押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第389話 帰り道は覚えてるニャ

 

 

 新事業所の共用机には、山の絵が3つ並んでいた。

 

 正確には、同じ山を描き直した絵が3枚だ。

 

 理央は真ん中の紙を手前へ引き、窓から入る朝の光にかざした。

 

 猫の耳に似た双峰の下へ村があり、その北に川が流れる。

 

 昨日、飛行船で書いたものより線は増えたが、《世界地図》のどこへ置けばいいかは、まだ決まらなかった。

 

「だめです。候補がまだ何ヶ所もあります」

 

 向かいでレイニャが首を傾けた。

 

「道はこれニャ」

 

「それは分かるんですけど……」

 

 レイニャも《地図》を開いている。

 

 Lv6の地図には、村から歩いた道も、途中の川も残っているという。

 

 ただ、その表示は理央には見えなかった。

 

 理央に見える《世界地図》も、レイニャへそのまま渡せない。

 

 2人とも見えているのに、机の上には絵が3枚ある。

 

「ここが川ニャ」

 

 レイニャが一番右の紙を指す。

 

「どっちが北です?」

 

「……こっちだったと思うニャ」

 

 紙を回したので、川が左から上へ移った。

 

「今、山も回りました」

 

「山は動かないニャ。紙が回ったニャ」

 

「はい。そこはそうなんですけど」

 

 理央は紙を元へ戻し、それから元の向きがどちらだったか分からなくなった。

 

 澪が机の端に置いた鞄から顔を上げる。

 

「昨日の話、少し聞かせてもらっていいですか?」

 

 理央はペンを置き、フェルナ村のことを話した。

 

 海が見える山、北の川、東へ歩いて2日ほどの町。

 

 帰りたいのに、一度帰るとまた出にくくなること。

 

 レイニャも頷き、故郷の方角を指した。

 

「セレヴィアの、もっと西ニャ」

 

「セレヴィア王国なんですね。リヴェルナと同じ国?」

 

「そうニャ。同じ大きな島ニャ」

 

 理央は《世界地図》を西へ広げ、リヴェルナのある島を捉え直した。

 

 昨日は西方の海運圏を広く見ていたが、これで探す範囲は狭くなる。

 

 それでも島の西部には、幾つも谷が刻まれていた。

 

 紙の上の川を1本に決めるには、まだ足りない。

 

「レイニャさんの地図には、村も見えるんですよね?」

 

 澪の問いに、レイニャは頷いた。

 

「帰る道も分かるニャ。でも、理央の見てる山のどれかって言われると、分からないニャ」

 

「村を出てからの道を、全部一緒の大きさで描けます?」

 

「全部ニャ?」

 

 レイニャは紙を見て、机の空いているところを見た。

 

「足りないニャ」

 

 理央が引き出しへ手を伸ばす前に、澪が口を開いた。

 

「場所を当てるんじゃなくて、レイニャさんが来た道を戻ったらどうですか?」

 

 紙を押さえていた理央の手が止まる。

 

「来た道……」

 

「村の場所は私たちに分からなくても、途中には、同じ場所だって分かるところがあると思うんです」

 

 真壁は机へ寄り、山の絵の隣に置かれたノートを見た。

 

「最後に双方が位置を確定できる場所から、逆に辿ればよい」

 

「リヴェルナですか」

 

「そうだ」

 

 理央は紙の端に、王都の名を書いた。

 

 初めてレイニャの演奏を聞いた港の景色が浮かぶ。

 

 あそこなら自分も知っている。

 

「どこから来たか、そこからなら教えられます?」

 

「船を降りたところから戻るニャ?」

 

「はい」

 

 レイニャの耳が前を向いた。

 

「それなら、行ってみるニャ」

 

 理央は手元の2枚を重ね、折らずにノートへ挟んだ。

 

 紙を何枚増やすか考えるより先に、歩く道ができた。

 

 澪が鞄を持ち、真壁は4人の顔を見回す。

 

「準備を済ませたら出よう。道は、現地で合わせる」

 

 レイニャは椅子を引き、手琴を背へ回した。

 

 理央も立ち上がってから、机の一番端に残った山の絵を取りに戻った。

 

 それを見て、レイニャが小さく喉を鳴らした。

 

「山を忘れてたニャ」

 

「紙です。山は動かないんですよね」

 

 

 

 理央は事業所側の空いた場所から、リヴェルナで以前通った人の少ない場所へ《関門接続》を開いた。

 

 扉を抜けると、潮を含んだ風が頬へ当たる。

 

 建物の間から帆柱が何本も見え、その向こうで船荷を呼ぶ声がしていた。

 

 レイニャが続き、澪と真壁もこちらへ出た。

 

 4人が通路を塞がないところまで進んでから、理央は港へ顔を向ける。

 

 初めて来た時は、見えるものを片端から眺めていた。

 

 今日は同じ景色の中から、レイニャの降りた船着場を探さなくてはならない。

 

「どこから降りました?」

 

「どこから降りたかは……港へ行くニャ」

 

 レイニャは《地図》へ目を向け、通りの先を指した。

 

 理央にはただ建物が並んで見えるが、その間を抜ければ海へ出るらしい。

 

 通りへ入ると、干した布の下を荷車が通った。

 

 真壁が先に道を譲り、理央たちも軒へ寄る。

 

 荷車が過ぎるのを待つ間、レイニャが鼻を動かした。

 

「こっちニャ」

 

「地図ですか?」

 

「道はそうニャ。港の方の匂いもするニャ」

 

 理央も息を吸ってみたが、魚と潮の匂いは、さっきからしていた。

 

 違いを聞こうとした時、レイニャはもう角の先を見ている。

 

 ついていくと建物が途切れ、船腹の並ぶ水面が広がった。

 

 縄を巻いた杭の間を港の人々が往来し、船から下ろされた袋が、肩へ担ぎ上げられていく。

 

 レイニャは一度立ち止まり、並んだ帆柱から埠頭の石へ目を移した。

 

 どの船に乗ったかまで《地図》に残るわけではないのだろう。

 

 それでも足元を見ているうちに、顔が西側へ向いた。

 

「こっちだったニャ」

 

 理央はその横を歩いた。

 

 大きな船の荷役を避けた先には、行き先を書いた札が掛かっている。

 

 レイニャの足が、札の前で止まった。

 

「ノルヴァニャ!」

 

 澪も札へ目を上げる。

 

「そこから乗ってきたんですか?」

 

「そうニャ。ノルヴァ港から、沿岸の船で来たニャ」

 

 理央はノートに港名を写し、《世界地図》を開いた。

 

 島の西岸へ目を移すと、港と、そこへ集まる道を照らし合わせられる。

 

 フェルナ村の名では選べなかった1点が、今度はレイニャの指す船の行き先と重なった。

 

「分かりました。ここから西岸へ戻れます」

 

「今、船に乗るニャ?」

 

「扉です」

 

 レイニャが行き先の札と理央を見比べた。

 

「船着場で船の行き先を聞いて、船には乗らないニャ」

 

「乗るのは、また今度にしましょう」

 

 澪が笑い、荷を担いで来た人のために脇へ寄った。

 

 真壁は埠頭を外れる道へ顎を向ける。

 

「ここで開く必要はない。人の通らんところへ移ろう」

 

 理央はノートを閉じ、来た通りへ戻った。

 

 港へ向かう時よりも、レイニャの歩調が揃っていた。

 

 

 

 ノルヴァへ開いた扉の向こうでは、街道脇の草が風に押されていた。

 

 理央は人や荷車がいないことを確かめ、先に足を踏み出す。

 

 土を踏んだ途端、鞄が身体へ押しつけられた。

 

 リヴェルナの通りで受けたものより強い風だった。

 

 レイニャが後から出て、両手でマントを押さえる。

 

 手琴の紐まで直してから、鼻を動かした。

 

「ここニャ」

 

 理央は港の方を見た。

 

 低い屋根の先に、黒っぽい石の防波堤が延びている。

 

 波が当たるたび、石の上で白く崩れた。

 

 港へ下りる道沿いには、石壁の倉庫が続いていた。

 

 傾斜の強い屋根から落ちる影の下に、巻いた縄や船具が置かれ、扉を開けた倉庫から木材を運ぶ人が出てくる。

 

 理央が道の内側へ寄ると、潮の匂いに干物と油の匂いが混じった。

 

「匂い、違いますね」

 

「こっちの方が分かるニャ」

 

 レイニャは前を向いたまま答えた。

 

「魚の匂いですか?」

 

「それだけじゃないニャ。縄とか、船に塗るのとかニャ」

 

 倉庫脇では、桶を置いた人が船具の手入れをしていた。

 

 近づくにつれて、油とも樹脂ともつかない匂いが濃くなる。

 

 理央はさっきの港を思い返した。

 

 あちらは店の食べ物まで、潮に混じっていた。

 

 ここでは海の仕事に使うものが、そのまま道沿いに並んでいる。

 

「船に乗るまで、ここで待ってたニャ」

 

 レイニャが倉庫の切れ目を指す。

 

 家へ帰る道を探しているのに、船を待った場所の話が先に出る。

 

 理央はその指の先を見てから、振り返ったレイニャへ尋ねた。

 

「港まで、歩いて来たんですか?」

 

「エルナドからは、荷車に乗せてもらったニャ」

 

「エルナド」

 

 昨日は「東へ2日の町」だった場所に、ようやく名がついた。

 

「村から行く、大きな町ですね?」

 

「そうニャ。港からは内陸へ戻るニャ」

 

 レイニャが《地図》を見ながら、陸側の道を指した。

 

 理央も《世界地図》の港から内陸へ伸びる街道を追う。

 

 約30km先の町へつながる線と、レイニャの示した向きを見比べ、ノートに道を描き足した。

 

「こっちで合ってます?」

 

「合ってるニャ」

 

 今度は紙を回さずに返事が来た。

 

 澪がノートをのぞき、港のある方と町のある方を見た。

 

「1つずつなら、合わせられますね」

 

「そのために戻ってきたのだ」

 

 真壁は街道を行く荷車が過ぎるのを待ち、道から外れたところを指した。

 

 理央たちは歩いてそちらへ移った。

 

 レイニャは立ち止まってから、もう一度防波堤を見た。

 

「前は、この風を背中に受けて行ったニャ」

 

 今は同じ風がマントの裾を前へ押している。

 

 理央はレイニャが振り向くのを待ってから、次の扉を開いた。

 

 

 

 エルナドの外れへ出ると、強い風はなくなった。

 

 町へ入る道の両側に牧草地が広がり、その先には木々がまとまって生えている。

 

 歩くうちに川の音が聞こえ、石橋の向こうへ市場の屋根が見えてきた。

 

 レイニャの足が速くなる。

 

「この橋ニャ」

 

 石の欄干へ手を置いて、水面をのぞいた。

 

 理央も隣へ寄ると、川風は冷たかったが、港で感じた油の匂いはしない。

 

 橋の向こうでは、籠を持った人たちが店先へ集まっていた。

 

 蜂蜜の瓶を光へ透かしている客の横を、毛織物の束を抱えた男が通る。

 

 薬草の包みを積んだ台の近くには木の器が並び、別の店には塩や干した魚があった。

 

 レイニャは橋を渡り切ってから、通りの奥へ目を向けた。

 

「ここには、村の人も買いに来るニャ。売るものを持ってくる時もあるニャ」

 

「レイニャさんも?」

 

「何度も来たニャ」

 

 昨日聞いた故郷の話より、返事が早い。

 

 石橋の上では、ノートへ描くより先に手が動いていた。

 

 理央はその姿を見ながら、紙の上の川を見直した。

 

「村の北の川は、名前があります?」

 

「サーヴァ川ニャ」

 

 理央はサーヴァの名を村の北へ書き足した。

 

 港、町、川と名前は増えていくが、それだけで村へ扉を開けるわけではなかった。

 

 真壁が紙へ目を落とす。

 

「その川を目にした時に、地図と合わせたまえ」

 

「はい。まだ、こっちの地図では決められないです」

 

「紙なら、もう村まで行けそうニャ」

 

「紙だけ先に着いても、困ります」

 

 理央の返事に、澪が小さく笑った。

 

 4人は荷車を避けて市場の端を通り、町の西側へ向かった。

 

 店の呼び声が遠のくと、街道へ出る人の靴音がよく聞こえる。

 

 先で道が分かれていた。

 

 幅のある道の脇から別の道が延び、少し離れた場所にも山へ向かう入口がある。

 

「ここから西ニャ」

 

 レイニャが言うと、理央は3つの道を見た。

 

「……西が3本あります」

 

「道の方ニャ」

 

「その道が3本です」

 

 レイニャは《地図》を見てから、右手の入口へ近づいた。

 

 その先を眺め、中央の道へ戻ってくる。

 

「途中で、川のそばを通るニャ。橋もあるニャ」

 

 理央は《世界地図》の町周辺を詳しく捉えた。

 

 道と川は見えている。

 

 けれどレイニャの見ている曲がり方を、どの線へ重ねるかはまだ迷った。

 

「少し進んで、分かるものを探しましょうか」

 

 澪が道の幅を見て言った。

 

「4人ですし、エアカーで行けます」

 

「飛ぶニャ?」

 

「今日は走ります。道を見たいので」

 

 レイニャの耳が澪へ向いた。

 

「飛べるのに、飛ばない旅ニャ」

 

「船にも乗らなかったですしね」

 

 理央はノートを閉じた。

 

 何に乗るかより、何を見ながら進むかが大切になる旅は、初めてだった。

 

 

 

 澪は町を出る荷車が過ぎるのを待ち、道脇の広いところへ4座の空陸エアカーを出した。

 

 レイニャには隣の席へ座ってもらう。

 

 後ろへ理央と真壁が乗ると、空いている席はなくなった。

 

「レイニャさん、曲がるところは、少し早めに教えてください」

 

「分かったニャ」

 

「通り過ぎてから戻ることになっても、慌てなくていいですから」

 

 澪は前を見て、ゆっくり発進した。

 

 飛ぶ時なら離れていく足元が、今日は窓のすぐ下に続いている。

 

 道の端の草が伸び、路面には荷車が通った跡があった。

 

 前の分岐が近づくと、隣でレイニャが顔を寄せた。

 

「こっちじゃないニャ」

 

 澪は速度を落とした。

 

「どっちです?」

 

「左じゃないニャ」

 

「はい。左じゃないんですね」

 

 ここで急いで右を選ぶと、次には右も違うと言われるかもしれない。

 

 澪は分岐の手前で停まり、レイニャが道と《地図》を見比べるのを待った。

 

「真ん中ニャ。この先で、道が曲がるニャ」

 

「理央ちゃん、そっちはどう?」

 

 後ろで紙の擦れる音がした。

 

「あります。川の方へ曲がって、その先に橋です」

 

「そこニャ」

 

 澪は中央の道へ入った。

 

 前を歩く人が振り向いたので、十分に間を空けて進む。

 

 道を譲ってもらうと、澪は頭を下げ、埃を上げない速さで横を通った。

 

 町の屋根が木々に隠れた頃、理央が言ったとおりに道が曲がった。

 

 橋はその先にあった。

 

 欄干の石は市場町の橋ほど大きくなく、路面の端には湿った土が残っている。

 

「この橋、通ったニャ」

 

 レイニャが窓からのぞき込む。

 

 澪は橋の手前で幅を見て、向こうから誰も来ないことを確かめた。

 

 低い水音を聞きながら渡ると、隣の耳がまた前を向く。

 

「橋のあと、もう一回曲がるニャ」

 

「それもあります。今の橋で合いました」

 

 理央の声が少し弾んだ。

 

 後ろからノートが差し出され、澪は停まってから目を落とす。

 

 橋の印に丸がつき、そこから先の道だけが描き直されていた。

 

「ここまでは、2人とも同じところを見てるんですね」

 

「はい。ここから先も、こうやって合わせます」

 

 真壁が窓の外へ目を向けた。

 

「次の目印を聞きたまえ」

 

「橋の先は、何があります?」

 

 澪が尋ねると、レイニャは道の上へ視線を走らせた。

 

「ここに、大きな木が……もう少し先ニャ」

 

 出発すると、木々の切れ目に太い幹が現れた。

 

 片側だけ枝が道の上へ伸び、根元の土は踏まれている。

 

「これニャ!」

 

 レイニャの声につられ、澪も枝を見上げそうになった。

 

 前へ目を戻してから道脇へ寄せる。

 

「ここで休んだニャ。村から来た時、ここまで来たら町はもうすぐニャ」

 

 レイニャが指す根元には、旅人が腰を下ろせそうな場所があった。

 

 澪には1本の大きな木だが、隣の声を聞くと、荷を置いて足を休める景色になる。

 

「帰る方だと、ここからが長いんですね」

 

「そうニャ」

 

 レイニャは先の道を眺めた。

 

 朝から続いていた地図の相談が、少しずつ昔歩いた道の話へ変わっていく。

 

 澪は理央が位置を合わせるのを待ち、車を進めた。

 

 しばらくすると、道の端へ苔のついた石が増えた。

 

 窓へ入る空気も冷え、木々の間を細い水が横切っている。

 

 レイニャは《地図》を見る時間より、外を眺める時間が長くなった。

 

「この曲がり方、覚えてるニャ」

 

 澪は言われた方へハンドルを切り、幹と車体の間を見た。

 

 道はさらに狭くなる。

 

 次の曲がり角の向こうには、岩と張り出した根があった。

 

「この先も、この幅ですか?」

 

「もっと狭いところもあるニャ。歩いて通る道ニャ」

 

 澪は車を停めた。

 

「じゃあ、ここから歩きましょう」

 

「飛べば行けるニャ?」

 

「行けると思います。でも、この先の道も見ておきたいです」

 

 レイニャは木々の向こうを見て、それから頷いた。

 

「帰り道ニャ。ちゃんと見るニャ」

 

 4人が降りると、澪は人が離れたことを確かめてエアカーを収納した。

 

 靄が消えた場所に、踏み固められた道が戻ってくる。

 

 レイニャが先に歩き出した。

 

 車から見ていた道を、澪も自分の足で辿った。

 

 

 

 車を降りてから、理央は最初の数歩だけ足元をよく見た。

 

 靴底へ土の柔らかさが返り、枝を踏むと、乾いたところだけが小さく折れる。

 

 道路を眺めるのと、そこを歩くのは違った。

 

 苔のついた石を避けたつもりが、隣の根にも苔があって、理央は足の置き場を選び直す。

 

「そこ、端より真ん中ニャ」

 

 先を歩いていたレイニャが振り返った。

 

 理央は教えられた場所へ靴を下ろす。

 

 澪も後ろで歩調を緩め、真壁は全員が進んでから続いた。

 

 道の上に葉の影が重なり、木々の向こうで水が鳴っていた。

 

 広い葉をつけた木に針葉樹が混じるようになると、空の見える隙間も狭くなる。

 

 理央は襟元を寄せ、息を吸った。

 

 冷たく湿った空気には、港の潮よりも土と葉の匂いが濃い。

 

「村の方も、雨が多いんですか?」

 

「雨も霧も多いニャ。木の下でも濡れるニャ」

 

 レイニャは垂れた枝を避け、後ろの3人へ手を上げた。

 

 その枝先から水滴が落ち、理央の袖へつく。

 

 避けたあとで、手を上げてくれた理由が分かった。

 

「冬は、雪も降るニャ」

 

「村まで来るの、大変ですね」

 

「山を越えられない時もあるニャ。だから、食べるものをしまっておくニャ」

 

 言いながら、レイニャの目が道脇の草へ向く。

 

 理央もその先を見たが、葉の形を幾つも眺めるだけになった。

 

 村の手当役や薬草師なら、ここで違うものが見えるのだろう。

 

 採れるものがあっても、雪の時期にはどうしているのか。

 

 聞きたいことが浮かんだが、理央は鞄からノートを出さなかった。

 

 今は歩く方へ目を戻した。

 

 細い流れを跨ぐと、レイニャが足を止めた。

 

「ここも覚えてるニャ」

 

 水の落ちる石の横を、指先で示す。

 

 理央は《世界地図》を開き、道と斜面、小川の位置を照らし合わせた。

 

 エルナドから続く線の途中に、今立っている曲がり角を捉えられる。

 

「合ってます。この先、少し上がりますね」

 

「上がるニャ」

 

 レイニャは返事をして、また歩き出した。

 

 港では1つ見つけるたびに、こちらへ顔を向けていた。

 

 今は、自分で見つけたものを確かめるように短く言うだけだ。

 

 坂を上る間、手琴の紐へ添えていた手が、時々握り直される。

 

 理央はその横顔を見て、村で最初に誰へ会いたいのか尋ねようとした。

 

 けれど、レイニャが一度立ち止まり、木々の先へ耳を向けたので、言葉を待つことにした。

 

「もう少しニャ」

 

 澪が水を出し、4人は道を空けたところで短く休んだ。

 

 レイニャは受け取った水を飲み、すぐ先を見た。

 

 理央は器を返しながら、その目線を追う。

 

 木の間にはまだ家も屋根も見えない。

 

 それでもレイニャには、さっきの坂から先が、もう別の道になっているようだった。

 

 歩き始めると、枝の隙間へ空の明るさが戻ってきた。

 

 風が木々の上を渡り、葉の音が頭上から尾根の向こうへ続いていく。

 

 理央は息を整えてから、最後の上りへ足をかけた。

 

 

 

 尾根を越えると、木々の間に隠れていた空が広がった。

 

 理央は足を止め、少し遅れて顔を上げた。

 

 向こうに2つの峰が並んでいる。

 

 片方の裾へ薄い霧がかかっていたが、尖った頂は両方とも見えた。

 

 昨日のノートに描かれた線よりずっと大きい。

 

 隣に立ったレイニャの耳が、まっすぐ前を向く。

 

「あれニャ」

 

 指さされた山と、その頭の耳を、理央はつい見比べた。

 

「ほんとに、耳ですね」

 

「ミュレの山ニャ。2つ並んでるニャ」

 

 理央は鞄からノートを出した。

 

 ミュレ双峰、と昨日の絵の下へ書き、あらためて《世界地図》を見る。

 

 エルナドから辿ってきた道は、今いる尾根の手前までつながっている。

 

 その先の斜面と、目の前の双峰を重ねた。

 

「村は、どの辺ですか?」

 

「あの下ニャ」

 

 レイニャの指が山腹へ下がる。

 

 木々の切れ目に、幾つか屋根が見えた。

 

 背の高い木に隠れたものまで眺めると、道を挟んで家が続いている。

 

 理央はその集落へ意識を向けた。

 

 名札のように「フェルナ村」と出るわけではない。

 

 けれど屋根のある斜面の北には、大きな川が流れていた。

 

「北の川、あれですか?」

 

「サーヴァ川ニャ」

 

 南西へ目を向けると、山の向こうに光る帯が見えた。

 

 雲の切れ目から日を受けた海だった。

 

 海の見える山、北の川、東へ続く町への道。

 

 理央はノートの印を1つずつ見たあと、《世界地図》へ目を戻した。

 

 残っていた候補を選ぶ必要は、もうなかった。

 

 自分が辿った道の先に、屋根が見える。

 

「……見つけました」

 

 声に出すと、レイニャがこちらを見た。

 

「フェルナ村ニャ」

 

 理央は頷き、今度は地図を閉じて集落を眺めた。

 

 昨日は「50くらいの家」と聞いても、数としてしか受け取れなかった。

 

 今はその屋根の下に、レイニャの父や母、きょうだいがいる。

 

 澪が隣へ来て、家々の並ぶ斜面を見た。

 

「日が当たる方にあるんですね」

 

「晴れたら、海が見えるニャ」

 

 レイニャは答え、山腹を見たまま鼻を動かした。

 

 尾根の上では、まだ家の匂いまで分からないのかもしれない。

 

 真壁は道の先へ目を向けた。

 

「降りよう。村の入口まで辿ってから、扉を試す」

 

「はい」

 

 理央はノートをしまい、最初の1歩を下りた。

 

 レイニャがすぐ横を通り、坂の曲がる方へ進む。

 

 その先には、地図の印になったばかりの村が、もう肉眼で見えていた。

 

 

 

 村へ続く道のそばに、小さな草地があった。

 

 荷車が通る場所より少し外れ、草の向こうへ石と土の境目が見えている。

 

 レイニャはそこへ足を入れ、道までの距離を見た。

 

「ここなら、村の人の邪魔にならないニャ」

 

 理央も草地へ出た。

 

 背を向けた先に道があり、正面には斜面を上がる家々がある。

 

 木々の切れ目からミュレ双峰を見て、《世界地図》でも今立つ場所を捉えた。

 

 次に狙う時は、村の辺りというだけでなく、この草地を思い浮かべる。

 

 理央は石の位置と道の向きを見直してから、澪へ顔を向けた。

 

「じゃあ、試します」

 

「事業所へ、ですね」

 

「はい。今朝、出た方へ」

 

 真壁が道側に立ち、近づいてくる人がいないことを見た。

 

 レイニャは理央の脇から、草地の中央へ目を向ける。

 

「《関門接続》」

 

 靄が集まり、扉の形へ立ち上がった。

 

 開いた先には、事業所側の見慣れた安全な場所がある。

 

 山の湿った空気の中へ、朝に出てきた場所の光が差した。

 

 レイニャが鼻先を寄せかけ、そこで止まる。

 

「あっちニャ」

 

 声は短かった。

 

「私が一度、向こうへ出てみますね」

 

 澪は足元と扉の幅を確かめ、くぐった。

 

 向こう側へ靴がつき、こちらへ振り返る。

 

 理央は澪の背後にも人がいないことを見てから、顔へ目を戻した。

 

「どうですか?」

 

「戻ってこられました」

 

 澪は向こうから歩き、再び草地へ足を下ろした。

 

 レイニャがその靴を見た。

 

 山道でついた土はそのままで、澪だけが遠い侯爵領へ行って帰ってきた。

 

「……本当に、帰ってもまた出られるニャ」

 

 理央は頷いた。

 

「今度は、ここを狙って開けます」

 

「村からでも、また開けるニャ?」

 

「はい。今の扉は時間が来たら消えますけど、必要な時に同じところへ開け直せます」

 

 レイニャは道へ目を向け、草地へ戻した。

 

 村の人が通るところを塞いでいないか、もう一度見たようだった。

 

 理央は扉から離れ、全員がこちら側にいることを確かめて待った。

 

 しばらくすると、向こうの光景が閉じ、扉は靄とともに消えた。

 

 そのあとに残ったのは、さっきと同じ草地だった。

 

 レイニャが草へ足を置く。

 

「ないニャ」

 

「必要な時に、また開きます」

 

 理央も隣へ立った。

 

 今は村から侯爵領へ試したが、侯爵領からここを選ぶ時にも、もう山の形だけで迷わずに済む。

 

「理央」

 

 呼ばれて顔を向けると、レイニャは何か言おうとしていた。

 

 けれど言葉より先に、村の方から木を打つ音が聞こえた。

 

 耳がそちらへ向く。

 

「……行くニャ」

 

「はい」

 

 理央は先へ出ず、レイニャが草地を離れるのを待った。

 

 

 

 草地を離れて村の道へ入ると、屋根が木々の上だけでなく、目の高さにも見えるようになった。

 

 石を積んだ基礎の上に木の壁があり、深い軒の下へ束ねた草が吊られている。

 

 理央はそれを見上げ、薬草なのか食べるものなのか尋ねかけた。

 

 けれど隣のレイニャは、別の家の屋根を見ていた。

 

 煙突から薄い煙が上がり、風に押されて山の方へ流れる。

 

 木を切る音が、その下から聞こえた。

 

 少し離れたところでは山羊の鈴が鳴り、子どもの声が追いかけるように響く。

 

 レイニャの歩幅が小さくなった。

 

 坂を下りる時まで前にいたのに、今は理央と並んでいる。

 

 急げばすぐ着く、と言いかける必要もなかった。

 

 レイニャは道を知っている。

 

 あの先に誰がいるかも知っている。

 

 理央は歩調を合わせ、鞄が膝へ当たらないよう持ち直した。

 

 後ろから澪たちの足音が続いている。

 

 4人分の足音の間に、家の中から器を置く音がした。

 

「軒の下、いっぱい吊ってますね」

 

 理央は目の前にあるものの話をした。

 

「雨が当たらないニャ。食べるものも、草も吊るすニャ」

 

 レイニャの目が、1つの束に留まる。

 

「家でも、ああやってたニャ」

 

 理央は頷いた。

 

 荷物に入れる保存食と、軒下へしまう保存食は、同じものかもしれない。

 

 それでも、旅の荷の話をする時とは声が違っていた。

 

 曲がり角の先で、小さな桶を抱えた子が道へ出てきた。

 

 理央たちを見て、脇へ寄ろうとする。

 

 その途中で足が止まった。

 

 視線がレイニャへ向き、桶を抱えた腕が動かなくなる。

 

 レイニャも止まった。

 

 理央には村の子の1人に見えたが、隣では尻尾の先まで動かなくなっていた。

 

「……メル?」

 

 レイニャが名前を呼ぶ。

 

 相手は返事より先に、耳をこちらへ向けた。

 

「レイニャ姉ちゃん?」

 

 桶の縁から片手が離れ、すぐ抱え直される。

 

 理央はレイニャの顔を見た。

 

 思っていたより背が伸びていたのだろうか。

 

 見つめていた目がようやく細くなり、伏せかけた耳が、また立った。

 

「大きくなったニャ」

 

 メルが桶を道端へ置いた。

 

 その音がすると、レイニャの手が手琴の紐から離れた。

 

 理央は半歩下がる。

 

 澪も隣へ並ばず、後ろで足を止めていた。

 

 真壁は道を通る人のために、端へ寄っている。

 

 メルは桶を置いた場所から、1歩だけこちらへ来た。

 

 山羊の鈴がまた鳴ったが、レイニャの耳はもうそちらへ向かなかった。

 

 故郷の山を見つけた時よりも長く、妹の顔を見ていた。

 

 理央は鞄の持ち手を緩めた。

 

 地図も、山の絵も、今は出さなくてよかった。

 

 レイニャはメルへ両手を伸ばした。

 

「ただいまニャ」

 

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