フェルナ村の外れには、まだ夜の冷たさが残っていた。
道を横切る風に白い耳を伏せ、ニャニャミは布袋の口を押さえた。
帳面の角が出ていないか、さっきから何度も手で確かめている。
家で用意した時には収まっていたが、歩いているうちに炭筆が片側へ寄った。
袋を開けて直そうとしたところで、草地の向こうに真壁の姿が現れた。
「おはようございますニャ、総支配人」
ニャニャミは袋を下げ、空いた手を額の横へ上げた。
「おはよう。支度は済んでいるようだな」
「済んだニャ」
真壁が足元の道から村の方へ目を走らせる間に、ニャニャミは手を下ろした。
昨日書いた約束の頁は、開かなくても覚えている。
東都向けの品が、本当に注文どおり揃っているかを見る日だ。
ただ、研修の朝にも、最初は普通の仕事をするつもりで袋を持っていた。
「今日は火山へ行かないニャ?」
「行かん。東都向けの納品準備を見るのだろう」
「見るニャ。よかったニャ」
返事をした途端、冷えていた鼻先へ息が抜けた。
戦う時に足を置く場所よりも、今日は、箱の札に何が書いてあるかを早く見たかった。
「ならば行こう」
ニャニャミは真壁のそばへ寄り、袋を体の前へ引いた。
自分で登録した帰り先は、この村外れの1か所だけだ。
真壁と一緒に《転移》すると、草の触れていた足元が、事業所の床へ変わった。
窓から差す光は山の朝より暖かく、奥では紙をめくる音がしている。
ニャニャミは袋から帳面を取り出しながら、真壁の後を追った。
道を歩かずに済んだ分、書きたい頁へ早く着いた。
「おはようございます。今日は、こちらからお願いします」
澪が納品表を差し出すと、ニャニャミは返事より先に、置く場所を探した。
理央の控えを動かさず、その隣の空いた所へ自分の帳面を広げる。
机から離れた椅子では、レイニャが手琴を膝へ置いて待っていた。
「今日は紙を見る方ニャ?」
「そうニャ。ここで働くニャ」
ニャニャミが箱の方を向くと、レイニャも立ち、通り道から椅子を引いた。
昨日は水を渡されて座っていた白い姿が、今日は机の高さに合わせ、紙の向きを直していた。
「200万個ニャ」
「はい。今回は5月の最後の分です」
澪は品名の下を指し、それから並んだ箱へ目を向けた。
加工と検査を終えた品は梱包済みで、あとは出荷する順に札と表を合わせる。
「箱数も、私が先に見ています」
理央が納品帳を寄せると、ニャニャミは数量の欄へ炭筆を置いた。
「これは、中の品の数ニャ。箱を数えるのは、こっちニャ?」
「そう。1箱に入っている数と、箱の数を分けて書いてる」
理央が該当する欄を示すと、ニャニャミは品名へ戻り、単位も書き添えた。
札を1枚ずつ見て、納品表の行へ指を動かす。
読み上げた番号を理央が復唱し、箱の位置を変えずに次の札へ進んだ。
澪はその横で、持参する発注の控えを開いた。
2人の読み合わせが止まると、どこまで済んだかが、紙に置いた指で分かる。
「この番号も同じニャ」
「うん。そっちは、この行」
ニャニャミの耳が次の箱へ向いた。
札が内側を向いていると、理央に見える方から読んでもらい、手元の表と突き合わせる。
《鑑定》の表示を開いて、合っていると言うだけで済ませる気配はなかった。
「紙は、向こうにも渡すニャ?」
「納品書を渡して、受け取った記録をこちらにも残してもらいます」
「なら、あたしが分かるだけじゃ、だめニャ」
「そのとおりだ」
真壁が注文の控えを机へ置き、納品先と品名の欄が隠れないよう開いた。
「箱を受け取る者が、注文と結びつけられなければならん」
ニャニャミは正式な会社名を自分の帳面でも辿り、ロットの欄を読み終えてから紙を返した。
「200万個、箱数も合ったニャ。札も、表も、こっちの注文も同じニャ」
理央は自分の控えの最後へ印を付けた。
「私も先に見たからね」
「知ってるニャ。2人で見れば、もっと確実ニャ」
「……それはそうなんだけど」
理央がペンの先を見たまま口を曲げ、澪は発注の控えを閉じながら笑った。
先に見たことを念押しする理央に対して、ニャニャミの声には、頼れる相手がいて助かったという響きがある。
理央は箱の列を見直し、記入済みの表を出荷用のファイルへ挟んだ。
「これで、向こうに持っていけます」
「こっちの控えも残すニャ」
白い手が、机へ残す1枚を理央の方へ差し出した。
理央が受け取った紙を、澪は出荷の順序が書かれた頁の後ろへ収めた。
ニャニャミが炭筆の粉を払うと、澪は出荷用の書類を鞄へ入れた。
真壁が箱を《収納》へ収めるのを、ニャニャミは帳面を閉じずに見ている。
最後の箱が靄に消えたところで、白い耳がこちらを向いた。
「このあと、東都ニャ?」
「はい。納品に行ってきます」
「あたしは、東都を見ないニャ?」
机の端には、ニャニャミの布袋がまだ残っていた。
「納品先はゲンダイだ。君の仕事はここまでだ」
真壁の返事を聞き、ニャニャミは袋の口へ指を添えた。
「そうだったニャ……」
下がった耳を見て、澪も鞄を持ち上げる手を止めた。
朝から紙と箱を合わせていると、同じ荷を追って、そのまま最後まで行くつもりになってしまう。
けれど江古田の押し入れは、彼女が通れる道ではなかった。
「じゃあ、帰ってきた時の紙も今度見るニャ」
ニャニャミは閉じかけた帳面を開き直した。
「受領書ですね。見せられるものは、まとめておきます」
「あたしが数えた分を、向こうでも数えたか分かるニャ?」
「数量とロットを確かめてもらった記録になります」
「なら、その紙と今日の紙を合わせるニャ。頼むニャ、会長」
炭筆が短く走り、次に見るものが、今日の作業の下へ書き足された。
澪はうなずいて、受領資料を別にしておくことを理央へ頼んだ。
「今日は村へ戻りたまえ」
「承知しましたニャ、総支配人!」
帳面と炭筆をしまい、ニャニャミは机の下まで覗いた。
「あたしも村へ帰るニャ。一緒に戻れるニャ?」
レイニャが手琴を持ってそばへ来ると、ニャニャミは真壁を見た。
「1人なら、連れていけるニャ?」
「君の登録拠点へならな」
レイニャが頷き、ニャニャミの横へ寄った。
持参したものが全部袋にあると、足を揃えて敬礼する。
「会長、理央さん、行ってくるニャ」
「はい。お疲れさまでした」
ニャニャミがレイニャと《転移》で消えると、理央は2人のいた床を見て、それから机へ目を戻した。
「帰るの、もう普通なんですね」
澪も、昨日は思わず呼び止めようとした場所を見た。
今日は袋を持ったことも、村へ帰ることも、先に聞いている。
「私たちも、行きましょうか」
鞄の中には、2人で合わせた納品表が収まっていた。
真壁と《転移》で押し入れの向こう側の拠点へ戻り、3人は順に江古田へ出た。
澪が最後に戸を閉めると、外を走る車の音が耳に入った。
窓の向こうでは、自転車の前籠に鞄を載せた人が通り過ぎていく。
山の朝から戻った真壁も、手元の書類を持つ理央も、その音に顔を上げることはなかった。
「持っていく分は、これで全部ですね」
澪は鞄の中を指で分け、納品書と控えが入っているのを確かめた。
「はい。ニャニャミと見た表の控えもあります」
理央が自分のファイルを開き、澪は出荷の記録が見える所で手を止めた。
村の帳面で覚えた数え方が、今日は、この書類の読み合わせに使われている。
帰ってきた時の紙を見たいと言った声を思い出し、鞄の中に空のポケットを1つ残した。
東都へ向かう前に、真壁が荷を車へ戻した。
取り出された箱の札を理央が控えで追い、最後に澪が荷室を閉じる。
車へ乗り込むと、シートに朝の日差しの熱が残っていた。
「これで5月分、最後ですね」
「はい。これが通れば、800万個全部です」
「問題がなければな」
真壁が答え、車はいつもの道へ出た。
澪は信号で止まるたびに資料を開くことはせず、鞄を膝で支えた。
先月までの受け渡しでも、担当者がどの札を見るか、どの紙を手元へ残すかを繰り返し見てきた。
今日は、その順で渡せるようにしてある。
「向こうで終わったら、新事務所へ戻ります。午後は明石さんが来るので」
「月末、忙しいですね」
理央が予定のメモへ目を落とす。
「今月の最後が重なりましたね」
澪はそう答えて、道の先の信号を見た。
800万個を揃えるために動いてきた5月が、今日の書類で終わる。
鞄の持ち手を握り直すと、いつもの納品へ行く時と同じ重さだった。
東都特殊金属試作の受入場所へ入ると、いつもの担当者が、手元の端末から顔を上げた。
「おはようございます。今月最後の分ですね」
「はい。お願いします」
澪は納品書を渡し、理央が控えを開いた。
真壁の運んだ箱が所定の位置へ並ぶと、担当者は数量の欄を読んでから、荷札へ目を移した。
「特殊フローライト加工品、200万個。ロット照合します」
手袋を着けた指が札を押さえ、管理番号を端末の表示と合わせていく。
理央は先に答えを言わず、向こうで読み上げられた番号を、自分の表で辿った。
最後の札まで進むと、ペンの先が、朝に印を付けた行へ重なった。
澪は担当者が箱を開けられるよう脇へ寄った。
梱包の中から検査に使う品が取り出され、手元の明かりの下へ移される。
小さな加工品をつまむ手は、急いでいるように見えても、次の品を取る前には必ず置き場へ戻った。
初めて納めた頃には、その指が止まると、自分の息まで止まりそうになった。
今は検査の途中で顔を覗き込まず、必要な記録を出せるようファイルを開いて待つ。
加工後の検査記録を求められ、澪が該当する紙を渡すと、担当者は番号を合わせてから、検収の欄へ記入した。
「数量、ロット、抜き取りの確認、問題ありません。受入完了です」
理央が、小さく息を吐いた。
朝の作業では笑っていた口元が、今は納品帳へ印を付ける間だけ、きゅっと結ばれている。
「これで5月分は、800万個になります」
担当者が月内の受入記録を開いた。
澪も持参した控えを並べ、今日の分が最後の行へ入ったのを確かめる。
「はい。こちらも同じです」
1個200円、今日の200万個で400,000,000円。
月の合計欄には、1,600,000,000円と印字されていた。
何度も見た単価と数量が、今月の完納という記録へ変わる。
澪は受領資料を受け取り、日付と社名、今日のロットをもう一度読んだ。
「チタンの今月分は、こちらで処理済みです」
担当者の示した別の欄にも、1t、12,000,000円の取引が残っている。
蛍石の数字へ紛れ込ませず、理央は別の頁で照合した。
「ありがとうございます。こちらも済んでいます」
澪は必要な控えが返ってきたことを確かめ、ファイルへ収めた。
受入場所の奥では、もう次の作業へ向けて箱が動いている。
手渡した時にはこちらを向いていた札が、置き直された箱の脇へ回った。
それを目で追ってから、澪は荷のなくなった方へ歩き出した。
退出する前に、澪はファイルの背を鞄の内側へ向けた。
受領資料の角が曲がらないよう手で押さえ、留め具を閉じる。
理央は隣で、それをじっと見ていた。
「澪さん」
「はい?」
「4億円って書いてある紙、普通にしまいましたね」
澪は自分の鞄を見下ろした。
薄いファイルが、いつもの位置にある。
「仕事の書類ですから」
「前なら、そこで止まってませんでした?」
「毎回止まっていたら、仕事にならないじゃないですか」
言ってから、澪は少し間を置いた。
最初に金額を聞いた時の自分なら、紙を受け取る前に聞き直しただろう。
けれど今日は、数量と単価を分かって持ってきた。
受領書が違っていたら止めるが、合っているなら、なくさない所へ入れる。
「それを慣れたというのだろう」
真壁は退出の支度を済ませ、2人の方を向いた。
「慣れてません」
「では、どこで止まるのですか?」
理央の質問が、思っていたより丁寧に来た。
澪は鞄の持ち手を握り、それから、閉じたばかりの留め具を見た。
今ここで開き直し、金額だけもう一度見ても、受け渡しは変わらない。
「あとで、ちゃんと考えます」
「あとでなんですね」
理央が笑い、澪も小さく息を吐いた。
担当者へ挨拶して外へ出ると、受入場所の照明より、日差しの方が眩しかった。
空になった荷室を見て、鞄の中の紙だけが残ったことを、今になって実感する。
4億円は、その紙の厚さにも、鞄を持つ腕にも現れなかった。
「午後の資料は、新事務所に揃えてあるな」
真壁が次の予定へ話を戻す。
「はい。今朝の分は、戻ってから追加します」
澪は答えながら、受領書用に空けていた所へ指を添えた。
「ニャニャミに見せる分も、忘れずに取っておきましょう」
「控えを用意します。200万個、ちゃんと受け取ってもらったって分かりますね」
理央が自分のファイルを抱え直した。
澪は車へ乗り込み、鞄を膝へ置いた。
午後に渡すものを確かめ終えたら、窓の外を見る余裕も戻ってきた。
その余裕まで慣れた証拠だと言われそうで、真壁の方を見るのはやめた。
江古田の新事務所へ戻ると、澪は鞄から受領資料を出し、5月のファイルへ挟んだ。
理央が取った控えを別の所へ置き、午後に使う机を空ける。
昼を挟んで書類を並べ直した頃、呼び鈴が鳴った。
「こんにちは」
扉の向こうにいた明石は、使い込んだ黒いビジネスバッグを片手に持っていた。
短い黒髪は横も襟足も整えられ、細い黒縁の長方形眼鏡の奥から、澪へ目を向ける。
「こんにちは。どうぞ」
明石は黒い革靴で中へ入り、勧められた椅子の横へバッグを置いた。
濃紺のスーツに白いシャツ、地味なネクタイという格好で、机の上の資料を見ると、もう留め具を開けている。
30代に入ったばかりという若さはあっても、紙を受け取る手に急かされる感じはなかった。
「今朝の納品分まで、こちらに入っています」
澪が5月のファイルを渡すと、明石は日付を確かめて、ノートPCの横へ置いた。
「ありがとうございます。では、第1期を締める準備を終わらせましょう」
「もう決算ですか」
「5月31日で第1期が終わりますから」
「そうですよね。月末のことばかり考えてました」
澪は椅子へ座り、机に載せた自分の手を見た。
今月の納品が終わることは、朝から何度も口にした。
同じ日付で、会社を作ってからの最初の1年まで終わる。
真壁が契約関係のファイルを置き、理央は領収書の入った冊子を、開きやすい向きで並べた。
「月次で見ているものが中心です。まず売上から、その後、残高と在庫を合わせていきます」
明石はPCを開き、澪から見えるよう画面を少し傾けた。
相談しながら1年間付けてきた数字が、月ごとの行になっている。
澪は必要な頁に付箋を残し、閉じた冊子を腕の届く所へ寄せた。
午前中は鞄の中に収まっていた書類が、午後には、机の上へ何冊も広がった。
明石が2月の行を選ぶと、澪は有償試作の控えを開いた。
その時の数量は10,000個、単価は500円だった。
「こちらの試作分が500万円。家具の販売分とチタンを合わせて、2月は2,700万円です」
明石は請求資料と帳簿の数字を合わせ、画面の行へ印を付けた。
澪も紙の方を押さえ、次の月のファイルを開く。
「3月からは量産分ですね」
「はい。800万個です」
1回分の控えだけではなく、その月の納品が全部並ぶ。
理央が検収資料を日付順に揃え、真壁が単価の決まった発注資料を添えた。
明石は数量の合計を出してから、家具とチタンの欄へ視線を移す。
「特殊フローライトが16億円。月の売上全体では、16億2,200万円になります」
澪は画面へ顔を寄せた。
16億円は知っている。
納品を済ませるたび、その月の合計へ近づいていくのを、自分でも数えていた。
けれど、隣の月にも同じ桁の数字があると、目がそこから離れなくなった。
4月のファイルを渡し、5月の今日の分まで辿ると、明石は画面の選択範囲を広げた。
「4月と5月も、月の売上は同額です」
「はい」
澪の指は5月の最後の受領資料を押さえていた。
今朝、止まらずに鞄へしまった紙だった。
「2月から5月だけで、約48億9,300万円です」
「……48億?」
「はい」
「4か月で?」
「4か月です」
明石は画面の期間を示し、合計欄をそのままにした。
4,893,000,000円という数字の下へ、澪は視線を落とした。
別の期間を足した注記はない。
理央も椅子を少し寄せ、同じ欄を見ている。
「2月の行、急に小さく見えますね」
「2,700万円なんですけどね」
澪は答えてから、もう一度その行を見た。
家具が1,000万円、チタンが1,200万円、試作が500万円という内訳なら、それぞれ何の取引か思い浮かぶ。
同じように知っているはずの3月以降は、まとめた途端、見知らぬ会社の売上に見えた。
「3月以降の数量と単価が、続いているためです」
明石は大きさを褒める代わりに、照合を終えた資料を澪へ返した。
真壁はそれを受け取り、次に見る期首からのファイルを開く。
「それ以前の分も合わせよう」
澪は机の端へ押しやった飲み物を取った。
ひと口飲んでも、画面の合計はそのまま残っていた。
期首の6月まで戻ると、売上の欄は、家具の販売資料と結びついた。
理央が月ごとの報告を渡し、澪は明石の画面に選ばれた月と、表紙の日付を合わせる。
6月の1,000万円から7月の1,500万円へ進むと、先ほどより小さい数字なのに、取引が増えたことが目に入った。
「8月から、チタンの継続納品が加わりますね」
「毎月1t。契約資料はこちらにあります」
真壁が差し出したファイルを明石が受け取り、納品の控えと並べた。
「5月までの10か月で、1億2,000万円です」
澪はその金額を、自分の集計の欄でも確かめた。
月ごとの1,200万円が途切れず、年度の最後まで続いている。
家具の報告は9月の720万円、10月の1,000万円へ進み、11月の所で手が止まった。
「ここは休業の月ですね」
「はい。冬支度で、1か月だけ止めています」
澪が該当する記録を渡すと、明石は翌月の資料も開いた。
12月以降は販売が戻り、5月までの行が、さっき済ませた照合へつながる。
「家具の販売売上は、合計1億1,420万円です。販売関係の費用は、この後、費用側で合わせます」
最後に小口の素材取引の資料を添えると、明石は集計画面へ戻った。
澪の前には、見終えた紙が順番を崩さず重なっている。
知らない取引を足されたわけではない。
「第1期の売上高は、概算で約50億4,000万円です」
澪は持っていた飲み物を机へ戻した。
画面には5,039,284,000円とある。
右から目を動かして区切りを数え、それから、いちばん上の会社名を見た。
「……これ、うちですよね?」
「合同会社押入商会です」
明石の指が、画面上部へ移った。
澪は会社名を読んでから、隣の真壁を見た。
「50億売る会社でしたっけ?」
「売った以上、そうなるだろう」
「数字の仕組みを聞いてるんじゃないです」
真壁の手は、チタンの資料を閉じる方へ戻った。
澪も画面へ向き直り、1億台の家具とチタンが、合計の中でどこを占めるか辿る。
どちらも小さな商売をしたつもりはなかったのに、いちばん長い数字は別の行にあった。
「ほとんどフローライトですね」
理央がその行を指した。
4,805,000,000円。
有償試作と、3か月の量産分がまとまっている。
明石が表示を内訳へ切り替え、澪は合計だけを見ていた顔を上げた。
50億という呼び方の下に、朝から納めてきた品名があった。
明石が取引先別の表示へ切り替えると、澪は品名の行を追うのをやめた。
特殊フローライトとチタンが、同じ会社の欄へ入っている。
家具の販売先や小口の取引は、その下へ続いていた。
「東都さんの分は、チタンも一緒なんですね」
「はい。商品別と取引先別では、見え方が違います」
明石は東都の欄を選び、その他の売上が見える位置まで画面を動かした。
澪は数字の頭を揃えて見た。
会社全体の合計を作った時には、足された分が全部、規模の大きさに見えていた。
今は、足元にある相手の数が気になる。
「東都さんが買わなくなったら……」
「売上の大部分がなくなります」
明石の返事は短く、画面の数字も変わらなかった。
今日の納品で何か言われたわけではない。
それでも澪は、今朝の800万個完納という言葉を、次の月も同じように使えるかと考えた。
「家具の取引も続いているんですけど、この表だと、ずいぶん小さく見えますね」
理央が下の欄を見たまま言った。
「なくなったわけではありません。大きい取引の比率が上がっています」
明石は家具の金額へ指を移した。
澪もその数字を見直し、開いていた家具の販売報告を閉じた。
そちらに関わる人の仕事まで、小さくなったわけではなかった。
「次期は売上額より、依存度を見る必要があるな」
真壁が手元のメモへ書き足した。
「そうですね。取引先別のこの表も、残しておきます」
明石が資料を保存し、澪は同じ欄を自分のメモにも書いた。
「売上が大きくなったから、会社も同じだけ丈夫になったとは言えないんですね」
「これからの判断に、内訳も使ってください」
明石は次の照合に使う請求資料を引き寄せた。
澪は大きな合計をもう一度見たい手を止め、取引先別の表の方へ付箋を移した。
請求書の番号を読み上げられると、理央は入金記録の頁を開いた。
澪が検収の控えを添え、明石は納品日と請求額を見比べてから、銀行明細へ目を移す。
真壁は支払条件の書かれた資料を、すぐ開ける所へ置いた。
売上の集計で重ねた紙が、今度は代金を受け取った日で分かれていく。
「こちらの請求分は、この入金で一致しています」
明石が日付を示すと、澪は自分の手元でも同じ行を辿った。
相手の名前を見つけるだけではなく、どの請求の代金かまで結びついて、欄に印が付く。
5月の資料へ来たところで、明石は銀行明細の方へ手を伸ばさなかった。
「これは、まだ支払期日前ですね」
「はい。納品と検収は済んでいます」
澪が今日の受領資料を示すと、明石は請求資料と照らし、未入金の一覧へ合わせた。
「5月末の売掛金として残します」
紙を置く位置が変わり、澪は、朝から運んでいた4億円の分がそこへ入るのを見た。
納品が終わったと印を付けたことと、銀行へ入ったと印を付けることは、同じ日にはならない。
「50億売っていても、口座に50億あるわけじゃないんですね」
「売上と現金は別です」
「分かってはいましたけど、並べて見ると違いますね」
澪は入金を待つ一覧の方へ、受領資料を置き直した。
普段も請求と振込を追っているのに、1年分の売上を見た後では、銀行の数字まで大きくなっていそうな気がした。
「未収の代金も、会社の資産ではある」
「はい。ただし、現金ではありません」
真壁の言葉を受けた明石は、売掛金の一覧を保存した。
「遅れているわけじゃなくて、今はここに残る分なんですね」
理央が支払期日の欄を見て言った。
「そうです。期日と入金の照合は、引き続きお願いします」
理央が自分の管理用の頁へ戻り、澪は銀行明細を明石の前へ揃えた。
入金だけではなく、支出も最後の行まで照らしていく。
銀行側の残高と帳簿側の残高が合うと、明石はその欄を閉じた。
「こちらも一致しました」
澪は銀行のファイルを机の端へ寄せ、印の付いた頁を見た。
午前中に受領資料をしまった手が、今は、次に受け取る代金の日付を押さえていた。
澪は用意していた在庫一覧を出し、月末の数量を記した頁を開いた。
家具の委託先から来た報告を添えると、明石は売れた分の資料へ戻って、残る数を辿った。
「委託先にある分も、こちらの一覧で合っていますね」
「はい。販売の報告と、残っている分を合わせています」
澪が頁の下を示し、理央は関連する控えを、その横へ置いた。
チタンの欄を終えると、特殊フローライトの原材料と加工中品、完成品へ進む。
明石は今日の出荷分が残高から外れていることを確かめ、梱包資材の欄まで目を通した。
「特殊フローライトは、月末在庫が少ないですね」
「作った分を、かなり早く納品しています。今日の分も、こちらの出荷記録まで反映しました」
「この数量なら、帳簿と一致しています」
明石は一覧の端へ印を付け、澪は朝に持ち出した数量が残っていないのを、もう一度目で追った。
空いた荷室を見た時と同じように、数の減った欄を見ると、月末の仕事が進んだことが分かる。
その一覧を机の端へ移すと、真壁が購入資料のファイルを開いた。
「資産関係はこちらです。使い始めた日の控えも付けてある」
PCや事務所設備、工具、車両の資料が、備品の一覧と並んだ。
明石は品名だけではなく、金額と使用開始の欄を読み、対象の行を選んでいく。
澪が購入時の支出へ目を移すと、明石の指は高額設備の資料で止まっていた。
「これは固定資産へ入れます」
「もう全部払っているんですけど、今年の費用には全部入らない方ですね」
「はい。支払った時期と、その年の経費になる時期は、同じとは限りません」
明石は購入代金の欄と、固定資産の一覧を並べて見せた。
「使っていく期間に応じて、減価償却を反映します。その計算には、この使用開始日の資料も使います」
澪は自分で付けていた日付を見た。
買った時には支払を済ませたと印を付け、使えるようになった時には、その日を書いた。
どちらも必要で付けた記録が、決算では違う所へつながっていく。
「決算、そういうの多くないですか」
「多いです」
返事が早く、理央が口元を押さえた。
「どっちの日付も書いてあるから、困らないんですね」
「そうです。資料が揃っているので、分けて扱えます」
明石は残りの備品にも目を通し、資産に入れるものと、その期の費用として扱うものを切り分けた。
全部の工具が同じ所へ入るわけではなく、澪は、示された行だけに付箋を添える。
購入資料と使用開始日の控えが揃うと、真壁はファイルを閉じた。
「これで、減価償却に使う資料も揃ったな」
「はい。決算書へ反映する際に計算します」
澪は支払済みの欄へ目を戻し、その横に、明石が示した資産の頁番号を書いた。
同じ設備の紙を、次にまた探す時には、この行から戻れた。
経費のファイルを開く頃には、窓からの光が、机の片側へ寄っていた。
澪はカードの明細を自分の前へ置き、理央が領収書の冊子を開く。
真壁の契約資料と、明石の会計データが、その向こうに並んだ。
家賃と共益費の支出を契約の金額に合わせ、駐車場や通信費の資料へ進む。
明石が日付を口にするたびに、澪は明細の行を探し、理央から渡された紙を添えた。
家具販売に関わる費用は、売上報告へ付いた資料と照らしていく。
梱包材の購入分まで終えると、明石の指が消耗品の欄で止まった。
「こちらの領収書は、どこに入っていますか?」
理央が日付の付いた所を開いたが、該当する紙が見当たらない。
澪も隣の明細へ目を落とした。
支出したことは分かるが、この行だけでは、品目まで揃わない。
「これ、月のファイルに入れたと思うんですけど」
「資料を確認してから確定しましょう。ほかの分を先に進めます」
明石が該当の欄へ目印を残し、次の交通費の資料を理央へ示した。
澪は記憶だけで品名を答えず、5月の購入分を入れた別の綴じ込みを開いた。
カード明細の控えへ添えた紙が、裏側に重なっている。
「ありました。明細と一緒に、こちらへ挟んでいました」
澪が抜き出すと、細い紙の角が少し丸まっていた。
明石は受け取り、購入日と品目、金額を見比べた。
「はい。この支出です」
画面に残っていた目印が消え、澪は数千円の領収書を、理央の開いた冊子へ渡した。
「売上50億でも、これも見るんですね」
「50億円売っても、数千円は数千円です」
「ですよね……。同じ机で見ていると、妙な感じがして」
理央が紙を収め、今度は取り出せる位置に指を置いた。
「これの方が小さいから、隠れちゃいますね」
「金額の大きい資料も、紙は同じくらいだ」
真壁が言い、机の端にある東都の控えを押さえた。
澪は思わず2枚を見比べ、片方だけ厚くなってくれれば探しやすいのにと思った。
交通費まで照合を終えると、明石は支払日の一覧へ切り替えた。
「こちらは5月分ですが、支払いは6月ですね」
「契約書はこちらだ」
真壁が該当する頁を開き、澪も確定している費用の資料を添えた。
明石は対象期間と金額を読んでから、未払の一覧へ入れる。
「では、5月分の費用と未払金として計上します」
支払済みの束とは別の所へ資料が残り、澪は翌月の予定に付けた印と合わせた。
今期の費用になることと、来月に払うことの両方が、その紙で追える。
給与の資料へ進むと、理央は領収書の冊子を閉じ、手元にある月次のファイルを渡した。
澪が支給と支払の記録を開き、明石は帳簿の欄を照らしていく。
「給与はこちらで一致しています。次に、社会保険の資料をお願いします」
真壁が届いた資料の綴じ込みを開き、澪は納付の記録を添えた。
対象の月と支払時期を順に辿り、残る分まで合わせ終えると、明石がチェックの欄を埋めた。
「こちらも揃いました」
理央が最後のファイルを、確認の終わった側へ置く。
澪は飲み物へ手を伸ばし、すっかりぬるくなったひと口を飲んだ。
紙の間を探していた数千円も、6月に支払う分も、もう空欄には残っていない。
明石は最後に、チェック表の上から下まで目を通した。
澪も机の端へ寄ったファイルを見て、渡し忘れたものがないか確かめる。
売上の資料から残高の照合へ使った束、その隣に在庫と固定資産の冊子がある。
経費の冊子には、さっき見つけた領収書が収まっていた。
「はい。これで必要な資料は揃いました」
「終わりました?」
「決算準備は終わりました」
澪は椅子の背へ寄りかかり、膝に置いていた手を開いた。
「……やっと」
理央も時計を見てから、机に残っていたペンを片づけた。
明石はデータを保存し、最後に使った資料の控えを揃えている。
「ここから決算書を作ります。売上原価、経費、減価償却などを反映して、利益を確定します」
澪は背もたれから少し体を起こした。
「そこで、本当にいくら残ったか分かるんですね」
「はい」
資料が揃ったと言われるまでは、机の上の束を早く閉じたかった。
今は、その紙を使った先の数字を見たい。
「……税金も?」
「利益が確定すれば、概算できます」
明石はそこでPCを閉じた。
澪は次に決算書を見る時、聞きたいことをメモへ書き留める。
「ならば次に見るべきは、売上ではないな」
「利益ですね」
理央が答え、真壁は取引先別の表を、ほかの資料から分けて残した。
澪は売上集計の控えへ目を戻した。
約50億4,000万円という金額を聞いた時には、会社名を確かめずにはいられなかった。
今は、費用を引いた後の数字の方が気になっている。
「決算書ができましたら、またご説明に伺います」
「お願いします。今日はありがとうございました」
明石がバッグを持って立つと、澪も席を離れ、扉まで送った。
外へ出た黒い革靴の音が遠ざかり、戸を閉めると、理央が空の器を集めていた。
「理央ちゃん、片づけたら帰りましょう。今日も家まで送ります」
「ありがとうございます。ファイルだけ戻しますね」
「資料は私が収めておこう」
真壁が机の端の冊子を持ち上げ、理央は渡しかけたファイルをその上へ重ねた。
澪は自分の鞄を開き、売上集計の控えを入れる。
いくら利益が残ったか、と書いたメモを、その手前へ挟んだ。
朝の納品書と同じように、角を曲げない向きへ置いて留め具を閉じた。