ヴァルトは、開いた扉の向こうから船着き場を見渡した。
衛兵の列、拘束された男たち、脇に広げられた鉛板や木箱の部材、布に包まれた黒いペンダントが、順に目に入った。
最後に、毛布を肩へ掛けたエリフのところで目が止まった。
「……ずいぶん増えましたね」
「ヴァルト君。まず状況を共有しよう」
真壁は理央の開いたノートを受け取り、エリフの証言から要点を拾った。
「七人は、それぞれ違う技能を持っていた」
理央が記した名前を指で追い、真壁は順に読み上げた。
「一番のジェムは《鑑定》と《真贋判定》」
「二番は《毒物感知》、三番は《地図》と《測量》」
「四番は《古文書解読》、五番は《解錠》と《罠感知》」
「六番が《結界感知》と《魔力追跡》で、七番がエリフ君の《魔力感知》と《隠蔽看破》だ」
ヴァルトは口を挟まず、指先を顎へ添えたまま聞いていた。
理央のペン先が、真壁の言葉を追い、技能の横に印を足していった。
「ジェムが残した言葉は、『北ではなく東を見ろ』『扉ではない、鏡だ』『東の鏡を開けるな』」
真壁はラシムへ目を向けた。
「鏡へ行った者は、戻ってきても何かがずれる。そこまではラシムの証言だ」
「東の鏡そのものは知りません」
ヴァルトはすぐに答えた。
「ただ、似た考え方の術式はあります」
レイニャの耳が前へ向いた。
「知ってるニャ?」
「術式の考え方です。実物について知っているわけではありません」
ヴァルトはそう言い添えてから、エリフの顔を見た。
「話せますか?」
「少しならね。長くはさせないよ」
リュシアが水の器を支えたまま答えた。
「分かりました」
ヴァルトはそれ以上、少女へ問いを重ねなかった。
「鏡を使う魔法ですか?」
理央が尋ねると、ヴァルトは地面へ視線を落とした。
ヴァルトは足元の砂を指先でならし、離れた二つの場所を示す線を引いた。
理央は、砂に引かれた線を目で追った。
「普通の転移は、自分を向こうへ移します」
ヴァルトは線の片側から反対側へ指を動かした。
「《関門接続》は、こちらと向こうを扉でつなぐ」
「はい」
「古い境界術には、それとは別に、こちら側へ向こうを映す考え方があります」
理央は線の先に、まだ見えない向こう側を思い浮かべた。
「鏡の向こうへ入るみたいな?」
「そう書かれた記録もあります」
「ですが、同じ『鏡』という言葉で、別々の術式がまとめられている場合があります」
ヴァルトは砂の上へ、先ほどの線と交わらない小さな枠を描いた。
「見えるだけのもの。術式を通すもの。小さな物だけを渡すもの。二つの場所を接続するもの。境界を固定するもの。記録には人が通った例もあります」
「名前だけで用途は決められない、ということだな」
真壁の言葉に、ヴァルトは頷いた。
「そうです、真壁殿」
理央は砂の線を見つめた。
「見つけても、触らない方がいいですか?」
「触らないでください」
返事は短かった。
「正面にも立たない方がいいでしょう。魔力を流さず、術式を削ったり、外そうとしたりもしないでください」
「見るのも駄目ニャ?」
「鏡によります。分からないうちは、正面を避けます」
ヴァルトは一度、息を置いた。
「向こうから声をかけられても、返事をしないでください」
レイニャの耳がぴたりと止まった。
「それ、先に言うやつニャ」
「今言いました」
理央は吹き出しそうになり、口元を押さえた。
真壁は笑わず、砂に描かれた枠を靴先で崩した。
「了解した。現場でも同じ手順にする」
理央はノートに「正面に立たない」「触れない」「魔力を流さない」「返事をしない」と書き込んだ。
理央が注意事項を書き留めていると、ヴァルトが真壁へ顔を向けた。
「境界が活性化している場合、周囲との温度差が出ることがあります」
「必ずか」
「いいえ。可能性の一つです。出ない場合もあります」
真壁の指が、ノートの端で止まった。
「それなら、見る手段はある」
真壁が収納から取り出したのは、少し厚い黒いフレームのスマートグラスだった。
左右の縁には、小さなカメラが取り付けられていた。
理央は見覚えのある機器を見て、眉を上げた。
「それ、サーマル付きですか?」
「ああ。温度差を離れた場所から見る」
「さーまる?」
レイニャが片耳を傾けた。
「熱いところと冷たいところが分かるカメラです」
「人の目には普通に見えるものも、色が違って見えるニャ?」
「そういう使い方もできます」
理央の説明を聞きながら、ヴァルトはグラスの縁とレンズの向きを確かめた。
「接触せずに温度を見られるのですか」
「そうだ」
「それは助かります。魔術の反応と同じものが見えるわけではありませんが、比較には使えそうです」
真壁はグラスを手の中で返し、レンズの汚れを布で拭った。
「役割を分ける。ヴァルト君は魔力、私は温度、理央君は《鑑定》と地図、レイニャ君は音だ」
「任せるニャ」
「現場へ向かう前に、ペンダントを調べる」
真壁の視線が、証拠品を包んだ布へ移った。
ナジムは衛兵のそばに立ち、包みから目を離さなかった。
「ナジム殿。一度だけ、装着状態を再現したい」
「目的は何でしょう」
「この道具だけで偽装が成立するか確かめる。終わればすぐに外す」
ナジムはラシムと証拠品を見比べた。
「衛兵が装着し、理央さんが鑑定する。異常があれば直ちに外す。それが条件です」
「承知した」
衛兵は手袋をつけ、真壁の目配せを受けてペンダントをラシムの首へ掛けた。
エリフは毛布の襟を握ったまま、その胸元を見ていた。
「膜が戻りました」
「理央君」
「《鑑定》」
理央には、ラシムの表示が再び変わった。
----------------------------------
アルダ
分類:人間
現在ジョブ:商人
レベル:6
状態:拘束
疲労度:21%
身体異常:なし
----------------------------------
既得スキル
交渉:6
計算:5
鑑定:3
収納:3
馬車操作:2
----------------------------------
「戻ってます。アルダ、商人Lv6です」
真壁が手を上げた。
「外そう」
衛兵が留め具を外し、ペンダントをすぐ布の上へ置いた。
エリフの目が細くなった。
「消えました」
理央はもう一度、ラシムへ《鑑定》を使った。
----------------------------------
ラシム・デミル
分類:人間
現在ジョブ:密輸商
レベル:14
状態:拘束
疲労度:24%
身体異常:なし
----------------------------------
既得スキル
交渉:8
計算:7
鑑定:6
収納:7
馬車操作:5
偽装:8
隠密:7
毒物取扱:5
薬学:6
錬金:4
----------------------------------
「こっちも戻りました」
「道具単体で再現性がある」
真壁はペンダントを布で包ませた。
「少なくとも、今の条件ではそうです」
「今の条件に限る。そう記録しておこう」
真壁は「装着時」「非装着時」とノートに書き分けた。
それから理央の収納へ目を向けた。
「理央君。普通に収納してみよう」
「はい」
理央が黒いペンダントを《収納》へ入れた。
エリフは目を閉じ、息を整えるようにしてから、首を横へ振った。
「まだあります」
「何が?」
「外につながってる感じ」
理央は収納の内側を確かめた。
「魔力反応も残っています」
「収納しただけで機能が止まるわけではない。当然だな」
真壁はノートへ「通常収納」と書き、理央の方へ向き直った。
「普通の収納と隔離は別だ。今度は隔離へ移そう」
「そうだ。外との作用を切る」
理央は収納の分類を切り替えた。
通常区画から、隔離へ。
エリフが顔を上げた。
「あ」
「消えたニャ?」
「外へ伸びていた感じが消えました」
「道具そのものの魔力はどうですか」
ヴァルトの問いに、理央は意識を向けた。
「中にはあります。でも、外とはつながっていません」
「その見方でよいでしょう」
真壁は理央の手元を見た。
「一度だけ戻そう」
理央が隔離を解くと、エリフは肩を強張らせた。
「戻りました」
「すぐ隔離へ戻します」
再び外との感覚が途切れた。
真壁はノートの端に一本線を引き、試験を切り上げた。
「十分だ。これ以上は繰り返さない」
「向こうに気づかれる可能性がありますか?」
「接続先があるなら、ないとは言えません」
ヴァルトはペンダントから目を離さなかった。
「切断と再接続を何度も試す理由はありません」
理央は隔離区画に置いたペンダントへ、《収納内工程》を使う準備をした。
真壁がヴァルトへ視線を向けた。
「ヴァルト君。このまま外から見て、分かるか」
「表面だけでは難しいです。術式が内側にあるなら、外装を外す必要があります」
「理央君」
「壊さないように、外から順番に分けます」
理央は収納の外から工程を指定し、まず革紐の留め具を外した。
続いて金属の輪を外し、黒い外殻を留める細い爪を一つずつ外していった。
刃先が内側へ向かないよう手順を変えながら、理央は部品の形と並びをノートへ写した。
外殻の内側には薄い銀板があり、表面に細い刻みが規則正しく走っていた。
「銀板が出ました」
ヴァルトは近づきすぎない距離から、目を凝らした。
「これは……鑑定結果へ別の情報を重ねる術式としては、筋が通ります」
「偽装の仕組みですか?」
「おそらく。ただ、断定はできません」
ヴァルトは銀板の端を指さした。
「表面の刻みだけで動いているとは限らないからです」
エリフが毛布を肩に引き寄せた。
「でも、まだ奥にあります」
「奥?」
「別の魔力です。偽装とは違う感じがします」
理央は手を止め、収納内工程の向きを変えた。
銀板の下に薄い支持材があり、そのさらに下に爪ほどの小片が挟まっていた。
暗い灰色で、薄い片面だけが鈍く光を返す。
「ちっちゃい鏡みたいニャ」
「似ていますが、鏡とは決めないでください」
ヴァルトが慎重に言った。
「言っただけニャ」
レイニャが片耳を揺らし、理央は張り詰めていた頬を少し緩めた。
灰色の小片は、収納の隔離区画に置かれたままだった。
理央は小片を隔離したまま、エリフへ様子を尋ねた。
「今はどうですか?」
「静かです」
「隔離を解いたら?」
真壁の問いに、ヴァルトが答えた。
「短時間なら比較できます。接触させる必要はありません」
真壁は頷いた。
「一度だけだ」
理央は隔離を解いた。
エリフの表情が変わり、毛布を握る指に力が入った。
「……これ」
「どうしました?」
「ここにあるのに、ここにないみたいです」
理央は小片から目を離せなかった。
「どこかへ続いているのですか?」
「すごく細く。どこかへ続いてる感じ」
ヴァルトは声を落とした。
「方向は分かりますか」
「分かりません」
「距離は?」
「それも。でも、向こうがあります」
それ以上、エリフの力から答えを引き出そうとはしなかった。
理央は小片へ《鑑定》を使った。
----------------------------------
名称:不明
分類:魔術触媒
状態:良好
主材質:判別不能
付与術式:判別不能
接続状態:有効
----------------------------------
「接続状態、有効……」
「通信機か?」
真壁の問いに、ヴァルトはすぐ首を縦には振らなかった。
「接続していることと、情報を送っていることは別です」
「認証かもしれないな」
「可能性はあります。鍵、許可証、登録触媒など、用途はいくつか考えられます」
「現物だけでは絞れません」
レイニャが小片を見た。
「じゃあ使うニャ?」
「まだ使うとは言っていない」
真壁の顔をじっと見て、レイニャは尻尾をゆっくり動かした。
「でも使う顔ニャ」
「顔で判断するのはやめたまえ」
理央は笑いを堪えた。
「否定はしないんですね、真壁殿」
ヴァルトの声には、わずかに乾いた響きがあった。
「使える可能性のある物を捨てる理由はない」
真壁は理央へ目配せした。
理央はすぐ小片を隔離状態へ戻す。
「消えました」
エリフが告げた。
真壁はその言葉をノートに残し、隔離の印へ二重線を引いた。
拘束されたラシムは、灰色の小片が外へ出ていた間、声を上げなかった。
ただ、顔から血の気が引き、膝の上の指が固く握られていた。
レイニャが真壁の袖を引いた。
「真壁」
「分かっている」
真壁はラシムを見た。
「君は、ペンダントの中にこれがあると知っていたな」
ラシムは黙ったままだった。
真壁は返答を迫らず、ラシムの視線が小片のあった場所へ戻るのを見届けた。
「そうか」
それだけ言って、視線を切った。
偽装のためだけの品なら、あの反応は出なかったはずだ。
それ以上のことは、まだ誰にも分からなかった。
理央たちは、ルネスタの商館の奥にある客室へ移った。
エリフは毛布を肩に掛け、水の器を両手で包んでいた。
外へ出る準備を始めた理央たちを見て、彼女は毛布を押さえた。
「私も行きます」
理央が返事を探している間に、真壁が先に口を開いた。
「駄目だ」
エリフは唇をわずかに引き結んだ。
真壁の声は変わらなかった。
「君は七番だ。相手が最後まで必要としていた一人でもある」
「こちらが君を連れていけば、探している者をこちらから届けることになる」
「でも、六人が……」
「分かっている」
真壁は一拍だけ置いた。
「だからこそだ。君自身が、今はこちらの切り札ではないか」
エリフは器へ視線を落とした。
理央は腰を落とし、エリフの目を見た。
「私たちが見つけます。場所が分かったら、ちゃんと戻ってきます」
「……本当に?」
「はい」
理央は「はい」とだけ答えた。
レイニャが横から顔を出す。
「六人を見つけたら、全部話すニャ。それから甘いものを食べるニャ」
「甘いもの?」
「大事ニャ」
リュシアが水差しを置いた。
「それは今決めることかい?」
「約束は早い方がいいニャ」
エリフの口元がわずかに緩んだ。
救い出されてから初めて見せた笑みに、理央の胸が少し軽くなった。
ルネスタは客室の入口に衛兵を置き、「七番」という呼び名を外へ漏らさないよう指示した。
リュシアはエリフのそばへ残り、薬の影響が引くまで見守ることにした。
ナジムは王都警備隊の配置を組み替え、逃走経路を押さえる手配へ回った。
ルネスタが知っていたのは、古い測量店の場所までだった。
「東区の外れだよ。店そのものは、ずっと前からある」
「それだけで十分だ」
真壁は地図に印をつけた。
真壁は地図に印をつけ、同行者を自分とヴァルト、理央、レイニャに絞った。
大人数で囲めば、測量店にも相手にも気づかれる。
保護する者と、探しに行く者を分けたことで、理央たちの進む先が定まった。
夕方、レヴァニア王都の東区では、表通りの人波が引き始めても、荷車や店じまいの音が絶えなかった。
古い測量店の軒先には、巻いた地図と測量棒が並んでいた。
帳面を抱えた若い店員が客に道を説明し、棚の奥では年季の入った器具が布を被っていた。
「普通ですね」
店から離れた物陰で、理央が小声を漏らす。
「普通に見えるから、連絡場所に使える」
真壁は入口と裏口、窓の位置を順に見た。
レイニャは耳を向け、指を一本立てた。
「中に二人いるニャ。一人は動いてる」
彼女はもう片方の耳を店の奥へ傾けた。
「もう一人は、あんまり動かないニャ」
ヴァルトは壁の向こうへ意識を向けた。
「裏側に弱い魔力があります」
真壁はスマートグラスを掛け、視界を確かめた。
「壁だな」
裏口の脇にある細い縦長の部分だけ、周囲よりわずかに温かい。
肉眼では理央に何も違いが分からなかった。
レイニャの耳が、短い間隔で動く。
「カチ……カチ……」
「時計ですか?」
「もっと壁の中ニャ」
客の笑い声や、器具を棚へ戻す音の向こうで、同じ音だけが壁に隠れて続いていた。
四人は店へ入らず、裏路地を挟んで様子をうかがった。
しばらくして、灰色の外套を着た男が一人、路地の端から現れた。
男は測量店の正面へ向かわず、裏口の脇を通り過ぎ、温度差のある壁の前で足を止めた。
男は手にしたものを壁へ押し当てた。
レイニャの耳が立った。
「音が止まったニャ」
カチ、カチ、と続いていた音が途切れた。
ヴァルトは男を見たまま、眉間に指を当てた。
「魔力が東へ伸びました」
「分かるのですか?」
「ここから出ている流れだけです。行き先までは分かりません」
真壁は視線を壁から理央へ移した。
「理央君。触れずに見られるか」
「はい。《鑑定》します」
理央は男の手ではなく、壁に埋め込まれた部分へ意識を向けた。
----------------------------------
名称:埋込式伝達器
分類:魔道具
状態:稼働中
主要素材:銀/魔石/加工石
用途:信号伝達
伝達方式:魔力脈動
認証機構:あり
付加機能:記録
----------------------------------
「埋込式伝達器。信号を送ってるみたいです」
「認証機構もあるな」
真壁は、ペンダントの内側から見つかった小片を思い出した。
「登録触媒との照合かもしれません」
「可能性は高いです。ただし、触媒が一種類とは限りません」
ヴァルトは壁へ近寄らずに答えた。
理央は「記録」の文字をもう一度見た。
「記録って、触ったことも残るんですか?」
「その可能性がある」
真壁は、壁へ向かいかけた彼女の手を目で止めた。
「今は触らない」
測量店は、ただ人が落ち合う場所ではなかった。
東のどこかへ合図を送る装置が、壁の中で動いていた。
灰色の外套の男は、壁から手を離してもすぐには立ち去らなかった。
店の裏口を一度見てから、路地の奥へ消えていく。
レイニャは再び壁へ耳を向けたが、音は戻らなかった。
日が傾き、石畳の影が長く伸びた頃、ヴァルトが顔を上げた。
「戻ってきました」
「何がですか?」
「魔力です。先ほどの脈動へ返すような流れがあります」
「返事ニャ?」
「そう見えます。ただ、内容までは読めません」
測量店の二階、その窓辺に影が動いた。
白髪の混じった男が階段を下り、表へ出てきた。
測量士らしい、使い込まれた外套を着ていた。
彼は裏口の脇へ寄り、伝達器の埋め込まれた壁に手を触れた。
そのまま東へ歩き出す。
「店の関係者かもしれないな」
真壁の声に、ヴァルトは小さく応じた。
「あるいは灰鴉本人かもしれません。まだ分かりません」
「見ます」
理央は男との距離を保ち、《鑑定》を使った。
----------------------------------
シナン・カヤ
分類:人間
現在ジョブ:測量士
レベル:12
状態:良好
----------------------------------
既得スキル
測量:9
地図:9
地形把握:8
方位感覚:8
計算:7
記憶:6
鑑定:4
収納:4
----------------------------------
「シナン・カヤ。測量士、レベル12。《測量》9、《地図》9……」
理央の声が途中で細くなった。
「技能だけなら、灰鴉らしいな」
真壁がそう言った瞬間、鑑定の表示から名前が消えた。
「え?」
理央は一度まばたきをした。
表示の文字が消え、「判定不能」に変わっていた。
「ちょっと待ってください」
理央は距離を保ったまま、もう一度だけ鑑定を試みた。
次の瞬間には、シナン・カヤという名前が戻っていた。
「戻った……」
「何があったニャ?」
「名前が消えました。一回、判定不能になって、それから戻りました」
真壁とヴァルトの視線が、同時に歩く男へ向いた。
名前が消え、判定不能になり、また元に戻った。
ジェムが語った異変と、理央の見た表示が重なった。
レイニャが先に気づいたのは、男の歩き方だった。
「歩き方が変ニャ」
「変ですか?」
「歩幅がずっと同じニャ」
石畳には段差や欠けた縁があり、わずかに傾いた部分もあった。
シナンは速く歩いているわけではないのに、足を置く間隔がほとんど変わらなかった。
真壁はサーマルカメラの焦点を合わせ直した。
画面の人影には、確かな体温があった。
ただ、首から肩、胸元から腕へと続く温度の移り方が、妙に滑らかだった。
日差しを受けても、表面の温度変化が薄い。
「体温はある。だが、分布が整いすぎている」
「人間ではない、ということですか?」
「そこまでは言えん。血流の揺らぎが見えにくい。機械の表面に近いと言っているだけだ」
ヴァルトは男から目を離さず、魔力の流れを追っていた。
「魔力も変です」
「どう変だ」
「ありますが、外へほとんど漏れていません」
彼はすぐに続けた。
「魔力を抑える術はあります。それだけなら異常とは言えません」
「ただ、歩きながらこの均一さを保つのは珍しいです」
鑑定表示は消え、歩幅は均一で、魔力はほとんど漏れず、体温の変化も乏しかった。
それぞれ別の異常が、シナンの一人に集まっていた。
どれも一つだけなら説明がつくのかもしれないが、重なると見過ごせなかった。
シナンが歩みを止めた。
レイニャの耳が伏せられた。
「……息がないニャ」
「え?」
「さっきまで聞こえてた。今、消えたニャ」
理央は男の胸元を見た。
外套はほとんど動かなかった。
一秒、二秒。レイニャは耳を澄ませたまま待ったが、五秒を過ぎても、十秒を越えても呼吸の音は戻らなかった。
真壁が低く言う。
「見るな」
理央は、男から視線をわずかに外した。
シナンの顔が、こちらの方角へゆっくり向いた。
距離はあり、間には建物の角もあった。
見つかったのか、偶然なのかは分からなかった。
「直接追うのはやめる」
真壁の判断は早かった。
「でも行っちゃうニャ」
「人を追う必要はない。行き先の候補を地形から探そう」
シナンの背が路地の先へ消えた。
理央は、追跡を止めても手がかりまで失ったわけではないと、自分に言い聞かせた。
シナンが東へ歩いていった。
理央は、それだけを手がかりに《世界地図》を開いた。
「東へ行く道は何本かあります」
理央は表示された地形をなぞった。
農村へ抜ける道、別の町へ向かう道、川沿いの道。
その中で、北東へ伸びる古い道に指が止まった。
「これ……」
道幅は途中まで広く、荷車が二台すれ違えるほどに見えた。
しかし、最後の約2kmで急に細くなり、森の中へ入っていく。
「周りの道が、この先を避けるように曲がっています」
真壁は地図の輪郭を追った。
「中心に何かあるのか」
「丸い地形です。道が、そこだけ避けています」
円の内側には、古い円形基礎を思わせる空きがあった。
けれど、中央部分だけは地図に表示されなかった。
「ここだけ出ません」
「人ではなく、地形がか」
「はい。地形の情報が抜けています」
ヴァルトは地図を覗き込んだが、指で触れようとはしなかった。
「境界の可能性はあります。ただ、外から見ただけでは決められません」
「中心へ直接入るのはなしだ」
真壁は目的地を円から離れた林へ移すよう理央に告げた。
「足場が安定し、人影のない場所を選ぼう」
「はい。ここなら円形の地形から距離があります」
理央はシナン本人を追う代わりに、道の先にある地形を確かめることにした。
理央の指が林の一角で止まり、移動先が定まった。
《関門接続》を使うと、林の手前に靄が集まり、扉の形を作った。
真壁は全開にせず、まず人が一人通れるほどの隙間だけを開けた。
「音を聞いてくれ、レイニャ君」
「鳥がいるニャ。虫も、水の音もするニャ」
レイニャは耳を左右へ向け、近くの足音がないことを確かめた。
真壁はスマートグラスで先の温度を確かめ、ヴァルトは魔力の乱れを探った。
「異常はありません。ここは普通です」
「では移動しよう」
ナジムが付けた衛兵は外縁で待機し、中心へ入るのは真壁、ヴァルト、理央、レイニャだけになった。
誰も扉を大きく開ける前に、互いの位置と戻り道を確かめていた。
林へ足を踏み入れた途端、頬に触れる風が湿った葉の匂いを運んできた。
鳥の声も、虫の羽音も聞こえていた。
それらが消えたわけではなかった。
ただ、進むにつれて、レイニャの耳が何度も同じ方角へ傾いていく。
「……減ってるニャ」
「何がですか?」
「虫の音ニャ」
数歩進むと、地面を這う草の間から聞こえていた細かな音が遠のいた。
「ここから少ないニャ」
真壁はサーマルカメラを通して地面を見た。
周囲より低い温度の細い筋が、林の中に弧を描いていた。
目で見ても、土や落ち葉の色は変わらなかった。
「円のように続いています」
ヴァルトの声が慎重になった。
「魔力があります」
「結界ですか?」
「そう呼んでも間違いではないでしょう。ただ、目的はまだ分かりません」
彼は外周を見回した。
「防ぐためか、隠すためか、境界を固定するためか。どれもあり得ます」
理央は《世界地図》を確かめた。
円の内側は、相変わらず空白のままだった。
「越えるな」
真壁が全員へ短く告げた、その時だった。
空白の向こう側に、人影が現れた。
シナン・カヤだった。
一行は木立の陰へ身を寄せた。
シナンは境界の手前で立ち止まり、手元の何かを壁へ近づけた。
カチ。
レイニャの耳が反応した。
「同じ音ニャ」
スマートグラスの画面で、低温の筋が一部だけ途切れた。
ヴァルトの表情も変わった。
「魔力が薄くなりました」
シナンは、その切れ目を通って円の内側へ消えた。
すぐに温度差が戻り、魔力の筋も閉じた。
「認証だな」
「その可能性が高いです」
ヴァルトは理央の収納を見た。
灰色の小片は、収納の中で隔離されたままだった。
シナンの姿が十分遠ざかったのを待って、真壁が理央へ合図した。
「理央君。小片を出す」
「使う顔でしたね」
レイニャが耳を揺らす。
「ほらニャ」
「今は口を揃えなくてよい」
真壁は声を荒げなかった。
ヴァルトは一歩も進まず、先に条件を伝えた。
「真壁殿。境界から離した位置に出してください。触れさせる必要があるとは限りません」
「了解した」
理央は、境界線から距離を取ったまま隔離を解除した。
靄の中から、暗い灰色の小片が現れた。
その途端、レイニャが顔を上げた。
「カチって鳴ったニャ」
真壁のスマートグラスでは、低温の筋の一部が消えていた。
ヴァルトも、境界へ伸びていた魔力の反応が薄くなったと告げた。
木立の向こうで、円の内側へ続く切れ目が開いていた。
「鍵……」
理央が小さく言う。
「少なくとも、この境界にはな」
真壁は一度だけ見届けた。
理央は小片をすぐ収納し、隔離へ戻した。
低温の筋がつながり、魔力の気配も元の形へ戻った。
「もう一度は試さない」
真壁はノートへ一行加えた。
開閉が再現できたことより、開ける条件が見えたことの方が重かった。
その直後、境界の内側から足音が二つ近づいてきた。
レイニャの耳が地面と木々の間を行き来した。
「二人来るニャ」
理央たちは木の幹の陰へ下がった。
境界の内側に、男が二人現れた。
「反応はここ」
「登録は?」
「古い」
短いやり取りのあと、片方が尋ねた。
「使用者は?」
もう一人は、返事をするまでに間を置いた。
「死んだはずだ」
理央は収納へ意識を向けた。
ラシムのペンダントに隠されていた小片は、誰かの登録に使われた鍵だったのかもしれない。
ただ、誰が持ち主だったのか、いつ死んだとされたのかまでは分からなかった。
真壁は推測を広げず、二人の足音が遠ざかるのを待った。
「入るニャ?」
「六人が中にいる可能性がある。今の混乱が残っているうちに進もう」
ヴァルトは理央の収納を確かめた。
「鍵は出したままにしないでください。通る瞬間だけです」
「そのつもりだ、ヴァルト君」
理央は隔離を解除し、小片を境界線から離して出した。
外周の切れ目が開いた。
一人ずつ、互いの背中を見失わない距離で通り抜けた。
最後に理央が小片を収納し、隔離状態へ戻す。
背後で、境界が閉じた。
その瞬間、《世界地図》の空白だった円形部分に、地上の構造が少しずつ浮かび上がった。
「見えるようになりました」
「地下は?」
理央は地図を広げ直した。
「まだ出ません。地上だけです」
円形広場には、崩れた柱と風化した石材が残っていた。
古い基礎の端は草に埋まり、地面の一部には細かな根が張っていた。
中央だけは、肉眼では何もなかった。
「風が変ニャ」
レイニャは耳を立て、頬へ吹く空気を確かめた。
真壁はサーマルカメラを広場の中心へ向けた。
そこには高さ約3m、幅約2mほどの縦長の温度差が浮かんでいた。
物体の輪郭のように見えるのに、光を返す面も、支える枠もなかった。
「中央だ」
ヴァルトは距離を置いたまま、空間へ意識を向けた。
「空間が歪んでいます」
「鏡ですか?」
「まだそう呼ばないでください。候補の一つです」
レイニャは首を傾けた。
「そこだけ、風の音が遅いニャ」
「音が遅い?」
「葉っぱが動いて、あとから音がするニャ」
温度、魔力、風音、地図。
それぞれ別のものを見ているのに、四人の注意は同じ位置へ引き寄せられていた。
「正面へ立たない」
真壁の言葉に従い、理央は広場の縁へ退いた。
中央を避けて移動した先で、レイニャの耳が地面へ向いた。
「下ニャ」
「人ですか?」
「いる」
理央は息を潜めた。
遠く、石の向こうから声が伝わってきた。
「四番」
続いて、別の声がした。
「文字を読め」
理央は真壁を見た。
「四番と五番……」
真壁の口元が固くなった。
「レイラとカディルだ」
さらに声が重なった。
「五番を連れてこい」
レイニャは耳を澄ませたまま、首を横へ振った。
「ほかにもいるニャ」
人数までは数えられなかった。
けれど、閉じ込められた者たちが一人ではないことは分かった。
「少なくとも二人は生きています」
ヴァルトは断定の範囲を慎重に限った。
「入口を探します」
「焦るな。地下の入口を見つけてから地図へ追加する」
理央は《世界地図》を見た。
そこに出ているのは、地上の広場までだった。
崩れた階段、埋もれた石板、草に隠れた段差。
どれが入口なのか、まだ決められなかった。
その時、中央の温度差が揺れた。
「動くな」
真壁の声で、全員が足を止めた。
何もなかった空間に、光の屈折のような揺らぎが広がった。
縦長の輪郭の奥に、光を返さない黒い面が浮かぶ。
周囲の景色を映していなかった。
「……鏡」
理央は、息と一緒にその言葉をこぼした。
「正面へ出ないでください」
ヴァルトの声が低くなった。
四人は斜めの位置を保ち、黒い面へ近づかなかった。
鏡の中に、人影が現れた。
白髪混じりの測量士、シナン・カヤだった。
広場のどこにも、彼の姿はなかった。
それなのに鏡の中の男だけが、こちらを見ていた。
レイニャの背の毛が逆立つ。
「……見てるニャ」
「返事はしない」
真壁が言い、ヴァルトはすぐに続けた。
「触れないでください」
鏡の中のシナンは、外で見せなかった笑みを浮かべた。
作り物のように整った顔に、その笑みだけが妙に人間らしい。
だからこそ、理央は視線を外せなかった。
男の口が動いた。
声は、ほんの少し遅れて届く。
「――鍵を返してもらおう」
理央の唇が、答えを探すように動きかけた。
レイニャに袖を掴まれ、理央は返事を呑み込んだ。
理央は収納の隔離区画へ意識を向けた。
灰色の小片が、その中で震えていた。
理央の顔から血の気が引いた。
「どうした」
真壁の問いに、理央は自分の収納へ目を向けた。
「……鍵が」
「収納の中で、動いてます」