押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第392話 お風呂は嫌いニャ

 

 窓を開けると、冷たい霧が理央の手の甲へ触れた。

 

 ビエニャの枕元で湯を冷ましていたレイニャが、器の向きを変える。

 

「飲めるニャ?」

 

 寝床のビエニャは目を開け、両手で器を受け取った。

 

 昨日よりも呼びかけへの返事は早いが、飲み終えて腕を下ろすと、また身体を寝具へ預けた。

 

 理央は《鑑定》で今の状態を確かめ、枕元の紙へ書き添える。

 

 水を飲んだ時間の下に、熱の残ることも記した。

 

 紙の端を押さえる指には、まだ昨日、長く歩いたあとのだるさがある。

 

 あれだけ回収したのだから、という気持ちが、眠って起きたあとにも残っていたのかもしれない。

 

 理央は書き終えた紙を、レイニャの読める向きへ置いた。

 

「水は飲めています。でも、熱はまだ……」

 

「こっちも、もう少し見るニャ」

 

 レイニャは毛布を直し、手を当てて白魔法を使った。

 

 ビエニャの肩がゆるむのを待ってから、器を持って立ち上がる。

 

 全員へ同じように続ければ済むとは、理央にも言えなかった。

 

 廊下で看病を交代する家族とすれ違い、2人は外へ出た。

 

 石段はまだ湿っていて、理央は長靴の踵を確かめてから下りる。

 

 今朝も澪に迎えてもらい、新事業所からここへ来た時には、もう少し足が軽い気がしていた。

 

 村長の家の前では、真壁が患者ごとの紙を並べていた。

 

 澪の鞄の口から、虫について転記した頁がのぞいている。

 

「夜に急に悪くなった人はいないニャ。水も飲めてるニャ」

 

「虫を片づけても、感染した者の治療は別だ」

 

 真壁は今朝の紙を受け取り、昨夜の続きへ重ねた。

 

「テトラサイクリン系を当たってみます。使えるかどうかも、医療側へ相談して」

 

 澪が患者一覧を上に置いた。

 

 そこには、理央が見た結果だけでなく、家族から聞いた経過も書いてある。

 

「私、こっちで再発しにくくする方法を探します」

 

「患者はあたしが見るニャ。理央も、1人で全部やろうとしないニャ」

 

 レイニャは器を洗う方へ目を向けた。

 

 毛の間から虫を外す前にも、ここでは毎日、湯を沸かし、布を洗っていたのだ。

 

 理央は昨日の巡回図を鞄へ残し、患者の紙だけを澪へ渡した。

 

 家畜小屋から声がしたが、戸口にいるニャーモは山側へ群れを出していない。

 

「上の草地は、まだ待たせるニャ」

 

 ニャースが言い、真壁は頷いた。

 

「では分担しよう。澪君、行くぞ」

 

 村外れで衣服と荷を調べたあと、澪が扉を開いた。

 

 真壁と澪が侯爵領側へ抜けるのを見届け、理央はレイニャへ顔を向ける。

 

「山に入る前に使う、虫除けの草ってあります?」

 

 

 

 病院の待合室で、澪は番号札と患者一覧を見比べた。

 

 侯爵領から江古田を通ってゲンダイへ出るまでは早かったのに、椅子へ座ってから番号がなかなか進まない。

 

 受付では、保険を使わないことを真壁が先に伝えていた。

 

「診療と処方は、すべて自費でお願いします」

 

 自由診療として受け付けてもらい、澪も支払方法を確かめてから、渡された紙を膝へ置いた。

 

「真壁さん、ここ、私たちの名前を書くんですか?」

 

「相談に来た者の欄は、こちらだ。患者の欄へ我々を書いてはいかん」

 

 澪は筆記具を引っ込めた。

 

 危うく、十数人分の発熱を自分で引き受けるところだった。

 

 ようやく呼ばれた診察室で、澪は机へ紙を出す。

 

「患者は十数人です。症状と経過は、ここにあります」

 

「ご本人は、いらっしゃらないんですね」

 

「はい。すぐには連れてこられなくて……」

 

 医師は紙を読んだあと、患者ごとの年齢と体格へ目を戻した。

 

「この資料だけで全員の診断を決めたり、同じ薬を同じ量で出したりはできません」

 

 澪は、用意した説明をそこで止めた。

 

 足りない紙があるなら聞こうと思ったが、真壁はもう空いている頁を開いている。

 

「必要な情報を教えていただきたい。揃えよう」

 

 年齢、体格、これまで薬で異常が出たことがあるか、妊娠の可能性がないか。

 

 医師が問いを挙げるたび、真壁の筆記具が動いた。

 

 虫の記録と身体についての資料も見てもらい、さらに相談する先を教わる。

 

 外へ出ると、澪は息をつき、鞄へ紙を入れ直した。

 

「これで、1軒ですね」

 

「次へ行こう」

 

「今、数え始めただけです」

 

「数えて歩けばよい」

 

 真壁は歩調をゆるめたが、方向は次の診療所へ向いたままだった。

 

 そこで聞かれた項目を埋めるため、澪は一度、村へ戻った。

 

 人のいないところで扉を使い、レイニャと患者の家族に追加の問いを渡す。

 

 返事を紙にして持ち帰る頃には、鞄の中で最初の一覧と確認表を分ける必要が出ていた。

 

 真壁が診療所の椅子から立ち、澪の戻した紙を受け取る。

 

「薬は、まだですか」

 

「判断に必要な方が、先に揃った」

 

 澪は鞄の厚みを指で押さえた。

 

 薬を探しに来たはずなのに、紙を運ぶ仕事の方が先に上達している。

 

 追加の情報を医療側へ渡し、使う候補と、現地で照合してから始める条件を聞いた。

 

 医師の判断がついた患者分について処方箋を受け取り、診療費を自費で支払った。

 

 処方箋を持って薬局へ移ると、今度は必要な薬の在庫が足りなかった。

 

「すべては揃わないので、ほかの調剤先へ確認します」

 

 薬剤師が電話を取った。

 

 真壁は待っている間に、患者別の包みを置く順番を書き込む。

 

「昨日は、山を歩いてたんですよね」

 

「今日は街だ」

 

「私、椅子をうらやましがったんですけど」

 

「座る時間は増えたではないか」

 

 澪は待合用の椅子へ腰を下ろした。

 

 確かに増えた。

 

 ただ、座るたびに次の建物へ行くことが決まっている。

 

 別の薬局で不足分を受け取る時には、どの患者分がすでに揃ったかを先に示した。

 

 薬剤師が包みと紙を照らし合わせ、飲み方だけでなく、止めて相談する時の症状や、経過を見る項目を説明する。

 

 澪は聞き終えてから、表を自分の言葉で読み直した。

 

「ここに当てはまる時は、先に相談するんですね」

 

「そうです。確認できていない人の分と混ぜないでください」

 

 薬局でも保険を使わず、調剤と薬の代金を全額支払った。

 

 真壁は領収書を診療所のものと分け、薬は患者の紙と一緒に収める。

 

 最後の包みに対応する紙を重ねたところで、澪も鞄の口を閉じた。

 

「今度こそ、帰れますね」

 

「水を飲んでからにしよう、澪君」

 

 真壁が先に飲料水を出す。

 

 澪は受け取り、薬よりも自分の方が先にひと休み必要だったことを、ようやく思い出した。

 

 

 

 ビエニャの家の木棚から、レイニャは細い葉を束ねたものを下ろした。

 

 理央が受け取ると、乾いた葉の端が指へ引っかかる。

 

「虫除けに毛へ擦る草ならあるニャ。効いてるかは知らないニャ」

 

「ほかにもあります?」

 

「根のついたのもあるニャ。全部出すニャ?」

 

「全部、見せてください。比べた方が早いです」

 

 レイニャは棚と理央を見比べ、袖を上げた。

 

 乾燥葉の横へ根付きの鉢が並び、紫色の茎が机からはみ出す。

 

 戸口まで来たメルが鼻を近づけた途端、顔を反対へ向けた。

 

「強いニャ」

 

「揉んでないのにニャ」

 

 レイニャも鼻をひくつかせ、机から半歩離れた。

 

 理央は手にした株へ《鑑定》を向けた。

 

 先に、昨日基準にした虫へ忌避性があるかを見る。

 

 表示を追っていた目が、皮膚への刺激のところで止まった。

 

 強い匂いの株を、使う側の皿から外す。

 

「これは、毛へ擦るのには向きません。匂いが強ければいい、とはならないみたいです」

 

「よかったニャ。鼻が先に逃げるニャ」

 

 メルは戸口から戻らず、銀色がかった葉の方を指した。

 

 理央はそれも調べ、結果を紙へ書き分けた。

 

 レイニャが覗き込むと、どの株のことか分かるように鉢を紙の横へ置く。

 

「これは人に使う方。煮出すなら、薄めた時の刺激も見ます」

 

「羊にも使うニャ?」

 

「別に調べます。そっちに使えるのは、この株です」

 

 山羊と羊への安全性を確かめたものは、別の紙の上へ寄せた。

 

 似た匂いでも、煮出し液にした時の使い道は同じにならない。

 

 レイニャが葉を取り違えないよう、束の下へ鉢を並べ直した。

 

 奥の寝床から器を置く音がして、レイニャは一度、ビエニャの様子を見に戻る。

 

 待つ間、理央は選んだ3系統の根と、増やしやすさを照らし合わせた。

 

 土を少し含んだ株を《生体収納》へ移すと、机の上の鉢に隙間ができる。

 

 収納内農地へそれぞれ分けて植え、挿し穂と種にも育てる場所を取った。

 

「増やしてるニャ?」

 

 戻ってきたレイニャへ、理央は頷く。

 

「村でも育てられそうなものを選びました。使うたびに、買いに行かなくて済むように」

 

 苗が揃うと、薄い靄を通して外へ出した。

 

 メルが小さな株を受け取り、根の下へ手を添える。

 

「ここから、また葉が出るニャ」

 

「はい。だから、全部抜いて使わないようにしたいです」

 

 家のそばの土へ植える時は、村人にも株の間を空けてもらった。

 

 家畜小屋の横には家畜用を分け、山道入口では、人に使う葉を取りやすい方へ寄せる。

 

 ニャーモが土を押さえ、植えたばかりの株の脇へ小さな目印を置いた。

 

「これで、虫は来なくなるニャ?」

 

 メルが山側を見た。

 

「来なくなるとまでは言えません。葉を使ったり、煮出したりする分を、ここで育てるんです」

 

 理央は土のついた手を払い、家畜道の先へ目を向けた。

 

 昨日、何度も足を止めたところに、今は小さな葉が揺れている。

 

 メルはそのうちの1枚に鼻を近づけ、今度は顔を背けずに済んだ。

 

 

 

 水路沿いの洗い場では、薪を運んできた村人が手足を洗っていた。

 

 理央は最後の苗の籠を石の上へ置き、桶の水が濁るのを見た。

 

 村人は水を替えると布を絞り、腕の毛を根元から分けて拭く。

 

 すぐ隣では、リーニャがメルの背へ櫛を通していた。

 

 黒と赤茶と白が混じる姉の毛には、日なたの光が細く載っている。

 

「動くと引っかかるニャ」

 

「苗、植えてきたニャ」

 

「聞いてるニャ。今はこっちニャ」

 

 メルが話すたびに身体が向きを変え、そのたびにリーニャの手が止まる。

 

 理央は、自分の手袋を外した。

 

 泥は見える。

 

 けれど、昨日見つけた虫の大きさなら、毛の奥へ入った時には見落としてしまう。

 

「みんなで、全身を洗える場所があったら……」

 

 レイニャが籠を片づけながら耳をこちらへ向けた。

 

 理央は言葉を続ける。

 

「衛生は、お風呂からだと思うんです」

 

「嫌ニャ」

 

 籠が石の上へ戻った。

 

 レイニャの耳は、もう後ろへ伏せている。

 

「まだ何も説明してません」

 

「お風呂って聞いたニャ」

 

「温かいお湯で、身体を……」

 

「そこまでは知ってるニャ」

 

 理央は、次に説明しようとしていた湯船の話を飲み込んだ。

 

 日なたで腕を拭いていた村人まで、布を持つ手を止めてこちらを見ている。

 

 メルが姉の櫛から逃れるように身を乗り出した。

 

「温かいニャ?」

 

「はい。冷たい水より、ずっと」

 

「全身、濡れるニャ?」

 

「……はい」

 

「嫌ニャ」

 

 メルは元の場所へ戻り、リーニャへ背を向けた。

 

 さっきまでじっとできなかった妹が、今は大人しく櫛を待っている。

 

 レイニャは自分の尻尾を前へ寄せ、理央の手の届かない方へしまった。

 

 まだ、お湯も何も出していないのに。

 

「いつも、こうやって綺麗にしてるニャ」

 

 レーミが濡れ布を畳み、桶の横へ置いた。

 

 レイニャより白地の多い三毛の腕は、拭いたばかりで毛並みが揃っている。

 

「それは分かります。でも、毛の奥を見たい時とか、山から帰った時に……」

 

「帰ってから、また濡れるニャ?」

 

 レイニャはさらに耳を伏せた。

 

 理央はニャースへ助けを求めるように顔を向けた。

 

 村長は口元に混じる白毛を撫で、洗い場の一同を見回す。

 

「この村で風呂を喜ぶ者は、あまりいないですニャ」

 

 誰も訂正しなかった。

 

 理央の頭の中には、湯に入って肩をゆるめる自分がいた。

 

 目の前には、肩から尻尾の先まで力を入れたレイニャがいる。

 

 同じものを思い浮かべていたつもりが、どうやら違った。

 

「分かりました。先に、どこが嫌なのか聞いていいですか」

 

 理央がノートを開くと、レイニャの耳がほんの少し戻った。

 

「それなら話せるニャ」

 

 

 

 村長の家の前へ戻ると、レイニャは日なたに立ち、腕の三毛を指で分けた。

 

「外の毛が乾いても、この奥が濡れてるニャ」

 

 理央は覗き込み、短い毛の下にも密に重なる毛があるのを見た。

 

「2層になってるんですね」

 

「奥まで乾くのを待ってると、寒くなるニャ。濡れた毛は重いニャ」

 

 レイニャは尻尾を前へ寄せた。

 

「これまで重くなると、すぐ動けないニャ。山でそんなの、嫌ニャ」

 

 理央は深い湯船の絵を消し、浅く描き直した。

 

「耳は濡らさなくて大丈夫にします。長く入っていなくてもいいです」

 

「出てから寒いニャ」

 

 リーニャは、日なたへメルを寄せた。

 

 理央も冷たい風を腕に感じ、浴槽の横に部屋を描く。

 

「温かい風で、毛の根元まで短時間で乾かす部屋を作ったらどうです?」

 

 レイニャの耳の片方が起きた。

 

「尻尾もニャ?」

 

「尻尾もです」

 

「毛が絡んだら、あとで大変ニャ」

 

 レーミがメルの持つ櫛を取り、歯に残った毛を外した。

 

 白地の多い腕へ通し直し、毛流れが揃うところまで確かめる。

 

「乾けば何でもいいわけじゃないニャ。毛がばらばらになるのは嫌ニャ」

 

「無香料のリンスインシャンプーも、使えるか調べます。洗ったあとに、櫛が通りやすくなるものです」

 

 リーニャが紙へ身を寄せた。

 

「変な匂いはつかないニャ?」

 

「香料のないものを用意して、こちらの身体に合うかも見ます」

 

「毛が寝ちゃうのも嫌ニャ」

 

 レイニャが自分の腕を撫でた。

 

「黒と茶のところ、ちゃんと綺麗に見えるのがいいニャ」

 

 理央は乾燥室の横へ、櫛とブラシの置場を足した。

 

 濡れたあとを嫌がっていると思っていたら、乾いたあとの仕上がりにまで注文が届いた。

 

「大きな布で水を取ってから乾かして、最後に毛を整える場所も作ります」

 

「そこまで変えるんですニャ?」

 

 ニャースが、浴槽より大きくなった部屋を見た。

 

「使ってもらえないものを作っても、意味がないです」

 

 理央は筆記具を置き、レイニャへ顔を向ける。

 

「毎日入ってください、とは言いません。山仕事のあとや、ダニの多い時期に、毛の奥と皮膚を見るために使いたいんです」

 

「お湯で虫が死ぬニャ?」

 

「この温度だけでは、全部は死ぬと言えません。洗い流して、毛を分けて、残っていないか見る方です」

 

 レイニャは浅い浴槽を指で押さえた。

 

「まだ、入るって言ってないニャ」

 

「はい。今は、作る場所の相談です」

 

 ニャースに案内され、水路に近い空き地へ歩いた。

 

 飲む水を取る場所は上にあり、足元の土は下流側へ傾いている。

 

 理央は《世界地図》の地形を紙へ描き、排水を戻さずに出せる方を空けた。

 

 洗い場と寝具を洗う槽を分け、家畜用にはさらに離れた土地を取る。

 

 村長が木材と石の準備を頼む間、メルは紙の乾燥室を指していた。

 

「ここで、綺麗にするニャ?」

 

「そうです」

 

「こっちも大きくするニャ」

 

 レイニャは訂正せず、櫛を置くところが狭くないか確かめた。

 

 

 

 午後、新事業所から村外れへ開いた扉を抜けると、澪の靴にまた土がついた。

 

 真壁は薬を収めた包みを持ち、村長の家へ向かう。

 

 洗い場の方から木槌の音がしたが、澪も先に患者の紙を取り出した。

 

「レイニャ、薬と、使う時の注意事項です」

 

 机へ患者別の包みを並べると、理央が今朝の紙と、追加で答えた確認表を重ねた。

 

 レーミも呼ばれ、名前と身体の状態を1人ずつ照らし合わせる。

 

 薬で異常が出たことのある者については、表へ指を置いてもう一度読み返した。

 

「この欄が確かめられていない時は、始めずに相談してください」

 

「勝手に隣の人へ分けないニャ」

 

 レイニャが言い、レーミは包みを患者の紙のそばへ移した。

 

 ビエニャの家では、理央が《鑑定》で今の状態を見て口頭で伝え、レイニャが指示と照合して最初の服用を見届けた。

 

 水の器が空いてから、時刻を書き入れる。

 

 すぐに身体が軽くなるわけではなく、ビエニャはまた寝床へ腕を戻した。

 

「あとも、こっちを見るニャ」

 

 レーミへ経過を見る項目を渡したあと、澪はようやく空き地へ歩いた。

 

 板と石が積まれ、地面には建物の形に縄が張ってある。

 

「……戻ったら、風呂を作ることになってるんですけど」

 

「まだ作ってません。使ってもらえる形を、考えただけです」

 

 理央が紙を差し出した。

 

 澪は受け取り、真ん中にある浅い浴槽と、その横の部屋を見た。

 

「乾燥室?」

 

「こっちが大事ニャ」

 

 レイニャの返事は早かった。

 

 真壁は図へ目を通すと、水路の上手へ足を向けた。

 

 土の傾斜を確かめ、排水先を示してから振り返る。

 

「浅い浴槽に乾燥室か。悪くない。洗い場はこちらへ寄せよう」

 

「お湯、どうします?」

 

「水を引き、《収納》内で圧縮して高温側を作る。冷水と混ぜればよい」

 

「真壁さん、その答えが早すぎません?」

 

 澪が図を持ったまま尋ねると、真壁は工具を出した。

 

「必要な設備を造っているだけだよ、澪君」

 

 まだ造るかどうか聞いている気でいたのは、澪だけだったらしい。

 

 靄の向こうからポンプと配管が現れ、継手を受け取った村人が、土へ置かずに板の上へ並べる。

 

 ニャーモは水を引く溝を掘り、ほかの村人は石を運んだ。

 

 澪は追加の品を理央と決め、給水工事の間にゲンダイへ買いに戻った。

 

 無香料のリンスインシャンプーと鏡、送風機に携帯電源を持ち帰ると、木の壁が立ち始めている。

 

 理央はシャンプーへ《鑑定》を向け、ケット・シーの毛と皮膚に使えることを、レイニャへ口頭で伝えた。

 

 鋸の音が止まると、板が乾燥室の壁へ渡される。

 

 真壁が掘り上げた土を収納し、敷く石の位置を揃えると、澪も布と櫛を出す方へ回った。

 

 ニャーモがポンプの柄を動かし、貯水槽へ水が送られる。

 

 高温側に使う水だけを真壁が収納すると、残った冷水の量が見えるようになった。

 

 戻された高温水は、浴槽から離した槽へ入る。

 

 澪が手桶を持って近づきかけると、真壁が混合槽の方を示した。

 

「そこから直接、人へ出してはいかん。こちらで冷水と合わせる」

 

 理央は温度計を見て、まだ熱い湯へ冷水を足した。

 

 真壁が流す先を切り替えるのは、温度が落ち着いてからだった。

 

 浅い浴槽に湯が広がり、木の壁に湿った匂いがつく。

 

 衣類と寝具を洗う高温の槽は、手桶を取る洗い場と分けた。

 

 乾燥室は、温水の熱で暖めた空気を送風機で巡らせる、ドライヤールームにした。

 

 洗浄用の高温槽とは系統を分け、真壁が熱と風を調整する。

 

 理央は風が偏らないか、入口と奥へ立って確かめた。

 

「これなら、寒くはないです。熱すぎる感じも……」

 

 レイニャが後ろから耳を出した。

 

「風、強くないニャ」

 

「浴場の方も見ます?」

 

「こっちを先に見るニャ」

 

 澪は櫛の籠を持ち、入口で足を止めた。

 

 湯を張ったばかりの浴槽より、空っぽの部屋に人が集まっている。

 

 外では真壁が、飲用水源へ戻らない排水溝を村人と辿っていた。

 

 家畜用は別の区画へ溝を出し、人の洗い水と合流させない。

 

 戻ると給湯と送風の操作札をつけ、村人自身に湯を混ぜ、風を弱めてもらった。

 

 電源の残量を見る箇所も示し、補充は商会側で引き受ける。

 

「私がいない時は、薪で温めた湯をこちらへ入れる。温度を見てから送ることだ」

 

 加熱するところと、身体に使う湯を取るところを指し分ける。

 

 理央も札を読みながら動かし、取り違えそうになった手桶を洗い場側へ移した。

 

 メルに大判布を棚へ置いてもらい、澪は毛を整える場所に鏡を据えた。

 

 リーニャが角度を少し直すと、レーミも映る腕の白毛を確かめた。

 

 紙の上にあった部屋へ、風の音に混じって水を流す音が入ってきた。

 

 

 

 湯を張り終えても、浴槽の前には誰も立たなかった。

 

 理央が手桶を持ち、湯を少しすくって戻す。

 

 水音が響くと、入口にいたメルが顔を引っ込めた。

 

 洗い場まで覗きに来た村人も、床の乾いているところから動かない。

 

 理央は温度を読み、芳香草を薄く加えた湯へ《鑑定》を向けた。

 

 ケット・シーに使う濃さとして支障がないことを確かめ、手桶を縁へ置く。

 

「温度も、草の方も見ました。レイニャ、最初にお願いします」

 

「嫌ニャ」

 

 レイニャは手琴を抱え直した。

 

「まだ、触ってみるとも言ってないニャ」

 

「はい。だから、今お願いしてます」

 

 理央は浴槽の脇から、乾燥室までの空いた床を示した。

 

「白魔道士として、安全確認をお願いしたいんです。村で患者を診ているレイニャに、毛を分けて見る時も使いやすいか、確かめてもらいたくて」

 

 レイニャの耳が完全に伏せた。

 

 後ろでメルが乾いた布を持ち上げる。

 

「姉ちゃん、入るニャ?」

 

「ずるい言い方ニャ……」

 

 レイニャは理央から浴槽へ目を移し、それから妹を見た。

 

「見てないで手伝うニャ」

 

 メルが前へ出たので、理央は布を置く方へ案内した。

 

 看病を交代してきたレーミも加わり、リーニャが手琴を預かる。

 

 旅装を外したレイニャは、浴槽へ向かうより先に、温かい部屋の入口を確かめた。

 

「ここまで、すぐ行けるニャ?」

 

「行けます。途中で上がってもいいです」

 

 理央は入る前の身体表面を調べ、レーミにも毛を分けて見てもらった。

 

 レイニャは片足を湯へつけ、すぐに引き上げる。

 

「熱かったです?」

 

「濡れたニャ」

 

 理央は返事に詰まり、手桶を置き直した。

 

 レイニャはもう1度、足を入れた。

 

 今度は反対の足も進み、尻尾だけが高いところへ持ち上がる。

 

 浅い湯は胸まで来ないが、濡れた毛の黒と茶の斑が、肌に沿って細くなった。

 

 耳は伏せたまま、鼻先は湯から遠い方を向いている。

 

「頭と耳は、そのままで大丈夫です」

 

「そのままにしてるニャ」

 

 レーミが手桶を取り、肩の下の毛を分けながら湯を使った。

 

 理央が無香料のリンスインシャンプーを渡すと、リーニャが毛へなじませ、絡めないように洗う。

 

 レイニャの鼻が動いたが、今度は顔を背けなかった。

 

 手桶ですすぐと、泡が流れ、指が毛の間を滑らかに通った。

 

 理央は洗ったところを追い、皮膚に痕がないか、家族にも見えるよう毛を開いてもらう。

 

 湯面には少量の葉が浮かび、青い匂いが木の匂いと混じった。

 

 レイニャの尻尾が少し下がり、先が湯へ近づく。

 

「姉ちゃん、尻尾ニャ」

 

「分かってるニャ」

 

 尻尾がまた上がった。

 

 メルは布を持って待ち、湯へ落ちないよう自分まで背筋を伸ばしている。

 

「もう上がって大丈夫です」

 

 理央が言うと、レイニャは聞き返さずに縁へ手をかけた。

 

 湯の外へ出たところを、レーミが大判布で包む。

 

 リーニャが背の毛へ別の布を当て、メルは尻尾の方を受け持った。

 

「引っ張ってるニャ」

 

「引っ張ってないニャ。姉ちゃんが歩くニャ」

 

 レイニャが足を止めると、妹もようやく布を押し当てられた。

 

 誰も浴槽へ入ろうとはしなかったのに、出たあとの手伝いには迷いがない。

 

 理央は床に落ちた水を拭き、乾燥室の入口を空けた。

 

 レイニャは布を抱えてドライヤールームへ入り、温かい空気が当たるところで止まった。

 

 リーニャが毛を開くと、穏やかな風が根元へ入る。

 

 メルが押さえていた尻尾の先から、湿った重さがほどけていった。

 

「もう乾いてるニャ」

 

 レーミは表面だけでなく奥の毛へ指を入れ、背から脇へ確かめた。

 

 理央が濡れた布を畳んで振り向くと、伏せていた耳が、もう両方とも起きている。

 

 寒さをこらえる間もなく乾き、レイニャは自分の腕を持ち上げた。

 

 短い毛が根元からふわりと起き、白地の上の黒と茶の斑まで、輪郭がくっきりしている。

 

 櫛を通すリーニャの手が止まった。

 

「……柔らかいニャ」

 

 もう1度、同じところを撫でる。

 

 レーミも反対の腕へ触れ、白毛が光を含むように明るくなったところへ目を留めた。

 

 メルは尻尾を両手で囲み、少し広がった毛から手を離せずにいる。

 

「姉ちゃん、ふわふわニャ」

 

「触るの、そこまでニャ」

 

 レイニャは尻尾を取り戻し、鏡の前へ進んだ。

 

 横を向いて腕の柄を見て、今度は背中を映そうと肩を回す。

 

 理央が鏡を傾けると、レイニャの耳がこちらを向いた。

 

「もうちょっと、こっちニャ」

 

 鏡へ近づき、首元の毛を撫でてから、最後に尻尾の形を整える。

 

 見違えるほどふわふわになった三毛は、触れた指が少し沈み、離すとすぐに戻った。

 

 リーニャは櫛の向きを替え、肩から背へ毛流れを揃えた。

 

「膨らませるだけじゃ、だめニャ。ここ、こうするニャ」

 

「その方が綺麗ニャ」

 

 レイニャが鏡の中で頷く。

 

 理央はその間に、昨日と同じ対象を《生体収納》で探した。

 

「ダニの反応はありません。毛の奥も乾いてます。どうです?」

 

「……お風呂は嫌いニャ」

 

「今、すごく鏡を見てましたけど」

 

「お風呂の話ニャ。毛の話は別ニャ」

 

 レイニャは、まだ鏡から離れなかった。

 

 リーニャが預かっていた手琴と旅装を渡すと、マントを着る前に、自分の腕をもう1度撫でる。

 

「すぐ乾いて、これになるなら、山から帰った日くらいは入ってもいいニャ」

 

 レーミは鏡へ腕の白毛を映し、リーニャは櫛の置場を確かめた。

 

「次、誰ニャ?」

 

 メルが聞くと、母と姉が同時に浴槽を見た。

 

 どちらもすぐには返事をせず、まず、レイニャの毛へもう一度目を戻している。

 

 外で待っていた村人が、乾いた尻尾を目で追った。

 

 メルは入口へ戻り、リーニャに声を掛ける。

 

「メルも、ふわふわになるニャ?」

 

「先に洗ってからニャ」

 

 妹は浅い浴槽を見たあと、乾燥室までの短い床を、もう1度目で辿った。

 

 

 

 浴場の外へ出ると、ニャーモが山羊を連れてきていた。

 

 澪は人用の洗い場から離れ、柵のある家畜用区画へ回った。

 

 浅い槽には、家畜用の芳香草液が張ってある。

 

 理央は液へ《鑑定》を向け、山羊と羊に使う濃さを確かめてから、通してよいとニャーモへ伝えた。

 

 ニャーモが先へ歩いても、最初の山羊は入口で止まった。

 

 前脚が左右へ開き、蹄が乾いた地面を押さえる。

 

 後ろから羊が近づいても、その姿勢は変わらない。

 

「入ってくれませんね」

 

「嫌がってるニャ」

 

 ニャーモは短く答え、後ろの羊をいったん離した。

 

 澪は山羊の目の高さまで屈み、槽の先を見た。

 

 柵が近く、向こうへ抜けるところが、横木に隠れている。

 

「もう少し、外へ広げましょうか」

 

「追い込まず、前へ抜ける形にしたまえ」

 

 真壁が留め具を外し、ニャーモが柵を立て直した。

 

 理央も入口へ寄って、新しい隙間から出口を覗く。

 

「人も家畜も、嫌なことは同じなんですね」

 

「理央もようやく分かったニャ」

 

 ふわふわの毛を旅装からのぞかせたレイニャが、山羊の方を見て言った。

 

「レイニャ、さっきまで一番嫌がってましたよね」

 

「それとこれは別ニャ」

 

 山羊はまだ入口に立っている。

 

 澪には、レイニャが分かってくれたことを伝えても、前へ進みそうには見えなかった。

 

 ニャーモが出口側へ回り、群れへ背を向けずに待った。

 

 山羊の耳がそちらを向き、ようやく片足が液へ入る。

 

 浅い水を蹄が割ると、続く足も前へ出た。

 

 顔は上にあり、目も鼻も口も浸からない。

 

 山羊が抜けたあと、間を空けて羊も通った。

 

「こっちなら、行くニャ」

 

 ニャーモは柵の位置へ目印を置いた。

 

 澪は出てきた山羊の毛を村人に分けてもらい、理央とそれぞれ対象の生体を探した。

 

 理央は残っていた反応を《生体収納》へ回収し、立つ場所を変えて再び確かめる。

 

「今は、出ません」

 

「こちらからも、反応なしです」

 

 薬浴を通っただけで済ませず、羊の方も同じように見た。

 

 真壁は別に取った排水路をニャーモへ示し、人用の水へ戻らないことを一緒に辿る。

 

「繰り返す日は、村で決めてくれ。液も人用とは分けたままだ」

 

「村長と決めるニャ」

 

 ニャーモは小屋の方へ群れを向けた。

 

 濡れた蹄の跡が地面へ続き、入口で踏ん張っていた山羊が、その先を歩いていく。

 

 レイニャは腕の毛を櫛でひと撫でしたあと、櫛を浴場へ返しに戻った。

 

 

 

 浴場の木壁には、まだ水滴が残っていた。

 

 澪は棚へ乾いた布を足し、外へ出て、ようやく両手を空けた。

 

 ドライヤールームから出てきた子どもたちは、すっかりふわふわになっていた。

 

 追いかけようとしたメルが、レーミに呼ばれて濡れ布を片づけに戻った。

 

 リーニャは鏡で背の毛流れを直し、レーミは白い腕へ櫛を通してから、布を片づける方へ戻った。

 

 家畜の鈴は、小屋へ向かう方から聞こえていた。

 

 ニャースが壁に触れ、次に水を引いた側へ目を向ける。

 

「どうして、そんなに良くしてくださるんですニャ」

 

 澪は布の籠を棚へ戻し、村長へ身体を向けた。

 

 ニャースは真壁も見ている。

 

「虫を取って、薬を持ってきて、草も増やして。風呂まで出来たニャ」

 

 村長の大きな手が、新しい壁から離れた。

 

 澪は、困っていたからです、と答えかけた。

 

 それだけでは、明日から設備を使い、人を動かす村長の問いに足りない気がした。

 

「ケット・シー族には、優秀な行商人が多いと聞く」

 

 真壁が言った。

 

 ニャースの琥珀色の目が、真壁から澪へ移る。

 

「ぜひ、押入商会に入ってくれる人材を得たいからです」

 

「人材、ですニャ?」

 

「はい。病気で村から出られない状態じゃ、人を雇うことも、商売を始めることもできませんから」

 

 澪は小屋へ続く道を見てから、村長へ目を戻した。

 

「先に、ここで安心して暮らせるようになってほしいです。そのあと、外へ出て働きたい人がいたら、うちを考えてもらえたら」

 

 少し離れて紙を揃えていた理央の手が止まる。

 

「そこまで考えてたんですね……」

 

 澪はレイニャの旅装へ目を向けた。

 

 手琴もマントも、家へ戻ったからといってしまわれてはいない。

 

「行商でも、商館でも。荷を運ぶ仕事や、飛行船に関わる仕事もあります。皆さんが作るものを、外で売る話もできます」

 

「慈善だけではない。先への投資ということだ」

 

 真壁は操作札の端を留め直した。

 

 ニャースはしばらくその手元を見ていたが、今度は理央の図へ目を向ける。

 

「ずいぶん先まで見る商会ですニャ」

 

「今すぐ誰かを連れていくつもりはないですよ。外へ出たい人がいた時の選択肢です」

 

 澪は言ってから、村長の返事を待った。

 

 ニャースは浴場の中へ顔を向け、桶を置き直す村人を呼んだ。

 

 水を混ぜる手順を、村で使う者にももう一度見てもらう。

 

「まず、病人が元気になるのを待つニャ。その先は、望む者と話すニャ」

 

 レイニャは家並みを見上げた。

 

「ビエニャの様子、また見てくるニャ」

 

「あとで私も行きます。今朝の紙、持っていきますね」

 

 理央がノートを抱える。

 

 レイニャは歩き出しかけ、浴場の入口へ戻った。

 

 置き忘れたマントを取るのかと思うと、棚に置いた大判布を、手の届きやすい方へ寄せている。

 

「次の人も、すぐ取れるニャ」

 

 そう言って旅装を直し、村の道へ戻った。

 

 澪が外の籠を持ち上げると、風に揺れた芳香草の葉が、袖へ触れた。

 

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