押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第374話 薬の工房ニャ

 

 孤児院へ戻る道の途中で、理央が足を止めた。

 

「私は事業所へ戻ります」

 

「まだ仕事するニャ?」

 

「午後の仕事が残っていますから」

 

 理央は朝からレイニャの《収納》訓練につき合っていた。

 

 その後は旅支度まで手伝い、領都の買い物にも同行している。

 

 仕事へ戻ると言われれば、これ以上引き留める理由はなかった。

 

「今日はありがとニャ」

 

「どういたしまして」

 

「また教えてほしいニャ」

 

「普通に使っていれば慣れますよ」

 

 理央は、レイニャが小脇に抱えている厚手の布を見た。

 

「ただし、買い物以外でも使ってくださいね」

 

「ちゃんと旅支度にも使ったニャ」

 

「出発前に容量を埋めないでください」

 

「分かってるニャ」

 

 返事をしたレイニャの目が、道沿いの露店へ動いた。

 

 理央もそちらを見る。

 

「今、何を見ました?」

 

「何も見てないニャ」

 

「本当ですか?」

 

「理央、午後の仕事が待ってるニャ」

 

「そうでした」

 

 理央はまだ少し疑っていたが、事業所へ向かう道を歩き始めた。

 

 レイニャは手を振り、その背中が人波へ紛れるまで見送った。

 

 これで、ようやく自由な時間である。

 

 太陽はまだ高い。

 

 孤児院へ戻るには早かった。

 

 昨日までなら、一度荷物を置きに戻るところだったが、旅鞄もハープも《収納》の中にある。

 

 腕に抱えた布も軽い。

 

 このまま、まだ見ていない場所へ行ける。

 

「どこ行くニャ〜」

 

 領都の道を眺めながら考える。

 

 家具工房は見た。

 

 共同商館も見た。

 

 飛行船の町まで行った。

 

 そこで、共同商館で会った錬金術師を思い出した。

 

 セルマはポーションを作っている。

 

 レイニャは今でこそ吟遊詩人だが、長いあいだ白魔道士として旅をしてきた。

 

 知らない町へ入れば、薬屋の場所を確かめる。

 

 治療する者がいるかを聞く。

 

 どんな薬草が採れ、どんな怪我や病が多いのかを見る。

 

 それは職を変えた今も、身体に残った旅の癖だった。

 

「薬の工房、見てみたいニャ」

 

 レイニャは近くの店で道を聞き、新セルマ工房へ向かった。

 

 

 

 教えられた場所へ着くと、レイニャは道の真ん中で建物を見上げた。

 

「……大きすぎるニャ」

 

 見上げても、屋根がずいぶん遠い。

 

 レイニャが各地で見てきた薬師の店は、店の奥に調合台が一つある程度のものが多かった。

 

 大きな店でも、乾燥棚と薬草棚、小さな倉庫がつくくらいである。

 

 目の前の建物は、薬師が一人で使う大きさではなかった。

 

 開いた扉から、籠を抱えた若者が出てくる。

 

 その後ろからは空瓶を載せた台車が現れ、別の者が記録板を持って横切った。

 

「ここ全部、薬の工房ニャ?」

 

 返事の代わりに、建物の中から乾いた薬草の匂いが流れてきた。

 

 レイニャが入口へ近づくと、瓶の箱を運んでいた弟子が足を止めた。

 

「何か御用ですか?」

 

「セルマに会いたいニャ」

 

「お約束はありますか?」

 

「ないニャ」

 

 即答すると、弟子が少し困った顔をした。

 

「共同商館で会ったレイニャが来たって言ってほしいニャ」

 

「少々お待ちください」

 

 弟子が奥へ向かうあいだ、レイニャは入口の端へ寄った。

 

 人の動線を塞がない場所で待つ。

 

 薬を運んでいる者へ、不用意にぶつかるわけにはいかない。

 

 しばらくして、濃紺の外套を着たセルマが現れた。

 

「本当に来たのね」

 

「来たニャ〜」

 

「何か具合が悪いの?」

 

「元気ニャ」

 

「では、薬を買いに?」

 

「工房を見たいニャ」

 

 セルマの目が、レイニャの猫耳から腕の布へ移り、また顔へ戻った。

 

「見物なら、あまり面白い場所ではないわよ」

 

「あたし、前は白魔道士だったニャ」

 

「そういえば、治癒が使えるのだったわね」

 

「旅先で薬もいっぱい使ったニャ」

 

 レイニャは建物の奥を覗いた。

 

「ここで、どうやって作ってるのか見たいニャ」

 

 セルマは少し考えた。

 

「作業中の台には触れないこと」

 

「触らないニャ」

 

「弟子が物を運んでいるところへ飛び出さないこと」

 

「飛び出さないニャ」

 

「勝手に薬草を口へ入れないこと」

 

「しないニャ」

 

「返事だけは早いわね」

 

「旅人は決断が早いニャ」

 

「では、ついてきなさい」

 

 セルマの後ろへ続くと、すぐ脇に箱型の昇降機があった。

 

「ここにもあるニャ」

 

「瓶や材料を運ぶのに便利なのよ」

 

 扉が閉じる。

 

 箱が静かに動き出しても、灯りの火は揺れなかった。

 

「地上に5階あって、地下にも2階あるわ」

 

「薬屋じゃないニャ」

 

「薬を作る工房よ」

 

「大きさが工房じゃないニャ」

 

 セルマは返事をせず、わずかに口元を緩めた。

 

 最初に通された区画では、何人もの弟子が薬草を選り分けていた。

 

 葉の色を見て、傷んだものを外し、使えるものを籠へ移している。

 

 別の台では器具を洗い、乾いた布で水気を確かめていた。

 

 壁際では、同じ形の瓶が列ごとに揃えられている。

 

 セルマは一つの作業へ加わらなかった。

 

 弟子の手元を見て回り、必要な時だけ声をかける。

 

「そこは葉先だけで決めないで」

 

「茎も確認しなさい」

 

「はい」

 

 弟子は選びかけた薬草を戻し、茎を指で確かめた。

 

 別の台へ移ると、セルマは記録板と籠の札を見比べる。

 

「この分は、先に状態をもう一度見て」

 

「混ぜてからでは分け直せないわ」

 

「分かりました」

 

 指示を出すと、また次の作業へ向かう。

 

「セルマは作らないニャ?」

 

「作っているわよ」

 

「今は見てるだけニャ」

 

「全部を私が作っていたら、弟子はいつまでも見ているだけでしょう」

 

 セルマは、洗い終えた器具を光へかざした弟子へ頷いた。

 

「任せられる仕事は任せるの」

 

「失敗しそうなら止める」

 

「出来上がった薬は、私も確認するわ」

 

 小さな薬師の店では、薬師本人が薬草選びから調合、瓶詰めまで行う。

 

 ここでは一つの薬が、多くの手を通って出来上がっていく。

 

 それでも、誰がどこまで作業したのか分かるよう、籠にも瓶にも札がついていた。

 

「人が多いのに、混ざらないニャ」

 

「混ざったら薬にならないわ」

 

 セルマは当然のことのように言った。

 

 次に案内された区画では、白い光の下に栽培槽が並んでいた。

 

 同じ高さに揃った治癒草の葉が、風もないのにわずかに震えている。

 

 根元へ一定の間隔で水が流れる音がした。

 

 レイニャは先ほどまでより静かに近づいた。

 

「触っていいニャ?」

 

「その列なら、葉を傷つけなければいいわ」

 

 許可を得てから、葉の裏と茎を見る。

 

 指先で張りを確かめ、顔を寄せて匂いを嗅いだ。

 

「同じ匂いニャ」

 

「同じ治癒草だからでしょう」

 

「そうじゃないニャ」

 

 レイニャは隣の株も確かめた。

 

「野で採ると、同じ治癒草でも違うニャ」

 

「葉が硬いのも、匂いが薄いのもあるニャ」

 

「雨のあとに採ったのと、乾いた日に採ったのでも違うニャ」

 

 セルマの顔から、見物人へ説明する時の表情が消えた。

 

「使ったことがある人の見方ね」

 

「弱ってる人に使う薬なら、効き方が毎回違うと困るニャ」

 

「そのために、育てるところから揃えているの」

 

 セルマは栽培槽の端に下がる札を示した。

 

 株の区分と状態、手入れをした日が記されている。

 

「原料が大きく違えば、同じ手順で作っても同じ薬にはならないわ」

 

「薬草を作るところも、薬作りニャ?」

 

「そうよ」

 

 レイニャはもう一度、揃って並ぶ葉を見た。

 

 白魔道士だったころは、薬瓶を受け取るところから先だけを考えることが多かった。

 

 必要な時に薬があり、患者へ使えるなら、それでよかった。

 

 瓶へ入るより前の違いを、ここまで見たことはない。

 

「次へ行くわよ」

 

「まだ見たいニャ」

 

「戻ってからにしなさい」

 

「戻ってくるニャ?」

 

「あなたの質問が終わればね」

 

「それは難しいニャ」

 

 今度はセルマが、はっきりとため息をついた。

 

 廊下の先から、声を揃えて薬草の特徴を答える音が聞こえた。

 

 開いた扉の向こうでは、若い弟子たちが机へ座っている。

 

 前に立つ年長の弟子が、乾燥させた葉を一枚ずつ見せていた。

 

 葉の見分け方を答えたあとは、使う量と器具の扱いを確認する。

 

 机には記録用の紙も開かれていた。

 

「弟子が弟子に教えてるニャ」

 

「同じところを間違える人は多いもの」

 

「一度できた者に教えさせると、自分の理解も確かめられるわ」

 

 レイニャは扉の外から、しばらく授業を眺めた。

 

「あたしが行った村に、薬を作れるお爺さんがいたニャ」

 

「その人が熱を出したら、村中の薬が止まったニャ」

 

 セルマがレイニャを見る。

 

「治す人まで一緒に倒れたから、大変だったニャ」

 

「その村には、弟子はいなかったの?」

 

「薬草を採る子はいたニャ」

 

「でも、薬を作れるのはお爺さんだけだったニャ」

 

「そう」

 

 短く答えたセルマの視線が、教室の弟子たちへ戻る。

 

「ここは、セルマの薬をいっぱい作る場所じゃないニャ」

 

「違うの?」

 

「セルマみたいに薬を作れる人を増やす場所ニャ」

 

「そうなるように作った工房よ」

 

「すごいニャ」

 

「私が作った建物ではないけれどね」

 

「誰が作ったニャ?」

 

「真壁さんよ」

 

 レイニャは天井を見上げた。

 

「急に納得したニャ」

 

 セルマは何も言わなかった。

 

 否定できなかったらしい。

 

 教室を出たあと、セルマは隣の図書室も見せてくれた。

 

 棚には薬草の見分け方や調合について書かれた本が並び、これまで工房で残してきた記録も種類ごとに綴じられている。

 

「読めば薬を作れるニャ?」

 

「本だけで作らせるつもりはないわ」

 

「では、何のためニャ?」

 

「教わったことを確かめるためよ」

 

 分からない時に戻れる場所があれば、教えた者がそばにいない時も、記憶だけに頼らずに済む。

 

 廊下の先には工房長室があり、その机にも何冊もの記録帳が積まれていた。

 

 セルマはそこで製造量や材料の残り、弟子から上がった報告を確認するという。

 

「薬を作るより、帳面を見てる時間も長そうニャ」

 

「工房が大きくなったら、作った量より分からない量の方が怖いのよ」

 

「工房長も大変ニャ」

 

「見なかったことにしてくれてもいいのよ」

 

「もう見たニャ」

 

 調合を行う区画へ入ると、薬草の匂いがさらに濃くなった。

 

 乾いた葉を量る者がいる。

 

 決められた分だけ水を用意する者がいる。

 

 火の状態を見ながら、器の中身をゆっくり混ぜている者もいた。

 

 出来上がりを待つあいだにも、隣では使った量と時刻が記録されている。

 

 レイニャは一つの台の前で立ち止まった。

 

「これは、何に使う薬ニャ?」

 

 作業中の弟子がセルマを見た。

 

 セルマが頷く。

 

「軽い傷の回復を助ける、飲むポーションです」

 

「血がいっぱい出た人には?」

 

「傷を塞いでから使います」

 

「ずっと食べてない人には?」

 

 弟子の答えが止まった。

 

 レイニャは責めずに、器の中身を見る。

 

「薬を飲ませても、水も食べ物もなかったら、また倒れるニャ」

 

「はい」

 

「高い熱が続いてるなら、薬だけ渡して歩かせたら駄目ニャ」

 

「休ませる場所もいるニャ」

 

 弟子は記録板を持ち直した。

 

「使う人の状態も見る、ということですか?」

 

「そうニャ」

 

「薬は助けてくれるけど、全部やってくれるわけじゃないニャ」

 

 セルマが腕を組む。

 

「今の話も記録しておきなさい」

 

「はい」

 

「そこまで書くニャ?」

 

「作る側ほど、瓶の中だけを見やすいのよ」

 

 セルマは次の台へ歩きながら続けた。

 

「この冬、領内で使うポーションは減ったわ」

 

「病人が減ったニャ?」

 

「食べ物が届いて、寒さをしのげる場所が増えたの」

 

「身体が弱り切る前に休めた人も多いわ」

 

「薬が良くなっただけじゃないニャ」

 

「薬だけで人が元気になるなら、私の仕事はもっと簡単よ」

 

 セルマは、瓶詰めを待つ薬を光へ透かした。

 

 濁りや沈んだものがないか、一つずつ角度を変えて見る。

 

「薬は売った後が怖いのよ」

 

「飲むのは工房の外ニャ」

 

「ええ」

 

「間違った使い方をされても、悪くなってからでは見えないことがあるわ」

 

「だから、同じ薬を作って、量も決めて、記録を残すの」

 

 レイニャは、光の中で揺れる透明な液体を見た。

 

「売った後は知らないって顔をする薬師もいるニャ」

 

「知っているの?」

 

「セレヴィアのリヴェルナで、最近よく名前を聞くニャ」

 

「どんな薬師?」

 

「店を増やしてるニャ」

 

「薬の値段とか、売り方の話になると名前が出るニャ」

 

「良い評判なの?」

 

「あんまり良くないニャ」

 

「名前は?」

 

「バルタザールだったニャ」

 

 セルマの手が止まり、表情が変わった。

 

「姓は分かる?」

 

「ケラーだったと思うニャ」

 

「バルタザール・ケラー……」

 

 セルマは、確かめるようにゆっくり名前を繰り返した。

 

「知ってるニャ?」

 

「前に、この領地で薬師ギルド長をしていた男よ」

 

 レイニャは耳をセルマへ向けた。

 

「領民へ回す薬草を隠して、病が広がって値が上がるのを待っていたわ」

 

「横流しもしていた」

 

「侯爵家に捕らえられて、一族の財産を没収されたあと、領外へ追放されたの」

 

「それが本当に同じ人なら、遠くまで行ったニャ」

 

「姓まで同じで、また薬師をしているなら、同一人物かもしれないわね」

 

 セルマはそう言ったが、すぐに続けた。

 

「でも、今も同じことをしているとは限らないわ」

 

「あたしが聞いたのも、町の噂ニャ」

 

「噂と事実は分けなければ駄目よ」

 

「分かってるニャ」

 

 レイニャは、リヴェルナの広場から少し外れた通りを思い出した。

 

 薬屋の看板を見た覚えはあるが、店へ入ったことはない。

 

「次にリヴェルナへ戻ったら、少し見てみるニャ」

 

「わざわざ調べに行く必要はないわ」

 

「旅のついでニャ」

 

「危ないと思ったら近づかないこと」

 

「それも旅人の基本ニャ」

 

 セルマは近くにあった紙へ、名前と聞いた範囲だけを書き留めた。

 

 それ以上は追及せず、弟子が持ってきた確認待ちの瓶へ視線を戻す。

 

 工房では、さっきまでと同じように仕事が続いていた。

 

 瓶詰めの区画へ移ると、レイニャは棚の前で立ち止まった。

 

「全部、同じ瓶ニャ」

 

 高さも口の広さも揃っている。

 

 蓋も同じように締まり、中身の量は並べた時にすぐ比べられた。

 

「旅先の薬屋だと、もっとばらばらニャ」

 

「小さい酒瓶に入ってる薬も見たニャ」

 

「容器が違えば、同じ一瓶と言っても量が違うでしょう」

 

「ここのは見れば分かるニャ」

 

「中身だけでなく、瓶まで揃えて一つの商品なの」

 

 弟子が規定の位置まで薬を入れ、蓋を締める。

 

 別の者が液面と瓶の状態を確かめ、記録へ印をつけた。

 

 セルマも抜き取った一本を持ち上げ、色と濁りを確認する。

 

「一人が全部見るんじゃないニャ」

 

「同じ人が見落としたものを、次の人も見落とすとは限らないからね」

 

 確認を終えた瓶は箱へ移された。

 

 すぐに出荷されるものもあれば、別の区画へ運ばれるものもある。

 

「あっちは売らないニャ?」

 

「備蓄よ」

 

 案内された場所には、封をした箱が順序よく収められていた。

 

 入れた日と種類が分かるよう、札が正面へ向いている。

 

「全部売った方がお金になるニャ」

 

「冬に薬草が足りなくなったら?」

 

「困るニャ」

 

「病が広がったら?」

 

「もっと困るニャ」

 

「道が塞がって、外から何も届かなくなったら?」

 

「ここにあるのを使うニャ」

 

「そのために残しているの」

 

 セルマは一番手前の箱の札を確かめた。

 

「売れる時に全部売るのは簡単よ」

 

「必要な時に薬がない方が怖いわ」

 

 レイニャは箱の列を見た。

 

 病が広がるのを待って薬草を隠した男の話を思い出す。

 

 目の前の箱は、そんな時に値をつり上げるためのものではない。

 

 病や雪で薬が足りなくなった時、迷わず開けるための箱だった。

 

 出荷を待つ場所には、行き先ごとに分けた箱が並んでいた。

 

 レイニャは一枚の札を見て、尻尾を立てる。

 

「レヴァニアニャ」

 

「読めるのね」

 

「来週、そこへ行くニャ」

 

「あなたも?」

 

「リュシアさんの買い付けについていくニャ」

 

「バルタザールがいるリヴェルナとは別ね」

 

「あっちはセレヴィアの王都ニャ」

 

「来週行くのは、南のレヴァニアニャ」

 

「名前を聞き間違えたら大変ね」

 

「旅人は行き先を間違えないニャ」

 

「レヴァニアの薬は見たことあるニャ?」

 

「売る側の報告ならあるわ」

 

「向こうの薬師や治療師が、実際にどう使っているかまでは見ていないわね」

 

「じゃあ、あたしが見てくるニャ」

 

「調べてこいとは言わないわよ」

 

「旅の途中で見るだけニャ」

 

「気になったことがあれば、帰ってから教えて」

 

「覚えてたら教えるニャ」

 

「そのくらいでいいわ」

 

 レイニャは素直に頷いた。

 

 知らない土地で薬屋を覗くのは、白魔道士だったころからの癖である。

 

 今度は、棚に並ぶ薬だけでなく、その薬がどこから来たのかも考えるかもしれない。

 

 それだけで、旅先の見え方は少し変わりそうだった。

 

 見学を続けているうちに、工房へ差す光が弱くなっていた。

 

 弟子たちは調合を終え、使った器具を洗っている。

 

 薬草を元の場所へ戻し、今日使った量を記録する者もいた。

 

 栽培槽では、水の流れと葉の状態を最後に確かめている。

 

 出荷する箱の蓋が閉じられ、札がもう一度読み上げられた。

 

「もう終わりニャ?」

 

「今日の調合はね」

 

「片づけと記録が終わるまでが仕事よ」

 

 レイニャは窓の外を見た。

 

 昼過ぎに来たはずなのに、空はもう橙色へ変わっている。

 

「長くいたニャ」

 

「質問が終わらなかったもの」

 

「セルマもいっぱい見せたニャ」

 

「途中から、見せた方が早いと思ったのよ」

 

 

 

 最後の確認を終えたセルマは、廊下の窓辺で足を止めた。

 

 レイニャも隣へ並ぶ。

 

 窓の向こうには、領都の屋根が重なっている。

 

 その先に畑が広がり、細い街道が夕日に照らされていた。

 

 遠くの地形は橙色の靄に溶けている。

 

 レイニャは旅の途中で、数え切れないほど夕焼けを見てきた。

 

 海へ沈む夕日も、山の向こうへ消える光も知っている。

 

 それでも、この窓から見るのは初めてだった。

 

 朝には名前しか知らなかった建物の中で、今も弟子たちが最後の記録を書いている。

 

 白い光の下では治癒草が育ち、この建物には冬のための薬が残されている。

 

 屋根の向こうには、今朝食事をした孤児院がある。

 

 道を曲がれば家具工房があり、その先には共同商館がある。

 

 来たばかりの町なのに、昨日より知っている屋根が増えていた。

 

「何を見ているの?」

 

「知ってる場所を探してたニャ」

 

「見つかった?」

 

「いっぱいあったニャ」

 

 セルマも窓の外を見た。

 

「旅人は、景色の見方が違うのね」

 

「最初は全部知らない景色ニャ」

 

「歩くと、少しずつ知ってる場所になるニャ」

 

「この工房も?」

 

「もう知ってるニャ」

 

「大きすぎる薬の工房ニャ」

 

「それだけ?」

 

「薬を作れる人を作ってる工房ニャ」

 

 セルマは一度だけ瞬きをして、それから小さく笑った。

 

「今日見たことも歌にするの?」

 

「薬草を量る歌は難しいニャ」

 

「用量を間違える歌はやめなさい」

 

「そこはセルマが確認するニャ」

 

「歌まで品質管理させる気?」

 

「薬の歌ニャ」

 

「なおさら嫌よ」

 

 橙色の光が、並んだ二人の影を廊下へ長く伸ばしていた。

 

 

 

 工房を出るころには、空の端が薄紫へ変わり始めていた。

 

「私は共同商館へ寄るけれど、あなたはどうするの?」

 

「ついていくニャ」

 

「即答ね」

 

「お腹減ったニャ」

 

 二人で夕方の領都を歩く。

 

 店先の灯りが一つずつ点き、仕事を終えた人たちが家路へ向かっていた。

 

 セルマが、レイニャの腕に残った厚手の布を見る。

 

「それ、工房へ来た時から持っていたわね」

 

「今日買ったニャ」

 

「《収納》を覚えたのでしょう?」

 

「買い物を入れすぎたから、これは外に出したニャ」

 

「覚えたその日に?」

 

「《収納》が小さいニャ」

 

「買いすぎを治す薬はないわよ」

 

「セルマでも作れないニャ?」

 

「作らないわ」

 

 昼間より冷え始めた風の中を、レイニャの笑い声が先へ走った。

 

 

 

 共同商館の地下へ下りると、リュシアが二人を見つけて眉を上げた。

 

「珍しい組み合わせだね」

 

「午後ずっと工房を見てたニャ」

 

「ずっと?」

 

「この子、見物に来たはずなのに、弟子より質問が多いのよ」

 

「薬は気になるニャ」

 

「元白魔道士だったね」

 

 リュシアは空いている席を顎で示した。

 

「話は食べながらにしな」

 

「待ってたニャ〜」

 

 レイニャは厚手の布を椅子の背へ掛け、席へ着いた。

 

 運ばれてきた温かい煮込みへ、まず鼻を近づける。

 

 薬草の匂いに囲まれていたせいか、食事の香りがいつも以上に強く感じられた。

 

「美味しいニャ」

 

「まだ口へ入れてないだろ」

 

「匂いでも分かるニャ」

 

「食べてから言いな」

 

 リュシアに返され、レイニャは素直に匙を取った。

 

 午後に見た薬の話は、セルマが必要なところだけ話した。

 

 レイニャは説明を任せ、煮込みとパンへ集中する。

 

 食べ終わるころには、店内の席もかなり埋まっていた。

 

 昼に歌を聞いた客が、レイニャへ気づく。

 

 一人がこちらを見て、次にレイニャの背中を見た。

 

「今日はハープを持ってないのか?」

 

 近くの客まで会話を止める。

 

 レイニャも、自分の空いた背中へ手を回した。

 

「あるニャ」

 

「どこに?」

 

「ここニャ〜」

 

 淡い靄が腕の中へ集まり、使い慣れたハープが現れた。

 

 客席から声が上がる。

 

 セルマが、空になった皿とハープを交互に見た。

 

「今、食べ終わったばかりでしょう」

 

「歌う分は別腹ニャ」

 

「そんなわけあるかい」

 

 リュシアが即座に返した。

 

 レイニャは椅子から立ち、ハープを抱え直した。

 

「今日は薬の工房を見てきた歌ニャ〜」

 

「もう歌にしたの?」

 

「薬草を量るところから始めるニャ」

 

「用量だけは間違えないで」

 

 セルマの声に笑いが起こり、レイニャの指が最初の弦を弾いた。

 

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総合評価:7030/評価:8.5/連載:218話/更新日時:2026年09月30日(水) 07:12 小説情報

ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→(作者:ぱちぱち)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

タイトル変更しました▼【旧題:最安10円レンタルチート ブラック労働で過労死数歩前だった俺の心の癒しだった動画アプリがマジモンの神アプリだった 】▼山里一也は金がない。時間も無ければ彼女もない。健康診断結果も20代とは思えない。▼唯一の娯楽は通勤退勤時にスマホのアニメ視聴。このまま会社の社畜として緩やかに死に向かって進んでいくだけだった一也の人生は主人公をレ…


総合評価:5007/評価:8.55/連載:157話/更新日時:2026年09月30日(水) 07:05 小説情報


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