?」

 

 近くの客まで声を揃えた。

 

 レイニャは床の破片を指した。

 

「そっちは布を使って拾うニャ」

 

「あ、ああ」

 

「大きな怪我じゃないニャ」

 

 椅子へ戻り、ハープを抱える。

 

「歌の途中だから戻るニャ」

 

 特別なことをしたつもりはなかった。

 

 だが、客の方はそうではなかったらしい。

 

 年配の客が身を乗り出した。

 

「そこまで治せるのに、どうして白魔道士を辞めた?」

 

 レイニャはすぐには答えず、応急修理された弦を軽く鳴らした。

 

「治すのが嫌だったわけじゃないニャ」

 

「なら、どうしてだ?」

 

「呼ばれた場所へ行くのと、自分が行きたい場所へ行くのは違うニャ」

 

 年配の客は、続きを待った。

 

 レイニャはそれ以上、長い説明をしなかった。

 

 誰かが別の卓から声を投げる。

 

「今は行きたいところへ行けてるのか?」

 

「多すぎて困ってるニャ」

 

 返事は早かった。

 

 店内にまた笑いが戻る。

 

 レイニャは何事もなかったように次の曲を始めた。

 

 

 

 二度目の演奏を終えて休んでいると、店の扉が開いた。

 

 先に入ってきたリュシアが店内を一度見回す。

 

 その後ろに理央、澪、真壁が続いた。

 

「来たニャ〜!」

 

 レイニャが手を振ると、理央が店内の人の多さに目を丸くした。

 

「すごい人ですね」

 

「最初は誰も聞いてくれなかったニャ」

 

「そうなんですか?」

 

「今は聞いてるニャ」

 

 レイニャは少し胸を張った。

 

 澪が、投げ銭の入った器と客席を交互に見る。

 

「もう仕事になってる……」

 

「吟遊詩人だからニャ」

 

「昼にも同じようなことを言ってませんでした?」

 

「昼も吟遊詩人だったニャ」

 

「それはそうですね」

 

 リュシアは店主と短く言葉を交わした。

 

 約束どおり前金が渡されたことと、何か問題がなかったかを確かめている。

 

 一方の真壁は、空いている卓、料理が運ばれる速さ、客の滞在具合、それからレイニャの周りを順に見た。

 

「なるほど」

 

「真壁、また難しいところを見てるニャ」

 

「商売の場だからな」

 

「今日くらい普通に聞きません?」

 

 澪が言う。

 

「聞いているとも」

 

「まだ歌ってないニャ」

 

 真壁はレイニャを見た。

 

「では、始めてもらおうか」

 

「注文が先ニャ」

 

「商売人らしくなったものだ」

 

「吟遊詩人ニャ」

 

 四人が席へ着いたところで、店員が料理と飲み物の注文を取りに来た。

 

 レイニャはその間に水を飲み、次の曲を考えた。

 

 

 

 そこへ、少し離れた卓から子どもの声が上がった。

 

「あっ!」

 

 レイニャが振り向く。

 

 父親と母親に挟まれていた子どもが、椅子から身を乗り出していた。

 

「さっき公園でお話してた吟遊詩人!」

 

「また会ったニャ〜」

 

 新町の公園で、海の怪物や英雄の話を聞いていた子どもの一人だった。

 

 母親が驚きながらも笑った。

 

「家へ戻ってから、ずっとあなたの話をしていたんですよ」

 

「何の話ニャ?」

 

「海の怪物!」

 

 子どもが先に答える。

 

「あと飛行船!」

 

「怪物の話より飛行船の話の方が長かったぞ」

 

 父親が横から付け足した。

 

「今夜はこちらへ用があってね」

 

「用事が済んだから、帰る前に夕飯を食べようと入ったら、まさか昼のケット・シーがいるとは思わなかった」

 

「レイニャも思わなかったニャ」

 

 父親が思い出したように続ける。

 

「飛行船を見て、ずいぶん大きな声を出していたケット・シーがいたって、作業場の方でも話になってましたよ」

 

 レイニャの耳が立った。

 

「もう広がってるニャ!?」

 

「乗りたいって言ってた!」

 

「言ったニャ」

 

「すごく言ってた」

 

「一回でいいニャ」

 

「何回も言ってたよ」

 

 レイニャは子どもから目を逸らした。

 

「大きかったから仕方ないニャ」

 

「それ、理由になってます?」

 

 理央が笑いをこらえながら聞いた。

 

「見たら分かるニャ」

 

「私は見たことあります」

 

「なら分かるニャ」

 

「大きいとは思いましたけど、町中に聞こえる声は出してないです」

 

「理央は我慢強いニャ」

 

「普通です」

 

 

 

 話を聞いていたリュシアが、料理の皿を置いた。

 

「レイニャ」

 

「ニャ?」

 

「あんた、飛行船に乗りたいのかい?」

 

「乗りたいニャ!」

 

 店の反対側まで届くほど早い返事だった。

 

「そんなにかい」

 

「今日見たニャ」

 

「それは聞いたよ」

 

「大きかったニャ」

 

「それも聞いた」

 

「浮いてたニャ」

 

「飛行船だからね」

 

「中も見たいニャ」

 

「まだあるのかい」

 

「飛んでるところにも乗りたいニャ」

 

 一息に言い切ったレイニャを見て、澪が小さく笑った。

 

 理央も分かるという顔で頷いている。

 

「なら、ちょうどいいね」

 

 リュシアが言った。

 

 レイニャは首を傾げた。

 

「来週、レヴァニアへ買い付けに行く予定なんだよ」

 

「レヴァニア?」

 

「南の交易国だ」

 

 真壁が短く補った。

 

「大麦や豆を見て、向こうの商人とも話をする」

 

 リュシアの言葉に、レイニャはまだ首を傾げている。

 

「今回は飛行船で行く」

 

 動きが止まった。

 

 猫耳だけが一度、前へ向く。

 

「……飛行船で?」

 

「そうだよ」

 

「レヴァニアまで?」

 

「そう」

 

「乗っていいニャ?」

 

「仕事の邪魔をしないならね」

 

「しないニャ!」

 

「返事が早いね」

 

「邪魔しないで、見て、歌うニャ」

 

「最後のは向こうで決めな」

 

 真壁が卓の上で指を一度組み直した。

 

「国際便だ」

 

 浮かれかけたレイニャが真壁を見る。

 

「出発日と到着予定、搭乗者、積荷は事前に知らせる必要がある」

 

「難しいニャ?」

 

「行くなら、今日のうちに搭乗者へ入れておこう」

 

「まだ間に合うニャ?」

 

「来週なら問題ない」

 

 レイニャは椅子から立ち上がった。

 

「行くニャーーーー!」

 

 何人もの客が振り返る。

 

 さっきまで歌を聞いていた客は、また始まったという顔で笑った。

 

「座りな」

 

 リュシアに言われ、レイニャは素直に座った。

 

 

 

「私も行きたいです」

 

 今度は理央が言った。

 

「理央ちゃん?」

 

 澪が隣を見る。

 

「飛行船、まだ乗ったことないんです」

 

 レイニャが目を丸くした。

 

「理央もないニャ?」

 

「ないです」

 

「空飛ぶ車には乗ってたニャ」

 

「エアカーはあります」

 

 レイニャは少し考えた。

 

「そっちの方がおかしくないニャ?」

 

「私も最近そう思います」

 

「慣れないでください」

 

 澪が止めた。

 

 レイニャと理央が同時に澪を見る。

 

「澪が言うニャ?」

 

「澪さんが一番言っちゃいけない気がします」

 

「どうして私が責められてるんですか」

 

「空を飛ぶ車を持ってるからニャ」

 

「作ったのは私だけじゃありません」

 

「持ってはいるんですね」

 

 理央の一言に、澪が返事を詰まらせた。

 

 リュシアが二人のやり取りを聞きながら肩をすくめる。

 

「仕事の邪魔をしないなら、理央も構わないよ」

 

「行きます」

 

 こちらも返事が早かった。

 

「では、理央君も搭乗者へ追加だな」

 

 真壁が言った。

 

「理央君」

 

「はい?」

 

「君も《順風満帆》を持っていたな」

 

「はい」

 

 理央は頷いたあと、少し眉を寄せた。

 

「まだ、何がどう効くのか分からないですけど」

 

「ならば、ちょうどよい」

 

「何がですか?」

 

「《順風満帆》の効果を試してみるとよいな」

 

 理央の顔から、飛行船へ乗れる喜びが少しだけ引いた。

 

「飛行船へ乗ったら、意識してみたまえ」

 

「意識するんですか?」

 

「名称どおりの性質なら、船で確認するのが分かりやすい可能性がある」

 

「何の話?」

 

 レイニャが聞く。

 

「風がよくなるかもしれない話です」

 

「そんな便利なものを持ってるニャ!?」

 

「私もまだ分からないんです」

 

「分からないものを飛行船で試すニャ?」

 

「だから試すのだよ」

 

 真壁は当然のように答えた。

 

 レイニャは澪へ顔を向ける。

 

「真壁、やっぱり時々怖いニャ」

 

「分かります」

 

 澪が即答した。

 

 真壁の視線が澪へ移る。

 

「澪君」

 

「はい?」

 

「君は意識しないでくれたまえ」

 

「え?」

 

「君も《順風満帆》を持っている」

 

 真壁は自分の胸元を指した。

 

「私もだ」

 

「三人同時に意識しては、何の影響か分からん」

 

「私だけですか?」

 

「まずは一人で確認する」

 

「完全に実験になってるんですけど」

 

 澪が言った。

 

「私、飛行船に乗りたいって言っただけなんですけど」

 

 理央も言った。

 

「乗る前から大変ニャ〜」

 

 レイニャがしみじみ頷く。

 

 真壁は三人の顔を順番に見た。

 

「危険な条件で試すつもりはない」

 

「風向き、揺れ、巡航状態、推進側の負荷を見ながら、理央君だけに意識してもらう」

 

「何も変わらなければ、それも結果だ」

 

 理央は少し考えたあと、頷いた。

 

「分かりました」

 

「やってみます」

 

「うむ」

 

 真壁だけが満足そうだった。

 

「理央、嫌なら断っていいニャ」

 

「大丈夫です」

 

 理央は笑った。

 

「私も、何が起きるかは知りたいですから」

 

「理央もそっち側だったニャ」

 

「どっち側ですか?」

 

「やってみる側ニャ」

 

 

 

 休憩が終わるころには、店の空いた席もほとんどなくなっていた。

 

 レイニャは椅子へ戻り、応急修理された弦をそっと確かめた。

 

 強く引きすぎない。

 

 その代わり、客の声を使うことにした。

 

「最後は、みんなで歌える曲にするニャ」

 

「知らない歌だったらどうする」

 

 奥の職人が声を上げる。

 

「最初にレイニャが歌うニャ」

 

「次は?」

 

「同じところを皆が歌うニャ」

 

「簡単だな」

 

「間違えても、隣の人より大きな声なら勝ちニャ」

 

「何の勝負だよ」

 

 笑いが起きる。

 

 レイニャは短い一節を歌った。

 

 知らない土地へ行き、腹が減ったら町を探し、道に迷ったら歌う旅人の歌だ。

 

 次の節で、客が同じ言葉を返す。

 

 最初は揃わなかった。

 

 二度目は声が増えた。

 

 笛の客が、覚えた旋律を横から重ねる。

 

 楽器職人の見習いも、修理を終えた席から手を叩いた。

 

 新町の子どもは両親より先に覚え、大きな声で歌っている。

 

 理央も歌った。

 

 澪も笑いながら続く。

 

 リュシアは歌より手拍子の方が大きかった。

 

 真壁だけが静かに聞いている。

 

 レイニャは演奏の途中で真壁を指した。

 

「真壁も歌うニャ〜!」

 

「私は聞く側でよかろう」

 

「駄目ニャ」

 

「なぜだね」

 

「もう店の客だからニャ」

 

 周りの客が真壁を見る。

 

 逃げ道がなくなった。

 

 真壁は小さく息をつき、次の一節だけ低い声で合わせた。

 

「それニャ〜!」

 

「一節で十分だろう」

 

「ちゃんと歌えたニャ」

 

 店内が笑いに包まれた。

 

 最初の曲では、半分の客がこちらを見てもいなかった。

 

 今は、誰かが音を外すたびに別の誰かが笑い、それでも歌は止まらない。

 

 レイニャは皆の声の間へハープを置いた。

 

 最後の一節だけ高く歌い、弦を鳴らして終える。

 

 大きな拍手が返ってきた。

 

 

 

 客が帰り始める前に、レイニャは投げ銭を集めた。

 

 硬貨を数えるたび、尻尾がゆっくり左右へ動く。

 

「今日も幸せニャ〜」

 

「ほら」

 

 店主が別の革袋を差し出した。

 

 レイニャは投げ銭の袋を抱えたまま、首を傾げる。

 

「ニャ?」

 

「残り半分だ」

 

 そこで、店へ着いた時にもらった前金を思い出した。

 

「ちゃんと残りもあるニャ」

 

「当たり前だ」

 

 レイニャは投げ銭の袋と、店主から受け取った袋を見比べた。

 

「投げ銭とは別ニャ?」

 

「別だ」

 

「両方もらっていいニャ?」

 

「そういう契約だろ」

 

 レイニャはすぐには返事をしなかった。

 

 走って店へ来た時には、仕事になるかどうかも分からなかった。

 

 最初の歌は半分も聞かれず、途中で弦まで切れた。

 

 それでも曲を変え、借りた笛に合わせ、最後の一曲まで歌った。

 

 今、店主が約束の残りを払っている。

 

「……吟遊詩人のお仕事のお金ニャ」

 

「最初からそう言ってる」

 

「ちゃんと仕事になったニャ」

 

 店主が頷いた。

 

「また頼みたくなるくらいにはな」

 

 レイニャの顔が一気に明るくなった。

 

「最高の仕事ニャ〜!」

 

「急に戻ったね」

 

 リュシアが呆れたように言う。

 

「嬉しい時は喜ぶニャ」

 

「それでいいよ」

 

 レイニャは二つの袋を別々にしまい、手帳へ今夜の仕事が終わった印をつけた。

 

 その下には、今週中に行くもう一軒の予定が残っている。

 

 

 

 店を出ると、領都の通りには夜の冷たい空気が降りていた。

 

 レイニャはハープをいつもより丁寧に抱えた。

 

 応急修理の弦があるため、背中へ乱暴に回す気にはなれない。

 

 隣を理央が歩く。

 

 少し後ろには澪と真壁、リュシアがいた。

 

「理央も一緒ニャ」

 

「はい」

 

「飛行船ニャ」

 

「飛行船です」

 

「レヴァニアニャ」

 

「レヴァニアです」

 

 レイニャの足取りが弾む。

 

「来週は空の旅ニャ〜!」

 

「その前に、真壁さんの実験がありますけど」

 

 足が止まった。

 

 レイニャは後ろを振り返る。

 

 真壁はいつもどおりの顔で歩いていた。

 

「忘れてたニャ」

 

「私も止められるなら止めたいんですけどね」

 

 澪が苦笑する。

 

「危険なことをするつもりはない」

 

 真壁が言った。

 

「その言い方、ちょっと不安になるニャ」

 

「条件を一つずつ分けて確認するだけだ」

 

「説明が増えると、もっと仕事っぽくなるニャ」

 

「仕事として行くんですよ」

 

 理央に言われ、レイニャは瞬きをした。

 

「そうだったニャ」

 

 皆が笑いながら夜道を進む。

 

 レイニャは空を見上げた。

 

 今夜は、あの巨大な船の姿は見えない。

 

 それでも昼に見上げた船底と、地面から離れていた大きな船体は、はっきり思い出せた。

 

「次は、上から見るニャ」

 

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