理央は、木札に焼きつけられた「七」の字を見つめていた。
帳面にあった「北・灯台・七」。
偽銀貨の工房で見つかったものは、どれも断片ばかりだ。
だが、連行されようとしている男の顔には、その断片を知っている者の動揺があった。
「待ってください」
衛兵が男の腕を引く手を止めた。
ナジムが理央を振り返る。
「どうしました?」
「少しだけ、その人を見てもいいですか」
男は、理央の目を避けた。
「《鑑定》します」
「鑑定……?」
男の声がわずかに裏返る。
レイニャの耳が、ぴくりと動いた。
「嫌そうニャ」
理央は男を見た。
「《鑑定》」
----------------------------------
トゥルグト
分類:人間
現在ジョブ:荷運び人
レベル:8
状態:恐慌
疲労度:37%
身体異常:なし
----------------------------------
既得スキル
運搬:7
荷造り:6
馬車操作:5
鋳造:4
彫金:3
聞き耳:2
交渉:2
----------------------------------
文字は理央にしか見えない。
彼女は画面を確かめ、必要な項目だけ口にした。
「荷運び人です」
「だから言っただろ!」
男が衛兵の手を振りほどこうとする。
「でも、《鋳造》4があります」
男の動きが止まった。
ナジムの視線が鋭くなる。
「鋳造?」
「《彫金》3も」
ルネスタが木札から顔を上げた。
「荷運び人に?」
「昔やってただけだ!」
「鍛冶屋だったんだよ!」
理央は、鑑定結果をもう一度見た。
そこに過去の職歴はない。
「鍛冶屋だったかどうかまでは分かりません」
「それでいい」
ナジムは、男の言葉を遮らなかった。
「鋳造ができたら犯罪者なのか!」
「そんなことは言っていません。」
「ですから、話を聞きます」
男は言い返しかけ、結局、口を閉じた。
理央はスキル欄を見下ろした。
「運搬7、荷造り6、馬車操作5」
「かなり運ぶ人ニャ」
「聞き耳2、交渉2」
「戦う人ではなさそうニャ」
「技能だけを見るなら」
レイニャは、男の腕を押さえる衛兵へ目をやった。
「そうニャ。」
「見ただけじゃ分からないニャ」
ナジムが男の名を呼ぶ。
「トゥルグト」
男は勢いよく振り向いた。
「……なんで名前まで」
「鑑定に出ました」
「便利すぎるだろ……」
「理央は便利ニャ」
「人を道具みたいに言わないでください」
レイニャはひげを揺らし、何か言いかけて口を閉じた。
ナジムは帳面を閉じず、そこに並ぶ符号を指で押さえた。
「地下工房から逃げた。」
「偽銀貨を持っていた。」
「荷の移動にも関わり、《鋳造》を持っている。」
挙げられた事実を聞くうち、トゥルグトは口を挟む機会を失った。
「偶然が多すぎますね」
男は答えなかった。
「北の古い見張り塔について知っていますか」
問いに、トゥルグトの目が一瞬だけ横へ動いた。
「今、反応したニャ」
「してねえ!」
「したニャ」
「してない!」
「したニャ」
「うるせえ!」
レイニャは耳を前へ向けたまま、悪びれない。
ナジムはそのまま続けた。
「『七』という数字に心当たりは?」
今度、男は顔を動かさなかった。
それでもレイニャの耳が、わずかに伏せられた。
「息、止めたニャ」
トゥルグトは口を結ぶ。
「今の質問の時だけニャ」
「なるほど」
ナジムの声に、男の苛立ちが重なった。
「猫まで連れてくるなんて聞いてねえぞ」
その場の空気が止まった。
「……聞いてない?」
理央が聞き返す。
「誰から聞いてないの?」
リュシアが続けた。
ルネスタは、男から目を離さない。
「お前、今のは失言だぞ」
「猫じゃないニャ」
レイニャは胸を張った。
「ケット・シーニャ」
「そこですか?」
「大事ニャ」
トゥルグトは返事をせず、衛兵に腕を取られたまま目を伏せた。
理央たちがここへ来ると、誰かから聞かされていたらしい。
ナジムは追及を続けず、衛兵へ合図した。
「別室で正式に話を聞きます。」
「連れていってください」
トゥルグトが数歩引かれたところで、急に振り返った。
「おい!」
理央を見る。
「北へ行くならやめとけ!」
「歩け!」
衛兵に促されても、男は声を張った。
「本当に死ぬぞ!」
それきり、何も言わず連れていかれた。
「脅しニャ?」
レイニャが尋ねる。
「……そう聞こえませんでした」
理央の指先には、さっき人へ《重力》を使った時の震えがまだわずかに残っている。
ルネスタは北の方角を見た。
「古い見張り塔の周りには、今は何もない。」
「だから荷を隠すには都合がいい」
「でも『死ぬ』って、見つかるって意味じゃなさそうだね」
リュシアが言うと、ナジムは帳面の「北・灯台・七」へ視線を落とした。
「衛兵を増やして確認します」
理央は木札をナジムへ返した。
「北の見張り塔を確認しましょう」
ナジムは衛兵へ人数を伝え始めた。
レイニャは理央の手元をちらりと見て、震えが残る指へ自分の指先をそっと重ねる。
北の見張り塔へ続く道は、途中から草に覆われていた。
衛兵が先頭を進み、その後ろにナジムとルネスタが続く。
理央とレイニャは、リュシアとともに隊列の後方にいた。
道の両側には、背丈のある草と崩れた石垣が続いている。
塔はまだ遠い。
それでも、人の声も荷車の音も聞こえないこの場所では、風が草を揺らす音ばかりが耳についた。
「ここから先は、足元を見て進め」
ナジムが前方へ声をかける。
若い衛兵が頷き、草を踏み分けた。
その靴先が、地面を横切る細い線に触れる。
カチ、と乾いた音がした。
「止まるニャ!」
レイニャが叫んだ。
斜面の上で土が崩れた。
大岩が跳ね、後ろから丸太がいくつも転がり始める。
若い衛兵は、何が起きたのか分からないまま立ちすくんでいた。
理央の視界に、岩の影が迫る。
「《重力》!」
狙ったのは、先頭の大岩だった。
岩の動きが急に鈍り、斜面を削りながら地面へ沈み込む。
その横を丸太がぶつかり、進路を外れて散った。
「伏せろ!」
ナジムの声に、衛兵たちが左右へ身を投げる。
丸太の一本が石垣にぶつかって止まり、別の一本は草むらを押しつぶして転がり抜けた。
最後に小石がばらばらと斜面を下り、静けさが戻った。
「動くな。」
「ほかにも線があるかもしれん」
ナジムが片手を上げる。
若い衛兵は、岩に押しつぶされかけた足元を見たまま、うまく返事ができなかった。
「怪我は?」
リュシアが尋ねる。
「ありません」
声がかすれていた。
理央は手のひらを握る。
人ではなく岩へ使った。
止めたのは一つだけだ。
それでも、地面のひびを見ていると、力の加減を間違えれば何が起きるか考えずにはいられなかった。
「全員、足元を見ろ!」
「線を探せ!」
「塔へ急ぐな!」
ナジムは衛兵を散らし、罠の位置を確かめさせた。
レイニャは道ではなく、塔の方へ耳を向けた。
「火ニャ!」
見張り塔の上に、火が一瞬だけ上がった。
合図のように見えた。
直後、足元の奥から鈍い音が響いた。
ドン。
地面がかすかに揺れ、崩れた石垣から砂が落ちる。
「地下で爆発した?」
リュシアが塔を見た。
「証拠を燃やしているのかもしれません」
ナジムは、仕掛け線の先を見つめた。
「あるいは、通路を潰している」
動かなくなった大岩の縁から、土が少しずつこぼれ落ちている。
さっきの一撃がなければ、若い衛兵はあの岩に巻き込まれていた。
理央は塔から目を離さなかった。
トゥルグトの声が耳の奥によみがえる。
本当に死ぬぞ。
その言葉は、脅しでは済まなかった。
ナジムは衛兵を二組に分けた。
ひと組には、見つかった仕掛け線の確認を命じる。
もうひと組は、塔の周囲を回って逃げ道を押さえる。
理央たちは、斜面から少し離れた窪地に残った。
「正面から入るのは危険ですね」
「罠が残っているかもしれません」
理央は《世界地図》に意識を向け、塔の周囲を確かめた。
裏側は斜面になっている。
岩壁や崖ではなく、人が立てるだけの平地がある。
相手の目の前へいきなりつなぐより、まずはそこから中の様子を見たい。
「裏側だけ見ます」
リュシアが理央の袖をつまんだ。
「開けて入るんじゃないよ」
「はい。」
「様子を見るだけです」
「隙間だけニャ」
レイニャが耳を塔へ向ける。
理央は安全な窪地に立ったまま、《関門接続》を使った。
靄が足元から伸び、縦に細長い扉の形を作る。
理央は扉を、ほんの少しだけ開けた。
向こうに見えたのは塔の裏手だった。
荷車が四台ほど並び、その周りで十人以上が慌ただしく動いている。
地下から箱を運び出す者。
馬の手綱を引く者。
荷台の上で、何かを急いで固定する者。
「急げ!」
「七番を先に出せ!」
「入口を潰せ!」
理央とレイニャは目を合わせた。
帳面の数字が、今度は人の声になっていた。
「七番……」
その時、荷車の脇にいた男が扉を見つけた。
「何だ、あれ!」
男が何かを投げる。
「閉じます!」
理央はすぐに扉を閉じた。
靄が消える。
投げられた物がこちらへ届く前に、向こう側は見えなくなった。
理央は息を吐いた。
入らずに見ただけでも、相手には扉の存在を知られた。
「十分です」
ナジムが短く告げた。
「向こうもこちらの力に気づいたでしょう」
「はい」
理央の手のひらに汗がにじむ。
裏側の男は、あの扉を見た。
次に開けば、向こうは何かを用意して待つかもしれない。
塔の裏手から、荷車が次々に動き出した。
馬のいななきが斜面に響き、車輪が石をはねる。
「逃げ道を押さえろ!」
ナジムの声に衛兵が走った。
塔へ続く道をいくつかに分けて塞ぐ。
そのうち一台が、坂を下ってくる。
御者は手綱を強く引き、道の先を見た。
待ち伏せの衛兵がいる。
馬が速度を落とす前に、理央は《世界地図》で道の先を確かめた。
封鎖線の脇に、平坦で広い空き地がある。
「一台だけ、止めます」
ナジムが頷く。
「衛兵は向こうで待機。」
「馬を驚かせるな」
理央は、坂の先からその空き地へ《関門接続》をつないだ。
道の途中に、靄をまとった扉が現れる。
御者が手綱を引く。
馬の前脚が地面を掻いたが、荷車の勢いは消えきらなかった。
馬は扉をくぐり、荷車も続いて空き地へ出る。
出口の両側に待っていた衛兵が、すぐさま手綱を押さえた。
「動くな!」
御者の腕が背中へ回される。
理央は、扉を閉じてから空き地へ向かった。
「違う!」
「これじゃない!」
拘束された御者が、荷台を振り返って叫ぶ。
「何が違う」
ナジムが尋ねた。
「七番はこれじゃない!」
「七番はどこです?」
理央の問いに、男は唇を噛んだ。
「もう出た!」
「俺は囮だ!」
衛兵が箱のひとつを開ける。
中にあったのは銀貨ではなく、灰色の板だった。
板は箱いっぱいに積まれている。
「偽銀貨の材料でしょうか」
理央は手を伸ばさず、ナジムの判断を待った。
「証拠品として運べ。」
「手を加えるな」
ナジムは周囲の衛兵にも聞こえる声で命じた。
「別の荷車は、どちらへ?」
御者は答えず、視線をそらした。
ナジムは別の衛兵へ指示を飛ばす。
「残りの道を押さえろ。」
「塔の地下も調べる」
理央は、箱いっぱいの灰色の板を見た。
七番はここにはない。
囮の荷車を衛兵へ引き渡すと、ナジムは塔の周囲をもう一度調べるよう指示した。
爆発の音がした側では、石と土が崩れ、搬入口らしい場所が半分ほど埋まっていた。
衛兵が周囲の土を崩さないよう、木枠を当てて入り口を確保する。
「中へ入るのは、足場を見てからだ」
ナジムが先に注意した。
理央は、崩れた石の向こうに続く暗がりをのぞいた。
人ひとりがかがめば通れそうな幅だ。
入口の脇に、車輪の跡が残っている。
「ここから地下の道が続いていると思います」
理央がそう認識した瞬間、《世界地図》に細い線が浮かんだ。
入口から北へ伸び、途中で何度も折れながら王都の外へ続いている。
「……出ました」
「何がです?」
「地下の道です。」
「入口が分かったら、そこから先がつながりました」
線は井戸や建物の下を通らず、ところどころ不自然に折れている。
「今ある建物や井戸を避けています。」
「古い水路をそのまま使っただけじゃなさそうです」
「比較的新しいということか」
ナジムが確かめる。
「少なくとも、今のレヴァニア王都の形を把握して掘られています」
「地下を全部見ているわけじゃないんだね」
リュシアの言葉に、理央は頷いた。
「見つけた入口から続く道だけです」
レイニャは、崩れた入口の近くにしゃがみ込んだ。
「まだ音がするニャ」
「人ですか?」
「違うニャ。」
「ズズッ、ズズッって」
レイニャは、土に耳を寄せるようにして聞き分けた。
「馬車の車輪じゃない。」
「もっと重いものを引いてる音ニャ」
理央は地図の線を追った。
地下道は王都の外へ抜け、岩山の手前で途切れている。
「ここで止まっています」
ナジムが位置を尋ねる。
理央が地図の位置を伝えると、ルネスタはすぐに頷いた。
「昔の採石場だ。」
「今は閉鎖されている」
「そこも使われていない場所ニャ」
レイニャは耳を上げた。
「人目を避けるなら便利だからね」
リュシアの声は硬かった。
「嫌な便利ニャ」
採石場の北には、王都の主要道へつながらない細い道が伸びている。
木々に隠れた細い道は、地図上でも主要道に合流せず途切れていた。
「偽銀貨だけで、こんな道まで必要でしょうか」
理央は地図から目を離した。
ナジムは答えず、まず採石場への経路を衛兵と共有した。
「足跡と車輪の跡を追う。」
「急ぐが、隊列は崩すな」
採石場の場所が分かっても、何が運ばれたかは分からない。
レイニャは、まだ地下から続くかすかな引きずる音を聞いていた。
囮の箱は、塔の外で衛兵が見張っていた。
ナジムは、中身を動かさないよう周囲に人をつけている。
理央は少し離れて、箱の上に並べられた灰色の板を見た。
「鑑定してもいいですか?」
「触れない範囲でお願いします」
ナジムが答える。
理央は板へ目を向けた。
「《鑑定》」
----------------------------------
鉛板
分類:加工金属
主成分:鉛
状態:良好
加工:圧延・切断
製造時期:比較的新しい
----------------------------------
「鉛です」
「貨幣用にしては大きいな」
ルネスタが腕を組む。
リュシアは板の端を見て、首を傾けた。
「鉛って銀より重くない?」
理央の目が、積まれた板へ戻る。
地下工房で、偽銀貨は本物より少し軽いと聞いた。
「……そうだ」
「何ニャ?」
「偽銀貨は、少し軽いって話でした。」
「鉛を中に入れたら、むしろ重くなります」
「その通りだ」
ルネスタは、箱の縁に取り付けられた金具を指で示した。
「芯に使うなら、重さが合わなくなる」
「板そのものが偽銀貨に使われるわけじゃないんですね」
レイニャが、鉛板の端へ鼻先を近づける。
「ここ、同じところに折り目があるニャ」
理央は目を凝らした。
板の両端に、同じ幅の折り返しがある。
角には小さな穴も並んでいた。
「何かへ取り付けるための形に見えます」
「空き箱を持ってこさせよう」
ルネスタが衛兵に頼み、荷車と同じ寸法の木箱を用意させた。
ナジムは確認に使う鉛板の枚数を記録し、証拠品の束から六枚を選んだ。
ルネスタは板の端だけを支え、傷をつけないよう箱の外側へ沿わせていく。
四枚で側面を覆える。
もう一枚を底へ、最後の一枚を蓋へ当てる。
「六枚で、内側を囲める寸法だ」
ルネスタは板を加工せず、木箱の縁に沿わせるだけにとどめた。
「箱の中を鉛で囲むニャ?」
レイニャが、箱をのぞき込む。
「何のために……」
理央は板の穴を見た。
木箱の内側へ固定するなら、位置は合いそうだった。
「魔法を隠すためニャ?」
レイニャが思いついたように言う。
ナジムも、リュシアも、すぐには答えなかった。
「思っただけニャ」
「確かめる方法はあります」
理央は、捕らえた荷車の方を見た。
「記録した六枚を使って、箱を作れませんか。」
「板を切らずに内側へ組むだけなら、証拠を壊さず試せます」
「七番を追うまで、時間がない」
ナジムが念を押す。
「長くはかけません。」
「三十秒でできると思います」
理央は、収納の方へ視線を移した。
ナジムは、記録した六枚の鉛板を試験用に取り分けた。
元の箱と残りの板は保管し、同じ寸法の空箱を試す。
「終わったら、板は元どおりに数えます」
ナジムが念を押す。
「分かりました」
理央は空箱と六枚の板を収納へ移した。
《収納内工程》を使い、箱の内寸へ合わせる。
側面、底、蓋。
折り目を重ね、隙間を減らす。
三十秒ほどして、理央は収納から箱を出した。
木箱の内側は、鉛の板で六面とも覆われている。
「現場で箱を作り始めた……」
リュシアが呆れたように言う。
「理央はこういうことするニャ」
「褒めてます?」
「褒めてるニャ」
「そう聞こえません」
ナジムが用意した鉄片を、まず箱の外へ置いた。
理央が目を向ける。
「《鑑定》」
「見えます」
鉄片を箱へ入れる。
蓋を開けたまま、もう一度《鑑定》する。
「これも見えます」
「閉じたらどうなる?」
ルネスタが尋ねた。
理央は蓋を閉じた。
全員の視線が、箱へ集まる。
「《鑑定》」
少し間があった。
理央は表示を確かめ、眉を寄せる。
「……中が出ません」
「箱自体は?」
ナジムが聞いた。
理央は見えた項目を読み上げた。
----------------------------------
木箱
分類:収納容器
状態:良好
内張り:鉛
内容物:判別不能
----------------------------------
「開けたら、もう一度見てみます」
蓋を開ける。
「鉄片が見えます」
再び蓋を閉じる。
「《鑑定》」
理央は短く息を吸った。
「また判別できません」
開ければ見える。
閉じれば見えない。
「鉛だからなのか、厚さなのか、隙間なく囲ったからなのかは分かりません」
理央は箱から手を離した。
「この箱を閉じると、中の鉄片を判別できない。」
「それだけです」
「七番を運んだ箱も同じ作りなら」
リュシアは言葉を切った。
「中身を鑑定されないため、という可能性はあります」
ナジムが言った。
理央は鉛板の継ぎ目を見た。
《鑑定》を前提に備える者が、自分たち以外にもいる。
それを考えると、箱の中の判別不能という文字が、さっきより重く感じられた。
箱の蓋を閉じる音が、耳に残った。
採石場の上手にある林で、理央たちは身を低くしていた。
閉鎖された採石場には、崩れた石壁と水の溜まった窪地がある。
人の出入りはないはずの場所に、車輪の跡だけが新しく続いていた。
レイニャが、北へ向けて耳を立てる。
「来るニャ」
「何台ですか?」
「まだ分からないニャ。」
「馬と車輪が重なってる」
理央は《世界地図》を見た。
採石場へ入る道はいくつかある。
だが、地図が示すのは道の形で、そこを走る荷車までは映らない。
「北から、ひとつ……」
レイニャが音を数える。
「三台。」
「まだ後ろにいるニャ」
間を置いて、耳がもう一度揺れた。
「五台」
ナジムは衛兵の一人へ合図し、応援を呼ばせた。
「すぐに押さえないのですか?」
理央が尋ねる。
「七番がどれか分からない。」
「慌てて動けば、箱を壊すかもしれません」
採石場の奥へ、五台の荷車が入ってきた。
箱の形も、荷台の覆いも、遠目にはよく似ている。
男たちは荷台の間を行き来し、積荷の覆いや留め具を確かめていた。
レイニャは、目を閉じて音を聞く。
「ひとつだけ、違うニャ」
「どれです?」
「四人で運んでる。」
「下ろすのも、そっとニャ」
荷箱の留め金が鳴る音は、ほかの箱よりずっと小さかった。
男たちが、箱を固定する。
「七番、固定した」
レイニャの耳がぴんと立つ。
「今、七番って」
「言ったニャ」
理央は、五台の荷車を見比べた。
「荷車の番号じゃなく、あの箱を七番と呼んでいるんでしょうか」
「箱の中身を指してるのかもしれないニャ」
まだ、箱は開けられていない。
五台の男たちは、それぞれ違う道へ散ろうとしていた。
ナジムは追う衛兵を選び、理央へ目配せした。
「七番を載せた一台だけを追います」
「道は私が見ます」
「音はあたしが聞くニャ」
五台の荷車は、採石場を出ると別々の道へ散った。
ナジムは衛兵を分け、残りの四台には距離を取ってつかせた。
理央とレイニャは、七番を積んだ一台を追う。
「いま、右へ曲がったニャ」
レイニャが耳を向けたまま告げる。
理央は《世界地図》で道の先を確かめた。
「この道なら川沿いへ出ます。」
「先に回りましょう」
ナジムが衛兵を手で制した。
「正面から追い詰めるな。」
「逃げ道を残して、荷をどこへ運ぶか見る」
木立の陰を選んで進み、道を外れる時は足元の枯れ枝を避ける。
馬の蹄と車輪の音が、遠ざかったり近づいたりした。
レイニャは時折立ち止まり、箱の金具が揺れる音を探した。
「まだ同じ車ニャ。」
「留め具が、少し鳴る」
川の流れが近づくにつれ、森の切れ目から水面が見えた。
道は小さな船着き場へ続いている。
平底の船が一隻、岸につながれていた。
荷車の先には、十人ほどの男が集まっている。
「ここからは、声を出すな」
ナジムが囁いた。
リュシアは理央とレイニャを自分の後ろへ寄せた。
七番の箱が、船着き場の端に置かれる。
理央たちは、木々の陰から動きを見守った。
木々の向こうで、小舟が船着き場へ近づいた。
岸にいた男たちが、声を抑えて迎える。
舟から降りたのは、上等な外套を着た男だった。
荷を運ぶ者たちとは、靴も身のこなしも違う。
男は周囲を一度見回し、それから箱へ目を向けた。
「七番は?」
「ここです」
荷運びの男が、箱の脇へ下がる。
外套の男は、箱の蓋を開けず、側面を指の背で軽く叩いた。
コン。
ほんの短い間があった。
箱の内側から、同じような音が返る。
コン。
理央は息を止めた。
レイニャの耳が、箱の方へぴたりと向く。
外套の男は、返事を確かめてから頷いた。
「まだ生きているな」
理央の隣で、リュシアが息を呑んだ。
ナジムは動かず、男たちの数と立ち位置を見ている。
「起こすな」
外套の男は荷運びの一人へ告げた。
「薬を追加しろ」
小瓶が布袋から取り出される。
「北の経路を通せ。」
「その後は、セレヴィア側から来る受取人へ渡す」
セレヴィア側から来る受取人。
国の名だけでは、誰が受け取るのか分からない。
理央は箱を見た。
さっき返った音の間隔を、頭の中でもう一度なぞる。
レイニャの耳が、小さく動いた。
レイニャは、箱の側面を見つめていた。
外套の男が叩いた時、内側から音が返った。
偶然かもしれない。
理央は、彼女の耳がわずかに揺れるのを見た。
「気づかれません?」
小さく尋ねる。
「小さくするニャ」
レイニャは箱には近づかず、身を隠した木の幹に目を向けた。
手元の小石をひとつ拾う。
「ここでいいニャ」
外套の男たちの会話が途切れた。
レイニャは石を木に当てた。
コン。
間を置いて、もう一度。
コン。
最後に、もう一度。
コン。
三回。
理央は数を声に出さず、指先を握ったまま待った。
箱は動かない。
船着き場では、荷を運ぶ男が縄を確かめている。
「聞こえなかった?」
理央が囁く。
「待つニャ」
レイニャの耳は、箱から離れなかった。
しばらくして。
コン。
コン。
コン。
理央の指が、レイニャの袖をつかんだ。
「返ってきた」
リュシアは口元を押さえた。
ナジムが片手を上げ、後ろの衛兵を止める。
「もう一回ニャ」
レイニャは今度、一度だけ木を叩いた。
コン。
箱の方から、同じ音が一つ返る。
「通じてます」
レイニャは二度、木を叩く。
コン、コン。
箱からも、コン、コン。
三度。
コン、コン、コン。
同じ数が返った。
レイニャは石を握ったまま、もう動かなかった。
箱の向こうで、音を聞いている。
数を受け取り、同じだけ返している。
レイニャの声が、かすれた。
「生きてるニャ」
理央は頷いた。
「……はい」
中にいるものが何なのかは、まだ分からない。
けれど、こちらの音を聞き、返している。
理央の視線が、鉛で覆われた箱から離れなくなった。
箱から三度目の返事があったあと、船着き場の男たちの動きが止まった。
「おい、さっきから変じゃないか」
一人が森を見た。
「何がだ」
「向こうからも音がする」
外套の男は、箱と森を見比べた。
「森を調べろ」
二人の男が、船着き場からこちらへ歩き出す。
理央たちは木の根元へ身を伏せた。
ナジムが指を一本立て、誰も動かないよう合図する。
男たちの靴音が、枯れ葉を踏みながら近づいてくる。
その間に、箱は船のそばへ運ばれた。
積み込む直前で、荷運びの男たちがいったん地面へ下ろす。
木が石に触れた、鈍い音がした。
次の瞬間。
箱の内側から、続けざまに音が鳴った。
コンコンコンコンコンコン。
さっきまでのように数を返す音ではない。
息つく間もなく、何度も叩いている。
「……急いでって言ってる?」
理央はレイニャを見た。
「分からないニャ」
レイニャの耳は、箱へ向いたままだった。
「でも、さっきと違うニャ」
外套の男が、箱を見下ろす。
「面倒だ」
「もう一度薬を入れろ」
小瓶を持った男が、箱へ近づいていく。
「まずい」
リュシアが、理央の肩を押さえる。
眠らせるための薬かもしれない。
量を増やしたら、箱の中にいるものがどうなるか分からない。
「もう待てないニャ」
レイニャの声は、いつもの調子より低かった。
理央は木の陰から身を起こした。
小瓶を持った男までは数歩ある。
衛兵は、まだ突入の位置についていない。
「止めます」