大学から戻った澪は、鞄を6畳間の壁際へ置いた。
窓の外はすでに夕方の色に傾いていたが、部屋の中には昼間の熱が残っている。
RightInを開き、通知欄を更新したが、新しい連絡はなかった。
理央とレイニャとリュシアはレヴァニア王都へ行っているのだから、連絡がないのはいつものことだった。
買い付けの合間に、3人で街を見ている頃だろう。
澪は机の端に置いた水筒を片手で押しやり、押し入れの襖へ向かった。
「理央ちゃん、どこまで行ったかな」
襖を開けて1歩を踏み出すと、江古田の部屋の匂いは背中で途切れ、異世界側の空気が頬を撫でた。
澪は足場を確かめてから、《世界地図》を開いた。
買い付けと街歩きに出た3人が、王都のどこを歩いているのか見てみる。
レヴァニアの東方に目を向けた指が止まった。
見慣れた反応が、どこにもない。
澪は地図の縮尺を変え、王都の中心から市壁の外まで、少しずつ表示範囲を広げた。
試験ドックのある方角と街道も確かめたが、道や建物が浮かぶ地図に、3人の反応だけが見当たらない。
「……あれ?」
王都から遠くへ出たのなら、範囲を広げれば見つかるはずだった。
澪は指先で街道をなぞり、いつもなら反応が現れるはずの場所を順に確かめていく。
「レイニャさんもいない」
もう1度、市壁の内側へ戻す。
「リュシアさんまで?」
表示の遅れか、指定範囲のずれか。
地図を閉じて開き直し、レヴァニアを中心に置き直しても、結果は変わらなかった。
澪は近くにいるはずの人を思い浮かべ、地図を侯爵領へ戻した。
「真壁さん?」
押入商会の事務所にも反応はない。
共同商館のあたりを探しても、ヴァルトの見慣れた印は見つからなかった。
「ヴァルトさんまで?」
5人の位置が、同時に地図から消えている。
偶然で片づけるには、重なりすぎていた。
地図の表示だけがおかしいのかもしれない。
澪は侯爵領の押入商会事務所へ向かった。
入口で帳面を抱えた職員に声をかけると、その人は書類から顔を上げた。
「真壁さん、います?」
「真壁さんなら、部屋にこもってますよ」
澪の胸に、張りつめていたものが少し戻った。
「……部屋?」
「ええ、さっきも書類を持っていきましたから」
真壁の個室の扉を叩いた。
返事はなかった。
「真壁さん?」
もう1度呼んでから、澪は扉を開けた。
机の上には途中まで目を通した書類が広がり、開いたノートの横には蓋をした飲み物が置かれている。
椅子は机から少し引かれていたが、真壁の姿はなかった。
長く留守にするために片づけた様子ではない。
すぐ戻るつもりで立ち上がったような机だった。
「……え?」
後ろから覗き込んだ職員も、部屋の中を見て言葉を止めた。
「さっきまで、確かにいたはずなんですが」
澪は机の端に手を置いた。
世界地図の表示だけの問題ではない。
真壁は、ほんの少し前までここにいたのに、今はいない。
共同商館の教室では、黒板に書かれた文字が途中で切れていた。
生徒たちは机に向かったまま、教室の前を気にしている。
ヴァルトが消えたあと、授業を引き継いだ者がいないのだろう。
「ヴァルトさん、今日ここにいました?」
澪が尋ねると、前列にいた生徒がすぐに頷いた。
「はい、さっきまで授業をしていました」
「そのあと、どうなったんですか」
生徒は隣の子と目を合わせてから、黒板の横を指した。
「あの……急に扉が出たんです」
「扉?」
「はい、向こうから理央さんの声がして、ヴァルト先生がその扉をくぐっていきました」
「扉はそのあと、すぐに消えました」
レヴァニア側で開いた扉の向こうから、理央がヴァルトを呼んだのだ。
「理央ちゃんが、ヴァルトさんを……」
澪はそこまで口にして、続きを止めた。
真壁も同じように呼ばれたのかもしれない。
理央が2人の専門家を必要とする何かが起き、そのあと5人がいっせいに地図から消えた。
市場を歩いているだけの3人と、領内で仕事をしていた2人。
同じ理由で消えたのだとすれば、観光中の小さな行き違いではない。
教室を出た澪は、共同商館の人通りが少ない廊下で《世界地図》を開き直した。
レヴァニアの王都を中心に、今度は街道の先まで範囲を広げる。
5人は戻っていなかった。
澪の肩にいたシロガネが、尻尾を1度だけ揺らした。
「シロガネ」
『なんだ』
「理央ちゃん、分かる?」
シロガネはすぐには答えなかった。
その沈黙が、澪の指先を固くした。
やがて白い猫は耳を伏せ、地図ではなく何もない廊下を見た。
『……理央がみえぬな』
「シロガネにも?」
『うむ』
「何か分かる?」
『分からぬ』
「無事かどうかも?」
『分からぬ』
シロガネは澪を安心させる言葉を探そうとはしなかった。
理央は生きているとも、危険にいるとも言えない。
ただ、いつも届いていた《見守り》の先に、今は何も感じない。
澪は地図を閉じられなかった。
RightInを開き、理央とのトークを呼び出した。
最後のやり取りは数時間前で止まっている。
入力欄に触れかけ、澪は指を止めた。
異世界にいる理央へ、ここから送った言葉は届かない。
画面を開いても、確かめられることはなかった。
飛行船で何かあったのだろうか。
市場からの帰りに襲われたのか、魔物に遭遇したのか、それとも別の事故か。
考えは次々に浮かぶのに、どれも5人がそろって消えた理由には届かない。
理央は《関門接続》でヴァルトを呼んだ。
真壁も、そのあと姿を消した。
2人を呼び出す必要がある何かがあり、さらにレイニャやリュシアまで同じ場所から見えなくなった。
「何してるの……」
澪はスマートフォンを伏せた。
怒りはなかった。
怖くて、手のひらに爪が食い込むほど握りしめていることに気づかなかった。
地図を閉じれば、戻った時に見落とす気がして、澪は画面を見つめたまま動けずにいた。
肩のシロガネが、急に顔を上げた。
『澪』
「何?」
『戻った』
澪はシロガネの目を見た。
「え?」
『理央だ』
地図の東方に、5人分の反応が1度に戻っていた。
澪は位置の並びと、これまで何度も見てきた5人それぞれの反応を照らし合わせた。
理央、レイニャ、リュシア、真壁、ヴァルト。
名前が表示されたのではない。
5人がここにいると、澪には分かった。
息を吸った途端、胸の奥が痛くなった。
張りつめていた息を吐こうとしても、喉の奥がうまく動かなかった。
「……いた」
独り言は、共同商館の廊下に消えた。
膝から力が抜けかけたが、5人の反応は止まらなかった。
東方に戻ったばかりの印が、ひとつ残らず王都へ移る。
「今度は王都?」
5人が歩いて移動した速さではない。
『理央の扉であろう』
シロガネの言葉に、澪は地図の王都を拡大した。
5人の印は、王都の中でひとつの建物に重なっていた。
ルネスタ商館だった。
澪は、その場所を知っている。
異世界側にいる今なら、押し入れを通らずに《関門接続》を使える。
自分で使うのは初めてだった。
理央が扉を作るところは何度も見てきた。
それでも、自分の手で場所を選ぶ段になると、地図の上の点と実際の地面が急に別のものに思えた。
「今使わないで、いつ使うんですか」
『知らぬ』
シロガネは、澪の焦りをたしなめるでもなく返した。
澪は商館の建物の位置を地図で確かめ、人のいない屋外を行き先に選んだ。
廊下や部屋の中へいきなり開けば、誰かとぶつかるかもしれない。
人のいない地面、商館までの距離、自分が出た時に誰かの進路をふさがない位置を、順番に思い浮かべた。
手の前に靄が寄り、輪郭を描き始めた。
すぐ消えるのではないかと身構えたが、扉の形は保たれている。
「……できた」
シロガネが肩から軽く飛び降り、澪の横に並んだ。
澪は息をひとつ整え、扉を開いた。
扉の向こうは、ルネスタ商館の外壁が見える、人のいない小路だった。
遠くから人の声と、食器が触れ合う音が聞こえてくる。
澪はシロガネと一緒に扉を抜け、建物の入口まで歩いた。
衛兵に声をかけられ、名乗ると、奥の部屋へ案内された。
理央がいた。
レイニャも、リュシアも、真壁も、ヴァルトも、同じ部屋にいる。
服は汚れ、顔には疲れが浮かんでいたが、誰も床に倒れてはいなかった。
「……いた」
今度の言葉は、部屋にいた全員へ届いた。
「澪さん?」
理央が立ち上がり、レイニャも耳をぴんと立てた。
「澪ニャ?」
真壁とヴァルト、リュシアも一斉に振り返る。
無事な顔を見た途端、澪の胸から力が抜けた。
さっきまで何度も確かめた名前が、ひとりずつ目の前の顔と結びついていく。
その安堵は長く続かなかった。
「何やってんですか!」
理央の肩が跳ねた。
澪は1度、全員の顔を見直した。
5人とも立っている。
その事実を確かめてから、胸に押し込めていた言葉があふれた。
「えっ」
レイニャの耳が、叱られた子どものように横へ倒れる。
「みんな《世界地図》から消えたんですよ!」
澪の声は、自分で思ったより大きくなった。
「理央ちゃんも、レイニャさんも、リュシアさんも、真壁さんも、ヴァルトさんまで!」
真壁は口を挟まず、澪の言葉を受け止めていた。
「事務所へ行ったら、真壁さんは部屋にいるって言われるし、部屋は空っぽだし!」
「共同商館へ行ったら、理央ちゃんの扉をくぐってヴァルトさんまでいなくなったって聞くし!」
「シロガネの《見守り》でも理央ちゃんが見えないって言うし、何があったか分からないし!」
言葉が続くほど、先ほどの恐怖がまた喉元までこみ上げてくる。
「連絡もできないし、やっと地図に戻ったと思ったら、今度は全員が王都へ飛ぶし!」
「私、《関門接続》まで初めて使ったんですよ!」
そこでようやく息が切れた。
澪は胸を押さえ、理央の顔を見た。
「……ごめんなさい」
「謝るのは説明してからです」
理央は返事をせず、両手を膝の前で重ねた。
その仕草を見て、澪は言いすぎたかもしれないと思った。
それでも、理由を聞かずに許すことはできなかった。
5人の顔を見ても、澪の指先には先ほどの冷たさが残っていた。
今になって、探していた時間の長さが声に混ざって出てくる。
怒鳴りたいわけではなかったのに、声を止めればまた何も分からなくなる気がした。
澪は、部屋の奥まで視線を走らせた。
毛布を掛けられた人たちが、寝台や壁際に身を寄せている。
ジェムは膝の上で指を組み、ゼイネプはオヌルのそばを離れず、ケマルとレイラは隣り合って座っていた。
カディルは戸口の衛兵を気にしている。
エリフは、理央の袖に触れたまま、澪を見つめていた。
名前を知らないままでは、彼らが何をされたのかも、どうしてここにいるのかも聞けない。
「……誰ですか?」
理央が答えようと息を吸ったが、視線はまずエリフへ向いた。
「エリフさん、澪さんに話しても大丈夫?」
エリフはすぐに答えず、ゼイネプとオヌルを見た。
2人が小さく頷くのを確かめてから、彼女もまた頷いた。
「観光に来たんですよね?」
「……はい」
理央の返事は、いつもの声より少し細かった。
「街を見るって話でしたよね?」
「その予定だったニャ」
「なんで真壁さんまでいるんですか」
「理央君に呼ばれた」
「ヴァルトさんまで?」
「私も理央さんに呼ばれました」
全員の視線が理央へ集まる。
理央は膝の上で指を組み直した。
「何があったんですか」
「最初は干し果物ニャ」
レイニャは、エリフたちの表情を見てから、少しだけ声を落とした。
「なんで干し果物から始まるんですか」
理央は1度だけ真壁を見た。
真壁が頷くと、澪の向かいに腰を下ろした。
「市場で、偽銀貨の話が出たんです」
澪は、買い物をしながら街を見て回る3人を思い浮かべた。
ついさっきまで想像していた光景と、目の前の7人がまだ結びつかない。
「硬貨から、どうして誘拐まで?」
「偽銀貨をたどった先に、裏通りの工房がありました。そこから密輸の経路も見つかったんです」
理央は、箱に記されていた番号の話を始める前に、エリフの方を見た。
「7番と書かれた箱の中に、エリフさんがいたんです」
エリフの指が、毛布の端を強くつまんだ。
「無理に話さなくてもいいよ」
理央がそう言うと、エリフは首を横に振った。
「大丈夫です」
「7番って何ですか」
「人でした」
答えたのはレイニャだった。
澪は、すぐには意味を受け止められなかった。
「エリフだけじゃないニャ。珍しい技能を持つ人をさらって、番号で呼んでたニャ」
「1番から6番までの人も?」
エリフが頷いた。
ゼイネプはオヌルの肩へ毛布をかけ直した。
「技能を調べられて、使わされていました」
エリフの声が途切れると、ジェムが顔を上げた。
「捕らえた連中の鑑定結果が、仕事に必要な技能だけで揃いすぎていました」
「人の経歴が、そんなにきれいに仕事だけで埋まるはずがないと疑ったんだ」
真壁は、ジェムの言葉を短く補った。
「私は、彼らを覆う魔力の膜に気づきました」
エリフが自分の胸元に手を当てる。
澪は彼女が見つけたものを想像しようとしたが、分かったふりはできなかった。
「ジェムさんの鑑定と、エリフさんの《隠蔽看破》がつながったんですね」
真壁が頷いた。
「黒いペンダントが、鑑定の表示を偽装していた」
澪はジェムとエリフを見た。
2人の気づきがなければ、犯人たちの職業や技能が不自然に整っていることも、隠された魔力の膜も見過ごされていた。
「その人たちは、何をしようとしていたんですか」
ヴァルトが、古い鏡と周囲の8本の魔力線について説明した。
「地下の線は、何かを閉じ込めるためではなく、接続点を同じ位置に保つ構造に見えました」
「何かを封じていたわけではないんですね」
「そうです。場所を固定し、接続を保つためのものだと考えます」
澪は、先ほどまで恐れていたものの形を、少しだけ分けて考えられるようになった。
鏡も線も、何かを封じる檻ではなく、向こうとの接続を支える設備だった。
「でも、どうして人をさらう必要があったんでしょう」
理央は、毛布を握るエリフと、彼女のそばにいるオヌルを見た。
「エリフさんは、七番として箱に入れられていました。助け出したのは、先にです」
「そのあと、今日、一番から六番の人たちも全員救出しました」
理央の言葉に、澪は7人を見た。
七番のエリフは、先に救い出されていた。
残る六人は、今日になって全員が設備のそばからいなくなった。
その直後に、接続が切れた。
ひとつずつの出来事が、澪の中で順番につながり始めた。
「七人は、設備を操作するために集められたんじゃない」
真壁が、視線をエリフたちから地下の記録へ移した。
「七人そのものが、接続を成立させ、維持するために必要な部品だったのではないか」
「……部品?」
澪は、思わず聞き返した。
目の前にいるのは、名前を持つ人たちだった。
それを部品と呼ぶことに、胸の奥がざらついた。
「そうだ」
真壁は言葉を選びながら続けた。
「必要だったのは、彼らの意思ではない。彼らが持つ技能だ」
「設備側が、それぞれの技能を機能の一部として利用していたのだろう」
澪は、エリフが《魔力感知》や《隠蔽看破》を持つと聞いたことを思い返した。
ジェムの《鑑定》も、誰かが選び取ったように番号と結び付けられている。
「一人ずつ、違う技能を持つ人を選んでいたんですね」
「そのように見える」
真壁は断定を少し抑えた。
「設備のどこに、どの技能をどう使ったかまでは分からない。だが、珍しい技能を持つ者だけが狙われ、番号を付けられていた」
「七番を先に失い、今日、残る六人もいなくなった」
「必要な七つの部品がすべて設備から外れたため、接続を維持できなくなった」
理央は、あの時の音と、遠ざかる声を思い出した。
「だから、最後に切れた……?」
「ああ」
真壁は頷いた。
「我々は装置を壊そうとしたわけではない」
「人を助けていただけだ」
「だが、向こう側から見れば、必要な部品をすべて持ち去られたことになる」
澪は、真壁の説明を頭の中でなぞった。
誰かが装置を破壊したのではない。
人を一人ずつ救い出した結果、装置が必要としていたものが一つも残らなくなった。
「私たちがしたことの結果が、接続を切ったんですね」
「そう考えるのが、今ある事実には最も合う」
真壁の声に、勝ち誇った響きはなかった。
その言葉を聞いても、澪の胸のざらつきは消えない。
救出された人たちが、装置の部品として数えられていたことが、むしろはっきりしたからだ。
「もう一つある。鎮静薬だ」
真壁は、理央が箱から救い出したエリフと、今ここにいるオヌルへ目を向けた。
「エリフ君にも、オヌル君にも残っていた」
「偶然とは考えにくい」
「運ぶため……?」
「おそらくな」
真壁は、二人の顔を確かめるように見た。
「部品と言っても人間だ。逃げる。抵抗する。命令にも従わない」
「だから、運搬や管理のために薬を使ったのだろう」
澪は、箱の中で目を開けていたエリフの姿を思い出した。
眠らされていたのではない。
けれど身体は弱り、箱から出ることもできなかった。
「七人全員に使ったとは限らないんですよね」
「確認できているのは、エリフ君とオヌル君だ」
「他の五人については、同じ薬が残っていたかどうか分からない」
真壁は、分かっていることと推測を分けて答えた。
「もし、人の意思まで自由に操れたのなら、鎮静薬など必要ない」
「彼らは七人を従わせたのではない」
「動けないようにして運んだ」
「必要だったのは人間ではなく、その技能だ」
「だから……部品」
「そういうことだろう」
澪は、息をひとつ吐いた。
少なくとも七人の意思を、何でも思いどおりに操っていたわけではなさそうだ。
少なくとも七人については、名前の代わりに番号を与え、箱に入れ、薬で動きを抑え、技能だけを設備に使おうとしていた。
それは人を操る力ではなく、人を物として扱うやり方だった。
「ラシムたちがなぜ協力したかは、また別の問題だ」
真壁は、現地で捕らえた者たちの名を挙げた。
「金か、命令か、組織の利害か。脅されていた可能性もある。だが、鎮静薬の話と結び付けて、彼らまで操られていたと決める材料はない」
「シナンのことも、まだ分からないんですね」
澪は、彼が何を知り、何を選んだのかを考えた。
「本人の意思を奪われていたのか、何かを重ねられていたのか、それとも向こうとの接点だっただけなのか」
「どれも、今のところは決められない」
真壁は、そこで話を止めた。
分からない部分まで、都合よく一つの答えにまとめることはしなかった。
「向こう側は、何を目的に接続を維持していたんですか」
澪は、設備の仕組みと、向こう側の目的が別の問いだと気づいていた。
「接続を維持し、こちら側へ手を伸ばそうとしていたのだろう」
ヴァルトが答えた。
「ただし、何を目的としていたかまでは、私にも分かりません」
澪は、閉じた門の向こうに何があったのかを想像しかけた。
そこで、想像を止めた。
分からないものを、分かったことにはできない。
「接続が切れた時、灰色の小片を鑑定したら、接続状態は切断、接続先はなしと出ました」
ヴァルトは、確かめられた範囲を越えないように説明した。
「向こう側を指定していた接続情報が失われています。こちらの術式を直しても、同じ場所へはつなげられません」
「向こうが消えたという意味ではないんですね」
「そこまでは分かりません。ただ、こちらから指定する情報がありません」
澪は真壁とヴァルト、それから理央を順に見た。
誰も、そこに異論を挟まなかった。
「……終わったんですか?」
「ああ」
真壁の答えは短かった。
「同じ接続は、もう作れません」
ヴァルトも続けた。
澪は、ジェム、ゼイネプ、ケマル、レイラ、カディル、オヌル、エリフの顔を、順に見直した。
ゼイネプがオヌルの枕元で水の器を置き直した。
話を聞きながらも、彼女の手はずっとオヌルの呼吸を確かめていた。
「鎮静薬の表示は消えています」
理央は、もう1度《鑑定》を使ってから告げた。
「衰弱と軽い脱水は残っていますが、悪化はしていません」
「薬の影響は抜けたニャ」
レイニャはオヌルの手足に残る擦り傷を確かめ、彼が怯えないよう、触れる前に目を合わせた。
「縛られていたところを治すね」
オヌルが小さく頷く。
レイニャは必要な範囲だけに《治癒》をかけ、肌についた土や薬液を《浄化》で落とした。
長く同じ姿勢でいた痛みは和らいだが、衰弱や脱水がすぐ消えるわけではない。
ゼイネプは器を支え、オヌルが飲み込むたびに、次の一口を待った。
オヌルの目が、部屋の灯りから、そばにいる人たちへ移っていく。
ケマルが息を止め、レイラは毛布の端を握った。
視線は最後にエリフのところで止まった。
「……エリフ?」
「ここにいる」
エリフは、オヌルの手が届くところまで身を寄せた。
オヌルは力の入らない手を持ち上げ、彼女の指先に触れた。
エリフはその手を包み、離さなかった。
「助けたんですね」
澪の問いに、理央は小さく頷いた。
「はい」
ゼイネプはようやく肩の力を抜き、ケマルとレイラも顔を見合わせた。
澪は、7人の顔を1人ずつ見た。
「……よかった」
話が途切れると、澪は開いたままの《世界地図》に目を落とした。
最初に5人の反応が消えた時、地図を何度開き直しても、理央たちの姿は戻らなかった。
シロガネの《見守り》にも理央は映らず、理央の《関門接続》も外へ向けては開けなかった。
ところが、接続が切れた瞬間、三つの変化が同時に起きた。
澪の地図に5人が戻り、シロガネは再び理央を捉え、理央は外へ扉を開けられるようになった。
「なるほどな」
シロガネが、理央を見ていた。
「何か分かった?」
『分かったわけではない』
『推測だ』
シロガネは、澪の《世界地図》へ目を向けた。
『理央が消えたのではあるまい』
『理央のおった場所そのものが、こちら側との縁から外れておったのだろう』
澪は、地図の上で5人が消えた範囲を思い出した。
「人が見えなくなったんじゃなくて、場所がこちらから見えなくなっていた……?」
『そう考えれば、三つのことに筋が通る』
シロガネは、理央の《関門接続》が使えなかった間のことを確かめた。
『外へ扉を開けられなかったのは、力が失われたからではないのだな』
「はい。内側の別の場所にはつなげられました。でも、外の位置だけ指定できませんでした」
『澪の地図も、理央たち五人だけを見失った』
「接続が切れた時、5人が一度に戻りました」
『我の《見守り》も同じだ。理央を見失い、切断と同時に再び捉えた』
澪は、地図、加護、扉を頭の中で並べた。
どれか一つの力が壊れたのではない。
同じ場所へ届かなくなっていたものが、接続の切断と同時に、そろって届くようになった。
「向こうとの接続が切れたことで、その場所がこちら側へ戻った」
『そうであろう』
『だから《見守り》も戻った』
シロガネの声は、答えを言い切るものではなかった。
けれど、目の前にある変化をつなぐ説明として、澪には納得できた。
「じゃあ、理央ちゃんたちは消されたわけでも、別の世界へ飛ばされたわけでもなくて」
「こちら側から、その場所を指せなくなっていたんですね」
『その可能性が高い』
澪は、地図の上に戻った5人の印を見た。
それが戻ったのは、誰かが彼らを探し当てたからではない。
彼らのいる場所と、この世界との縁が戻ったからだった。
「じゃあ、《境界外存在》って何なんですか」
『知らぬ』
シロガネは、間を置かずに答えた。
「そこは分からないんだ」
『分からぬものを、分かったふりしてどうする』
シロガネは理央を見た。
『ただ、向こうとの縁は切れたのであろう?』
「はい」
ヴァルトは、確かめられた範囲を越えないように答えた。
「接続先を指定する情報が失われています。同じ接続は作れません」
『ならば、それでよい』
「遺跡に危険なものが残っていないかは、調べるんですよね」
『危ないものが残っておれば、確かめればよい』
『だが、向こうを覗くために新しい道を掘る必要はあるまい』
真壁は腕を組んだまま、答えなかった。
リュシアが、その横顔を覗き込む。
「真壁さん」
「何も言っていない」
「顔が言ってるよ」
澪は、真壁の視線を受け止めた。
「つなぎ直すのは禁止です」
「承知している」
「私も再接続を試す理由はありません」
ヴァルトは静かに頷いた。
澪は、答えのないものを今ここで解き明かそうとするのをやめた。
今は、目の前にいる5人と、助け出された7人の無事を確かめる方が先だった。
商館の戸口では、衛兵が交代の時刻を確かめながら、廊下の様子に気を配っていた。
ナジムは王都側の捜査を続けており、押収品と証言は警備隊へ引き継がれる手はずになっていた。
ルネスタは帳面を机に広げ、偽銀貨の設備、輸送箱と鉛板、黒いペンダントの部品、古い測量店から押収した資料を、項目ごとに記録していく。
「遺跡も、当面は封鎖しておきます」
ルネスタが帳面を閉じた。
「接続のために戻るんじゃない。危険な設備が残っていないか、安全を確かめるまで人を入れないためだ」
真壁は念を押した。
ヴァルトも、その方針に異を唱えなかった。
ジェム、ゼイネプ、ケマル、レイラ、カディル、オヌル、エリフの7人は、今夜は商館の一室で休む。
身元や家族の安全は、翌日からナジムとルネスタが1人ずつ確かめる。
押入商会は、水や毛布、薬と食事を部屋へ届けることになった。
「今日は、まず休んでください」
澪は7人の前で足を止め、約束できないことまで口にしないよう、言葉を選んだ。
「明日、ひとりずつ話を聞きます。今夜は答えなくて大丈夫です」
ジェムは頷き、ケマルは隣に座るレイラへ視線を移した。
ゼイネプは、オヌルの枕元をもう1度整えた。
誰も、澪へ礼を急いで返そうとはしなかった。
澪は、それでよかった。
休める場所と時間を渡すことが、今夜できることだった。
手続きの話が一段落した頃、シロガネが澪の肩を前足で軽く叩いた。
『澪』
「何?」
『腹が減った』
「今?」
『今だ』
理央が、申し訳なさそうに片手を上げた。
「私も……お腹すきました」
「あたしもニャ、朝からまともに食べてないニャ」
澪は2人を見た。
「2人、今日何食べました?」
理央とレイニャは顔を見合わせる。
「干し果物を、1つだけです」
「2人で分けたニャ」
「それで朝から?」
「味見のつもりだったニャ」
澪は額に手を当てた。
市場で何を見てきたのか聞くより先に、空腹の理由が分かった。
「観光に来たんですよね?」
「……はい」
「市場も見る予定でした」
「酒場も歌も見る予定だったニャ」
リュシアが、部屋の外へ目を向けた。
「酒場なら、前に真壁さんと商人たちと飲んだ店が近いよ」
真壁は小さく頷いた。
「ああ、料理も悪くなかった」
「そこにしましょう」
シロガネは、ようやく話が進んだというように尻尾を揺らした。
『まず飯にせぬか』
夜の王都には、仕事を終えた商人や荷役人が通りを行き交っていた。
酒場の前に出ると、薪の煙に焼いた肉と香草の匂いが混じって流れてくる。
戸を開けた真壁に、店主が気づいた。
「また来たのか」
「ああ、今夜は連れがいる」
店主の目が、真壁の後ろにいる一同をざっと見た。
リュシアが前に来た時のことも覚えているらしく、2人に軽く手を上げてから、奥の卓へ案内する。
特別な席ではない。
厨房から料理を運びやすく、ほかの客の通り道を塞がない壁際の卓だった。
澪は水を頼み、理央には果実の飲み物が置かれた。
レイニャも同じ飲み物を受け取り、器に鼻を寄せて香りを確かめる。
真壁とヴァルトの前には麦酒が運ばれ、リュシアは店主に食事の内容を尋ねた。
豆を煮た皿、焼いた肉、薄く伸ばして焼いたパン、酸味のある野菜が卓へ並ぶ。
料理の名を知らなくても、湯気と香りで食べ方は分かった。
シロガネは椅子に飛び乗ると、澪の前に置かれた水を1度だけ見た。
「シロガネの分も、あとでお願いしようね」
『忘れるでないぞ』
澪は給仕に声をかけ、焼いた肉を小さく切ってもらった。
王都の通りには人の話し声が絶えず、店の中にも仕事帰りの笑いが戻っていた。
遺跡の沈黙とは違う音に、澪はようやく肩の力を抜いた。
最初のうちは、卓に食器の触れ合う音ばかりがあった。
理央はパンをちぎり、煮込んだ豆をすくって口へ運んだ。
ひと口食べるたびに、空腹だったことを思い出すように手が進む。
レイニャは焼いた肉を両手で持ち、熱さに息を吹きかけながら頬張った。
真壁は麦酒をひと口含み、ヴァルトは煮込みの香りを確かめてから匙を取った。
リュシアは店主と、明日の市場がどれくらい混むかを話している。
5人とも、澪の目の前にいた。
少し前まで、地図のどこにも見えなかった人たちだった。
料理を囲む姿を見ながら、澪は何度も地図を開きかけた手を卓の下で握り直した。
「澪さん?」
理央がパンを持ったまま、こちらを見た。
「何でもないです」
「まだ怒ってます?」
「まだ少し」
理央の手が止まった。
「でも、戻ってきたからいいです」
理央は小さく頷き、残りのパンを口に運んだ。
「結果として、7人を救出できた」
真壁が杯を置いた。
「結果が良ければ何でもいい、という話ではないです」
「無論だ」
真壁は短く答えた。
「危険を避ける手順を、次に生かす」
「そこは反省してるよ」
リュシアも会話へ戻る。
「最初は観光だったニャ」
「知ってます」
「干し果物までは観光だったニャ」
「そのあと地下工房です」
「急すぎません?」
理央が苦笑し、レイニャもようやく肉を皿に置いた。
澪は水をひと口飲み、卓の上で固く握っていた指を1本ずつ開いた。
理央がパンをちぎっている。
その手元を見て、ようやく自分の皿にも手を伸ばす。
ヴァルトは麦酒を置き、皿の煮込みをもうひと口味わった。
境界や接続の話をしていた時より、眉間のしわが薄い。
「ヴァルトさん、安心しました?」
「そうですね」
ヴァルトはすぐに答えず、卓の料理を見た。
「食事ができる程度には」
「そこなんですね」
「食事くらいは楽しみたいですから」
真壁は杯を傾けた。
「結構なことだ」
「事件のあとまで難しい話をされたら、こっちが困るよ」
リュシアの言葉に、ヴァルトも小さく笑った。
「私も今日は十分です」
理央が空になった器を給仕へ渡し、澪はその手が震えていないのを見た。
食事がひと段落すると、レイニャは店内へ耳を向けた。
さっきまで聞いていたのは、地下の足音や、壁の向こうの声だった。
今は、荷を下ろした商人の笑い声や、明日の出発を相談する旅人の声が重なっている。
《聞き耳》で言葉の中身を探るのではなく、疲れた声の調子や、会話がほどけていく気配だけを拾う。
今は誰かを急いで探す必要がないと分かると、レイニャは店の中を1度見回した。
「弾いてもいいかニャ」
レイニャがリュシアへ目を向けると、リュシアは店主に声をかけた。
「旅の吟遊詩人が1曲、どうだい」
店主は厨房の方を見てから、手を上げた。
「客の話を邪魔しないならな」
「分かったニャ」
レイニャは収納から小型のハープを取り出した。
靄が引くと、磨かれた木の胴が灯りを受けて淡く光る。
「弾くんですか?」
「やっと酒場に来たニャ」
「歌わない方がおかしいニャ」
「確かに」
理央は、さっきより少し表情を緩めた。
レイニャは椅子から立ち上がる前に、隣の卓が会話を終えるのを待った。
それから弦に指を置き、音をひとつ鳴らした。
最初の曲は、静かな旋律だった。
弦の音が話し声に溶け、近くの卓から少しずつ会話が途切れていく。
レイニャは事件のことを歌わなかった。
飛行船から見た空や、越えてきた山、初めて歩いた町の道を、旅人の目線で歌にする。
曲が終わると、数人が杯を置いたまま拍手した。
レイニャは小さく頭を下げ、2曲目では、誰でも返せる短い節を選んだ。
荷役人の1人が机を指で叩き、向かいの商人がそれに続く。
店員の手拍子まで加わり、ばらばらだった音がひとつの拍に近づいていった。
「知らない道の先に、灯る窓がある」
レイニャが歌いかけると、客たちが最後の言葉を返した。
「灯る窓がある」
その声を受け、レイニャは弦を鳴らす。
「空の船を降りたなら、熱いパンを分けよう」
「名前も知らぬ旅人と、同じ拍を刻む夜」
「明日も道は続くから、笑って出かけよう」
最後の一節に、手拍子が強く重なった。
歌の終わりを知っている客はいないはずなのに、卓ごとの拍が自然と同じ速さに揃っていく。
澪は、歌うレイニャを見て笑う理央の横顔を見た。
さっきまで地図にいなかった人が、同じ卓で歌を聞いている。
曲が終わると、酒場に拍手が広がった。
レイニャの尻尾が、大きく左右へ揺れる。
「レヴァニア、やっと観光になったニャ!」
「これ、観光なんですか?」
「酒場で歌ったニャ」
「食べたニャ」
「人と話したニャ」
「観光ニャ」
理央は思わず笑った。
「明日は普通の観光にしてください」
「普通って何ニャ?」
澪は指を折るように、今日の出来事を並べた。
「偽銀貨工房と誘拐犯と古代遺跡が出てこない観光です」
「それは私も賛成です」
「妥当だな」
真壁が杯を置き、ヴァルトも頷いた。
「明日は私が見張るよ」
「リュシアまで来たら買い付けになるニャ」
卓に笑いが起きた。
「もう1曲いくニャ!」
レイニャが弦を鳴らすと、客たちがさっきの手拍子を返した。
澪は《世界地図》を開かず、向かいにいる理央と一緒に拍を取る。
音に合わせ、テーブルの器が小さく震えた。