レイニャは、孤児院へ向かう間、ずっと指先で拍子を取っていた。
歩く速さとは少しずれた拍子で、猫耳の先まで小さく動いている。
昨日より柔らかくなった朝の風が、湿った土と若草の匂いを運んでいた。
道の両側では店の戸板が外され、屋根の向こうからは朝食を作る薪の煙が細く上がっている。
前を歩くレイニャの背中に、いつものハープはない。
旅鞄も毛布も、まとめて《収納》に入っている。
後ろから見ていると、つい数日前まで大きな荷物を背負っていた人物とは思えない。
レイニャが急に立ち止まった。
「ここ、長いニャ」
「どこですか?」
澪が尋ねると、レイニャは小声で同じ節を二度歌った。
二度目は言葉が一つ減り、最後の音が少し伸びた。
「雲の中の水と氷が動くところニャ」
「朝からずっと直してたんですか?」
理央に聞かれ、レイニャの耳がぴくりと傾いた。
「朝からじゃないニャ」
「じゃあ、いつからです?」
「目が覚める少し前からニャ」
「寝てる時からじゃないですか」
「夢の中は朝に入らないニャ」
理央は澪を見た。
澪にも、夢の中の時間をどう数えるべきかは分からない。
「昨日より、ちゃんと雷になったニャ」
「昨日も雷の歌でしたよ」
「昨日は途中だったニャ」
「雷に完成と未完成があるんですね」
「歌にはあるニャ」
レイニャは即答し、また歩き出した。
昨日の雷の訓練が終わってからも、言葉の順番を入れ替え続けたらしい。
最初に雲の中で水と氷が動き、見えない電気が偏って集まると続ける。
空気の中に通れる道ができて一気に走るところへ運び、最後は光が先に届き、音があとから追いかけてくる。
大事な順番は変えず、長い言葉だけを歌いやすい形へ直していた。
どうしても節へ入らない言葉は、歌う前の《語り》へ回すという。
《雷》を2まで上げたことより、その順番を歌へ収められたことの方が、今のレイニャには重要なようだった。
孤児院が近づくと、庭から子どもたちの声が聞こえてきた。
洗った食器が触れ合う音に、水を入れた桶が石へ当たる音が重なる。
門の前でレイニャはもう一度、最後まで小声で歌った。
それから《収納》へ手を伸ばす。
淡い靄が両腕へ集まり、古い小型ハープが現れた。
「それじゃ、聞いてもらうニャ」
ハープを抱えたレイニャが庭へ入ると、子どもたちがすぐに寄ってきた。
「今日も歌うの?」
「歌うニャ」
「子守歌?」
「朝から眠らせる気かニャ」
小さな笑い声が広がった。
子どもたちはレイニャが孤児院で過ごした最初の夜にも、すでに何曲か歌を聞いている。
猫耳とハープは、もう珍しいだけのものではなかった。
木製の長椅子を使うようシスターに言われ、年上の子たちが小さな子を前へ座らせる。
澪と理央は、子どもたちの後ろに立った。
レイニャはすぐに弦へ触れず、集まった顔を一人ずつ見た。
「今から歌うのは、雷がどうして鳴るのかの歌ニャ」
「雷を出す歌じゃないニャ」
「歌っても、指からバリバリってならないニャ」
子どもの一人が、自分の指先をじっと見た。
「ならないの?」
「ならないニャ」
「ちょっとだけも?」
「ちょっとだけも出ないニャ」
「じゃあ、聞いても大丈夫だ」
「歌は大丈夫ニャ」
「本物の雷が鳴ったら、建物の中へ入るニャ」
澪は、口を挟む必要がなかった。
昨日は何度も説明したことが、もうレイニャ自身の言葉になっている。
レイニャは納得したらしい子どもたちを見回し、最初の弦を爪弾いた。
明るすぎず、怯えさせるほど重くもない調べが、朝の庭へ流れ出す。
風に揺れる洗濯物の下で、子どもたちが耳を傾けた。
レイニャは、雲を見上げる旅人の《語り》から始めた。
空を覆った雲の中では、目に見えないほど小さな水と氷が動いている。
その語りが終わると、ハープの拍子が少し軽くなった。
雷の歌は、水と氷が雲の中を行き交うところから始まった。
動き、触れ合ううちに、見えない電気が別々の場所へ集まっていく。
どちらかがいっぱいになり、空気の中へ道ができる。
そして、止まっていたものが一気に走る。
そこまで歌うと、レイニャは次の節に入る前に、右手を空へ上げた。
「ぴかっ」
子どもたちの視線が、その手を追う。
レイニャは一拍遅れて、左手で弦の端から端までを強く撫でた。
低い音が、ゴロゴロと庭に広がる。
「ごろごろ」
前の子が、すぐに真似をした。
レイニャは笑いながら、もう一度右手を上げた。
「先に空が光るニャ」
今度は子どもたちの声が重なった。
「先に空が光る!」
レイニャが低い弦を鳴らす。
「あとから音が追いかけるニャ」
「あとから音!」
二回目の繰り返しでは、声を重ねた子が三人に増えた。
三回目には、後ろに座っていた年上の子まで、小さく口ずさんでいた。
レイニャは子どもたちが声を上げるたび、弦を鳴らす手を少し緩めた。
自分の声で覆わず、覚えた言葉が聞こえるようにしている。
澪は歌詞より、子どもたちの顔を見ていた。
雲や電気という言葉が出てくるたび、難しそうに眉を寄せる子もいる。
レイニャはその顔を見つけると、次の繰り返しを少しゆっくり歌った。
やがて最後の低い音が消え、庭に食器を洗う音が戻ってきた。
しかし、子どもたちの一人は、まだ小さく歌っている。
「先に光って、あとから音」
隣の子が、その続きを口ずさんだ。
「その前に、雲の中で集まる」
レイニャの耳が、少しずつ前へ向いていく。
自分が歌っていないのに、歌が目の前で続いていた。
「ねえ、雷って、光った時に急にできるんでしたっけ?」
澪が聞くと、子どもたちの顔が一斉にこちらへ向いた。
「違うよ」
「その前に雲の中で電気が集まる」
「水と氷も動く!」
「そうでした」
澪は二問目を理央へ譲った。
「じゃあ、光と音はどっちが先ですか?」
「光!」
「おとがあと!」
今度は迷う子がいなかった。
「この歌を全部覚えたら、雷を出せる?」
別の子が尋ねた。
「出ないニャ」
「でも、レイニャは出せるんでしょ?」
「あたしの《雷》と、この歌は別ものニャ」
「じゃあ、これは何の歌?」
「雷ができるまでを知る歌ニャ」
「雷を出す歌じゃないニャ」
レイニャは自分の指先を見せたが、そこへ電気をともすことはしなかった。
澪は口を挟まず、その返事を聞いていた。
レイニャがハープを抱いたまま、子どもたちへ身を乗り出す。
「ほんとに覚えてるニャ!」
「歌ってたもん」
「もう一回歌う!」
「次はあたしが歌う」
「わたしも!」
子どもたちが一度に言い始めた。
レイニャは、誰がどこを歌うかをその場で決め、今度は子どもたちの声を中心にハープを鳴らした。
先ほどより節は揺れ、言葉も少し間違った。
それでも、原因と結果の順番だけは崩れなかった。
一曲が終わるころには、庭の反対側で洗濯物を干していた年上の子まで一緒に歌っていた。
「雷の歌、姉ちゃんにも歌っていい?」
「いいニャ」
「聞いた人がまた歌ったら、歌は旅をするニャ」
レイニャはそう言ってから、自分がずっとそれをしてきたことに気づいたように笑った。
どこかで覚えた歌を次の町へ運ぶ。
今度は、旅の出来事だけでなく、知ったことも運び始めていた。
午後、レイニャは澪と一緒に新セルマ工房を訪れた。
地上階の作業区画に入ると、乾いた薬草の匂いが鼻へ届いた。
窓から差す日の光が、並んだ瓶と木皿の縁を明るくしている。
秤皿が触れ合う小さな音に、乳鉢が一定の間隔で底を擦る音が重なっていた。
セルマは、一つの作業台で記録板を確かめていた。
こちらに気づくと、まずレイニャの腕の中にあるハープを見る。
「できたの?」
「できたニャ」
「まず私に聞かせるのよ」
「約束通りニャ」
セルマは記録板を作業台へ戻し、レイニャの前へ来た。
「用量を間違える歌はやめてと言ったけれど、覚えている?」
「そこはセルマが確かめるニャ」
「自分でも確かめなさい」
「確かめるニャ」
返事を聞いたセルマは、作業台の端へ腰を預けた。
弟子たちは手を止めない。
ただし、乾燥した薬草を分ける手も、瓶の口を確かめる目も、普段よりわずかにゆっくりになった。
聞いていないふりをして、みんな聞いている。
レイニャはそれに気づいたのか、少し得意そうに胸を張った。
「この歌は、薬の作り方を教える歌じゃないニャ」
レイニャが最初の音を鳴らした。
歌は、土から芽を出す薬草から始まった。
光と水を得て育った葉が採られ、人の手で一枚ずつ選ばれていく。
悪い部分を外し、種類を混ぜず、それぞれの皿へ分ける。
ここまでは、セルマの表情は変わらない。
レイニャは拍子を一つ上げ、薬草を秤へ運んだ。
秤の上で軽く広がった葉を、昨日見たままに歌う。
木皿の縁から葉があふれそうに見えたその光景を、レイニャは「少し多めに盛る」と歌った。
「止めて」
セルマの声と同時に、ハープの音が止まった。
レイニャの指は、次の弦に触れる直前で止まっている。
「今、何と歌ったの?」
「少し多めに盛る、ニャ」
「どうして増えたの」
「増やしたんじゃないニャ」
レイニャは、近くの木皿へ指を向けた。
「乾いた葉はふわっとして、多く見えたニャ」
「それは見た目の話でしょう」
「そうニャ」
「歌だけ聞いた人に、その皿は見えないのよ」
レイニャの耳が少し開いた。
見た光景を歌にしたつもりだった。
しかし、「少し多めに盛る」だけが歌に残れば、決められた量より増やせという意味に聞こえる。
「こっちの方が歌いやすかったニャ」
「薬を歌いやすくしないで」
「言い方を変えただけニャ」
「意味も変わっているの」
セルマは音量を上げなかった。
それでも、それ以上反論できない響きがあった。
レイニャがハープを持ち直したとき、少し離れた作業台から、細い声が聞こえた。
「少し多めに、盛る……」
年若い弟子が、薬草を分けながら、さっきの節を口ずさんでいた。
本人は、レイニャたちがこちらを見ていることに、まだ気づいていない。
レイニャの耳が、その声へ向いた。
耳先も、尻尾も、ぴたりと動かなくなった。
朝の孤児院でも、同じことが起きた。
子どもたちが、一度聞いた雷の節を口ずさんだ。
あの時は、胸が温かくなるほど嬉しかった。
今は、同じことが、レイニャの胸の中へ冷たく落ちた。
「……一回しか歌ってないニャ」
「だから怖いのよ」
セルマの声は静かだった。
年若い弟子がようやく視線に気づき、手を止めた。
「私、何か間違えましたか?」
「今の歌は忘れてほしいニャ」
「もう覚えてしまいました」
レイニャの耳が、さらに外側へ開いた。
「思い出さないようにするニャ」
「そう言われると、余計に頭の中で流れます」
「どうするニャ……」
「正しい方で覚え直すの」
セルマは、弟子が使っていた秤の皿を見た。
「今の作業は止めなさい」
「はい」
「記録板と秤を見ながら、最初からやり直して」
「分かりました」
実際に間違った量で次の工程へ回したわけではない。
それでも、一度頭へ入った間違いは、作業の手元から外さなければならない。
年若い弟子は皿の葉を元の容器へ戻し、記録板を自分の正面へ置き直した。
その横で、レイニャはしばらくハープを抱いたまま動かなかった。
目の前の作業台には、秤と記録板が並んでいた。
セルマは数値を追い、弟子は一皿ずつ量ったあとに記録まで確かめている。
薬は、歌の節だけで作られているわけではない。
レイニャはハープを持ったまま、セルマのところまで歩いた。
「量のことを歌から外すニャ」
「それがいいわ」
「薬師が秤で確かめるって歌にするニャ」
「それなら聞いてあげる」
「最後まで聞いてほしいニャ」
「正しいならね」
レイニャは作業台の端へ腰を下ろし、自分の帳面を《収納》から出した。
帳面に書かれていた言葉を一本の線で消す。
その下へ、「量は薬師が秤で確かめる」という意味の言葉を書いた。
口の中で読むと、元の言葉より拍が一つ多い。
レイニャは弦を一音鳴らし、言葉の切れ目を変えた。
二回口ずさみ、また一音鳴らす。
今度は収まった。
「最初からやるニャ」
レイニャは工房を見回し、弟子たちが再び手を動かし始めたのを待ってから、ハープへ指を置いた。
二度目の歌では、薬草の葉が皿の上でふわりと広がるところまでは変わらなかった。
しかし、その量を歌が決めることはない。
量は薬師が秤で確かめ、記録を残し、次の人へ渡す。
そして次の人も、渡されたものをもう一度確かめる。
一つの手が見逃しても、次の手が拾う。
昨日レイニャが見た工房の姿は、今度こそ正しく歌の中へ入った。
年若い弟子が、今度は正しい節を小さく口ずさんでいる。
レイニャは歌いながらその声を聞き、ほんの少しだけ速さを緩めた。
正しい言葉が、弟子の声にはっきり残るように。
歌が終わると、セルマはすぐに口を開かなかった。
作業台の上の記録板を見て、年若い弟子が秤を見ていることを確かめる。
それからレイニャへ顔を向けた。
「今度は大丈夫よ」
「歌いやすいニャ」
「正しくて歌いやすいなら、文句はないわ」
レイニャの耳が、ようやくいつもの向きへ戻った。
「正しい方も、もう覚えました」
弟子が言う。
「間違った方は忘れたニャ?」
「正しい方と一緒に残ってます」
「消えてないニャ……」
「作業中には正しい方を使います」
「それでいいのよ」
セルマに言われ、弟子は今度こそ作業へ戻った。
レイニャは、少し不満そうに尻尾を一度だけ振った。
「間違った歌って、消すの難しいニャ」
「だから、外で歌う前に持ってきなさい」
「次からそうするニャ」
「次があるのね」
「見たものは歌になるニャ」
セルマは息を吐いた。
もっとも、本当に嫌なら、最初から聞いてあげるとは言わなかっただろう。
夕方、一日の仕事が終わりに近づいた押入商会侯爵領事業所には、紙をめくる音が続いていた。
真壁は机の端で書類を確かめ、理央は検品表の数を追っている。
澪は、工房で起きたことを最後まで話した。
「一回で覚えたのなら、伝達手段としては優秀だ」
「そこを褒めるんですか?」
理央が顔を上げる。
「間違いまで伝わる点が問題なのだろう」
「そうですけど」
「歌自体に問題があるわけではない」
真壁は書類から目を上げ、帳面に向かっているレイニャを見た。
レイニャは反省を言葉にせず、雷の歌と薬草の歌を開いていた。
雷の頁の端には澪の名が書き足され、薬草の頁にはセルマの名があった。
「とても良い方法とは言えませんね」
澪が言うと、レイニャは帳面から顔を上げた。
「あたしは読むけど、旅で会う人がみんな文字を読めるわけじゃないニャ」
「分かっています」
「覚えやすいのは、すごく良いと思います」
「でも、間違ったら同じくらい覚えやすいニャ」
そこまでは、レイニャ自身も理解していた。
「専門の者から聞いた話なら、歌う前にその本人へ一度聞かせればよい」
「今日のセルマみたいにニャ?」
「そうだ」
「聞いたのと、自分で分かったのと、詳しい人に確かめたのを、分けるニャ」
「それが良いだろう」
レイニャは、聞いた話へ耳の形を添え、自分の目で確かめた話の旁には目の形を描いた。
詳しい者に聞かせた歌の末尾には丸い印を一つ置き、一人旅の間にも区別できるようにした。
「全部、押入商会へ持ってこなくていいですからね」
「レヴァニアからじゃ遠すぎるニャ」
「そこは安心しました」
「雷の歌は、澪に何度も直されたから大丈夫ニャ」
「何度もって言わなくていいです」
「それだけ確かめたということだろう」
真壁に言われ、澪は否定しきれなかった。
レイニャは満足そうに帳面を閉じた。
淡い靄が帳面とハープへまとわり、二つとも腕の中から消える。
もう旅鞄の奥へ無理に押し込む必要はなかった。
事業所を出ると、昼より冷たくなった風が通りを抜けていた。
屋根の間から見える空は、夕日の赤から薄い紫へ変わり始めている。
来週には、レイニャはこの空を飛行船で渡り、レヴァニアへ向かう。
「次は何を歌にするんですか?」
理央が尋ねた。
昨日までのレイニャなら、すぐに答えていただろう。
しかし、今日は猫耳が一度だけ前へ動き、短い間が空いた。
「知らないことを覚えると、歌が増えるニャ」
昨日と同じ言葉だった。
レイニャは自分の胸元を一度軽く叩く。
「でも、歌にしていいところは、ちゃんと確かめるニャ」
澪は何も足さなかった。
レイニャは歩きながら、直したばかりの薬草の節を小さく口ずさんだ。
間違えた言葉は、もうその歌に入っていない。
来週、レイニャは今日の歌を《収納》へ入れ、空の向こうへ運んでいく。