押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第4話 死なないためにハンズへ行く

 押入商会は、黒字だった。

 

 朝の六畳間で、澪はちゃぶ台の上に開いた帳簿を見つめていた。表紙には「押入商会 帳簿」と書いてある。何度見ても、ださい。けれど、そのだささには妙な安心感もあった。世界を股にかける巨大商会の名前ではない。六畳一間と押入れと百円ショップのレシートから始まった商売には、このくらいの名前がちょうどよかった。

 

 帳簿の一ページ目には、仕入れ額、異世界売上、飯島貴金属への手数料、入金額が、澪の少し小さな字で書き込まれている。澪は銀行アプリを開き、残高が増えているのを確認してから、いったん画面を閉じた。三秒ほど待ってもう一度開いてみる。数字は変わらない。入金は、まだそこにあった。

 

「押入商会、黒字です」

 

 澪は深くうなずいて報告したが、部屋には誰もいなかった。社員一名、報告先なし。口に出した瞬間、少しだけむなしくなったので、咳払いをして帳簿を閉じる。

 

 壁際にはギターが立てかけてあり、作業机には彫金工具が散らばっている。窓の外からは、自転車のブレーキ音と、遠くの電車の音が聞こえた。いつもの江古田の朝だった。けれど、押入れの向こうには異世界の市場がある。帳簿もできた。金貨を日本円にする道も見えた。飯島貴金属の修さんという、金属について相談できる大人もいる。

 

 ほんの少しだけ、自分が前に進んだ気になった。

 

 だが、その「少し」が危ないことも澪は知っていた。調子に乗ると、たいていろくなことにならない。小説でも現実でも、そういう人物はだいたい痛い目を見る。

 

「調子に乗るな」

 

 自分に言い聞かせてから、澪は百円ショップで仕入れた手鏡、裁縫針、虫眼鏡、爪切りをリュックに詰めた。押入れの襖を開けると、石畳の路地が見える。乾いた風が流れ込み、焼いた肉と香草と革袋の匂いが、六畳間の空気に混じった。

 

 澪は畳から石畳へ足を踏み出した。

 

 市場裏の木箱には、リュシアが腰かけていた。赤茶色の布を頭に巻き、足をぶらぶらさせている。澪を見つけると、ぱっと顔を明るくした。

 

「ミオ、来た」

 

「来ました」

 

「今日は顔がましね」

 

「前はそんなにひどかったですか」

 

「金貨を見た人の顔じゃなかったわ。薬草を間違えて食べた人の顔だった」

 

「かなりひどいですね」

 

「うん。かわいそうだった」

 

 リュシアはにこにこしている。可愛い。可愛いが、言うことは遠慮がない。澪は返す言葉を探すのを諦め、リュックから商品を出した。

 

 手鏡、裁縫針、虫眼鏡、爪切りを木箱の上に置いていくと、リュシアはそれぞれを素早く確かめた。澪が「これは手鏡で」と説明する前に、もう用途と売り先を頭の中で振り分けている顔になる。

 

「鏡は髪結いへ二つ。針は仕立て屋。爪切りは旅人と職人。ムシメガネは薬草屋と宝石を見る人」

 

「虫眼鏡です」

 

「ムシメガネ」

 

「可愛い発音で押し切らないでください」

 

「ムシメガネ」

 

「押し切った」

 

 リュシアは楽しそうに笑いながら、虫眼鏡を目の前でくるくる回した。

 

「薬草屋が喜んでたわ。葉の虫食いがよく見えるって」

 

「本当に虫を見る道具になってる」

 

「名前通りじゃない」

 

「そうですけど、そうじゃないです」

 

 澪は困ったように言ったが、リュシアの笑顔を見ているうちに、少しだけ気持ちが緩んだ。自分の持ってきたものが、この世界で使われ始めている。自分の部屋で眠っていた百円ショップの商品が、異世界の誰かの仕事を少し楽にしている。虫眼鏡で葉を見る薬草屋、手鏡で髪を整える女性、裁縫針を使う仕立て屋。想像すると、怖さの奥に小さな温かさが生まれた。

 

 リュシアは硬貨袋を出し、銀貨と小さな金貨を澪の手元に置いた。

 

「はい、今日の分」

 

 澪は前より落ち着いて受け取った。それでも、手のひらに乗ると重い。物理的にではない。精神的に重い。

 

「ミオ、また重そうな顔」

 

「金貨は重いんです」

 

「袋を変える?」

 

「そういう重いではなく」

 

「ミオの国の言葉は、面倒ね」

 

「私の国は、言葉以外もだいたい面倒です」

 

 澪は金貨をポーチに入れた。リュシアが軽く首を傾げる。

 

「今日はもう帰る?」

 

「はい。修さんのところへ出す分も整理したいので」

 

「シュウ?」

 

「金属を見る人です」

 

「鍛冶屋?」

 

「鍛冶屋というか、もっと書類が強い人です」

 

「書類が強い」

 

「私の国では、強い人はだいたい書類を持っています」

 

 リュシアは真剣に考え込み、やがて少しだけ眉を寄せた。

 

「怖い国ね」

 

「はい」

 

 澪はうなずいた。

 

 その時は、まだ少し笑っていられた。

 

 市場の表通りは相変わらず賑やかだった。布の日除けが風を受けてふくらみ、果物売りが声を張り上げている。焼いた肉の煙が青く流れ、革袋を積んだ荷車が石畳の上をゆっくり進んでいく。澪はリュックを背負い、ポーチを手で押さえながら歩いた。

 

 帰り道は、もう何度か通っている。押入れにつながる路地は、市場の端から少し入ったところにあり、表通りから一本外れると人の声が遠くなって、壁の影が濃くなる。

 

 澪はその道へ入った。

 

 背後で足音がしたのは、路地の半ばまで来た時だった。最初は気のせいだと思った。市場なのだから、誰かが歩いているのは当たり前だ。澪が角を曲がると、足音も曲がった。歩く速度を少し落とすと、背後の足音も少し落ちる。

 

 喉が乾いた。

 

 澪はゆっくり振り向いた。

 

 男が二人いた。荷物を持っている風ではある。市場では珍しくない格好だ。だが、目線が違った。澪の顔ではなく、リュックとポーチを見ている。

 

 ポーチの中には金貨がある。リュックには商品がある。澪は足が止まりかけた。

 

 ここは江古田ではない。コンビニはない。駅もない。交番もない。自動ドアも防犯カメラもない。金貨を持った若い女が、一人で細い路地を歩いている。それは、たぶん、獲物に見える。

 

 澪の頭の中が急に忙しくなった。防犯ブザーは持っていない。仮に持っていたとしても、異世界で鳴らしたら何が起きるか分からない。走るとして、どこへ行くのか。叫ぶとして、声が出る気がしない。リュシアのところへ戻る道も、今は自信がなかった。どうして自分は防犯ブザーの有無を今考えているのか、と頭の隅で思ったが、足は動かなかった。

 

 その時、横の通りから明るい声が飛んだ。

 

「ミオ、こっち!」

 

 リュシアだった。

 

 彼女は、まるで最初からそこにいたような顔で、別の商人に何かを話しかけながら澪のそばへ来た。

 

「荷物の確認、まだ終わってないでしょ」

 

 リュシアは何でもない顔で澪の腕を取った。その手は小さい。けれど、力はしっかりしていた。

 

「歩いて」

 

「はい」

 

「止まらない」

 

「はい」

 

「振り返らない」

 

「はい」

 

「息はして」

 

「それは今、言われないと忘れそうでした」

 

「忘れないで。生き物の基本よ」

 

 リュシアは澪を人通りの多い通りへ連れ戻した。途中で知り合いらしい商人たちに次々と声をかける。

 

「さっきの鏡、髪結いさんが見たがってたわよ。薬草屋さん、ムシメガネの話、まだ聞く? この子、私の荷物持ちだから、ちょっと通して」

 

 荷物持ち、という言葉に澪は心の中で引っかかったが、今は文句を言える立場ではなかった。人が増え、視線が増え、声が増える。背後の男たちは、いつの間にかついてこなくなっていた。

 

 表通りへ出て、リュシアはようやく澪の腕を離した。

 

「ミオ」

 

「はい」

 

「あなたは、売れるものを持ってる」

 

「……はい」

 

「だから、人が寄ってくる。買う人だけじゃないわ」

 

 澪は唇を噛んだ。悔しいより、怖かった。体が遅れて震え始めている。リュシアは、さっきまでの可愛い笑顔を消していた。

 

「一人で細い路地を歩かない。道を覚える。人のいる場所を通る。荷物を見せない。支払いは私のところで済ませる。分かった?」

 

「はい」

 

「気をつけます、だけじゃ足りないからね」

 

「はい」

 

「市場では、私が先生よ」

 

 澪は怖いのに、少しだけ笑いそうになった。

 

「先生、厳しいです」

 

「生きてる生徒が好きなの」

 

 リュシアはさらっと言った。

 

 それは少し、胸に残った。

 

 

 

 

 

 江古田の部屋に戻ったあと、澪はしばらく畳に座り込んでいた。

 

 押入れは閉めた。市場の音は聞こえない。窓の外からは自転車の音がし、遠くで電車が走り、どこかの部屋でテレビの音が漏れている。安全なはずの、いつもの六畳間だった。ちゃぶ台があり、ギターがあり、彫金工具があり、帳簿がある。

 

 それなのに、手が震えていた。

 

 澪はリュックを下ろし、ポーチを確認した。金貨はある。商品もある。体も無事で、何も取られていない。何も壊れていない。それなのに、体の奥だけが冷えている。

 

 澪は帳簿を開いた。今日の売上を書こうとして、ペンが止まる。備考欄に「帰り道、危険」と書いてしばらく見つめたが、足りない気がして消した。今度は「金貨を持って細い路地を一人で歩かない」と書く。それでも足りない気がして、さらに下へ「死なない」と書いた。

 

 ペンを置いたあと、澪は備考欄を見下ろした。

 

「備考欄が重い」

 

 冗談のように聞こえるが、冗談ではなかった。帳簿も大事だ。税金も大事だ。修さんに迷惑をかけないことも大事だ。でも、死んだら終わりだ。死んだら帳簿はつけられない。レシートもなくせない。いや、死んだ場合、レシートどころではない。

 

 澪はスマホを取った。

 

 検索欄に、女性 一人旅 防犯、と打つ。山歩き 安全装備、熊対策、野犬対策、防犯グッズ、アウトドア 安全装備。次々に検索していくと、出てくる結果は現実的だった。それが少しだけ安心だった。少なくとも、押入れ 異世界 対処、よりは役に立ちそうだった。

 

 画面を見つめながら、澪は翌日の予定を決めた。

 

 ハンズへ行く。

 

 異世界で生き残るために、武器屋ではなくハンズへ行く。その時点で何かがおかしい気はしたが、澪の人生は、すでにかなりおかしかった。

 

 

 

 

 

 ハンズの店内は明るかった。

 

 天井の照明は白く、棚には商品が整然と並び、値札と説明ポップがしっかり貼られている。澪は、現代日本の説明ポップのありがたさを噛みしめた。異世界市場には説明ポップがない。価格も書いていない。質問したら値段が変わりそうで怖い。その点、ハンズはすごい。熊撃退スプレーも、ライトも、ホイッスルも、ちゃんと値段が書いてある。

 

 澪はアウトドア用品と防犯用品の棚の前で立ち止まった。

 

 熊鈴、ホイッスル、小型ライト、防犯ブザー、ロープ、作業手袋、安全ゴーグル、熊撃退スプレー。棚を見ながら、澪は自分が何を探しているのか考えた。最初は、攻撃できるものを探していた。だが、商品を一つずつ見ているうちに気づく。

 

 自分は戦士ではない。剣を持っても勝てない。殴り合いもできない。大声を出すのも苦手だ。必要なのは、倒す道具ではなく、逃げる時間を作る道具だった。

 

 澪は熊撃退スプレーの前で止まった。値段は高い。缶は思ったより大きい。可愛くない。バッグにも入れづらい。だが、最後の保険にはなる。じっと見ていると、店員が近づいてきた。

 

「登山ですか?」

 

 澪は一瞬だけ固まった。

 

「ええと、熊が出るかもしれない場所です」

 

「山ですか?」

 

「未舗装路です」

 

「単独行動ですか?」

 

「……できれば、そうならないようにします」

 

 店員は真面目にうなずいた。

 

「スプレーだけでなく、まず遭遇しないことが大事です。音を出すものやライトもあるといいですね。あと、単独行動は避けてください」

 

 異世界の安全対策を、東京の店員さんに正論で詰められている。澪は小さくうなずいた。単独行動はできれば避けたい。本当に、できれば。

 

 澪は熊撃退スプレーをかごに入れた。普段の街中で持ち歩くものではない。部屋に保管し、異世界へ行く直前だけ持つ。最後の保険であり、使わないことが一番いい道具だった。

 

 次に、耐切創手袋と安全ゴーグルを選んだ。小型LEDライト、ホイッスル、厚手の作業用ジャケットも入れる。カラビナや防水ポーチは小物をまとめるのに使える。買い物かごの中身は、女子大生の買い物から少しずつ遠ざかっていった。

 

 園芸とアウトドアの間で、澪はマチェットを見つけた。

 

 名前だけは知っている。映画や小説に出てくる。藪を払う道具であり、画面の中ではだいたい物騒な使われ方をする。澪は一度手に取り、重さを確かめてから棚へ戻した。しかし、草や紐や枝を切る道具としてなら必要になるかもしれないと思い直し、もう一度手に取る。

 

 戦うために持つのは嫌だ。自分がこれを振り回せるとは思わない。たぶん振り回す前に、自分の膝を打つ。すごく痛い未来が見える。

 

 迷っていると、店員が声をかけた。

 

「藪払い用ですね」

 

「藪……はい。藪とか、紐とか、枝とか」

 

「キャンプですか?」

 

「かなり原始的なキャンプです」

 

「持ち帰りの際は、袋から出さないでくださいね」

 

「絶対出しません」

 

 澪は力強く言った。街中で出す気はまったくない。出したら自分が一番怖い。

 

 マチェットも買うことにした。ただし、心の中で用途をはっきり決める。戦闘用にしない。草を払う、紐を切る、荷ほどきに使う。それだけだ。澪は自分に言い聞かせるように、かごへ入れた。

 

 そのあと、透明な板の前で足が止まった。

 

 ポリカーボネート製の防護シールドだった。持ち手があり、透明で、前が見える。小型の円形に近いタイプで、大きすぎない。腕の前に置けば、少なくとも自分と相手の間に一枚作れる。

 

「盾じゃん」

 

 澪は思わずつぶやいた。

 

 持ってみると、思ったより軽い。けれど三十秒ほど構えてみると、左腕がじわじわ重くなってきた。長くは無理だ。戦う道具ではない。数秒だけ間に置いて、その間に逃げる道具だ。

 

 それなら、澪に合っている。

 

 盾は、相手を傷つけない。自分と相手の間に距離を作る。

 

 店員がまた来た。

 

「警備関係ですか?」

 

「ええと、危ない場所に行くので」

 

「お仕事で?」

 

「個人で」

 

 店員の表情が、ほんの少し慎重になった。澪は慌てて言葉を足す。

 

「屋外作業です。野犬とか、枝とか、そういうのが怖くて」

 

 完全な嘘ではない。野犬みたいなものはいるかもしれない。枝もある。剣を持った人間もいるが、それは言わない。

 

「街中で構えないでくださいね」

 

「絶対構えません」

 

 澪は即答した。

 

 透明盾も買った。かごの中身は、もう完全におかしかった。

 

 最後に、園芸用品の棚で液体噴霧器を見つけた。半透明のタンクに、ホースとノズルがついている。手元のレバーを握れば、水を霧にできる。火を消せるかもしれない。煙たい場所で布を濡らせる。泥や血を洗える。熱い金属を冷ませる。逃げるときに一瞬、水を撒いて視界を乱せるかもしれない。

 

 便利だと思った瞬間、澪の脳内に危ない発想が浮かんだ。

 

 唐辛子、酢、噴霧器。

 

 澪はすぐ首を振った。

 

「怖いからって、危ない人になったらだめだ」

 

 噴霧器は水専用にする。人を傷つける道具にしない。そう決めたあとで、スマホに表示された業務用カイエンペッパー五キロの文字を見て、澪はそっと画面を閉じた。唐辛子というより、もはや土嚢である。買うとしても、いつか香辛料の商品としてだ。護身用ではない。

 

 澪は液体噴霧器をかごに入れた。

 

 会計では何か聞かれるかと思った。熊撃退スプレー、耐切創手袋、安全ゴーグル、LEDライト、ホイッスル、マチェット、透明盾、液体噴霧器。かなりのラインナップである。ところがレジの人は普通に処理した。何も聞かれなかった。現代日本のレジは強い。澪だけが勝手に動揺していた。

 

 帰り道、荷物は重かった。透明盾がかさばり、噴霧器が意外と存在感を出し、マチェットは物理的な重さより精神的に重かった。熊スプレーは小さいのに、袋の中で王様みたいな顔をしている気がした。

 

 江古田のアパートへ戻るころには、澪はかなり疲れていた。

 

 

 

 

 

 六畳間の畳の上に、澪は買ってきた装備を並べた。

 

 熊撃退スプレー、耐切創手袋、安全ゴーグル、小型LEDライト、ホイッスル、厚手の作業ジャケット、マチェット、ポリカーボネートの透明盾、液体噴霧器。横にはギターがあり、彫金工具があり、押入商会の帳簿がある。女子大生の部屋としては、かなり何かを間違えている。

 

 澪は一つずつメモをつけた。熊撃退スプレーは最後の保険で、通常使用しない。マチェットは藪払い、紐切り、荷ほどきの作業用で、戦闘用にしない。透明盾は距離を作って逃げるためのもの。噴霧器は水専用で、消火、洗浄、撤退支援。手袋は怪我防止、ゴーグルは目を守るため、ライトは暗所確認、ホイッスルは助けを呼ぶため。

 

 書いているうちに、少し落ち着いた。

 

 道具は、用途を決めると怖さが少し減る。

 

 澪は厚手のジャケットを着て、手袋をはめ、安全ゴーグルをつけ、透明盾を持ってみた。鏡の前に立つと、そこにいたのは女子大生ではなかった。冒険者にも見えないし、商人でもなかった。

 

「工事現場に行く人だ、これ」

 

 澪は落ち込んだ。ただ、工事現場に行く人はたぶん安全を考えている。なら、方向性は間違っていないのかもしれない。たぶん。

 

 翌日、澪は装備の一部を持って異世界へ行った。全部は無理だった。かさばるし、目立つし、何より自分が疲れる。透明盾、手袋、ゴーグル、ホイッスル、小型ライト。熊撃退スプレーは最後の保険として、外からすぐ取れる位置に固定した。マチェットはしっかり袋に入れ、作業用として荷物の奥へしまう。噴霧器には水だけを入れた。

 

 市場裏の倉庫で、リュシアは澪を見て目を丸くした。

 

「ミオ、それは何?」

 

「盾です」

 

「透明なの?」

 

「前が見えるから」

 

 リュシアは透明盾を指で叩いた。こん、と乾いた音がする。

 

「重い?」

 

「持つだけなら、そこまで。でも長く構えるのは無理です」

 

「じゃあ、長く戦えない」

 

「戦うつもりはないです」

 

 リュシアはうなずいた。

 

「なら、正しいわ」

 

「正しいんですか」

 

「逃げる時間を作る道具ね」

 

 澪は少しだけ救われた気がした。

 

 次に、リュシアは熊撃退スプレーを見た。

 

「これは魔道具?」

 

「唐辛子を霧にして飛ばす道具です」

 

 リュシアの顔が、はっきり嫌そうになった。

 

「ミオの国は、発想が嫌ね」

 

「最後の保険です」

 

「使わない方がいい道具?」

 

「そうです」

 

「なら、いいわ」

 

 噴霧器を見せると、リュシアは首を傾げた。

 

「これは?」

 

「水を飛ばす道具です」

 

「地味ね」

 

「地味なものほど、事故りにくいです」

 

 リュシアは少し考えてから、にこっとした。

 

「それは商人らしい考えね。派手な道具は、だいたい高くつくもの」

 

 リュシアは澪の装備を一通り見て、最後に真面目な顔になった。

 

「ミオは商人だから、勝たなくていい」

 

「勝たなくていい?」

 

「倒さなくていい。強い人と戦わなくていい。逃げて、また来ればいい」

 

 澪は黙った。リュシアの声は、いつもの明るさより少し低かった。

 

「来られなくなった商人は、商人じゃなくなるもの」

 

「それ、怖い言い方ですね」

 

「本当のことは、だいたい少し怖いわ」

 

 澪は、あの路地を思い出した。後ろからついてくる足音。ポーチを見る目。足が動かなくなった感覚。自分は冒険者ではない。勇者ではない。戦士でもない。でも、逃げて帰る準備ならできる。

 

 澪は透明盾の持ち手を握った。

 

「私は勝ちに行くんじゃない。帰ってくるために行く」

 

 言葉にすると、少しだけ胸が落ち着いた。リュシアは満足そうに笑う。

 

「それでいいわ、ミオ」

 

 その夜、澪は江古田の六畳間で帳簿を開いた。

 

 装備は押入れの横に整理して置いた。透明盾、手袋、ゴーグル、ライト、ホイッスル、噴霧器、熊スプレー。マチェットは袋に入れ、作業用と書いた紙をつけてある。

 

 ちゃぶ台の上には、押入商会の帳簿。澪は最初のページを開き、新しい項目を書いた。

 

 商売の目的。

 

 その下に、死なずに帰ること、と書く。しばらく見つめると、大げさに見えた。だが、大げさではなかった。金貨より大事で、売上より大事で、家賃よりも、たぶん先に必要なことだった。

 

 澪はさらに一行書こうか迷った。レシートをなくさないこと。それも大事だ。かなり大事だ。結局、澪はそれも書いた。

 

 商売の目的。

 

 死なずに帰ること。

 

 レシートをなくさないこと。

 

 並べてみると、少しだけ変だった。生死とレシートが同じページにある。澪は不安になりながらも、優先順位はたぶん合っていると思うことにした。

 

 帳簿を閉じ、押入れの横に置いた透明な盾を見る。勇者の盾ではない。伝説の防具でもない。ハンズで買った、小型のポリカーボネート盾だ。けれど、それで十分だった。

 

 押入商会に必要なのは、勝つための装備ではない。

 

 明日も帰ってきて、帳簿をつけるための装備だった。

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