大学から新事務所へ来ると、真壁の机に、自分の部屋の契約書が広がっていた。
澪は肩から鞄を下ろしながら、見覚えのある住所へ目を留めた。
「これ、うちのアパートですよね」
「そうだ」
数日前に渡した賃貸借契約書のコピーの隣には、澪が持っていなかった書類まである。
土地と建物で分かれた登記情報を見て、鞄を椅子へ置く手が遅れた。
「もう連絡したんですか?」
「交渉は任せておきたまえ、と言ったはずだが」
「言いましたけど」
澪は椅子を引き、まず鞄を座面へ置いた。
頼んだ時は納税予定額の紙が机を占めていたのに、その横へ、もう別の持ち主の建物が並んでいる。
真壁は手前の1枚を抜き、こちらへ向けた。
「管理会社を通じて、所有者へ購入希望を伝えた。会社として一棟取得を検討している。売却の意思があれば、話を伺いたいとな」
「返事は、来たんですか」
「今すぐ売るつもりはないが、話は聞く、とのことだ」
澪は紙を受け取り、そこに書かれた同じ文を読んだ。
「それ、売らないってことじゃないですか?」
「『今すぐ売るつもりはない』だ。意味が違う」
向かいの机でノートを開いていた理央が、顔を上げた。
「もう面談まで取ってるんですか?」
「明日だ」
「早いですね」
澪は自分の声を聞き、紙の下にある時刻へ目を移した。
明日の午後なら、こちらも出られる。
買えたらいい、という話に返事を待っている間に、真壁は、誰といつ話すかまで決めていた。
「それまでに、こちらも現物を見る。今日は午後から調査の立会いだ」
「私も行きます。部屋を開ける必要があるなら、私がいないと」
「室内は君の同意する範囲でよい。他の入居者の部屋へ入る予定はない」
澪が予定を手帳へ写すと、理央もペンを取った。
「私、資料を持つのを手伝ってもいいですか?」
「お願いします、理央ちゃん。私、建物全部のことになると、知らない所が多いので」
理央は自分のノートの先を少し空けた。
澪も鞄を椅子からどけ、真壁の隣へ腰を下ろす。
資料の表紙に載った建物写真は、今朝、講義へ行く時に通った入口だった。
帰るためにしか見ていなかった場所を、今日は買うために見に行く。
午後、アパートの前で待っていると、澪の足は、いつもの外階段へ向きかけた。
今日は部屋へ帰ってきたのではないと気づき、入口へ戻る。
郵便受けの前に置かれた自転車を避けて、不動産会社の担当者と建物調査の担当者が入ってきた。
「本日は共用部分と、いただいた修繕資料を中心に拝見します」
澪は挨拶を返し、資料を持った理央と並んで、階段の横へ寄った。
真壁は調査担当に続き、柱の足元へ視線を下ろしている。
狭い敷地に建った3階建ては、下から見ると、思ったより上へ長かった。
各階に2つずつある玄関のうち、澪が普段気にするのは、自分の鍵が合う1つだけだ。
「1988年3月築ですから、今年で39年ですね」
不動産会社の担当者が建物概要を開き、澪も横から覗いた。
鉄骨造という文字を見てから、目の前の階段へ手を添える。
朝には冷たかった手すりが、今は日を受けて温まっていた。
「土地が約68㎡、建物全体で約112㎡です。1Kが6戸ですね」
「全部、入っているんですよね」
「はい。6戸ともご契約が続いています」
返事を聞く間に、上の廊下で鍵を掛ける音がした。
澪たちは階段を空け、下りてきた入居者へ会釈する。
ここを買うということは、自分の部屋のほかに、あの人の帰る部屋も買うのだった。
調査担当が共用灯を見上げ、給排水の配管へ移ると、理央は手元の資料と実物を交互に見た。
「澪さん、屋上って見たことあります?」
「ないです」
「給水管は?」
「どれがそうなのか、今、教えてもらっています」
理央はペンを止め、澪の顔を見た。
「一棟買おうとしてる人の返事じゃないですね」
「昨日まで、入居者としてしか見てなかったんです」
雨の日に手すりを握る場所や、買い物袋を持って通れる廊下の幅なら知っている。
その廊下が、次にいつ補修を要するかは知らなかった。
調査担当が鉄部の塗装の剝がれへ指を向けると、真壁はその位置を写真へ残した。
「こちらは、前の補修の記録と照らしておきます」
担当者の言葉に、澪は記録の束を差し出した。
真壁がどこを見ているか分かるようになると、いつも通っていた階段にも、気になる所が増えた。
自室では、澪が先に玄関を開けた。
「台所の設備は、こちらです。必要な所を見ていただいて構いません」
靴を脱いだ担当者を小さなキッチンへ通し、澪は蛇口の脇を空けた。
六畳の奥にある押し入れの襖は、閉じたままだった。
理央は玄関側で、持っていた冊子へ照合用の付箋を挟んでいる。
水を流す音を聞きながら、澪は床へ落ちないよう、洗剤の容器を寄せた。
調査担当の視線は台所の設備と資料を行き来し、奥の襖へ向けられることはなかった。
共用部を含めて見終えたところで、担当者は書類を閉じた。
「見られた範囲では、購入を見送るような大きな問題は出ていません。ただ、今後の修繕は見込んでおく建物です」
「使い続けるために、ということですね」
「ええ。屋上の防水や外壁、配管などは、履歴も合わせて見ていきます」
真壁が翌日の資料を依頼し、澪は自室へ鍵を掛けた。
いつもなら、そのまま階段を下りる。
今日は、廊下の灯りと、壁沿いに走る管をもう一度見てから、2人の後を追った。
翌朝、新事務所で査定書を開くと、澪が普段見るアパートの写真が、金額の上に載っていた。
窓や廊下を先に見てしまい、指を紙の下へ戻す。
「5,800万円から6,300万円……」
理央が隣から読み、澪は頷いた。
「6,000万円くらいなんですね」
「高いですよ」
「分かってます」
答えながら、澪は査定の上限へ線を引いた。
納税予定表の22億円は、別のファイルへ入れてある。
いくら桁が小さく見えても、こちらの購入費が要らなくなったわけではない。
真壁が建物調査の資料を添え、机の中央へ置いた。
「修繕の見込みは、今後数年で350万円から450万円程度だ。取得費とは別に考える」
澪は昨日見た、鉄部の塗装の写真へ目を留めた。
次の頁には外壁、その先には防水の状態があり、それぞれに手を入れる目安が書かれている。
「全部、今すぐ直すんですか?」
「その必要はない。時期と状態を見ながら、維持に使う金を確保しておく」
理央が写真の頁を押さえ、澪はその横へ修繕費を書き足した。
買う金額の下に、買ってから使う金額ができる。
真壁は年間賃料の欄も開いた。
「6戸で年間約414万円。満室であっても、この全額が手元に残るわけではない」
「管理も修繕も、こちらへ来るんですよね」
真壁の指が費用の欄へ移り、澪は資料の端を揃えた。
毎月払っていた家賃が、この建物全体の収入の一部として見えている。
自分が住んでいるからといって、その金額を計算から外すことはできなかった。
「我々には、市場価格とは別の価値がある」
査定書を閉じずに、真壁が言った。
澪の目は建物写真の、自分の部屋の窓で止まった。
「それは言えないですけどね」
「言う必要もない。だが、相場を知った上で、我々が出す条件を決める」
押し入れのある場所は、隣の建物で代わりにできるものではない。
それでも、相手の言った額へ全部頷けばよいわけではなかった。
澪は査定書をもう一度手前へ引き、値段の幅と修繕の見込みが同時に読めるよう並べた。
「税金用の分とは、分けておきます。購入に使える資金の方で」
「その予定も明石君へ渡してある」
真壁が資金の表を出すと、澪は納付分が残っている欄を先に見た。
午後の面談へ持っていく資料は、理央が同じ順でファイルへ入れてくれる。
「私、ここで待ってますね。戻ったら、どうだったか教えてください」
「はい。勝手に買ったことには、まだならないと思います」
澪は答えてから真壁を見たが、彼は面談の時刻を確かめているだけだった。
管理会社の応接スペースには、小さな机を挟んで椅子が置かれていた。
澪は真壁の隣に座り、向かいの所有者へ頭を下げた。
普段、建物の用事は管理会社へ連絡するので、買う側としてここに座るのは初めてだった。
「あのお部屋に住んでいる方なんですね」
「はい。今回は、合同会社押入商会として、取得のご相談をさせていただきたくて」
澪は会社名の載った資料を、相手から読める向きへ置いた。
持参した査定書は、その下へ入れてある。
管理会社の担当者が、まず購入希望の内容を口頭で伝える。
所有者は会社名へ目を落とし、それから建物の資料を手前へ寄せた。
「売りに出していたわけではないんです。買いたいと言われて、少し驚きました」
「こちらからの打診に、お時間をいただいて感謝する」
真壁の返事を聞き、澪も改めて頭を下げる。
断られるかもしれないという考えが、向かいの人の声を聞くと、今朝より具体的になった。
「売るなら、7,200万円くらいは考えたいですね」
所有者が提示した紙に、72,000,000円と書かれていた。
澪は右端まで読んだ。
1億円よりも、ずっと手前だ。
「……思ったより安い」
隣の真壁が顔を向けた時、澪は口から出た言葉に追いついた。
管理会社の担当者も、説明に使っていたペンを止めている。
「すみません。今の忘れてください」
忘れてもらうには、机が小さすぎた。
全員に届いてしまった声を引っ込められず、澪は資料の角へ手を揃える。
査定の上限を超えていることは、ちゃんと分かっていた。
それなのに、頭の中の比較相手が、一棟のアパートではなく22億円だった。
「あくまで、こちらの希望ですので」
所有者は値段の紙を置き、澪の返事を待った。
肯定に聞こえたのではないかと気づき、澪は顔を上げる。
「ありがとうございます。購入条件も含めて、お話しさせてください」
横で真壁が査定書へ手を伸ばしたが、金額の行を先に開くことはなかった。
「売却に際して、価格以外に気にされている点は?」
所有者の手が、建物の写真の上で止まった。
澪は自分のペンを机へ戻し、その人が続ける言葉を待った。
所有者は、写真から手を離し、机の脇に置いた鞄へ目をやった。
「家賃は入ってくるので、急いで売る理由はないんです。ただ、いつまで持っていられるかは、考えますね」
「今後の修繕ですか」
真壁が聞くと、所有者は管理会社の担当者と目を合わせた。
「それもあります。直すとなると、1か所ずつでは済まないでしょう。設備の連絡が来ることも増えましたし」
担当者が、机の上へ修繕の履歴を広げた。
所有者はそこへ指を置き、澪たちが見るまで待ってから、先へ動かす。
「管理はお願いしていても、どうするかは、私が返事をしないといけませんから」
澪は今朝受け取った資料の、まだ先の時期が書かれた欄を思い出した。
自分の蛇口なら、出なくなってから連絡する。
持っている側には、出なくなる前から考えておくことがあった。
「売ること自体に、決めて反対しているわけではないんです。でも、買う方がどうするのか、聞いておきたくて」
所有者は建物の頁を戻した。
澪が知っている6つの玄関が、写真の上にも並んでいる。
「皆さん、今も住んでいますよね。それで、売ったら出てください、ということになるのは……」
言葉が止まったところで、澪は手元へ下ろしていた視線を上げた。
「入居者の契約は、そのまま引き継ぐつもりだ」
真壁が答えると、所有者の顔がこちらへ向いた。
「退去させないんですか?」
「その必要がない」
「建て替えもしない?」
「当面は考えていない。必要な修繕を行い、建物を維持する」
所有者の指が、写真の端から離れた。
管理会社の担当者も、入居状況を載せた紙を、もう一度机の中央へ置く。
「現在の契約を引き継いで、持ち続けるお考えなんですね」
「長期保有を前提にしている。管理も、引き続きお願いしたい」
真壁の返事を受け、担当者が所有者へ頷いた。
澪は自分の部屋の写真を見てから、その隣へ目を動かした。
鍵の音を聞いて階段を空けた人にも、今日の話は関わっている。
押し入れを残すために自分たちが来て、それ以外の部屋から人がいなくなるのは、望んでいなかった。
「家賃も、今の契約のままです。私も、そこで暮らしていますから」
澪が言うと、所有者は顔を見直し、小さく息を吐いた。
「そういうお話なら、こちらも考えやすいです」
机の上に残っている希望価格は、7,200万円のままだった。
真壁はそこを急いで書き換えず、引渡しの時期についても尋ねた。
澪は相手の返事を聞きながら、値段の横に空けておいた余白へ、初めて別の条件を書いた。
事務所へ戻ると、理央が机の向こうから立ち上がった。
「どうでした?」
「7,200万円が希望だそうです」
澪はファイルを机へ置き、その上から手を離せなかった。
「それで、私、思ったより安いって言っちゃいました」
理央が口を開き、すぐには声が出なかった。
「……澪さん、金銭感覚壊れてません?」
「昨日まで22億円の紙を見てたせいです」
「比べる相手が、おかしいですよ」
「はい。言ってから気づきました」
澪がファイルを開くと、理央は希望価格を見た後で、こちらへ顔を向けた。
つられて笑いかけたが、所有者の前で口にしたことを思い出すと、肩が少し落ちる。
「まだ合意したわけではない。先へ進もう」
真壁は席へ着き、面談で書いたメモを広げた。
理央がファイルから査定書を抜いてくれたので、澪は椅子を引き、その紙を手前へ置いた。
「もっと、値段を下げる話をするのかと思ってました」
「価格だけを下げればよいというものではない」
「でも、交渉ですよね」
真壁はペン先を浮かせ、澪へ目を向けた。
「交渉とは、相手を負かすことではない」
澪が返事を待つと、彼は面談のメモへ手を戻した。
「双方が、後で後悔しない条件を探すことだ。売る側が手放せずにいる理由を、価格へ押し込める必要はない」
紙には、修繕、入居者、管理、という言葉が離して書かれている。
澪は値段だけ載っていた紙の隣へ、自分のメモも置いた。
「修繕をしてから売ってください、とは言わなくていいですよね。調査した状態で、こちらが引き受けるなら」
「そうだ。予定した修繕は、取得後、我々が行う」
真壁が書き加え、澪はその横へ調査の写真を置いた。
「融資は使わん。審査の結果を待たせることもない」
「会社の口座から払うんですよね」
理央が聞くと、真壁は頷いた。
「振込で決済する。金額と時期が定まれば、確実に実行できる」
理央が納付予定表の入ったファイルを別へ寄せ、机に交渉の紙を並べる場所ができた。
澪は所有者が写真へ指を置いた時のことを、理央へ話した。
退去を求められるかと聞かれたこと、維持すると答えたら、次の話へ移れたこと。
「ああ……売った後のことが、気になってたんですね」
理央の声を聞き、澪はメモの入居者という字へ目を戻した。
「管理会社も続けてもらう。引渡しの時期は、相手の希望と調整できる」
真壁が条件を揃え、最後に価格の欄を空けた。
7,200万円という希望に、ただ低い数字を返すための余白ではない。
澪は修繕の見込みを折り込んだ査定書を、その欄の隣へ置いた。
「この条件と一緒に、こちらの金額を出すんですね」
「次の面談で提案する。日程を合わせよう」
真壁が連絡先を開くと、澪は自分の手帳を取り、空いている日を探した。
数日後、同じ応接スペースで、澪は真壁の隣へ調査資料を置いた。
理央は新事務所に残り、今日の面談も、会社側は2人で来ている。
所有者は向かいの席で、渡された査定書を開いた。
「こちらでは、6,300万円まで、ということなんですね」
「現在の入居状況と、土地、建物の状態を踏まえた査定です」
管理会社の担当者が答え、修繕の頁も並べた。
所有者は数字を読んでから、外壁の写真へ目を移した。
澪は、その視線が行き来する間、自分の資料を動かさずに待った。
以前の希望額が間違っている、と言いに来たわけではない。
今、机に載せた条件を見てもらってから、売るかどうかを考えてほしかった。
「我々は、現況のままで取得することを考えている」
真壁が提案の紙を前へ出した。
「入居者の契約はすべて引き継ぐ。管理も、引き続きこちらへお願いする。融資は使わず、会社の資金から振込で決済する」
所有者は価格の欄へ目を留めた。
「6,500万円でいかがか」
「6,500万円ですか」
声に出してから、所有者は査定書へ顔を戻した。
澪にも、その間が分かった。
査定の上限より200万円高い額を出すことは、事務所で資金の予定と並べて、真壁と決めてきた。
会社として持ち続けたい場所を確保するために出す金額だった。
その理由を、向かいの人へ詳しく話すことはできない。
「現況のままで構わない。こちらから退去を求めることもない。引渡し時期も相談に応じる」
「修繕は?」
「取得後はこちらで行う。この調査の内容を踏まえて、費用を見込んである」
真壁が修繕の頁を示すと、所有者は指でその端を押さえた。
「売る前に、この分を直さなくていい、ということですね」
「そうだ。こちらが把握した状態で引き受ける」
澪は写真を相手側へ寄せ、必要な頁を見比べられるようにした。
所有者は紙を重ね直し、管理会社の担当者へ目を向ける。
「管理が続くことも、条件へ入れておけますか」
「はい。お引継ぎの形を整えます」
返事を聞いてからも、所有者はすぐには頷かなかった。
手元の希望額と今回の提案を、並べたまま読んでいる。
澪は自分の膝へ手を下ろした。
ここで、これだけ条件を出したのだから、と続けたくはなかった。
「急いで答える必要はない。ご検討いただきたい」
真壁の声で、所有者は顔を上げた。
「少し、持ち帰って考えさせてください」
「もちろんだ」
澪も頷き、相手へ渡す資料を揃えた。
所有者がそれを鞄へ入れるまで、真壁は次の返事を求めなかった。
「住んでいる方たちを、そのまま、と言っていただいたことも、合わせて考えます」
「はい。そこは、変えるつもりはありません」
澪は答え、席を立って頭を下げた。
応接スペースを出ると、外の暖かい空気が、冷えていた腕へ触れた。
鞄に戻した提案書の控えには、6,500万円の数字が残っている。
澪は留め具を閉じ、真壁と並んで、新事務所へ帰る道を歩いた。
翌日、事務所の電話が鳴ると、澪は手元の冊子へ付箋を挟んでから受話器を取った。
「はい、押入商会です」
管理会社の担当者だと聞き、昨日の提案書を引き出した。
向かいの真壁も、書いていたものから顔を上げる。
「所有者様から、6,500万円で売却する方向で進めたいと、連絡がありました」
澪は紙を机へ置き、受話器を持ち直した。
「……売ってくれるんですか?」
「はい。ご提案いただいた条件で、契約の準備を進めたいとのことです」
口元へ添えた手が、そのまま止まった。
提案書の価格の欄を読むと、昨日、自分たちが持ち帰った数字と同じだった。
「ありがとうございます。こちらも、準備をお願いします」
契約のために必要な資料を聞き、澪は付箋ではなく、新しい紙へ書いた。
先ほどまで見ていた冊子は、理央が邪魔にならない所へどけてくれる。
通話を終えると、澪は真壁へ顔を向けた。
「本当に、6,500万円で進めたいそうです」
「双方が合意したのなら、次は契約だ」
真壁は面談のファイルを開き、引渡しの希望時期が書かれた頁を探した。
驚いて椅子を引くこともなく、買うための次の紙へ移っている。
「もう買えるところまで来たんですね」
理央の声に、澪は頷いた。
「はい……来ました」
そこで息を吐くと、背中をまっすぐにしていたことに気づいた。
断られたら、という考えを、昨日から鞄の中の控えと一緒に持っていたらしい。
まだ建物が会社のものになったわけではないが、持ち続けたいという希望を、相手も受け取ってくれた。
「良かったですね」
「そうですね。良かったです」
澪が答えると、理央は紙の上にある6,500万円へ目を落とした。
「でも、買うのに払う額は、ここからなんですよね」
「はい。それはちゃんと残っています」
澪は笑って、電話で聞いた必要書類を真壁へ見せた。
真壁が会社の書類と不動産の書類を分け、澪は自分が用意する分を手前へ引く。
値段を伝えるための紙を、今度は契約を結ぶためのファイルへ入れ替えた。
契約の日、不動産会社の机には、澪が持ってきたファイルより厚い書類が用意されていた。
真壁が隣へ座り、資料の照合を手伝う理央も、その横に席を借りる。
向かいには所有者がいて、担当者が机の端から重要事項の説明を始めた。
澪は建物の図面を開き、説明されている土地の範囲へ目を移した。
いつも自転車を避けている敷地の端が、紙の上では境界として記されている。
「ここは、いただいた資料と同じ所ですね」
「はい。お手元の図面と合わせてご覧ください」
担当者が指した位置を追い、澪は真壁の資料とも見比べた。
売買契約の方へ進むと、買主の欄に、合同会社押入商会と印字されていた。
その下に自分の名前を書く場所がある。
部屋を借りた時の、澪だけの契約とは違っていた。
6戸分の賃貸借の資料が出ると、理央がファイルから対応する紙を探して渡してくれる。
澪は家賃の欄に、自分が毎月払っている額もあることを確かめた。
「こちらの契約は、条件を変えずに、買主が引き継ぐ形ですね」
「はい。敷金等の返還義務も承継します。決済の時に、その精算も行います」
澪が返事をすると、担当者は敷金の資料を重ねずに残した。
収入になる家賃と、預かっているお金が、別の紙に載っている。
真壁が引継ぎの条項へ目を通し、管理委託の内容も開いた。
担当者は設備と修繕履歴の頁へ進み、所有者も自分の控えを見ながら答えた。
澪は調査時に聞いた状態が、契約の資料にも残っている所を指で辿る。
「修繕は、この状態で引き受けて、取得後にこちらで行うという条件ですね」
「その内容で、ご契約いただきます」
所有者が頷き、真壁も紙の端を揃えた。
澪は最後に代金の欄へ戻った。
「6,500万円……」
声が小さくなると、理央が横から顔を覗いた。
「今度は、高いって思いました?」
「ちゃんと高いです」
「それでよい」
真壁の短い返事で、澪は自分のペンへ目を落とした。
聞いた数字に返事をするのではなく、この金額で買う契約を、自分が結ぶ。
口にした時より、印字された65,000,000円の方が重かった。
「契約時の手付金が650万円、残代金が5,850万円です。残代金の決済は、約1週間後の、こちらの日でよろしいですね」
担当者が日付を示し、澪は手帳へ写した。
その日に引渡しを受け、所有権も代金決済に合わせて移す内容を読む。
「諸費用は、売買代金とは別ですね」
「はい。仲介、登記、調査などを合わせて、概算で400万円から500万円を見込んでいます」
澪は支払予定の控えへ、総額約7,000万円と書いた。
購入代金だけを残して、費用の分を忘れることはできない。
真壁と内容を合わせ、澪は必要な箇所へ署名した。
社名を書き、代表として押印すると、担当者が紙を受け取って見直した。
所有者も自分の側の手続きを終え、机の上で契約書が揃う。
手付金は、会社の口座から指定された口座へ振り込んだ。
受取先と650万円の数字を見直してから実行すると、澪は指を画面から離した。
「こちらも確認できました」
所有者が返事をし、担当者が双方へ控えを渡した。
理央が空けてくれたファイルへ入れると、初めて持って来た時より、鞄が厚くなる。
「次は、決済の日ですね」
澪が言うと、所有者は手元の契約書を閉じて頷いた。
「その日まで、よろしくお願いします」
澪も挨拶を返し、日付を書いた手帳を、すぐ出せる鞄のポケットへ収めた。
約1週間後、澪は銀行の応接室で、契約の日に書いた手帳を開いた。
今日の日付の横に、残代金5,850万円とある。
隣の真壁がファイルを机へ置き、向かいの所有者も、必要書類を出していた。
理央は事務所に残っているので、今日は彼女へ紙を探してもらうことはできない。
澪は自分で付箋を辿り、会社の書類を司法書士へ渡した。
「ご本人と、会社の書類を拝見します」
落ち着いた声を聞いて、澪は身分を示すものも出した。
司法書士が双方の資料を見ている間、不動産会社の担当者は精算の紙を机へ並べた。
契約書より数字が多いが、売買代金が増えたわけではない。
固定資産税等と賃料の精算を、引渡しの日を境に分けていた。
「家賃のこちらの分は、今日を区切って精算するんですね」
「はい。明細と合わせてご覧ください」
担当者の示した欄へ、真壁の指が移る。
澪も控えを開き、敷金等の引継ぎの欄まで辿った。
「これは預かっている分なので、退去の際に返す義務もこちらへ来るんですね」
「そのとおりです。入居者ごとの内容も、この資料へ揃えてあります」
所有者が出した資料と合わせると、澪が知っている自分の契約も、その中にあった。
金額を受け取るだけの欄ではないことを、もう一度読んでから返事をする。
司法書士が書類を揃え、登記の申請に必要なものが整ったと告げた。
澪は真壁と支払額を合わせ、会社の口座から、残代金を振り込む手続きをした。
5,850万円の数字に間違いがないか、振込先の名義と一緒に辿る。
契約の時に払った650万円とは別の実行だった。
精算分も明細に従って払い、澪は手元に残った控えを揃えた。
受取の確認を待つ間、室内の空調の音がよく聞こえた。
所有者が口座の表示を見て頷き、司法書士へ伝える。
「着金を確認しました」
司法書士の返事で、澪は置いていたペンへ手を戻した。
不動産会社の担当者が引渡しの書類を前へ出した。
「これで引渡しとなります」
澪は必要な箇所へ署名し、共用部等の鍵と、管理関係の資料を受け取った。
普段持っている自室の鍵とは違う鍵が、小さな封筒へ入っている。
自分の玄関だけを開けるためのものではなかった。
司法書士が、所有権移転登記の申請を進めるために書類を収めた。
代金の決済と引渡しを終えた今、契約どおり、土地と建物は会社へ移っている。
澪は引渡しの紙の、新しい所有者欄へ目を留めた。
合同会社押入商会。
普段請求書へ書いている社名が、今日は、あの建物を持つ会社として載っていた。
「よろしくお願いします。長く使っていただけるなら、私もその方がいいので」
所有者の言葉に、澪は顔を上げた。
「はい。必要な手入れをして、使い続けます」
自分の部屋だけを思い浮かべて返事をせず、これまで誰が持っていたかも、相手の顔を見て覚えた。
真壁も挨拶を返し、机の上の資料を受け取る。
澪は鍵の封筒をファイルの内側へ収めてから、鞄を閉じた。
6,500万円で建物を買ったのに、持って帰るものは、紙と小さな封筒だった。
決済の後、新事務所へ戻った澪は、鍵の封筒を、管理関係の資料と一緒に机へ出した。
理央が横から資料を見て、建物写真の付いたファイルを受け取る。
「これで押入商会が、大家さんなんですね」
「会社が、です」
「澪さんじゃなくて?」
「私の建物じゃないです。会社のです」
言うと、理央は会社名を見てから、澪へ顔を戻した。
「そうでした。澪さんも、その会社の建物に住んでるんですね」
「はい。家賃を払う側に、私もいます」
真壁は2人の会話を聞いたまま、引継ぎのファイルを開いた。
管理会社から受け取った、入居者へ出す所有者変更通知の案を、澪の前へ置く。
売買契約に載っていた社名が、今度は、6戸へ知らせる文章の中にある。
澪は賃料の欄を読み、金額の変更がないことを、契約の一覧とも合わせた。
「こちらは全室、契約継続ですね」
「そうだ。振込先が変わることは、間違いのないよう知らせる」
真壁が該当箇所を示し、澪は通知の口座名義へ指を添えた。
自分も、この知らせを受け取る入居者の1人だ。
出す側から読み、受け取る側としてもう一度読みたくなる。
「修理の連絡先は、いつもの管理会社のままなんですよね」
理央が下の欄を見て尋ねた。
「はい。委託は続けてもらいます。私へ急に全部電話が来る形にはしません」
澪は管理の契約を隣へ並べ、窓口の載った所を見せた。
日々の連絡と、所有者として答えるべきことが、自分たちの側にもできたのだった。
敷金の引継ぎ資料は、家賃収入の一覧とは分けて綴じた。
澪がファイルの背へ内容を書いていると、真壁は修繕の資料も取り出した。
「維持の予定は、管理会社と合わせて進める。先に、調査で出た箇所を共有しておこう」
「私も見ます。どこを直す話なのか、今度は分かるので」
澪は答え、鉄階段の写真へ目を落とした。
理央が通知の案を、その写真に重ならない所へ戻した。
「買ったら終わり、じゃないんですね」
「帰るたびに見る所ですから。買った後の方も、ちゃんとやります」
澪は自分の部屋の鍵を、鞄から出して握った。
会社として受け取った鍵の封筒は、机に置いたまま、混ぜなかった。
数日後、澪は届いた登記完了の書類を、新事務所の机へ広げた。
新しい所有者として載っているのは、合同会社押入商会だった。
手続きを依頼した司法書士からの連絡と書類を揃え、真壁に渡してから、会社のファイルへ収める。
購入を相談した日にあった空欄は、もう残っていなかった。
管理会社への引継ぎも整い、机の手前には、澪自身が家賃の振込先を変えるための通知がある。
明石が来ると、澪は売買と精算の資料を、決算書とは別に差し出した。
「本体が6,500万円で、こちらが諸費用と精算です」
「拝見します。土地と建物の区分、固定資産の処理も、資料に沿って進めます」
明石は代金の欄を読み、取得した資産の方へ紙を並べた。
澪は自分の通知を手前へ戻し、机の端で開いていた銀行の設定を見た。
「私の家賃も、振込先を変えておきます」
「はい。住居部分の扱いは、別に整理します」
明石が返事をすると、澪は画面から顔を上げた。
入居者の契約をそのまま引き受けたことは、分かっている。
それでも、所有者の社名と、自分へ出された通知を並べてみると、口に出したい願望が1つあった。
「ということは、来月から家賃はいらない……とか」
「払ってください」
「ですよね」
言い終わるより早い返事に、澪は手を画面へ戻した。
理央が横で声を漏らし、慌てて口元を押さえる。
「分かっていたんですよ。振込先を変えているところなので」
「今、ちょっと期待しましたよね」
「ちょっとだけです」
澪も笑って、金額の欄を元のまま残した。
自分の報酬が入る口座から、会社の家賃の口座へ支払う予定になる。
近く感じても、そこでお金を一緒にはできなかった。
「当面は、現在の家賃相当額を会社へ支払ってください。社宅扱い等へ変更するなら、別途整理します」
明石が資料へ付箋を添え、澪は後で相談する箇所として手帳へ写した。
「会社が、自分の家の大家になっただけですね」
「そう考えるのが、一番分かりやすいです」
澪は通知の社名をもう一度読んだ。
受取先を取り違えないよう、名義と口座を合わせてから、変更する分を保存した。
真壁はその間に、管理と修繕の資料を明石へ渡していた。
理央が所有者変更の通知をファイルへ挟み、澪の手元には、自分用の1枚だけが残る。
「これ、帰ってからも見そうです」
「家賃がなくならなかった方ですか?」
「社名が載ってる方です」
澪が答えると、理央は笑いを収め、紙の上へ目を戻した。
澪はその通知を、自分の鞄へ入れた。
夕方、仕事を終えて理央を飯島家まで送ってから、澪は自分のアパートへ帰った。
真壁を新事務所に残し、会社の資料はそちらへ預けてきた。
澪の鞄にあるのは、自分へ届いた通知と、いつもの部屋の鍵だった。
駅からの道を歩き、郵便受けの前で自転車を避ける。
外階段の手すりを握ると、昼の熱がまだ少し残っていた。
上へ足を進めながら、塗装の剝がれていた場所に目が向く。
そこをすぐ直したわけではないが、会社の修繕の資料には、同じ場所が載っている。
共用廊下へ出ると、ほかの部屋の内側から、食器を置くような音がした。
鞄の内ポケットからいつもの鍵を出し、部屋へ入った。
玄関脇の小さなキッチンを抜けると、六畳間の窓から入る夕方の光が、ローテーブルへ届いていた。
棚にも、置いてある生活用品にも、買ったからといって変わった所はない。
靴を脱ぎ、鞄を下ろしたところで、いつもの冷蔵庫の音が聞こえる。
澪は通知を取り出して、ローテーブルへ置いた。
新しい所有者の社名は、自室で読むと、事務所にいた時より妙だった。
「会社が大家さん……」
小さく口にして、家賃の欄を見た。
金額は残っている。
振込先だけ変える作業に、明石の即答まで付いてきたことを思い出して、口元が緩んだ。
通知を生活の書類に挟み、澪は押し入れの前へ立った。
古い造作の襖は、調査担当が来た日と同じように閉じている。
買ったという知らせを待って開いたり、見た目が立派になったりはしなかった。
引手へ指を添えると、使い慣れた位置に手が収まる。
ここを初めて開けた時には、その向こうに何があるか、分かっていなかった。
今は、通った人や、運んだ物が、手を置いただけで次々に浮かぶ。
手の届く襖のために、会社は、築39年の3階建てを買った。
この建物を持ち続けることも、修繕して使うことも、会社で決められる。
別の持ち主の都合で、自分たちの知らないうちに、この部屋をなくす話が進むこともない。
澪は襖を押さえたまま、肩の力を抜いた。
窓の外で自転車のブレーキが鳴り、共用廊下には帰ってきた人の足音がする。
やがて別の部屋の鍵が回り、玄関の閉じる音がした。
澪は引手から指を離し、部屋の灯りを点けた。
明るくなった六畳間で、押し入れの襖は、いつもと同じ所にあった。