押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第387話 治す場所が分かるなら

 

 宴後、レヴァニアの酒場を出ると、春先とは思えないあたたかな風が吹いてきた。

 

 背後では、閉まりかけた戸の隙間から笑い声が漏れている。

 

 理央はヴァルディス侯爵領へ《関門接続》を開いた。

 

 理央と澪、レイニャとヴァルトの4人は扉を抜け、夜のうちに侯爵領へ戻った。

 

 レイニャは孤児院へ、ヴァルトは共同商館へ。

 

「それでは、また」

 

 ヴァルトが手を上げて別れ、澪と理央はレイニャを孤児院まで送った。

 

 孤児院の窓には、まだ灯りが残っていた。

 

 中へ入ると、廊下を通りかかった子どもが真っ先に気づく。

 

「あれ、レイニャだ」

 

「レヴァニアから帰ってきたの?」

 

「帰ってきたニャ」

 

 その声を聞いた子どもたちが、部屋の戸口から顔を出した。

 

「何を見たの?」

 

「おいしいものあった?」

 

「歌った?」

 

「順番に聞くニャ。いっぺんに聞いたら分からないニャ」

 

 小さな手に外套の裾を引かれ、レイニャの尻尾がゆっくり揺れる。

 

 理央は子どもたちの輪の外から声をかけた。

 

「明日の朝、迎えに来ますね。リュシアさんのところへ一緒に行きませんか」

 

「行くニャ。朝ごはんのあとでいいニャ?」

 

「はい。それじゃ、また明日」

 

「おやすみニャ」

 

 澪も手を振り、子どもたちに囲まれたレイニャを残して廊下を戻った。

 

 押し入れを抜けてゲンダイへ帰ると、澪はそのまま理央を飯島家まで送ってくれた。

 

 門の内側から、玄関の灯りが足元を照らしている。

 

「今日は、ちゃんと家に入るところまで見届けたいから」

 

 澪は呼び鈴を押そうとする理央の横で、ようやく肩の力を抜いた。

 

 戸が開き、家の中から理央を迎える声がした。

 

「ただいま」

 

 返事をした理央は、上がり框に鞄を置いてから澪へ向き直った。

 

「送ってくださって、ありがとうございました」

 

「うん。今夜はゆっくり休んで」

 

「澪さんも。おやすみなさい」

 

「おやすみ、理央」

 

 澪は家の人にも挨拶をして、門の方へ戻っていった。

 

 その背中を見送って戸を閉めると、外の足音が遠くなる。

 

 理央は靴を脱ぎ、鞄を持ち直した。

 

 廊下のいつもの匂いを吸い込んでから、長く息を吐いた。

 

 

 

 翌朝、理央は異世界へ渡ると、約束どおりヴァルディス侯爵領の孤児院へ向かった。

 

 食堂では食器を重ねる音がして、開けた窓からパンの匂いが外へ流れていた。

 

 レイニャは窓際の椅子に座り、隣で子どもが広げた宿題をのぞいていた。

 

 理央に気づいて立ち上がる途中、レイニャがあくびを噛み殺す。

 

「おはようございます」

 

「おはようニャ」

 

「昨日より眠そうですね」

 

「質問が多かったニャ……」

 

 レイニャの耳が、思い出したように少し伏せられた。

 

「帰ってきたら、旅の話を聞かせてって言われて」

 

「それで、どれくらい話したんですか?」

 

「最初の市場のところで、消灯の時間になったニャ」

 

 それでも、レイニャの尻尾は機嫌よく揺れていた。

 

 理央はリュシアのいる場所を思い浮かべ、二人が通れるだけの扉を開く。

 

「《関門接続》」

 

 足元に靄が集まり、やがて戸口の形に立ち上がった。

 

 扉の向こうには、ルネスタの商館の荷捌き場が見えた。

 

 2人がくぐると、背後の孤児院の声に代わって、木箱を床へ下ろす重い音が響いた。

 

 壁際には荷が積まれ、通路を空けた中央の机でリュシアが帳面を開いている。

 

「遅かったね」

 

「あらかた捌いたよ」

 

「もうですか?」

 

「昨日のうちにできるところはやったからね」

 

 リュシアは、机の脇に分けてある食品の木箱を指した。

 

「これ、理央の収納へ入れてくれる?」

 

 理央は木箱の札を読み、帳面の品目と数をリュシアに確認してから《収納》へ移した。

 

「来た瞬間から仕事ニャ」

 

「助かるよ。レイニャも手伝ってくれる?」

 

「もちろんニャ」

 

 レイニャは次の箱を手前へ寄せ、理央が収納する間だけ一歩下がった。

 

 箱を置く場所を尋ねる声に、リュシアがすぐ返事をする。

 

 理央も次の札へ目を移し、昨夜とは違う忙しさに手を動かした。

 

 

 

 仕分けた品の大半を収納へ移し終えた頃、真壁が商館に入ってきた。

 

 入り口の光を背に受けた真壁の手には、緩衝材に包まれた小瓶があった。

 

「理央君、レイニャ君」

 

「少し付き合いたまえ」

 

「どこへですか?」

 

「知り合いの医者のところだ」

 

 真壁は小瓶を軽く持ち上げた。

 

「以前話した回復ポーションを、医師の目で評価してもらう」

 

「ハリルさんの治療院ですか?」

 

「ああ」

 

 レイニャは小瓶をのぞき込むように首を伸ばした。

 

「飲んでみるニャ?」

 

「評価を頼むために持っていく。試飲の話ではない」

 

「分かってるニャ」

 

 レイニャはすぐに顔を引いたが、ひげが少し動いていた。

 

 リュシアは帳面から目を上げずに言う。

 

「こっちは任せて。残りも昼までには片づくよ」

 

「お願いします」

 

 真壁たちは商館を出た。

 

 王都の通りでは、荷車が石畳の継ぎ目を踏むたびに車輪を鳴らしていた。

 

 軒先の布を広げる店主に道を譲り、レイニャが理央の横へ戻ってくる。

 

 真壁が角を曲がると、通りの向こうに治療院の看板が見えた。

 

 レイニャは小瓶の話の続きを聞こうと、少し歩幅を広げた。

 

 

 

 ハリル・デミルの治療院の戸を開けると、乾かした薬草と洗った布の匂いがした。

 

 入り口のベンチから、診察を終えた患者がちょうど立ち上がる。

 

 真壁たちは脇へ寄って見送り、窓際の診察机へ向かった。

 

「ポーションを持ってきた」

 

 真壁が小瓶を差し出す。

 

「本当に持ってきたのか」

 

 ハリルは受け取り、光に透かすように中身を見た。

 

「まずは中身を確かめてからだ。患者に使うかは、その後で決める」

 

「当然だ」

 

 ハリルは返事をしてから、レイニャへ目を向けた。

 

「ケット・シー族とは珍しい」

 

「珍しい扱いには慣れてるニャ」

 

「そうか。なら、余計な質問はやめておこう」

 

 ハリルが何かを続けようとした時、治療院の外から慌ただしい足音が近づいた。

 

「先生!」

 

「先生、いますか!」

 

 若い男が2人、ぐったりした男の両脇を支えながら戸口をくぐった。

 

 真壁が戸を押さえ、理央はベンチを壁際へ寄せた。

 

 男の靴の先が床を擦り、濡れた裾から泥水が落ちる。

 

「荷車を起こそうとして、水に入ったんです」

 

「さっきから返事をしなくなって」

 

 ハリルはすぐに小瓶を脇へ置き、診察台を空けた。

 

 患者の呼吸は浅い。

 

 大きな出血は見当たらず、服には泥がついていた。

 

 片袖だけが、肘のあたりまで濡れている。

 

 レイニャの耳は、運び込まれた男の胸元へ向いていた。

 

 寝台へ移す手伝いを終えると、濡れた袖の手前で鼻を動かす。

 

「……変な匂いするニャ」

 

 

 

 奥の寝台で、ハリルは男の枕の高さを直し、手首に指を当てた。

 

 胸の動きを見ながら、男を運んだ若者に呼びかける。

 

「濡れた上着を外す。乾いた布をそこの棚から取ってくれ」

 

 レイニャは寝台の反対側へ回り、口元へ耳を向けてから胸の音を聞いた。

 

「息は浅いけど、喉が詰まってる音じゃないニャ」

 

「心臓は速い。けど、ばらばらじゃないニャ」

 

「口からは変な匂い、しないニャ」

 

 理央はゴム手袋をはめ、外した上着を受け皿に収めた。

 

 露出した腕に残る汚れは、ハリルに確かめてから《浄化》で落とす。

 

 濡れた袖の下には小さな擦り傷があり、その周辺の皮膚が白っぽく変色していた。

 

「ここニャ」

 

 レイニャが袖を指す。

 

 甘く、草を思わせる匂いだった。

 

 だが、食べ物の匂いとは違う。

 

 運び込んだ若者たちは、王都北側の農地近くで荷車を用水路へ落としたと話した。

 

 樽が一本割れ、男は荷車を起こすため水へ入った。

 

 戻ったあと、急に倒れたという。

 

「中毒の可能性が高いニャ」

 

「《解毒》するニャ」

 

 ハリルは止めなかった。

 

 レイニャが両手をかざす。

 

 魔力の光は患者の全身を覆わず、袖の下で白くなっていた腕から胸元へと静かに広がった。

 

 やがて呼吸が深くなり、速かった脈も少しずつ落ち着いていく。

 

 意識は戻らない。

 

 それでも、悪化の勢いは止まった。

 

 そこへ、知らせに来た農夫が戸口から叫んだ。

 

「先生! 樽の中身だったんだ!」

 

「まだ水へ流れてる! 素手で触ったらだめだ!」

 

 まだ現場には人がいる。

 

 真壁は治療台の患者を一度見てから、理央たちへ向き直った。

 

「行くぞ」

 

 ハリルは頷き、患者のそばへ残った。

 

 理央は農夫を戸口へ招き、場所を尋ねた。

 

 治療院を出る真壁の後ろで、ハリルが若者たちにもう1枚乾いた布を頼む声がした。

 

 

 

 戸口を出た理央は《世界地図》を開き、農夫に橋と水門の位置を確かめた。

 

 指示された用水路は、王都の北門から延びる道の先で農地を横切っている。

 

 理央は橋の手前の乾いた道を選び、《関門接続》を使った。

 

 扉を抜けると、土の匂いに甘い草の匂いが混じった。

 

 道の片側に水路が走り、その向こうには畝が低く続いている。

 

 荷車の車輪が岸を踏み外し、車体は斜めに傾いていた。

 

 6本の樽のうち1本が水際で割れ、黒っぽい液体が流れの中に細い帯を引いている。

 

 農夫が扉の向こうから続いてきて、荷車のそばにいる人々を呼んだ。

 

 声に顔を上げた男が、濡れた片手を押さえた。

 

 立ち上がりかけた膝が折れ、仲間が肩をつかむ。

 

 理央が乾いた道を指すと、仲間は男の脇を支えて引き上げた。

 

「動かないでください」

 

 理央は相手の顔と呼吸を確かめてから、《鑑定》を使った。

 

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分類:人間

状態:中毒

身体異常:

 毒性物質曝露

 軽度皮膚障害

 吐き気

----------------------------------

 

 表示は理央にしか見えない。

 

「中毒です。皮膚にも影響が出ています」

 

 レイニャはすぐに患者のそばへ膝をついた。

 

「《解毒》するニャ」

 

 少し下流で水路が分かれ、細い流れが畑へ入っていた。

 

 その先では、牛を引いた農家がこちらを見ている。

 

 真壁は農夫に水門の場所を確かめ、上流を見た。

 

「理央君」

 

「はい」

 

「こちらは私がやる」

 

 理央は水路を見てから、患者へ視線を戻した。

 

「君は患者を見たまえ」

 

「拡散を止めるだけなら私の仕事だ」

 

「治療できる者が二人いるのに、二人とも水路へ張り付く必要はない」

 

 理央は荷車へ向けかけた足を戻し、倒れた男の横にしゃがんだ。

 

 未使用SPは18。

 

 理央は《解毒》の芽へSPを1つ使う。

 

----------------------------------

スキル取得

 解毒:1

----------------------------------

 

 未使用SPは17になった。

 

 理央はレイニャと並び、水へ手を入れて倒れた男の状態を見た。

 

 真壁は農夫と上流の水門へ走った。

 

 2人で取っ手を回すと、板が下り、水路へ入る水が細くなる。

 

 だが、すでに流れた黒い帯は下流に残っていた。

 

 戻った真壁は、割れた樽とその周囲に溜まった濃い液を《収納》へ移した。

 

 濡れた土と破片も、近くの人を下がらせてから回収する。

 

 新しく流れ込む薬液は止まったが、水路の水はまだ使えない。

 

「この水を飲むな!」

 

「家畜を近づけるな!」

 

「水路に入るな!」

 

 牛を連れた農家が手綱を引き、畦道の方へ遠ざかった。

 

 農夫は下流へ走る仲間に、分かれた水路にも知らせるよう頼んだ。

 

 真壁は残った人々と荷縄を張り、水際へ近づけないようにする。

 

 

 

 倒れた男の呼吸が浅くならないことを確かめ、理央は濡れた袖と皮膚の汚れを《浄化》で落とした。

 

 危険なものから離し、付着したものを取り除く。

 

 レイニャが教える順番を、理央は手元で確かめるように繰り返した。

 

「そのあとに《解毒》ニャ」

 

 理央は新しく覚えた魔法を使う。

 

 効果はあった。

 

 ただし、レイニャの魔法のように一息で状態を整えられるわけではない。

 

 呼吸、意識、脈をその都度確かめ、必要な処置を重ねる。

 

 男の吐き気は少しずつ収まり、問いかけに返事ができるようになった。

 

「まだ立たないでください」

 

 理央は治療院の戸口を思い浮かべ、乾いた道からもう一度《関門接続》を開いた。

 

 行き来の終わった最初の扉は、すでに閉じている。

 

 仲間が男の両側へ入り、体重を預けさせてから扉をくぐった。

 

「ハリル先生に、水に触れて倒れた人だと伝えてください」

 

 3人を見送って扉を閉じると、理央は振り向いた。

 

 まだ水路には薬液の匂いが残っている。

 

「一回かけたら終わり、じゃないんですね」

 

「そうニャ。薬でも魔法でも、相手の様子を見るニャ」

 

 解毒が必要なことは分かったが、何に中毒しているのかは、まだ確かめていない。

 

 理央は水際へ目を向け、真壁を呼んだ。

 

「鑑定します」

 

 理央はゴム手袋をはめ、容器を2つ用意した。

 

 真壁に回収した残液を少量だけ分けてもらい、片方の蓋を閉める。

 

 もう片方には、乾いた岸から長い柄を使って下流の水をすくった。

 

 容器の外側を《浄化》し、2つを離して道の上へ置く。

 

 残液へ《鑑定》を使った。

 

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名称:セリファ草濃縮液

分類:農業用薬剤/植物性毒液

状態:高濃度

用途:害虫・土中害獣の忌避、駆除

危険性:

 原液接触:有害

 経口摂取:強い中毒

 高濃度吸入:有害

主症状:

 吐き気

 めまい

 筋力低下

 意識低下

備考:

 使用時は大量の水で希釈

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「……農薬です」

 

「農薬?」

 

「薄めて使う前提みたいです」

 

 理央は続けて、水の方を鑑定した。

 

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名称:セリファ草成分混入水

分類:汚染水

状態:希釈中

危険性:中

備考:

 経口摂取を避けること

 長時間の皮膚接触を避けること

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「下流の水も、まだ飲めません」

 

 下流へ知らせに走った農夫が、犬を抱えた農家と一緒に戻ってきた。

 

 男の腕の中で、犬の頭が力なく揺れている。

 

「ポルが水を飲んで倒れたんだ!」

 

 レイニャは外套を畳んで乾いた土へ置き、そこへ犬を寝かせてもらった。

 

 鼻先に耳を近づけ、細かく動く胸へ視線を移す。

 

 理央は《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

名称:ポル

分類:犬

状態:中毒

身体異常:

 セリファ草成分中毒

 軽度脱水

 筋力低下

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 表示を確かめた理央は、すぐレイニャへ伝えた。

 

「セリファ草の成分で中毒しています。脱水と筋力低下もあります」

 

 レイニャが《解毒》をかけ、理央は口元と被毛の汚れを《浄化》する。

 

 理央も《解毒》を重ねた。

 

 ポルの呼吸が落ち着き、前脚がわずかに動いた。

 

「助かったのか?」

 

「いまは呼吸が安定しています。でも、治療院で診てもらいましょう」

 

 農家がポルを抱き上げようとすると、前脚が外套の端を引っかいた。

 

「一緒に来てください。普段の様子も、先生に話してほしいんです」

 

 男は頷き、ポルの身体を両腕で支え直した。

 

 レイニャは外套についた土を払い、理央に《浄化》してもらってから着直す。

 

 

 

 割れた樽を取り除いたあとも、荷車には5本が残っていた。

 

 真壁はそれらをいったん《収納》へ収め、乾いた道へ1本ずつ出した。

 

 荷車から離れた場所へ並べると、農家たちが蓋の札をのぞき込む。

 

 真壁は蓋へ手をかけようとした男を止め、理央を呼ぶ。

 

「開けずに確かめられるかね」

 

「やってみます」

 

 理央は一番手前の樽へ《鑑定》を使った。

 

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名称:木製薬液樽

分類:運搬容器

状態:良好

内容物:セリファ草濃縮液

用途:農業用薬剤運搬

封緘:有効

再充填歴:あり

外部表示:肥料

内容表示との一致:不一致

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「……不一致です」

 

「何がだ」

 

「中身は農薬です。でも、外には肥料って書いてあります」

 

 真壁は、樽の縁と封緘を順に見た。

 

「他の樽も確認したまえ」

 

 理央は続いて、残る4本を1つずつ調べた。

 

 どれも古い薬液樽だった。

 

 新しい札には肥料とある。

 

 樽の側面には、元の焼印を削った跡が残っていた。

 

 割れずに残った5本は、いずれも封緘が有効だった。

 

 真壁が出した破損樽の木片にも、同じ新しい札と焼印を削った跡がある。

 

 確認が終わると、真壁は木片を再び収納し、開けていない5本は世話役に引き継ぐまで並べておいた。

 

 理央は残液の鑑定結果を伝え、6本とも表示と中身が食い違っていると説明した。

 

「この5本は、封を破られた形跡がありません」

 

「少なくとも、封緘された段階ですでにこの中身だった可能性が高い」

 

 荷車のそばにいた若者が、運搬用の伝票を差し出した。

 

 真壁は汚れていない端を受け取り、記載を読み上げる。

 

「肥料、六樽、北部農地向け、共同倉庫経由」

 

 事故がなければ、濃縮液は肥料として畑へ運ばれていたかもしれない。

 

「わざとニャ?」

 

「まだ決めつけるな」

 

 真壁の声は静かだった。

 

「故意の誤表示か、詰め替え工程の間違いか、荷札の取り違えか」

 

「今あるのは、表示と内容が違うという事実だけだ」

 

 レイニャは札を見直し、何か言いかけた口を閉じた。

 

 真壁は農地の世話役を呼んでもらい、水門と立ち入り制限を引き継いだ。

 

 下流へ知らせた範囲を確かめ、まだ伝わっていない分岐へ人を出してもらう。

 

 若者は伝票にある共同倉庫の場所を指し、案内すると言った。

 

 

 

 水路を農地の世話役に任せ、真壁は案内の若者と共同倉庫へ向かった。

 

 理央とレイニャは道の乾いた場所で《関門接続》を開く。

 

 ポルを抱いた飼い主が先にくぐり、理央たちも治療院へ戻った。

 

 朝より泥の跡が増えた床を避け、飼い主は戸口で立ち止まる。

 

「今度は犬か」

 

「飲んだニャ」

 

「……今日は何の日だ」

 

「私も知りたいです」

 

 ハリルは呆れた顔をしたが、すぐポルの状態を確かめた。

 

 呼吸は安定し、前脚にも力が戻り始めている。

 

 それでも完全に回復したわけではない。

 

 ハリルは飼い主に普段の様子を聞き、窓際の床に敷物を出してもらった。

 

 ポルが顔を上げられるようになるのを待ち、水分を少しずつ与えることにする。

 

 飼い主が隣へ座ると、ポルの尻尾の先が1度だけ床を叩いた。

 

 先ほど扉で送った男は、別の寝台で診察を受けていた。

 

 付き添いの1人が入り口へ戻り、理央に小さく頭を下げる。

 

 最初に運び込まれた男も、薄く目を開けていた。

 

「目が覚めたんですね」

 

「少しだけだ。まだ動かすな」

 

 ハリルは声をかけながら、脈を取り直した。

 

 男は荷を積んだ時から、樽の近くに甘い草の匂いがしていたと話した。

 

「六本とも、同じ匂いだった」

 

「古い樽なのに、札だけ新しかったと思う」

 

 理央は、事故現場で見つけた表示の食い違いを思い返した。

 

 運んでいた本人にも、荷の中身は知らされていなかったのかもしれない。

 

 理央は聞いた話をノートに書き留め、男が目を閉じると、続きを尋ねるのをやめた。

 

 

 

 共同倉庫の入り口では、別の荷車へ袋を積み込んでいた。

 

 案内の若者が倉庫番を呼び、真壁は事務机の前で事故の伝票を広げた。

 

 倉庫の奥には樽と木箱が並び、壁の釘には行き先ごとの荷札が掛けてある。

 

 倉庫番は該当する荷の記録を開き、伝票と照らし合わせた。

 

「他の荷も見ますか?」

 

「いや」

 

 真壁は一度首を横に振った。

 

「私はレヴァニアの役人ではない」

 

「勝手に帳簿を改める権限も、荷を止める権限もない」

 

「だが、同じ表示の荷があれば、人が倒れる可能性はある」

 

 倉庫番は伝票を見直し、責任者を呼びに走った。

 

 真壁は事故現場で確認した事実を、順を追って説明した。

 

 液体の鑑定結果、樽の表示、封緘の状態、伝票の記載。

 

 理央の鑑定結果も、必要なら渡せると伝える。

 

 責任者は記録の送り元を指で押さえ、倉庫番に保管場所を尋ねた。

 

 2人で奥へ行き、出庫待ちの樽の札を確かめる。

 

 戻ってきた責任者の手には、「肥料」と書かれた荷札の控えがあった。

 

 同じ送り元の樽が、事故の6本とは別に3本残っているという。

 

「出庫を一時保留します」

 

 責任者は出庫の記録に線を引き、運び手へ待つよう伝えた。

 

 責任者は若い荷役人に、役人を呼びに行くよう頼んだ。

 

 真壁は樽を開けず、水路の立ち入りを止めたことも伝えた。

 

「こちらで確認できたのはここまでだ」

 

「後は、そちらで判断してほしい」

 

 真壁は伝票の写しを受け取り、確かめた事実だけを書き留めた。

 

 真壁が机を離れる時には、倉庫番が3本の樽の前に板を立てていた。

 

 その板に「出庫保留」と書き足すのを見届け、真壁は治療院へ向かった。

 

 

 

 理央はノートを閉じ、治療室を見渡した。

 

 奥の寝台には最初の患者が、その手前には水路で診た男が横になっている。

 

 窓際では、ポルが飼い主の手に鼻先を寄せていた。

 

 ハリルは寝台の間を行き来し、レイニャに呼吸の変化を尋ねている。

 

 《鑑定》で状態を読むことはできる。

 

 けれど、そこから何をすべきかを決めるのは、また別の仕事だった。

 

 今日、理央は初めて《解毒》を覚え、自分の手で使った。

 

 まだ力は弱くても、見ているだけではなかった。

 

「……もう少し、できることを増やします」

 

「何するニャ?」

 

「SP、使います」

 

 理央は自分の技能欄を確かめた。

 

 未使用SPは17。

 

 芽のままにしていた《白魔法》《治癒》《医術》へ、それぞれ1つずつ割り振る。

 

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スキル取得

 白魔法:1

 治癒:1

 医術:1

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 未使用SPは14。

 

「《白魔法》と《治癒》、それから《医術》を覚えました」

 

 理央が伝えると、ハリルは寝台から顔を上げた。

 

「……お前、本当に今覚えたのか?」

 

「はい」

 

「便利とかいう話じゃないぞ」

 

「分かっています」

 

 理央は頷き、寝台に横たわる男へ目を戻した。

 

 覚えたばかりの《治癒》で、レイニャと同じことができるとは思えなかった。

 

 最初の患者をもう一度《鑑定》すると、中毒は軽度まで下がっていた。

 

 脱水と前腕の擦過傷が残っている。

 

「先に水分を取ってもらいます」

 

「擦り傷は、そのあとで大丈夫です」

 

 理央は《医術》を得て整理しやすくなった知識と、男の様子を照らし合わせた。

 

「飲める状態か、先に確かめます」

 

「その順でいい」

 

 男が問いかけに答え、ハリルが嚥下できることを確かめてから、器を渡す。

 

 傷へ《治癒》を使うと、赤みと痛みが少し和らいだ。

 

 傷が消えたわけではない。

 

 《白魔法》を得たことで、理央は治療魔法へ魔力を流す感覚もつかみ始めていた。

 

 男は器を置き、前腕をそっと曲げた。

 

「さっきより痛くない」

 

 その声に理央は顔を上げ、残った傷の様子をハリルにも見てもらった。

 

 

 

 戸口のベンチに座っていた年配の女性が、ハリルに呼ばれて診察机へ来た。

 

 荷物の籠を床に置こうとして、右肩を押さえる。

 

 理央が代わりに籠を下ろすと、女性は左手で右肘を支えた。

 

「荷物を持ったあとから、右肩が痛くてね」

 

「腕を上げようとすると、ここまでしか動かないんだ」

 

 ハリルはすぐに肩へ触れず、いつから痛むのか、どんな動きで強くなるのかを聞いた。

 

 腕の動きを確かめ、痛む場所を少しずつ探る。

 

 ハリルが女性に説明すると、理央は椅子の横へ出た。

 

「状態を確かめますね」

 

 女性が頷いたのを見て、《鑑定》を使う。

 

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身体異常:

 右肩腱部炎症

 軽度筋疲労

 骨折なし

 脱臼なし

 神経障害なし

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 ハリルも骨折や脱臼ではないと判断していた。

 

「荷を持つ時、いつも同じ側へ寄せていないか」

 

「そういえば、右に掛けることが多いね」

 

「今日は休ませる。持ち方も変えなさい」

 

 ハリルは必要な処置を説明し、数日たっても改善しなければ再診するよう伝えた。

 

 女性は頷き、帰りには籠を左手に持った。

 

 理央が戸を開けると、女性は右肩を動かさないよう身体ごと向き直る。

 

「つい、いつもの方で持っちゃうからね」

 

 そう笑って出ていく背中を、理央は見送った。

 

 骨折がないことは鑑定で分かったが、毎日どちらの肩へ荷を掛けているかは知らなかった。

 

 診察机へ戻った理央は、ハリルが聞いたことをノートに書き足した。

 

 

 

 診察を終えた女性が帰る頃、真壁が治療院へ戻った。

 

「共同倉庫の荷は、現地の責任者が確認を引き継いだ」

 

 真壁は、樽が三本残っていたことと、出庫を一時保留したことだけを簡潔に伝えた。

 

 真壁は伝票の写しを畳み、診察机の邪魔にならない端へ置いた。

 

 ハリルが頷いた時、治療院の戸が開いた。

 

 息子に支えられた年配の女性が、戸の内側で足を止めた。

 

 ベンチへ着くまでの短い距離でも、肩が大きく上下する。

 

「先生、母が朝から息苦しいって言ってて」

 

 女性は歩けていた。

 

 意識もはっきりしている。

 

 それでも呼吸は速く、片手が胸元を押さえていた。

 

 真壁は診察台の脇から一歩退いた。

 

「ここからは医者の仕事だ」

 

 ハリルは背もたれのある椅子を出し、上体を起こした姿勢で休ませた。

 

 息子が隣にしゃがみ、母親の手を握る。

 

「急いで話さなくていい。胸は痛むか」

 

 女性は首を振り、何度か息をついてから、朝から苦しいと答えた。

 

 熱や咳はないが、歩くと苦しさが増すという。

 

「昨夜は、枕を高くして寝てました」

 

 息子の言葉に、女性も頷いた。

 

 ハリルはいつから坂道や階段がつらくなったのかを聞き、答えが途切れる間は待った。

 

 息が整うのを待ちながら脈と顔色を確かめ、足首のむくみを指で押した。

 

 レイニャは耳を動かしながらも、まだ口を挟まなかった。

 

「心臓の方が気になるな」

 

「心臓ですか?」

 

「肺だけなら、この出方は妙だ」

 

 理央は女性の胸元と、ハリルが指を離した足首を見比べた。

 

 別々の場所に出ている不調を、ハリルは一つの原因へ結び付けようとしていた。

 

 

 

 椅子で休むうちに、女性の呼吸は少し落ち着いてきた。

 

 ハリルが診察机へ必要なものを取りに来ると、真壁が低い声で問いかける。

 

「ハリル君」

 

「心臓の仕組みは分かるかね」

 

「ある程度はな」

 

「血を送り出す臓器だ。中はいくつかに分かれて、太い血管へつながっている」

 

「理央君は?」

 

「学校で習ったくらいなら」

 

「要点だけ、ハリル君へ伝えたまえ」

 

 理央は、授業で覚えた言葉を頭の中からたぐり寄せた。

 

「心臓には、右心房と右心室、左心房と左心室があります」

 

「血液は右側から肺へ送られて、酸素を受け取ったあと、左側から全身へ戻ります」

 

「その流れが逆にならないように、途中に弁があります」

 

「弁?」

 

「扉みたいなものです」

 

「血が前へ流れる時に開いて、戻ろうとした時に閉じます」

 

 理央はノートの余白に心臓の簡単な図を描き、血の流れる向きを矢印で示した。

 

 ハリルはその矢印を指で追った。

 

「流れを止めず、戻さないための仕組みか」

 

「はい」

 

 理央が知っていたのは、学校で学んだ基礎だけだった。

 

 それでも、ハリルの診察経験と重なる部分がある。

 

 息子が母親の背へ当てた布を直すのを見て、真壁は声をさらに落とした。

 

「ハリル君、内部の状態を確かめるために、理央君の鑑定を使えるかもしれない」

 

 ハリルは女性に説明し、了承を得てから理央へ頷いた。

 

「中を見られるんだったな」

 

「はい」

 

 

 

 理央は椅子の脇に立ち、女性へ一度頷いてから《鑑定》を使った。

 

 ただ「心臓が弱っている」と読むだけでは、何を治せばいいのか分からない。

 

 ハリルが聞き取った症状と、目の前の女性の状態を思い浮かべながら、異常の原因へ意識を向けた。

 

----------------------------------

分類:人間

状態:要治療

身体異常:

 心臓弁機能低下

 血液逆流

 心機能低下

 軽度肺うっ血

 軽度浮腫

----------------------------------

 

 Lv10の《鑑定》は、状態を一語で示すだけでなく、異常の原因となる箇所まで絞り込んでいた。

 

「……弁です」

 

「さっき言っていた弁か」

 

「はい。一つが弱くなっています」

 

「閉じきらなくて、血が少し戻っています」

 

 理央にだけ見えている表示を、言葉に置き換えて伝える。

 

 ハリルは椅子の横へ膝をつき、聞き取った症状の時期を確かめた。

 

「坂道がつらくなったのが先で、横になると苦しいのは、そのあとか」

 

「……そうです」

 

「足のむくみは?」

 

「この頃、夕方になると靴がきつくて」

 

 女性は自分の足元へ目を落とした。

 

 ハリルは脈を測り、女性の顔色を確認してから、浮腫のある足首を見た。

 

「そういうことか」

 

 鑑定の表示だけでは、症状がいつから続いていたかまでは分からない。

 

 息子が、母親は前よりも外へ出なくなっていたと話した。

 

 理央は表示を見ながら、女性が苦しそうに戸口で足を止めた姿を思い返す。

 

 理央は、心臓の弁が弱っていることを伝えられた。

 

 だが、その情報だけで治療の方法まで決めることはできなかった。

 

 

 

「真壁さん、どうしましょう」

 

 理央は、表示を伝えたあとも女性の胸元から目を離せなかった。

 

 何を治せばいいかは分かった。

 

 どうすれば正常に戻るのかは、まだ分からない。

 

「ふむ……」

 

 真壁は短く考え、まずレイニャを見る。

 

「レイニャ君。《治癒》は、悪い場所が分かれば狙えるのかね」

 

「できるニャ」

 

「でも、イメージが大事ニャ」

 

「『心臓を治す』じゃ広すぎるニャ」

 

 真壁は理央へ向き直った。

 

「理央君には、悪い場所が見える」

 

 次にハリルを見る。

 

「ハリル君には、患者を診てきた経験がある」

 

 最後にレイニャへ視線を戻した。

 

「そして君には、それを治す力がある」

 

「三人でやればよかろう」

 

 理央は診察机へ戻り、心臓を描いたページを開いた。

 

 レイニャが隣からのぞき、ハリルは女性の手首へ指を戻す。

 

 自分に見えているものを、まずレイニャに伝えなくてはならなかった。

 

 ハリルは女性へ、診断と治療の方針を説明した。

 

 レイニャが悪い箇所を確かめながら治癒を行うこと。

 

 理央が鑑定で変化を伝えること。

 

 女性は息子の顔を見てから、理央たちへ目を戻した。

 

「お願いします」

 

 声は細かったが、握っていた息子の手を自分から少し緩めた。

 

 レイニャは、すぐには手を伸ばさなかった。

 

「理央、どこニャ?」

 

 理央はノートをレイニャの正面へ置いた。

 

 鑑定で絞り込んだ弁の位置を図に書き足し、印を丸で囲む。

 

「ここです。血がこの向きへ進む時に開いて、戻らないように閉じる弁です」

 

 理央は矢印をなぞり、正常に閉じた時と、隙間が残っている時の形も横へ描いた。

 

 

 

 理央はノートを持って椅子のそばへ戻った。

 

 レイニャは丸印を見て、胸のどの位置になるのかを理央に確かめた。

 

 理央は図の向きと、女性の身体の向きとを対応させて伝える。

 

 そのうえで、鑑定が示す異常を言葉にした。

 

「弁がなくなっているわけではありません」

 

「破れてもいません」

 

「閉じる力が弱くなっています」

 

「血が逆流しないように、閉じるところです」

 

 レイニャは女性の胸元を見たが、そこから内部を見通せるわけではない。

 

「元はどうなるニャ?」

 

「ちゃんと開いて、ちゃんと閉じます」

 

「血が逆流しないくらいに」

 

「厚くしたり、強くしたりするんじゃないニャ」

 

「元の動きに戻すニャ」

 

「はい」

 

 レイニャは正常な形の図を指し、血が流れる向きをもう一度口にした。

 

 理央は頷き、図の丸印へ指を置く。

 

 同じ場所と同じ働きを思い描けているか、2人で確かめた。

 

 ハリルは女性の手首に指を当て、脈と呼吸の変化を見守った。

 

「始めるニャ。苦しかったら、すぐ言ってほしいニャ」

 

 女性は頷き、息子の手を握り直した。

 

 レイニャは両手を胸元から少し離して構えた。

 

 白い光が、眩しすぎない強さで彼女の指先に集まる。

 

 全身を包む光ではなかった。

 

 レイニャの呼吸が整い、視線が理央の示した場所へ据わる。

 

 レイニャの《治癒》8が、示された弁へ静かに働きかけた。

 

 理央は鑑定を保ったまま、変化を追う。

 

 息子は母の指を包み、ハリルは手首に指を当てたまま、顔色と胸の動きを見ていた。

 

 窓の外で荷車が通り、車輪の音だけが一瞬大きく聞こえた。

 

 理央には、弁の異常がどこまで残っているかが見える。

 

「変わっています」

 

「どのくらいニャ?」

 

「逆流が減っています」

 

「まだ少しあります」

 

 レイニャはすぐには力を強めず、理央の言葉を待った。

 

 女性の息はまだ浅い。

 

 ハリルは脈を確かめながら、治療を続けられる状態かを見ていた。

 

 理央は次の変化を見逃さないよう、鑑定表示を追う。

 

 レイニャの指先が、わずかに角度を変えた。

 

 光は弱まらず、脈に合わせるように一定の間隔で揺れる。

 

「……もう少し」

 

 理央は表示を見つめた。

 

 血液逆流の異常が薄れ、弁機能低下の表示も変わり始めていた。

 

「止めてください」

 

 レイニャはすぐに魔法を止めた。

 

 理央は改めて《鑑定》を使う。

 

----------------------------------

身体異常:

 心臓弁機能低下 → 消失

 血液逆流    → 正常化

 心機能低下   → 改善

 軽度肺うっ血  → 改善傾向

----------------------------------

 

 女性は何度か呼吸を繰り返した。

 

 胸元を押さえていた手が、ゆっくり膝へ下りる。

 

「……楽です」

 

 ハリルはすぐ脈を取り、呼吸の深さと顔色を確かめた。

 

 レイニャは治療した場所を見守り、理央は内部状態の変化を伝える。

 

「弁は正常に戻りました」

 

「肺の状態も改善し始めています」

 

 息子は母親の顔を見つめ、握っていた手をようやく緩めた。

 

「よかった……」

 

 理央の声が震えた。

 

「弁はな」

 

 ハリルは、女性の手首から指を離さずに言った。

 

「患者は弁だけでできてるわけじゃない」

 

 理央は頷き、鑑定をもう一度全身の状態へ向けた。

 

 女性は息子の手を借りて姿勢を直したが、まだ立ち上がろうとはしない。

 

 ハリルが今しばらくここで休むよう伝えると、息子はそばの丸椅子を引き寄せた。

 

「なるほど」

 

 真壁が頷いた。

 

「理央君が場所を見る」

 

「レイニャ君がそこを治す」

 

「ハリル君が患者を見る」

 

「実に分かりやすい」

 

「三人で治療したみたいです」

 

「そうニャ」

 

「だからイメージが大事ニャ」

 

 

 

 女性が息子と小声で話せるようになると、ハリルは休む場所を整え、診察机へ戻った。

 

 窓際では、ポルが飼い主の膝に顎を載せている。

 

 理央は手を洗い、指先に残った水を布で拭いた。

 

 真壁は、さきほど机の端へ置いた小瓶を見つける。

 

「さて」

 

「そういえば、それを持ってきたんだったな」

 

 ハリルも、ようやく思い出したようだった。

 

「完全に忘れてました」

 

「朝から濃すぎるニャ」

 

 レイニャの言葉に、理央は小さく笑った。

 

 ハリルは小瓶を手に取り、栓を開けずに光へ透かした。

 

「医者として見るなら、薬は効くかどうかだけでは決められない」

 

「何に使えて、何には使えないか」

 

「どれだけ使うのか」

 

「使った後に何が起きるか」

 

「記録が必要だ」

 

 レイニャも瓶の中をのぞき、以前扱ったポーションを思い出すように鼻を動かした。

 

「知ってるのに似てるニャ。傷には使えそうニャ」

 

「似ているだけでは決められん」

 

 ハリルは瓶を下ろした。

 

「色や濁りは見られるが、効き目はこれだけでは分からない」

 

「中身を確かめます」

 

 理央は《鑑定》を使い、表示を確かめた。

 

----------------------------------

名称:回復ポーション

分類:治療薬

品質:良

主効果:

 創傷回復促進

 軽度体力回復

副効果:

 軽度炎症緩和

適応:

 切創

 擦過傷

 軽度打撲

 軽度疲労

非適応:

 毒性物質中毒

 骨折

 脱臼

 重度内臓損傷

備考:

 単独使用で重症を治癒するものではない

----------------------------------

 

 理央は、表示のうち必要な部分を読み上げた。

 

 ハリルは最後まで聞き、瓶を机へ戻す。

 

「使い道はある」

 

「量産できる可能性がある」

 

 真壁が頷く。

 

「なら、先に使い方を決めろ」

 

 ハリルの返事は早かった。

 

「高ければ、一部の者しか使えない」

 

「安くても、使い方を誤れば困る」

 

「まず一本だけ預かる」

 

「対象と量、使った後の経過、副作用を記録してから判断する」

 

 真壁は頷き、瓶を机の奥へ寄せた。

 

 ハリルが紙を出して記録を書き始めると、その最初の欄へ目を向ける。

 

 最初の欄にあるのは効能ではなく、受け取った日付と瓶の状態だった。

 

 理央もノートを開き、鑑定で分かった範囲を書き写した。

 

 

 

 治療院を辞する時、ハリルは薄い手帳を理央へ差し出した。

 

「持っていけ」

 

「これ、何ですか?」

 

「症状と処置を書いた覚え書きだ」

 

「昔の患者を、俺が自分用にまとめた。写しだ」

 

 理央は手帳を両手で受け取った。

 

 薄い紙を綴じた背には糸が見え、開くと、小さな文字の横に身体の図が描かれていた。

 

 症状の下には処置が、その次には翌日の様子が書き添えてある。

 

「いいんですか?」

 

「読んだから医者になった気になるな」

 

「……はい」

 

 レイニャが理央の手元をのぞき込む。

 

「今日はいっぱい増えたニャ」

 

「スキルもですけど」

 

 理央は手帳を胸元へ抱えた。

 

「こっちの方が大事かもしれません」

 

「良い判断だ」

 

 真壁が頷く。

 

「知識は、持っているだけでは役に立たん」

 

「整理して、使える形にしたまえ」

 

「はい」

 

 理央は自分のノートの、濡れた袖について書いたページを開いた。

 

 匂いと鑑定結果の下へ、上着を外してから魔法を使ったことを書き足す。

 

 その隣には、解毒のあとも呼吸と意識を確かめたことを残した。

 

 書き切れない分は、帰ってから続きを整理しよう。

 

 理央はハリルの手帳をノートと重ね、紙の端が折れないよう鞄へしまった。

 

 

 

 治療院を出る前に、理央は寝台と窓際へ挨拶をした。

 

 ポルの飼い主が手を上げ、最初に運び込まれた男も、枕に頭を預けたまま礼を言った。

 

 椅子で休んでいた女性は、息子と話しながらこちらを見ている。

 

 朝はそれぞれの異常を読むだけで精いっぱいだった。

 

 今は、表示の変化と一緒に、その人が何をできるようになったかにも目が向く。

 

 理央の視界に、技能の表示が浮かんだ。

 

----------------------------------

スキル上昇

 解毒:1 → 2

 白魔法:1 → 2

 治癒:1 → 2

 医術:1 → 2

----------------------------------

 

 理央は表示を確かめてから、寝台の男へ目を戻した。

 

 片腕に残る擦り傷はまだ消えていなかったが、器を持つ手は朝より落ち着いていた。

 

「上がったニャ?」

 

「……上がりました」

 

 ハリルは、理央が見ているものを知らないまま尋ねた。

 

「何が変わった」

 

 理央は少し考えてから答える。

 

「前より、どこを見ればいいか分かります」

 

「なら、少しは身になったな」

 

 ハリルの言葉に、理央は頷いた。

 

 レイニャが戸を開けると、石畳に昼の光が広がった。

 

 外へ出た理央は、鞄の中の手帳を上からそっと押さえた。

 

 真壁が歩き出す前に、治療院の方へもう一度振り返る。

 

 窓の向こうでは、ハリルが女性の手首に指を当て直していた。

 

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