朝の江古田のアパートは、昨夜と何も変わっていなかった。
冷蔵庫が低く唸り、外廊下を誰かが歩いていく。カーテンの隙間から差し込む光も、大学のプリントが積まれた机も、いつも通りだった。
変わったのは、銀行口座の数字だけである。
澪はミニテーブルの前に座り、スマホの銀行アプリを開いた。
飯島貴金属から振り込まれた532,560円が、きちんと残っている。
「……消えてない」
昨夜も確認した。
寝る前にも確認した。
朝になってもう一度見ても、やはり532,560円だった。
小金貨5枚が、日本円になった。
それだけで十分うれしいはずなのだが、修さんから聞いた税金や扶養の話が頭に残っている。
実家は山梨で、大学へ通う間の生活費も仕送りしてもらっている。もしこれからも収入が増えるなら、親にも関係してくるかもしれない。
まだ何がどうなるのか分からない。
分からない以上、使わない方が安全だった。
澪は入金された532,560円の半分、266,280円を別に分けた。
「半分なら……たぶん大丈夫」
根拠はない。
税金が半分かかると聞いたわけでもないし、修さんにもそんなことは言われていない。
ただ、後になって足りませんと言われるより、多めに残しておく方が澪の性格には合っていた。
残った金額を見る。
それでも、昨日までよりはずっと余裕がある。
「押入商会、黒字……」
口にしてみると、少しだけ気分がよかった。
ミニテーブルには、百円ショップのレシートと飯島貴金属の買取明細が挟まれたノートがある。
表紙には、自分で書いた文字。
『押入商会 帳簿』
昨夜より少しだけ見慣れた。
「まあ……これでいいか」
格好はよくない。
だが、何を買って、何が売れて、いくらになったのかは分かる。
今の澪には、それで十分だった。
ノートを閉じると、壁際に置いていたリュックを引き寄せた。
手鏡と裁縫針、爪切り、虫眼鏡。それに糸切りばさみと髪留めを少し。
以前なら百円ショップの買い物だった物が、今では向こうへ持っていく商品になっている。
壊れないよう布を挟みながら詰めていくと、リュックにはそれなりの重みが出た。
澪は肩へ掛け、押入れの前に立った。
「黒字でも、死んだら終わりだからね」
自分に言い聞かせるには、少し縁起が悪い。
それでも今のところ、押入商会には社長が1人しかいない。
社長が死ぬと、たぶんその場で廃業だった。
澪は襖を開けた。
◇ ◇ ◇
石畳へ足を下ろすと、ヴァルデスの市場は朝から動いていた。
荷車が通り、屋台から客を呼ぶ声が飛ぶ。焼いた肉と煮込み料理の匂いが風に混じり、その向こうでは金属を叩く音まで聞こえていた。
領都だけあって、人そのものは多い。
それでも何度か通ううちに、澪にも町の疲れが見えるようになっていた。
店を畳んだままの区画があり、空いている屋台もある。食料品の前では値段を聞いて諦める人も少なくなかった。
去年の寒波で傷んだ領は、まだ春になっただけでは戻らない。
その隙間へ入り込むように、働いているのか遊んでいるのか分からない男たちも市場の端で見かけるようになっていた。
澪はリュックを少し前へ寄せ、市場裏へ向かった。
「やっと来たかい」
リュシアは屋台の間に立っていた。
澪に声をかけたあとも、その場を離れない。
「そっちは銀貨で釣りを出すんじゃないよ。銅貨が足りないなら隣と崩しな」
「こっちも少ないんだよ」
「なら朝のうちに両替してきな。客を待たせてから困るんじゃ遅いだろ」
言われた商人はぶつぶつ言いながらも、革袋を持って別の屋台へ向かった。
17歳。
知ってから見ても、やはり不思議だった。
顔だけなら澪より年下に見えるのに、周囲の屋台商たちは普通にリュシアの判断を聞いている。
「おはようございます」
「今日は顔がましだね」
「そこからですか」
「この前は、悪い薬草でも食べたみたいだったよ」
「そんなに?」
「そんなにだよ」
リュシアは笑いながら、澪のリュックへ視線を移した。
「で、今日は何を持ってきたんだい?」
「少し絞りました」
「見せな」
布を広げ、商品を並べていく。
手鏡を見たリュシアは、すぐに1枚を取り上げた。
「これは髪結いへ回すよ。前のを見せたら、次はいつ来るってうるさくてね」
「もう待ってる人がいるんですか」
「売れた物を待つ客がいるのは当たり前だろ」
澪にとっては、まだ当たり前ではない。
自分が百円ショップで買った鏡を、ヴァルデスで誰かが待っている。
その事実がまだ少し不思議だった。
裁縫針を見たリュシアは、太さを確かめてから別に置いた。
「こっちは仕立て屋だね。前のより細いから、まず何本か試してもらうよ」
「全部売らないんですか?」
「折れ方も分からないのに全部押しつけてどうするんだい。次も買ってもらうんだろ?」
「はい」
「なら最初に嫌われちゃ駄目だよ」
次に虫眼鏡を手にする。
「ムシメガネも持ってきたね」
「もう完全にムシメガネなんですね」
「呼びやすいじゃないか」
「そうですけど」
「薬草屋が欲しがってるよ。葉の傷や虫食いを見るのに便利だってさ」
虫眼鏡は虫を見るためではない。
いや、今回は少しだけ虫も関係しているらしい。
「爪切りは?」
「あります」
「じゃあ髭の商人の分を先に取っときな。あの客はもう使い方を知ってる」
「売れる人から?」
「そう。便利さを知った客は強いよ」
リュシアは品物を一通り確認すると、売れた分の硬貨を澪へ渡した。
銀貨の袋と、その中に混ぜないよう分けられた小金貨。
前ほど手は震えなかった。
「慣れてきたじゃないか」
「受け取ってすぐ袋へ入れるところだけ」
「十分だよ。市場の真ん中で眺めるよりずっとましだね」
澪は小金貨を別のポーチへ入れ、リュックの奥へしまった。
「今日はこれで戻ります」
「そうしな。売った後の方が荷物は軽いけど、財布は重いんだからね」
「はい」
リュシアに見送られ、澪は市場を離れた。
◇ ◇ ◇
途中までは、何もなかった。
押入れへ戻るには、大通りから少し外れた道を通る。
以前から使っている道だった。
角を曲がったところで、澪は背後の足音に気づいた。
市場なのだから、人が歩いていてもおかしくない。
そのまま進む。
次の角を曲がる。
足音もついてきた。
澪は歩く速度を少し落とした。
後ろの足音も、わずかに遅くなった気がする。
「……」
気のせいかもしれない。
振り返って、普通の通行人だったら恥ずかしい。
だが、気のせいではなかった場合、そのまま人の少ない方へ歩き続ける方がまずい。
少し迷ってから、澪は肩越しに後ろを見た。
男が2人いた。
市場で見かけても違和感のない服装だった。
けれど、こちらの顔ではなく、リュックと腰回りを見ている。
背中が冷えた。
今まで、ヴァルデスを異世界の市場として見ていた。
商品を並べて、人と話して、硬貨を受け取る場所。
それだけではない。
ここにはコンビニもなければ、交番もない。
困った時に飛び込める明るい店や、自動ドアの向こうにいる店員もいない。
衛兵はいる。
だが、この細い道のすぐ横にはいなかった。
澪は歩き続けた。
走れば追われる気がする。
立ち止まれば追いつかれる。
何をするのが正しいのか分からない。
スマホはある。
けれど、ここで110番してもどうにもならない。
『押入れの向こうの異世界です』
そんな場所を警察へ説明している場合ではなかった。
背後との距離が縮まる。
澪の手のひらに汗がにじんだ。
売れる物を探すことは考えた。
値段も、通貨も少しずつ覚え始めた。
売ったあと、自分が金を持って歩くという当たり前のことを、ちゃんと考えていなかった。
「ミオ!」
前方から声が飛んだ。
「こっち来な!」
リュシアだった。
どうしてここにいるのか聞く余裕はなかった。
澪が足を速めると、リュシアもこちらへ歩いてくる。
走らない。
焦った顔もしない。
すれ違う直前に澪の腕を取り、そのまま市場の方へ向きを変えた。
「止まるんじゃないよ。そのまま歩きな」
「……はい」
「後ろも見なくていい。まず人のいるところまで戻る」
澪は言われるまま歩いた。
市場の呼び声が近づき、顔を知っている屋台商が増えてくる。
ようやくリュシアが腕を離した。
「もういいよ」
澪はそこで大きく息を吐いた。
息を止めていたつもりはなかったのに、肺の奥まで苦しい。
「怖かったかい?」
「……はい。かなり」
「それなら忘れないね」
リュシアは男たちがいた方角を一度だけ見た。
「冬からああいうのが増えてるんだよ。仕事がなくなって、町へ流れてきた奴もいるし、最初から他人の荷物を狙ってるのもいる」
「私、狙われてました?」
「たぶんね。今日のあんたは、売り物を減らして金を持って帰る商人の顔をしてたから」
「金を持ってる顔、まだ直ってないんですね」
「顔だけの話じゃないよ」
リュシアは澪のリュックを指した。
「市場から出て、荷物が軽くなった女が1人。しかも前から見慣れない品を持ち込んでる。見る奴は見るさ」
言われれば分かる。
澪は自分が特別目立っていないつもりだった。
実際には、ずっと目立っていたのかもしれない。
「次からは、売った後に細い道へ入るんじゃないよ。遠回りでも人のいる通りを使いな」
「はい」
「変だと思ったら、自分で最後まで確かめようとしない。人のいる方へ戻るんだよ」
「はい」
「返事はいいね」
「今は本気なので」
「最初から本気でやりな」
その通りだった。
澪は少しだけ俯いた。
「リュシアさん、どうして来たんですか?」
「あんたが出たあと、見たことある顔が2人ついていったからね」
「見てたんですか」
「市場をまとめてたら、嫌でも顔は覚えるよ」
17歳なのに、そこまで見ている。
王都のギルド長とやり合ったという話も、少し分かる気がした。
リュシアは澪の肩を軽く叩いた。
「今日は帰りな」
「でも、まだ――」
「商売なら明日もできるよ。ミオが生きてればね」
そこで澪は黙った。
「市場じゃ、私の言うこと聞きな。少なくともあんたより長くここで商売してる」
「……はい、先生」
「誰が先生だい」
「今のところ、リュシアさんです」
「なら授業料くらい稼いできな」
言ってから、リュシアは笑った。
澪も少しだけ笑えた。
◇ ◇ ◇
襖を閉めると、ヴァルデスのざわめきが遠くなった。
江古田の六畳間には、いつもの冷蔵庫の音と、外廊下を歩く人の気配しかない。
戻ってきた。
それだけで、今までより部屋が安全に見えた。
澪はリュックを下ろし、ミニテーブルの前へ座った。
商品も残っている。
銀貨も小金貨も取られていない。
怪我もない。
それを確かめてから、自分の指先が少し震えていることに気づいた。
「……怖かった」
向こうにいる間より、戻ってきてからの方が実感が強かった。
今まで考えていたのは、どうやったら売れるかだった。
だが、売れれば金を持つ。
金を持てば狙われることもある。
商売を続けるなら、売ることと帰ることを別々には考えられなかった。
澪はスマホを開き、一人旅や野外での安全対策について調べ始めた。
出てくる内容は、意外なほど地味だった。
人通りのある場所を選び、危険を感じたら早めに離れる。暗いところではライトを使い、何かあれば音を出して周囲へ知らせる。
手や目を守る装備もある。
相手を倒す方法より、そもそも近づけさせず、逃げる時間を作ることの方が多く書かれていた。
澪は画面を見ながら、少しずつ考えを変えた。
自分は戦士ではない。
剣を持って誰かと戦いたいわけでもない。
必要なのは、勝つための物ではなく、生きて押入れまで戻るための物だった。
「……ハンズかな」
自分でも、なぜ最初にそこなのかと思う。
だが剣や鎧を探すよりは、ずっと現実的だった。
◇ ◇ ◇
翌日、澪はハンズの防災用品とアウトドア用品の売り場を歩いていた。
明るい店内には、何に使う物なのか説明があり、値札もある。
昨日までヴァルデスにいたせいか、それだけで妙に安心できた。
最初に目についたのは、小型のLEDライトとホイッスルだった。
暗い場所で足元を確認でき、声が出せない時でも音を出せる。こういう物なら、持っていて困ることもない。
丈夫な手袋と安全ゴーグルも見た。
襲われることだけでなく、転んだり、何かが飛んできたりする可能性もある。市場の外まで歩くなら、普通に役に立ちそうだった。
厚手のジャケットも1枚選ぶ。
暑い季節には向かないだろうが、薄い服よりは擦り傷や引っかき傷を減らせる。
そのまま売り場を歩いていると、澪の足が止まった。
熊撃退スプレー。
「……熊」
ヴァルデスの市場で追ってきたのは熊ではない。
説明を読む。
近づいてくる熊を倒す道具ではなく、強い刺激でひるませ、その間に距離を取るための物らしい。
そこだけは、今の澪が探している目的と合っていた。
手に取って見ていると、近くの店員が声をかけてきた。
「野外での安全用品をお探しですか?」
「ええと……ちょっと危ない場所へ行くことがありまして」
「熊撃退スプレーはかなり強い物なので、本当に緊急用ですね。まずは単独行動を避けて、危険な相手へ近づかないことが基本です」
「ですよね……」
ヴァルデスでも東京でも、最初に言われることは同じだった。
「風向きにも注意が必要ですし、持っているだけで安心できる物ではありません」
「分かりました」
簡単に使える物ではない。
それでも、どうしても距離を取れない相手がいた時の最後の手段にはなるかもしれない。
澪は迷った末、1本だけ買うことにした。
使わないまま終わるなら、それが一番いい。
さらに歩くと、透明なポリカーボネート製の小型盾を見つけた。
盾と説明されていなければ、大きな透明板にも見える。
「……これなら前が見える」
澪は手に取った。
軽いとは言えないが、持てないほどではない。
相手との間へ置いたまま、逃げる方向を確認できる。
殴り返す必要もない。
「数秒あればいいんだよね」
相手を倒すのではなく、近づかれるまでの時間を少し伸ばす。
その考え方が気に入った。
液体噴霧器も1つ選んだ。
中に入れるのは水だけにする。目に埃が入った時や汚れを流す時にも使えるし、用途を変に広げない方が安全だった。
最後に、アウトドア用品の棚でマチェットを見つけた。
藪払いや枝を落とすための道具らしい。
一度持ってみると、思ったより重い。
「これは……まだいいかな」
異世界側で街道を外れることがあれば役立つかもしれない。
だが、昨日怖い思いをした翌日に刃物まで持ち込むのは、澪自身が落ち着かなかった。
必要になった時に考えればいい。
今欲しいのは、相手と戦う自信ではなく、逃げられる可能性だった。
◇ ◇ ◇
江古田へ戻ると、買ってきた物を六畳間へ出してみた。
小型ライト、ホイッスル、丈夫な手袋、安全ゴーグル、厚手のジャケット。それに透明な盾と液体噴霧器。
熊撃退スプレーだけは少し離して置いた。
強い物だと分かった以上、ほかの道具と同じ感覚で扱いたくなかった。
「使わないのが一番」
それでも持っていく。
どうしても相手との距離を作れない時に、逃げる時間を作るための最後の手段として。
澪は透明な盾を持ち、鏡の前に立った。
厚手のジャケットを羽織り、手袋をつける。
そこへゴーグルまでかけてみる。
「……工事現場の人みたい」
異世界へ行商に行く大学生には見えない。
けれど、考えてみれば工事現場の人が安全装備をするのは、危険な場所へ行くからだ。
危ない場所へ行くのに何も持たない方がおかしい。
「じゃあ、いいか」
見た目より、生きて帰る方が大事だった。
全部を持っていく必要もない。
ライトとホイッスルはすぐ使えるようにし、手袋と噴霧器はリュックへ入れる。
透明盾は少し目立つが、昨日の男たちを思い出すと置いていく気にはならなかった。
熊撃退スプレーもリュックの奥へ入れた。
すぐ使う物ではない。
必要にならないことを願いながら持っていく物だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
澪が透明な盾を持ってヴァルデスの市場へ入ると、予想通り何人かに見られた。
何を持っているのか分からないのだろう。
透明な板を抱えて歩いているようにも見える。
昨日のことがあるので、人の多い通りから外れずにリュシアのところまで向かった。
リュシアは別の屋台で何か話していた。
「昨日売った豆、今日の分まで同じ値段にするんじゃないよ。仕入れが違うなら先に言っときな」
「客が文句を言うだろ」
「あとから上げる方がもっと言われるよ。最初に説明しな」
話を終え、こちらを振り返る。
リュシアの目が澪の顔を通り越した。
透明な盾へ止まる。
「……何だい、それ」
「盾です」
「それが?」
リュシアが近づいてくる。
正面から見て、横へ回った。
「向こうが透けてるじゃないか」
「透明な素材でできてるんです」
「透明な……これで止められるのかい?」
「かなり丈夫らしいです。相手との間に置いて、その間に逃げようかなって」
「貸してみな」
リュシアは盾を受け取った。
表から覗き込み、指で軽く叩く。
腕へ当てて構えてから、向こう側にいる澪を見る。
「なるほどね。隠してるのに前が見えるのか」
「はい」
「逃げる先も見えるじゃないか」
盾を返される。
「変な盾だね」
「やっぱり変ですか」
「変だけど、逃げるには悪くないよ」
澪は少し安心した。
「買ったあと、やりすぎたかなって思ってたんです」
「昨日みたいに何も持たずに歩くよりいいだろ」
リュシアの視線がリュックへ移った。
「まだ何か買ったのかい?」
「少し」
ライトやホイッスル、手袋を見せると、リュシアは特に驚かなかった。
「暗いところで使えるのはいいね。この笛も音が大きいなら市場で使える」
そのあと、澪が熊撃退スプレーを出したところで顔をしかめた。
「……何だい、それ」
「熊を追い払うためのスプレーです」
「熊?」
「大きな獣です」
「その獣を、これで?」
「倒すんじゃなくて、顔の近くへ噴き出して、ひるんだ間に逃げる物です」
リュシアは缶を受け取らなかった。
「ミオの国は、たまに嫌な物を作るね」
「私も説明を読んで、ちょっとそう思いました」
「人には?」
「使うつもりありません。これは本当に最後の保険です」
「なら奥へしまっときな。怖くなったからって、先に使うんじゃないよ」
「はい」
「逃げられるなら逃げる。それで足りない時だけ考えな」
澪はスプレーをリュックへ戻した。
リュシアは透明盾をもう一度見てから、澪の肩を軽く叩いた。
「ミオ」
「はい」
「あんた、商人なんだから勝つ必要はないんだよ」
澪は顔を上げた。
「危ないと思ったら逃げな。相手を倒して自慢するより、品を持ってまた市場へ来る方が商人には大事だろ」
「……はい」
「逃げて、帰って、また来な。それでいいんだよ」
昨日から考えていたことが、そこでようやく言葉になった気がした。
戦うための準備ではない。
次もここへ来るための準備だ。
「分かりました、先生」
「だから誰が先生だい」
「市場ではリュシアさんです」
「なら今日はちゃんと授業を受けな」
リュシアはそう言うと、もう澪のリュックを見ていた。
「ほら、盾は分かったから商品を出しな。鏡、持ってきたんだろ?」
「切り替え早くないですか?」
「生きて戻ってきたんだから、次は商売だよ」
澪は透明盾を壁へ立てかけ、リュックを下ろした。
昨日より荷物は増えている。
それでも、不思議と少しだけ軽く感じた。
何をするための物なのか、自分で分かっているからかもしれない。
澪は布を広げ、いつもの商品を並べ始めた。