「――鍵を返してもらおう」
声が届いたのは、鏡の中の男の口が動いたあとだった。
理央は返事をしかけた唇を閉じ、レイニャに掴まれた袖を握り返した。
黒い鏡の前には、理央と真壁、ヴァルト、レイニャ、リュシアの五人がいた。
リュシアは外周に残した衛兵をナジムへ預け、境界の裂け目が一度だけ広がった隙に、理央たちへ追いついていた。
裂け目はすぐに閉じ、ナジムは衛兵を率いて境界の外側に残った。
人数を預かると決めたリュシアも、今は鏡から目を離せずにいた。
理央の収納の中で、灰色の小片が震えていた。
最初は、指先で感じ取れるかどうかというほどの細かな振動だった。
それが少しずつ強まり、収納内の区画を分ける感覚まで揺さぶり始める。
「……動いてます」
「何がだ」
「鍵です、収納の中で震えています」
ヴァルトの表情が硬くなった。
「理央さん、隔離を強めてください」
「強めるって、どうすれば」
「分類を通常から単独へ移してください、外とのつながりを切る方です」
理央は息を整える間もなく、収納の区画を開いた。
灰色小片だけを他の物品から切り離し、分類を単独に変えて、探索の対象からも外す。
ただ奥へしまい込むのとは違う。
収納の中で距離を取るのではなく、外の何かと結びついている関係を断つ操作だった。
指示を終えると、小片の震えが弱まった。
鏡の中のシナンの輪郭が、黒い水面に石を落としたように歪んだ。
「――どこへ……」
声が途中で割れ、今度は小片が完全に静まった。
鏡の中の人影も消えた。
残ったのは、周囲を映さない黒い面だけだった。
理央は、思わず口を開いた。
「返しません」
真壁が彼女を見た。
「理央君」
「あ」
「返事をするなと言っただろう」
「……すみません」
「言いたくなるやつだったニャ」
「君まで同意しなくてよい」
ほんの一瞬だけ、張りつめていた空気が緩んだ。
けれどヴァルトは、鏡から目を離さなかった。
「完全に切れたとは限りません」
「分かっている」
真壁はすぐに視線を足元へ移した。
「まず、六人を出す」
真壁は自分以外の四人を順に見て、短く役割を割り振った。
「理央君は鍵を隔離したまま、私は温度を見る」
「ヴァルト君は接続構造を調べてくれ」
「レイニャ君は地下と周囲の音を頼む」
「任せるニャ」
真壁はリュシアへ向き直った。
「君は退路と人数を頼む、何かあれば止めてくれ」
「分かった、全員いるか数える役だね」
「そうだ」
「一人足りない、は無しだよ」
リュシアは返事をして、全員の立ち位置を確かめた。
理央は収納の隔離区画に意識を残し、ヴァルトは黒い面から伸びる魔力を探り、真壁は手にしたスマートグラスを掛け直した。
レイニャの耳は、鏡の向こうではなく地面へ向いている。
レイニャは《聞き耳》を使い、近くの音と地下から届く音を分けて拾った。
誰か一人に任せるのではなく、五人が別々の手掛かりを拾う形ができた。
「三つ同時だ」
「はい」
真壁は頷き、鏡の周囲に目を凝らした。
スマートグラスの画面では、黒い鏡の縁が周囲よりわずかに冷えて見えた。
温度差だけでは、それが何に使われるものかまでは分からない。
真壁は視線を足元へ下げ、鏡の根元から地面へ伸びる細い筋を見つけた。
筋は一本ではなく、北から北東、東、南東、南、南西、西、北西へと八方向に広がっていた。
どれも周囲よりわずかに冷たく、落ち葉の下へ潜るように続いていた。
真壁は一度、画面から目を離して肉眼で地面を見た。
そこには枯れ葉と草の影しかなく、冷たい筋がどこを通っているのかは分からない。
彼は足をずらし、影が動いても筋の位置が変わらないことを確かめた。
「線がある」
「どこです?」
「地表だ、八方向へ伸びている」
ヴァルトは腰を落としたが、手を地面には触れなかった。
「同じ方向に魔力線があります、地表の下へ続いています」
真壁が見た温度差と、ヴァルトが追った魔力の流れは、ほとんど同じ場所を通っていた。
「地下まで見えているわけではありません」
真壁は理央へ釘を刺すように言った。
「分かるのは表面の温度だけだ、地下の形はまだ分からん」
「はい」
ヴァルトは地面から視線を離した。
「古い大型封印に、似た配置があります」
「ここに何かを閉じ込めているんですか」
理央の声に不安が混じった。
「似ているだけです、まだ封印と決めないでください」
「分かりました」
理央は鏡ではなく、八方向の線を見た。
その先に何があるのかを知りたくなったが、今は答えを急ぐ場面ではない。
ヴァルトは八本の魔力線を目で追い、交わる中央へ視線を戻した。
「地中に固定点が八つあります」
「杭か」
「そう呼ばれるものに近いですが、実物が杭とは限りません」
ヴァルトは言葉を選ぶように一度黙り、地面の線を順に指でなぞるように示した。
「埋めた術式かもしれませんし、石柱や魔石の可能性もあります」
「役割は何だ」
すぐには答えず、ヴァルトは黒い鏡と灰色小片を順に見た。
これまでに見た接続の反応が、頭の中で一つずつ並んでいく。
「封印に似てはいます」
「やっぱり何かを閉じ込めているんですか」
「そこまでは言えません」
ヴァルトは中央を指した。
「むしろ、ここに接続点を置き続けるための構造に見えます」
「位置を固定しているのか」
「はい、八方向から中央を押さえて、同じ場所に接続面を保つためのものかもしれません」
真壁は黒い面を見た。
「向こう側へつなぐ場所を固定している」
「その見方が、今分かっている現象には近いです」
「鏡を壊せば、止まるんでしょうか」
理央の問いに、ヴァルトはすぐ首を振った。
「何が起きるか分かりません、壊すのは避けた方がいいでしょう」
真壁も同じ考えだった。
「鏡には触らない、調べるのも後だ」
彼は鏡から視線を切った。
「六人を出す」
ヴァルトがもう一度線を追うと、北東へ伸びる一本だけが他より薄く見えた。
「北東だけ弱いです」
「私が鍵を使ったからでしょうか」
理央の顔が曇った。
境界を開けるために、小片を一度外へ出した。
あの時に切れ目が開いたのは、北東側だった。
今、同じ方角の線だけが弱い。
理央の指先が冷たくなった。
それが今の変化につながったのなら、自分が危険を大きくしたのではないか。
「可能性はあります」
ヴァルトは慎重に答えた。
「ですが、全体の構造はまだ維持されています、今すぐ何かが開く状態ではありません」
理央は、返す言葉を探して口を閉じた。
「原因と責任の話は後だ、今は六人を出す」
真壁の声に、理央の視線が地面から戻った。
「……はい」
その時、足元から鈍い音が届いた。
ゴン、と地中の石を拳で叩いたような響きだった。
少し間を置いて、同じ音がもう一度鳴った。
レイニャの耳が地面へ向く。
「下からニャ」
「何かいるの?」
リュシアの問いに、ヴァルトは首を振った。
「分かりません、構造が動いた音かもしれませんし、人が作業している音かもしれません」
その返事が終わる前に、地面の奥から声が響いた。
「鍵が消えた!」
「接続が落ちる!」
レイニャが顔を上げた。
「人の声ニャ」
真壁は迷わなかった。
「六人も下だ、入口を探す」
レイニャは片膝をつき、地面へ耳を寄せた。
石の向こうで、慌ただしい足音がいくつも交差している。
「走ってるニャ、上の方にも何人かいる」
レイニャは耳の向きを変えた。
「その下にも人がいるニャ」
途切れ途切れの声が、地下から這い上がってくる。
「鍵が消えた!」
「接続基部が反応した!」
レイニャは聞き取れた言葉だけを伝えた。
「こっちの操作に気づいたな」
真壁は、彼女の言葉の続きを待った。
また人の声がする。
「四番!」
「文字を読め!」
レイニャの耳がぴんと立った。
理央は毛布を掛けたエリフの顔を思い浮かべた。
「四番はレイラさんです」
すぐ別の声が重なった。
「五番を連れてこい!」
リュシアの表情が変わった。
「いる」
番号を呼ばれているだけではない。
誰かが生きたまま、役目を強いられている。
「入口を探す」
真壁はそう言って、理央へ目配せした。
理央は《世界地図》を広げた。
見えているのは円形の地上遺跡と、その周囲の林だけで、地下は空白のままだった。
「やっぱり地下は出ません」
「入口を見つける」
ヴァルトが円形広場の端を見た。
「この辺りに隠蔽があります、中央の仕掛けとは別のものです」
彼が指した先は草に覆われ、低木の根が石の縁まで伸びていた。
理央はしゃがみ込み、草の根元を指で分けた。
「ここですか」
理央は平石の周囲を手で探り、風が出ている継ぎ目を見つけた。
石の表面には苔が薄く広がり、最近誰かが動かした跡は見えない。
「下から空気が上がってるニャ」
レイニャの耳が、平らな石板の継ぎ目を向いた。
理央は石板の上に生き物の反応がないことを確かめた。
「表面だけ外します」
収納の靄が草と薄い土を包み、石板の一部を持ち上げるように消した。
その下から、冷たい空気と暗い階段が現れた。
同時に、《世界地図》の空白へ細い線が走った。
「出ました、地下へ続いています」
「経路は?」
理央は地図を拡大した。
「三本です、北西は長くて、南は部屋が多いです」
東へ伸びる線は、途中から南側の大きな部屋へ枝分かれしていた。
「六人の声、南寄りニャ」
真壁は東の通路を選んだ。
「東から入る、複雑な部屋を避けよう」
石階段は狭く、壁の両側に古い煤の跡が残っていた。
先頭のレイニャが足を止めるたび、真壁もその背後で止まり、理央とリュシア、ヴァルトが互いの距離を詰めすぎないように続いた。
「前に二人ニャ」
角の先に、武器を持った見張りがいる。
声を潜めた会話が聞こえた。
「七番はまだか」
「川で止まったらしい」
「先に四番をやらせろ」
エリフを連れてこいという意味だった。
理央の指が強張ったが、真壁が片手を上げて制した。
彼は二人の間合いと、背後に続く通路を目で測った。
「生け捕りだ」
理央は頷き、壁際から必要な範囲だけに意識を向けた。
「《重力》」
二人の肩が沈み、膝が石床についた。
一人が持っていた短剣を落とし、もう一人の棒が床に転がる。
真壁はそれを靴先で遠ざけた。
「命は取らん、そのまま伏せていたまえ」
レイニャの耳は、後ろの通路へ向いていた。
「後ろは来てないニャ」
リュシアが二人の拘束を確認してから、先へ進むよう促した。
「じゃあ行こう」
捕らえた二人を残し、一行は足音を抑えて奥へ向かった。
南側の大部屋では、机を囲む者たちの手が止まっていた。
レイニャは扉の隙間から音を拾い、指を折った。
「中、九人ニャ」
「六人は動きが少ない、三人は歩いてるニャ」
真壁は扉の横に立ち、全員の位置を目で確かめた。
「入る」
扉を押し開けると、最初に見えたのは作業台の上に重ねられた古い石板だった。
その横でレイラが身を屈め、削れて読みにくい文字を何度も紙へ写し取っていた。
ケマルの前には大きな図面が広げられていて、方位と距離を示す線が、途中で幾度も引き直されている。
壁際ではカディルが鉄枠の錠に手を掛けていた。
指先には小さな擦り傷がいくつも走り、解除機構の脇には罠のばねが露出していた。
オヌルは床の魔術陣を前に膝をつき、壁へ走る結界線を追わされているようだった。
ゼイネプの側には栓を抜かれた瓶と、色の異なる粉末が並んでいた。
ジェムは石片や金属片を一つずつ手に取り、鏡に似た破片を別の皿へ分けていた。
作業台を囲む六人は、声を掛け合うこともなく、互いの手元を見ていた。
レイラが文字の一つを指すと、ケマルは図面の方位を直し、カディルは錠のばねから目を上げた。
ジェムは皿に並んだ破片を二つ選び、オヌルへ見せるように差し出した。
互いの作業を確かめながら、六人は一つの答えを組み立てていた。
「誰だ!」
一人が振り返り、二人が武器へ手を伸ばした。
その隙に、三人目が奥の扉へ走った。
理央は逃げた男を追わず、残った二人だけに意識を絞った。
「《重力》」
二人の身体が床へ沈んだ。
一人は武器を握ったままうつ伏せになり、もう一人は床に手をついた。
「一人逃げるニャ!」
理央は反射的にその背を追いかけようとした。
「追うな」
真壁の声が鋭く飛んだ。
「六人が先だ」
「はい」
理央は走りかけた足を止めた。
リュシアは倒れた二人を視界の端に置いたまま、六人へ近づいた。
「動ける人?」
最初に顔を上げたのはジェムだった。
声はかすれ、唇は乾いていた。
「七番は?」
理央は迷わず答えた。
「助けました、安全な場所にいます」
ジェムの肩が、目に見えて落ちた。
レイラは書きかけの紙から手を離し、目を閉じた。
カディルは鉄枠に置いていた手を下ろし、ゼイネプは瓶から視線を外した。
ケマルが深く息を吐き、オヌルは床についた指をゆっくり曲げた。
ジェムは壁へ手をついた。
「……そうか」
その一言だけで、理央には彼らがどれだけエリフを気に掛けていたか伝わった。
「話は後にしよう、まず立てる人から教えて」
リュシアは救出者を見回し、肩を貸せる者と支えが必要な者を確かめた。
ジェムは壁を支えにすれば歩けそうだった。
ゼイネプも自分の足で立ち、ケマルは膝が揺れながらも、肩を貸せば進めると言った。
レイラは長いあいだ同じ姿勢でいたらしく、足にしびれが残っていた。
カディルの手には傷があったが、歩行に支障はなさそうだった。
オヌルは立ち上がろうとしたものの、膝が抜けて床へ崩れた。
レイニャがすぐ腕を支えた。
「無理ニャ」
「状態を見ます」
理央は、オヌルが怖がらないよう声をかけてから《鑑定》を使った。
----------------------------------
オヌル
分類:人間
現在ジョブ:魔術師見習い
状態:衰弱
疲労度:高
身体異常:鎮静薬残留/軽度脱水
----------------------------------
命に関わる異常は表示されていなかったが、長い地下通路を歩かせる状態ではない。
オヌルは目を開けていたが、焦点が合うまで少し時間がかかった。
理央が呼びかけると、遅れて視線が動き、指先が床を探るように触れた。
「歩かせない方がいいです」
ゼイネプもオヌルの唇と呼吸を見て、器の水を一口だけ含ませた。
「水を一気に飲ませないで、薬がまだ残ってる」
「運ぶ方法は?」
リュシアの問いに、理央の頭には先日助けたエリフのことが浮かんだ。
人間を《生体収納》に入れたのは、あの時が初めてだった。
短時間で外へ出せたのも、確かめられたのは一人だけだ。
「……《生体収納》があります」
真壁は理央を見た。
「エリフさんを助けた時、一人なら短時間はできました」
「今回も一人だけにします、出たらすぐ状態を確かめます」
「前例は一回だけです、長時間にしない方がいいでしょう」
ヴァルトの声は静かだった。
「はい」
理央はオヌルの目線に合わせてしゃがんだ。
「少し変な方法なんですけど、外へ出るまで私の《生体収納》に入ってもらえますか」
オヌルは説明を理解しきれない様子で、ジェムの顔を見た。
ジェムが理央に尋ねた。
「安全なのか」
「一回だけ、人を短時間入れて助けたことがあります」
「絶対とは言えません、でもこのまま歩くより負担は少ないと思います」
理央は危険を隠さなかった。
自分の能力なら絶対に大丈夫だと、今ここで言い切ることはできない。
それでも、弱ったオヌルをこの通路へ歩かせる方が、理央には怖かった。
オヌルは少し考え、弱く頷いた。
「……頼む」
「はい」
理央はほかの五人を収納の対象から外し、オヌル一人だけを《生体収納》へ移した。
収納の中には、生体反応が一つだけ浮かんでいた。
「入りました」
リュシアはすぐに人数を数え直し、六人が揃っていることを確かめた。
「待ってくれ」
ジェムが、出入口へ向かいかけた一行を止めた。
「短く」
真壁が応じた。
「俺たちだけじゃない」
理央は振り返った。
「まだ人がいるんですか」
ジェムは首を横に振った。
「人じゃない」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
ジェムは一度だけ鏡が揺れた時、向こう側に見えたものを鑑定したという。
名前も、ジョブも、レベルも出なかった。
ただ一瞬、分類欄にだけ見慣れない文字が浮かんだ。
「《境界外存在》」
理央はヴァルトを見た。
「ヴァルトさん、知っていますか」
「いいえ、私は知りません」
ヴァルトは間を置かずに答えた。
ヴァルトが知らないと即答したことで、理央はかえって言葉を失った。
彼もまた、分からないものへ無理に意味を当てはめようとはしなかった。
ジェムは一度、口を閉じたまま理央たちの顔を見渡した。
彼が知っているのは、目にした表示と、向こう側で起きていた動きだけだった。
「一つだけだったのか」
真壁の問いに、ジェムはまた首を振った。
「少なくとも三ついた、一つはずっとこっちを見てた」
理央の脳裏に、鏡の中のシナンの目がよみがえった。
「残りの二つは、向こうで何かを開こうとしていた」
「扉か」
「違う、もっと大きい」
ジェムは言葉を探すように、少し黙った。
「門だ」
理央は息をのんだ。
七人の技能と灰色小片、地中の固定点が、一つの目的へ向けて揃えられていたのかもしれない。
「だから七人を集めたんですね」
「たぶんな、俺たちはこっち側を開くために集められた」
真壁は、話を先へ広げなかった。
理央には、ジェムへ聞きたいことがいくつもあった。
ヴァルトも黙っていたが、目はジェムの表情を確かめている。
「外で聞く」
真壁はそれだけ告げた。
「六人を救うために来た、六人を連れて帰る」
ジェムは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「見たものの正体を調べるのは、その後だ」
「私も賛成です、地下の構造が安定している保証はありません」
ヴァルトも短く同意した。
真壁が彼へ目を向けた。
「ヴァルト君、撤退路を見てくれ」
「分かりました、真壁さん」
理央は《世界地図》に指を置き、いま通ってきた道をなぞった。
地上へ続く線はまだ見えている。
理央はジェムたちの疲れた顔を見て、全員を連れて戻る道筋を頭の中で確かめた。
理央はルネスタ商館の奥にある客室を思い浮かべた。
そこにはエリフが待っている。
帰るために《関門接続》を使おうとしたが、いつもなら手の先に集まる靄がどこにも現れなかった。
「……え?」
理央は目を瞬かせ、意識を切り替えてもう一度試した。
何も起きない。
「ちょっと待ってください」
レイニャが耳を立てた。
「どうしたニャ?」
「外へ扉が作れません」
理央は、さっき通ってきた林の場所を思い浮かべた。
そこにも開かない。
「使えないのかい」
リュシアの問いに、理央は首を振った。
「ここから外の場所が、つかめないんです」
《世界地図》を見直すと、遺跡の内部と地下通路は表示されたままだった。
外の森や街道は、境界の向こうで途切れている。
「中は地図に出ます、外へつながらない」
扉を開けば帰れると、いつの間にか信じていた。
その道が目の前で消え、理央の指先が冷たくなった。
呼吸が浅くなり、喉の奥で吸った空気がつかえる。
この場所から出られないかもしれないという考えが、ひと息ごとに大きくなった。
「理央さん」
ヴァルトが、彼女の焦りを急かさないように声をかけた。
「もう一度だけ、地下の別の場所へ開けられますか」
理央は、先ほど通った階段の手前を思い浮かべた。
今度は靄が集まり、狭い扉の形を作った。
「……開きます」
真壁は扉と地図を交互に見た。
「術そのものを止められたわけではないな」
「はい、止められているなら内部同士でも開かないはずです」
「じゃあ、なんで外だけ……」
ヴァルトはすぐに答えを決めず、地図の空白と壁の魔力線を見比べた。
「ここが外の場所との関係を切られているのかもしれません」
「関係を?」
「今いる場所そのものが、外側の空間から位置として参照できない状態です」
ヴァルトは理央の《世界地図》を見た。
「中からも外を接続先として捉えられない、そう考えると今の現象には合います」
「場所ごと隔離しているのか」
「断定はできませんが、その可能性が高いです」
真壁は追及を止めた。
「原因は外へ出てから考える」
理央は冷えた指を握り、もう一度地図へ目を戻した。
内部の道はまだ見えている。
帰り道があるなら、まずはそこを通るしかなかった。
レイニャの耳が後方へ向いた。
「来るニャ」
真壁は身を寄せ、人数を尋ねた。
「後ろに三人、その後ろにもいるニャ」
足音は近づいたり遠ざかったりせず、一定の間隔で石床を打っていた。
追っている者たちが急いでいるのか、待ち伏せしているのかさえ、音からは読み取れない。
少し間を置いて、レイニャは眉を寄せた。
「三人の歩き方が同じニャ」
「シナンと?」
「同じくらい変ニャ、歩幅も間もずっとそろってる」
そのほかにも複数の足音が続いていた。
救い出した五人は歩けても、長い距離を急げる状態ではない。
オヌルは理央の収納にいる。
ここで敵を待ち受ける理由はなかった。
真壁は《世界地図》を見て、別の道を指した。
南は部屋が多く、北西は遠回りになる。
その先に、地図上では細い空間が残っていた。
通路かもしれないが、今いる道との間には石壁がある。
理央は壁を見た。
壁を抜けば近道になる。
ただし、その一手がどこまで遺跡に影響するかは、彼女には判断できなかった。
「この壁の石だけを少し収納すれば、向こうへ抜けられませんか」
理央の問いに、真壁は壁を見た。
「可能性はある、だが術式を確かめてからだ」
理央は壁へ手を伸ばした。
その手を止めたのは、ヴァルトの声だった。
「待ってください、どこでも抜いていい壁ではありません」
彼は壁へ近づきすぎず、表面を伝う魔力を探った。
「上と下に術式が通っています」
「ここを切ると、中央へ影響するかもしれません」
真壁は壁全体を見た。
「抜ける場所は」
ヴァルトは中央の一角を示した。
「今見える範囲では、この部分に線がありません」
「人の胸から腰ほどの幅なら、通路を作れます」
「人一人分ですね」
「はい、広げすぎないでください」
ヴァルトは、上と下を走る術式の線を目で追い、指先を中央の空白へ移した。
理央は彼の指が止まるのを待ってから、収納の範囲を決めた。
理央はヴァルトが示した場所を確かめてから頷いた。
「分かりました」
収納の靄が壁の中央だけを包み、石材を人ひとりが通れる大きさに取り除いた。
向こう側には暗い通路が続いている。
レイニャはすぐに耳を向けた。
「人はいないニャ」
「通る」
真壁の声に合わせ、リュシアが救出者を一人ずつ送り出した。
「ジェム、いるね」
「いる」
「ゼイネプ」
「いるよ」
ケマル、レイラ、カディルも、返事をしながら壁の向こうへ抜けた。
理央は収納内の生体反応を確かめた。
オヌルは一人、確かに中にいる。
最後に真壁とヴァルト、レイニャ、リュシア、理央が通り、理央は保存した石材を元の位置へ戻した。
完全に元通りではないが、追手がすぐに抜ける隙間は塞がった。
壁の向こうで足音が止まった。
「――七番はどこだ」
声が遅れて響いた。
理央は返事をしなかった。
レイニャが彼女の袖をつまみ、小さく引いた。
理央は頷き、歩き出した。
通路は低く、天井から落ちる水滴が石床に小さな音を立てていた。
排水路のようにも見えたが、床には水が流れた跡が少ない。
壁に刻まれた円と縦長の楕円は、黒い鏡の輪郭に似ていた。
「排水路ではありません」
ヴァルトは刻みを見ながら言った。
「保守通路だと思います、接続設備の裏側へ触れるための造りに見えます」
「表を開かず、内側から調整する通路か」
「その可能性があります」
前方に淡い光が見えた。
湿った石の匂いに、金属を濡らした時のような冷たい匂いが混じっている。
通路の刻みは連続しておらず、ところどころ削れたり、別の線に塗りつぶされたりしていた。
壁の一部に、細長い板のような面が埋め込まれている。
黒い鏡そのものではない。
それでも、板の奥では同じ黒さがわずかに揺れていた。
「声するニャ」
レイニャが告げた直後、光の向こうに人影が浮かんだ。
「七番を連れてこい」
別の声が続いた。
「七番がいなければ開かない」
「……エリフさん」
リュシアは理央の表情を見て、そっと頷いた。
「助けたこと自体が、止めているんだね」
ヴァルトは黒い面を見つめた。
「そう見えます」
また声がした。
「鍵を返せ」
理央は収納へ意識を向けた。
隔離した灰色小片が、再び震えている。
「またです」
「理央さん、隔離はそのままにしてください」
真壁はヴァルトへ目を向けた。
「何が起きている」
「向こう側が、こちらの接続点を維持できなくなっているようです」
「切れているのか」
「まだです、ただかなり不安定です」
黒い面の輪郭が、一度大きく揺らいだ。
淡い光の中の黒い面は、さきほどより狭くなっていた。
人影は揺れ、誰が話しているのかも判然としない。
「鍵を返せ」
「七番を連れてこい」
「まだ間に合う」
理央は言葉を返さなかった。
鏡の声を聞くのは初めてではないが、今度はレイニャに袖を掴まれなくても、唇を閉じていられた。
灰色小片は隔離区画の中で震え続けている。
理央は外へつながる感覚をさらに遠ざけるように、隔離状態を保った。
鍵を外へ出せば、境界の切れ目がまた開くかもしれない。
接続が戻れば、向こう側を助けることになる。
震えは強まっていたが、理央は隔離を解かないと決めた。
黒い面に白い線が走った。
ガラスが割れた音はしない。
映像そのものが細かくほぐれ、奥の景色を保てなくなっていく。
「真壁さん」
ヴァルトの声が急に張りつめた。
「接続先が崩れています」
真壁は黒い面を見た。
「こちらの術式が壊れたのか」
「違います、こちら側の回路は残っています」
ヴァルトは壁に触れず、そこを流れる魔力を追った。
「向こう側を指定していた接続情報が失われています」
「接続情報が……?」
理央は意味をつかめず、ヴァルトの言葉を待った。
「こちら側の道が壊れたのではありません、行き先を示す情報が消えていくのです」
黒い面の奥に、大きな輪郭が浮かんだ。
門のようにも見えるが、形は崩れ、こちら側へ伸びてくる様子はなかった。
ジェムが見たものは、あれなのかもしれない。
けれど、確かめるために近づく者はいなかった。
「待て……!」
声が初めて焦りを帯びた。
「それを断てば、二度と――」
音がひしゃげた。
「おのれ……我らの……悲願が――」
最後の言葉は、途中で消えた。
黒い面も消え、壁にはくすんだ板状のものだけが残った。
レイニャが耳を立てたまま動かなかった。
「……音、ないニャ」
理央は隔離区画を開き、小片へ《鑑定》を使った。
----------------------------------
名称:不明
分類:魔術触媒
状態:機能停止
主材質:判別不能
付与術式:判別不能
接続状態:切断
接続先:なし
----------------------------------
「接続状態は切断、接続先はありません」
真壁はヴァルトを見た。
「戻る可能性は」
ヴァルトは接続口、地面の魔力線、灰色小片の順に確かめた。
答えを急がなかった。
「ありません」
理央は彼を見た。
「少なくとも、この遺跡と鍵に残った術式からは、同じ向こう側へ接続できません」
「理由は」
「こちら側の術式を直しても、もう接続先を指定できません」
「じゃあ、向こうはもう来られないんですか」
「この経路からは来られません」
真壁は一度だけ頷いた。
「十分だ」
ヴァルトが周囲へ意識を向けた。
「真壁さん、隔離境界も落ちています」
《世界地図》を開いていた理央は、空白の外に森の地形が戻ってくるのを見た。
「外が戻りました」
切れた接続の向こうではなく、すぐ外にある森と街道が地図へ再びつながっていく。
理央はルネスタ商館の奥の部屋を思い浮かべた。
森の位置を地図で確かめると、今度は距離と向きが手の中で結びついた。
《関門接続》を使う。
靄が集まり、扉の輪郭を作った。
「開きました」
誰もすぐには動かなかった。
理央は先に扉の向こうを確かめ、レイニャも耳を傾けた。
「向こうに人いるニャ、ルネスタのところニャ」
リュシアの肩から力が抜けた。
「帰れるね」
「先に救出者だ」
真壁の指示で、リュシアが歩ける五人を順番に呼んだ。
ジェム、ゼイネプ、ケマル、レイラ、カディルが、一人ずつ扉をくぐった。
「ジェム、いるね」
「いる」
「ゼイネプ」
「いるよ」
ケマル、レイラ、カディルも返事をした。
理央は《生体収納》にいる反応を確かめた。
「オヌルさんもいます」
「全員ニャ」
リュシアは最後にもう一度、通路に残る者がいないか振り返った。
全員の足が扉を越えたのを見届けてから、理央たちは境界の向こうへ戻った。
ヴァルトは、もう黒くならない接続口を最後に見た。
「残りますか」
真壁が尋ねると、ヴァルトは首を振った。
「いいえ。今ここに残る必要はありません」
「では帰ろう」
五人と救出者たちは、再びつながった扉を越えた。
ルネスタ商館の奥の客室には、毛布を掛けたエリフが待っていた。
水差しと器が手の届く場所に置かれ、入口の外には衛兵が立っている。
扉が開き、ジェムが姿を見せた。
エリフは腰を浮かせた。
「……ジェムさん」
ジェムは足を止めた。
「七番」
エリフは小さく首を振った。
「エリフです」
一拍置いて、ジェムの顔がゆるんだ。
「……エリフ」
ゼイネプが彼女の名を呼び、ケマルは「よかった」と声を落とした。
レイラの目に涙が浮かび、カディルは顔をそむけた。
「オヌルは?」
エリフの問いに、理央はすぐ収納へ意識を戻した。
「今、出します」
靄が広がり、オヌルの身体が毛布の上へ現れた。
理央はすぐに《鑑定》を使った。
「収納で増えた異常はありません」
衰弱も鎮静薬の残留も軽度の脱水も、収納する前と変わっていなかった。
ゼイネプが脈と呼吸を確かめ、レイニャは隣へ膝をついた。
「薬、残ってるニャ、先に《解毒》するニャ」
理央は頷いた。
「お願いします」
レイニャはオヌルの胸元へ両手をかざし、《解毒》を使った。
ゼイネプは呼吸と脈を見守り、理央は《鑑定》の表示が変わらないか確かめた。
リュシアは水と毛布を運び、ルネスタは衛兵に入口を守らせた。
全員が部屋へ戻り、誰も番号で呼ばれずにそこにいた。
エリフの指が毛布の縁をほどき、ジェムの肩へ伸びた。
ジェムはその手を受け止め、何も言わずに一度だけ頷いた。
エリフは一人ずつ、仲間の顔を見た。
「ジェムさん」
「ここにいる」
「ゼイネプさん」
「いるよ」
「ケマルさん」
「大丈夫だ」
「レイラさん」
レイラは目元を拭き、頷いた。
「カディルさん」
「いる」
最後に、エリフは横になったオヌルを見た。
「オヌル」
弱い返事が、毛布の向こうから返った。
理央は部屋の端へ下がった。
レイニャも隣に座らず、リュシアは飲み物だけを置いて距離を取った。
真壁もヴァルトも、すぐに言葉を挟まなかった。
ここは彼らが取り戻した時間だった。
「みんな、いなくなったから」
エリフの声は途中で揺れた。
「もう……」
ジェムは言葉を探した。
「俺たちも、七番が来ないから失敗したんだと思ってた」
彼は言葉を切り、エリフの顔を確かめた。
「……いや」
「エリフが来ないから、向こうの計画は失敗したんだと思ってた」
エリフは毛布の端を握った。
「失敗?」
「向こうの計画がだ」
番号ではなく名前を呼ぶ声が、部屋の中に一人ずつ増えていった。
七人が椅子や寝台へ落ち着いた頃、真壁はジェムに向き直った。
「先ほどの門について、話せる範囲だけでいい」
ジェムは水を一口飲んでから答えた。
「鏡の向こうにいたのは、少なくとも三つだ」
「一つは、こっちを見ていた」
「残り二つは向こうで大きなものを開こうとしていた」
「門か」
「そうだ、扉って大きさじゃなかった」
ジェムには、それ以上のことは分からなかった。
何を通すつもりだったのかも、どこにあったのかも、確かめる手段は残っていない。
理央は灰色小片を取り出さず、収納の隔離区画から《鑑定》を使った。
表示は変わらず、接続先はなかった。
「でも、もうつながらないんですよね」
「はい、こちら側の術式を直しても、もう接続先を指定できません」
ヴァルトは静かに続けた。
「同じ接続を作り直すことはできません」
ジェムは確かめるように彼を見た。
「本当に?」
「少なくとも、私が見た術式には復旧先がありません」
真壁は彼らの間に割って入らず、最後に短く言った。
「ならば、今はそれでいい」
レイニャが、張り詰めていた息をようやく吐いた。
「よかったニャ」
リュシアも頷き、眠るオヌルとエリフたちを見渡した。
「それで十分だよ」
エリフは仲間たちを見回した。
「私たち、もう番号じゃないんですよね」
「はい、名前があります」
理央はそう答えた。
レイニャの耳が、柔らかく揺れた。
「じゃあ、名前で呼ぶニャ」
「エリフ」
レイニャの声に、ジェムたちもそれぞれの名で応じた。
客室には、水を置く音と、重なって返る名前が静かに満ちていった。