宴後、レヴァニアの酒場を出ると、春先とは思えないあたたかな風が吹いてきた。
背後では、閉まりかけた戸の隙間から笑い声が漏れている。
理央はヴァルディス侯爵領へ《関門接続》を開いた。
理央と澪、レイニャとヴァルトの4人は扉を抜け、夜のうちに侯爵領へ戻った。
レイニャは孤児院へ、ヴァルトは共同商館へ。
「それでは、また」
ヴァルトが手を上げて別れ、澪と理央はレイニャを孤児院まで送った。
孤児院の窓には、まだ灯りが残っていた。
中へ入ると、廊下を通りかかった子どもが真っ先に気づく。
「あれ、レイニャだ」
「レヴァニアから帰ってきたの?」
「帰ってきたニャ」
その声を聞いた子どもたちが、部屋の戸口から顔を出した。
「何を見たの?」
「おいしいものあった?」
「歌った?」
「順番に聞くニャ。いっぺんに聞いたら分からないニャ」
小さな手に外套の裾を引かれ、レイニャの尻尾がゆっくり揺れる。
理央は子どもたちの輪の外から声をかけた。
「明日の朝、迎えに来ますね。リュシアさんのところへ一緒に行きませんか」
「行くニャ。朝ごはんのあとでいいニャ?」
「はい。それじゃ、また明日」
「おやすみニャ」
澪も手を振り、子どもたちに囲まれたレイニャを残して廊下を戻った。
押し入れを抜けてゲンダイへ帰ると、澪はそのまま理央を飯島家まで送ってくれた。
門の内側から、玄関の灯りが足元を照らしている。
「今日は、ちゃんと家に入るところまで見届けたいから」
澪は呼び鈴を押そうとする理央の横で、ようやく肩の力を抜いた。
戸が開き、家の中から理央を迎える声がした。
「ただいま」
返事をした理央は、上がり框に鞄を置いてから澪へ向き直った。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「うん。今夜はゆっくり休んで」
「澪さんも。おやすみなさい」
「おやすみ、理央」
澪は家の人にも挨拶をして、門の方へ戻っていった。
その背中を見送って戸を閉めると、外の足音が遠くなる。
理央は靴を脱ぎ、鞄を持ち直した。
廊下のいつもの匂いを吸い込んでから、長く息を吐いた。
翌朝、理央は異世界へ渡ると、約束どおりヴァルディス侯爵領の孤児院へ向かった。
食堂では食器を重ねる音がして、開けた窓からパンの匂いが外へ流れていた。
レイニャは窓際の椅子に座り、隣で子どもが広げた宿題をのぞいていた。
理央に気づいて立ち上がる途中、レイニャがあくびを噛み殺す。
「おはようございます」
「おはようニャ」
「昨日より眠そうですね」
「質問が多かったニャ……」
レイニャの耳が、思い出したように少し伏せられた。
「帰ってきたら、旅の話を聞かせてって言われて」
「それで、どれくらい話したんですか?」
「最初の市場のところで、消灯の時間になったニャ」
それでも、レイニャの尻尾は機嫌よく揺れていた。
理央はリュシアのいる場所を思い浮かべ、二人が通れるだけの扉を開く。
「《関門接続》」
足元に靄が集まり、やがて戸口の形に立ち上がった。
扉の向こうには、ルネスタの商館の荷捌き場が見えた。
2人がくぐると、背後の孤児院の声に代わって、木箱を床へ下ろす重い音が響いた。
壁際には荷が積まれ、通路を空けた中央の机でリュシアが帳面を開いている。
「遅かったね」
「あらかた捌いたよ」
「もうですか?」
「昨日のうちにできるところはやったからね」
リュシアは、机の脇に分けてある食品の木箱を指した。
「これ、理央の収納へ入れてくれる?」
理央は木箱の札を読み、帳面の品目と数をリュシアに確認してから《収納》へ移した。
「来た瞬間から仕事ニャ」
「助かるよ。レイニャも手伝ってくれる?」
「もちろんニャ」
レイニャは次の箱を手前へ寄せ、理央が収納する間だけ一歩下がった。
箱を置く場所を尋ねる声に、リュシアがすぐ返事をする。
理央も次の札へ目を移し、昨夜とは違う忙しさに手を動かした。
仕分けた品の大半を収納へ移し終えた頃、真壁が商館に入ってきた。
入り口の光を背に受けた真壁の手には、緩衝材に包まれた小瓶があった。
「理央君、レイニャ君」
「少し付き合いたまえ」
「どこへですか?」
「知り合いの医者のところだ」
真壁は小瓶を軽く持ち上げた。
「以前話した回復ポーションを、医師の目で評価してもらう」
「ハリルさんの治療院ですか?」
「ああ」
レイニャは小瓶をのぞき込むように首を伸ばした。
「飲んでみるニャ?」
「評価を頼むために持っていく。試飲の話ではない」
「分かってるニャ」
レイニャはすぐに顔を引いたが、ひげが少し動いていた。
リュシアは帳面から目を上げずに言う。
「こっちは任せて。残りも昼までには片づくよ」
「お願いします」
真壁たちは商館を出た。
王都の通りでは、荷車が石畳の継ぎ目を踏むたびに車輪を鳴らしていた。
軒先の布を広げる店主に道を譲り、レイニャが理央の横へ戻ってくる。
真壁が角を曲がると、通りの向こうに治療院の看板が見えた。
レイニャは小瓶の話の続きを聞こうと、少し歩幅を広げた。
ハリル・デミルの治療院の戸を開けると、乾かした薬草と洗った布の匂いがした。
入り口のベンチから、診察を終えた患者がちょうど立ち上がる。
真壁たちは脇へ寄って見送り、窓際の診察机へ向かった。
「ポーションを持ってきた」
真壁が小瓶を差し出す。
「本当に持ってきたのか」
ハリルは受け取り、光に透かすように中身を見た。
「まずは中身を確かめてからだ。患者に使うかは、その後で決める」
「当然だ」
ハリルは返事をしてから、レイニャへ目を向けた。
「ケット・シー族とは珍しい」
「珍しい扱いには慣れてるニャ」
「そうか。なら、余計な質問はやめておこう」
ハリルが何かを続けようとした時、治療院の外から慌ただしい足音が近づいた。
「先生!」
「先生、いますか!」
若い男が2人、ぐったりした男の両脇を支えながら戸口をくぐった。
真壁が戸を押さえ、理央はベンチを壁際へ寄せた。
男の靴の先が床を擦り、濡れた裾から泥水が落ちる。
「荷車を起こそうとして、水に入ったんです」
「さっきから返事をしなくなって」
ハリルはすぐに小瓶を脇へ置き、診察台を空けた。
患者の呼吸は浅い。
大きな出血は見当たらず、服には泥がついていた。
片袖だけが、肘のあたりまで濡れている。
レイニャの耳は、運び込まれた男の胸元へ向いていた。
寝台へ移す手伝いを終えると、濡れた袖の手前で鼻を動かす。
「……変な匂いするニャ」
奥の寝台で、ハリルは男の枕の高さを直し、手首に指を当てた。
胸の動きを見ながら、男を運んだ若者に呼びかける。
「濡れた上着を外す。乾いた布をそこの棚から取ってくれ」
レイニャは寝台の反対側へ回り、口元へ耳を向けてから胸の音を聞いた。
「息は浅いけど、喉が詰まってる音じゃないニャ」
「心臓は速い。けど、ばらばらじゃないニャ」
「口からは変な匂い、しないニャ」
理央はゴム手袋をはめ、外した上着を受け皿に収めた。
露出した腕に残る汚れは、ハリルに確かめてから《浄化》で落とす。
濡れた袖の下には小さな擦り傷があり、その周辺の皮膚が白っぽく変色していた。
「ここニャ」
レイニャが袖を指す。
甘く、草を思わせる匂いだった。
だが、食べ物の匂いとは違う。
運び込んだ若者たちは、王都北側の農地近くで荷車を用水路へ落としたと話した。
樽が一本割れ、男は荷車を起こすため水へ入った。
戻ったあと、急に倒れたという。
「中毒の可能性が高いニャ」
「《解毒》するニャ」
ハリルは止めなかった。
レイニャが両手をかざす。
魔力の光は患者の全身を覆わず、袖の下で白くなっていた腕から胸元へと静かに広がった。
やがて呼吸が深くなり、速かった脈も少しずつ落ち着いていく。
意識は戻らない。
それでも、悪化の勢いは止まった。
そこへ、知らせに来た農夫が戸口から叫んだ。
「先生! 樽の中身だったんだ!」
「まだ水へ流れてる! 素手で触ったらだめだ!」
まだ現場には人がいる。
真壁は治療台の患者を一度見てから、理央たちへ向き直った。
「行くぞ」
ハリルは頷き、患者のそばへ残った。
理央は農夫を戸口へ招き、場所を尋ねた。
治療院を出る真壁の後ろで、ハリルが若者たちにもう1枚乾いた布を頼む声がした。
戸口を出た理央は《世界地図》を開き、農夫に橋と水門の位置を確かめた。
指示された用水路は、王都の北門から延びる道の先で農地を横切っている。
理央は橋の手前の乾いた道を選び、《関門接続》を使った。
扉を抜けると、土の匂いに甘い草の匂いが混じった。
道の片側に水路が走り、その向こうには畝が低く続いている。
荷車の車輪が岸を踏み外し、車体は斜めに傾いていた。
6本の樽のうち1本が水際で割れ、黒っぽい液体が流れの中に細い帯を引いている。
農夫が扉の向こうから続いてきて、荷車のそばにいる人々を呼んだ。
声に顔を上げた男が、濡れた片手を押さえた。
立ち上がりかけた膝が折れ、仲間が肩をつかむ。
理央が乾いた道を指すと、仲間は男の脇を支えて引き上げた。
「動かないでください」
理央は相手の顔と呼吸を確かめてから、《鑑定》を使った。
----------------------------------
分類:人間
状態:中毒
身体異常:
毒性物質曝露
軽度皮膚障害
吐き気
----------------------------------
表示は理央にしか見えない。
「中毒です。皮膚にも影響が出ています」
レイニャはすぐに患者のそばへ膝をついた。
「《解毒》するニャ」
少し下流で水路が分かれ、細い流れが畑へ入っていた。
その先では、牛を引いた農家がこちらを見ている。
真壁は農夫に水門の場所を確かめ、上流を見た。
「理央君」
「はい」
「こちらは私がやる」
理央は水路を見てから、患者へ視線を戻した。
「君は患者を見たまえ」
「拡散を止めるだけなら私の仕事だ」
「治療できる者が二人いるのに、二人とも水路へ張り付く必要はない」
理央は荷車へ向けかけた足を戻し、倒れた男の横にしゃがんだ。
未使用SPは18。
理央は《解毒》の芽へSPを1つ使う。
----------------------------------
スキル取得
解毒:1
----------------------------------
未使用SPは17になった。
理央はレイニャと並び、水へ手を入れて倒れた男の状態を見た。
真壁は農夫と上流の水門へ走った。
2人で取っ手を回すと、板が下り、水路へ入る水が細くなる。
だが、すでに流れた黒い帯は下流に残っていた。
戻った真壁は、割れた樽とその周囲に溜まった濃い液を《収納》へ移した。
濡れた土と破片も、近くの人を下がらせてから回収する。
新しく流れ込む薬液は止まったが、水路の水はまだ使えない。
「この水を飲むな!」
「家畜を近づけるな!」
「水路に入るな!」
牛を連れた農家が手綱を引き、畦道の方へ遠ざかった。
農夫は下流へ走る仲間に、分かれた水路にも知らせるよう頼んだ。
真壁は残った人々と荷縄を張り、水際へ近づけないようにする。
倒れた男の呼吸が浅くならないことを確かめ、理央は濡れた袖と皮膚の汚れを《浄化》で落とした。
危険なものから離し、付着したものを取り除く。
レイニャが教える順番を、理央は手元で確かめるように繰り返した。
「そのあとに《解毒》ニャ」
理央は新しく覚えた魔法を使う。
効果はあった。
ただし、レイニャの魔法のように一息で状態を整えられるわけではない。
呼吸、意識、脈をその都度確かめ、必要な処置を重ねる。
男の吐き気は少しずつ収まり、問いかけに返事ができるようになった。
「まだ立たないでください」
理央は治療院の戸口を思い浮かべ、乾いた道からもう一度《関門接続》を開いた。
行き来の終わった最初の扉は、すでに閉じている。
仲間が男の両側へ入り、体重を預けさせてから扉をくぐった。
「ハリル先生に、水に触れて倒れた人だと伝えてください」
3人を見送って扉を閉じると、理央は振り向いた。
まだ水路には薬液の匂いが残っている。
「一回かけたら終わり、じゃないんですね」
「そうニャ。薬でも魔法でも、相手の様子を見るニャ」
解毒が必要なことは分かったが、何に中毒しているのかは、まだ確かめていない。
理央は水際へ目を向け、真壁を呼んだ。
「鑑定します」
理央はゴム手袋をはめ、容器を2つ用意した。
真壁に回収した残液を少量だけ分けてもらい、片方の蓋を閉める。
もう片方には、乾いた岸から長い柄を使って下流の水をすくった。
容器の外側を《浄化》し、2つを離して道の上へ置く。
残液へ《鑑定》を使った。
----------------------------------
名称:セリファ草濃縮液
分類:農業用薬剤/植物性毒液
状態:高濃度
用途:害虫・土中害獣の忌避、駆除
危険性:
原液接触:有害
経口摂取:強い中毒
高濃度吸入:有害
主症状:
吐き気
めまい
筋力低下
意識低下
備考:
使用時は大量の水で希釈
----------------------------------
「……農薬です」
「農薬?」
「薄めて使う前提みたいです」
理央は続けて、水の方を鑑定した。
----------------------------------
名称:セリファ草成分混入水
分類:汚染水
状態:希釈中
危険性:中
備考:
経口摂取を避けること
長時間の皮膚接触を避けること
----------------------------------
「下流の水も、まだ飲めません」
下流へ知らせに走った農夫が、犬を抱えた農家と一緒に戻ってきた。
男の腕の中で、犬の頭が力なく揺れている。
「ポルが水を飲んで倒れたんだ!」
レイニャは外套を畳んで乾いた土へ置き、そこへ犬を寝かせてもらった。
鼻先に耳を近づけ、細かく動く胸へ視線を移す。
理央は《鑑定》を使った。
----------------------------------
名称:ポル
分類:犬
状態:中毒
身体異常:
セリファ草成分中毒
軽度脱水
筋力低下
----------------------------------
表示を確かめた理央は、すぐレイニャへ伝えた。
「セリファ草の成分で中毒しています。脱水と筋力低下もあります」
レイニャが《解毒》をかけ、理央は口元と被毛の汚れを《浄化》する。
理央も《解毒》を重ねた。
ポルの呼吸が落ち着き、前脚がわずかに動いた。
「助かったのか?」
「いまは呼吸が安定しています。でも、治療院で診てもらいましょう」
農家がポルを抱き上げようとすると、前脚が外套の端を引っかいた。
「一緒に来てください。普段の様子も、先生に話してほしいんです」
男は頷き、ポルの身体を両腕で支え直した。
レイニャは外套についた土を払い、理央に《浄化》してもらってから着直す。
割れた樽を取り除いたあとも、荷車には5本が残っていた。
真壁はそれらをいったん《収納》へ収め、乾いた道へ1本ずつ出した。
荷車から離れた場所へ並べると、農家たちが蓋の札をのぞき込む。
真壁は蓋へ手をかけようとした男を止め、理央を呼ぶ。
「開けずに確かめられるかね」
「やってみます」
理央は一番手前の樽へ《鑑定》を使った。
----------------------------------
名称:木製薬液樽
分類:運搬容器
状態:良好
内容物:セリファ草濃縮液
用途:農業用薬剤運搬
封緘:有効
再充填歴:あり
外部表示:肥料
内容表示との一致:不一致
----------------------------------
「……不一致です」
「何がだ」
「中身は農薬です。でも、外には肥料って書いてあります」
真壁は、樽の縁と封緘を順に見た。
「他の樽も確認したまえ」
理央は続いて、残る4本を1つずつ調べた。
どれも古い薬液樽だった。
新しい札には肥料とある。
樽の側面には、元の焼印を削った跡が残っていた。
割れずに残った5本は、いずれも封緘が有効だった。
真壁が出した破損樽の木片にも、同じ新しい札と焼印を削った跡がある。
確認が終わると、真壁は木片を再び収納し、開けていない5本は世話役に引き継ぐまで並べておいた。
理央は残液の鑑定結果を伝え、6本とも表示と中身が食い違っていると説明した。
「この5本は、封を破られた形跡がありません」
「少なくとも、封緘された段階ですでにこの中身だった可能性が高い」
荷車のそばにいた若者が、運搬用の伝票を差し出した。
真壁は汚れていない端を受け取り、記載を読み上げる。
「肥料、六樽、北部農地向け、共同倉庫経由」
事故がなければ、濃縮液は肥料として畑へ運ばれていたかもしれない。
「わざとニャ?」
「まだ決めつけるな」
真壁の声は静かだった。
「故意の誤表示か、詰め替え工程の間違いか、荷札の取り違えか」
「今あるのは、表示と内容が違うという事実だけだ」
レイニャは札を見直し、何か言いかけた口を閉じた。
真壁は農地の世話役を呼んでもらい、水門と立ち入り制限を引き継いだ。
下流へ知らせた範囲を確かめ、まだ伝わっていない分岐へ人を出してもらう。
若者は伝票にある共同倉庫の場所を指し、案内すると言った。
水路を農地の世話役に任せ、真壁は案内の若者と共同倉庫へ向かった。
理央とレイニャは道の乾いた場所で《関門接続》を開く。
ポルを抱いた飼い主が先にくぐり、理央たちも治療院へ戻った。
朝より泥の跡が増えた床を避け、飼い主は戸口で立ち止まる。
「今度は犬か」
「飲んだニャ」
「……今日は何の日だ」
「私も知りたいです」
ハリルは呆れた顔をしたが、すぐポルの状態を確かめた。
呼吸は安定し、前脚にも力が戻り始めている。
それでも完全に回復したわけではない。
ハリルは飼い主に普段の様子を聞き、窓際の床に敷物を出してもらった。
ポルが顔を上げられるようになるのを待ち、水分を少しずつ与えることにする。
飼い主が隣へ座ると、ポルの尻尾の先が1度だけ床を叩いた。
先ほど扉で送った男は、別の寝台で診察を受けていた。
付き添いの1人が入り口へ戻り、理央に小さく頭を下げる。
最初に運び込まれた男も、薄く目を開けていた。
「目が覚めたんですね」
「少しだけだ。まだ動かすな」
ハリルは声をかけながら、脈を取り直した。
男は荷を積んだ時から、樽の近くに甘い草の匂いがしていたと話した。
「六本とも、同じ匂いだった」
「古い樽なのに、札だけ新しかったと思う」
理央は、事故現場で見つけた表示の食い違いを思い返した。
運んでいた本人にも、荷の中身は知らされていなかったのかもしれない。
理央は聞いた話をノートに書き留め、男が目を閉じると、続きを尋ねるのをやめた。
共同倉庫の入り口では、別の荷車へ袋を積み込んでいた。
案内の若者が倉庫番を呼び、真壁は事務机の前で事故の伝票を広げた。
倉庫の奥には樽と木箱が並び、壁の釘には行き先ごとの荷札が掛けてある。
倉庫番は該当する荷の記録を開き、伝票と照らし合わせた。
「他の荷も見ますか?」
「いや」
真壁は一度首を横に振った。
「私はレヴァニアの役人ではない」
「勝手に帳簿を改める権限も、荷を止める権限もない」
「だが、同じ表示の荷があれば、人が倒れる可能性はある」
倉庫番は伝票を見直し、責任者を呼びに走った。
真壁は事故現場で確認した事実を、順を追って説明した。
液体の鑑定結果、樽の表示、封緘の状態、伝票の記載。
理央の鑑定結果も、必要なら渡せると伝える。
責任者は記録の送り元を指で押さえ、倉庫番に保管場所を尋ねた。
2人で奥へ行き、出庫待ちの樽の札を確かめる。
戻ってきた責任者の手には、「肥料」と書かれた荷札の控えがあった。
同じ送り元の樽が、事故の6本とは別に3本残っているという。
「出庫を一時保留します」
責任者は出庫の記録に線を引き、運び手へ待つよう伝えた。
責任者は若い荷役人に、役人を呼びに行くよう頼んだ。
真壁は樽を開けず、水路の立ち入りを止めたことも伝えた。
「こちらで確認できたのはここまでだ」
「後は、そちらで判断してほしい」
真壁は伝票の写しを受け取り、確かめた事実だけを書き留めた。
真壁が机を離れる時には、倉庫番が3本の樽の前に板を立てていた。
その板に「出庫保留」と書き足すのを見届け、真壁は治療院へ向かった。
理央はノートを閉じ、治療室を見渡した。
奥の寝台には最初の患者が、その手前には水路で診た男が横になっている。
窓際では、ポルが飼い主の手に鼻先を寄せていた。
ハリルは寝台の間を行き来し、レイニャに呼吸の変化を尋ねている。
《鑑定》で状態を読むことはできる。
けれど、そこから何をすべきかを決めるのは、また別の仕事だった。
今日、理央は初めて《解毒》を覚え、自分の手で使った。
まだ力は弱くても、見ているだけではなかった。
「……もう少し、できることを増やします」
「何するニャ?」
「SP、使います」
理央は自分の技能欄を確かめた。
未使用SPは17。
芽のままにしていた《白魔法》《治癒》《医術》へ、それぞれ1つずつ割り振る。
----------------------------------
スキル取得
白魔法:1
治癒:1
医術:1
----------------------------------
未使用SPは14。
「《白魔法》と《治癒》、それから《医術》を覚えました」
理央が伝えると、ハリルは寝台から顔を上げた。
「……お前、本当に今覚えたのか?」
「はい」
「便利とかいう話じゃないぞ」
「分かっています」
理央は頷き、寝台に横たわる男へ目を戻した。
覚えたばかりの《治癒》で、レイニャと同じことができるとは思えなかった。
最初の患者をもう一度《鑑定》すると、中毒は軽度まで下がっていた。
脱水と前腕の擦過傷が残っている。
「先に水分を取ってもらいます」
「擦り傷は、そのあとで大丈夫です」
理央は《医術》を得て整理しやすくなった知識と、男の様子を照らし合わせた。
「飲める状態か、先に確かめます」
「その順でいい」
男が問いかけに答え、ハリルが嚥下できることを確かめてから、器を渡す。
傷へ《治癒》を使うと、赤みと痛みが少し和らいだ。
傷が消えたわけではない。
《白魔法》を得たことで、理央は治療魔法へ魔力を流す感覚もつかみ始めていた。
男は器を置き、前腕をそっと曲げた。
「さっきより痛くない」
その声に理央は顔を上げ、残った傷の様子をハリルにも見てもらった。
戸口のベンチに座っていた年配の女性が、ハリルに呼ばれて診察机へ来た。
荷物の籠を床に置こうとして、右肩を押さえる。
理央が代わりに籠を下ろすと、女性は左手で右肘を支えた。
「荷物を持ったあとから、右肩が痛くてね」
「腕を上げようとすると、ここまでしか動かないんだ」
ハリルはすぐに肩へ触れず、いつから痛むのか、どんな動きで強くなるのかを聞いた。
腕の動きを確かめ、痛む場所を少しずつ探る。
ハリルが女性に説明すると、理央は椅子の横へ出た。
「状態を確かめますね」
女性が頷いたのを見て、《鑑定》を使う。
----------------------------------
身体異常:
右肩腱部炎症
軽度筋疲労
骨折なし
脱臼なし
神経障害なし
----------------------------------
ハリルも骨折や脱臼ではないと判断していた。
「荷を持つ時、いつも同じ側へ寄せていないか」
「そういえば、右に掛けることが多いね」
「今日は休ませる。持ち方も変えなさい」
ハリルは必要な処置を説明し、数日たっても改善しなければ再診するよう伝えた。
女性は頷き、帰りには籠を左手に持った。
理央が戸を開けると、女性は右肩を動かさないよう身体ごと向き直る。
「つい、いつもの方で持っちゃうからね」
そう笑って出ていく背中を、理央は見送った。
骨折がないことは鑑定で分かったが、毎日どちらの肩へ荷を掛けているかは知らなかった。
診察机へ戻った理央は、ハリルが聞いたことをノートに書き足した。
診察を終えた女性が帰る頃、真壁が治療院へ戻った。
「共同倉庫の荷は、現地の責任者が確認を引き継いだ」
真壁は、樽が三本残っていたことと、出庫を一時保留したことだけを簡潔に伝えた。
真壁は伝票の写しを畳み、診察机の邪魔にならない端へ置いた。
ハリルが頷いた時、治療院の戸が開いた。
息子に支えられた年配の女性が、戸の内側で足を止めた。
ベンチへ着くまでの短い距離でも、肩が大きく上下する。
「先生、母が朝から息苦しいって言ってて」
女性は歩けていた。
意識もはっきりしている。
それでも呼吸は速く、片手が胸元を押さえていた。
真壁は診察台の脇から一歩退いた。
「ここからは医者の仕事だ」
ハリルは背もたれのある椅子を出し、上体を起こした姿勢で休ませた。
息子が隣にしゃがみ、母親の手を握る。
「急いで話さなくていい。胸は痛むか」
女性は首を振り、何度か息をついてから、朝から苦しいと答えた。
熱や咳はないが、歩くと苦しさが増すという。
「昨夜は、枕を高くして寝てました」
息子の言葉に、女性も頷いた。
ハリルはいつから坂道や階段がつらくなったのかを聞き、答えが途切れる間は待った。
息が整うのを待ちながら脈と顔色を確かめ、足首のむくみを指で押した。
レイニャは耳を動かしながらも、まだ口を挟まなかった。
「心臓の方が気になるな」
「心臓ですか?」
「肺だけなら、この出方は妙だ」
理央は女性の胸元と、ハリルが指を離した足首を見比べた。
別々の場所に出ている不調を、ハリルは一つの原因へ結び付けようとしていた。
椅子で休むうちに、女性の呼吸は少し落ち着いてきた。
ハリルが診察机へ必要なものを取りに来ると、真壁が低い声で問いかける。
「ハリル君」
「心臓の仕組みは分かるかね」
「ある程度はな」
「血を送り出す臓器だ。中はいくつかに分かれて、太い血管へつながっている」
「理央君は?」
「学校で習ったくらいなら」
「要点だけ、ハリル君へ伝えたまえ」
理央は、授業で覚えた言葉を頭の中からたぐり寄せた。
「心臓には、右心房と右心室、左心房と左心室があります」
「血液は右側から肺へ送られて、酸素を受け取ったあと、左側から全身へ戻ります」
「その流れが逆にならないように、途中に弁があります」
「弁?」
「扉みたいなものです」
「血が前へ流れる時に開いて、戻ろうとした時に閉じます」
理央はノートの余白に心臓の簡単な図を描き、血の流れる向きを矢印で示した。
ハリルはその矢印を指で追った。
「流れを止めず、戻さないための仕組みか」
「はい」
理央が知っていたのは、学校で学んだ基礎だけだった。
それでも、ハリルの診察経験と重なる部分がある。
息子が母親の背へ当てた布を直すのを見て、真壁は声をさらに落とした。
「ハリル君、内部の状態を確かめるために、理央君の鑑定を使えるかもしれない」
ハリルは女性に説明し、了承を得てから理央へ頷いた。
「中を見られるんだったな」
「はい」
理央は椅子の脇に立ち、女性へ一度頷いてから《鑑定》を使った。
ただ「心臓が弱っている」と読むだけでは、何を治せばいいのか分からない。
ハリルが聞き取った症状と、目の前の女性の状態を思い浮かべながら、異常の原因へ意識を向けた。
----------------------------------
分類:人間
状態:要治療
身体異常:
心臓弁機能低下
血液逆流
心機能低下
軽度肺うっ血
軽度浮腫
----------------------------------
Lv10の《鑑定》は、状態を一語で示すだけでなく、異常の原因となる箇所まで絞り込んでいた。
「……弁です」
「さっき言っていた弁か」
「はい。一つが弱くなっています」
「閉じきらなくて、血が少し戻っています」
理央にだけ見えている表示を、言葉に置き換えて伝える。
ハリルは椅子の横へ膝をつき、聞き取った症状の時期を確かめた。
「坂道がつらくなったのが先で、横になると苦しいのは、そのあとか」
「……そうです」
「足のむくみは?」
「この頃、夕方になると靴がきつくて」
女性は自分の足元へ目を落とした。
ハリルは脈を測り、女性の顔色を確認してから、浮腫のある足首を見た。
「そういうことか」
鑑定の表示だけでは、症状がいつから続いていたかまでは分からない。
息子が、母親は前よりも外へ出なくなっていたと話した。
理央は表示を見ながら、女性が苦しそうに戸口で足を止めた姿を思い返す。
理央は、心臓の弁が弱っていることを伝えられた。
だが、その情報だけで治療の方法まで決めることはできなかった。
「真壁さん、どうしましょう」
理央は、表示を伝えたあとも女性の胸元から目を離せなかった。
何を治せばいいかは分かった。
どうすれば正常に戻るのかは、まだ分からない。
「ふむ……」
真壁は短く考え、まずレイニャを見る。
「レイニャ君。《治癒》は、悪い場所が分かれば狙えるのかね」
「できるニャ」
「でも、イメージが大事ニャ」
「『心臓を治す』じゃ広すぎるニャ」
真壁は理央へ向き直った。
「理央君には、悪い場所が見える」
次にハリルを見る。
「ハリル君には、患者を診てきた経験がある」
最後にレイニャへ視線を戻した。
「そして君には、それを治す力がある」
「三人でやればよかろう」
理央は診察机へ戻り、心臓を描いたページを開いた。
レイニャが隣からのぞき、ハリルは女性の手首へ指を戻す。
自分に見えているものを、まずレイニャに伝えなくてはならなかった。
ハリルは女性へ、診断と治療の方針を説明した。
レイニャが悪い箇所を確かめながら治癒を行うこと。
理央が鑑定で変化を伝えること。
女性は息子の顔を見てから、理央たちへ目を戻した。
「お願いします」
声は細かったが、握っていた息子の手を自分から少し緩めた。
レイニャは、すぐには手を伸ばさなかった。
「理央、どこニャ?」
理央はノートをレイニャの正面へ置いた。
鑑定で絞り込んだ弁の位置を図に書き足し、印を丸で囲む。
「ここです。血がこの向きへ進む時に開いて、戻らないように閉じる弁です」
理央は矢印をなぞり、正常に閉じた時と、隙間が残っている時の形も横へ描いた。
理央はノートを持って椅子のそばへ戻った。
レイニャは丸印を見て、胸のどの位置になるのかを理央に確かめた。
理央は図の向きと、女性の身体の向きとを対応させて伝える。
そのうえで、鑑定が示す異常を言葉にした。
「弁がなくなっているわけではありません」
「破れてもいません」
「閉じる力が弱くなっています」
「血が逆流しないように、閉じるところです」
レイニャは女性の胸元を見たが、そこから内部を見通せるわけではない。
「元はどうなるニャ?」
「ちゃんと開いて、ちゃんと閉じます」
「血が逆流しないくらいに」
「厚くしたり、強くしたりするんじゃないニャ」
「元の動きに戻すニャ」
「はい」
レイニャは正常な形の図を指し、血が流れる向きをもう一度口にした。
理央は頷き、図の丸印へ指を置く。
同じ場所と同じ働きを思い描けているか、2人で確かめた。
ハリルは女性の手首に指を当て、脈と呼吸の変化を見守った。
「始めるニャ。苦しかったら、すぐ言ってほしいニャ」
女性は頷き、息子の手を握り直した。
レイニャは両手を胸元から少し離して構えた。
白い光が、眩しすぎない強さで彼女の指先に集まる。
全身を包む光ではなかった。
レイニャの呼吸が整い、視線が理央の示した場所へ据わる。
レイニャの《治癒》8が、示された弁へ静かに働きかけた。
理央は鑑定を保ったまま、変化を追う。
息子は母の指を包み、ハリルは手首に指を当てたまま、顔色と胸の動きを見ていた。
窓の外で荷車が通り、車輪の音だけが一瞬大きく聞こえた。
理央には、弁の異常がどこまで残っているかが見える。
「変わっています」
「どのくらいニャ?」
「逆流が減っています」
「まだ少しあります」
レイニャはすぐには力を強めず、理央の言葉を待った。
女性の息はまだ浅い。
ハリルは脈を確かめながら、治療を続けられる状態かを見ていた。
理央は次の変化を見逃さないよう、鑑定表示を追う。
レイニャの指先が、わずかに角度を変えた。
光は弱まらず、脈に合わせるように一定の間隔で揺れる。
「……もう少し」
理央は表示を見つめた。
血液逆流の異常が薄れ、弁機能低下の表示も変わり始めていた。
「止めてください」
レイニャはすぐに魔法を止めた。
理央は改めて《鑑定》を使う。
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身体異常:
心臓弁機能低下 → 消失
血液逆流 → 正常化
心機能低下 → 改善
軽度肺うっ血 → 改善傾向
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女性は何度か呼吸を繰り返した。
胸元を押さえていた手が、ゆっくり膝へ下りる。
「……楽です」
ハリルはすぐ脈を取り、呼吸の深さと顔色を確かめた。
レイニャは治療した場所を見守り、理央は内部状態の変化を伝える。
「弁は正常に戻りました」
「肺の状態も改善し始めています」
息子は母親の顔を見つめ、握っていた手をようやく緩めた。
「よかった……」
理央の声が震えた。
「弁はな」
ハリルは、女性の手首から指を離さずに言った。
「患者は弁だけでできてるわけじゃない」
理央は頷き、鑑定をもう一度全身の状態へ向けた。
女性は息子の手を借りて姿勢を直したが、まだ立ち上がろうとはしない。
ハリルが今しばらくここで休むよう伝えると、息子はそばの丸椅子を引き寄せた。
「なるほど」
真壁が頷いた。
「理央君が場所を見る」
「レイニャ君がそこを治す」
「ハリル君が患者を見る」
「実に分かりやすい」
「三人で治療したみたいです」
「そうニャ」
「だからイメージが大事ニャ」
女性が息子と小声で話せるようになると、ハリルは休む場所を整え、診察机へ戻った。
窓際では、ポルが飼い主の膝に顎を載せている。
理央は手を洗い、指先に残った水を布で拭いた。
真壁は、さきほど机の端へ置いた小瓶を見つける。
「さて」
「そういえば、それを持ってきたんだったな」
ハリルも、ようやく思い出したようだった。
「完全に忘れてました」
「朝から濃すぎるニャ」
レイニャの言葉に、理央は小さく笑った。
ハリルは小瓶を手に取り、栓を開けずに光へ透かした。
「医者として見るなら、薬は効くかどうかだけでは決められない」
「何に使えて、何には使えないか」
「どれだけ使うのか」
「使った後に何が起きるか」
「記録が必要だ」
レイニャも瓶の中をのぞき、以前扱ったポーションを思い出すように鼻を動かした。
「知ってるのに似てるニャ。傷には使えそうニャ」
「似ているだけでは決められん」
ハリルは瓶を下ろした。
「色や濁りは見られるが、効き目はこれだけでは分からない」
「中身を確かめます」
理央は《鑑定》を使い、表示を確かめた。
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名称:回復ポーション
分類:治療薬
品質:良
主効果:
創傷回復促進
軽度体力回復
副効果:
軽度炎症緩和
適応:
切創
擦過傷
軽度打撲
軽度疲労
非適応:
毒性物質中毒
骨折
脱臼
重度内臓損傷
備考:
単独使用で重症を治癒するものではない
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理央は、表示のうち必要な部分を読み上げた。
ハリルは最後まで聞き、瓶を机へ戻す。
「使い道はある」
「量産できる可能性がある」
真壁が頷く。
「なら、先に使い方を決めろ」
ハリルの返事は早かった。
「高ければ、一部の者しか使えない」
「安くても、使い方を誤れば困る」
「まず一本だけ預かる」
「対象と量、使った後の経過、副作用を記録してから判断する」
真壁は頷き、瓶を机の奥へ寄せた。
ハリルが紙を出して記録を書き始めると、その最初の欄へ目を向ける。
最初の欄にあるのは効能ではなく、受け取った日付と瓶の状態だった。
理央もノートを開き、鑑定で分かった範囲を書き写した。
治療院を辞する時、ハリルは薄い手帳を理央へ差し出した。
「持っていけ」
「これ、何ですか?」
「症状と処置を書いた覚え書きだ」
「昔の患者を、俺が自分用にまとめた。写しだ」
理央は手帳を両手で受け取った。
薄い紙を綴じた背には糸が見え、開くと、小さな文字の横に身体の図が描かれていた。
症状の下には処置が、その次には翌日の様子が書き添えてある。
「いいんですか?」
「読んだから医者になった気になるな」
「……はい」
レイニャが理央の手元をのぞき込む。
「今日はいっぱい増えたニャ」
「スキルもですけど」
理央は手帳を胸元へ抱えた。
「こっちの方が大事かもしれません」
「良い判断だ」
真壁が頷く。
「知識は、持っているだけでは役に立たん」
「整理して、使える形にしたまえ」
「はい」
理央は自分のノートの、濡れた袖について書いたページを開いた。
匂いと鑑定結果の下へ、上着を外してから魔法を使ったことを書き足す。
その隣には、解毒のあとも呼吸と意識を確かめたことを残した。
書き切れない分は、帰ってから続きを整理しよう。
理央はハリルの手帳をノートと重ね、紙の端が折れないよう鞄へしまった。
治療院を出る前に、理央は寝台と窓際へ挨拶をした。
ポルの飼い主が手を上げ、最初に運び込まれた男も、枕に頭を預けたまま礼を言った。
椅子で休んでいた女性は、息子と話しながらこちらを見ている。
朝はそれぞれの異常を読むだけで精いっぱいだった。
今は、表示の変化と一緒に、その人が何をできるようになったかにも目が向く。
理央の視界に、技能の表示が浮かんだ。
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スキル上昇
解毒:1 → 2
白魔法:1 → 2
治癒:1 → 2
医術:1 → 2
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理央は表示を確かめてから、寝台の男へ目を戻した。
片腕に残る擦り傷はまだ消えていなかったが、器を持つ手は朝より落ち着いていた。
「上がったニャ?」
「……上がりました」
ハリルは、理央が見ているものを知らないまま尋ねた。
「何が変わった」
理央は少し考えてから答える。
「前より、どこを見ればいいか分かります」
「なら、少しは身になったな」
ハリルの言葉に、理央は頷いた。
レイニャが戸を開けると、石畳に昼の光が広がった。
外へ出た理央は、鞄の中の手帳を上からそっと押さえた。
真壁が歩き出す前に、治療院の方へもう一度振り返る。
窓の向こうでは、ハリルが女性の手首に指を当て直していた。