朝の事業所には、窓から差し込む春の光が机の端まで届いていた。
人の少ない時間で、紙をめくる音と、廊下を行き来する足音がよく聞こえる。
共用机には昨夜の片づけで残ったものもなく、今日の仕事を始めるための帳面だけが揃っていた。
紙束を揃えていた澪は、帳面を閉じる前に今日の予定を確かめている。
大学へ出るまで、まだ少し時間があった。
理央は声をかける間合いを測りながら、机の反対側で自分の持ち物を整えていた。
昨夜からずっと気にしていたわけではない。
それでも朝になって人のいる場所へ来ると、一人で見ただけの表示を誰かと確かめておきたくなった。
「澪さん、ちょっといいですか」
共用机の向こうから、理央が声をかけた。
「はい?」
「昨日、また増えたんですけど」
澪の手が帳面の上で止まった。
驚くより先に、理央の顔を見返す。
「見てもらっていいですか」
「うん」
理央は椅子から立ち、澪の前へ移った。
昨夜、自分で《鑑定》した時ほど胸は騒がない。
演奏が始まる前に見つけて、あの場ではそれ以上を追わずに画面を閉じた。
歌が聞こえる場所で、技能の名前を眺め続けたくなかったからだ。
けれど一晩たっても、あれが見間違いだったとは思えなかった。
澪が理央へ《鑑定》をかける。
理央は表示の中身を見せようとはせず、澪が読み取るのを待った。
澪の目の動きが、見慣れた技能欄の下で止まる。
「……ほんとだ」
「やっぱり見えます?」
「うん」
澪は項目を追い、増えた名前を確かめた。
どれも、昨夜一緒に過ごしたレイニャが持つ技能だった。
演奏、歌唱、語り。
聞き耳と野営、交渉。
白魔法、治癒、解毒。
九つの名前が並び、どれも「芽あり(+)」と出ている。
似た種類の技能が偶然並んだのではなく、昨夜まで隣にいた相手のものが揃っている。
そのことを澪も理央も、いまは疑っていなかった。
「全部、レイニャさんが持ってる技能だよね」
「ですよね」
「共鳴かな」
「私もそう思いました」
理央は自分の手を見た。
昨日、レイニャに助けてもらった。
自分も、レイニャが守っていた約束を一緒に果たした。
それがいつ、どんな瞬間に結びついたのかは分からない。
ただ、《共鳴》が相互の強い絆を条件にすることは、もう知っていた。
「相手の技能がそのまま使えるわけじゃないんですよね」
「うん、芽があるって表示だから」
「レベルも、ジョブも、加護も移らない」
「そう」
澪は長く考え込まず、見えた結果だけを伝えた。
九つの芽は確かに増えている。
けれど、増えた理由を確かめるために、誰かとの仲を試す必要はない。
芽を得るために、わざと危険へ近づいたり、相手の気持ちを量ったりすることでもない。
理央も、そうするつもりはなかった。
何がきっかけになったかを特定することより、レイニャの技能を借りたわけではないと確かめられたことのほうが大事だった。
あの夜のことを思い返せば、答えはもう十分に近くにある。
事業所の戸口で、軽い足音がした。
「おはようニャ」
顔から手首まで続く短い三毛の毛並みが、朝の光を受けて柔らかく見えた。
猫に似た鼻先のひげが揺れ、背中から伸びた尾が戸口で一度だけ弧を描く。
レイニャはハープの紐を直し、二人の様子に目を留めた。
「何かあったニャ?」
「理央ちゃんに、レイニャさんの技能が芽で出てる」
澪が簡潔に答えると、レイニャは理央を見た。
理央も目を合わせたが、昨夜より近くなった気がする相手に何を言えばいいか、すぐには出てこない。
「仲良くなったってことニャ」
レイニャは、答えを見つけたように尻尾を揺らした。
「……まあ、条件だけ見ればそうですけど」
「じゃあ合ってるニャ」
「簡単に言いますね」
「難しくする必要あるニャ?」
レイニャは理央の技能名を聞き、耳をぴんと立てた。
「演奏あるニャ」
「芽です」
「歌唱もあるニャ」
「それも芽です」
「理央も吟遊詩人になれるニャ」
「なりません」
「ハープ貸すニャ」
「いりません」
レイニャの手が、ハープの紐から離れかける。
理央は反射的に首を振った。
澪が笑いを漏らす。
理央もつられて口元を緩めた。
技能の話をしていたはずなのに、いつの間にかハープを弾かされそうになっている。
澪は鞄へ帳面をしまい、そろそろ出る支度を始めた。
「あ、そろそろ大学行かないと」
「今日は大学ニャ?」
「うん」
レイニャは出しかけた手を戻し、ハープの位置を直した。
技能欄のことを長く話す時間はなかったが、急いで結論を出す必要もなかった。
理央は澪を見送りながら、昨夜の出来事を事故の記憶だけで閉じなくていいのだと思った。
レイニャも、そのことを説明する代わりに、いつもの調子で尋ねる。
「理央はレヴァニアで何見るニャ?」
明日の飛行船便には、理央もレイニャも乗る。
押入商会の買付けが優先で、行き先を自由に回れるのは空き時間だけだ。
理央には飛行中に《順風満帆》を一人だけ意識して試す予定もある。
それでも、目の前の仕事だけで旅を終えるつもりはなかった。
「まず市場は見たいです」
「やっぱり商人ニャ」
「商人ですから」
「レイニャさんは?」
「歌ニャ」
「それは分かってます」
「楽器も見るニャ。酒場も。食べ物も」
「増えてますけど」
「知らない国へ行くニャ。増えるのが普通ニャ」
理央は机の端から紙を一枚取った。
市場で見たいものを一つ書く。
レイニャは歌と楽器を書き、すぐ横に酒場と食べ物を足した。
「そんなに書いたら、買付けの時間がなくなりますよ」
「全部見るとは言ってないニャ」
「じゃあ、何を見るんですか」
「着いてから決めるニャ」
理央は紙の余白に、レイニャが歌にしたくなるもの、と書き加えた。
「私はレイニャさんが歌いたくなるものを一つ探します」
レイニャの耳が少し上がる。
「じゃああたしは、理央が面白がるものを一つ探すニャ」
「お願いします」
小さな約束を紙に残すと、明日の旅が少しだけ自分たちのものになった。
理央は紙を折らず、机の端へ置いておく。
買付けの予定を忘れないための仕事のメモとは、書き足した言葉の温度が違っていた。
レイニャはそれを見て、もう一度「一つニャ」と念を押す。
理央は、翌日の買付けが先にあることを思い出して頷いた。
訪問先や時間を二人で決めたわけではない。
空いた時間に目に入ったものを見て、仕事の邪魔にならない範囲で楽しむ。
「見つけるものは一つずつです」
「気に入ったら二つでもいいニャ」
「見つける前から増やさないでください」
レイニャは笑い、理央はその紙を買い物に持っていく物の間へ挟んだ。
明日の予定表にするほどではない。
けれど、二人で同じものを探す目印にはなりそうだった。
昼過ぎ、二人は翌日の旅に必要な小物を買い足すため、領都の商店街へ出た。
石畳の道には荷車が行き交い、露店の呼び声が絶えない。
焼いたパンの匂いに、煮込み料理と肉を炙る煙が混じっていた。
食堂の戸口では客が昼食を待ち、酒を出す店では昼間から杯を傾ける人がいる。
焼きたてのパンを抱えて歩く子どもが、母親に急かされて人波を抜けた。
荷車が曲がるたび、露店の売り手は商品を道へはみ出さないよう引き寄せる。
旅人宿の看板は、通りの先にもいくつか見えた。
レイニャは店先の色紐に目を留め、木工品の並ぶ台では手を伸ばす前に値札を確かめ、乾燥果物や香草の露店にも寄り道した。
理央は品物そのものより、値段と並べ方が気になった。
レイニャは逆に、売り手の声や客とのやり取りへ耳を向けている。
同じ露店を見ているのに、二人が拾っているものは違っていた。
「これ、レヴァニアにもあるか見るニャ」
「それ、さっきも言ってませんでした?」
「比べるニャ」
「もう商人みたいですね」
「理央がうつったニャ」
「共鳴のせいにしないでください」
小さな買い物を済ませ、通りをいくつか歩くうち、理央の足取りが遅くなった。
荷物は重くない。
ただ、店先を眺めては歩き、歩いてはまた立ち止まるのを繰り返して、考えていたより時間が経っていた。
急ぐほどではないが、立ち止まって一息入れたい。
「ちょっと座りたいですね」
言ってから、理央は店の看板を探した。
食事をしたいわけではない。
酒を飲みたいわけでもない。
ただ座って、お茶と甘いものが欲しい。
ゲンダイなら、それだけで入れる店がいくらでもあった。
目の前にあるのは食堂、酒場、露店、宿屋だった。
飲み物を買うことはできても、席に腰を下ろしてお茶と甘味だけで過ごす場所は、すぐには見当たらない。
理央は店の看板をもう一度目で追ったが、目に入るのは食堂、酒場、露店、宿屋だった。
「……喫茶店、ないんですね」
「キッサテン?」
レイニャが首を傾ける。
「お茶を飲んだり、甘いものを食べたり、本を読んだり、話をしたりする店です」
「ごはんは?」
「食べる人もいますけど、食べなくてもいいんです」
「酒は?」
「飲まなくてもいいです」
「何しに入るニャ?」
「……休みに?」
「休むだけでお金払うニャ?」
「そう言われると、変ですね」
理央は自分で笑った。
「お茶は飲みたいんですけどね」
「じゃあ飲むニャ」
「ここで?」
通りは人も荷車も多い。
道の脇で道具を広げれば邪魔になるし、店先をふさぐのもよくない。
二人は人の流れを外れ、商いの邪魔にならない草地へ移った。
馬車の通り道からも離れ、足元に割れ物が落ちていないのを確かめてから、理央は周囲を見回す。
「ここなら大丈夫かな」
収納を開くと、靄の向こうから折り畳み椅子が二脚現れた。
小さなテーブルを置き、続けてパラソルを広げる。
ティーポットとカップ、小皿、匙を並べると、空き地の一角に二人分の席ができた。
石造りの街並みは少し遠く、春の風がパラソルの布をそっと持ち上げる。
荷車の音や売り手の声はまだ届くものの、話を遮るほど近くはなかった。
椅子の脚が草を押さえ、テーブルの上でカップが並ぶ。
理央が温かいお茶を注いだ。
それから収納から、冷たいプリンを二つ取り出す。
さっきまで店先で品物を見比べていたレイニャの注意が、皿の上へ移った。
レイニャの耳が立つ。
「……何始めるニャ?」
「喫茶店がないので、作ります」
「店ニャ?」
「二人だけですけど」
レイニャは椅子を見てから、あたりを確かめた。
「客、あたしだけニャ」
「貸し切りですね」
「ずいぶん贅沢ニャ」
「お茶とプリンだけです」
理央はプリンの皿をレイニャの前へ滑らせた。
薄黄色の表面に濃い茶色のカラメルが流れ、匙が触れるたび、皿の上で全体が小さく揺れる。
白い皿の縁には、カラメルが細く伸びていた。
理央は自分の皿にも匙を添え、先に食べるよう促す。
レイニャは顔を寄せ、甘い匂いを確かめるように鼻を動かした。
切り分けた菓子とは違い、端を崩さなくても匙ですくえる。
形を保ちながら、触れれば揺れる柔らかさが、レイニャにはまだ見慣れないものだった。
「これ何ニャ」
「プリンっていいます」
「プリン」
「卵と砂糖と牛乳で作ったお菓子です」
レイニャは皿の上のプリンを覗き込む。
「卵ニャ?」
「はい」
「卵がこれになるニャ?」
「なります」
「卵、忙しいニャ」
理央は吹き出した。
レイニャは匙を入れ、ぷるんと揺れたひと匙を口へ運ぶ。
前へ向いていた耳が、もう一度ぴんと立った。
尻尾の先も、一瞬だけ動きを止める。
「どうです?」
「……もう一個あるニャ?」
「まだ一口ですよ」
レイニャはカラメルも一緒にすくう。
今度は、口へ運ぶ前に茶色い部分を少しだけ舐めた。
甘さのあとから来る苦味に、眉間がわずかに寄る。
「甘いのに、ちょっと苦いニャ」
「それがカラメルです」
「この茶色いのが、プリンの味を変えるニャ」
「はい。カラメルがないと、また違う味になります」
レイニャは皿の上のプリンを、崩さないようにもう一度匙ですくった。
ひと口食べたあと、レイニャはすぐ次を口へ運ばず、黄色い部分とカラメルを見比べている。
匙の上で混ざった二つの味を、今度は別々に食べてみた。
甘さと苦味の順番が変わると、口に残る味も少し違う。
理央はその様子を急かさず、自分の分を一口食べてからお茶を飲んだ。
味だけでなく、目の前の形がどうやってできたのかも気になっているようだった。
「プリン、どうやって作るニャ?」
「作り方ですか?」
「卵と牛乳と砂糖を混ぜたら、こうなるニャ?」
「混ぜるだけじゃならないです」
レイニャの耳がまた上を向いた。
「まず、砂糖を熱してカラメルを作ります」
「最初ニャ?」
レイニャは皿の茶色いところを見た。
「これ、上にあるニャ」
「最初は型の底に入れるんです」
「下ニャ?」
「下です」
「でも今は上ニャ」
「最後に皿へひっくり返すので」
レイニャはプリンと皿を交互に見た。
「プリン、最後に逆さになるニャ」
「そうです」
それがよほど面白かったのか、レイニャは何度もカラメルを見た。
「次は卵と砂糖を混ぜます」
「いっぱい混ぜるニャ?」
「泡立てすぎないようにします」
「泡だらけにはしないニャ」
「そうです」
理央は空中で、混ぜる動きを示した。
「牛乳は別に少し温めて、卵へ少しずつ合わせます」
「なんで少しずつニャ?」
「熱すぎる牛乳を一度に入れると、卵が先に固まっちゃうからです」
「途中で卵焼きになるニャ?」
「ものすごく雑に言えば、そんな感じです」
「プリンの途中に卵焼きが出てくるニャ」
「失敗すると、です」
レイニャは真剣に頷いた。
話を聞く時の顔は、歌にする言葉を選んでいる時とよく似ている。
「混ぜたら、こしてなめらかにします」
「こすニャ」
「それからカラメルを入れた型へ注いで、強い火で一気に固めないように、蒸すか湯せんでゆっくり火を通します」
「ゆっくりニャ」
「そうです」
レイニャは匙の先で、残ったプリンを揺らした。
皿の上で、柔らかな表面が小刻みに震える。
「これを守るためニャ」
「そうです」
「熱を入れたら、冷まして」
「はい」
「最後に皿へ返すニャ」
「そうです」
レイニャの目は、ずっと皿の上にあった。
「下にいたのに、上ニャ」
「そこが気に入りました?」
「面白いニャ」
説明が終わると、レイニャの指がテーブルを叩き始めた。
とん、とん、とん。
理央はカップを置く。
「……何してるんです?」
「待つニャ」
レイニャは小さく歌い始めた。
「砂糖を熱してカラメル、型の底で待ってるニャ」
指先の拍子に合わせ、言葉が少しずつつながっていく。
「卵と砂糖を合わせたら、牛乳ゆっくり少しずつ」
「もう歌になってる」
「まだ途中ニャ」
「こしてなめらか型の中、急がずゆっくり火を通す」
理央は笑いながら、レイニャの節を聞いた。
歌い出しは、テーブルを叩く指の拍子とぴたりと合っていた。
途中で「型の底」と「皿の上」を取り違えそうになり、レイニャは一度だけ歌を止める。
皿を指して位置を確かめると、今度は順番を間違えずに続けた。
言葉は料理の説明なのに、レイニャの口から出ると、手順をたどる小さな行進みたいに聞こえる。
理央は一度目の節で笑い、二度目には最後の「ぷるぷる」を一緒に口ずさんだ。
声を合わせたのは、その短い言葉だけだった。
それでもレイニャは、理央が曲の中へ入ってきたように嬉しそうに振り向く。
理央は、もう一度歌うように求められる前にカップへ手を伸ばした。
レイニャは追いかけず、代わりに自分の節を少しだけ繰り返す。
笑い声が重なり、風に揺れるパラソルの下でしばらく続いた。
レイニャは聞き逃さなかった。
「理央も歌うニャ?」
「今のは、つられただけです」
「芽があるニャ」
「芽があっても歌いません」
「じゃあ、聞く係ニャ」
「それならできます」
「熱が入ったら冷ますニャ、冷めたら皿へ返すニャ」
レイニャは一拍置いた。
「下にいたのが上に来るニャ」
「そこ、そんなに大事ですか?」
「面白いニャ」
「ぷるぷるプリンの出来上がりニャ」
「結局そこなんですね」
「一番大事ニャ」
短い歌が終わる。
レイニャは自分の歌に満足した様子で、帳面を収納から取り出した。
今日の節をページへ書き留め、その横に小さな耳の形を描く。
「耳の印?」
「理央から聞いたニャ」
理央は、レイニャが帳面に決めていた記号を思い出す。
「自分で作って確かめたら、目もつけるんでしたね」
「そうニャ」
「じゃあ丸は?」
「お菓子をちゃんと作る人に聞いてからニャ」
「私じゃ駄目ですか?」
「理央、プリン屋ニャ?」
「違います」
「じゃあ耳ニャ」
理央は口元を押さえて笑った。
「これ、レヴァニアでも作れるニャ?」
「卵と牛乳と砂糖があれば、似たものは作れると思います」
「じゃあ向こうのお菓子も見るニャ」
「それは私も見たいです」
「キッサテンも探すニャ」
「喫茶店です」
「レヴァニアにはあるかもしれないニャ」
「似たお店があるかもしれませんね」
レイニャは帳面を閉じた。
「理央が面白がるもの、一個決まったニャ」
「まだ着いてませんよ」
「休む店を探すニャ」
「じゃあ私は、レイニャさんが歌いたくなるお菓子を探します」
レイニャの耳が、嬉しそうに持ち上がった。
「それがいいニャ」
理央は朝に書いた紙を出し、余白へ休むための店と、レヴァニアのお菓子と書き足した。
買付けの仕事を邪魔しない範囲で、見つけたものを二人で楽しむ。
市場を回る時間も、現地の商人と会う時間も、もともとの旅の用事として決まっている。
空き時間に何かを一つ見つけられれば、それで十分だった。
旅の目的が膨らみすぎないよう、そこだけは忘れないことにした。
お茶を飲み終えると、理央はカップと皿、ティーポットを順に収納へ戻した。
椅子を畳み、テーブルをしまい、最後にパラソルを閉じる。
道具が靄の中へ消えていくたび、小さな喫茶店の形がほどけていった。
「店、なくなったニャ」
「閉店です」
「早いニャ」
さっきまで席のあった場所には、草地と春風だけが残った。
昨日、草の上を走り続けた時とは違う風が、パラソルの跡を撫でていく。
その風を受けても、二人の肩にはもう力が入っていなかった。
レイニャは閉じた帳面を収納へ戻し、理央は紙をなくさないよう手元へしまった。
夕方、事業所へ戻ると、二人は買い足した小物とそれぞれの荷物を確かめた。
レイニャは旅用品、演奏用品、治療用品、食料の順に置き分け、収納へ入れる前に空きが残っているかを確かめる。
以前のように、持てるだけ詰めるつもりはなかった。
理央も筆記具と記録用の小物をまとめ、着替えと飛行中の《順風満帆》試験に使うノートを鞄へ収める。
買付け荷物は飛行船側の運用になるため、二人の個人荷物へ押し込むことはない。
「空きあります?」
「あるニャ」
「本当に?」
「まだ疑ってるニャ」
「前に詰めすぎましたから」
「昔の話ニャ」
「数日前です」
レイニャは荷物を整えながら、昼に作ったプリンの節を小さく口ずさむ。
覚えるつもりがなくても、手順と拍子が結びつけば、節は何度も戻ってくる。
最後の「ぷるぷる」のところだけ、レイニャは少し楽しそうに声を弾ませた。
「まだ歌ってるんですか?」
「もう覚えたニャ」
「自分で作ってないのに」
レイニャは帳面の端を指で叩いた。
「だから耳ニャ」
理央は、朝に書いた紙へ目を落とす。
市場、歌、楽器、食べ物、現地の商人。
その脇には、休むための店とお菓子も加わっていた。
「理央」
「はい?」
「明日から歌が増えるニャ」
「まだレヴァニアに着いてませんよ」
「知らないものがいっぱいあるニャ」
レイニャは帳面を閉じ、荷物の上にそっと置いた。
「知らないものがあると、歌が増えるニャ」
理央は笑った。
レイニャは、初めて見た菓子の作り方を歌にして、明日から見つけるものまで楽しみにしている。
理央はその声を聞いて、レヴァニアへ行く理由が自分の中でもう一つ増えたのを感じた。
明日の飛行船では、試験の数値だけを気にして窓の外を見過ごさないようにしよう。
そう思うと、まだ見ぬ市場や菓子の並ぶ店先まで、今から少し楽しみになった。
「じゃあ、いっぱい見つけましょう」
「ニャ」
翌朝には飛行船へ乗る。
レイニャは、閉じた帳面の耳印を確かめるように、表紙を一度だけ撫でた。
明日、知らない土地で何を見つけるかは、まだ誰にも分からない。
けれど二人には、それを一緒に探す約束ができていた。