押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第375話 雷は歌になるニャ

 

 翌朝、レイニャは朝食を済ませると、押入商会侯爵領事業所へ顔を出した。

 

 昨日の午後を新セルマ工房で過ごし、夜は共同商館で歌っている。

 

 さすがに今朝は遅くまで寝ているだろうと澪は思っていたのだが、猫耳は朝から元気に立っていた。

 

「おはようニャ〜」

 

「おはようございます」

 

「早いですね」

 

「旅人は朝が早いニャ」

 

 レイニャはそう言いながら、空いている椅子へ腰を下ろした。

 

 背中にハープはなく、旅鞄もない。

 

 昨日覚えた《収納》を、もう普通に使っているらしい。

 

「今日は何をしに来たんですか?」

 

 理央が尋ねると、レイニャは首を傾げた。

 

「遊びに来たニャ」

 

「仕事場ですよ、ここ」

 

「昨日も皆いたニャ」

 

「昨日は仕事中でした」

 

「今日もいるニャ」

 

「今日も仕事中です」

 

 理央が困った顔で澪を見る。

 

 澪にも、追い返すほどの理由はなかった。

 

 出発は来週である。

 

 それまで領都を見て回ると言っていたし、仕事の邪魔をしないなら好きにしてもらって構わない。

 

「見ているだけなら大丈夫ですよ」

 

「分かったニャ」

 

 返事だけは素直だった。

 

 レイニャは机の端に置かれていた端材を手に取り、指先で軽く叩き始める。

 

 一定の拍子が、小さく机へ響いた。

 

「昨日の歌の続きですか?」

 

「薬草を量るところが、まだ上手く歌にならないニャ」

 

「本当に作ってるんですね」

 

「見たものは歌になるニャ」

 

 昨夜もかなり歌っていた。

 

 念のため、澪はレイニャへ《鑑定》を向けた。

 

 現在ジョブは吟遊詩人Lv3のままである。

 

 《地図》5、《聞き耳》6、《野営》6。

 

 長く一人旅を続けてきただけあって、危険を見つけ、避け、夜を越える技能は高い。

 

 前職で身につけた《白魔法》8、《治癒》8、《解毒》7、《浄化》6も残っている。

 

 怪我や毒に見舞われても、自分や同行者を助けられる。

 

 《収納》も2まで上がり、旅の荷物はかなり軽くなった。

 

 澪は、その先まで表示を追った。

 

 そして、もう一度上へ戻った。

 

 剣術はない。

 

 弓もない。

 

 攻撃に使える魔法も、相手の攻撃を防ぐ技能も見当たらなかった。

 

 澪は瞬きをして、表示を最初から見直した。

 

 やはりない。

 

「澪さん?」

 

 理央が、手元の帳票から顔を上げた。

 

 澪はレイニャへ聞こえないよう、理央を少し離れた場所へ招いた。

 

「あの子、あのステータスで一人旅をしてるんですよね」

 

「そうですね」

 

「戦う技能が、一つもないんです」

 

 理央はレイニャを見る。

 

 本人は端材を叩きながら、薬草を量る場面に合う拍子を探していた。

 

「でも、《地図》と《聞き耳》が高いんですよね?」

 

「はい」

 

「だから、今まで無事だったんじゃないですか」

 

 人の噂を聞く。

 

 危ない道を避ける。

 

 野営する場所を選ぶ。

 

 夜の物音へ誰より早く気づく。

 

 戦わずに済むよう動くことも、旅人の立派な身の守り方である。

 

「それは分かるんですけど……」

 

 澪の頭には、アルヴェラへ向かった時の光景が浮かんでいた。

 

 街道で馬車を襲っていた武装集団。

 

 その先の廃銀山で、連れ去られた人々を閉じ込めていた者たち。

 

 捕らえた人間を、引き取り手が来るまで置いていたという供述。

 

 あの一帯を、レイニャが一人で通っていた可能性もある。

 

 荷物を奪われるだけで済むとは限らなかった。

 

「アルヴェラの辺りで、人を捕まえていた連中がいたでしょう」

 

「廃銀山の……」

 

 理央の表情から、わずかに明るさが消えた。

 

「もし、ああいう人たちに囲まれてたら危なかったなって」

 

「そうですね……」

 

 レイニャは、目立つ猫耳と尻尾を隠さず一人で旅をしている。

 

 それだけで、悪意のある者の目を引くことはある。

 

「二人とも」

 

 いつから聞いていたのか、真壁が書類から目を上げた。

 

「それではいけないな」

 

「避けるだけじゃ駄目ですか?」

 

「避ける判断は正しい」

 

 真壁は椅子から立ち、レイニャへ視線を向けた。

 

「戦わずに済むなら、その方がよい」

 

「では、何がいけないんです?」

 

「相手が盗賊だけではないことだ」

 

 この世界には魔物がいる。

 

 金を渡しても見逃さない。

 

 事情を話しても待たない。

 

 野営中に近づき、気づいた時には逃げ道を塞いでいることもある。

 

「危険を先に見つける力はある」

 

 真壁はレイニャの《地図》や《聞き耳》を否定しなかった。

 

「だが、常に逃げ道が残るとは限らん」

 

「最低限、追手を止める術はあった方がよいだろう」

 

「倒すためではなく、逃げるためですか」

 

「その通りだ、理央君」

 

 話を聞いていたレイニャの耳が、二人の方へ向いた。

 

「あたしの話をしてるニャ?」

 

「聞こえてました?」

 

「《聞き耳》6ニャ」

 

「そうでした」

 

 小声にした意味が、きれいになくなった。

 

 澪は少し恥ずかしくなりながら、レイニャの前へ戻った。

 

「勝手に話を進めて、すみません」

 

「心配してたニャ?」

 

「はい」

 

「あたしは、危ないところには行かないニャ」

 

「それで長く旅を続けてきたことは分かっています」

 

「でも、魔物に道を塞がれた時のために、逃げる手段を増やしませんか?」

 

 レイニャは、机を叩いていた指を止めた。

 

「戦士になる話ニャ?」

 

「いや」

 

 答えたのは真壁だった。

 

「君は吟遊詩人だ」

 

「それを変える必要はない」

 

「逃げるための一手だけ増やす」

 

 レイニャは少し考えた。

 

 その間、真壁は急かさなかった。

 

「旅を続けるためなら、覚えたいニャ」

 

「では、《重力》と《雷》あたりですか?」

 

 理央がすぐに候補を出した。

 

「《重力》なら、相手を重くして動きを止められます」

 

「《雷》なら、近づいてきた魔物を退けられます」

 

「悪くない」

 

 真壁がわずかに口元を上げた。

 

 澪は、その顔に覚えがあった。

 

 何かを思いついた時の顔である。

 

「では、澪君開発の、あのやり方だな」

 

「……はい?」

 

 真壁が片手を上げる。

 

 靄の中から、黒い箱が現れた。

 

 机へ置かれたそれを見て、理央の目が明るくなる。

 

「理央君」

 

「了解です」

 

 理央は黒い箱を受け取り、保管棚の方へ向かいかけた。

 

「ちょっと待ってください」

 

 二人が同時に澪を見る。

 

「何で、それだけで通じるんですか?」

 

「以前にも行っているからだが」

 

「そうですけど」

 

「雷の授業をして、雷箱を使って、池へ行くんですよね?」

 

「手順をよく覚えているではないか」

 

「私がやったからです」

 

「ゆえに、澪君開発の育成法だ」

 

「育成法として残した覚えはありません」

 

 理央が、黒い箱を抱えたまま笑いを堪えている。

 

「理央さんも笑わないでください」

 

「笑ってません」

 

「顔が笑ってます」

 

「何が始まるニャ?」

 

 レイニャが黒い箱へ近づこうとする。

 

 澪はすぐ、その前へ立った。

 

「まず勉強です」

 

「戦う話だったのに、授業になったニャ」

 

「理解しないまま使う方が危ないんです」

 

「まさか、いきなり池へ行くつもりではないだろうね、澪君」

 

「行きません」

 

 真壁に先回りされ、澪はますます複雑な気分になった。

 

 自分が昔、試行錯誤で始めた方法を、なぜ真壁の方が正式な手順らしく扱っているのだろう。

 

 

 

 澪は、ゲンダイで用意していた子ども向けの科学絵本を机へ広げた。

 

 雷や電気を、大きな絵で説明する本である。

 

 書かれている文字は日本語なので、レイニャには読めない。

 

 今日は絵だけを使い、言葉は澪が補う。

 

 必要な名前は、別の紙へ異世界文字で書き足した。

 

「これが、雲です」

 

「それは知ってるニャ」

 

「雲の中には、小さな水の粒や氷の粒がたくさんあります」

 

 澪は、雲の中を拡大した絵を指した。

 

 白い粒と青い粒が、風に巻き上げられて動いている。

 

「空の上なのに、水があるニャ?」

 

「見えにくいくらい小さい粒です」

 

「冷えると氷にもなります」

 

「雲の中は、静かじゃないニャ?」

 

「雷ができるような大きな雲の中では、かなり激しく動きます」

 

 水や氷の粒が上へ押し上げられ、また落ち、ぶつかり合う。

 

 その様子を、澪は指で絵の上へなぞった。

 

「ぶつかると、雷になるニャ?」

 

「すぐにはなりません」

 

「ぶつかるうちに、見えない電気が同じ場所へ片寄っていきます」

 

「電気は見えないニャ?」

 

「普段は見えません」

 

「でも、たまっていくニャ?」

 

「はい」

 

 澪は次のページを開いた。

 

 雲の上と下で、電気の片寄りが違う様子が描かれている。

 

「電気がたまりすぎると、そのままではいられなくなります」

 

「逃げたくなるニャ」

 

「そう考えてもいいです」

 

「通れる道ができた瞬間、一気に流れます」

 

 指を、雲から地面へ動かす。

 

「それが、大きな雷です」

 

 レイニャは絵本へ顔を寄せた。

 

 猫耳が、さっきから澪の説明に合わせて小さく動いている。

 

「空が光ってから、音が来るのは何でニャ?」

 

「光の方が、音よりずっと速いからです」

 

「同じ雷なのに、届く速さが違うニャ?」

 

「はい」

 

「遠いほど、音が遅れて来ます」

 

「あれは、雷が迷ってるわけじゃなかったニャ」

 

「迷ってはいません」

 

 レイニャは真剣に頷いた。

 

 次のページへ進むかと思ったところで、その指が前の絵へ戻った。

 

 雲。

 

 水の粒。

 

 氷の粒。

 

 見えない電気。

 

 レイニャは順番に指し、机を指先で軽く叩き始めた。

 

「これ、歌にした方が覚えやすいニャ」

 

「歌ですか?」

 

「雲の家で、水の子が走るニャ」

 

 とん、とん、と指が拍子を刻む。

 

「氷の子にぶつかって、電気の子が増えるニャ」

 

「そこは、少し違います」

 

 澪が止めると、レイニャの指も止まった。

 

「増えるんじゃないニャ?」

 

「増えるというより、片寄って集まります」

 

「最初からいるけど、皆で同じところへ行くニャ?」

 

「今日は、その理解で大丈夫です」

 

 レイニャは、今の節を最初からやり直した。

 

 水の子と氷の子が、雲の中を走る。

 

 ぶつかるたび、見えない電気の子が片側へ集まる。

 

 いっぱいになっても、まだ出口はない。

 

「それで、道ができるニャ」

 

「はい」

 

「見つけた道を、一気に走るニャ」

 

「そうです」

 

 レイニャの指が机を強く叩いた。

 

「空が光って、遅れて音が追いかけるニャ」

 

 今度は、澪も止めなかった。

 

 長い歌詞にはなっていない。

 

 まだ、説明を短い言葉へ置き換えている途中である。

 

 それでも、最初に口にした時より順番が整っていた。

 

「雷は、光った時に急に生まれるわけじゃないニャ?」

 

「はい」

 

「見えない間に、電気がたまってるニャ」

 

「その通りです」

 

「たまった電気が、通れる道を見つけて走るニャ」

 

「大まかには、それで合っています」

 

 レイニャは説明を丸ごと覚えているわけではない。

 

 歌へ入れるために、何が先で、何が後なのかを自分で確かめている。

 

 順番がつながらなければ、歌の中でも話がつながらない。

 

 質問するたび、レイニャの言葉は少しずつ正確になっていた。

 

「それ、もう吟遊詩人の仕事ですね」

 

 理央が、隣で聞きながら言った。

 

「仕事ニャ?」

 

「知ったことを、ほかの人にも分かる形へ変えてるじゃないですか」

 

 澪も、そこで気づいた。

 

 《語り》で順番を整える。

 

 《歌唱》で覚えやすい言葉にする。

 

 《演奏》で人に聞いてもらう。

 

 レイニャが今していることは、確かに吟遊詩人の仕事だった。

 

「これ、子どもにも歌えるニャ」

 

 レイニャの耳が、ぴんと立つ。

 

「文字が読めなくても、歌なら覚えられるニャ」

 

「孤児院で歌うんですか?」

 

「ちゃんとできたら歌うニャ」

 

「でも、雷を出す歌だって思われません?」

 

「雷がどうして落ちるか分かる歌ニャ」

 

「そこは最初に言った方がいいですね」

 

「歌う前の《語り》で言うニャ」

 

 すでに演目の形まで考え始めている。

 

 澪は、雷の授業をしているはずだった。

 

 いつの間にか、新しい歌の相談になっていた。

 

 けれど、脱線しているとは思わなかった。

 

 レイニャは、歌にすることで雷を理解している。

 

 しかも、その理解は次の誰かへ渡せる形になり始めていた。

 

 

 

 澪は絵本を閉じず、その横へ小さく切った紙を置いた。

 

 次に、プラスチックの定規と乾いた布を出す。

 

「今度は何するニャ?」

 

「小さい電気を見ます」

 

「見えないって言ったニャ」

 

「電気そのものではなく、起きることを見ます」

 

 澪は定規を布で何度かこすり、細かな紙片へ近づけた。

 

 紙片がふわりと持ち上がる。

 

 いくつかは定規へ貼りついた。

 

「魔法ニャ?」

 

「使ってません」

 

 レイニャは定規と紙を交互に《鑑定》した。

 

 不思議そうに眉を寄せる。

 

「魔力は出てないニャ」

 

「これも電気です」

 

「雷より小さすぎるニャ」

 

「大きさは全然違います」

 

「でも、電気が片寄って、紙を引っぱっています」

 

 レイニャも布と定規を受け取った。

 

 澪がしたようにこすり、紙片へ近づける。

 

 最初は何も起きない。

 

「力が足りないニャ?」

 

「力より、布と定規をきちんと触れさせてください」

 

 もう一度こすると、今度は紙片が一つだけ立ち上がった。

 

「動いたニャ!」

 

「はい」

 

「歌も魔法も使ってないニャ」

 

「電気は、魔法がなくてもあります」

 

 レイニャはもう一度、紙片を持ち上げた。

 

 巨大な雲の中で起きることと、机の上の小さな紙が動くこと。

 

 見た目はまるで違う。

 

 それでも、どちらにも見えない電気が関わっている。

 

 レイニャは短い拍子を口の中で繰り返し、歌の途中へ何かを足した。

 

「小さい電気は、静かニャ」

 

「全部が雷みたいな音を出すわけではありませんから」

 

「見えなくても、ちゃんと働いてるニャ」

 

 その言葉を聞いて、真壁が黒い箱を机の中央へ戻した。

 

「では、次はこれだな」

 

「雷箱ニャ?」

 

「正式にはバッテリーです」

 

 澪は、以前の授業でも使った説明を繰り返した。

 

「この中へ、空の雷がそのまま入っているわけではありません」

 

「違うニャ?」

 

「電気をためて、必要な時に流せるようにした道具です」

 

 レイニャは絵本の雲と、黒いバッテリーを見比べた。

 

「雲の小さい版ニャ?」

 

 澪は答える前に少し悩んだ。

 

「ものすごく大ざっぱに言えば、今日はそれでいいです」

 

「明日は駄目ニャ?」

 

「もっと詳しく知りたくなったら、違いも説明します」

 

「今日は雲の小さい版で覚えるニャ」

 

 理央が横で笑った。

 

「澪さん、小学生へ教えるより大変そうです」

 

「理央さんも説明する側ですよ」

 

「えっ」

 

「《雷》6ですよね」

 

「そうでした」

 

 理央は急に笑う側ではなくなった。

 

 真壁だけが、変わらない顔で二人を見ていた。

 

「理解は進んだようだな」

 

「まだ実物を動かす前の説明です」

 

「ならば、安全の話へ進もう」

 

 その一言で、澪も表情を改めた。

 

 理央が靄から、バッテリーと、導線の先に金属棒がついた道具を取り出す。

 

 水辺で使う時は、その一式を《雷箱》と呼んでいた。

 

 続いて、ゴム手袋とゴム長靴を並べた。

 

 説明に使った黒いバッテリーだけとは違う。

 

 水辺で訓練するため、一式にまとめられた道具である。

 

「ここからは、冗談なしです」

 

「分かったニャ」

 

 レイニャの返事から、さっきまでの軽さが消えた。

 

「電気は便利ですが、間違えれば人も死にます」

 

「特に、水の近くでは危険です」

 

 澪は手袋を持ち上げた。

 

「これは電気を通しにくくするための物です」

 

「つければ絶対に安全、ではありません」

 

「破れていないか、自分で確かめます」

 

 次に長靴を示す。

 

「足元も同じです」

 

「濡れていたり、傷んでいたりしたら使いません」

 

 レイニャは一つずつ手に取り、表と裏を確かめた。

 

「旅の道具と同じニャ」

 

「どういう意味です?」

 

「雨具も、穴が開いてたら雨具じゃないニャ」

 

「使う前に見るニャ」

 

「そういうことです」

 

 澪は《雷箱》の操作用スイッチを指した。

 

「触っていい場所は、ここだけです」

 

「私たちが合図するまで触りません」

 

「電気を流したら、止めます」

 

「止めたことを確認するまで、水へ近づきません」

 

「魚が浮いても、すぐ取りに行かないニャ」

 

「はい」

 

「自分では分からないことがあったら?」

 

「分かった顔で触らないニャ」

 

 レイニャは即答した。

 

「聞くニャ」

 

 長い旅を続けてきた者の答えだった。

 

 戦う技能はなくても、危険へ近づく時の考え方は身についている。

 

「手順を言ってみてください」

 

「道具を先に確かめるニャ」

 

「合図を待つニャ」

 

「触っていいところだけ触るニャ」

 

「電気を流して、止めるニャ」

 

「止まったのを皆で確かめるまで、水へ近づかないニャ」

 

「大丈夫です」

 

 澪が頷くと、レイニャは小さく息を吐いた。

 

「歌にしないのかね」

 

 真壁が尋ねる。

 

「これは歌にしないニャ」

 

「なぜだね?」

 

「楽しくなって、先に手が動いたら危ないニャ」

 

 真壁は満足そうに、ほんの少しだけ頷いた。

 

「よい判断だ」

 

 澪も同じ気持ちだった。

 

 歌へ変えることと、軽く扱うことは違う。

 

 レイニャは、その境目をきちんと分かっている。

 

 真壁が《雷箱》を持ち上げた。

 

「では、実習といこうか」

 

「やっぱり実習があるニャ……」

 

「池ですね」

 

 理央が嬉しそうに言った。

 

「どうして、そんなに楽しそうなんですか」

 

「前に上手くいったからです」

 

「前に進みすぎたんです」

 

 レイニャは、真壁の《雷箱》と理央の顔を交互に見た。

 

「押入商会の授業は、いつも池へ行くニャ?」

 

「いつもではありません」

 

「今回で2度目だな」

 

「数えなくていいです」

 

 

 

 一行が向かったのは、以前、理央の訓練にも使った灌漑用の管理池だった。

 

 4月の日差しを受けた水面が、風に細かく揺れている。

 

 岸辺には新しい草が伸び始め、冬には枯れていた水路脇にも薄い緑が戻っていた。

 

「ここ、来たことがあるんです」

 

 理央が池を見渡した。

 

「理央も魚を獲ったニャ?」

 

「獲りました」

 

「雷で?」

 

「雷で」

 

 レイニャの目が、理央から澪へ動いた。

 

「本当に、雷を覚える池ニャ」

 

「池が覚えさせるわけではありません」

 

「でも、理央もここで覚えたニャ?」

 

「私は、その前から持ってました」

 

「では、何を覚えたニャ?」

 

 理央が返事に詰まる。

 

 あの日、この池で使ったのは《地図》、《鑑定》、《雷》、《重力》、《収納》だった。

 

 その結果、作家見習いのレベルと《共鳴》が上がり、のちには漁師まで転職候補へ現れた。

 

「……いろいろです」

 

「説明を諦めたニャ」

 

 澪は二人の会話を聞きながら、レイニャへ向き直った。

 

「レイニャさん、《地図》で池の中を見てください」

 

「魚も見えるニャ?」

 

「名前までは分からなくても、動いている位置は拾えるはずです」

 

 レイニャが池へ意識を広げる。

 

 すぐには何も言わなかった。

 

 水面と、自分の《地図》を何度か見比べる。

 

「小さいのが、いっぱい動いてるニャ」

 

 レイニャの指が、岸から離れた場所を追った。

 

「あっちは集まってるニャ」

 

 その指が、少し右へ動く。

 

「でも、こっちに大きいのがいるニャ」

 

 細かな反応の群れとは別に、ゆっくり動く大きな反応があるらしい。

 

 澪と理央も《世界地図》で確かめた。

 

 数は以前ほど多くないが、駆除対象を選んで訓練するには足りている。

 

 大きな反応が水面近くへ上がると、黒い魚影が見えた。

 

 レイニャがすぐに《鑑定》を向ける。

 

「ビッグバスって出たニャ」

 

 以前に駆除したものと同じく、小魚や水草を食い荒らす大型魚である。

 

「あれだけを対象にします」

 

 澪が言うと、レイニャも水面へ目を凝らした。

 

「ほかの魚は獲らないニャ?」

 

「はい」

 

「訓練のために、何でも浮かせるわけではありません」

 

 レイニャが、すぐに頷く。

 

 旅の途中で食べ物を得ることには慣れていても、必要のない命まで取るつもりはないらしい。

 

「浮かせた魚は、食べるニャ?」

 

「食材に回せるものは、全部回します」

 

「それなら分かったニャ」

 

 真壁が池から少し離れた乾いた場所へ《雷箱》のバッテリーを置いた。

 

 その横で、理央が胸元のブローチを外した。

 

 紫色の石を銀線で留めた、理央がいつも身につけている物である。

 

「レイニャさん、今日はこれを貸します」

 

「大事な物じゃないのかニャ?」

 

「大事な物ですから、終わったら返してください」

 

「そこは絶対返すニャ」

 

 レイニャが両手で受け取る。

 

「何のブローチニャ?」

 

「成長促進の加護があります」

 

 澪が補足した。

 

「身につけている間、経験を得る効率が3倍になります」

 

「3倍ニャ!?」

 

 レイニャが落としそうになり、慌てて握り直した。

 

「大事な物を驚かせないでほしいニャ」

 

「驚いたのはレイニャさんです」

 

 理央が苦笑しながら、ブローチを上着へ留めるのを手伝った。

 

「私がここで訓練した時も、それをつけていました」

 

「理央は、どれくらい上がったニャ?」

 

「魚を10匹捕まえて、作家見習いLv5からLv10です」

 

「魚を捕まえて、作家が5も上がったニャ?」

 

「私も今でも少しおかしいと思っています」

 

「ただし、見習いジョブだったから上がりやすかった可能性はあります」

 

 澪は、そこだけは念を押した。

 

「吟遊詩人でも同じだけ上がるとは限りません」

 

「上がるまで魚を捕まえ続けるニャ?」

 

「必要なところまでです」

 

「10匹が目標ではありません」

 

 理央はスイッチが切れていることを確かめ、バッテリーから導線でつながった金属棒を池の所定位置へ入れた。

 

 操作するのは、乾いた岸に置かれたスイッチだけである。

 

 先ほどまで嬉しそうだった顔は、もう仕事をする時のものへ変わっていた。

 

「レイニャさん、手袋と長靴をもう一度確認してください」

 

「破れてないニャ」

 

「内側は?」

 

「濡れてないニャ」

 

「足元は滑りませんか?」

 

 レイニャはその場で片足ずつ動かし、土の感触を確かめた。

 

「大丈夫ニャ」

 

「では、立つ場所はここです」

 

 理央が地面へ置いた印を示す。

 

「合図があるまで?」

 

「触らないニャ」

 

「終わったら?」

 

「止まったのを確認して、それから魚を回収するニャ」

 

 澪は、レイニャの尻尾まで印の内側に収まっていることを確かめた。

 

 本人が立つ場所を守っていても、長い尻尾だけが余計なところへ触れては困る。

 

「尻尾も気をつけてくださいね」

 

「尻尾まで授業を受けるニャ?」

 

「レイニャさんの尻尾ですから」

 

 レイニャは尻尾を前へ回し、腹の前で両腕に抱えた。

 

「これなら一緒に聞けるニャ」

 

「そのまま動かさないでください」

 

「厳しいニャ」

 

「水辺の電気ですから」

 

 返した澪の声に笑いがないと分かると、レイニャも口を閉じた。

 

 レイニャが最初の対象を《地図》で追う。

 

 ビッグバスの反応が、ほかの魚から離れて岸寄りへ動いた。

 

 理央も《世界地図》で位置を確かめる。

 

「来ます」

 

 水面のすぐ下に、黒い魚影が見えた。

 

 澪は全員の位置を見回してから、レイニャへ合図を出した。

 

 レイニャが、教わったスイッチへ手を添える。

 

 合図に合わせてスイッチを入れると、バッテリーの電気が導線と金属棒を通って水中へ流れた。

 

 水面がびくりと震える。

 

 黒い魚影の進む向きが乱れ、大きな魚体が横向きに浮かび上がった。

 

「止めてください」

 

 レイニャがすぐにスイッチを切る。

 

 理央が停止を確認するまで、誰も岸へ近づかなかった。

 

「止まっています」

 

「回収します」

 

 網で岸へ寄せた魚を、レイニャが《鑑定》する。

 

「生きてるニャ」

 

「状態は分かりますか?」

 

「麻痺して、動けなくなってるニャ」

 

「そのとおりです」

 

 理央が魚を置くための板と、締めるための道具を用意した。

 

「食材にするなら、ここからもレイニャさんの仕事です」

 

「あたしが締めるニャ?」

 

「はい」

 

「捕まえるところだけでは、経験になりにくいんです」

 

 理央は、魚を苦しませないための手順を短く教えた。

 

 レイニャは道具を受け取り、一度だけ息を整えた。

 

 旅の途中で獲物を食べたことはある。

 

 自分で捕らえた命を、自分の手で食料にすることも初めてではない。

 

「ちゃんと食べるニャ」

 

 レイニャは目を逸らさず、教わったとおり手早く魚を締めた。

 

 もう一度《鑑定》し、生命活動が止まったことを確かめる。

 

 その魚は食材用として、レイニャ自身の《収納》へ入れた。

 

「今ので、最初から最後までです」

 

「探して、捕まえて、締めて、持って帰るニャ」

 

「はい」

 

「では、もう一度です」

 

「もう次ニャ?」

 

「成長促進は、見ているだけでは3倍になりません」

 

「急に世知辛い加護になったニャ」

 

 

 

 2匹目からは、レイニャが手順を声に出した。

 

 《地図》で探す。

 

 《鑑定》で対象を確かめる。

 

 道具と足元を確かめる。

 

 合図を待つ。

 

 流す。

 

 止める。

 

 停止を確認してから回収する。

 

 最後は、自分で締める。

 

 3匹目には、澪が言わなくても尻尾を前へ回した。

 

「尻尾、確認したニャ」

 

「そこも毎回言うんですか?」

 

「大事だって言ったニャ」

 

「言いましたけど」

 

 理央が吹き出しかけ、すぐに水面へ意識を戻した。

 

 冗談を言っても、合図の前にレイニャの手が動くことはなかった。

 

 魚が浮くたび、必ず停止を待つ。

 

 回収したあとは《鑑定》で状態を確かめる。

 

 麻痺している魚は、教わった手順で一匹ずつ締める。

 

 その繰り返しの中で、レイニャの口から小さな節が漏れ始めた。

 

 雲の中で、水と氷が動く。

 

 見えない電気が片寄って、出口を待つ。

 

 道ができれば、一気に走る。

 

 完成した歌ではない。

 

 同じ箇所を何度も変え、時々止まり、目の前の水面を見てまた直す。

 

「箱の中でも、電気は出口を待ってるニャ?」

 

「雲と同じではありませんが、必要な時に流せるよう、ためてあります」

 

「同じにしすぎたら駄目ニャ」

 

「はい」

 

 レイニャは歌いかけた節を一つ戻した。

 

 雲と箱を、同じ言葉にはしなかった。

 

 代わりに、どちらにも電気がたまり、通れる先があれば流れるというところだけを残す。

 

 次の通電を終え、レイニャがスイッチから手を離した直後、指先に今までとは違う感覚が残った。

 

「今、ぴりっとしたニャ」

 

 《雷箱》は、すでに止まっている。

 

 濡れた道具からも十分に離れていた。

 

 澪がレイニャへ《鑑定》を向ける。

 

 技能欄に、さっきまではなかった表示が増えていた。

 

 《雷》、芽あり。

 

「《雷》の芽が出ています」

 

「雷が生えたニャ!」

 

「まだ芽です」

 

「出せないニャ?」

 

「SPがないので、今は取得できません」

 

 レイニャが自分を《鑑定》する。

 

 現在ジョブは吟遊詩人Lv3のままで、未使用SPは0だった。

 

「芽はあるのに、育てられないニャ」

 

「ですから、続きをします」

 

 水面には、今の通電で麻痺した魚がまだ浮いている。

 

「芽を眺める前に、あの魚を締めてください」

 

「理央、急に現実へ戻すニャ」

 

「レイニャさんが捕まえた魚です」

 

 停止確認を終えると、レイニャは網で魚を回収した。

 

 《鑑定》で麻痺を確かめ、教わった手順で締め、食材用の《収納》へ入れる。

 

 理央が次の対象を探そうとすると、レイニャがその肩を掴んだ。

 

「先生が楽しそうすぎるニャ」

 

「気のせいです」

 

「目が池を見てるニャ」

 

「魚を探しているだけです」

 

 レイニャは疑わしそうな顔をしながらも、自分の《地図》へ意識を戻した。

 

 次も、その次も、雷を出したのは《雷箱》だった。

 

 レイニャは魚の場所と種類を確かめ、自分でスイッチを操作し、自分で締めた。

 

 そして、また一匹を食材用の《収納》へ入れた時、目の前に表示が重なった。

 

--------------------------------

 現在ジョブ:吟遊詩人Lv3

           ↓

           Lv4

--------------------------------

 

 そして、《鑑定》。

 

--------------------------------

 レイニャ

  種族:ケット・シー族

  性別:女

  現在ジョブ:吟遊詩人Lv4

  前職:白魔道士Lv9

  状態:正常

--------------------------------

 既得スキル

  地図:5

  演奏:5

  歌唱:4

  語り:5

  聞き耳:7

  野営:6

  交渉:4

  白魔法:8

  治癒:8

  解毒:7

  浄化:6

  鑑定:3

  収納:3

  雷:芽あり(+)

--------------------------------

 未使用SP

  1

--------------------------------

 

「SPが増えたニャ!」

 

「魚を締めるところまで繰り返した経験が入りましたね」

 

「魚を締めて、吟遊詩人が上がったニャ?」

 

 澪は答えに詰まった。

 

 雷の仕組みを学び、歌へ変え、《地図》と《鑑定》を使い、捕獲から食材にするところまで行った。

 

 一日のどこからどこまでが吟遊詩人の経験として数えられたのか、澪にも切り分けられない。

 

「今日ずっと、雷の歌を作っていましたから」

 

 理央が助け船を出した。

 

「最後にしてたのは魚締めニャ」

 

「歌い、理解し、実践した」

 

 真壁が池を見たまま答えた。

 

「吟遊詩人の経験として不足あるまい」

 

「吟遊詩人って、魚まで締める仕事だったニャ?」

 

「少なくとも、レイニャさんは締めました」

 

「あたしだけの仕事になってるニャ」

 

 レイニャは納得しきれない顔をしたが、すぐに《雷》へ視線を戻した。

 

「このSPを使えばいいニャ?」

 

「決めるのはレイニャさんです」

 

「今日の目的は、旅で逃げるための手を増やすことです」

 

 澪がそう言うと、レイニャは迷わなかった。

 

「《雷》に使うニャ」

 

 未使用SPを1使う。

 

 芽だった表示が変わった。

 

--------------------------------

 既得スキル

  雷:1

--------------------------------

 未使用SP

  0

--------------------------------

 

「今度こそ生えたニャ!」

 

「今度は芽ではありません」

 

 レイニャの耳と尻尾が同時に立った。

 

 理央は池から十分に離れた乾いた土の上へ、小さな目印を置いた。

 

「では、出して止める練習です」

 

「やっぱりすぐ次へ行くニャ……」

 

 最初は、指先が少し温かくなっただけだった。

 

 2度目には、短い光が出たものの、目印より手前で消えた。

 

 レイニャは焦らず、朝に作った節を低く口ずさむ。

 

 電気が片寄る。

 

 通れる道ができる。

 

 ためたものが、一気に走る。

 

 歌に合わせて、指先から細い光が伸びた。

 

 今度は目印まで届き、小さな音を立てて消える。

 

「できたニャ!」

 

「今の強さを覚えてください」

 

「強くすることより、止められることの方が大事です」

 

 理央の注意に、レイニャは頷いた。

 

 もう一度だけ出し、今度は自分の意思で短く切る。

 

「止められたニャ」

 

「では、池へ戻りましょう」

 

「休憩はどこへ行ったニャ?」

 

「雷を出す前に少し休みました」

 

「あれはSPを眺めてた時間ニャ」

 

 理央は答えず、池の方へ歩き出した。

 

 

 

 池へ戻ると、レイニャは自分の《地図》で次の反応を探した。

 

 大きな反応が単独で岸へ寄るまで待つ。

 

 魚影が見えたところで《鑑定》し、ビッグバスだと確かめる。

 

 近くに小さな魚の反応はない。

 

「来るニャ」

 

 レイニャが指先を水面へ向けた。

 

 《雷箱》は、すぐに使える状態のまま置かれている。

 

 しかし、スイッチへ手を置く者はいない。

 

 作りかけの歌を一節だけ口ずさむ。

 

 細い雷が水面へ走った。

 

 ビッグバスが大きく身を反らし、銀色の腹を見せて浮かび上がる。

 

「止めるニャ」

 

 レイニャは自分で《雷》を切った。

 

 停止を確認してから網で回収する。

 

 《鑑定》の表示は、麻痺して行動できないものの、まだ生きていると告げていた。

 

「今度は、あたしの雷で捕まえたニャ」

 

「はい」

 

「では、最後までお願いします」

 

 レイニャは頷き、魚を手早く締めた。

 

 生命活動が止まったことを自分で確かめてから、《収納》へ入れる。

 

 探すところから食材にするところまで、初めて自分の技能でやりきった一匹だった。

 

 それでも、訓練は一匹では終わらなかった。

 

 レイニャは《地図》で、ほかの魚から離れた反応を選ぶ。

 

 水面へ近づいた魚を《鑑定》し、対象でなければ見送る。

 

 ビッグバスだけを《雷》で麻痺させ、回収し、締める。

 

 同じ順番を崩さず、何度も繰り返した。

 

 成長促進の加護が、積み上げた経験を3倍の速さで技能へ結びつけていく。

 

 やがて、池の中を追っていた反応の輪郭が、それまでよりはっきりした。

 

 レイニャが自分へ《鑑定》を向ける。

 

 《地図》6。

 

「《地図》が上がったニャ」

 

「ずっと自分で魚を探していましたからね」

 

 次の魚を確かめた時には、状態の見え方も少し詳しくなった。

 

 《鑑定》4。

 

「こっちも上がったニャ」

 

「見るだけではなく、通電前と通電後、締めたあとまで確認しています」

 

「同じ魚を3回も見るからニャ」

 

「必要な確認です」

 

 さらに一匹を締めて《収納》へ入れたところで、ジョブの表示も変わった。

 

--------------------------------

 現在ジョブ:吟遊詩人Lv4

           ↓

           Lv5

--------------------------------

 

 《鑑定》。

 

--------------------------------

 レイニャ

  種族:ケット・シー族

  性別:女

  現在ジョブ:吟遊詩人Lv5

  前職:白魔道士Lv9

  状態:正常

--------------------------------

 既得スキル

  地図:6

  演奏:6

  歌唱:5

  語り:6

  聞き耳:7

  野営:6

  交渉:4

  白魔法:8

  治癒:8

  解毒:7

  浄化:6

  鑑定:4

  収納:4

  雷:2

--------------------------------

 未使用SP

  1

--------------------------------

 

「また上がったニャ……」

 

「理央さんほどではありませんね」

 

 澪が言うと、理央は真面目な顔で頷いた。

 

「私は見習いでしたから」

 

「その言い方だと、見習いの方が成長するみたいニャ」

 

「実際、必要な経験は少なかったのだろう」

 

 真壁が食材用の魚を見て、訓練を止めた。

 

「魚を追うのは、ここまででよい」

 

「次は《重力》です」

 

 理央が明るく言った。

 

「まだあるニャ!?」

 

 池の上を渡った鳥が、驚いたように飛び去った。

 

 

 

 訓練場所を、水辺から十分に離れた平らな草地へ移した。

 

 理央は収納から砂袋と、水を入れた桶を出す。

 

「まず、普通に持ってみてください」

 

 レイニャは砂袋の口を両手で掴み、持ち上げた。

 

「旅鞄より少し重いニャ」

 

「では、下ろしてください」

 

 理央が砂袋へ《重力》を使う。

 

「もう一度どうぞ」

 

 レイニャが同じつもりで持ち上げ、勢い余って袋を胸元まで引いた。

 

「軽いニャ!」

 

「重さを弱めました」

 

「中の砂が減ったニャ?」

 

「減ってません」

 

 レイニャは袋の口を開き、中を覗いた。

 

 先ほどと同じだけ砂が詰まっている。

 

「元へ戻します」

 

 理央が《重力》を解く。

 

 レイニャの腕が、急に下へ引かれた。

 

「戻す時は先に言ってほしいニャ!」

 

「今、言いました」

 

「言ってすぐだったニャ」

 

「では、次は3つ数えます」

 

 今度は、重くする方だった。

 

 理央が3つ数えたあと、レイニャは砂袋へ手をかける。

 

 さっきより力を込めても、ほとんど持ち上がらない。

 

「砂が増えたニャ?」

 

「増えてません」

 

「同じ袋なのに、ずるいニャ」

 

「重さに、ずるいも何もありません」

 

 理央は《重力》を戻し、次は水桶で同じ変化を見せた。

 

 水の量は変わらない。

 

 桶の形も変わらない。

 

 それでも、腕へかかる重さだけが変わる。

 

 レイニャは何度も持ち比べ、足の置き方まで変えて感触を確かめた。

 

「旅の荷物に使ったら便利ニャ」

 

「便利ですけど、今日の目的は護身です」

 

 理央が砂袋へ手を向けた。

 

「追ってくる人や魔物を、一時的に重くできます」

 

「足が動きにくくなるニャ?」

 

「はい」

 

「相手を倒しきれなくても、その間に離れられます」

 

「《地図》で逃げ道を探して、《重力》で追ってくる相手を遅くするニャ」

 

「そういう使い方です」

 

 レイニャは、すぐに自分の旅へ当てはめた。

 

 戦うための技能だと説明するより、ずっと理解が早い。

 

 理央が砂袋を軽くし、重くし、元へ戻す。

 

 レイニャはそのたび、手のひらへ伝わる変化へ意識を集中した。

 

 今度は、自分で砂袋へ手を向ける。

 

「重くするニャ」

 

 何も変わらない。

 

 もう一度試す。

 

 砂袋は動かなかったが、レイニャの耳がぴくりと揺れた。

 

「今、少しだけ違ったニャ」

 

「どんな感じでした?」

 

「持ち上げる前から、下へ引っぱられた気がしたニャ」

 

「その感覚を、もう一度追ってみてください」

 

 レイニャは、砂袋を追ってくる魔物へ置き換えた。

 

 倒す必要はない。

 

 一歩を遅くする。

 

 その間に、自分は逆の方向へ走る。

 

 砂袋の底が、草へわずかに沈んだ。

 

「今のニャ?」

 

「はい」

 

 澪が《鑑定》を向ける。

 

 技能欄に、新しい芽が現れていた。

 

--------------------------------

 重力:芽あり(+)

--------------------------------

 

「芽が出ています」

 

「また生えたニャ?」

 

「こちらは、まだ芽です」

 

 澪は、未使用SPも確かめた。

 

 魚の訓練を続け、吟遊詩人Lv5へ上がった時に得た、2つ目のSP1である。

 

「SPを1使えば、《重力》を覚えられます」

 

 レイニャは、すぐには返事をしなかった。

 

 砂袋を見る。

 

 次に、自分の手を見る。

 

 ジョブのレベルが上がって得たSPは、別の技能へ使うこともできる。

 

 ここで使わず、旅の途中まで残すこともできた。

 

 真壁も、理央も、決めろとは言わなかった。

 

 澪は、レイニャが考える時間を待った。

 

「これがあったら、戦わなくても逃げられるニャ?」

 

「必ず逃げられるとは言えません」

 

 真壁が答える。

 

「Lv1で止められる相手にも限りがある」

 

「だが、何もない時よりは選べる手が増える」

 

「強い魔物には効かないかもしれないニャ」

 

「その時は、今までどおり先に避けることだ」

 

「最初から戦いに行くための技能ではない」

 

 レイニャは、少しだけ笑った。

 

「それなら、あたしに合ってるニャ」

 

 もう一度、砂袋へ目を落とす。

 

「旅を続けるために使うニャ」

 

 レイニャが、自分の意思でSPを1使った。

 

 芽だった表示が変わる。

 

--------------------------------

 既得スキル

  重力:1

--------------------------------

 未使用SP

  0

--------------------------------

 

「取れたニャ」

 

「使ってみますか?」

 

 理央が聞いた。

 

 レイニャは一瞬だけ嫌そうな顔をしたあと、砂袋へ手を向ける。

 

「これで最後ニャ?」

 

「今日は」

 

「今、少し間があったニャ」

 

「今日は最後です」

 

 理央が言い直す。

 

 レイニャは砂袋へ意識を集中した。

 

 少し重くする。

 

 先ほどより、はっきりと袋の底が草へ沈んだ。

 

 自分で持ち上げようとして、腕へ力を入れる。

 

「重くなってるニャ」

 

「戻せますか?」

 

 レイニャが意識を解く。

 

 砂袋の重さが元へ戻った。

 

「戻ったニャ!」

 

 理央が嬉しそうに頷く。

 

「次は、動いている物へ――」

 

「今日はここまでです」

 

 澪は間に入った。

 

「まだ言い終わってません」

 

「言い終わる前に止めたんです」

 

「澪君の判断が妥当だな」

 

 真壁まで同意すると、理央は諦めて砂袋を収納した。

 

 レイニャが、心の底から息を吐く。

 

「押入商会へ遊びに来ただけだったニャ……」

 

「仕事場だと言いましたよね」

 

「遊びに来たら、雷と重力を覚えたニャ」

 

「普通は覚えません」

 

「ここでは覚えたニャ」

 

 反論できず、澪は口を閉じた。

 

 

 

 帰り支度を整える前に、澪はもう一度レイニャの技能を確かめた。

 

 レイニャは借りていたブローチを外し、両手で理央へ返した。

 

「ありがとニャ」

 

「落とさずに返ってきました」

 

「信用されてなかったニャ?」

 

「大事な物ですから」

 

「貸す時にも聞いたニャ」

 

 朝にはなかった《雷》2と《重力》1が並んでいる。

 

 スキルは朝からだいぶ上がったようだ。

 

 吟遊詩人Lv5。

 

 未使用SPは0。

 

 けれど、レイニャが戦士になったわけではない。

 

 危険を《地図》と《聞き耳》で先に見つけ、《野営》で安全な場所を選ぶ旅は、これまでと変わらない。

 

 そこへ、避けきれなかった相手の足を《重力》で止め、必要なら《雷》で退ける手段が加わった。

 

 逃げた先で怪我や毒に見舞われても、レイニャには元から高い《治癒》と《解毒》がある。

 

 今までの旅の仕方を変えるのではない。

 

 最後に足りなかった一手が加わっただけだった。

 

「これなら、少し安心できます」

 

 澪が言うと、レイニャは自分の指先を見た。

 

「澪は心配性ニャ」

 

「一人旅の人に言われたくありません」

 

「あたしは慎重ニャ」

 

「そこは知っています」

 

 レイニャが笑い、池の方へ顔を向けた。

 

 風が水面を渡り、耳の先の毛を揺らす。

 

「あ」

 

 レイニャは、途中になっていた雷の節を小さく歌い始めた。

 

 

   雲の中で、水と氷が動く。

 

   見えない電気が、片側へ集まる。

 

   通れる道ができたなら、一気に走る。

 

   先に空が光り、あとから音が追いかける。

 

 

 朝の歌より、順番も言葉も正確になっていた。

 

「孤児院で歌ったら、みんな覚えそうですね」

 

 理央が言うと、レイニャの耳が立つ。

 

「文字が読めない子も覚えられるニャ」

 

「雷を出す方法の歌だと、勘違いさせないでくださいね」

 

「雷ができるまでの歌だって、最初に語るニャ」

 

 前置きまで、すでに決めている。

 

 レイニャは、今度はハープがあるつもりで指を動かした。

 

 雷を覚えるために作った歌が、自分だけのためではなくなっている。

 

 聞いた子どもは、雷が鳴った時、雲の中で何が起きているのかを思い出せる。

 

 文字が読めなくても、次の子へ歌えるかもしれない。

 

 レイニャが旅を続ければ、その歌も一緒に次の町へ行く。

 

「これ、仕事になるニャ」

 

「吟遊詩人の?」

 

「そうニャ」

 

 レイニャは、少し考えてから首を横に振った。

 

「歌うだけじゃないニャ」

 

「知らないことを教えてもらって、あたしが分かる歌にするニャ」

 

「それを、次の町で歌うニャ」

 

 酒場で客を楽しませたり、旅先で起きた出来事を伝えたりするだけではない。

 

 役に立つ知識まで、自分の声で次の町へ持ち運べる。

 

 それは、文字に頼らず知識を届けながら旅を続けられる、レイニャによく似合う仕事だった。

 

「次は何を歌にするんですか?」

 

 理央が聞く。

 

 レイニャは、新セルマ工房で見た光景を思い出した。

 

「薬草を量る歌が、まだ途中ニャ」

 

「昨日から作ってた歌ですね」

 

「雷の歌も仕上げるニャ」

 

「忙しくなりましたね」

 

「押入商会へ来ると、歌が増えるニャ」

 

 レイニャはもう一度、雷の最初の節を口ずさんだ。

 

「知らないことを覚えると、歌が増えるニャ」

 

 今度の節には、水の子と氷の子がぶつかり、片側へ寄った電気が道を見つけて走るところまで、きちんと入っていた。

 

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