呼び鈴が鳴った時、澪はメモを書き直そうとして、机の手前の紙を裏返しかけていた。
前に明石が来た日に書いた、利益はいくら残ったか、という1行がある。
今日になっても聞くことは同じなので、そのまま表を上へ戻した。
「おはようございます。お待たせしました」
扉の向こうの明石は、いつもの黒いバッグを持っていた。
横と襟足を整えた短い黒髪も、細い黒縁の眼鏡も変わらない。
濃紺のスーツの肩へ差す朝の光を見て、澪は扉を大きく開けた。
「おはようございます。どうぞ」
机へ戻ると、理央が横の席で自分のペンを取り、真壁は向かいに腰を下ろしていた。
4人分の飲み物を机の端へ寄せると、中央には資料を置く広さが残った。
明石がバッグを椅子の横へ置き、ノートPCと資料を出す。
澪は手伝うつもりで机の奥を空けたが、そこまで紙は広がらなかった。
「今日は少ないですね」
「まとめ終わりましたから」
前に来てもらった時は、領収書を1枚探すために、隣の冊子まで開いた。
今日は、その領収書が見つかった所も、銀行の残高を合わせた所も、薄い資料の中へ収まっている。
澪は渡された紙を受け取り、端を揃えた。
「第1期の決算がまとまりました」
「はい」
最初に会社名を読んでしまい、もう知っているのに、と自分で思った。
あの50億円の集計と同じ会社だ。
6月に入り、会社の仕事は第2期になったが、まだ自分の中では、5月末の机が閉じていなかった。
「今日は、利益と税額、それから来期の報酬についてお話しします」
明石はPCを開き、紙の方も澪から読める向きへ置いた。
理央が椅子を寄せても、資料の束を避ける必要はない。
澪は白い机に残った広さを見てから、手元の決算書へ目を落とした。
いくら残ったかと書いたメモの、すぐ隣だった。
明石が示した売上高の欄には、5,039,284,000円とあった。
澪は前に受け取った集計の控えを横へ置き、同じ数字を見比べる。
「そこは、前に見た分ですね」
「はい。その下をご覧ください」
決算書には、売上から引かれた原価や経費の欄が続いていた。
あの日に資料を渡した備品も、減価償却の数字として入っている。
澪は順に目を下ろしたが、最後の大きな数字へ来たところで、途中の欄をもう一度見たくなった。
「税引前利益は45億円になりました」
「……利益?」
横で理央のペンが止まった。
「45億?」
「はい」
明石が指している所は、売上の行ではなかった。
4,500,000,000円と印字された欄の左へ、澪は視線を戻す。
「売上が50億で?」
「約50億4,000万円です」
少し足された金額を聞いても、2つの数字が近いことは変わらない。
澪は机へ置いた控えを、決算書の下から抜いた。
先に見た50億円の方なら、もうどの品を売った結果か説明できる。
45億円の方は、読めても、まだ同じ会社の数字に思えなかった。
「原価と経費、減価償却まで入って、この金額なんですね」
「反映しています。税引前ですから、法人税等は、この後になります」
明石は費用の欄へ手を戻し、澪が見落としていないか確かめる時間を置いた。
どこかの束が届かず、差し引くものが抜けた数字ではない。
澪は前に一緒に見た経費の資料を思い出し、各欄から45億円へ戻った。
理央はメモの余白へ、売上と利益の大きさを、2本の線で描いていた。
下の線は、上の線より、わずかに短いだけだった。
「同じくらいの長さになりますね」
「引いたはずなのに、近いんですよね……」
澪もペンを取ったが、メモの続きを書く前に、真壁の方を見た。
真壁は2つの金額を読み終え、すでに、原価と費用の側へ目を移している。
「利益が大きく残る取引になっているな」
澪はうなずきかけ、もう一度45億円を見た。
大きいという言葉だけなら、50億円を聞いた日にも使った。
今日はそこから、あまり遠くまで下がっていなかった。
「ほとんど残ってません?」
理央がメモから顔を上げると、明石は決算書の費用の欄を示した。
「かなり高い利益率です」
澪はその欄の幅へペンを横に置いた。
資料を揃えた時には、家賃や給与、消耗品まで、1つずつ金額を追った。
その時の支出を覚えているので、合わせた数字が小さいとは思えない。
ところが売上高の隣へ戻すと、小さく見える。
「特殊フローライトか」
「そうですね。売上の大半を占めています」
真壁の言葉を受け、明石は商品ごとの数字が載った資料を添えた。
澪は量産分の欄を読んだ。
納めた数量は知っているが、あの箱を受け取ってもらうたび、今日の利益も積み上がっていた。
「工場を建てていないから……」
口に出した後、澪は事務所設備の欄へ目を戻した。
「設備費、人件費、光熱費などが、売上規模に比べて小さいことは、数字にも出ています」
明石の見ているものも、その欄だった。
どの費用が載り、どれだけ差し引かれたかを、彼は資料から読んでいる。
澪は説明を足さず、手元のペンを持ち直した。
「売上が増えた分だけ、同じ割合で費用が増えたわけではないんですね」
「はい。今回の決算では、それが大きく出ています」
真壁は商品別の資料を見終え、取引先の名前にも目を通した。
「大きく残る分、あの取引への依存も利益の側で見ておくべきだな」
澪は数日前に残した付箋を思い出した。
50億円を作った相手の名前は、45億円を見ても変わらない。
メモへ品名を書き足すと、理央も隣で同じ欄へ戻っていた。
「前は、いくら残るかを知りたかったんですけど」
澪が言いかけると、明石は次に渡す紙を手に取った。
「次は、そこから税金を反映します」
澪はペンを置かずに、その紙を受け取った。
受け取った紙には、決算書より細かく項目が並んでいた。
澪は最初の法人税という文字を読み、その下へ目を動かした。
地方法人税、都民税、事業税と続き、まだ別の行がある。
「税金の名前、多いですね」
「法人税等の内訳です。合計は、こちらになります」
明石が下の欄を示した時、澪はその横へ添えるつもりだったペンを止めた。
「概算で、約17億5,400万円です」
「……17億?」
「税金が?」
理央の声が重なり、澪は紙から顔を上げた。
「はい」
明石の返事を聞いてから、税引前利益の紙を脇へ戻した。
45億円の所へ指が移ったのではない。
新しく渡された紙の合計欄に、1,753,970,728円と書かれている。
澪は右端の円から戻り、3桁ずつの区切りを辿った。
途中で止まる場所を間違えた気がして、もう一度最初から読む。
「法人の利益に対する税金を合わせた金額ですね」
「はい。複数の税目を合計しています」
明石は一覧を動かさずに答えた。
理央が紙を覗き込もうとすると、澪は少しそちらへ向けた。
2人で見ても、明石の読み上げた桁は小さくならない。
「内訳を全部読む前に、合計の方で止まってしまいました」
「合計から見ていただいて大丈夫です。内訳も、この資料へ残しています」
明石は内訳の行と合計が読めるよう、紙の重なりを直した。
真壁は各欄へ目を通してから、合計へ戻っている。
澪はその顔に、ここまで大きいのかという表情を探したが、見つからなかった。
自分だけ読んでいる紙が違うのではないと確かめて、ペンを持ち直す。
メモに税金と書いた所で、金額を入れるには右の余白が足りなくなった。
澪がメモを横へずらすと、明石は別の欄へ視線を下ろした。
「それと、消費税等です」
「まだあるんですか?」
「あります」
澪の隣で、理央も顔を上げた。
17億円を書き終えたばかりの手が、次の金額を待ったまま止まっている。
「納付見込みは、約4億5,400万円です」
「4億……」
理央が小さく繰り返した。
澪は示された453,928,400円を読み、その上の法人税等の欄へ目を戻す。
さっき数えた合計の内訳を、もう一度説明されたのかと思いたかった。
明石の指は、2つの金額を分けて示していた。
「こちらは、利益に対する税金とは別です。受け取った消費税から、仕入れ等で支払った分を差し引いて納めるものです」
「17億の方には、入っていないんですね」
「はい。納付する額としては、別に確保します」
澪はメモに書いた税金の横へ、法人税等と付け足した。
その下を空け、消費税等と書く。
会社の代金を受け取る時にも、請求書の消費税の欄を省いたりはしていない。
取引ごとに分けて見ていた金額が、期の最後でまとまると、この桁になった。
「消費税って、買い物をする時にも書いてありますよね」
理央が、数字を写しながら言った。
「はい。今は、会社が納める分として見ています」
明石は納付見込の欄を、2人の手元へ向け直した。
理央のメモの数字は、もう途中で止まっていなかった。
けれど、書き終えた後もペンを握ったままで、澪と目が合う。
「聞いたことのある名前なのに、金額が……」
「私も、名前の方には慣れていたんですけどね」
澪は笑いかけ、最後まで声にはならなかった。
目の前にある4億円台の数字は、今度はこちらから納める方だった。
2つに分けて書いたメモを、明石の資料の横へ置いた。
明石が資料の下へ手を動かすと、澪もメモの2つの金額から視線を移した。
「納付関係の総額としては、約22億円を見ておいてください」
「22億……」
2つを足せば、そうなる。
分けて受け取った時には、片方ずつなら読めていたのに、合計にすると、また声に出すまで間が空いた。
2,207,899,128円という数字を、澪はメモへ写した。
書き終えた後、元の資料へペン先を戻し、抜けた桁がないか合わせる。
「これ、売上じゃないですよね」
理央が尋ねると、明石は合計欄の見出しを示した。
「納付です」
理央は唇を閉じ、自分のメモにも同じ言葉を書いた。
澪はその字を見て、自分の方にも納付と書き添える。
22億円を売ったと聞くのと、22億円を納めると聞くのとでは、手の置き場所まで落ち着かない。
「支払いに支障は?」
向かいから来た真壁の声で、澪は顔を上げた。
彼の視線は、合計だけではなく、資金の予定を載せた資料へ向いている。
「ありません。支払いの予定と入金の予定を合わせ、納付分を確保できます」
明石は資金の欄を開き、真壁へ示した。
澪も、以前照合した預金と売掛金の記録が、どこへつながるかを辿った。
足りない分を探しに行く話にはなっていない。
「ならば問題ない」
真壁は自分の手元へ支払予定を書き、紙を返した。
澪はその短い返事を聞いて、向かいの顔を見た。
数字を見落としたわけでも、法人税等だけのことを言ったわけでもない。
22億円の合計まで読み、支払えると聞いて、もう次へ進める顔だった。
「……真壁さん」
呼びかけると、真壁の目がこちらへ向いた。
澪は資金予定の紙を押さえたまま、何を伝えたいのか、先に言葉を選んだ。
「払えるかどうかを心配しているんじゃないです」
澪は資金の紙を離し、納付総額の方へ手を戻した。
「22億っていう数字に、頭が追いついていないんです」
「私もです」
理央が、まだ机へ置けずにいたペンを下ろした。
明石は2人が見ている紙を、そのままにして待っている。
真壁は澪のメモにも目を向けた。
「利益がそれだけあるのだから、税額も相応になる」
「相応の桁がおかしいんですよ」
澪は声を張らずに答え、額へ持っていきかけた手を机へ戻した。
45億円が出た時には、売上の欄と比べることができた。
納付する22億円を、生活の中でどの支出と比べればいいのか、すぐには出てこない。
事務所の家賃なら、毎月の予定を見て払う。
消耗品なら、買った物を手に取れば、どの支出か分かる。
目の前の紙にも行き先は書いてあるのに、22億円を動かす手だけが、まだ自分のものにならなかった。
「税金があるのは分かっていたんです。ただ、これをうちが納めるんだと思うと……」
澪が言葉を止めると、真壁は納付資料を、決算書と重ならない位置へずらした。
「それなら、この紙は分けて残しておこう。支払う額を見失わずに済む」
「そうですね。そこは分けます」
澪は返事をして、資料の角を押さえた。
慣れるまで眺めていれば、仕事が先へ進むわけでもなかった。
理央も机へ置いたペンを取り直し、写した総額に線を引いた。
「桁はまだ怖いですけど、数字は合っています」
「ありがとうございます。私の方も合っています」
澪がメモを向けると、理央は声を出さずに笑った。
明石は数字の照合が終わるのを待ち、元の決算書を手前へ引いた。
「では、税引後の利益を見ましょう」
澪は納付の紙を脇へ残し、最初に受け取った決算書へ体を向け直した。
明石が決算書の下を示すと、澪はメモへ書いた45億円から目を離した。
「法人税等を反映した税引後利益は、約27億4,600万円です」
2,746,029,272円という数字を、澪は今度は左から読んだ。
税金を聞く前より減っているが、それでも27億円台にいる。
「……残るんですね」
「会社には残ります」
明石の声を聞き、澪は最初のメモへ戻った。
いくら利益が残ったか、という問いの下へ、数字を書き入れる。
2つの税額を書いた紙は、横へ分けたままだった。
「この利益の数字に、消費税の分をもう一度引くわけではないんですね」
「はい。税抜経理で出した利益です。消費税等の納付は、資金の予定の方で扱います」
明石は決算書の利益の欄と、別に置いた納付資料を順に示した。
澪は利益の数字の横に、預金残高を書き足そうとはしなかった。
前に確認した入金待ちの代金も、支払って使っている設備も、この利益と同じ形で銀行に並ぶわけではない。
「手元で使える額は、さっきの資金の表で見るんですよね」
「そのとおりです。利益と口座の残高は、別に見てください」
澪がメモの行を分けると、理央も自分の数字の脇に、利益と書いた。
「27億も大きいのに、先に22億を聞いたせいで、残ってよかったって思っちゃいました」
「私も、今、そう思いました」
澪は答えて、口元へ手を添えた。
会社が黒字なのだから、喜んでいいはずだ。
ただ、喜ぶ前に、どの紙のどの金額を見ているか確かめる癖が付いている。
「支払う分を確保した上で、会社に残す資金を使っていくことになります」
明石の説明に、真壁は短くうなずいた。
澪も納付資料の位置を見てから、決算書を自分の前へ置き直す。
利益を知りたいと書いて待っていた1行が、ようやく埋まった。
その紙を閉じようとすると、明石が次の資料をバッグから取り出した。
「それと、第2期の役員報酬です」
役員報酬の資料は、決算書よりも数字の少ない紙だった。
澪はそこに自分の名前を見つけ、理央の方へ寄せていた椅子を戻した。
「上げるんですか?」
「設立当初に、半年後、月1,200,000円を見直し候補にしていました」
「そんな話、しましたっけ」
「しました」
明石が添えた昔の控えには、月800,000円を基準にした記録と、その後の見直し候補がある。
澪は2つの数字を読み、六畳間で電話をしながら、なぜか正座していたことを思い出した。
明石の声を聞きながら、ローテーブルへ記録帳を広げていた。
会社から借入金を返してもらうことと、自分の報酬が毎月出ることを、違う欄へ書いた日だった。
「……書きましたね」
指で辿ると、80万円を聞いてから120万円を候補にした順まで戻ってきた。
その時は、自分を継続して働かせる固定費だと言われても、数字が重かった。
「残っているんですね、これ」
「記録ですから」
明石は控えを置いたまま、新しい期の資料をその隣へ並べた。
澪は120万円の欄へ目を移した。
さっきまで17億円と4億円を、別々の税額として受け取っていた。
今は、1か月の生活と仕事へ結びつく金額が、そこにある。
小さくなったと思うより先に、誰へ払うのかが分かった。
「45億円出たから、今、急に決めた額ではないんですね」
「以前の候補と、現在の状況を合わせて検討できます」
澪は昔の控えを、今の資料と同じ向きへ揃えた。
書いたことを忘れていたのに、その紙が自分の考えを戻してくれる。
理央は澪の手元へ場所を空け、税額を書いた自分のメモを少し奥へ置いた。
澪は候補の数字を囲まず、真壁の方を向いた。
今度は、決める相手が向かいにいた。
「篠原さんは、月1,200,000円でよいと思います」
明石は以前の候補の欄から、第2期の方へ手を移した。
澪は月額の前にある自分の名前を見て、向かいへ顔を上げる。
「真壁さんは?」
「同額で問題ないでしょう」
真壁の分にも同じ数字が置かれ、澪は返事を待った。
これほどの利益が出たから、もっと取ろうと言われることは、自分では考えていなかった。
それでも相手の報酬まで、先に決めるつもりはない。
「私は構わん」
真壁は資料を読み終え、月額の欄が見える向きで明石へ返した。
「では、それでお願いします」
「賞与は?」
「なしで」
澪が答え、真壁にも目を向けると、短くうなずきが返った。
明石は2人の分に同じ内容を記入した。
「月120万円、賞与なしですね。会社の決定として記録を整え、この期の定期報酬に反映します」
澪は月額の数字を、自分のメモにも書いた。
「1年なら、1人1,440万円ですね」
「はい。2人で2,880万円です」
年間の額が来期の固定費の欄へ移り、澪は、毎月続ける支払になることを確かめた。
利益の何分の1という決め方ではなく、名前の付いた2人へ、定期的に払う額だった。
理央は報酬の紙を受け取らず、澪が書き終えるまで、机の脇へ自分のペンを置いた。
「同じ数字が2つだから、ここはすぐ分かりますね」
「そうですね。今は、それがありがたいです」
澪が答えると、理央の口元が緩んだ。
明石は月額と賞与の欄を読み返し、2人へ見せてから、決算書とは分けて重ねた。
澪もメモの120万円の横へ、毎月、と書き添えた。
税額の紙から少し離れた所で、ようやく自分が使う数字の大きさへ戻ってきた。
明石が報酬資料を揃える間に、澪は税引後利益の欄を見直した。
27億円台の数字には自分の名前がなく、決算書の上に会社名がある。
「会社にはかなりの資金が残りますが、役員個人へ移す必要はありません」
「はい。会社のお金ですから」
澪は答えて、月120万円のメモを、決算書の下へ滑り込ませずに残した。
真壁も額を増やす話へ戻らず、会社側の支払予定を自分の前へ寄せた。
理央は会社名が見える向きへ決算書を揃え、税額のメモをその脇へ置いた。
明石は報酬の確認を終え、机の中央を空ける。
澪は手元へ戻した飲み物をひと口飲んだ。
受け取る金額は決まったが、会社のお金の使い道には、まだ自分から話していないものがあった。
窓の外を車が通り、音が遠ざかるまで、澪は器を持っていた。
その音を普段聞く、もう1つの部屋が頭に浮かぶ。
飲み物を机へ戻し、明石がバッグへ資料をしまう前に、顔を上げた。
「あの、もう1つ相談があるんですけど」
澪の声に、明石は揃えていた資料から手を離した。
「何でしょう」
「江古田のアパート、買えませんか?」
明石の手が止まり、細い眼鏡の奥の目が、こちらへ向いた。
澪は自分の住んでいる建物のことだと付け足す。
「今、私が部屋を借りている所です。会社で取得できないかと思って」
机の上には、新しい物件の図面も写真もなかった。
澪が思い浮かべているのは、毎日出入りするあの部屋と、その部屋のある建物だ。
「一室ですか?」
明石に聞かれ、澪は答えようとした。
「建物ごとだ」
向かいから真壁の声が来た。
明石の視線が、澪から真壁へ移る。
理央はペンを取るより先に、2人の顔を見ていた。
「私も、建物ごと持てないかと思っています」
澪は真壁の方を一度見てから、明石へ答えた。
自分の部屋だけに鍵を掛けても、その部屋がなくならない約束にはならない。
廊下の先でほかの入居者とすれ違う時も、建物を自分がどうするかという話はしたことがなかった。
それを会社で買うと言うのは、今朝の自分にも大きな相談だった。
「あの部屋、なくなると困りますよね」
理央が静かに言い、澪はその声へうなずいた。
荷や人が、あの場所を通って行き来することを、理央も何度も見ている。
引っ越して、机や寝具を別の部屋へ運べば済む話ではなかった。
明石は役員報酬の資料を脇へ寄せ、相談の内容をメモへ書いた。
「一棟取得ですね。会社で買う案として、伺います」
「はい。お願いします」
澪は決算書を持ち上げずに答えた。
会社に大きな金額が残ったから思いついた、ご褒美の住まいではなかった。
真壁は、明石が書き終えるのを待ってから口を開いた。
「あの場所は我々にとって代替が利かん。確保できるのであれば、賃貸のままにしておく理由もない」
真壁は報酬の紙を横へ戻し、会社の資金予定の方を開いた。
月額を決めた時より、こちらの用途には早く手が動く。
「売られたり、建て替えになったりしたら困るので」
澪が言うと、明石は取得の目的を書いた所へ、続けてペンを走らせた。
「事業上、継続して確保する必要がある場所ということですね」
「はい」
自分の住まいでもあることは、明石も知っている。
澪は生活の方だけを大きく話さず、会社にとって、そこを使い続ける必要があることを伝えた。
真壁は資金の紙を読んだまま、納付分の欄には指を置いている。
「でしたら、法人取得で検討できます」
明石の返事を聞き、澪は椅子へ背を預けかけた。
まだ買ったわけでも、売ってもらえると決まったわけでもない。
それでも、会社で確保するという考えを、専門家へ渡せた。
「取得後の利用の仕方も、今の住居部分と事業に使う部分を分けて見ていきましょう」
「はい。会社が買ったから、私が全部好きに使うわけではないですよね」
澪は昔の報酬資料へ目を移した。
部屋の間取りへ色を塗り、使う範囲を示すように言われたことも、まだ覚えていた。
建物が会社のものになっても、その区別までなくすつもりはなかった。
「購入条件が分かったところで、資金の予定にも反映できます」
明石は取得の相談を書いた紙を、決算書と別に残した。
理央も自分のメモへ会社で取得と書き、その下の金額は空けていた。
澪はその空欄から目を離し、真壁の方へ向いた。
「大家さん、売ってくれますかね」
澪が聞くと、真壁は空いていたメモの頁を開いた。
「交渉は任せておきたまえ」
返事が早く、澪は手にしていたペンを置き損ねた。
机で一度転がる音がして、理央がこちらへ寄せてくれる。
「……大家さんとですよね?」
「それ以外に誰がいる」
「普通に買うんですよね?」
「当然だ」
真壁はその間にも、所有者へ確かめる条件を書いていた。
売る意思があるか、あるなら、どのような条件を望むか。
その下には、建物の状態と現在の入居状況を調べるための欄が続く。
澪は書かれている言葉を見てから、理央に戻してもらったペンを取った。
「すぐ買ってきたと言われそうで、先に聞きました」
「売るかどうかは、所有者が決めることだ。まず話を聞く」
真壁は澪へメモを向け、空欄を隠さなかった。
「相場と条件を照らす。引渡しの時期や入居者の扱いも、代金だけで済む話ではない」
明石も、そのメモへ目を通した。
「購入条件が具体的になりましたら、土地と建物の資料もお願いします」
「承知した」
真壁が書き足し、澪は自分の住まいに関する資料を、交渉に使えるよう揃えると答えた。
依頼した瞬間に建物が手元へ来るわけではないと分かると、呼吸がいつもの長さへ戻る。
それでも、メモを閉じる真壁の手を見ると、本当に所有者と話して戻ってきそうだった。
「先に相談してよかったです」
「必要なものを確保する話だ。進めておこう」
理央は隣で、建物ごと、と書いた字の下へ、交渉、と付け足した。
「話が、ちゃんと動く所まで決まりましたね」
「はい。まだ買えるかは分からないので、その先は聞いてからですね」
澪は答え、空欄の残ったメモを見た。
真壁がその紙を自分のファイルへ収めたところで、澪の目は、机の脇に残していた納付資料へ戻った。
「これ、今買ったら、税金がちょっと減ったりします?」
納付資料に手を戻した澪へ、明石は決算書の日付を示した。
「第1期のこの納付見込みは変わりません。もう期が終わっていますから」
「そうですよね。今から買うのは第2期の話でした」
澪は自分で用意した期末の資料を思い出し、ペンを持つ手を止めた。
あれを揃えてから今日の紙を受け取ったのに、建物の話へ移ると、同じ財布の中のことに感じてしまった。
「それに、土地や建物は固定資産です。購入代金が、そのままその期の経費になるわけでもありません」
明石は取得の相談を書いた紙を開き、土地と建物を分けて示した。
「建物は、取得して使い始めた後、減価償却を考えます。土地は減価償却しません」
澪は前に備品を分けた時の資料を思い浮かべた。
代金を払い終えたことと、全額がその年の費用になることは、別だった。
「建物を買う額だけ、利益が減るという計算にはならないんですね」
「はい」
澪は納付総額の欄へ視線を戻した。
22億円の上に、訂正の線は入らない。
「そもそも、節税のために買うわけではないだろう」
真壁の声に、澪は顔を上げた。
「分かっています。ちょっと聞いただけです」
「目的は、あの場所を使い続けることだな」
「はい。買うなら、そのためです」
澪は自分のメモに書いた取得の目的を、税額の下から離した。
理央は隣で、その2枚を混ぜないよう重ね直している。
「こっちは、手元に残す方ですよね」
「ええ。こちらへお渡しします」
明石が答え、納付予定を載せた紙を机の中央へ戻した。
澪も器を少し横へ動かして、受け取る場所を空けた。
アパートを買えるかもしれないと考えた時に軽くなった肩が、今度は、その紙へ向き直った。
窓から机へ差していた光は、いつの間にか椅子の脚へ移っていた。
午後になった事務所で、澪は冷めた飲み物を脇へ置き、明石から最後の紙を受け取った。
納付の予定が、法人税等と消費税等に分かれて載っている。
「申告はこちらで進めます。納付期限までに、この分は動かさないでください」
明石が総額の欄を示した。
澪はその数字を読み、真壁が残した資金の予定とも照らす。
役員報酬の資料は決まった内容で揃い、建物については、交渉するためのメモが真壁の手元にある。
どちらも、この納付分を忘れたまま進める話ではなかった。
「この分は、使う予定から外して残しておきます」
「お願いします。納付の手順についても、あわせてご案内します」
澪は予定表へ付箋を添えた。
必要なことを聞き、残すお金を確かめても、口から出る数字だけは、まだ遅い。
「……22億」
「はい」
明石は紙を受け取った時と同じ声で答えた。
理央が自分のメモを閉じ、予定表の方へ顔を向ける。
「会社って、儲かると大変ですね」
「今、それをものすごく実感しています」
澪は答え、付箋の端を押さえた。
会社に利益が残ることも、支払えることも、今日の資料で分かった。
それでも税金用に取っておく額が、22億円だった。
「来期も利益が出れば、また払うことになる」
真壁の声に、澪は顔を上げた。
「今、それ言います?」
隣で理央が息を漏らし、澪も口元だけで笑った。
明石は提出する資料をバッグへ戻し、手元に残す予定表は動かさなかった。
机の上には、45億円の税引前利益を載せた決算書がある。
同じ紙の下には、税引後利益の27億円台の数字もある。
澪の目は、そのどちらからも、納付予定表へ戻った。
澪はもう一度、納税予定額の桁を数え直した。