朝の孤児院には、温めたスープの匂いが広がっていた。
大鍋の中で、魚の身と野菜がゆっくり揺れている。
湯気が窓辺まで流れ、開いた戸口から入る朝の冷気を少しずつ押し返していた。
子どもたちは椀を受け取る列に並びながら、鍋の方を何度も振り返る。
レイニャは匙を手にしたまま、鍋の向こうから立ち上る湯気を見つめた。
「昨日の魚ニャ。澪がごはんにしてくれたニャ」
子どもたちが一斉に匙を止めた。
「レイニャが捕まえたの?」
「いっぱいニャ」
少し胸を張ったところで、隣の子が鍋をのぞき込む。
「また捕ってきて!」
「池の魚を全部捕ったら怒られるニャ」
笑い声が食堂を跳ねた。
レイニャは収納からレトルトパウチを取り出し、シスターへまとめて渡した。
「あたしの収納にもまだあるニャ。こっちはみんなで食べるニャ」
「こんなにいただいていいんですか?」
「いっぱいもらったニャ」
レイニャは袋を渡した手を引っ込めたが、シスターが椀を差し出すと、今度は断らずに受け取った。
自分が捕った魚を、みんなと同じ食卓で食べる。
それが少し誇らしい。
シスターは礼を言いながら、パウチの数を確かめた。
「今日の分と、保存しておく分を分けましょう。温めれば食べられるものが増えるのは助かります」
味を喜ぶより先に、食事を切らさずに済むことを考える人だった。
レイニャはその手つきを見て、自分が捕った魚が、ただの訓練の成果で終わらなかったことを知った。
昨日、池で何度も確かめた雷の止め方も、魚を傷めないように締めたことも、今朝は子どもたちの匙の先にある。
昨日は、雷をどこで止めるか、魚をどう傷めずに締めるか、そればかり考えていた。
今は子どもたちが次の一口を急いでいる。
自分の練習が、誰かの朝ごはんになったのだと、レイニャはようやく実感した。
窓から春の光が差し、器へ木の匙が触れる音が続いた。
レイニャの尾が椅子の横でゆっくり揺れる。
自分の分を一口食べると、魚の身は温かいスープにほどけた。
「おいしいニャ」
「捕まえた本人が言うんですね」
シスターに笑われ、レイニャは匙を持ったまま耳をぴくりと動かした。
「食べるところまでが仕事ニャ」
「では、残りもお願いします」
「任せるニャ。……でも、池の魚を全部は駄目ニャ」
また小さな笑いが起きた。
昼前、レイニャは領都の道で理央と会った。
理央は農村へ向かうところだった。
昼からはリュシアのところで演奏する予定だが、その前に、以前土の分離や堆肥の調整を一緒にした農家を見ておきたいという。
「途中まで一緒に行くニャ」
「いいんですか?」
「道は同じニャ」
道が同じかどうかは、少し歩いてから分かった。
畑の脇を抜け、低い鶏舎が見えてくると、土の匂いに餌の匂いが混ざった。
鶏が止まり木の周りを歩き、籠を持った母親が二人を見つけて手を振る。
「理央ちゃん、来てくれたのね」
「こんにちは。畑の様子を見に来ました」
仕事の確認をする声ではなかった。
理央は畝の間へ入り、土を指先で少しつまむ。
畝の土は表面だけでなく、指で崩した中までほどよく湿っていた。
理央は一度うなずき、母親に水桶の位置を確かめる。
質問を重ねても、母親は急かされている顔をしなかった。
以前一緒に土を見た時と同じように、理央の言葉を待ってくれている。
水桶の置き場所を見て、餌箱が濡れていないことも確かめた。
母親はその横で、最近の鶏の様子を話す。
理央がうなずくたび、相手の顔がほころんだ。
そのうち、小さな女の子が鶏舎の向こうから走ってきた。
「理央お姉ちゃん、午後も来る?」
「はい。用事が終わったら、もう一度寄ります」
「じゃあ、うちの子見せる」
「鶏ですか?」
「私が呼ぶと来るんだよ」
女の子は鶏舎の方を振り返り、どの鶏を見せるのか、もう決めているらしい顔をした。
理央はその期待に気づき、返事を曖昧にしないようにした。
「それは見たいです」
「絶対?」
「絶対です」
理央が答えると、女の子は満足そうにうなずいた。
女の子は「約束ね」と念を押すように言い、理央がもう一度うなずくのを見てから母親のそばへ戻った。
理央はその小さな背中を見送りながら、午後に立ち寄る時間を頭の中で確かめた。
レイニャは理央の横顔を見た。
領都では仕事の帳面をのぞき、店の人と話す彼女が、ここではひとりの子どもに約束をしている。
「理央、人気者ニャ」
「そういうんじゃないです」
理央は少し困ったように笑った。
女の子は自分が特に世話をしている鶏を指さし、午後に近くで見せると言った。
理央はもう一度、約束を確かめるようにうなずく。
レイニャは、理央が澪や真壁の隣にいるだけではないことを知った。
この畑にも、理央を待っている人がいる。
女の子は何度か鶏舎の方を見たあと、家族の手伝いへ戻っていった。
理央の約束を疑ってはいない。
ただ、楽しみが待ちきれない様子だった。
昼の演奏へ向かう時間になり、二人は農家の家族に別れを告げた。
昼の共同商館には、木箱を動かす音と、食事を運ぶ足音が絶えなかった。
レイニャは収納からハープを取り出し、空いた場所で一曲弾いた。
明るい旋律が仕事場のざわめきに重なる。
弦を弾く指が動くたび、木箱を置く音や、帳面をめくる音の隙間に旋律が入り込んだ。
レイニャは急がず、最後の音が消えるまで次の言葉を挟まなかった。
リュシアは帳面をつけながら、ときおり耳を傾けていた。
「今夜も演奏だろ?」
「別の店で頼まれてるニャ」
「働くねえ」
「吟遊詩人ニャ」
「昼も夜も歌って、明日は声が出なくならないのかい」
リュシアは帳面から顔を上げずに言ったが、問いかける声には心配が混じっていた。
レイニャは水を飲み、喉の具合を確かめるように一度だけ声を出した。
「出るニャ。水も飲むニャ」
レイニャは水差しから一杯飲み、弦を確かめた。
今夜の約束は、領都の別の店での演奏だ。
それを思い出して、曲の最後を少しだけ丁寧に締めた。
あの子は午後にもう一度来ると言った。
その約束を思い出すと、レイニャは曲の最後を少しだけ丁寧に締めた。
次の曲へ移ろうとした時、床の近くに靄が生まれた。
リュシアの手が帳面の上で止まり、レイニャの耳が立つ。
リュシアは、最初は荷物が落ちたのかと思った。
けれど床に広がる靄は、倉庫の隅へ流れる煙とは違い、ひとところへ集まっていく。
レイニャはハープを置くより先に、扉の向こうから届く風の匂いを嗅いだ。
靄は広がるだけではなかった。
中央に縦の線が現れ、両側へ分かれ、扉の形になっていく。
「……何だい、それ」
リュシアが椅子を引いた。
扉が開く。
向こうに見えたのは、畑と明るい空だった。
農村の風が店内へ流れ込み、こちらの作業音に鶏の鳴き声が混じる。
理央が扉から飛び出してきた。
理央は一度、後ろを振り返った。
扉の向こうには、探し続ける人たちの声がまだ残っている。
リュシアのいる場所へつなげたのは、説明を省いて助けを求められる相手が必要だったからだ。
息が切れ、頬がこわばっている。
「誰か、手を貸してください!」
いつもの丁寧な声より大きかった。
「どうしたニャ?」
「女の子がいなくなったんです。昼前に会った、あの農家の子です」
息を吸うたび、胸が痛いほど上下した。
理央は言い終える前から、レイニャの返事を待つようにその顔を見ていた。
レイニャはハープを収納へしまった。
「あたしが行くニャ」
理央の目が揺れた。
「レイニャさん……!」
「早く行くニャ」
事情を聞き終える前に、レイニャは扉へ向かった。
理央も続く。
二人が農村側へ通り抜けると、扉はしばらくその場に立っていた。
やがて接続の時間が尽き、靄と一緒に消えていく。
リュシアは閉じた空間を見つめた。
「……今の、何だったんだい」
床には、何も残っていなかった。
理央が狙ったのは、偶然のどこかではない。
リュシアのいる場所だ。
訪問先を登録して移動する転移とは違い、関門接続は狙った場所同士を、通れる時間だけつなぐ。
今回は出現位置を選ぶ余裕がなかったが、二人が通り抜ける間、扉は確かにそこに開いていた。
農家へ着くと、家族と近所の人たちが畑の周りを探していた。
呼び声がいくつも重なり、畑の端から林の方へ散っていく。
誰も立ち止まってはいないのに、探す場所を決めきれない焦りだけが広がっていた。
母親が理央の顔を見て、駆け寄る。
「鶏が逃げて……あの子、追いかけて」
「一人で?」
「すぐ戻ると思ったんです」
母親は何度も鶏舎の方を見た。
責める相手を探しているのではない。
けれど、見つからない時間が長くなるほど、自分が目を離した数分を繰り返し思い返しているようだった。
母親の声が震えた。
鶏舎の扉は半分開き、餌が土に散っていた。
理央はその場所を見たまま動かない。
昼前、ここで交わした約束が、まだ明るい時間のまま頭に残っている。
「絶対です」と答えた自分の声まで、さっきのことのように聞こえた。
「私に見せるって……」
「理央。あとニャ。今は探すニャ」
レイニャの声は短かった。
母親から、女の子が特に世話をしていた鶏が一羽逃げたことを聞く。
女の子は午後に理央へ見せると言って、その後を追ったらしい。
理央の口元が固くなった。
自分が来ると約束したから、あの子は出ていったのではないか。
その考えが、他の言葉を押しのけていく。
レイニャは鶏舎の周囲へしゃがみ、土に残った小さな靴跡を見た。
レイニャは家族の足跡と混ざらないよう、土の端から順に目を動かした。
小さな靴跡は畑の外へ向かい、草の先に羽が一枚残っている。
理央も地図を開き、手掛かりが続く方角を確かめた。
踏み倒された草の先に、白い羽が一枚引っかかっている。
理央は《世界地図》を開いた。
人の印は近くにいくつもある。
農村の中で一人だけを探し当てるには、まず範囲を絞らなければならなかった。
二人は家族や近所の人たちと手分けをし、畑の外へ向かう痕跡を追い始めた。
畑を離れると、足跡は草地で薄くなった。
鶏の羽も途切れ、地面には風で倒れた草が重なる。
理央が地図を確かめている間、レイニャは顔を上げた。
耳が風の音を拾い、鼻先がわずかに動く。
「……風上ニャ」
「え?」
「匂いがこっちへ流れてきてるニャ。向こうニャ」
風は草を伏せながら、湿った土と餌の匂いを運んでいた。
その中に、鶏の羽と、女の子の服についた土の匂いがかすかに混じる。
レイニャは一度だけ目を閉じ、風向きを取り違えていないか確かめた。
レイニャが示したのは、低木の続く方角だった。
「分かるんですか?」
「薄いけど残ってるニャ。行くニャ」
レイニャは草を踏み分けた。
理央は地図の範囲をその方向へ縮める。
すぐに答えが出るわけではない。
途中でまた羽が見つかり、その先には踏まれた草が細く続いていた。
レイニャは立ち止まって風向きを確かめ、理央は見つけた位置を頭の中の地図へ重ねる。
どちらか一人だけでは、ここまで来られなかっただろう。
理央は地図を見て道を絞り、レイニャは風と地面から痕跡を拾う。
理央が指した方へレイニャが進み、レイニャが止まった場所を理央が地図に重ねた。
そのたび、探す範囲がほんの少し狭くなる。
数字で見た《地図》や《聞き耳》の高さだけでは、レイニャが旅で身につけたものは分からない。
反対に、レイニャの鼻と耳だけでも、農村に散らばる人の気配を一人へ絞ることはできない。
「こっちで合ってます」
理央が告げる。
「なら、急ぐニャ」
理央はうなずき、レイニャの後を追った。
昨日まで技能を教えていた相手を、今日は頼りにしている。
それが不思議なくらい自然だった。
指示を待つ余裕はない。
それでも、レイニャの歩幅が少し変われば理央は地図を開き、理央の視線が止まればレイニャは周囲を嗅いだ。
互いの次の動きが、言葉より先に分かり始めていた。
捜索は思ったより長引いた。
何度も呼びかけた声は、返事のないまま木立に吸われていった。
家族と近所の人たちは声を張り続けている。
理央も呼ぼうとしたが、喉が固まり、最初の一声がうまく出なかった。
家族の呼ぶ声は遠くなり、空の色が夕方へ傾いていく。
林の影は草地へ伸び、春の風にも冷たさが混じり始めた。
レイニャは足を止めて耳を澄まし、匂いを探る。
理央は地図を何度も開き、範囲を少しずつ狭めた。
地図を確かめるたび、人の印が重なって見えた。
探している一人を見つけられないことが、理央には自分の手の遅さのように感じられた。
レイニャが隣で風を確かめている。
その気配だけを頼りに、理央はもう一度地図を開いた。
地図を追う理央の手が止まる。
「……いました」
「どこニャ?」
「この先です。人の印が一つ」
理央は一度息を吸った。
「でも……動いてません」
その言葉を口にした瞬間、理央は続きが言えなくなった。
動いていない理由を、地図は教えてくれない。
休んでいるのか、眠っているのか、それとも――。
考えを最後まで形にする前に、レイニャが走り出した。
レイニャの耳が前を向いた。
「急ぐニャ!」
二人は示された方向へ走り出す。
印が動いていないこと以外、地図は何も語らない。
どんな状態なのか、怪我をしているのか、まだ分からなかった。
理央の胸には、昼前に交わした「絶対です」という返事だけが、何度も戻ってくる。
草を分ける前に、小さな鳴き声が聞こえた。
「コケ……」
レイニャの耳がそちらへ向く。
「鶏ニャ」
浅い窪地の草を押し分けると、女の子が倒れていた。
低い夕日が草の先だけを照らし、窪地の底には長い影が重なっていた。
女の子の服には土がつき、倒れた籠のそばに鶏の羽が散っている。
腕の中に鶏を抱きしめている。
逃げた鶏は捕まっていた。
けれど、女の子は目を閉じ、頬に土をつけたまま動かない。
鶏は腕の中で身をすくめ、二人を見ると「コケッ、コケッ」と鳴いた。
理央が駆け寄ろうとする。
「待つニャ。足元見るニャ」
レイニャは先に周囲へ目を走らせた。
草の間には、まだ毒蛇がいるかもしれない。
レイニャは理央を止めたまま、草の根元と倒れた籠の裏を確かめた。
女の子へ駆け寄りたい気持ちを抑え、まず二人が同じ場所で咬まれないようにする。
倒れた籠の脇で、レイニャは女の子の脚に小さな咬み跡を見つけた。
「咬まれてるニャ」
理央が《鑑定》を向ける。
「毒です。かなり回ってます」
言葉がそこで止まった。
理央の頭には、助けなければという思いと、自分の約束が原因だったのではという考えが同時に押し寄せた。
どちらを先にすればいいのか、一瞬だけ身体が分からなくなる。
「私……」
「理央、水ニャ!」
レイニャの声に、理央ははっとした。
収納から水を取り出す。
いま必要なのは、自分を責めることではない。
女の子の胸元近くで、鶏がまた小さく鳴いた。
「コケ……」
レイニャは女の子の脚を確かめ、理央の出した水で傷の周りの土を落とした。
水が草の根元へ落ちていく。
理央は隣で息を切らしていたが、手は止めなかった。
水を受け渡す理央の指先は冷えていた。
それでも、レイニャが「もう少し」と言うたび、必要な分をすぐに差し出す。
震えていても、理央はここから離れなかった。
「水、もう少しニャ」
「はい」
レイニャは女の子の顔色と呼吸を見た。
昔、白魔道士として覚えた順番が、手の中へ戻ってくる。
何度も学び、何度も使った手順だった。
だが、相手が倒れている子どもだと分かった途端、知識だけで動いていた頃とは違う重さが腕に乗った。
迷えば時間を失う。
レイニャは目の前の呼吸を確かめ、次に触れる場所を決めた。
「《解毒》ニャ」
レイニャの手が、咬み跡のそばへ添えられた。
しばらくして、女の子の呼吸が浅く乱れるのをやめる。
理央が《鑑定》で確かめた。
理央は息を整える間もなく、表示を確かめた。
数字を追う目は揺れていたが、異常が消えたかどうかだけは見落とさないよう、ひとつずつ確認した。
「毒の反応が消えました」
「まだ弱ってるニャ。次ニャ」
レイニャは間を置き、もう一度女の子の様子を見た。
「《治癒》ニャ」
鶏が、二人の手の近くで「コケ」と鳴いた。
「お前も心配してたニャ」
レイニャは小さく声をかけた。
女の子の呼吸は少しずつ落ち着き、顔色にも戻りが見えた。
理央は水を支え、鑑定で状態を追っている。
レイニャ一人が救ったのではない。
理央が見つけ、状態を伝え、必要なものを出したから、レイニャは治療に集中できた。
技能欄で見た《解毒》7と《治癒》8が、初めて理央の目の前で人をこちらへ戻す力になった。
これまで理央にとって技能の数字は、訓練の結果や次に覚えられることを示すものだった。
今は、その数字の向こうに、浅く乱れていた呼吸がある。
レイニャの手が動くたび、女の子が戻ってくる場所が少しずつ確かになっていった。
「助かりますか」
理央の声はかすれていた。
「大丈夫ニャ。もう少し休ませるニャ」
レイニャはそう言って、女の子のそばに残った。
理央はすぐには立ち上がらなかった。
助かったと分かっても、身体の力が戻るには時間がかかった。
レイニャが女の子の呼吸を見守るあいだ、理央は水差しを握りしめたまま、彼女の指示を待った。
農家へ戻るころには、夕日が畑の向こうへ沈みかけていた。
家族が女の子を迎え、家の中へ運び入れる。
しばらくして、女の子のまぶたがゆっくり開いた。
最初に理央を見つける。
「……理央お姉ちゃん」
「よかった……」
理央の声が震えた。
女の子は腕の中の鶏へ目を向けた。
「鶏、捕まえたよ」
「コケ」
「見せるって言ったから……」
理央の顔が崩れた。
「ごめんなさい。私が約束したから……」
「違うよ」
女の子は弱々しく首を振った。
「見せたかったの」
家族が女の子を休ませるために奥へ連れていき、何度も礼を言った。
家の中から、家族が女の子へ何度も声をかけるのが聞こえた。
返事は弱くても、ちゃんと返ってくる。
その声を聞いてから、理央の張り詰めていた肩がようやく落ちた。
理央は顔を伏せた。
「私が約束しなかったら、追いかけなかったかもしれません」
言いながら、理央は自分の手を見た。
この手で水を出した。
この手で地図を開いた。
けれど、昼前に交わした約束をなかったことにはできない。
涙が頬を伝った。
助かったから終わり、とは思えなかった。
あの子が倒れていた景色は、目を閉じても消えない。
「私が『絶対』って言ったから……」
レイニャは、すぐには返事をしなかった。
畑を渡る風は冷たく、家の中から女の子と家族の声が聞こえる。
少し離れたところで、鶏が「コケ」と鳴いた。
「でも、理央に見せたかったニャ」
「だから、それが……」
「そこ、逆ニャ」
理央が顔を上げる。
「あの子、理央が来るの楽しみにしてたニャ」
レイニャは言葉を急がなかった。
「理央に見せたいから、鶏を捕まえたニャ。理央が嫌だったから追いかけたんじゃないニャ」
理央は口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
約束を楽しみにしてくれたことと、その約束を守ろうとして事故に遭ったことは、理央の中でまだ一緒になっていた。
どちらかだけを選べば、もう片方を見ないことになる気がした。
「あの子、理央のこと大好きニャ」
レイニャは隣へ腰を下ろした。
抱きしめたり、答えを押しつけたりはしない。
レイニャは、泣き止ませるための言葉を探さなかった。
理央が自分で受け取れる速さになるまで、隣で一緒に家の明かりを見ていた。
理央が息を戻すのを待つ。
「それに、見つけたニャ」
「……」
「ちゃんといたニャ」
家の中で、女の子が家族に何か話している。
腕の中の鶏が、かすかに鳴いた。
理央はその声を聞きながら、祖母の家にあった写真を思い出した。
ヴァルトさんは、かつて写真の中だけの人だった。
部屋に持ち物が残っていても、本人にはもう会えない。
理央はそう思い込んでいた。
けれど今は、異世界で生きているヴァルトさんに会える。
声を聞き、同じ机を囲み、返事をもらえる。
あの時の理央には、それが起こるとは思えなかった。
今日の女の子も、見失ったまま戻らないかもしれなかった。
昼前に笑っていた子が、草の中で返事をしなかった。
理央には、その短い時間が、戻らないものを待つ時間に似て感じられた。
けれど、見つけた。
家へ連れて帰り、声を聞けた。
理央はゆっくり息を吐いた。
今回は、見失ったままでは終わらなかった。
見つけて、声を聞いて、家族のもとへ帰すことができた。
「レイニャさんが来てくれて、本当によかったです」
理央は言葉を探すように、何度か唇を動かした。
礼を言うだけなら、もっと早くできたはずだった。
いま口にしたいのは、それより先にあった。
「二人で見つけたニャ」
「……それでもです」
理央は涙を手の甲で拭った。
「私、レイニャさんに会えてよかったです」
レイニャは冗談にしなかった。
「あたしもニャ」
レイニャは、いつものように語尾を軽く跳ねさせなかった。
理央はその声を聞いて、胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどけるのを感じた。
その瞬間、理央の胸の奥を、何かがかすめた。
言葉にはならない。
けれど、さっきまでの痛みとは違うものが、理央の胸を静かに通り過ぎた。
温かいような、懐かしいような感覚だったが、名前をつける前に消えてしまった。
空はもう夕暮れだった。
レイニャの耳がぴくりと動く。
「あ」
「どうしました?」
「演奏ニャ」
今夜、別の店で弾く約束がある。
このまま歩いて戻れば間に合わないだろう。
レイニャは落ち込むでもなく、ハープの入った収納へ手を当てた。
助けに向かったことを悔やんでいる様子はなかった。
レイニャは遅れたことをどう伝えるか考え始めただけで、女の子を探した判断を取り消そうとはしなかった。
「仕方ないニャ。着いたら謝るニャ」
「待ってください」
理央が一歩前へ出た。
泣いた跡は残っているが、目はもう逸れていなかった。
理央は、レイニャが女の子を見つけた時のことを思い返した。
あの時、レイニャは迷わず「あたしが行くニャ」と言った。
次は自分が、レイニャの大事なものを守る番だと思った。
「今度は私が助けます」
「どうするニャ?」
「《関門接続》です」
理央は、訪問先を登録する必要のない《関門接続》を、今度は自分の意思で使おうとした。
目的地は店の中ではなく、その近くの、人通りが少ない脇道だ。
扉を開いた瞬間に誰かとぶつかる場所は避けたい。
農村と脇道を、通れる時間だけつなぐ。
理央は一度だけ目を閉じ、店の外にある脇道の位置を思い浮かべた。
目の前に現れる扉の向こうに人がいないことを確かめ、農村側の足元も見直す。
理央の足元に靄が広がった。
その中から扉が立ち上がる。
向こうには、領都の建物の外壁と、人気のない脇道が見えた。
「また出たニャ」
「今度はちゃんと狙ってます」
理央は自分の声を聞いて、最初の時との違いに気づいた。
あの時は、誰かに届くことだけを考えていた。
今は、通る人が安全であることまで考えている。
「店の前じゃないニャ?」
「人がいるところに急に扉が出たら危ないでしょう」
理央は言い返してから、少しだけ頬をゆるめた。
自分でも、さっきの慌て方を忘れたわけではない。
「さっきリュシアのところには出したニャ」
「緊急だったんです!」
レイニャが笑い、理央もつられて少し笑った。
二人はすぐに関門を通る。
背後で靄が薄くなり、扉の輪郭が崩れていく。
扉が消える前に、理央は振り返って農村側を見た。
開いているあいだだけ通れる道。
その短さが、今は頼もしくもあり、少し寂しくもあった。
一定の時間が過ぎると、農村と領都をつないだ道は消えた。
レイニャは理央の方を見た。
「約束、覚えててくれたニャ」
レイニャの声に、からかうような響きはなかった。
理央はうなずき、胸に残る温かさを確かめるように一度だけ息を吸った。
「レイニャさんの大事な仕事ですから」
「ありがとニャ」
「こちらこそです」
理央は涙の跡を残したまま、ようやく笑った。
店の近くまで来ると、レイニャの歩幅が元に戻った。
「……間に合うニャ」
「間に合います」
理央はそう言って、胸の奥に残る違和感を確かめるように一度手を当てた。
店内から食器の触れ合う音が響き、灯りが窓から道へ漏れている。
レイニャは店の人へ短く挨拶し、ハープを収納から出した。
すぐに弦を調え、吟遊詩人の顔で客席へ向き直る。
理央は少し離れた場所に立った。
客席の灯りがレイニャの毛並みを柔らかく照らす。
昼の畑で見た表情とは違う。
弦に触れる前のレイニャは、もう舞台に立つ吟遊詩人だった。
農家の夕暮れとは違う匂いがする。
酒と料理、蝋燭の煙、忙しい店員の声。
その中に、ハープの一音が澄んで響いた。
その音に、さっきまでの一日が一度に押し寄せることはなかった。
代わりに、農家の子の笑顔や、鶏の鳴き声、レイニャが扉へ走った後ろ姿が、短く胸をよぎった。
演奏が始まる前、理央は自分へ《鑑定》をかけた。
見慣れた欄の下に、今までなかった文字が並んでいる。
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飯島 理央
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:商人
レベル:9
前職:作家見習い Lv10
前々職:箱入り娘 Lv5
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基礎能力値
体力:61
筋力:44
器用:97
知力:101
判断:99
精神:90
集中:117
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未使用SP
18
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既得スキル
共鳴:2
鑑定:10
生体収納:6
錬金:4
並行思考:10
世界地図:1
関門接続:1
重力:6
雷:6
作文:10
彫金:7
順風満帆:1
商才:4
薬学:1
防衛用収納展開:4
射撃:5
火:1
収納内時間操作:2
統率個体識別:1
大量生産:3
収納内工程:3
浄化:6
光:1
演奏:芽あり(+)
歌唱:芽あり(+)
語り:芽あり(+)
聞き耳:芽あり(+)
野営:芽あり(+)
交渉:芽あり(+)
白魔法:芽あり(+)
治癒:芽あり(+)
解毒:芽あり(+)
醸造:芽あり(+)
医術:芽あり(+)
----------------------------------
加護
成長促進
見守り
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理央は一度、技能名ではなく舞台のレイニャを見た。
新しい名前はいくつも並んでいた。
けれど、レベルが移ったわけではない。
レイニャの技を自分がすぐ使えるわけでもない。
その一つ一つが、これから自分の中で育つかもしれない芽だと分かった。
あの場で助けてもらった人が、いま約束していた場所で歌おうとしている。
自分も彼女の約束を守れた。
それが、技能名より先に胸へ残った。
「……増えてる」
レイニャが客席から理央に気づいた。
「理央、今は聴くニャ」
「……はい。あとで見ます」
最初の一音が、夜の店へ広がる。
理央は鑑定の表示を閉じた。
いまは名前を数えるより、レイニャの歌を聞きたかった。
レイニャの声がハープに重なる。
理央は鑑定の表示を閉じ、背筋を少し伸ばした。
舞台のレイニャが一度だけこちらを見る。
理央は笑った。
その旋律は、昼の畑の風も、探し歩いた草の匂いも、腕の中で鳴いていた鶏の声も、まだ知らない旅の道も連れていくようだった。
レイニャの音は、今日出会ったものを順番に並べるのではなく、ひとつの曲の中へ抱き込んでいく。
理央はその音が消えるまで、目を離さなかった。
遠い農家では、女の子が家族のそばで休んでいた。
あれだけ逃げた鶏は、今度こそ腕の近くにいる。
「今日はもう逃げちゃ駄目だよ」
「コケ?」
女の子は鶏の頭をそっと撫でた。
その小さな声を聞き、家族の誰かが笑った。
鶏は、今度は逃げずにその手のそばにいた。