押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第390話 猫神様のお導きニャ

 

 伸ばしたレイニャの腕へ、メルが飛び込んだ。

 

 手琴が横へ揺れ、レイニャは半歩ずれて妹を受け止める。

 

 理央は道端の桶を踏まないように、もう1歩下がった。

 

「本当に帰ってきたニャ」

 

「帰ってきたニャ」

 

 メルは顔を上げたが、姉のマントをつかんだ手は離さなかった。

 

 クリーム色に淡い縞のある頬をレイニャの胸へ押しつけ、また琥珀色の目で顔を見上げる。

 

 白い前足が、今度は肩の革紐をつかんだ。

 

「どこにいたニャ?」

 

「いろんなところニャ。海も見たニャ」

 

「海ならここからも見えるニャ」

 

「もっと近くニャ。船にも乗ったニャ」

 

 レイニャの尻尾が、妹の尻尾とぶつからない方へゆっくり動いた。

 

 村の山が見えた時にはあれほど早く立った耳が、今はメルの声に合わせて向きを変えている。

 

 理央は鞄を両手で持ち、2人の間へ入らないよう待った。

 

 低い柵の向こうで若葉が擦れ、湿った土を薪煙の匂いが渡ってくる。

 

 遠くで山羊の鈴が鳴った。

 

 道には薪をまとめた束があるのに、担いで行く人はいなかった。

 

 メルがようやくマントから手を離した。

 

 そこで初めて、姉の後ろに立つ理央たちへ目を向ける。

 

「姉ちゃん。後ろの人間、誰ニャ?」

 

 レイニャも振り返った。

 

「友達の理央と澪と真壁さんニャ」

 

 紹介されるだろうとは思っていた。

 

 それでも理央は、口を開くのが少し遅れた。

 

 商会で一緒に仕事をしている人、と言われるかと思ったのだ。

 

「飯島理央です。はじめまして」

 

 メルの大きな耳がこちらを向いた。

 

「理央ニャ」

 

「はい」

 

「姉ちゃんと一緒に船に乗ったニャ?」

 

「乗りました」

 

 その返事だけで、メルの目が丸くなった。

 

 理央は笑いそうになり、レイニャへ目を向けた。

 

 今ここで、どんな船だったか話し始めてしまうと、妹の方が姉から離れなくなりそうだ。

 

「篠原澪です。よろしくお願いします」

 

 澪が名乗ると、メルは声を聞いてから顔を見上げた。

 

 真壁は道の端から会釈する。

 

「真壁だ。姉君には、旅の間、世話になっている」

 

「姉ちゃん、世話してるニャ?」

 

「してるニャ」

 

 レイニャがすぐ答えたので、理央は頷いた。

 

「助けてもらってます」

 

 患者に手を伸ばす時も、歌を聞かせてくれる時も、こちらから頼むより先に動いてくれることが多かった。

 

 ただ、今はその話を長くするより、友達と呼んでもらったままここに立っていたかった。

 

 メルは3人の顔をもう一度見て、姉の手を取る。

 

「みんなで来てくれたニャ」

 

 その声がさっきより小さくなった。

 

 レイニャが握り返すと、メルの指に力が入った。

 

 

 

「姉ちゃんが戻ってきたのは、猫神様のお導きニャ」

 

 澪は、メルの言葉に顔を上げた。

 

 旅から帰った姉への、村なりの言い方なのだろうか。

 

 メルは冗談を言っている顔ではなく、レイニャの手を両手で包んでいた。

 

「猫神様ニャ?」

 

 レイニャが聞き返した、その時だった。

 

 澪の傍らに薄い靄が広がった。

 

 呼んでもいないのに、白い前足が出てくる。

 

 続いて頭と身体が現れ、シロガネは道へ降り立った。

 

「え、今……」

 

 澪が言い終える前に、メルの耳が真っすぐ立った。

 

 姉の手を握った姿勢のまま、尻尾の動きまで止まる。

 

 シロガネは足元を見回してから、前足を揃えて座った。

 

 白い毛に午後の日が当たり、湿った道にいるのに土の汚れもつかない。

 

「……猫神様ニャ」

 

「シロガネです」

 

 澪は名前だけでも先に伝えた。

 

 メルがこちらを見る。

 

「猫神様のお名前がシロガネ様ニャ?」

 

「そういう意味じゃないです……」

 

 説明を始めようとして、澪はシロガネに目を戻した。

 

 猫の姿だが、普通の生きた猫ではない。

 

 建御名方神の御分霊を宿す白猫の霊体だ、と言って、今のメルが猫神様ではないと納得するだろうか。

 

 むしろ、ますます両手を合わせそうだった。

 

 家先でこちらを見ていた灰虎のケット・シーが、戸口へ顔を向ける。

 

「猫神様が来たニャ」

 

 向かいの窓から別の耳が出てきた。

 

 澪は片手を上げかけたが、シロガネがゆっくり目を細めたので、呼び戻す言葉も止まった。

 

 その落ち着き方が、いっそう拝まれる理由になっている。

 

 理央は口元を押さえていた。

 

 レイニャは白猫と澪を交互に見て、ひげの先を下げる。

 

 真壁だけは騒がず、近づこうとする村人のために道を空けた。

 

「いつも一緒にいるんです。私たちが連れてきたというか、自分で出てきたというか……」

 

「姉ちゃんと一緒に来てくれたニャ」

 

 メルの解釈は、そこから動かなかった。

 

 けれど次に姉を見た時、その目が揺れた。

 

「これで、ビエニャも助かるニャ?」

 

 レイニャの耳が妹へ向き直った。

 

「ビエニャ、どうしたニャ」

 

「熱が出てるニャ。村のみんなを見てたのに、ビエニャまで寝ちゃったニャ」

 

 澪は上げかけていた手を下ろした。

 

「みんな、って?」

 

「病気ニャ。何人も、起きられないニャ」

 

 レイニャが妹の手を離した。

 

 マントの留め具を確かめ、ずれた手琴の紐を肩へ戻す。

 

「今、どこにいるニャ?」

 

「家ニャ」

 

「案内するニャ」

 

 澪が鞄を持ち直す間に、メルは道端の桶を取り上げていた。

 

 レイニャはもう、その桶の中と村へ続く坂を見ている。

 

 シロガネが立ち上がり、澪の足元へついてきた。

 

 

 

 メルについて坂を上がると、澪の頭より低い軒に、籠が幾つも吊られていた。

 

 中には木の実があり、隣には束ねた薬草がある。

 

 雨の当たらない奥へ干した布が寄せられ、壁際には刻みかけの木材が積んであった。

 

「レイニャ、帰ってきたニャ?」

 

「本当ニャ。レイニャニャ」

 

 閉じていた戸が細く開き、道の上からも声が下りてくる。

 

 レイニャが短く返事をするたび、別の窓から名前を呼ばれた。

 

「……ニャーニャー多い……」

 

 澪は自分にだけ聞こえるつもりで言った。

 

 隣の理央が顔を向ける。

 

「ケット・シー族の村ですから」

 

「そうなんですけど、四方から……」

 

「そのうち慣れるニャ」

 

 前を歩くレイニャの耳が、後ろへ向いていた。

 

 澪は小さく笑い、また道へ目を戻した。

 

 声を掛ける人はいても、戸から出てくる人は少ない。

 

 軒下の鍋から湯気が上がり、近づくと薬草を煮た苦い匂いがした。

 

 桶を抱えたメルはそこを通り過ぎ、広場の端へ向かう。

 

 水場の脇に、大柄な黄虎のケット・シーが立っていた。

 

 濃い茶橙の縞に、口元と眉の白い毛が混じり、こちらを見た目がレイニャのところで止まる。

 

「レイニャ」

 

「おじいちゃん。メルに聞いたニャ」

 

 黄虎の足が1歩出て、それから止まった。

 

「ビエニャのことかニャ」

 

「先に見るニャ。この3人は友達ニャ。手伝ってくれるニャ」

 

 澪は会釈して名前を伝えた。

 

 祖父はニャースと名乗り、この村の村長だと続ける。

 

「数日前から熱を出す者が増えておる。初めは数人だったが、今は十数人ニャ」

 

 真壁は人のいない広場から、家並みへ目を移した。

 

「歩けぬ者もいるのか」

 

「寝込んでおる。ビエニャが回っていたが、とうとう本人まで倒れたニャ」

 

「後ほど、家ごとの人数を伺いたい」

 

「名簿を出すニャ」

 

 ニャースが家の方へ声を掛けると、腕の太い黄虎が戸口から顔を出した。

 

 こちらは明るい縞で、祖父より細身だが、戸を押さえる手は大きい。

 

 木屑のついた袖を払った手が、娘を見て止まる。

 

「帰ったかニャ」

 

「お父さん、ただいまニャ」

 

 レイニャの声が柔らかくなった。

 

 父のニャーズは娘の肩へ片手を置き、手琴のある背へもう片方の手を回しかけて、やめた。

 

「母さんを呼んでくるニャ」

 

 しかし、その必要はなかった。

 

 別の家から短毛の三毛が駆けてくる。

 

 レイニャより白い部分が多いのに、こちらを見た目元だけで、澪にも誰だか分かった。

 

「レイニャ、帰ってきたニャ」

 

 母親は娘の両肩へ触れ、顔をのぞき込んだ。

 

 レイニャも母の腕へ手を掛ける。

 

「ただいまニャ。先にビエニャを見るニャ」

 

「そうするニャ。リーニャがついてるニャ」

 

 抱き寄せかけた腕が、娘の肩を1度だけ撫でて離れた。

 

 澪はレーミという名を聞きながら、その手を見ていた。

 

 もう少し話したいだろうに、母親は娘の進む方へ身体を向けている。

 

「水と、きれいな布は足りていますか?」

 

 澪が聞くと、レーミはメルの桶へ目を落とした。

 

「洗い物が増えてるニャ。布は何度も洗って使ってるニャ」

 

「病人のところで、必要な分を教えてください。持っているものを出せます」

 

 ニャースが澪へ頷いた。

 

「頼むニャ。まずはビエニャを見てくれ」

 

 メルは桶を父へ渡し、先に坂の脇の家へ走った。

 

 澪たちが追いつくと、開いた戸から薬草と、こもった空気の匂いが流れてきた。

 

 白猫は敷居の脇で座り、澪はその横を通って中へ入った。

 

 

 

 ニャースが脇へ寄り、理央は入口で足を止めた。

 

 壁の棚には乾いた草を入れた袋が並び、すり鉢のそばには、粉がついたままの秤がある。

 

 鍋の蓋はずらして置かれ、作業台から奥の寝台へ、布や器が移されていた。

 

 薬を作る人が、その薬を飲む側へ回っている。

 

「姉ちゃんニャ」

 

 メルの声に、寝台の脇にいたサビ三毛のケット・シーが顔を上げた。

 

「レイニャ、帰ったニャ?」

 

「リーニャ。ビエニャ、いつからこんなニャ」

 

「熱は昨日から高いニャ。今朝は、薬を作ろうとして起きたニャ。でも、立てなかったニャ」

 

 レイニャは手琴をメルへ預け、マントを外した。

 

 リーニャは妹の顔を見たあと、寝台の足元へ椅子を移す。

 

 細かく混じった黒と赤茶の毛色は違うが、目元にはレイニャと似たところがあった。

 

 空いたところへレイニャが入り、理央も鞄からノートを出した。

 

「ビエニャ、聞こえるニャ?」

 

 横になった薬師の目が開いた。

 

 耳が声へ向こうとして、途中で止まる。

 

「レイ……ニャ」

 

「帰ったニャ。今はしゃべらなくていいニャ」

 

 レイニャは呼吸を見てから、腕に触れ、脈を取った。

 

 毛が寝ている頬は熱く、口元も乾いている。

 

 リーニャに最後に水を飲んだ時を聞き、寝台の隣にあった器へ手を伸ばす。

 

「起こすの、手伝うニャ」

 

 レーミが背を支え、レイニャが器を口へ寄せた。

 

 急がせずに待つと、ビエニャの喉が動いた。

 

 理央はそれを見届けてから尋ねる。

 

「《鑑定》します。いいですか」

 

 薬師がかすかに頷いた。

 

 表示へ目を向けると、高熱だけでなく、脱水傾向と強い倦怠がある。

 

 リンパ節の腫れ、感染性の炎症という所見を読み、理央はノートへ書き移した。

 

 熱があるから熱だけを下げればいい、と考えるには、身体のあちこちに負担が残っている。

 

「レイニャ、これです」

 

 書いた頁を寝台の脇へ向けた。

 

 レイニャは紙に目を落とし、ビエニャの顔へ戻す。

 

「水、もう少しずつ取るニャ。先に、楽にするニャ」

 

 掌が寝台の上へ伸びた。

 

 《白魔法》に続き、《治癒》が使われる間、理央は薬師の呼吸を見ていた。

 

 浅かった息がゆっくり深くなり、器へ伸びた指の震えが弱くなる。

 

 それでも毛の下の熱は残っていた。

 

「毒の症状とは違います。感染性の炎症が残ってます」

 

 理央が言うと、レイニャは器をレーミへ渡した。

 

「《解毒》だけじゃ済まないニャ」

 

 部屋の端では、真壁がリーニャから発熱に気づいた時を聞いていた。

 

 薬を作れなくなった日と、熱の出始めは同じとは限らない。

 

 リーニャが思い返している間に、ビエニャが目を開けた。

 

「その……前の晩ニャ。寒かったニャ」

 

 理央は発症の欄を書き直した。

 

 真壁も薬師へ顔を向ける。

 

「その前は、どちらへ?」

 

「上……草を、採りに……」

 

「山の方だな。詳しいことは、後でよい」

 

 真壁が窓の留め具を外し、風が直接寝台へ当たらないところまで開けた。

 

 薄い光が床へ伸び、澪が空いている台へ清潔な布を置く。

 

 ニャースに量を聞いてから出した水を、レーミが新しい器へ移していた。

 

 理央は脚部の所見を見直し、レイニャへ伝える。

 

「脚にも、痕があります。見てもいいですか」

 

 ビエニャの頷きを待って、レイニャが覆いをずらした。

 

 短い毛をそっと分けると、皮膚に小さな暗い痕が見えた。

 

「虫に刺されてるニャ」

 

 薬師は足元へ顔を向けようとしたが、レーミが肩に手を置いた。

 

「そのままでいいニャ」

 

 理央は紙に位置を書き添えた。

 

 山で刺されたのか、家で刺されたのかも、今は分からない。

 

「これだけで、原因とは決められないです」

 

「他にも診よう。発症日と仕事の異なる者を選ぶ」

 

 真壁は窓のそばの薬草籠へ目を向け、それからニャースを見た。

 

 レイニャはもう一度、ビエニャの手へ触れた。

 

「また来るニャ。水が飲めなくなったら、すぐ呼ぶニャ」

 

 リーニャが新しい布を手元へ引き、レーミと器の位置を入れ替えた。

 

 

 

 最初に案内された家では、戸口の縄に山羊の毛が絡んでいた。

 

 寝台に横たわった山羊飼いは、起き上がろうとして肘をつき、レイニャに止められる。

 

「寝てるニャ。そのまま聞くニャ」

 

「羊を見に行かんと……」

 

「うちで見ておる。今はお前を診てもらうニャ」

 

 ニャースの返事に、山羊飼いの腕から力が抜けた。

 

 理央は《鑑定》の結果を書きながら、枕元の水がどれだけ減っているか尋ねた。

 

 熱に加え、脚や背中の痛みを訴えている。

 

 ビエニャと全部が同じではなかったが、首筋に刺された痕があった。

 

「この人にもあります」

 

 紙を見せると、レイニャが患者に声を掛け、首の毛を分けた。

 

「同じ場所じゃないニャ」

 

「場所ではなく、刺されたという事実を揃えよう」

 

 真壁は理央の書いた首の印を見てから、山羊飼いへ質問を戻した。

 

「上の草地へは、いつ行った?」

 

「熱の出る前ニャ。朝から、羊を出して……」

 

 妻が日を補い、理央は仕事と発症を別の欄へ書いた。

 

 レイニャの治療を受けたあとも、山羊飼いは横になったままだった。

 

 身体の痛みは軽くなったというが、すぐ家畜の世話へ戻れるわけではない。

 

 澪は妻へ布を渡し、水を飲めているか見るよう頼んだ。

 

 次の家では、壁際に割った薪が積んであった。

 

 外套の裾には小枝が残り、戸口へ置かれた籠から樹皮の匂いがする。

 

 患者は寝台の端で膝を抱え、寒気がするたび身体を縮めていた。

 

 レイニャは掛け布を直し、熱を確かめる。

 

 理央が症状を書いていると、真壁が同じ水場を使う家族について聞いた。

 

「妻は元気ニャ。昨日まで、俺が水を運んでたニャ」

 

「食事は一緒か」

 

「そうニャ」

 

 山羊飼いとは食べるものも家も違う。

 

 しかし薪を採るために、上の草地に接する林へ入っていた。

 

 耳の後ろを診せてもらうと、毛の間に暗い痕が見つかった。

 

 理央は先ほどの頁を開き、同じ欄に印をつけた。

 

 3軒目の奥では、年長のケット・シーが横になっていた。

 

 こちらの外套には細い草の種がつき、寝台の足元に薬草籠がある。

 

「山にも行ったニャ。でも、あれは何日だったか……」

 

 患者は付き添いへ目を向け、返事を待つ間、尻尾を身体へ寄せた。

 

 足元を動かした時に顔が歪んだので、レイニャが声を掛ける。

 

「痛むところ、見るニャ」

 

 覆いを直して毛を分けると、その手が止まった。

 

「動いてるニャ」

 

 理央は筆記具を置いた。

 

 尻尾の付け根に近い毛の奥に、灰色の小さなものがついている。

 

 ゴミかと思うほど小さいが、皮膚へ吸いついた部分の脇で、脚が動いた。

 

「触る前に見ます」

 

 理央は虫へ《鑑定》を向けた。

 

 山地に生息する吸血性の節足動物だった。

 

 湿潤な山林や草地を好み、家畜や野生動物にも付着する。

 

 読み進めた目が、感染性因子を媒介する場合がある、という記載で止まった。

 

「潰さずに取ってください。病気を運ぶことがある虫です」

 

 患者の肩が強張った。

 

「これニャ?」

 

「まだ、この熱の原因だとは言い切れません。虫の方に、そういう性質があると出てます」

 

 レイニャは指で触れず、澪の出した手袋をつけた。

 

 真壁が小さな道具を渡し、澪は蓋つきの透明容器を横へ置く。

 

 理央は患者の顔を見ながら、動かないでいてもらう理由を伝えた。

 

 レイニャが慎重に外した虫は、容器の底へ移った。

 

 蓋が閉まってから、患者が長く息を吐く。

 

「こんな小さいのが、ついてたニャ」

 

 理央は虫の所見をノートへ転記した。

 

 真壁は容器を机へ置いたまま紙を読み、聞き取りの頁を手前へ引く。

 

「山へ入った日を、もう一度伺おう」

 

 レイニャは刺されたところと患者の身体を診直した。

 

 虫が取れても熱は消えず、治療はそのあとも続いた。

 

 退出前に手袋や手元を《浄化》してから、戸口の外套へ視線を向ける。

 

「これにも、いないか見るニャ」

 

 澪は広げる場所を家の人へ尋ねた。

 

 理央は透明容器を手に持ち、収納へ入れかけた手を止める。

 

 底では灰色の脚が、まだ動いていた。

 

 

 

 集会所の机に、ニャースが世帯の名簿を広げた。

 

 真壁は紙を横へ置き、理央のノートから患者の名前と発症日を書き移していく。

 

 澪が入ってくると、シロガネも後から入り、窓の下へ座った。

 

 虫の容器は机の反対側へ置いた。

 

 その中の灰色の虫を見てから、戸口にいる村人が自分の首へ手をやった。

 

「こちらも、後で明るいところで確かめよう」

 

 真壁は椅子を示し、まず熱の出ている家を聞いた。

 

 理央は診た4人の頁を開き、まだ診ていない人の話を隣へ書き足す。

 

 熱の出始めを聞くと、仕事を休んだ日が答えとして返ってくることがあった。

 

「休む前に、寒気はありましたか」

 

「それなら、その前ニャ」

 

 理央が日を書き直す横で、真壁は山へ入った日を別の列へ置いた。

 

 誰かの話から推測したものは、そのまま印をつけず、本人か看病者に聞き直す欄へ残す。

 

 レーミが入ってきて、ビエニャは水を飲めていると伝えた。

 

 レイニャの肩が下がり、それから机の紙へ顔が戻る。

 

「食べたものも聞くニャ?」

 

「聞く。共通点がないと思っても、欄は残しておこう」

 

 真壁は家ごとの水場も書き込んだ。

 

 山羊飼いと薪採りの男は同じ水を使っているが、同居する家族は今のところ熱を出していない。

 

 ビエニャと薬草籠のあった家では、同じ鍋から食事を取ったわけでもなかった。

 

「同じ水を飲んだ者全員が倒れているわけではない」

 

 ニャースは名簿の隣へ患者のいる家を指で示した。

 

「ここも、こっちもニャ。家が隣り合ってるわけでもない」

 

「家族だけで広がっているわけでもないな」

 

 理央は山入りの列へ目を移した。

 

 採ったものは草や薪で違うのに、行った先を聞くと、上の共同放牧地の名が何度も出てくる。

 

「山へ入った人が多いです」

 

「上の草地ニャ。羊を出すところと、その脇の林ニャ」

 

 ニャースが答え、レーミもビエニャの採取場所を補った。

 

 真壁は紙の上へ指を置いた。

 

「衣服や寝具は、家の間で移しているか?」

 

「看病の布は持っていくニャ。外套は、帰ってから家の戸口へ掛けるニャ」

 

 レーミがそう言い、患者の家へ運んだ毛布を思い返した。

 

 理央は虫の容器を見た。

 

 山へ行っていない人でも、家へ持ち帰られたものに触れることはある。

 

 その欄にも、まだ空白が残っていた。

 

「虫が関係している可能性は高い。しかし、原因を1つに決めるには、まだ足りん」

 

「明日、上を見に行くニャ」

 

 レイニャが言うと、真壁は新しい紙へ山側の道を描いた。

 

「その前に、人が入るのを止めたい。家畜も上へ出さず、別の場所へ移すのは待ってもらおう」

 

 ニャースは窓の外を見た。

 

 ちょうど、山羊の鈴が道を通っていく。

 

「今いる柵の中で世話をするニャ。餌を運ぶ者も、決めておく」

 

 村長は戸口へ出て、上の草地と隣の林へ入らないよう村人に伝えた。

 

 声を受けた黄虎が山へ続く道へ向かい、ニャーズは家畜の世話をしている者へ知らせに行く。

 

 真壁は紙を渡す前に、山仕事の外套と患者の寝具を、食事や休む場所から分けておくよう付け加えた。

 

「今は、他の家へ貸し借りをせず、それぞれの家で扱ってほしい。虫の確認は明るいところで行う」

 

「見つけたら、この入れ物へ入れるニャ?」

 

 レーミが容器を指す。

 

「蓋を閉めて、持ってきてください。素手では潰さないで」

 

 理央が答えると、澪は村長へ容器と布の必要数を聞いた。

 

 水や食べやすい保存食も、配る家を決めてから出していく。

 

 床へ置いた物を村人が受け取り、レーミが患者の家ごとに分けた。

 

「その毛布も、しまって運べるニャ?」

 

 村人が机脇の包みを示したが、澪は手を伸ばさなかった。

 

「虫がついているかもしれないものは、そのまま分けて運びます。生きた虫ごと、普通の収納へは入れられません」

 

 ニャースが包みを置く側を決め、運ぶ人へ改めて声を掛けた。

 

 レイニャは布を受け取った人を呼び止める。

 

「熱が高い人、呼んでも返事が鈍い人、水が飲めない人を先に知らせるニャ」

 

 村長はその言葉も伝え直した。

 

 理央は机へ残った患者表を揃えた。

 

 同じ熱でも、先に行く家を選ぶための印が、今は横についている。

 

 

 

 ビエニャの家へ戻る頃には、窓から差す光が寝台まで届かなくなっていた。

 

 レイニャは入口で手琴を受け取り、邪魔にならない壁際へ置いた。

 

 メルは姉のマントも揃えて、その横へ掛ける。

 

「水、飲んだニャ」

 

 リーニャが器を示した。

 

 ビエニャは声を聞いて目を開け、レイニャを見た。

 

 熱は残っているが、今度は呼びかけてから目が合うまでが早い。

 

「草は……」

 

「明日、見るニャ。今日は寝てるニャ」

 

 レイニャは脈を確かめ、理央が紙に書いた処置後の様子と見比べた。

 

 また熱が上がるかもしれない。

 

 水が飲めなくなることもある。

 

 リーニャへ今夜見てほしいことを話すと、姉は器を置き直し、寝台から立つ時もその量が見えるようにした。

 

「夜は交代して見るニャ。レーミも来るニャ」

 

「変わったら、あたしを呼ぶニャ。家にいるニャ」

 

 レイニャが答える横で、理央は紙をもう1枚出していた。

 

「これ、ここに置いていきます。水を飲んだ時と、様子が変わった時だけでも、書いてもらえますか」

 

 リーニャは字へ目を落とした。

 

「これなら書けるニャ」

 

 理央は顔を上げ、書くところを指で示した。

 

 薬師が元気なら、こんなことはいつも自分で見ていたはずだ。

 

 けれど今、ビエニャの手は布の下にあり、患者のところへ回れない。

 

 レイニャは姉が紙を枕元へ置くのを見てから、マントと手琴を取り上げた。

 

 他の家へも戻り、呼吸と飲水を見直す間に、斜面の家々へ灯りが入った。

 

 魔法のあとに身体の力が緩んでも、熱の残る患者はいる。

 

 レイニャは看病する人の顔も確かめ、次に呼んでほしい状態を伝えて歩いた。

 

 村長の家の前には、蓋つき容器を受け取る人がまだ来ていた。

 

 父は荷を運ぶ方へ回り、母は配り終えた布の数を澪へ伝えている。

 

 シロガネは軒下に座り、通りかかった村人が足を止めて両手を合わせた。

 

 澪が白猫を見て何か言いかけ、結局、受け取った容器の蓋を確かめる方へ戻った。

 

「レイニャ。帰ってきてくれて助かったニャ」

 

 祖父の声に、レイニャは顔を上げた。

 

 昔も、この言葉を何度も聞いた。

 

 次の患者が待っていると知ると、荷物をまとめる手が止まった。

 

 今日も病人はいて、明日だけで治るとは言えない。

 

 しかし、祖父の机には真壁が作った表があり、母が運ぶ水は澪の出したものだった。

 

 理央はその表を写し、村へ置く紙と持ち帰るノートを分けている。

 

「明日、上の草地を見ましょう」

 

 理央が言った。

 

「ビエニャが起きられるようになってからも、使える記録にしたいです。今日のだけだと、まだ分からないところが多くて」

 

「山へ行った人に、もう少し聞くニャ」

 

「はい。道も、一緒に見てもらえます?」

 

「見るニャ」

 

 レイニャはノートへ顔を寄せた。

 

 《地図》で辿れる道を紙へ移し、理央は自分の《世界地図》の地形と合わせる。

 

 明日は草地から先へ、家を探していた朝とは違う道を一緒に歩く。

 

 真壁が隣へ容器を寄せた。

 

「患者を増やさぬ準備をしてからだ。肌を出さぬ服装と手袋、長靴を揃えよう」

 

 澪は虫除けや着るものを確かめ、不足する物を取りに戻ると言った。

 

 村側では草地の事情に詳しい案内役を出すと、祖父が約束する。

 

「明日の朝、事業所で真壁さんと待ち合わせます。ここへ来る扉を、また開きますね」

 

 理央が草地の方を指した。

 

 澪は今夜、村外れから侯爵領へ戻ったら、理央をゲンダイの家まで送るという。

 

 そのあと準備を済ませ、朝も一緒に事業所へ来ると約束した。

 

 レイニャは村で患者の様子を見て、明日の朝、その草地で3人を迎えることにした。

 

「待ってるニャ」

 

 帰ってきた自分に、また来てくれる人がいる。

 

 レイニャは手琴の紐を握り直した。

 

 出る時も、これを置いていかなくていい。

 

 上の道には、祖父の指示を受けた村人が立っていた。

 

 風が下りてくると、マントの裾が冷たく脚へ触れる。

 

 レイニャは理央と並んで、灯りのない山の入口を見上げた。

 

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