伸ばしたレイニャの腕へ、メルが飛び込んだ。
手琴が横へ揺れ、レイニャは半歩ずれて妹を受け止める。
理央は道端の桶を踏まないように、もう1歩下がった。
「本当に帰ってきたニャ」
「帰ってきたニャ」
メルは顔を上げたが、姉のマントをつかんだ手は離さなかった。
クリーム色に淡い縞のある頬をレイニャの胸へ押しつけ、また琥珀色の目で顔を見上げる。
白い前足が、今度は肩の革紐をつかんだ。
「どこにいたニャ?」
「いろんなところニャ。海も見たニャ」
「海ならここからも見えるニャ」
「もっと近くニャ。船にも乗ったニャ」
レイニャの尻尾が、妹の尻尾とぶつからない方へゆっくり動いた。
村の山が見えた時にはあれほど早く立った耳が、今はメルの声に合わせて向きを変えている。
理央は鞄を両手で持ち、2人の間へ入らないよう待った。
低い柵の向こうで若葉が擦れ、湿った土を薪煙の匂いが渡ってくる。
遠くで山羊の鈴が鳴った。
道には薪をまとめた束があるのに、担いで行く人はいなかった。
メルがようやくマントから手を離した。
そこで初めて、姉の後ろに立つ理央たちへ目を向ける。
「姉ちゃん。後ろの人間、誰ニャ?」
レイニャも振り返った。
「友達の理央と澪と真壁さんニャ」
紹介されるだろうとは思っていた。
それでも理央は、口を開くのが少し遅れた。
商会で一緒に仕事をしている人、と言われるかと思ったのだ。
「飯島理央です。はじめまして」
メルの大きな耳がこちらを向いた。
「理央ニャ」
「はい」
「姉ちゃんと一緒に船に乗ったニャ?」
「乗りました」
その返事だけで、メルの目が丸くなった。
理央は笑いそうになり、レイニャへ目を向けた。
今ここで、どんな船だったか話し始めてしまうと、妹の方が姉から離れなくなりそうだ。
「篠原澪です。よろしくお願いします」
澪が名乗ると、メルは声を聞いてから顔を見上げた。
真壁は道の端から会釈する。
「真壁だ。姉君には、旅の間、世話になっている」
「姉ちゃん、世話してるニャ?」
「してるニャ」
レイニャがすぐ答えたので、理央は頷いた。
「助けてもらってます」
患者に手を伸ばす時も、歌を聞かせてくれる時も、こちらから頼むより先に動いてくれることが多かった。
ただ、今はその話を長くするより、友達と呼んでもらったままここに立っていたかった。
メルは3人の顔をもう一度見て、姉の手を取る。
「みんなで来てくれたニャ」
その声がさっきより小さくなった。
レイニャが握り返すと、メルの指に力が入った。
「姉ちゃんが戻ってきたのは、猫神様のお導きニャ」
澪は、メルの言葉に顔を上げた。
旅から帰った姉への、村なりの言い方なのだろうか。
メルは冗談を言っている顔ではなく、レイニャの手を両手で包んでいた。
「猫神様ニャ?」
レイニャが聞き返した、その時だった。
澪の傍らに薄い靄が広がった。
呼んでもいないのに、白い前足が出てくる。
続いて頭と身体が現れ、シロガネは道へ降り立った。
「え、今……」
澪が言い終える前に、メルの耳が真っすぐ立った。
姉の手を握った姿勢のまま、尻尾の動きまで止まる。
シロガネは足元を見回してから、前足を揃えて座った。
白い毛に午後の日が当たり、湿った道にいるのに土の汚れもつかない。
「……猫神様ニャ」
「シロガネです」
澪は名前だけでも先に伝えた。
メルがこちらを見る。
「猫神様のお名前がシロガネ様ニャ?」
「そういう意味じゃないです……」
説明を始めようとして、澪はシロガネに目を戻した。
猫の姿だが、普通の生きた猫ではない。
建御名方神の御分霊を宿す白猫の霊体だ、と言って、今のメルが猫神様ではないと納得するだろうか。
むしろ、ますます両手を合わせそうだった。
家先でこちらを見ていた灰虎のケット・シーが、戸口へ顔を向ける。
「猫神様が来たニャ」
向かいの窓から別の耳が出てきた。
澪は片手を上げかけたが、シロガネがゆっくり目を細めたので、呼び戻す言葉も止まった。
その落ち着き方が、いっそう拝まれる理由になっている。
理央は口元を押さえていた。
レイニャは白猫と澪を交互に見て、ひげの先を下げる。
真壁だけは騒がず、近づこうとする村人のために道を空けた。
「いつも一緒にいるんです。私たちが連れてきたというか、自分で出てきたというか……」
「姉ちゃんと一緒に来てくれたニャ」
メルの解釈は、そこから動かなかった。
けれど次に姉を見た時、その目が揺れた。
「これで、ビエニャも助かるニャ?」
レイニャの耳が妹へ向き直った。
「ビエニャ、どうしたニャ」
「熱が出てるニャ。村のみんなを見てたのに、ビエニャまで寝ちゃったニャ」
澪は上げかけていた手を下ろした。
「みんな、って?」
「病気ニャ。何人も、起きられないニャ」
レイニャが妹の手を離した。
マントの留め具を確かめ、ずれた手琴の紐を肩へ戻す。
「今、どこにいるニャ?」
「家ニャ」
「案内するニャ」
澪が鞄を持ち直す間に、メルは道端の桶を取り上げていた。
レイニャはもう、その桶の中と村へ続く坂を見ている。
シロガネが立ち上がり、澪の足元へついてきた。
メルについて坂を上がると、澪の頭より低い軒に、籠が幾つも吊られていた。
中には木の実があり、隣には束ねた薬草がある。
雨の当たらない奥へ干した布が寄せられ、壁際には刻みかけの木材が積んであった。
「レイニャ、帰ってきたニャ?」
「本当ニャ。レイニャニャ」
閉じていた戸が細く開き、道の上からも声が下りてくる。
レイニャが短く返事をするたび、別の窓から名前を呼ばれた。
「……ニャーニャー多い……」
澪は自分にだけ聞こえるつもりで言った。
隣の理央が顔を向ける。
「ケット・シー族の村ですから」
「そうなんですけど、四方から……」
「そのうち慣れるニャ」
前を歩くレイニャの耳が、後ろへ向いていた。
澪は小さく笑い、また道へ目を戻した。
声を掛ける人はいても、戸から出てくる人は少ない。
軒下の鍋から湯気が上がり、近づくと薬草を煮た苦い匂いがした。
桶を抱えたメルはそこを通り過ぎ、広場の端へ向かう。
水場の脇に、大柄な黄虎のケット・シーが立っていた。
濃い茶橙の縞に、口元と眉の白い毛が混じり、こちらを見た目がレイニャのところで止まる。
「レイニャ」
「おじいちゃん。メルに聞いたニャ」
黄虎の足が1歩出て、それから止まった。
「ビエニャのことかニャ」
「先に見るニャ。この3人は友達ニャ。手伝ってくれるニャ」
澪は会釈して名前を伝えた。
祖父はニャースと名乗り、この村の村長だと続ける。
「数日前から熱を出す者が増えておる。初めは数人だったが、今は十数人ニャ」
真壁は人のいない広場から、家並みへ目を移した。
「歩けぬ者もいるのか」
「寝込んでおる。ビエニャが回っていたが、とうとう本人まで倒れたニャ」
「後ほど、家ごとの人数を伺いたい」
「名簿を出すニャ」
ニャースが家の方へ声を掛けると、腕の太い黄虎が戸口から顔を出した。
こちらは明るい縞で、祖父より細身だが、戸を押さえる手は大きい。
木屑のついた袖を払った手が、娘を見て止まる。
「帰ったかニャ」
「お父さん、ただいまニャ」
レイニャの声が柔らかくなった。
父のニャーズは娘の肩へ片手を置き、手琴のある背へもう片方の手を回しかけて、やめた。
「母さんを呼んでくるニャ」
しかし、その必要はなかった。
別の家から短毛の三毛が駆けてくる。
レイニャより白い部分が多いのに、こちらを見た目元だけで、澪にも誰だか分かった。
「レイニャ、帰ってきたニャ」
母親は娘の両肩へ触れ、顔をのぞき込んだ。
レイニャも母の腕へ手を掛ける。
「ただいまニャ。先にビエニャを見るニャ」
「そうするニャ。リーニャがついてるニャ」
抱き寄せかけた腕が、娘の肩を1度だけ撫でて離れた。
澪はレーミという名を聞きながら、その手を見ていた。
もう少し話したいだろうに、母親は娘の進む方へ身体を向けている。
「水と、きれいな布は足りていますか?」
澪が聞くと、レーミはメルの桶へ目を落とした。
「洗い物が増えてるニャ。布は何度も洗って使ってるニャ」
「病人のところで、必要な分を教えてください。持っているものを出せます」
ニャースが澪へ頷いた。
「頼むニャ。まずはビエニャを見てくれ」
メルは桶を父へ渡し、先に坂の脇の家へ走った。
澪たちが追いつくと、開いた戸から薬草と、こもった空気の匂いが流れてきた。
白猫は敷居の脇で座り、澪はその横を通って中へ入った。
ニャースが脇へ寄り、理央は入口で足を止めた。
壁の棚には乾いた草を入れた袋が並び、すり鉢のそばには、粉がついたままの秤がある。
鍋の蓋はずらして置かれ、作業台から奥の寝台へ、布や器が移されていた。
薬を作る人が、その薬を飲む側へ回っている。
「姉ちゃんニャ」
メルの声に、寝台の脇にいたサビ三毛のケット・シーが顔を上げた。
「レイニャ、帰ったニャ?」
「リーニャ。ビエニャ、いつからこんなニャ」
「熱は昨日から高いニャ。今朝は、薬を作ろうとして起きたニャ。でも、立てなかったニャ」
レイニャは手琴をメルへ預け、マントを外した。
リーニャは妹の顔を見たあと、寝台の足元へ椅子を移す。
細かく混じった黒と赤茶の毛色は違うが、目元にはレイニャと似たところがあった。
空いたところへレイニャが入り、理央も鞄からノートを出した。
「ビエニャ、聞こえるニャ?」
横になった薬師の目が開いた。
耳が声へ向こうとして、途中で止まる。
「レイ……ニャ」
「帰ったニャ。今はしゃべらなくていいニャ」
レイニャは呼吸を見てから、腕に触れ、脈を取った。
毛が寝ている頬は熱く、口元も乾いている。
リーニャに最後に水を飲んだ時を聞き、寝台の隣にあった器へ手を伸ばす。
「起こすの、手伝うニャ」
レーミが背を支え、レイニャが器を口へ寄せた。
急がせずに待つと、ビエニャの喉が動いた。
理央はそれを見届けてから尋ねる。
「《鑑定》します。いいですか」
薬師がかすかに頷いた。
表示へ目を向けると、高熱だけでなく、脱水傾向と強い倦怠がある。
リンパ節の腫れ、感染性の炎症という所見を読み、理央はノートへ書き移した。
熱があるから熱だけを下げればいい、と考えるには、身体のあちこちに負担が残っている。
「レイニャ、これです」
書いた頁を寝台の脇へ向けた。
レイニャは紙に目を落とし、ビエニャの顔へ戻す。
「水、もう少しずつ取るニャ。先に、楽にするニャ」
掌が寝台の上へ伸びた。
《白魔法》に続き、《治癒》が使われる間、理央は薬師の呼吸を見ていた。
浅かった息がゆっくり深くなり、器へ伸びた指の震えが弱くなる。
それでも毛の下の熱は残っていた。
「毒の症状とは違います。感染性の炎症が残ってます」
理央が言うと、レイニャは器をレーミへ渡した。
「《解毒》だけじゃ済まないニャ」
部屋の端では、真壁がリーニャから発熱に気づいた時を聞いていた。
薬を作れなくなった日と、熱の出始めは同じとは限らない。
リーニャが思い返している間に、ビエニャが目を開けた。
「その……前の晩ニャ。寒かったニャ」
理央は発症の欄を書き直した。
真壁も薬師へ顔を向ける。
「その前は、どちらへ?」
「上……草を、採りに……」
「山の方だな。詳しいことは、後でよい」
真壁が窓の留め具を外し、風が直接寝台へ当たらないところまで開けた。
薄い光が床へ伸び、澪が空いている台へ清潔な布を置く。
ニャースに量を聞いてから出した水を、レーミが新しい器へ移していた。
理央は脚部の所見を見直し、レイニャへ伝える。
「脚にも、痕があります。見てもいいですか」
ビエニャの頷きを待って、レイニャが覆いをずらした。
短い毛をそっと分けると、皮膚に小さな暗い痕が見えた。
「虫に刺されてるニャ」
薬師は足元へ顔を向けようとしたが、レーミが肩に手を置いた。
「そのままでいいニャ」
理央は紙に位置を書き添えた。
山で刺されたのか、家で刺されたのかも、今は分からない。
「これだけで、原因とは決められないです」
「他にも診よう。発症日と仕事の異なる者を選ぶ」
真壁は窓のそばの薬草籠へ目を向け、それからニャースを見た。
レイニャはもう一度、ビエニャの手へ触れた。
「また来るニャ。水が飲めなくなったら、すぐ呼ぶニャ」
リーニャが新しい布を手元へ引き、レーミと器の位置を入れ替えた。
最初に案内された家では、戸口の縄に山羊の毛が絡んでいた。
寝台に横たわった山羊飼いは、起き上がろうとして肘をつき、レイニャに止められる。
「寝てるニャ。そのまま聞くニャ」
「羊を見に行かんと……」
「うちで見ておる。今はお前を診てもらうニャ」
ニャースの返事に、山羊飼いの腕から力が抜けた。
理央は《鑑定》の結果を書きながら、枕元の水がどれだけ減っているか尋ねた。
熱に加え、脚や背中の痛みを訴えている。
ビエニャと全部が同じではなかったが、首筋に刺された痕があった。
「この人にもあります」
紙を見せると、レイニャが患者に声を掛け、首の毛を分けた。
「同じ場所じゃないニャ」
「場所ではなく、刺されたという事実を揃えよう」
真壁は理央の書いた首の印を見てから、山羊飼いへ質問を戻した。
「上の草地へは、いつ行った?」
「熱の出る前ニャ。朝から、羊を出して……」
妻が日を補い、理央は仕事と発症を別の欄へ書いた。
レイニャの治療を受けたあとも、山羊飼いは横になったままだった。
身体の痛みは軽くなったというが、すぐ家畜の世話へ戻れるわけではない。
澪は妻へ布を渡し、水を飲めているか見るよう頼んだ。
次の家では、壁際に割った薪が積んであった。
外套の裾には小枝が残り、戸口へ置かれた籠から樹皮の匂いがする。
患者は寝台の端で膝を抱え、寒気がするたび身体を縮めていた。
レイニャは掛け布を直し、熱を確かめる。
理央が症状を書いていると、真壁が同じ水場を使う家族について聞いた。
「妻は元気ニャ。昨日まで、俺が水を運んでたニャ」
「食事は一緒か」
「そうニャ」
山羊飼いとは食べるものも家も違う。
しかし薪を採るために、上の草地に接する林へ入っていた。
耳の後ろを診せてもらうと、毛の間に暗い痕が見つかった。
理央は先ほどの頁を開き、同じ欄に印をつけた。
3軒目の奥では、年長のケット・シーが横になっていた。
こちらの外套には細い草の種がつき、寝台の足元に薬草籠がある。
「山にも行ったニャ。でも、あれは何日だったか……」
患者は付き添いへ目を向け、返事を待つ間、尻尾を身体へ寄せた。
足元を動かした時に顔が歪んだので、レイニャが声を掛ける。
「痛むところ、見るニャ」
覆いを直して毛を分けると、その手が止まった。
「動いてるニャ」
理央は筆記具を置いた。
尻尾の付け根に近い毛の奥に、灰色の小さなものがついている。
ゴミかと思うほど小さいが、皮膚へ吸いついた部分の脇で、脚が動いた。
「触る前に見ます」
理央は虫へ《鑑定》を向けた。
山地に生息する吸血性の節足動物だった。
湿潤な山林や草地を好み、家畜や野生動物にも付着する。
読み進めた目が、感染性因子を媒介する場合がある、という記載で止まった。
「潰さずに取ってください。病気を運ぶことがある虫です」
患者の肩が強張った。
「これニャ?」
「まだ、この熱の原因だとは言い切れません。虫の方に、そういう性質があると出てます」
レイニャは指で触れず、澪の出した手袋をつけた。
真壁が小さな道具を渡し、澪は蓋つきの透明容器を横へ置く。
理央は患者の顔を見ながら、動かないでいてもらう理由を伝えた。
レイニャが慎重に外した虫は、容器の底へ移った。
蓋が閉まってから、患者が長く息を吐く。
「こんな小さいのが、ついてたニャ」
理央は虫の所見をノートへ転記した。
真壁は容器を机へ置いたまま紙を読み、聞き取りの頁を手前へ引く。
「山へ入った日を、もう一度伺おう」
レイニャは刺されたところと患者の身体を診直した。
虫が取れても熱は消えず、治療はそのあとも続いた。
退出前に手袋や手元を《浄化》してから、戸口の外套へ視線を向ける。
「これにも、いないか見るニャ」
澪は広げる場所を家の人へ尋ねた。
理央は透明容器を手に持ち、収納へ入れかけた手を止める。
底では灰色の脚が、まだ動いていた。
集会所の机に、ニャースが世帯の名簿を広げた。
真壁は紙を横へ置き、理央のノートから患者の名前と発症日を書き移していく。
澪が入ってくると、シロガネも後から入り、窓の下へ座った。
虫の容器は机の反対側へ置いた。
その中の灰色の虫を見てから、戸口にいる村人が自分の首へ手をやった。
「こちらも、後で明るいところで確かめよう」
真壁は椅子を示し、まず熱の出ている家を聞いた。
理央は診た4人の頁を開き、まだ診ていない人の話を隣へ書き足す。
熱の出始めを聞くと、仕事を休んだ日が答えとして返ってくることがあった。
「休む前に、寒気はありましたか」
「それなら、その前ニャ」
理央が日を書き直す横で、真壁は山へ入った日を別の列へ置いた。
誰かの話から推測したものは、そのまま印をつけず、本人か看病者に聞き直す欄へ残す。
レーミが入ってきて、ビエニャは水を飲めていると伝えた。
レイニャの肩が下がり、それから机の紙へ顔が戻る。
「食べたものも聞くニャ?」
「聞く。共通点がないと思っても、欄は残しておこう」
真壁は家ごとの水場も書き込んだ。
山羊飼いと薪採りの男は同じ水を使っているが、同居する家族は今のところ熱を出していない。
ビエニャと薬草籠のあった家では、同じ鍋から食事を取ったわけでもなかった。
「同じ水を飲んだ者全員が倒れているわけではない」
ニャースは名簿の隣へ患者のいる家を指で示した。
「ここも、こっちもニャ。家が隣り合ってるわけでもない」
「家族だけで広がっているわけでもないな」
理央は山入りの列へ目を移した。
採ったものは草や薪で違うのに、行った先を聞くと、上の共同放牧地の名が何度も出てくる。
「山へ入った人が多いです」
「上の草地ニャ。羊を出すところと、その脇の林ニャ」
ニャースが答え、レーミもビエニャの採取場所を補った。
真壁は紙の上へ指を置いた。
「衣服や寝具は、家の間で移しているか?」
「看病の布は持っていくニャ。外套は、帰ってから家の戸口へ掛けるニャ」
レーミがそう言い、患者の家へ運んだ毛布を思い返した。
理央は虫の容器を見た。
山へ行っていない人でも、家へ持ち帰られたものに触れることはある。
その欄にも、まだ空白が残っていた。
「虫が関係している可能性は高い。しかし、原因を1つに決めるには、まだ足りん」
「明日、上を見に行くニャ」
レイニャが言うと、真壁は新しい紙へ山側の道を描いた。
「その前に、人が入るのを止めたい。家畜も上へ出さず、別の場所へ移すのは待ってもらおう」
ニャースは窓の外を見た。
ちょうど、山羊の鈴が道を通っていく。
「今いる柵の中で世話をするニャ。餌を運ぶ者も、決めておく」
村長は戸口へ出て、上の草地と隣の林へ入らないよう村人に伝えた。
声を受けた黄虎が山へ続く道へ向かい、ニャーズは家畜の世話をしている者へ知らせに行く。
真壁は紙を渡す前に、山仕事の外套と患者の寝具を、食事や休む場所から分けておくよう付け加えた。
「今は、他の家へ貸し借りをせず、それぞれの家で扱ってほしい。虫の確認は明るいところで行う」
「見つけたら、この入れ物へ入れるニャ?」
レーミが容器を指す。
「蓋を閉めて、持ってきてください。素手では潰さないで」
理央が答えると、澪は村長へ容器と布の必要数を聞いた。
水や食べやすい保存食も、配る家を決めてから出していく。
床へ置いた物を村人が受け取り、レーミが患者の家ごとに分けた。
「その毛布も、しまって運べるニャ?」
村人が机脇の包みを示したが、澪は手を伸ばさなかった。
「虫がついているかもしれないものは、そのまま分けて運びます。生きた虫ごと、普通の収納へは入れられません」
ニャースが包みを置く側を決め、運ぶ人へ改めて声を掛けた。
レイニャは布を受け取った人を呼び止める。
「熱が高い人、呼んでも返事が鈍い人、水が飲めない人を先に知らせるニャ」
村長はその言葉も伝え直した。
理央は机へ残った患者表を揃えた。
同じ熱でも、先に行く家を選ぶための印が、今は横についている。
ビエニャの家へ戻る頃には、窓から差す光が寝台まで届かなくなっていた。
レイニャは入口で手琴を受け取り、邪魔にならない壁際へ置いた。
メルは姉のマントも揃えて、その横へ掛ける。
「水、飲んだニャ」
リーニャが器を示した。
ビエニャは声を聞いて目を開け、レイニャを見た。
熱は残っているが、今度は呼びかけてから目が合うまでが早い。
「草は……」
「明日、見るニャ。今日は寝てるニャ」
レイニャは脈を確かめ、理央が紙に書いた処置後の様子と見比べた。
また熱が上がるかもしれない。
水が飲めなくなることもある。
リーニャへ今夜見てほしいことを話すと、姉は器を置き直し、寝台から立つ時もその量が見えるようにした。
「夜は交代して見るニャ。レーミも来るニャ」
「変わったら、あたしを呼ぶニャ。家にいるニャ」
レイニャが答える横で、理央は紙をもう1枚出していた。
「これ、ここに置いていきます。水を飲んだ時と、様子が変わった時だけでも、書いてもらえますか」
リーニャは字へ目を落とした。
「これなら書けるニャ」
理央は顔を上げ、書くところを指で示した。
薬師が元気なら、こんなことはいつも自分で見ていたはずだ。
けれど今、ビエニャの手は布の下にあり、患者のところへ回れない。
レイニャは姉が紙を枕元へ置くのを見てから、マントと手琴を取り上げた。
他の家へも戻り、呼吸と飲水を見直す間に、斜面の家々へ灯りが入った。
魔法のあとに身体の力が緩んでも、熱の残る患者はいる。
レイニャは看病する人の顔も確かめ、次に呼んでほしい状態を伝えて歩いた。
村長の家の前には、蓋つき容器を受け取る人がまだ来ていた。
父は荷を運ぶ方へ回り、母は配り終えた布の数を澪へ伝えている。
シロガネは軒下に座り、通りかかった村人が足を止めて両手を合わせた。
澪が白猫を見て何か言いかけ、結局、受け取った容器の蓋を確かめる方へ戻った。
「レイニャ。帰ってきてくれて助かったニャ」
祖父の声に、レイニャは顔を上げた。
昔も、この言葉を何度も聞いた。
次の患者が待っていると知ると、荷物をまとめる手が止まった。
今日も病人はいて、明日だけで治るとは言えない。
しかし、祖父の机には真壁が作った表があり、母が運ぶ水は澪の出したものだった。
理央はその表を写し、村へ置く紙と持ち帰るノートを分けている。
「明日、上の草地を見ましょう」
理央が言った。
「ビエニャが起きられるようになってからも、使える記録にしたいです。今日のだけだと、まだ分からないところが多くて」
「山へ行った人に、もう少し聞くニャ」
「はい。道も、一緒に見てもらえます?」
「見るニャ」
レイニャはノートへ顔を寄せた。
《地図》で辿れる道を紙へ移し、理央は自分の《世界地図》の地形と合わせる。
明日は草地から先へ、家を探していた朝とは違う道を一緒に歩く。
真壁が隣へ容器を寄せた。
「患者を増やさぬ準備をしてからだ。肌を出さぬ服装と手袋、長靴を揃えよう」
澪は虫除けや着るものを確かめ、不足する物を取りに戻ると言った。
村側では草地の事情に詳しい案内役を出すと、祖父が約束する。
「明日の朝、事業所で真壁さんと待ち合わせます。ここへ来る扉を、また開きますね」
理央が草地の方を指した。
澪は今夜、村外れから侯爵領へ戻ったら、理央をゲンダイの家まで送るという。
そのあと準備を済ませ、朝も一緒に事業所へ来ると約束した。
レイニャは村で患者の様子を見て、明日の朝、その草地で3人を迎えることにした。
「待ってるニャ」
帰ってきた自分に、また来てくれる人がいる。
レイニャは手琴の紐を握り直した。
出る時も、これを置いていかなくていい。
上の道には、祖父の指示を受けた村人が立っていた。
風が下りてくると、マントの裾が冷たく脚へ触れる。
レイニャは理央と並んで、灯りのない山の入口を見上げた。