新事業所の共用机には、山の絵が3つ並んでいた。
正確には、同じ山を描き直した絵が3枚だ。
理央は真ん中の紙を手前へ引き、窓から入る朝の光にかざした。
猫の耳に似た双峰の下へ村があり、その北に川が流れる。
昨日、飛行船で書いたものより線は増えたが、《世界地図》のどこへ置けばいいかは、まだ決まらなかった。
「だめです。候補がまだ何ヶ所もあります」
向かいでレイニャが首を傾けた。
「道はこれニャ」
「それは分かるんですけど……」
レイニャも《地図》を開いている。
Lv6の地図には、村から歩いた道も、途中の川も残っているという。
ただ、その表示は理央には見えなかった。
理央に見える《世界地図》も、レイニャへそのまま渡せない。
2人とも見えているのに、机の上には絵が3枚ある。
「ここが川ニャ」
レイニャが一番右の紙を指す。
「どっちが北です?」
「……こっちだったと思うニャ」
紙を回したので、川が左から上へ移った。
「今、山も回りました」
「山は動かないニャ。紙が回ったニャ」
「はい。そこはそうなんですけど」
理央は紙を元へ戻し、それから元の向きがどちらだったか分からなくなった。
澪が机の端に置いた鞄から顔を上げる。
「昨日の話、少し聞かせてもらっていいですか?」
理央はペンを置き、フェルナ村のことを話した。
海が見える山、北の川、東へ歩いて2日ほどの町。
帰りたいのに、一度帰るとまた出にくくなること。
レイニャも頷き、故郷の方角を指した。
「セレヴィアの、もっと西ニャ」
「セレヴィア王国なんですね。リヴェルナと同じ国?」
「そうニャ。同じ大きな島ニャ」
理央は《世界地図》を西へ広げ、リヴェルナのある島を捉え直した。
昨日は西方の海運圏を広く見ていたが、これで探す範囲は狭くなる。
それでも島の西部には、幾つも谷が刻まれていた。
紙の上の川を1本に決めるには、まだ足りない。
「レイニャさんの地図には、村も見えるんですよね?」
澪の問いに、レイニャは頷いた。
「帰る道も分かるニャ。でも、理央の見てる山のどれかって言われると、分からないニャ」
「村を出てからの道を、全部一緒の大きさで描けます?」
「全部ニャ?」
レイニャは紙を見て、机の空いているところを見た。
「足りないニャ」
理央が引き出しへ手を伸ばす前に、澪が口を開いた。
「場所を当てるんじゃなくて、レイニャさんが来た道を戻ったらどうですか?」
紙を押さえていた理央の手が止まる。
「来た道……」
「村の場所は私たちに分からなくても、途中には、同じ場所だって分かるところがあると思うんです」
真壁は机へ寄り、山の絵の隣に置かれたノートを見た。
「最後に双方が位置を確定できる場所から、逆に辿ればよい」
「リヴェルナですか」
「そうだ」
理央は紙の端に、王都の名を書いた。
初めてレイニャの演奏を聞いた港の景色が浮かぶ。
あそこなら自分も知っている。
「どこから来たか、そこからなら教えられます?」
「船を降りたところから戻るニャ?」
「はい」
レイニャの耳が前を向いた。
「それなら、行ってみるニャ」
理央は手元の2枚を重ね、折らずにノートへ挟んだ。
紙を何枚増やすか考えるより先に、歩く道ができた。
澪が鞄を持ち、真壁は4人の顔を見回す。
「準備を済ませたら出よう。道は、現地で合わせる」
レイニャは椅子を引き、手琴を背へ回した。
理央も立ち上がってから、机の一番端に残った山の絵を取りに戻った。
それを見て、レイニャが小さく喉を鳴らした。
「山を忘れてたニャ」
「紙です。山は動かないんですよね」
理央は事業所側の空いた場所から、リヴェルナで以前通った人の少ない場所へ《関門接続》を開いた。
扉を抜けると、潮を含んだ風が頬へ当たる。
建物の間から帆柱が何本も見え、その向こうで船荷を呼ぶ声がしていた。
レイニャが続き、澪と真壁もこちらへ出た。
4人が通路を塞がないところまで進んでから、理央は港へ顔を向ける。
初めて来た時は、見えるものを片端から眺めていた。
今日は同じ景色の中から、レイニャの降りた船着場を探さなくてはならない。
「どこから降りました?」
「どこから降りたかは……港へ行くニャ」
レイニャは《地図》へ目を向け、通りの先を指した。
理央にはただ建物が並んで見えるが、その間を抜ければ海へ出るらしい。
通りへ入ると、干した布の下を荷車が通った。
真壁が先に道を譲り、理央たちも軒へ寄る。
荷車が過ぎるのを待つ間、レイニャが鼻を動かした。
「こっちニャ」
「地図ですか?」
「道はそうニャ。港の方の匂いもするニャ」
理央も息を吸ってみたが、魚と潮の匂いは、さっきからしていた。
違いを聞こうとした時、レイニャはもう角の先を見ている。
ついていくと建物が途切れ、船腹の並ぶ水面が広がった。
縄を巻いた杭の間を港の人々が往来し、船から下ろされた袋が、肩へ担ぎ上げられていく。
レイニャは一度立ち止まり、並んだ帆柱から埠頭の石へ目を移した。
どの船に乗ったかまで《地図》に残るわけではないのだろう。
それでも足元を見ているうちに、顔が西側へ向いた。
「こっちだったニャ」
理央はその横を歩いた。
大きな船の荷役を避けた先には、行き先を書いた札が掛かっている。
レイニャの足が、札の前で止まった。
「ノルヴァニャ!」
澪も札へ目を上げる。
「そこから乗ってきたんですか?」
「そうニャ。ノルヴァ港から、沿岸の船で来たニャ」
理央はノートに港名を写し、《世界地図》を開いた。
島の西岸へ目を移すと、港と、そこへ集まる道を照らし合わせられる。
フェルナ村の名では選べなかった1点が、今度はレイニャの指す船の行き先と重なった。
「分かりました。ここから西岸へ戻れます」
「今、船に乗るニャ?」
「扉です」
レイニャが行き先の札と理央を見比べた。
「船着場で船の行き先を聞いて、船には乗らないニャ」
「乗るのは、また今度にしましょう」
澪が笑い、荷を担いで来た人のために脇へ寄った。
真壁は埠頭を外れる道へ顎を向ける。
「ここで開く必要はない。人の通らんところへ移ろう」
理央はノートを閉じ、来た通りへ戻った。
港へ向かう時よりも、レイニャの歩調が揃っていた。
ノルヴァへ開いた扉の向こうでは、街道脇の草が風に押されていた。
理央は人や荷車がいないことを確かめ、先に足を踏み出す。
土を踏んだ途端、鞄が身体へ押しつけられた。
リヴェルナの通りで受けたものより強い風だった。
レイニャが後から出て、両手でマントを押さえる。
手琴の紐まで直してから、鼻を動かした。
「ここニャ」
理央は港の方を見た。
低い屋根の先に、黒っぽい石の防波堤が延びている。
波が当たるたび、石の上で白く崩れた。
港へ下りる道沿いには、石壁の倉庫が続いていた。
傾斜の強い屋根から落ちる影の下に、巻いた縄や船具が置かれ、扉を開けた倉庫から木材を運ぶ人が出てくる。
理央が道の内側へ寄ると、潮の匂いに干物と油の匂いが混じった。
「匂い、違いますね」
「こっちの方が分かるニャ」
レイニャは前を向いたまま答えた。
「魚の匂いですか?」
「それだけじゃないニャ。縄とか、船に塗るのとかニャ」
倉庫脇では、桶を置いた人が船具の手入れをしていた。
近づくにつれて、油とも樹脂ともつかない匂いが濃くなる。
理央はさっきの港を思い返した。
あちらは店の食べ物まで、潮に混じっていた。
ここでは海の仕事に使うものが、そのまま道沿いに並んでいる。
「船に乗るまで、ここで待ってたニャ」
レイニャが倉庫の切れ目を指す。
家へ帰る道を探しているのに、船を待った場所の話が先に出る。
理央はその指の先を見てから、振り返ったレイニャへ尋ねた。
「港まで、歩いて来たんですか?」
「エルナドからは、荷車に乗せてもらったニャ」
「エルナド」
昨日は「東へ2日の町」だった場所に、ようやく名がついた。
「村から行く、大きな町ですね?」
「そうニャ。港からは内陸へ戻るニャ」
レイニャが《地図》を見ながら、陸側の道を指した。
理央も《世界地図》の港から内陸へ伸びる街道を追う。
約30km先の町へつながる線と、レイニャの示した向きを見比べ、ノートに道を描き足した。
「こっちで合ってます?」
「合ってるニャ」
今度は紙を回さずに返事が来た。
澪がノートをのぞき、港のある方と町のある方を見た。
「1つずつなら、合わせられますね」
「そのために戻ってきたのだ」
真壁は街道を行く荷車が過ぎるのを待ち、道から外れたところを指した。
理央たちは歩いてそちらへ移った。
レイニャは立ち止まってから、もう一度防波堤を見た。
「前は、この風を背中に受けて行ったニャ」
今は同じ風がマントの裾を前へ押している。
理央はレイニャが振り向くのを待ってから、次の扉を開いた。
エルナドの外れへ出ると、強い風はなくなった。
町へ入る道の両側に牧草地が広がり、その先には木々がまとまって生えている。
歩くうちに川の音が聞こえ、石橋の向こうへ市場の屋根が見えてきた。
レイニャの足が速くなる。
「この橋ニャ」
石の欄干へ手を置いて、水面をのぞいた。
理央も隣へ寄ると、川風は冷たかったが、港で感じた油の匂いはしない。
橋の向こうでは、籠を持った人たちが店先へ集まっていた。
蜂蜜の瓶を光へ透かしている客の横を、毛織物の束を抱えた男が通る。
薬草の包みを積んだ台の近くには木の器が並び、別の店には塩や干した魚があった。
レイニャは橋を渡り切ってから、通りの奥へ目を向けた。
「ここには、村の人も買いに来るニャ。売るものを持ってくる時もあるニャ」
「レイニャさんも?」
「何度も来たニャ」
昨日聞いた故郷の話より、返事が早い。
石橋の上では、ノートへ描くより先に手が動いていた。
理央はその姿を見ながら、紙の上の川を見直した。
「村の北の川は、名前があります?」
「サーヴァ川ニャ」
理央はサーヴァの名を村の北へ書き足した。
港、町、川と名前は増えていくが、それだけで村へ扉を開けるわけではなかった。
真壁が紙へ目を落とす。
「その川を目にした時に、地図と合わせたまえ」
「はい。まだ、こっちの地図では決められないです」
「紙なら、もう村まで行けそうニャ」
「紙だけ先に着いても、困ります」
理央の返事に、澪が小さく笑った。
4人は荷車を避けて市場の端を通り、町の西側へ向かった。
店の呼び声が遠のくと、街道へ出る人の靴音がよく聞こえる。
先で道が分かれていた。
幅のある道の脇から別の道が延び、少し離れた場所にも山へ向かう入口がある。
「ここから西ニャ」
レイニャが言うと、理央は3つの道を見た。
「……西が3本あります」
「道の方ニャ」
「その道が3本です」
レイニャは《地図》を見てから、右手の入口へ近づいた。
その先を眺め、中央の道へ戻ってくる。
「途中で、川のそばを通るニャ。橋もあるニャ」
理央は《世界地図》の町周辺を詳しく捉えた。
道と川は見えている。
けれどレイニャの見ている曲がり方を、どの線へ重ねるかはまだ迷った。
「少し進んで、分かるものを探しましょうか」
澪が道の幅を見て言った。
「4人ですし、エアカーで行けます」
「飛ぶニャ?」
「今日は走ります。道を見たいので」
レイニャの耳が澪へ向いた。
「飛べるのに、飛ばない旅ニャ」
「船にも乗らなかったですしね」
理央はノートを閉じた。
何に乗るかより、何を見ながら進むかが大切になる旅は、初めてだった。
澪は町を出る荷車が過ぎるのを待ち、道脇の広いところへ4座の空陸エアカーを出した。
レイニャには隣の席へ座ってもらう。
後ろへ理央と真壁が乗ると、空いている席はなくなった。
「レイニャさん、曲がるところは、少し早めに教えてください」
「分かったニャ」
「通り過ぎてから戻ることになっても、慌てなくていいですから」
澪は前を見て、ゆっくり発進した。
飛ぶ時なら離れていく足元が、今日は窓のすぐ下に続いている。
道の端の草が伸び、路面には荷車が通った跡があった。
前の分岐が近づくと、隣でレイニャが顔を寄せた。
「こっちじゃないニャ」
澪は速度を落とした。
「どっちです?」
「左じゃないニャ」
「はい。左じゃないんですね」
ここで急いで右を選ぶと、次には右も違うと言われるかもしれない。
澪は分岐の手前で停まり、レイニャが道と《地図》を見比べるのを待った。
「真ん中ニャ。この先で、道が曲がるニャ」
「理央ちゃん、そっちはどう?」
後ろで紙の擦れる音がした。
「あります。川の方へ曲がって、その先に橋です」
「そこニャ」
澪は中央の道へ入った。
前を歩く人が振り向いたので、十分に間を空けて進む。
道を譲ってもらうと、澪は頭を下げ、埃を上げない速さで横を通った。
町の屋根が木々に隠れた頃、理央が言ったとおりに道が曲がった。
橋はその先にあった。
欄干の石は市場町の橋ほど大きくなく、路面の端には湿った土が残っている。
「この橋、通ったニャ」
レイニャが窓からのぞき込む。
澪は橋の手前で幅を見て、向こうから誰も来ないことを確かめた。
低い水音を聞きながら渡ると、隣の耳がまた前を向く。
「橋のあと、もう一回曲がるニャ」
「それもあります。今の橋で合いました」
理央の声が少し弾んだ。
後ろからノートが差し出され、澪は停まってから目を落とす。
橋の印に丸がつき、そこから先の道だけが描き直されていた。
「ここまでは、2人とも同じところを見てるんですね」
「はい。ここから先も、こうやって合わせます」
真壁が窓の外へ目を向けた。
「次の目印を聞きたまえ」
「橋の先は、何があります?」
澪が尋ねると、レイニャは道の上へ視線を走らせた。
「ここに、大きな木が……もう少し先ニャ」
出発すると、木々の切れ目に太い幹が現れた。
片側だけ枝が道の上へ伸び、根元の土は踏まれている。
「これニャ!」
レイニャの声につられ、澪も枝を見上げそうになった。
前へ目を戻してから道脇へ寄せる。
「ここで休んだニャ。村から来た時、ここまで来たら町はもうすぐニャ」
レイニャが指す根元には、旅人が腰を下ろせそうな場所があった。
澪には1本の大きな木だが、隣の声を聞くと、荷を置いて足を休める景色になる。
「帰る方だと、ここからが長いんですね」
「そうニャ」
レイニャは先の道を眺めた。
朝から続いていた地図の相談が、少しずつ昔歩いた道の話へ変わっていく。
澪は理央が位置を合わせるのを待ち、車を進めた。
しばらくすると、道の端へ苔のついた石が増えた。
窓へ入る空気も冷え、木々の間を細い水が横切っている。
レイニャは《地図》を見る時間より、外を眺める時間が長くなった。
「この曲がり方、覚えてるニャ」
澪は言われた方へハンドルを切り、幹と車体の間を見た。
道はさらに狭くなる。
次の曲がり角の向こうには、岩と張り出した根があった。
「この先も、この幅ですか?」
「もっと狭いところもあるニャ。歩いて通る道ニャ」
澪は車を停めた。
「じゃあ、ここから歩きましょう」
「飛べば行けるニャ?」
「行けると思います。でも、この先の道も見ておきたいです」
レイニャは木々の向こうを見て、それから頷いた。
「帰り道ニャ。ちゃんと見るニャ」
4人が降りると、澪は人が離れたことを確かめてエアカーを収納した。
靄が消えた場所に、踏み固められた道が戻ってくる。
レイニャが先に歩き出した。
車から見ていた道を、澪も自分の足で辿った。
車を降りてから、理央は最初の数歩だけ足元をよく見た。
靴底へ土の柔らかさが返り、枝を踏むと、乾いたところだけが小さく折れる。
道路を眺めるのと、そこを歩くのは違った。
苔のついた石を避けたつもりが、隣の根にも苔があって、理央は足の置き場を選び直す。
「そこ、端より真ん中ニャ」
先を歩いていたレイニャが振り返った。
理央は教えられた場所へ靴を下ろす。
澪も後ろで歩調を緩め、真壁は全員が進んでから続いた。
道の上に葉の影が重なり、木々の向こうで水が鳴っていた。
広い葉をつけた木に針葉樹が混じるようになると、空の見える隙間も狭くなる。
理央は襟元を寄せ、息を吸った。
冷たく湿った空気には、港の潮よりも土と葉の匂いが濃い。
「村の方も、雨が多いんですか?」
「雨も霧も多いニャ。木の下でも濡れるニャ」
レイニャは垂れた枝を避け、後ろの3人へ手を上げた。
その枝先から水滴が落ち、理央の袖へつく。
避けたあとで、手を上げてくれた理由が分かった。
「冬は、雪も降るニャ」
「村まで来るの、大変ですね」
「山を越えられない時もあるニャ。だから、食べるものをしまっておくニャ」
言いながら、レイニャの目が道脇の草へ向く。
理央もその先を見たが、葉の形を幾つも眺めるだけになった。
村の手当役や薬草師なら、ここで違うものが見えるのだろう。
採れるものがあっても、雪の時期にはどうしているのか。
聞きたいことが浮かんだが、理央は鞄からノートを出さなかった。
今は歩く方へ目を戻した。
細い流れを跨ぐと、レイニャが足を止めた。
「ここも覚えてるニャ」
水の落ちる石の横を、指先で示す。
理央は《世界地図》を開き、道と斜面、小川の位置を照らし合わせた。
エルナドから続く線の途中に、今立っている曲がり角を捉えられる。
「合ってます。この先、少し上がりますね」
「上がるニャ」
レイニャは返事をして、また歩き出した。
港では1つ見つけるたびに、こちらへ顔を向けていた。
今は、自分で見つけたものを確かめるように短く言うだけだ。
坂を上る間、手琴の紐へ添えていた手が、時々握り直される。
理央はその横顔を見て、村で最初に誰へ会いたいのか尋ねようとした。
けれど、レイニャが一度立ち止まり、木々の先へ耳を向けたので、言葉を待つことにした。
「もう少しニャ」
澪が水を出し、4人は道を空けたところで短く休んだ。
レイニャは受け取った水を飲み、すぐ先を見た。
理央は器を返しながら、その目線を追う。
木の間にはまだ家も屋根も見えない。
それでもレイニャには、さっきの坂から先が、もう別の道になっているようだった。
歩き始めると、枝の隙間へ空の明るさが戻ってきた。
風が木々の上を渡り、葉の音が頭上から尾根の向こうへ続いていく。
理央は息を整えてから、最後の上りへ足をかけた。
尾根を越えると、木々の間に隠れていた空が広がった。
理央は足を止め、少し遅れて顔を上げた。
向こうに2つの峰が並んでいる。
片方の裾へ薄い霧がかかっていたが、尖った頂は両方とも見えた。
昨日のノートに描かれた線よりずっと大きい。
隣に立ったレイニャの耳が、まっすぐ前を向く。
「あれニャ」
指さされた山と、その頭の耳を、理央はつい見比べた。
「ほんとに、耳ですね」
「ミュレの山ニャ。2つ並んでるニャ」
理央は鞄からノートを出した。
ミュレ双峰、と昨日の絵の下へ書き、あらためて《世界地図》を見る。
エルナドから辿ってきた道は、今いる尾根の手前までつながっている。
その先の斜面と、目の前の双峰を重ねた。
「村は、どの辺ですか?」
「あの下ニャ」
レイニャの指が山腹へ下がる。
木々の切れ目に、幾つか屋根が見えた。
背の高い木に隠れたものまで眺めると、道を挟んで家が続いている。
理央はその集落へ意識を向けた。
名札のように「フェルナ村」と出るわけではない。
けれど屋根のある斜面の北には、大きな川が流れていた。
「北の川、あれですか?」
「サーヴァ川ニャ」
南西へ目を向けると、山の向こうに光る帯が見えた。
雲の切れ目から日を受けた海だった。
海の見える山、北の川、東へ続く町への道。
理央はノートの印を1つずつ見たあと、《世界地図》へ目を戻した。
残っていた候補を選ぶ必要は、もうなかった。
自分が辿った道の先に、屋根が見える。
「……見つけました」
声に出すと、レイニャがこちらを見た。
「フェルナ村ニャ」
理央は頷き、今度は地図を閉じて集落を眺めた。
昨日は「50くらいの家」と聞いても、数としてしか受け取れなかった。
今はその屋根の下に、レイニャの父や母、きょうだいがいる。
澪が隣へ来て、家々の並ぶ斜面を見た。
「日が当たる方にあるんですね」
「晴れたら、海が見えるニャ」
レイニャは答え、山腹を見たまま鼻を動かした。
尾根の上では、まだ家の匂いまで分からないのかもしれない。
真壁は道の先へ目を向けた。
「降りよう。村の入口まで辿ってから、扉を試す」
「はい」
理央はノートをしまい、最初の1歩を下りた。
レイニャがすぐ横を通り、坂の曲がる方へ進む。
その先には、地図の印になったばかりの村が、もう肉眼で見えていた。
村へ続く道のそばに、小さな草地があった。
荷車が通る場所より少し外れ、草の向こうへ石と土の境目が見えている。
レイニャはそこへ足を入れ、道までの距離を見た。
「ここなら、村の人の邪魔にならないニャ」
理央も草地へ出た。
背を向けた先に道があり、正面には斜面を上がる家々がある。
木々の切れ目からミュレ双峰を見て、《世界地図》でも今立つ場所を捉えた。
次に狙う時は、村の辺りというだけでなく、この草地を思い浮かべる。
理央は石の位置と道の向きを見直してから、澪へ顔を向けた。
「じゃあ、試します」
「事業所へ、ですね」
「はい。今朝、出た方へ」
真壁が道側に立ち、近づいてくる人がいないことを見た。
レイニャは理央の脇から、草地の中央へ目を向ける。
「《関門接続》」
靄が集まり、扉の形へ立ち上がった。
開いた先には、事業所側の見慣れた安全な場所がある。
山の湿った空気の中へ、朝に出てきた場所の光が差した。
レイニャが鼻先を寄せかけ、そこで止まる。
「あっちニャ」
声は短かった。
「私が一度、向こうへ出てみますね」
澪は足元と扉の幅を確かめ、くぐった。
向こう側へ靴がつき、こちらへ振り返る。
理央は澪の背後にも人がいないことを見てから、顔へ目を戻した。
「どうですか?」
「戻ってこられました」
澪は向こうから歩き、再び草地へ足を下ろした。
レイニャがその靴を見た。
山道でついた土はそのままで、澪だけが遠い侯爵領へ行って帰ってきた。
「……本当に、帰ってもまた出られるニャ」
理央は頷いた。
「今度は、ここを狙って開けます」
「村からでも、また開けるニャ?」
「はい。今の扉は時間が来たら消えますけど、必要な時に同じところへ開け直せます」
レイニャは道へ目を向け、草地へ戻した。
村の人が通るところを塞いでいないか、もう一度見たようだった。
理央は扉から離れ、全員がこちら側にいることを確かめて待った。
しばらくすると、向こうの光景が閉じ、扉は靄とともに消えた。
そのあとに残ったのは、さっきと同じ草地だった。
レイニャが草へ足を置く。
「ないニャ」
「必要な時に、また開きます」
理央も隣へ立った。
今は村から侯爵領へ試したが、侯爵領からここを選ぶ時にも、もう山の形だけで迷わずに済む。
「理央」
呼ばれて顔を向けると、レイニャは何か言おうとしていた。
けれど言葉より先に、村の方から木を打つ音が聞こえた。
耳がそちらへ向く。
「……行くニャ」
「はい」
理央は先へ出ず、レイニャが草地を離れるのを待った。
草地を離れて村の道へ入ると、屋根が木々の上だけでなく、目の高さにも見えるようになった。
石を積んだ基礎の上に木の壁があり、深い軒の下へ束ねた草が吊られている。
理央はそれを見上げ、薬草なのか食べるものなのか尋ねかけた。
けれど隣のレイニャは、別の家の屋根を見ていた。
煙突から薄い煙が上がり、風に押されて山の方へ流れる。
木を切る音が、その下から聞こえた。
少し離れたところでは山羊の鈴が鳴り、子どもの声が追いかけるように響く。
レイニャの歩幅が小さくなった。
坂を下りる時まで前にいたのに、今は理央と並んでいる。
急げばすぐ着く、と言いかける必要もなかった。
レイニャは道を知っている。
あの先に誰がいるかも知っている。
理央は歩調を合わせ、鞄が膝へ当たらないよう持ち直した。
後ろから澪たちの足音が続いている。
4人分の足音の間に、家の中から器を置く音がした。
「軒の下、いっぱい吊ってますね」
理央は目の前にあるものの話をした。
「雨が当たらないニャ。食べるものも、草も吊るすニャ」
レイニャの目が、1つの束に留まる。
「家でも、ああやってたニャ」
理央は頷いた。
荷物に入れる保存食と、軒下へしまう保存食は、同じものかもしれない。
それでも、旅の荷の話をする時とは声が違っていた。
曲がり角の先で、小さな桶を抱えた子が道へ出てきた。
理央たちを見て、脇へ寄ろうとする。
その途中で足が止まった。
視線がレイニャへ向き、桶を抱えた腕が動かなくなる。
レイニャも止まった。
理央には村の子の1人に見えたが、隣では尻尾の先まで動かなくなっていた。
「……メル?」
レイニャが名前を呼ぶ。
相手は返事より先に、耳をこちらへ向けた。
「レイニャ姉ちゃん?」
桶の縁から片手が離れ、すぐ抱え直される。
理央はレイニャの顔を見た。
思っていたより背が伸びていたのだろうか。
見つめていた目がようやく細くなり、伏せかけた耳が、また立った。
「大きくなったニャ」
メルが桶を道端へ置いた。
その音がすると、レイニャの手が手琴の紐から離れた。
理央は半歩下がる。
澪も隣へ並ばず、後ろで足を止めていた。
真壁は道を通る人のために、端へ寄っている。
メルは桶を置いた場所から、1歩だけこちらへ来た。
山羊の鈴がまた鳴ったが、レイニャの耳はもうそちらへ向かなかった。
故郷の山を見つけた時よりも長く、妹の顔を見ていた。
理央は鞄の持ち手を緩めた。
地図も、山の絵も、今は出さなくてよかった。
レイニャはメルへ両手を伸ばした。
「ただいまニャ」