窓を開けると、冷たい霧が理央の手の甲へ触れた。
ビエニャの枕元で湯を冷ましていたレイニャが、器の向きを変える。
「飲めるニャ?」
寝床のビエニャは目を開け、両手で器を受け取った。
昨日よりも呼びかけへの返事は早いが、飲み終えて腕を下ろすと、また身体を寝具へ預けた。
理央は《鑑定》で今の状態を確かめ、枕元の紙へ書き添える。
水を飲んだ時間の下に、熱の残ることも記した。
紙の端を押さえる指には、まだ昨日、長く歩いたあとのだるさがある。
あれだけ回収したのだから、という気持ちが、眠って起きたあとにも残っていたのかもしれない。
理央は書き終えた紙を、レイニャの読める向きへ置いた。
「水は飲めています。でも、熱はまだ……」
「こっちも、もう少し見るニャ」
レイニャは毛布を直し、手を当てて白魔法を使った。
ビエニャの肩がゆるむのを待ってから、器を持って立ち上がる。
全員へ同じように続ければ済むとは、理央にも言えなかった。
廊下で看病を交代する家族とすれ違い、2人は外へ出た。
石段はまだ湿っていて、理央は長靴の踵を確かめてから下りる。
今朝も澪に迎えてもらい、新事業所からここへ来た時には、もう少し足が軽い気がしていた。
村長の家の前では、真壁が患者ごとの紙を並べていた。
澪の鞄の口から、虫について転記した頁がのぞいている。
「夜に急に悪くなった人はいないニャ。水も飲めてるニャ」
「虫を片づけても、感染した者の治療は別だ」
真壁は今朝の紙を受け取り、昨夜の続きへ重ねた。
「テトラサイクリン系を当たってみます。使えるかどうかも、医療側へ相談して」
澪が患者一覧を上に置いた。
そこには、理央が見た結果だけでなく、家族から聞いた経過も書いてある。
「私、こっちで再発しにくくする方法を探します」
「患者はあたしが見るニャ。理央も、1人で全部やろうとしないニャ」
レイニャは器を洗う方へ目を向けた。
毛の間から虫を外す前にも、ここでは毎日、湯を沸かし、布を洗っていたのだ。
理央は昨日の巡回図を鞄へ残し、患者の紙だけを澪へ渡した。
家畜小屋から声がしたが、戸口にいるニャーモは山側へ群れを出していない。
「上の草地は、まだ待たせるニャ」
ニャースが言い、真壁は頷いた。
「では分担しよう。澪君、行くぞ」
村外れで衣服と荷を調べたあと、澪が扉を開いた。
真壁と澪が侯爵領側へ抜けるのを見届け、理央はレイニャへ顔を向ける。
「山に入る前に使う、虫除けの草ってあります?」
病院の待合室で、澪は番号札と患者一覧を見比べた。
侯爵領から江古田を通ってゲンダイへ出るまでは早かったのに、椅子へ座ってから番号がなかなか進まない。
受付では、保険を使わないことを真壁が先に伝えていた。
「診療と処方は、すべて自費でお願いします」
自由診療として受け付けてもらい、澪も支払方法を確かめてから、渡された紙を膝へ置いた。
「真壁さん、ここ、私たちの名前を書くんですか?」
「相談に来た者の欄は、こちらだ。患者の欄へ我々を書いてはいかん」
澪は筆記具を引っ込めた。
危うく、十数人分の発熱を自分で引き受けるところだった。
ようやく呼ばれた診察室で、澪は机へ紙を出す。
「患者は十数人です。症状と経過は、ここにあります」
「ご本人は、いらっしゃらないんですね」
「はい。すぐには連れてこられなくて……」
医師は紙を読んだあと、患者ごとの年齢と体格へ目を戻した。
「この資料だけで全員の診断を決めたり、同じ薬を同じ量で出したりはできません」
澪は、用意した説明をそこで止めた。
足りない紙があるなら聞こうと思ったが、真壁はもう空いている頁を開いている。
「必要な情報を教えていただきたい。揃えよう」
年齢、体格、これまで薬で異常が出たことがあるか、妊娠の可能性がないか。
医師が問いを挙げるたび、真壁の筆記具が動いた。
虫の記録と身体についての資料も見てもらい、さらに相談する先を教わる。
外へ出ると、澪は息をつき、鞄へ紙を入れ直した。
「これで、1軒ですね」
「次へ行こう」
「今、数え始めただけです」
「数えて歩けばよい」
真壁は歩調をゆるめたが、方向は次の診療所へ向いたままだった。
そこで聞かれた項目を埋めるため、澪は一度、村へ戻った。
人のいないところで扉を使い、レイニャと患者の家族に追加の問いを渡す。
返事を紙にして持ち帰る頃には、鞄の中で最初の一覧と確認表を分ける必要が出ていた。
真壁が診療所の椅子から立ち、澪の戻した紙を受け取る。
「薬は、まだですか」
「判断に必要な方が、先に揃った」
澪は鞄の厚みを指で押さえた。
薬を探しに来たはずなのに、紙を運ぶ仕事の方が先に上達している。
追加の情報を医療側へ渡し、使う候補と、現地で照合してから始める条件を聞いた。
医師の判断がついた患者分について処方箋を受け取り、診療費を自費で支払った。
処方箋を持って薬局へ移ると、今度は必要な薬の在庫が足りなかった。
「すべては揃わないので、ほかの調剤先へ確認します」
薬剤師が電話を取った。
真壁は待っている間に、患者別の包みを置く順番を書き込む。
「昨日は、山を歩いてたんですよね」
「今日は街だ」
「私、椅子をうらやましがったんですけど」
「座る時間は増えたではないか」
澪は待合用の椅子へ腰を下ろした。
確かに増えた。
ただ、座るたびに次の建物へ行くことが決まっている。
別の薬局で不足分を受け取る時には、どの患者分がすでに揃ったかを先に示した。
薬剤師が包みと紙を照らし合わせ、飲み方だけでなく、止めて相談する時の症状や、経過を見る項目を説明する。
澪は聞き終えてから、表を自分の言葉で読み直した。
「ここに当てはまる時は、先に相談するんですね」
「そうです。確認できていない人の分と混ぜないでください」
薬局でも保険を使わず、調剤と薬の代金を全額支払った。
真壁は領収書を診療所のものと分け、薬は患者の紙と一緒に収める。
最後の包みに対応する紙を重ねたところで、澪も鞄の口を閉じた。
「今度こそ、帰れますね」
「水を飲んでからにしよう、澪君」
真壁が先に飲料水を出す。
澪は受け取り、薬よりも自分の方が先にひと休み必要だったことを、ようやく思い出した。
ビエニャの家の木棚から、レイニャは細い葉を束ねたものを下ろした。
理央が受け取ると、乾いた葉の端が指へ引っかかる。
「虫除けに毛へ擦る草ならあるニャ。効いてるかは知らないニャ」
「ほかにもあります?」
「根のついたのもあるニャ。全部出すニャ?」
「全部、見せてください。比べた方が早いです」
レイニャは棚と理央を見比べ、袖を上げた。
乾燥葉の横へ根付きの鉢が並び、紫色の茎が机からはみ出す。
戸口まで来たメルが鼻を近づけた途端、顔を反対へ向けた。
「強いニャ」
「揉んでないのにニャ」
レイニャも鼻をひくつかせ、机から半歩離れた。
理央は手にした株へ《鑑定》を向けた。
先に、昨日基準にした虫へ忌避性があるかを見る。
表示を追っていた目が、皮膚への刺激のところで止まった。
強い匂いの株を、使う側の皿から外す。
「これは、毛へ擦るのには向きません。匂いが強ければいい、とはならないみたいです」
「よかったニャ。鼻が先に逃げるニャ」
メルは戸口から戻らず、銀色がかった葉の方を指した。
理央はそれも調べ、結果を紙へ書き分けた。
レイニャが覗き込むと、どの株のことか分かるように鉢を紙の横へ置く。
「これは人に使う方。煮出すなら、薄めた時の刺激も見ます」
「羊にも使うニャ?」
「別に調べます。そっちに使えるのは、この株です」
山羊と羊への安全性を確かめたものは、別の紙の上へ寄せた。
似た匂いでも、煮出し液にした時の使い道は同じにならない。
レイニャが葉を取り違えないよう、束の下へ鉢を並べ直した。
奥の寝床から器を置く音がして、レイニャは一度、ビエニャの様子を見に戻る。
待つ間、理央は選んだ3系統の根と、増やしやすさを照らし合わせた。
土を少し含んだ株を《生体収納》へ移すと、机の上の鉢に隙間ができる。
収納内農地へそれぞれ分けて植え、挿し穂と種にも育てる場所を取った。
「増やしてるニャ?」
戻ってきたレイニャへ、理央は頷く。
「村でも育てられそうなものを選びました。使うたびに、買いに行かなくて済むように」
苗が揃うと、薄い靄を通して外へ出した。
メルが小さな株を受け取り、根の下へ手を添える。
「ここから、また葉が出るニャ」
「はい。だから、全部抜いて使わないようにしたいです」
家のそばの土へ植える時は、村人にも株の間を空けてもらった。
家畜小屋の横には家畜用を分け、山道入口では、人に使う葉を取りやすい方へ寄せる。
ニャーモが土を押さえ、植えたばかりの株の脇へ小さな目印を置いた。
「これで、虫は来なくなるニャ?」
メルが山側を見た。
「来なくなるとまでは言えません。葉を使ったり、煮出したりする分を、ここで育てるんです」
理央は土のついた手を払い、家畜道の先へ目を向けた。
昨日、何度も足を止めたところに、今は小さな葉が揺れている。
メルはそのうちの1枚に鼻を近づけ、今度は顔を背けずに済んだ。
水路沿いの洗い場では、薪を運んできた村人が手足を洗っていた。
理央は最後の苗の籠を石の上へ置き、桶の水が濁るのを見た。
村人は水を替えると布を絞り、腕の毛を根元から分けて拭く。
すぐ隣では、リーニャがメルの背へ櫛を通していた。
黒と赤茶と白が混じる姉の毛には、日なたの光が細く載っている。
「動くと引っかかるニャ」
「苗、植えてきたニャ」
「聞いてるニャ。今はこっちニャ」
メルが話すたびに身体が向きを変え、そのたびにリーニャの手が止まる。
理央は、自分の手袋を外した。
泥は見える。
けれど、昨日見つけた虫の大きさなら、毛の奥へ入った時には見落としてしまう。
「みんなで、全身を洗える場所があったら……」
レイニャが籠を片づけながら耳をこちらへ向けた。
理央は言葉を続ける。
「衛生は、お風呂からだと思うんです」
「嫌ニャ」
籠が石の上へ戻った。
レイニャの耳は、もう後ろへ伏せている。
「まだ何も説明してません」
「お風呂って聞いたニャ」
「温かいお湯で、身体を……」
「そこまでは知ってるニャ」
理央は、次に説明しようとしていた湯船の話を飲み込んだ。
日なたで腕を拭いていた村人まで、布を持つ手を止めてこちらを見ている。
メルが姉の櫛から逃れるように身を乗り出した。
「温かいニャ?」
「はい。冷たい水より、ずっと」
「全身、濡れるニャ?」
「……はい」
「嫌ニャ」
メルは元の場所へ戻り、リーニャへ背を向けた。
さっきまでじっとできなかった妹が、今は大人しく櫛を待っている。
レイニャは自分の尻尾を前へ寄せ、理央の手の届かない方へしまった。
まだ、お湯も何も出していないのに。
「いつも、こうやって綺麗にしてるニャ」
レーミが濡れ布を畳み、桶の横へ置いた。
レイニャより白地の多い三毛の腕は、拭いたばかりで毛並みが揃っている。
「それは分かります。でも、毛の奥を見たい時とか、山から帰った時に……」
「帰ってから、また濡れるニャ?」
レイニャはさらに耳を伏せた。
理央はニャースへ助けを求めるように顔を向けた。
村長は口元に混じる白毛を撫で、洗い場の一同を見回す。
「この村で風呂を喜ぶ者は、あまりいないですニャ」
誰も訂正しなかった。
理央の頭の中には、湯に入って肩をゆるめる自分がいた。
目の前には、肩から尻尾の先まで力を入れたレイニャがいる。
同じものを思い浮かべていたつもりが、どうやら違った。
「分かりました。先に、どこが嫌なのか聞いていいですか」
理央がノートを開くと、レイニャの耳がほんの少し戻った。
「それなら話せるニャ」
村長の家の前へ戻ると、レイニャは日なたに立ち、腕の三毛を指で分けた。
「外の毛が乾いても、この奥が濡れてるニャ」
理央は覗き込み、短い毛の下にも密に重なる毛があるのを見た。
「2層になってるんですね」
「奥まで乾くのを待ってると、寒くなるニャ。濡れた毛は重いニャ」
レイニャは尻尾を前へ寄せた。
「これまで重くなると、すぐ動けないニャ。山でそんなの、嫌ニャ」
理央は深い湯船の絵を消し、浅く描き直した。
「耳は濡らさなくて大丈夫にします。長く入っていなくてもいいです」
「出てから寒いニャ」
リーニャは、日なたへメルを寄せた。
理央も冷たい風を腕に感じ、浴槽の横に部屋を描く。
「温かい風で、毛の根元まで短時間で乾かす部屋を作ったらどうです?」
レイニャの耳の片方が起きた。
「尻尾もニャ?」
「尻尾もです」
「毛が絡んだら、あとで大変ニャ」
レーミがメルの持つ櫛を取り、歯に残った毛を外した。
白地の多い腕へ通し直し、毛流れが揃うところまで確かめる。
「乾けば何でもいいわけじゃないニャ。毛がばらばらになるのは嫌ニャ」
「無香料のリンスインシャンプーも、使えるか調べます。洗ったあとに、櫛が通りやすくなるものです」
リーニャが紙へ身を寄せた。
「変な匂いはつかないニャ?」
「香料のないものを用意して、こちらの身体に合うかも見ます」
「毛が寝ちゃうのも嫌ニャ」
レイニャが自分の腕を撫でた。
「黒と茶のところ、ちゃんと綺麗に見えるのがいいニャ」
理央は乾燥室の横へ、櫛とブラシの置場を足した。
濡れたあとを嫌がっていると思っていたら、乾いたあとの仕上がりにまで注文が届いた。
「大きな布で水を取ってから乾かして、最後に毛を整える場所も作ります」
「そこまで変えるんですニャ?」
ニャースが、浴槽より大きくなった部屋を見た。
「使ってもらえないものを作っても、意味がないです」
理央は筆記具を置き、レイニャへ顔を向ける。
「毎日入ってください、とは言いません。山仕事のあとや、ダニの多い時期に、毛の奥と皮膚を見るために使いたいんです」
「お湯で虫が死ぬニャ?」
「この温度だけでは、全部は死ぬと言えません。洗い流して、毛を分けて、残っていないか見る方です」
レイニャは浅い浴槽を指で押さえた。
「まだ、入るって言ってないニャ」
「はい。今は、作る場所の相談です」
ニャースに案内され、水路に近い空き地へ歩いた。
飲む水を取る場所は上にあり、足元の土は下流側へ傾いている。
理央は《世界地図》の地形を紙へ描き、排水を戻さずに出せる方を空けた。
洗い場と寝具を洗う槽を分け、家畜用にはさらに離れた土地を取る。
村長が木材と石の準備を頼む間、メルは紙の乾燥室を指していた。
「ここで、綺麗にするニャ?」
「そうです」
「こっちも大きくするニャ」
レイニャは訂正せず、櫛を置くところが狭くないか確かめた。
午後、新事業所から村外れへ開いた扉を抜けると、澪の靴にまた土がついた。
真壁は薬を収めた包みを持ち、村長の家へ向かう。
洗い場の方から木槌の音がしたが、澪も先に患者の紙を取り出した。
「レイニャ、薬と、使う時の注意事項です」
机へ患者別の包みを並べると、理央が今朝の紙と、追加で答えた確認表を重ねた。
レーミも呼ばれ、名前と身体の状態を1人ずつ照らし合わせる。
薬で異常が出たことのある者については、表へ指を置いてもう一度読み返した。
「この欄が確かめられていない時は、始めずに相談してください」
「勝手に隣の人へ分けないニャ」
レイニャが言い、レーミは包みを患者の紙のそばへ移した。
ビエニャの家では、理央が《鑑定》で今の状態を見て口頭で伝え、レイニャが指示と照合して最初の服用を見届けた。
水の器が空いてから、時刻を書き入れる。
すぐに身体が軽くなるわけではなく、ビエニャはまた寝床へ腕を戻した。
「あとも、こっちを見るニャ」
レーミへ経過を見る項目を渡したあと、澪はようやく空き地へ歩いた。
板と石が積まれ、地面には建物の形に縄が張ってある。
「……戻ったら、風呂を作ることになってるんですけど」
「まだ作ってません。使ってもらえる形を、考えただけです」
理央が紙を差し出した。
澪は受け取り、真ん中にある浅い浴槽と、その横の部屋を見た。
「乾燥室?」
「こっちが大事ニャ」
レイニャの返事は早かった。
真壁は図へ目を通すと、水路の上手へ足を向けた。
土の傾斜を確かめ、排水先を示してから振り返る。
「浅い浴槽に乾燥室か。悪くない。洗い場はこちらへ寄せよう」
「お湯、どうします?」
「水を引き、《収納》内で圧縮して高温側を作る。冷水と混ぜればよい」
「真壁さん、その答えが早すぎません?」
澪が図を持ったまま尋ねると、真壁は工具を出した。
「必要な設備を造っているだけだよ、澪君」
まだ造るかどうか聞いている気でいたのは、澪だけだったらしい。
靄の向こうからポンプと配管が現れ、継手を受け取った村人が、土へ置かずに板の上へ並べる。
ニャーモは水を引く溝を掘り、ほかの村人は石を運んだ。
澪は追加の品を理央と決め、給水工事の間にゲンダイへ買いに戻った。
無香料のリンスインシャンプーと鏡、送風機に携帯電源を持ち帰ると、木の壁が立ち始めている。
理央はシャンプーへ《鑑定》を向け、ケット・シーの毛と皮膚に使えることを、レイニャへ口頭で伝えた。
鋸の音が止まると、板が乾燥室の壁へ渡される。
真壁が掘り上げた土を収納し、敷く石の位置を揃えると、澪も布と櫛を出す方へ回った。
ニャーモがポンプの柄を動かし、貯水槽へ水が送られる。
高温側に使う水だけを真壁が収納すると、残った冷水の量が見えるようになった。
戻された高温水は、浴槽から離した槽へ入る。
澪が手桶を持って近づきかけると、真壁が混合槽の方を示した。
「そこから直接、人へ出してはいかん。こちらで冷水と合わせる」
理央は温度計を見て、まだ熱い湯へ冷水を足した。
真壁が流す先を切り替えるのは、温度が落ち着いてからだった。
浅い浴槽に湯が広がり、木の壁に湿った匂いがつく。
衣類と寝具を洗う高温の槽は、手桶を取る洗い場と分けた。
乾燥室は、温水の熱で暖めた空気を送風機で巡らせる、ドライヤールームにした。
洗浄用の高温槽とは系統を分け、真壁が熱と風を調整する。
理央は風が偏らないか、入口と奥へ立って確かめた。
「これなら、寒くはないです。熱すぎる感じも……」
レイニャが後ろから耳を出した。
「風、強くないニャ」
「浴場の方も見ます?」
「こっちを先に見るニャ」
澪は櫛の籠を持ち、入口で足を止めた。
湯を張ったばかりの浴槽より、空っぽの部屋に人が集まっている。
外では真壁が、飲用水源へ戻らない排水溝を村人と辿っていた。
家畜用は別の区画へ溝を出し、人の洗い水と合流させない。
戻ると給湯と送風の操作札をつけ、村人自身に湯を混ぜ、風を弱めてもらった。
電源の残量を見る箇所も示し、補充は商会側で引き受ける。
「私がいない時は、薪で温めた湯をこちらへ入れる。温度を見てから送ることだ」
加熱するところと、身体に使う湯を取るところを指し分ける。
理央も札を読みながら動かし、取り違えそうになった手桶を洗い場側へ移した。
メルに大判布を棚へ置いてもらい、澪は毛を整える場所に鏡を据えた。
リーニャが角度を少し直すと、レーミも映る腕の白毛を確かめた。
紙の上にあった部屋へ、風の音に混じって水を流す音が入ってきた。
湯を張り終えても、浴槽の前には誰も立たなかった。
理央が手桶を持ち、湯を少しすくって戻す。
水音が響くと、入口にいたメルが顔を引っ込めた。
洗い場まで覗きに来た村人も、床の乾いているところから動かない。
理央は温度を読み、芳香草を薄く加えた湯へ《鑑定》を向けた。
ケット・シーに使う濃さとして支障がないことを確かめ、手桶を縁へ置く。
「温度も、草の方も見ました。レイニャ、最初にお願いします」
「嫌ニャ」
レイニャは手琴を抱え直した。
「まだ、触ってみるとも言ってないニャ」
「はい。だから、今お願いしてます」
理央は浴槽の脇から、乾燥室までの空いた床を示した。
「白魔道士として、安全確認をお願いしたいんです。村で患者を診ているレイニャに、毛を分けて見る時も使いやすいか、確かめてもらいたくて」
レイニャの耳が完全に伏せた。
後ろでメルが乾いた布を持ち上げる。
「姉ちゃん、入るニャ?」
「ずるい言い方ニャ……」
レイニャは理央から浴槽へ目を移し、それから妹を見た。
「見てないで手伝うニャ」
メルが前へ出たので、理央は布を置く方へ案内した。
看病を交代してきたレーミも加わり、リーニャが手琴を預かる。
旅装を外したレイニャは、浴槽へ向かうより先に、温かい部屋の入口を確かめた。
「ここまで、すぐ行けるニャ?」
「行けます。途中で上がってもいいです」
理央は入る前の身体表面を調べ、レーミにも毛を分けて見てもらった。
レイニャは片足を湯へつけ、すぐに引き上げる。
「熱かったです?」
「濡れたニャ」
理央は返事に詰まり、手桶を置き直した。
レイニャはもう1度、足を入れた。
今度は反対の足も進み、尻尾だけが高いところへ持ち上がる。
浅い湯は胸まで来ないが、濡れた毛の黒と茶の斑が、肌に沿って細くなった。
耳は伏せたまま、鼻先は湯から遠い方を向いている。
「頭と耳は、そのままで大丈夫です」
「そのままにしてるニャ」
レーミが手桶を取り、肩の下の毛を分けながら湯を使った。
理央が無香料のリンスインシャンプーを渡すと、リーニャが毛へなじませ、絡めないように洗う。
レイニャの鼻が動いたが、今度は顔を背けなかった。
手桶ですすぐと、泡が流れ、指が毛の間を滑らかに通った。
理央は洗ったところを追い、皮膚に痕がないか、家族にも見えるよう毛を開いてもらう。
湯面には少量の葉が浮かび、青い匂いが木の匂いと混じった。
レイニャの尻尾が少し下がり、先が湯へ近づく。
「姉ちゃん、尻尾ニャ」
「分かってるニャ」
尻尾がまた上がった。
メルは布を持って待ち、湯へ落ちないよう自分まで背筋を伸ばしている。
「もう上がって大丈夫です」
理央が言うと、レイニャは聞き返さずに縁へ手をかけた。
湯の外へ出たところを、レーミが大判布で包む。
リーニャが背の毛へ別の布を当て、メルは尻尾の方を受け持った。
「引っ張ってるニャ」
「引っ張ってないニャ。姉ちゃんが歩くニャ」
レイニャが足を止めると、妹もようやく布を押し当てられた。
誰も浴槽へ入ろうとはしなかったのに、出たあとの手伝いには迷いがない。
理央は床に落ちた水を拭き、乾燥室の入口を空けた。
レイニャは布を抱えてドライヤールームへ入り、温かい空気が当たるところで止まった。
リーニャが毛を開くと、穏やかな風が根元へ入る。
メルが押さえていた尻尾の先から、湿った重さがほどけていった。
「もう乾いてるニャ」
レーミは表面だけでなく奥の毛へ指を入れ、背から脇へ確かめた。
理央が濡れた布を畳んで振り向くと、伏せていた耳が、もう両方とも起きている。
寒さをこらえる間もなく乾き、レイニャは自分の腕を持ち上げた。
短い毛が根元からふわりと起き、白地の上の黒と茶の斑まで、輪郭がくっきりしている。
櫛を通すリーニャの手が止まった。
「……柔らかいニャ」
もう1度、同じところを撫でる。
レーミも反対の腕へ触れ、白毛が光を含むように明るくなったところへ目を留めた。
メルは尻尾を両手で囲み、少し広がった毛から手を離せずにいる。
「姉ちゃん、ふわふわニャ」
「触るの、そこまでニャ」
レイニャは尻尾を取り戻し、鏡の前へ進んだ。
横を向いて腕の柄を見て、今度は背中を映そうと肩を回す。
理央が鏡を傾けると、レイニャの耳がこちらを向いた。
「もうちょっと、こっちニャ」
鏡へ近づき、首元の毛を撫でてから、最後に尻尾の形を整える。
見違えるほどふわふわになった三毛は、触れた指が少し沈み、離すとすぐに戻った。
リーニャは櫛の向きを替え、肩から背へ毛流れを揃えた。
「膨らませるだけじゃ、だめニャ。ここ、こうするニャ」
「その方が綺麗ニャ」
レイニャが鏡の中で頷く。
理央はその間に、昨日と同じ対象を《生体収納》で探した。
「ダニの反応はありません。毛の奥も乾いてます。どうです?」
「……お風呂は嫌いニャ」
「今、すごく鏡を見てましたけど」
「お風呂の話ニャ。毛の話は別ニャ」
レイニャは、まだ鏡から離れなかった。
リーニャが預かっていた手琴と旅装を渡すと、マントを着る前に、自分の腕をもう1度撫でる。
「すぐ乾いて、これになるなら、山から帰った日くらいは入ってもいいニャ」
レーミは鏡へ腕の白毛を映し、リーニャは櫛の置場を確かめた。
「次、誰ニャ?」
メルが聞くと、母と姉が同時に浴槽を見た。
どちらもすぐには返事をせず、まず、レイニャの毛へもう一度目を戻している。
外で待っていた村人が、乾いた尻尾を目で追った。
メルは入口へ戻り、リーニャに声を掛ける。
「メルも、ふわふわになるニャ?」
「先に洗ってからニャ」
妹は浅い浴槽を見たあと、乾燥室までの短い床を、もう1度目で辿った。
浴場の外へ出ると、ニャーモが山羊を連れてきていた。
澪は人用の洗い場から離れ、柵のある家畜用区画へ回った。
浅い槽には、家畜用の芳香草液が張ってある。
理央は液へ《鑑定》を向け、山羊と羊に使う濃さを確かめてから、通してよいとニャーモへ伝えた。
ニャーモが先へ歩いても、最初の山羊は入口で止まった。
前脚が左右へ開き、蹄が乾いた地面を押さえる。
後ろから羊が近づいても、その姿勢は変わらない。
「入ってくれませんね」
「嫌がってるニャ」
ニャーモは短く答え、後ろの羊をいったん離した。
澪は山羊の目の高さまで屈み、槽の先を見た。
柵が近く、向こうへ抜けるところが、横木に隠れている。
「もう少し、外へ広げましょうか」
「追い込まず、前へ抜ける形にしたまえ」
真壁が留め具を外し、ニャーモが柵を立て直した。
理央も入口へ寄って、新しい隙間から出口を覗く。
「人も家畜も、嫌なことは同じなんですね」
「理央もようやく分かったニャ」
ふわふわの毛を旅装からのぞかせたレイニャが、山羊の方を見て言った。
「レイニャ、さっきまで一番嫌がってましたよね」
「それとこれは別ニャ」
山羊はまだ入口に立っている。
澪には、レイニャが分かってくれたことを伝えても、前へ進みそうには見えなかった。
ニャーモが出口側へ回り、群れへ背を向けずに待った。
山羊の耳がそちらを向き、ようやく片足が液へ入る。
浅い水を蹄が割ると、続く足も前へ出た。
顔は上にあり、目も鼻も口も浸からない。
山羊が抜けたあと、間を空けて羊も通った。
「こっちなら、行くニャ」
ニャーモは柵の位置へ目印を置いた。
澪は出てきた山羊の毛を村人に分けてもらい、理央とそれぞれ対象の生体を探した。
理央は残っていた反応を《生体収納》へ回収し、立つ場所を変えて再び確かめる。
「今は、出ません」
「こちらからも、反応なしです」
薬浴を通っただけで済ませず、羊の方も同じように見た。
真壁は別に取った排水路をニャーモへ示し、人用の水へ戻らないことを一緒に辿る。
「繰り返す日は、村で決めてくれ。液も人用とは分けたままだ」
「村長と決めるニャ」
ニャーモは小屋の方へ群れを向けた。
濡れた蹄の跡が地面へ続き、入口で踏ん張っていた山羊が、その先を歩いていく。
レイニャは腕の毛を櫛でひと撫でしたあと、櫛を浴場へ返しに戻った。
浴場の木壁には、まだ水滴が残っていた。
澪は棚へ乾いた布を足し、外へ出て、ようやく両手を空けた。
ドライヤールームから出てきた子どもたちは、すっかりふわふわになっていた。
追いかけようとしたメルが、レーミに呼ばれて濡れ布を片づけに戻った。
リーニャは鏡で背の毛流れを直し、レーミは白い腕へ櫛を通してから、布を片づける方へ戻った。
家畜の鈴は、小屋へ向かう方から聞こえていた。
ニャースが壁に触れ、次に水を引いた側へ目を向ける。
「どうして、そんなに良くしてくださるんですニャ」
澪は布の籠を棚へ戻し、村長へ身体を向けた。
ニャースは真壁も見ている。
「虫を取って、薬を持ってきて、草も増やして。風呂まで出来たニャ」
村長の大きな手が、新しい壁から離れた。
澪は、困っていたからです、と答えかけた。
それだけでは、明日から設備を使い、人を動かす村長の問いに足りない気がした。
「ケット・シー族には、優秀な行商人が多いと聞く」
真壁が言った。
ニャースの琥珀色の目が、真壁から澪へ移る。
「ぜひ、押入商会に入ってくれる人材を得たいからです」
「人材、ですニャ?」
「はい。病気で村から出られない状態じゃ、人を雇うことも、商売を始めることもできませんから」
澪は小屋へ続く道を見てから、村長へ目を戻した。
「先に、ここで安心して暮らせるようになってほしいです。そのあと、外へ出て働きたい人がいたら、うちを考えてもらえたら」
少し離れて紙を揃えていた理央の手が止まる。
「そこまで考えてたんですね……」
澪はレイニャの旅装へ目を向けた。
手琴もマントも、家へ戻ったからといってしまわれてはいない。
「行商でも、商館でも。荷を運ぶ仕事や、飛行船に関わる仕事もあります。皆さんが作るものを、外で売る話もできます」
「慈善だけではない。先への投資ということだ」
真壁は操作札の端を留め直した。
ニャースはしばらくその手元を見ていたが、今度は理央の図へ目を向ける。
「ずいぶん先まで見る商会ですニャ」
「今すぐ誰かを連れていくつもりはないですよ。外へ出たい人がいた時の選択肢です」
澪は言ってから、村長の返事を待った。
ニャースは浴場の中へ顔を向け、桶を置き直す村人を呼んだ。
水を混ぜる手順を、村で使う者にももう一度見てもらう。
「まず、病人が元気になるのを待つニャ。その先は、望む者と話すニャ」
レイニャは家並みを見上げた。
「ビエニャの様子、また見てくるニャ」
「あとで私も行きます。今朝の紙、持っていきますね」
理央がノートを抱える。
レイニャは歩き出しかけ、浴場の入口へ戻った。
置き忘れたマントを取るのかと思うと、棚に置いた大判布を、手の届きやすい方へ寄せている。
「次の人も、すぐ取れるニャ」
そう言って旅装を直し、村の道へ戻った。
澪が外の籠を持ち上げると、風に揺れた芳香草の葉が、袖へ触れた。