押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第393話 変なのが一人いるニャ

 

 ニャースの家へ着くと、レイニャは窓際の椅子を引いて待っていた。

 

 澪に迎えてもらって新事業所から来た理央は、まず鞄から患者の記録を出す。

 

「今朝はどうでした?」

 

「熱は下がってきたニャ。まだ寝てるけど、水も飲んだニャ」

 

 レイニャが夜の分を書いた紙を重ね、理央は続きを確かめてから、別の頁を開いた。

 

 薬も看病も、今日で終わりにはならない。

 

 窓の外では、毛織物を運ぶ掛け声がしていた。

 

 軒下から毛織物を下ろす者がいて、浴場の方からは、濡れた布を絞る音がする。

 

 山へ出せない家畜にも、餌を運ぶ足が行き来していた。

 

「レイニャさん、今日も毛がきれいですね」

 

 澪が椅子へ腰を下ろしながら言うと、レイニャは胸元を軽く撫でた。

 

「寝る前にちゃんと整えたニャ」

 

「お風呂のあとだからですか?」

 

「整えたからニャ」

 

 返事の早さに、理央は開いた頁へ目を戻した。

 

 浴場の話を始めると、また毛の手入れまで聞けそうだったが、今日はそのための白紙ではない。

 

 向かいに座ったニャースが、大きな手を膝へ置く。

 

 口元の白い毛に、窓からの明かりが当たっていた。

 

「昨日は、うちの者もずいぶん世話になったですニャ」

 

「使い続ける上で不都合があれば、また聞かせてほしい」

 

 真壁は患者の紙を机の端へ寄せ、村長へ向き直った。

 

「ニャース殿。まず聞きたい。ここで暮らしていて、困ることは何だ」

 

 澪が筆記具の先を紙の上で止めた。

 

 どんな物を売っているのか、から始めるつもりでいたらしい。

 

「食べる物ならありますニャ」

 

 ニャースは窓の向こうの斜面へ目をやった。

 

「畑もあるし、乳も取れるニャ。薪は山にあるし、着る物も作るニャ。今度の病気は困ったけど、いつも腹を空かせてるわけではないですニャ」

 

「そこは承知している。貧しいかどうかを聞いているのではない」

 

 真壁は、澪の白紙へ自分の指を置いた。

 

「毎年、仕方がないと諦めていることはあるか。欲しくても、ここでは手に入らない物だ」

 

「なくなると困る物、ということですか?」

 

 澪が問い直すと、ニャースの耳が少し前へ向いた。

 

「それなら、冬ですニャ」

 

「冬に食べ物が足りなくなるんですか?」

 

 理央が聞くと、ニャースは首を振った。

 

「食べ物だけじゃないニャ。塩も、針も、油も。買いに出られなくなるニャ」

 

 理央は書こうとした『食料』の途中でペンを止めた。

 

「いつ頃から、出られなくなるんです?」

 

「道次第ですニャ。まだ行けると思っていたら、次の日には通れないこともあるニャ」

 

 村長は椅子から立ち、壁に掛けてあった鍵を取った。

 

「言うより、見てもらった方が早いですニャ」

 

 レイニャも立ち上がり、患者の紙だけを机へ残す。

 

 理央は新しい頁を開いたまま、ノートを鞄へ滑り込ませた。

 

 

 

 共同倉の戸が開くと、乾いた木と油の匂いがした。

 

 ニャースが戸を押さえ、5人は壁沿いの棚を見ながら奥へ入る。

 

 高い棚には袋が積まれ、手の届く段には瓶や小箱が並んでいた。

 

 村長は、繕った跡のある袋を指で押した。

 

「塩は秋のうちに買っておくニャ。長い冬になると、これが心配になるですニャ」

 

「冬は値段が上がるんですか?」

 

 澪が尋ねると、ニャースは袋から手を離した。

 

「高いより、来ないニャ」

 

 理央は棚の向こうに、細い山道を思い浮かべた。

 

 ここへ来る時にも、車から降りて歩かなければならなかった所だ。

 

 積んだ荷を抱えて、凍ったあの道を進むのは、値段を上乗せすれば済む話ではなさそうだった。

 

「去年は針が足りなくなったですニャ。折れた家から、残っている家へ借りに来たニャ」

 

「針1本でも、春まで買えないんですね」

 

「なくしたら、縫いたい物があっても縫えないニャ」

 

 レイニャが、棚の端にある小箱を開けた。

 

 理央が覗くと、布へ刺した針が何本か収まっている。

 

 昨日、毛を拭く布を運んでいた時には、こんな小さな物を数えようとは思わなかった。

 

「鍋が割れた家もあったですニャ。別の鍋を貸して、春まで使ったニャ」

 

 ニャースは棚から小さな油の壺を下ろした。

 

「油も、いつもの冬なら足りると思って買うニャ。長引くと減らして使うですニャ」

 

 澪が蓋を受け取ると、壺の内側を覗いてから、村長へ返した。

 

「なくなる前に買い足したくても、その時には道が閉まっている……」

 

「そうですニャ。家畜が病気になった時は、薬も困ったニャ」

 

 レイニャが針の箱を閉じた。

 

「薬草で間に合うことばかりじゃないニャ。あたしがいた時も、冬に入る前は、残ってる薬が気になったニャ」

 

「白魔法が使えても?」

 

「だから全部平気、とはならないニャ」

 

 その返事に、理央はノートの『薬』へ線を引き直した。

 

 自分たちが持ってきた物も、使える量には限りがある。

 

「針は、毎年どのくらい買います? 鍋は壊れた時だけですか?」

 

 理央が聞くと、ニャースは棚を見渡し、指で順に数え始めた。

 

 塩や油の話のあとに、刃物の減り方が続く。

 

 紙は村で作れず、鉄の道具も買わなければならない。

 

 家で蓄える穀物について聞く間、澪は毎年買う物と、不意に必要になる物を別々の欄へ書き込んだ。

 

「全部を大きな倉庫に積むのは、まだ早い。まず、何が切れると困るかを絞ろう」

 

 真壁は針の箱を、棚の前へ戻した。

 

「冬の蓄えを少し厚くする。その補充から始めるのがよい」

 

「扉が使えるなら、いつでも持ってこられると思ってました」

 

 理央が言うと、真壁はノートの『冬』へ目を落とした。

 

「開ける者が、その時いつも居合わせるとは限らん。針をなくすたびに、呼びに来るわけにもいくまい」

 

「それは、縫うより旅が長くなるニャ」

 

 レイニャのひげが動いた。

 

 澪は笑いながら、針の横へ『少量でも予備』と書き足した。

 

 

 

 倉の戸へ鍵を掛けたニャースは、そのまま家へ戻らず、泉の方へ歩き出した。

 

 道の脇では、昨日植えた芳香草へ村人が水をやっている。

 

 澪が苗の様子を覗くのを待ち、理央はレイニャと並んで石段を下りた。

 

「こういう山の中に、どうして村ができたんでしょう」

 

「水はここにあるニャ」

 

 レイニャが示した先で、岩の隙間から流れた水が、浅い石の囲いへ落ちていた。

 

 ニャースは囲いの縁に手を掛け、すぐ横の地面を指した。

 

 草の間に低い石が並び、角を曲がっている。

 

 理央は足元に気をつけて近づいた。

 

「これも、家の跡ですか?」

 

「昔の小屋の土台ですニャ。荷を濡らさないように、ここへ置いたと聞いてるニャ」

 

 真壁が、石の並びから泉へ目を移す。

 

「村ができたのが先ではないのか」

 

「逆ですニャ。ここで休む行商人が先ですニャ」

 

 ニャースが立ち上がり、今は草の生えた平らな場所へ進んだ。

 

 山腹にしては足を置きやすく、理央もノートを開いたまま歩ける。

 

「海の方と、内陸の方を行き来する者が、ここで泊まったですニャ。水があって、草もあるニャ」

 

「家畜を休ませられたニャ」

 

 レイニャは泉から続く細い水の筋を跨いだ。

 

「人だけ休んでも、荷を運ぶ方が疲れてたら進めないニャ」

 

「それで、荷物を置く小屋が増えたんですね」

 

「雨避けもいるですニャ。冬を越す小屋もできたニャ」

 

 ニャースは草地の端まで歩き、別々の方向へ下りる古い道を示した。

 

 木の根に細くなった方にも、石を敷いた跡が残っている。

 

「旅をやめた者が小屋を建てて、家族が来て、また誰かが残ったですニャ。そんなふうに増えたと、聞いているニャ」

 

 澪が、道の先から村の屋根へ顔を戻した。

 

「最初から、家をまとめて建てたわけではないんですね」

 

「だから家の向きも、揃ってないニャ」

 

 レイニャの返事に、理央は、来た時に折れ曲がった村道を思い出した。

 

 泉や平らな地面を避けたり、空いた所へ家を足したりすれば、あの道になりそうだった。

 

 ノートへ石の囲いを描き、海側の道と内陸の道を添える。

 

「行商人の休憩所が、そのまま村になったんですね」

 

「今では50戸ほどありますニャ。身内に旅へ出た者がいる家も、珍しくないニャ」

 

 理央は隣のレイニャを見た。

 

「じゃあ、レイニャだけ、特別に旅が好きだったわけじゃ……」

 

「歌う方は好きニャ」

 

「そっちはちゃんと残すんですね」

 

「そこを抜いたら、あたしの説明じゃなくなるニャ」

 

 レイニャが手琴の紐を直し、先に石段を上った。

 

 澪も笑って後を追ったが、真壁はもう少し草地を見ていた。

 

「旅で使う物は、この村でも作るのか」

 

「作るですニャ。布なら、あちらですニャ」

 

 ニャースの指す軒先に、厚い毛織物が掛かっている。

 

 理央は描きかけの道へ小さく矢印を足し、ノートを閉じた。

 

 

 

 毛織物の掛かった軒へ近づくと、奥から羊毛の匂いがした。

 

 ニャースに声を掛けられた家の者が、作業台を片づけて品を並べる。

 

 粗い布を持ち上げた澪は、指で厚さを挟んでから、織り目を覗いた。

 

「丈夫そうですね。これは売る分ですか?」

 

「そうニャ。こっちは敷くのに使うニャ」

 

 隣へ置かれたフェルトは、押すと指の跡が浅く残った。

 

 理央も触ってみて、さっきの布とは別の欄へ書き込む。

 

 山羊乳で作った硬いチーズは、持ち上げると見た目よりずっしりしていた。

 

 乾燥棚には茸と薬草が分けて吊られ、芳香草の束もある。

 

 窓際には蜜蝋が包まれていた。

 

「蜂蜜もあるですニャ。革や角を扱う家なら、下の方ですニャ」

 

 ニャースは次に回る軒を指したが、真壁は作業場の隅を見ていた。

 

 柱へ掛けられた鞄を、手に取らずに下から覗いている。

 

「この鞄、売ってるんですか?」

 

 澪が聞くと、家の者の耳が横へ向いた。

 

「これは自分で使うやつニャ」

 

「見せてもらってもよいか」

 

 真壁へ鞄が渡されると、厚い肩紐が作業台の上へ落ちた。

 

 底の角には別の革が当てられ、上の蓋は袋の口よりも広い。

 

 真壁は蓋を閉じ、縁を少し持ち上げた。

 

「雨は、この下へ入りにくくしてあるのか」

 

「口が上を向いたら、そこへ水が入るニャ。だから重ねるニャ」

 

「誰がこの形を考えた?」

 

「昔からこうニャ」

 

 あまりにも短い返事に、澪は織り目を調べていた手を止めた。

 

 真壁は肩紐と、その下に付いた帯を広げる。

 

「ここは肩だけで支えないためだな」

 

「入れて背負った方が分かるニャ」

 

 家の者が布の束を鞄へ入れ、澪へ差し出した。

 

 澪は背負い、真壁に示された帯を留める。

 

 緩めた時と締めた時で、身体を前へ倒す角度が変わった。

 

「……同じ中身ですよね?」

 

「今、抜いたニャ?」

 

「抜いてないです。急に軽くなったような気がして」

 

「肩だけで吊っていないからだ」

 

 真壁は帯の位置を確かめると、澪にもう少し歩いてもらった。

 

 理央は台の周りを回る澪を見ながら、自分の鞄の肩紐を掴んだ。

 

 重い時に肩を替える以外の方法を、あまり考えていなかった。

 

「あたしの旅装にも、似たのがあるニャ」

 

 レイニャがマントを少し開き、紐を掛ける所を示した。

 

「歩く時にずれると、毛が引っ張られるニャ。直すところも、自分で届く方がいいニャ」

 

 真壁は鞄を受け取り、補修された角を軽く曲げた。

 

 縫い目をほどけば、傷んだ部分だけを替えられそうだった。

 

「他に、旅で使う物もあるか」

 

 頼むと、布を畳んだ袋や、細かく口の分かれた小財布が出てきた。

 

 革紐と補修具は小さな包みへ収まり、雨除けの袋は口を折り返して閉じる。

 

 外套を畳む間、レイニャが端を押さえ、家の者は慣れた手つきで紐を回した。

 

「どれも、自分で使うために作ったんですね」

 

 澪が台を見渡した。

 

「売る物なら、チーズもあるニャ」

 

「はい、そちらも見たいです。でも、この道具も試してみたいんです」

 

 澪は鞄の帯をもう一度伸ばした。

 

「いつも使っている分を取ってしまうのは困りますよね。予備とか、作りかけの物はあります?」

 

「予備ならあるニャ。けど、町で売れるニャ?」

 

「まず我々で使う。重さと雨への強さを確かめたい。修理も試すつもりだ」

 

 真壁の返事に、家の者は使い込んだ鞄を柱へ戻した。

 

 奥の棚から、まだ角の擦れていない鞄を持ってくる。

 

 理央が試用品の欄を作る横で、澪は代金を相談し始めた。

 

 他の品も見てから決めることにして、予備の鞄は持主に断り、ニャースの家まで預かって運ぶことになった。

 

 乾燥棚の向こうには樹脂の壺もある。

 

 次の家へ移る前に、理央は、食べる物と旅道具の頁へそれぞれ印を付けた。

 

 

 

 昼になってニャースの家へ戻ると、澪は預かった鞄を軒下へ置いた。

 

 何軒か回った分の品名を書き足し、少し曲がっていた紙を板の上で伸ばす。

 

 理央が隣へ腰を下ろした時、板の端に白い小さな手が乗った。

 

 子どもが、澪の手元をじっと見ている。

 

「それ、何ニャ?」

 

「書く道具です。ボールペンといいます」

 

 澪は紙の空いた所へ短い線を引いた。

 

 墨を付け直さずに、続けてもう1本引く。

 

 子どもの耳が立ち、すぐに別の子が横から顔を出した。

 

「中に入ってるニャ?」

 

「はい。この細い所に」

 

「触っていいニャ?」

 

 澪が渡すと、子どもは先を覗き、反対へ向けて、さらに横から嗅いだ。

 

 灰色の縞のある子が、先に触った子の肩越しに手を伸ばす。

 

「壊れると使えなくなるので、順番でお願いします」

 

 澪が紙を差し出すと、子どもたちは板の周りへ場所を替えた。

 

 1人が書くのを、あとの子が覗き込む。

 

「これ、いくらニャ?」

 

「ゲンダイで買った物なので、こちらのお金とそのまま比べるのは……」

 

「どこで売ってるニャ?」

 

「お店で。私が買ったのは」

 

「作った所は、別ニャ?」

 

 澪は一度返してもらったペンを回し、小さな文字へ目を寄せた。

 

 理央も覗いたが、軸の表示だけでは、工場の場所までは分からなかった。

 

「……そこは、確かめないと答えられません」

 

 子どもは頷き、もう一度ペンを受け取って紙へ向き直った。

 

「じゃあ、あとで聞くニャ」

 

 澪が理央を見た。

 

「商品を調べに来たはずなんですけど、私の方が調べられてません?」

 

「仕入れ先まで聞かれてますね」

 

 理央が小声で答えると、レイニャは軒柱にもたれたまま、尻尾の先を動かした。

 

「知らない物なら、見るニャ」

 

「匂いも?」

 

「嗅いだら分かることもあるニャ」

 

 真壁は、質問を重ねている子どもたちへ目を向けた。

 

「ニャース殿。普段から、こうなのか」

 

「見たことのない物を持ってくると、集まるですニャ。帰ってきた行商人は、荷を下ろす前に聞かれることもあるニャ」

 

「《鑑定》を持つ者もいるのか」

 

「珍しくないですニャ。旅へ出る者なら、物を見るたび使うニャ」

 

 理央は自分のペンを持ったまま、子どもの手を見た。

 

 線が少し掠れると、その子は紙と先を見比べ、持つ角度を変えている。

 

「毎日こうやって調べてたら、技能が育つ機会も多そうですね」

 

「一度見て、終わりにしていない。そこは旅へ出てからも変わらんだろう」

 

 真壁が言う間、ニャースは《収納》や《地図》を持つ者の話もしてくれた。

 

 交渉や商才に関わる技能も、村では聞き慣れたものらしい。

 

 理央がそれを書き留めると、ペンを返した子どもが今度はノートを覗いた。

 

「何を書いてるニャ?」

 

「今、聞いたことです」

 

「それも売るニャ?」

 

 理央は返事に詰まり、澪は口元を押さえた。

 

「今のは売らないです。私が忘れないように」

 

 そう答えてから、理央は村長への質問の続きを下へ書き足した。

 

 

 

 子どもたちが紙の線を見せ合いながら離れると、澪は筆記具を自分の鞄へ戻した。

 

 ニャースは5人で中へ入る前に、預かった旅鞄も運び込む。

 

 窓際の机に並べた紙は、今朝出てきた時より増えていた。

 

「村の方は、ジョブも商人なんですか?」

 

 澪が尋ねると、ニャースは椅子を寄せた。

 

「そういう者もいるですニャ。町で司祭の儀式を受けて、商人になるニャ。行商人へ替える時も、司祭のところへ行くですニャ」

 

 理央はレイニャを見たが、彼女は自分のことだとは思わなかったらしい。

 

 机の端に掛かりそうな手琴を、膝の脇へ移している。

 

「その先へ進んだ者はいるか。《貿易商》や《総支配人》だ」

 

 真壁の問いに、ニャースはゆっくり首を振った。

 

「聞いたことがないですニャ。行商人なら知ってるけど、それは、どんな商人ですニャ?」

 

「国を跨いで大きな取引をする者。あるいは、複数の店や人員を束ねる者だ」

 

「人を雇う者なら、いるニャ。荷を運ぶのを手伝ってもらうですニャ」

 

「仕入れる品や、売る場所も、その者に任せるのか」

 

「それは自分で決めるニャ。自分の荷ですニャ」

 

 ニャースは旅鞄を足元へ寄せた。

 

 真壁の視線が、机の品目一覧からその鞄へ移る。

 

「買い、運び、売るところまで、本人が見ているわけだな」

 

「自分で見ない荷を、売るニャ?」

 

 ニャースが聞き返し、澪は手元の紙を裏返した。

 

「押入商会だと、仕入れた人と、倉庫から運ぶ人が別になることがあります」

 

 店へ届ける道筋を描くと、理央も机へ身を寄せた。

 

「売る人も別ですね。仕入れた人が全部の店へ立つわけじゃないですし」

 

 ニャースは線の途中へ指を置いた。

 

「ここで間違ったら、どうするですニャ?」

 

「品名と数を、渡す側と受け取る側で確かめます。間違った時に、どこまで戻って調べるかも決めておかないと」

 

 澪は倉庫を示す所に小さく囲みを足した。

 

「任せたから、知らない、とは言えん。任せられるように整える仕事が要る」

 

 真壁が言うと、ニャースは線の端を見直した。

 

「自分でやるのとは、違うですニャ」

 

「優れた行商人でも、初めからその仕事を経験しているとは限らんだろう」

 

 理央は品目の頁と、澪の描いた図を見比べた。

 

 品を見ることと、この人数で仕事を回すことは、同じではなさそうだった。

 

「大きな商社に入る機会がなかったから、でしょうか」

 

 澪が図から顔を上げた。

 

「1人でやっていけるなら、わざわざ誰かの所へ入らなくても……」

 

「その可能性はある。才が足りないと決める理由は、今のところない」

 

 真壁は、倉庫から分かれた線へ指を添えた。

 

「国が変われば、通貨も契約の扱いも変わる。荷をまとめて買い、他人へ輸送を任せる経験も要る。店を束ねるなら、人を置き、権限を渡し、離れた拠点の収支に責任を持つ」

 

「帳面を見るのも、1軒分じゃないんですね」

 

 理央はノートに書きかけ、行の最後を少し空けた。

 

「それをやったら、上のジョブになれるんですか?」

 

「転職の条件まで分かったわけではない。まず、仕事として覚えられるかを見たい」

 

 真壁の返事を聞いて、理央は余白へ『経験する場所』と記した。

 

 澪は図の横へ、共同商館や侯爵領の拠点を書き込んでいく。

 

 ニャースが覗き込むと、澪は紙を村長の向きへ回した。

 

「いきなり全部を任せるのではなくて、見学からならどうでしょう」

 

 

 

 ニャースは紙を回されたまま、すぐには頷かなかった。

 

 窓の外を荷車が通り、村長の耳がそちらへ動く。

 

「村の若い者を、連れていくですニャ?」

 

「希望する人に、仕事を見てもらうところからです。村の方を、まとめて連れ出すつもりではありません」

 

 澪は紙に書いた拠点名から、村長へ視線を戻した。

 

「羊の世話をする者も、畑へ出る者もいるですニャ。行きたい者がいても、いつでも出せるとは限らないニャ」

 

「冬だけとか、数か月だけ働く形も、考えられませんか?」

 

「冬にも、家畜はいるニャ」

 

「……そうでした。季節だけで決められませんね」

 

 澪が書きかけの線を止め、レイニャが横から紙を覗く。

 

「家の仕事がどうなるか、本人だけじゃ分からないニャ」

 

「本人と家族、村で相談してもらおう。見学した結果、合わないと思う者がいても構わん」

 

 真壁は紙を取り上げず、村長の前へ残した。

 

「こちらも、向いている仕事を見たい。初めから遠くへ住む約束を求める必要はない」

 

 レイニャの手が、手琴の紐から離れた。

 

「外へ出ても、帰れるなら違うニャ」

 

 理央が隣を見ると、レイニャは紙の図より、窓の向こうを見ていた。

 

 村外れに、扉を開いた草地がある。

 

 今は何も立っていなくても、理央にはあの場所が分かる。

 

「見学の時も、行きと帰りを決めてからにしましょう」

 

 理央が言うと、ニャースは窓から目を戻した。

 

「帰る日が分かるなら、家の方も話しやすいですニャ」

 

「まず、その話を聞いてくれそうな人を教えていただければ」

 

 澪は就業の案を書いた紙を分け、午前中の品目一覧を広げ直した。

 

 村長は、こちらの紙には迷わず手を添えた。

 

「塩と油は、各家で残りが違うニャ。量を聞いておくですニャ」

 

「お願いします。仕入れの値段を確かめてから、こちらもお返事します」

 

 薬については、使い方や保管も相談が要る、と澪が書き添える。

 

 共同倉に何を置くかは、今の棚を使える範囲から決めることになった。

 

 鞄の持主も家へ来て、澪は午前中に相談した額をもう一度確かめた。

 

 品目と代金を互いの紙へ残し、予備の鞄と小財布、補修具を試しに買う。

 

「たくさん作るのは、まだ待ってくださいね。使ってみて、直したい所が出るかもしれません」

 

「壊した所も見たいニャ」

 

 持主が鞄の底の角を指し、真壁は頷いた。

 

「次に来る時、使用した物を見せよう」

 

 支払いを終え、持主が帰ると、澪は新しい鞄へ小財布を収めた。

 

「売っている物を聞くだけだったら、これ、見せてもらえなかったかもしれませんね」

 

「チーズは、見せたと思うニャ」

 

 レイニャが答え、理央は笑って旅道具の頁を閉じた。

 

 ニャースはそのノートを見てから、何かを思い出したように耳を立てた。

 

 

 

「そういえば、変なのが一人いるニャ」

 

 ニャースの言葉に、レイニャの耳が横へ倒れた。

 

 理央は、名前も聞いていない隣の顔を見る。

 

「誰か、分かったんですか?」

 

「そういう紹介で思い出すの、あんまりいないニャ」

 

「ニャニャミですニャ」

 

「やっぱりニャ」

 

 澪は書き終えた紙を重ねた。

 

「その方も、行商人なんですか?」

 

「旅には出てないですニャ。帰った者を捕まえて、何をどこで売ったか聞くニャ。売れなかった物まで聞くですニャ」

 

「何のために?」

 

「帳面に書くニャ」

 

 真壁の手が止まった。

 

 机の上にあった紙を揃え、澪へ渡す。

 

「会ってみたい。今から訪ねられるか」

 

「家はすぐそこですニャ。案内するですニャ」

 

 理央はノートを鞄へ入れ、レイニャも手琴を持って立った。

 

 澪は買った補修具を新しい鞄へ収め、元の鞄と一緒に肩へ掛ける。

 

「荷が増えましたね」

 

「増えた方の掛け心地を、早速試しています」

 

 澪が帯を締め直す横で、レイニャはまだ耳を半分伏せていた。

 

 村道を曲がり、ニャースが指した家へ近づく。

 

 軒は深く、外からは窓の中が暗く見えた。

 

 戸口で名を呼ぶと、奥で何かを机へ置く音がする。

 

「入るニャ」

 

 戸を開けたケット・シーは、レイニャよりも小柄で細かった。

 

 ほとんど白い毛に、窓からの明かりが斜めに当たる。

 

 金色の目はニャースから澪へ移り、そのまま澪の肩の鞄で止まった。

 

「それ、今日買ったニャ?」

 

「はい。試してみようと思って」

 

「自分用を作ってる家のやつニャ。値段は、どう決めたニャ?」

 

 澪は、肩紐を掴んだまま戸口で立ち止まった。

 

 理央が後ろから新しい鞄を覗き、レイニャは横へ半歩出る。

 

「先に挨拶するニャ」

 

「帰ったのは知ってるニャ。忙しかったニャ?」

 

「病人を診てたニャ」

 

「だから、今まで聞きに行かなかったニャ」

 

 ニャニャミは戸を大きく開け、机の横へ積んであった紙束を移した。

 

 服のポケットには炭筆が差され、紙を束ねる紐の端も覗いている。

 

「相変わらずニャ」

 

「外へ出たお前に言われたくないニャ」

 

 レイニャが尻尾を軽く振り、理央は2人の後から中へ入った。

 

 棚には紐で綴じた帳面が並び、薄いものの隣に厚い束がある。

 

 戸口へニャースも入り、6人になると机の周りが急に狭くなった。

 

「帳面を付けていると聞いた。少し見せてもらえるか」

 

 真壁の問いに、ニャニャミは棚を振り返った。

 

「どれを見るニャ?」

 

「初めのものと、今のものを見たい」

 

「初めのは、字が下手ニャ」

 

 ニャニャミはそう断ってから、薄い帳面を1冊、机へ置いた。

 

 

 

 真壁が帳面を開くと、理央はその横から机へ近づいた。

 

 窓を背にしたニャニャミが、最初の頁の端を押さえる。

 

 大きな字で町の名があり、その下へ、持ち帰った物の名前が並んでいた。

 

 線は途中で曲がり、書ききれなかった言葉が余白へ続いている。

 

「小さい頃に書いたニャ。聞いてる間に、忘れるニャ」

 

「値段は、書かなかったんですか?」

 

 澪が聞くと、ニャニャミは頷いた。

 

「その頃は、何があったか知りたかったニャ」

 

 レイニャが隣から、端の絵を見つけた。

 

「これ、魚ニャ?」

 

「そうニャ」

 

「この線、ひげだと思ったニャ」

 

「ヒレニャ。今なら分かるように描くニャ」

 

 ニャニャミは古い帳面を脇へ置き、次の束を持ってきた。

 

 こちらには、買った値段と、売った値段が書いてある。

 

 品名だけだった頁に、町と季節の違いが加わっていた。

 

 理央がめくると、同じ布の名前が別の場所にもある。

 

「同じ物なのに、値段が違ったんですか?」

 

「だから、両方聞いたニャ」

 

 ニャニャミは棚から、さらに厚い帳面を下ろした。

 

 最近の頁では町ごとに欄が分かれ、季節、品物、値段、持っていった数、売れた数が同じ向きに並んでいた。

 

 売れ残りを示す所には、短い書き足しもある。

 

「これは、聞いた人が違うのか」

 

 真壁が隣り合う欄へ目をやると、ニャニャミは頷いた。

 

「同じ町でも、行った時が違うニャ。同じ時でも、荷が違うニャ」

 

「誰かに、この付け方を教わったのか」

 

「誰にもニャ」

 

「では、なぜここまで書いた?」

 

 ニャニャミの耳が、少し後ろへ向いた。

 

 責められたと思ったのか、炭筆の出たポケットへ手を置く。

 

「違うからニャ。違ったら、理由が気になるニャ。売れた物と、残った物も違うニャ」

 

 ニャニャミは帳面を自分の方へ引き、書き足した所を示した。

 

 赤い布の欄には、売れ残った町が書かれている。

 

 下には別の季節の話と、まだ答えのない問いがある。

 

「ここ、分からないままですか?」

 

 理央が聞くと、ニャニャミはあっさり頷いた。

 

「次に帰ったら聞くニャ。理由が分からないのに、決めたらおかしいニャ」

 

 ニャニャミが次の頁を開くと、真壁が身を寄せた。

 

 塩を運んだ行商人の記録の横には、別の者が羊毛を持ち出した時期が書かれていた。

 

 それぞれの帰り道をつなぐ線が、余白を横切っている。

 

「この線は、何だ」

 

「塩を下ろしたら、荷が空いたニャ。その時、こっちは羊毛を運びたかったニャ」

 

「2人が組んで運んだのか」

 

「違うニャ。後で聞いて、同じ頃だと分かったニャ」

 

 理央は線の両端を見た。

 

「行く前に分かってたら、帰りにも荷を積めたかもしれないんですね」

 

「何も積まないで戻ったって聞いたニャ。もったいないと思ったニャ」

 

 ニャースが太い指で口元の白毛を撫でた。

 

「旅の話を聞くのが好きなんだと思ってたですニャ」

 

「好きニャ。だから聞くニャ」

 

 レイニャは机へ置いていた手を引き、友人の顔を見直した。

 

「その帳面、こんなに増えてたニャ」

 

「お前が出てる間も、帰ってくる者はいたニャ」

 

 ニャニャミの尻尾が、椅子の脚の脇で揺れた。

 

 真壁は最近の頁へ目を落とした。

 

「自分で品を仕入れて、売ったことは?」

 

「ないニャ。値段も、売った者に聞いてるニャ」

 

「複数の者の荷を見ている。それは、商会でも必要になる見方だ」

 

「これが仕事になるニャ?」

 

 帳面を片づけかけたニャニャミの手が止まった。

 

 澪は品目一覧を広げ、肩から下ろした旅鞄をその横へ置いた。

 

「私たちも、どこで、誰に使ってもらうかを、これから確かめるところなんです。この鞄も」

 

 ニャニャミは帳面を閉じずに、鞄と紙を交互に見た。

 

「じゃあ、さっきの値段も聞いていいニャ?」

 

「はい。持主の方と相談したので、その決め方も」

 

 理央がノートを開くと、ニャニャミは椅子を少し寄せた。

 

 窓から差す夕日が、帳面の角へ届いていた。

 

 真壁は帳面の紐を傷めないように頁を揃え、静かに表紙を閉じる。

 

「澪君。人材は、もう一人見つかったようだ」

 

 レイニャの耳が立った。

 

「ニャニャミまで連れていく気ニャ?」

 

 ニャニャミは炭筆を持ち直し、真壁へ顔を上げた。

 

「どこへ行くニャ?」

 

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