押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第384話 東の鏡を開けるな

 

 ヴァルトは、開いた扉の向こうから船着き場を見渡した。

 

 衛兵の列、拘束された男たち、脇に広げられた鉛板や木箱の部材、布に包まれた黒いペンダントが、順に目に入った。

 

 最後に、毛布を肩へ掛けたエリフのところで目が止まった。

 

「……ずいぶん増えましたね」

 

「ヴァルト君。まず状況を共有しよう」

 

 真壁は理央の開いたノートを受け取り、エリフの証言から要点を拾った。

 

「七人は、それぞれ違う技能を持っていた」

 

 理央が記した名前を指で追い、真壁は順に読み上げた。

 

「一番のジェムは《鑑定》と《真贋判定》」

 

「二番は《毒物感知》、三番は《地図》と《測量》」

 

「四番は《古文書解読》、五番は《解錠》と《罠感知》」

 

「六番が《結界感知》と《魔力追跡》で、七番がエリフ君の《魔力感知》と《隠蔽看破》だ」

 

 ヴァルトは口を挟まず、指先を顎へ添えたまま聞いていた。

 

 理央のペン先が、真壁の言葉を追い、技能の横に印を足していった。

 

「ジェムが残した言葉は、『北ではなく東を見ろ』『扉ではない、鏡だ』『東の鏡を開けるな』」

 

 真壁はラシムへ目を向けた。

 

「鏡へ行った者は、戻ってきても何かがずれる。そこまではラシムの証言だ」

 

「東の鏡そのものは知りません」

 

 ヴァルトはすぐに答えた。

 

「ただ、似た考え方の術式はあります」

 

 

 

 レイニャの耳が前へ向いた。

 

「知ってるニャ?」

 

「術式の考え方です。実物について知っているわけではありません」

 

 ヴァルトはそう言い添えてから、エリフの顔を見た。

 

「話せますか?」

 

「少しならね。長くはさせないよ」

 

 リュシアが水の器を支えたまま答えた。

 

「分かりました」

 

 ヴァルトはそれ以上、少女へ問いを重ねなかった。

 

「鏡を使う魔法ですか?」

 

 理央が尋ねると、ヴァルトは地面へ視線を落とした。

 

 ヴァルトは足元の砂を指先でならし、離れた二つの場所を示す線を引いた。

 

 理央は、砂に引かれた線を目で追った。

 

「普通の転移は、自分を向こうへ移します」

 

 ヴァルトは線の片側から反対側へ指を動かした。

 

「《関門接続》は、こちらと向こうを扉でつなぐ」

 

「はい」

 

「古い境界術には、それとは別に、こちら側へ向こうを映す考え方があります」

 

 理央は線の先に、まだ見えない向こう側を思い浮かべた。

 

「鏡の向こうへ入るみたいな?」

 

「そう書かれた記録もあります」

 

「ですが、同じ『鏡』という言葉で、別々の術式がまとめられている場合があります」

 

 ヴァルトは砂の上へ、先ほどの線と交わらない小さな枠を描いた。

 

「見えるだけのもの。術式を通すもの。小さな物だけを渡すもの。二つの場所を接続するもの。境界を固定するもの。記録には人が通った例もあります」

 

「名前だけで用途は決められない、ということだな」

 

 真壁の言葉に、ヴァルトは頷いた。

 

「そうです、真壁殿」

 

 理央は砂の線を見つめた。

 

「見つけても、触らない方がいいですか?」

 

「触らないでください」

 

 返事は短かった。

 

「正面にも立たない方がいいでしょう。魔力を流さず、術式を削ったり、外そうとしたりもしないでください」

 

「見るのも駄目ニャ?」

 

「鏡によります。分からないうちは、正面を避けます」

 

 ヴァルトは一度、息を置いた。

 

「向こうから声をかけられても、返事をしないでください」

 

 レイニャの耳がぴたりと止まった。

 

「それ、先に言うやつニャ」

 

「今言いました」

 

 理央は吹き出しそうになり、口元を押さえた。

 

 真壁は笑わず、砂に描かれた枠を靴先で崩した。

 

「了解した。現場でも同じ手順にする」

 

 理央はノートに「正面に立たない」「触れない」「魔力を流さない」「返事をしない」と書き込んだ。

 

 

 

 理央が注意事項を書き留めていると、ヴァルトが真壁へ顔を向けた。

 

「境界が活性化している場合、周囲との温度差が出ることがあります」

 

「必ずか」

 

「いいえ。可能性の一つです。出ない場合もあります」

 

 真壁の指が、ノートの端で止まった。

 

「それなら、見る手段はある」

 

 真壁が収納から取り出したのは、少し厚い黒いフレームのスマートグラスだった。

 

 左右の縁には、小さなカメラが取り付けられていた。

 

 理央は見覚えのある機器を見て、眉を上げた。

 

「それ、サーマル付きですか?」

 

「ああ。温度差を離れた場所から見る」

 

「さーまる?」

 

 レイニャが片耳を傾けた。

 

「熱いところと冷たいところが分かるカメラです」

 

「人の目には普通に見えるものも、色が違って見えるニャ?」

 

「そういう使い方もできます」

 

 理央の説明を聞きながら、ヴァルトはグラスの縁とレンズの向きを確かめた。

 

「接触せずに温度を見られるのですか」

 

「そうだ」

 

「それは助かります。魔術の反応と同じものが見えるわけではありませんが、比較には使えそうです」

 

 真壁はグラスを手の中で返し、レンズの汚れを布で拭った。

 

「役割を分ける。ヴァルト君は魔力、私は温度、理央君は《鑑定》と地図、レイニャ君は音だ」

 

「任せるニャ」

 

「現場へ向かう前に、ペンダントを調べる」

 

 真壁の視線が、証拠品を包んだ布へ移った。

 

 

 

 ナジムは衛兵のそばに立ち、包みから目を離さなかった。

 

「ナジム殿。一度だけ、装着状態を再現したい」

 

「目的は何でしょう」

 

「この道具だけで偽装が成立するか確かめる。終わればすぐに外す」

 

 ナジムはラシムと証拠品を見比べた。

 

「衛兵が装着し、理央さんが鑑定する。異常があれば直ちに外す。それが条件です」

 

「承知した」

 

 衛兵は手袋をつけ、真壁の目配せを受けてペンダントをラシムの首へ掛けた。

 

 エリフは毛布の襟を握ったまま、その胸元を見ていた。

 

「膜が戻りました」

 

「理央君」

 

「《鑑定》」

 

 理央には、ラシムの表示が再び変わった。

 

----------------------------------

アルダ

 分類:人間

 現在ジョブ:商人

 レベル:6

 状態:拘束

 疲労度:21%

 身体異常:なし

----------------------------------

既得スキル

 交渉:6

 計算:5

 鑑定:3

 収納:3

 馬車操作:2

----------------------------------

 

「戻ってます。アルダ、商人Lv6です」

 

 真壁が手を上げた。

 

「外そう」

 

 衛兵が留め具を外し、ペンダントをすぐ布の上へ置いた。

 

 エリフの目が細くなった。

 

「消えました」

 

 理央はもう一度、ラシムへ《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

ラシム・デミル

 分類:人間

 現在ジョブ:密輸商

 レベル:14

 状態:拘束

 疲労度:24%

 身体異常:なし

----------------------------------

既得スキル

 交渉:8

 計算:7

 鑑定:6

 収納:7

 馬車操作:5

 偽装:8

 隠密:7

 毒物取扱:5

 薬学:6

 錬金:4

----------------------------------

 

「こっちも戻りました」

 

「道具単体で再現性がある」

 

 真壁はペンダントを布で包ませた。

 

「少なくとも、今の条件ではそうです」

 

「今の条件に限る。そう記録しておこう」

 

 

 

 真壁は「装着時」「非装着時」とノートに書き分けた。

 

 それから理央の収納へ目を向けた。

 

「理央君。普通に収納してみよう」

 

「はい」

 

 理央が黒いペンダントを《収納》へ入れた。

 

 エリフは目を閉じ、息を整えるようにしてから、首を横へ振った。

 

「まだあります」

 

「何が?」

 

「外につながってる感じ」

 

 理央は収納の内側を確かめた。

 

「魔力反応も残っています」

 

「収納しただけで機能が止まるわけではない。当然だな」

 

 真壁はノートへ「通常収納」と書き、理央の方へ向き直った。

 

「普通の収納と隔離は別だ。今度は隔離へ移そう」

 

「そうだ。外との作用を切る」

 

 理央は収納の分類を切り替えた。

 

 通常区画から、隔離へ。

 

 エリフが顔を上げた。

 

「あ」

 

「消えたニャ?」

 

「外へ伸びていた感じが消えました」

 

「道具そのものの魔力はどうですか」

 

 ヴァルトの問いに、理央は意識を向けた。

 

「中にはあります。でも、外とはつながっていません」

 

「その見方でよいでしょう」

 

 真壁は理央の手元を見た。

 

「一度だけ戻そう」

 

 理央が隔離を解くと、エリフは肩を強張らせた。

 

「戻りました」

 

「すぐ隔離へ戻します」

 

 再び外との感覚が途切れた。

 

 真壁はノートの端に一本線を引き、試験を切り上げた。

 

「十分だ。これ以上は繰り返さない」

 

「向こうに気づかれる可能性がありますか?」

 

「接続先があるなら、ないとは言えません」

 

 ヴァルトはペンダントから目を離さなかった。

 

「切断と再接続を何度も試す理由はありません」

 

 

 

 理央は隔離区画に置いたペンダントへ、《収納内工程》を使う準備をした。

 

 真壁がヴァルトへ視線を向けた。

 

「ヴァルト君。このまま外から見て、分かるか」

 

「表面だけでは難しいです。術式が内側にあるなら、外装を外す必要があります」

 

「理央君」

 

「壊さないように、外から順番に分けます」

 

 理央は収納の外から工程を指定し、まず革紐の留め具を外した。

 

 続いて金属の輪を外し、黒い外殻を留める細い爪を一つずつ外していった。

 

 刃先が内側へ向かないよう手順を変えながら、理央は部品の形と並びをノートへ写した。

 

 外殻の内側には薄い銀板があり、表面に細い刻みが規則正しく走っていた。

 

「銀板が出ました」

 

 ヴァルトは近づきすぎない距離から、目を凝らした。

 

「これは……鑑定結果へ別の情報を重ねる術式としては、筋が通ります」

 

「偽装の仕組みですか?」

 

「おそらく。ただ、断定はできません」

 

 ヴァルトは銀板の端を指さした。

 

「表面の刻みだけで動いているとは限らないからです」

 

 エリフが毛布を肩に引き寄せた。

 

「でも、まだ奥にあります」

 

 

 

「奥?」

 

「別の魔力です。偽装とは違う感じがします」

 

 理央は手を止め、収納内工程の向きを変えた。

 

 銀板の下に薄い支持材があり、そのさらに下に爪ほどの小片が挟まっていた。

 

 暗い灰色で、薄い片面だけが鈍く光を返す。

 

「ちっちゃい鏡みたいニャ」

 

「似ていますが、鏡とは決めないでください」

 

 ヴァルトが慎重に言った。

 

「言っただけニャ」

 

 レイニャが片耳を揺らし、理央は張り詰めていた頬を少し緩めた。

 

 灰色の小片は、収納の隔離区画に置かれたままだった。

 

 理央は小片を隔離したまま、エリフへ様子を尋ねた。

 

「今はどうですか?」

 

「静かです」

 

「隔離を解いたら?」

 

 真壁の問いに、ヴァルトが答えた。

 

「短時間なら比較できます。接触させる必要はありません」

 

 真壁は頷いた。

 

「一度だけだ」

 

 理央は隔離を解いた。

 

 エリフの表情が変わり、毛布を握る指に力が入った。

 

「……これ」

 

「どうしました?」

 

「ここにあるのに、ここにないみたいです」

 

 理央は小片から目を離せなかった。

 

「どこかへ続いているのですか?」

 

「すごく細く。どこかへ続いてる感じ」

 

 ヴァルトは声を落とした。

 

「方向は分かりますか」

 

「分かりません」

 

「距離は?」

 

「それも。でも、向こうがあります」

 

 それ以上、エリフの力から答えを引き出そうとはしなかった。

 

 理央は小片へ《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

名称:不明

分類:魔術触媒

状態:良好

主材質:判別不能

付与術式:判別不能

接続状態:有効

----------------------------------

 

「接続状態、有効……」

 

「通信機か?」

 

 真壁の問いに、ヴァルトはすぐ首を縦には振らなかった。

 

「接続していることと、情報を送っていることは別です」

 

「認証かもしれないな」

 

「可能性はあります。鍵、許可証、登録触媒など、用途はいくつか考えられます」

 

「現物だけでは絞れません」

 

 レイニャが小片を見た。

 

「じゃあ使うニャ?」

 

「まだ使うとは言っていない」

 

 真壁の顔をじっと見て、レイニャは尻尾をゆっくり動かした。

 

「でも使う顔ニャ」

 

「顔で判断するのはやめたまえ」

 

 理央は笑いを堪えた。

 

「否定はしないんですね、真壁殿」

 

 ヴァルトの声には、わずかに乾いた響きがあった。

 

「使える可能性のある物を捨てる理由はない」

 

 真壁は理央へ目配せした。

 

 理央はすぐ小片を隔離状態へ戻す。

 

「消えました」

 

 エリフが告げた。

 

 真壁はその言葉をノートに残し、隔離の印へ二重線を引いた。

 

 

 

 拘束されたラシムは、灰色の小片が外へ出ていた間、声を上げなかった。

 

 ただ、顔から血の気が引き、膝の上の指が固く握られていた。

 

 レイニャが真壁の袖を引いた。

 

「真壁」

 

「分かっている」

 

 真壁はラシムを見た。

 

「君は、ペンダントの中にこれがあると知っていたな」

 

 ラシムは黙ったままだった。

 

 真壁は返答を迫らず、ラシムの視線が小片のあった場所へ戻るのを見届けた。

 

「そうか」

 

 それだけ言って、視線を切った。

 

 偽装のためだけの品なら、あの反応は出なかったはずだ。

 

 それ以上のことは、まだ誰にも分からなかった。

 

 

 

 理央たちは、ルネスタの商館の奥にある客室へ移った。

 

 エリフは毛布を肩に掛け、水の器を両手で包んでいた。

 

 外へ出る準備を始めた理央たちを見て、彼女は毛布を押さえた。

 

「私も行きます」

 

 理央が返事を探している間に、真壁が先に口を開いた。

 

「駄目だ」

 

 エリフは唇をわずかに引き結んだ。

 

 真壁の声は変わらなかった。

 

「君は七番だ。相手が最後まで必要としていた一人でもある」

 

「こちらが君を連れていけば、探している者をこちらから届けることになる」

 

「でも、六人が……」

 

「分かっている」

 

 真壁は一拍だけ置いた。

 

「だからこそだ。君自身が、今はこちらの切り札ではないか」

 

 エリフは器へ視線を落とした。

 

 理央は腰を落とし、エリフの目を見た。

 

「私たちが見つけます。場所が分かったら、ちゃんと戻ってきます」

 

「……本当に?」

 

「はい」

 

 理央は「はい」とだけ答えた。

 

 レイニャが横から顔を出す。

 

「六人を見つけたら、全部話すニャ。それから甘いものを食べるニャ」

 

「甘いもの?」

 

「大事ニャ」

 

 リュシアが水差しを置いた。

 

「それは今決めることかい?」

 

「約束は早い方がいいニャ」

 

 エリフの口元がわずかに緩んだ。

 

 救い出されてから初めて見せた笑みに、理央の胸が少し軽くなった。

 

 ルネスタは客室の入口に衛兵を置き、「七番」という呼び名を外へ漏らさないよう指示した。

 

 リュシアはエリフのそばへ残り、薬の影響が引くまで見守ることにした。

 

 ナジムは王都警備隊の配置を組み替え、逃走経路を押さえる手配へ回った。

 

 ルネスタが知っていたのは、古い測量店の場所までだった。

 

「東区の外れだよ。店そのものは、ずっと前からある」

 

「それだけで十分だ」

 

 真壁は地図に印をつけた。

 

 真壁は地図に印をつけ、同行者を自分とヴァルト、理央、レイニャに絞った。

 

 大人数で囲めば、測量店にも相手にも気づかれる。

 

 保護する者と、探しに行く者を分けたことで、理央たちの進む先が定まった。

 

 

 

 夕方、レヴァニア王都の東区では、表通りの人波が引き始めても、荷車や店じまいの音が絶えなかった。

 

 古い測量店の軒先には、巻いた地図と測量棒が並んでいた。

 

 帳面を抱えた若い店員が客に道を説明し、棚の奥では年季の入った器具が布を被っていた。

 

「普通ですね」

 

 店から離れた物陰で、理央が小声を漏らす。

 

「普通に見えるから、連絡場所に使える」

 

 真壁は入口と裏口、窓の位置を順に見た。

 

 レイニャは耳を向け、指を一本立てた。

 

「中に二人いるニャ。一人は動いてる」

 

 彼女はもう片方の耳を店の奥へ傾けた。

 

「もう一人は、あんまり動かないニャ」

 

 ヴァルトは壁の向こうへ意識を向けた。

 

「裏側に弱い魔力があります」

 

 真壁はスマートグラスを掛け、視界を確かめた。

 

「壁だな」

 

 裏口の脇にある細い縦長の部分だけ、周囲よりわずかに温かい。

 

 肉眼では理央に何も違いが分からなかった。

 

 レイニャの耳が、短い間隔で動く。

 

「カチ……カチ……」

 

「時計ですか?」

 

「もっと壁の中ニャ」

 

 客の笑い声や、器具を棚へ戻す音の向こうで、同じ音だけが壁に隠れて続いていた。

 

 

 

 四人は店へ入らず、裏路地を挟んで様子をうかがった。

 

 しばらくして、灰色の外套を着た男が一人、路地の端から現れた。

 

 男は測量店の正面へ向かわず、裏口の脇を通り過ぎ、温度差のある壁の前で足を止めた。

 

 男は手にしたものを壁へ押し当てた。

 

 レイニャの耳が立った。

 

「音が止まったニャ」

 

 カチ、カチ、と続いていた音が途切れた。

 

 ヴァルトは男を見たまま、眉間に指を当てた。

 

「魔力が東へ伸びました」

 

「分かるのですか?」

 

「ここから出ている流れだけです。行き先までは分かりません」

 

 

 

 真壁は視線を壁から理央へ移した。

 

「理央君。触れずに見られるか」

 

「はい。《鑑定》します」

 

 理央は男の手ではなく、壁に埋め込まれた部分へ意識を向けた。

 

----------------------------------

名称:埋込式伝達器

分類:魔道具

状態:稼働中

主要素材:銀/魔石/加工石

用途:信号伝達

伝達方式:魔力脈動

認証機構:あり

付加機能:記録

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「埋込式伝達器。信号を送ってるみたいです」

 

「認証機構もあるな」

 

 真壁は、ペンダントの内側から見つかった小片を思い出した。

 

「登録触媒との照合かもしれません」

 

「可能性は高いです。ただし、触媒が一種類とは限りません」

 

 ヴァルトは壁へ近寄らずに答えた。

 

 理央は「記録」の文字をもう一度見た。

 

「記録って、触ったことも残るんですか?」

 

「その可能性がある」

 

 真壁は、壁へ向かいかけた彼女の手を目で止めた。

 

「今は触らない」

 

 測量店は、ただ人が落ち合う場所ではなかった。

 

 東のどこかへ合図を送る装置が、壁の中で動いていた。

 

 

 

 灰色の外套の男は、壁から手を離してもすぐには立ち去らなかった。

 

 店の裏口を一度見てから、路地の奥へ消えていく。

 

 レイニャは再び壁へ耳を向けたが、音は戻らなかった。

 

 日が傾き、石畳の影が長く伸びた頃、ヴァルトが顔を上げた。

 

「戻ってきました」

 

「何がですか?」

 

「魔力です。先ほどの脈動へ返すような流れがあります」

 

「返事ニャ?」

 

「そう見えます。ただ、内容までは読めません」

 

 測量店の二階、その窓辺に影が動いた。

 

 白髪の混じった男が階段を下り、表へ出てきた。

 

 測量士らしい、使い込まれた外套を着ていた。

 

 彼は裏口の脇へ寄り、伝達器の埋め込まれた壁に手を触れた。

 

 そのまま東へ歩き出す。

 

「店の関係者かもしれないな」

 

 真壁の声に、ヴァルトは小さく応じた。

 

「あるいは灰鴉本人かもしれません。まだ分かりません」

 

「見ます」

 

 理央は男との距離を保ち、《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

シナン・カヤ

 分類:人間

 現在ジョブ:測量士

 レベル:12

 状態:良好

----------------------------------

既得スキル

 測量:9

 地図:9

 地形把握:8

 方位感覚:8

 計算:7

 記憶:6

 鑑定:4

 収納:4

----------------------------------

 

「シナン・カヤ。測量士、レベル12。《測量》9、《地図》9……」

 

 理央の声が途中で細くなった。

 

「技能だけなら、灰鴉らしいな」

 

 真壁がそう言った瞬間、鑑定の表示から名前が消えた。

 

「え?」

 

 理央は一度まばたきをした。

 

 表示の文字が消え、「判定不能」に変わっていた。

 

「ちょっと待ってください」

 

 理央は距離を保ったまま、もう一度だけ鑑定を試みた。

 

 次の瞬間には、シナン・カヤという名前が戻っていた。

 

「戻った……」

 

「何があったニャ?」

 

「名前が消えました。一回、判定不能になって、それから戻りました」

 

 真壁とヴァルトの視線が、同時に歩く男へ向いた。

 

 名前が消え、判定不能になり、また元に戻った。

 

 ジェムが語った異変と、理央の見た表示が重なった。

 

 

 

 レイニャが先に気づいたのは、男の歩き方だった。

 

「歩き方が変ニャ」

 

「変ですか?」

 

「歩幅がずっと同じニャ」

 

 石畳には段差や欠けた縁があり、わずかに傾いた部分もあった。

 

 シナンは速く歩いているわけではないのに、足を置く間隔がほとんど変わらなかった。

 

 真壁はサーマルカメラの焦点を合わせ直した。

 

 画面の人影には、確かな体温があった。

 

 ただ、首から肩、胸元から腕へと続く温度の移り方が、妙に滑らかだった。

 

 日差しを受けても、表面の温度変化が薄い。

 

「体温はある。だが、分布が整いすぎている」

 

「人間ではない、ということですか?」

 

「そこまでは言えん。血流の揺らぎが見えにくい。機械の表面に近いと言っているだけだ」

 

 ヴァルトは男から目を離さず、魔力の流れを追っていた。

 

「魔力も変です」

 

「どう変だ」

 

「ありますが、外へほとんど漏れていません」

 

 彼はすぐに続けた。

 

「魔力を抑える術はあります。それだけなら異常とは言えません」

 

「ただ、歩きながらこの均一さを保つのは珍しいです」

 

 鑑定表示は消え、歩幅は均一で、魔力はほとんど漏れず、体温の変化も乏しかった。

 

 それぞれ別の異常が、シナンの一人に集まっていた。

 

 どれも一つだけなら説明がつくのかもしれないが、重なると見過ごせなかった。

 

 シナンが歩みを止めた。

 

 レイニャの耳が伏せられた。

 

「……息がないニャ」

 

「え?」

 

「さっきまで聞こえてた。今、消えたニャ」

 

 理央は男の胸元を見た。

 

 外套はほとんど動かなかった。

 

 一秒、二秒。レイニャは耳を澄ませたまま待ったが、五秒を過ぎても、十秒を越えても呼吸の音は戻らなかった。

 

 真壁が低く言う。

 

「見るな」

 

 理央は、男から視線をわずかに外した。

 

 シナンの顔が、こちらの方角へゆっくり向いた。

 

 距離はあり、間には建物の角もあった。

 

 見つかったのか、偶然なのかは分からなかった。

 

「直接追うのはやめる」

 

 真壁の判断は早かった。

 

「でも行っちゃうニャ」

 

「人を追う必要はない。行き先の候補を地形から探そう」

 

 シナンの背が路地の先へ消えた。

 

 理央は、追跡を止めても手がかりまで失ったわけではないと、自分に言い聞かせた。

 

 

 

 シナンが東へ歩いていった。

 

 理央は、それだけを手がかりに《世界地図》を開いた。

 

「東へ行く道は何本かあります」

 

 理央は表示された地形をなぞった。

 

 農村へ抜ける道、別の町へ向かう道、川沿いの道。

 

 その中で、北東へ伸びる古い道に指が止まった。

 

「これ……」

 

 道幅は途中まで広く、荷車が二台すれ違えるほどに見えた。

 

 しかし、最後の約2kmで急に細くなり、森の中へ入っていく。

 

「周りの道が、この先を避けるように曲がっています」

 

 真壁は地図の輪郭を追った。

 

「中心に何かあるのか」

 

「丸い地形です。道が、そこだけ避けています」

 

 円の内側には、古い円形基礎を思わせる空きがあった。

 

 けれど、中央部分だけは地図に表示されなかった。

 

「ここだけ出ません」

 

「人ではなく、地形がか」

 

「はい。地形の情報が抜けています」

 

 ヴァルトは地図を覗き込んだが、指で触れようとはしなかった。

 

「境界の可能性はあります。ただ、外から見ただけでは決められません」

 

「中心へ直接入るのはなしだ」

 

 真壁は目的地を円から離れた林へ移すよう理央に告げた。

 

「足場が安定し、人影のない場所を選ぼう」

 

「はい。ここなら円形の地形から距離があります」

 

 理央はシナン本人を追う代わりに、道の先にある地形を確かめることにした。

 

 理央の指が林の一角で止まり、移動先が定まった。

 

 

 

 《関門接続》を使うと、林の手前に靄が集まり、扉の形を作った。

 

 真壁は全開にせず、まず人が一人通れるほどの隙間だけを開けた。

 

「音を聞いてくれ、レイニャ君」

 

「鳥がいるニャ。虫も、水の音もするニャ」

 

 レイニャは耳を左右へ向け、近くの足音がないことを確かめた。

 

 真壁はスマートグラスで先の温度を確かめ、ヴァルトは魔力の乱れを探った。

 

「異常はありません。ここは普通です」

 

「では移動しよう」

 

 ナジムが付けた衛兵は外縁で待機し、中心へ入るのは真壁、ヴァルト、理央、レイニャだけになった。

 

 誰も扉を大きく開ける前に、互いの位置と戻り道を確かめていた。

 

 

 

 林へ足を踏み入れた途端、頬に触れる風が湿った葉の匂いを運んできた。

 

 鳥の声も、虫の羽音も聞こえていた。

 

 それらが消えたわけではなかった。

 

 ただ、進むにつれて、レイニャの耳が何度も同じ方角へ傾いていく。

 

「……減ってるニャ」

 

「何がですか?」

 

「虫の音ニャ」

 

 数歩進むと、地面を這う草の間から聞こえていた細かな音が遠のいた。

 

「ここから少ないニャ」

 

 真壁はサーマルカメラを通して地面を見た。

 

 周囲より低い温度の細い筋が、林の中に弧を描いていた。

 

 目で見ても、土や落ち葉の色は変わらなかった。

 

「円のように続いています」

 

 ヴァルトの声が慎重になった。

 

「魔力があります」

 

「結界ですか?」

 

「そう呼んでも間違いではないでしょう。ただ、目的はまだ分かりません」

 

 彼は外周を見回した。

 

「防ぐためか、隠すためか、境界を固定するためか。どれもあり得ます」

 

 理央は《世界地図》を確かめた。

 

 円の内側は、相変わらず空白のままだった。

 

「越えるな」

 

 真壁が全員へ短く告げた、その時だった。

 

 空白の向こう側に、人影が現れた。

 

 シナン・カヤだった。

 

 一行は木立の陰へ身を寄せた。

 

 シナンは境界の手前で立ち止まり、手元の何かを壁へ近づけた。

 

 カチ。

 

 レイニャの耳が反応した。

 

「同じ音ニャ」

 

 スマートグラスの画面で、低温の筋が一部だけ途切れた。

 

 ヴァルトの表情も変わった。

 

「魔力が薄くなりました」

 

 シナンは、その切れ目を通って円の内側へ消えた。

 

 すぐに温度差が戻り、魔力の筋も閉じた。

 

「認証だな」

 

「その可能性が高いです」

 

 ヴァルトは理央の収納を見た。

 

 

 

 灰色の小片は、収納の中で隔離されたままだった。

 

 シナンの姿が十分遠ざかったのを待って、真壁が理央へ合図した。

 

「理央君。小片を出す」

 

「使う顔でしたね」

 

 レイニャが耳を揺らす。

 

「ほらニャ」

 

「今は口を揃えなくてよい」

 

 真壁は声を荒げなかった。

 

 ヴァルトは一歩も進まず、先に条件を伝えた。

 

「真壁殿。境界から離した位置に出してください。触れさせる必要があるとは限りません」

 

「了解した」

 

 理央は、境界線から距離を取ったまま隔離を解除した。

 

 靄の中から、暗い灰色の小片が現れた。

 

 その途端、レイニャが顔を上げた。

 

「カチって鳴ったニャ」

 

 真壁のスマートグラスでは、低温の筋の一部が消えていた。

 

 ヴァルトも、境界へ伸びていた魔力の反応が薄くなったと告げた。

 

 木立の向こうで、円の内側へ続く切れ目が開いていた。

 

「鍵……」

 

 理央が小さく言う。

 

「少なくとも、この境界にはな」

 

 真壁は一度だけ見届けた。

 

 理央は小片をすぐ収納し、隔離へ戻した。

 

 低温の筋がつながり、魔力の気配も元の形へ戻った。

 

「もう一度は試さない」

 

 真壁はノートへ一行加えた。

 

 開閉が再現できたことより、開ける条件が見えたことの方が重かった。

 

 

 

 その直後、境界の内側から足音が二つ近づいてきた。

 

 レイニャの耳が地面と木々の間を行き来した。

 

「二人来るニャ」

 

 理央たちは木の幹の陰へ下がった。

 

 境界の内側に、男が二人現れた。

 

「反応はここ」

 

「登録は?」

 

「古い」

 

 短いやり取りのあと、片方が尋ねた。

 

「使用者は?」

 

 もう一人は、返事をするまでに間を置いた。

 

「死んだはずだ」

 

 理央は収納へ意識を向けた。

 

 ラシムのペンダントに隠されていた小片は、誰かの登録に使われた鍵だったのかもしれない。

 

 ただ、誰が持ち主だったのか、いつ死んだとされたのかまでは分からなかった。

 

 真壁は推測を広げず、二人の足音が遠ざかるのを待った。

 

「入るニャ?」

 

「六人が中にいる可能性がある。今の混乱が残っているうちに進もう」

 

 ヴァルトは理央の収納を確かめた。

 

「鍵は出したままにしないでください。通る瞬間だけです」

 

「そのつもりだ、ヴァルト君」

 

 

 

 理央は隔離を解除し、小片を境界線から離して出した。

 

 外周の切れ目が開いた。

 

 一人ずつ、互いの背中を見失わない距離で通り抜けた。

 

 最後に理央が小片を収納し、隔離状態へ戻す。

 

 背後で、境界が閉じた。

 

 その瞬間、《世界地図》の空白だった円形部分に、地上の構造が少しずつ浮かび上がった。

 

「見えるようになりました」

 

「地下は?」

 

 理央は地図を広げ直した。

 

「まだ出ません。地上だけです」

 

 

 

 円形広場には、崩れた柱と風化した石材が残っていた。

 

 古い基礎の端は草に埋まり、地面の一部には細かな根が張っていた。

 

 中央だけは、肉眼では何もなかった。

 

「風が変ニャ」

 

 レイニャは耳を立て、頬へ吹く空気を確かめた。

 

 真壁はサーマルカメラを広場の中心へ向けた。

 

 そこには高さ約3m、幅約2mほどの縦長の温度差が浮かんでいた。

 

 物体の輪郭のように見えるのに、光を返す面も、支える枠もなかった。

 

「中央だ」

 

 ヴァルトは距離を置いたまま、空間へ意識を向けた。

 

「空間が歪んでいます」

 

「鏡ですか?」

 

「まだそう呼ばないでください。候補の一つです」

 

 レイニャは首を傾けた。

 

「そこだけ、風の音が遅いニャ」

 

「音が遅い?」

 

「葉っぱが動いて、あとから音がするニャ」

 

 温度、魔力、風音、地図。

 

 それぞれ別のものを見ているのに、四人の注意は同じ位置へ引き寄せられていた。

 

「正面へ立たない」

 

 真壁の言葉に従い、理央は広場の縁へ退いた。

 

 中央を避けて移動した先で、レイニャの耳が地面へ向いた。

 

 

 

「下ニャ」

 

「人ですか?」

 

「いる」

 

 理央は息を潜めた。

 

 遠く、石の向こうから声が伝わってきた。

 

「四番」

 

 続いて、別の声がした。

 

「文字を読め」

 

 理央は真壁を見た。

 

「四番と五番……」

 

 真壁の口元が固くなった。

 

「レイラとカディルだ」

 

 さらに声が重なった。

 

「五番を連れてこい」

 

 レイニャは耳を澄ませたまま、首を横へ振った。

 

「ほかにもいるニャ」

 

 人数までは数えられなかった。

 

 けれど、閉じ込められた者たちが一人ではないことは分かった。

 

「少なくとも二人は生きています」

 

 ヴァルトは断定の範囲を慎重に限った。

 

「入口を探します」

 

「焦るな。地下の入口を見つけてから地図へ追加する」

 

 理央は《世界地図》を見た。

 

 そこに出ているのは、地上の広場までだった。

 

 崩れた階段、埋もれた石板、草に隠れた段差。

 

 どれが入口なのか、まだ決められなかった。

 

 その時、中央の温度差が揺れた。

 

 

 

「動くな」

 

 真壁の声で、全員が足を止めた。

 

 何もなかった空間に、光の屈折のような揺らぎが広がった。

 

 縦長の輪郭の奥に、光を返さない黒い面が浮かぶ。

 

 周囲の景色を映していなかった。

 

「……鏡」

 

 理央は、息と一緒にその言葉をこぼした。

 

「正面へ出ないでください」

 

 ヴァルトの声が低くなった。

 

 四人は斜めの位置を保ち、黒い面へ近づかなかった。

 

 鏡の中に、人影が現れた。

 

 白髪混じりの測量士、シナン・カヤだった。

 

 広場のどこにも、彼の姿はなかった。

 

 それなのに鏡の中の男だけが、こちらを見ていた。

 

 レイニャの背の毛が逆立つ。

 

「……見てるニャ」

 

「返事はしない」

 

 真壁が言い、ヴァルトはすぐに続けた。

 

「触れないでください」

 

 鏡の中のシナンは、外で見せなかった笑みを浮かべた。

 

 作り物のように整った顔に、その笑みだけが妙に人間らしい。

 

 だからこそ、理央は視線を外せなかった。

 

 男の口が動いた。

 

 声は、ほんの少し遅れて届く。

 

「――鍵を返してもらおう」

 

 理央の唇が、答えを探すように動きかけた。

 

 レイニャに袖を掴まれ、理央は返事を呑み込んだ。

 

 理央は収納の隔離区画へ意識を向けた。

 

 灰色の小片が、その中で震えていた。

 

 理央の顔から血の気が引いた。

 

「どうした」

 

 真壁の問いに、理央は自分の収納へ目を向けた。

 

「……鍵が」

 

「収納の中で、動いてます」

 

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