朝の六畳間は、夜より少しだけ容赦がない。
冷蔵庫はいつも通り低く唸っているし、外では誰かがアパートの階段を下りていく音がした。
カーテンの隙間から入る光は遠慮がなく、畳の毛羽立ちも、ちゃぶ台の小さな傷も、机の端に積んだ大学のプリントも、全部まとめて「はい、今日です」と言ってくる。
篠原澪は、ちゃぶ台の前で正座し、新しく買ったノートの表紙を見ていた。
押入商会 帳簿
何度見ても、ださい。
「ださいな……」
朝いちばんの感想がそれだった。
ひどい話である。
商会の名前を決めた本人が、翌朝いちばんにださいと言っているのだ。
だが、ださいのだから仕方がない。
もっとこう、なかったのだろうか。
星霜商会とか、境界交易録とか、異世界流通管理帳とか、少し気取った感じの名前が。
いや、駄目だ、と澪はすぐに思い直した。
そのへんの名前をつけた瞬間、たぶん自分は調子に乗る。
調子に乗った人間の末路は、だいたいレシートの山に埋まるのだ。
少なくとも澪はそう信じていた。
だから押入商会でいい。
押入れから出入りしているのだから、あまりにも正直である。
正直で、ださくて、それでいて少しだけ安心できる。
そこが、このノートのいちばんずるいところだった。
澪は指先で表紙を撫でた。
紙の手触りは、ただの新品のノートなのに、妙に責任感がある。
帳簿という字面のせいかもしれない。
ださいくせに偉そうだ。
少し腹立たしいが、その偉そうな感じがいまはありがたかった。
そこで澪は、ちゃぶ台の脇に置いていたスマホを取った。
銀行アプリを開く。
残高を見る。
閉じる。
もう一度開く。
やはり残っている。
さらに念のため更新する。
まだ残っている。
澪はそこで小さく息を吐いた。
「消えてない……」
当たり前である。
夜のあいだに口座から 532,560円 が自然蒸発していたら、それはそれで現代日本の方が異世界より危ない。
だが、人は信じがたい現実を前にすると、確認の仕方が急に原始的になるらしい。
閉じる。
開く。
もう一回見る。
最新のスマホアプリを使っているくせに、やっていることはほぼ洞窟の壁画くらい素朴だった。
澪は増えた残高を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
残っている。
それは事実だ。
だが、残っているからといって、全部が使っていいお金ではない。
そう思って、アプリの「目的別口座」の画面を開く。
生活費、予備、大学関係と並んでいる区分の下へ、新しく「税金」と打ち込んだ。
「朝から夢がない……」
自分でつぶやきながら、澪は入金額の半分をその欄へ移した。
532,560円 の半分だから、266,280円。
数字で見ると、少しひるむ。
ひるむが、ひるんだからといって税金が消えるわけではない。
こういうところで見なかったふりをすると、あとで現代日本が本気で殴ってくる。
澪は移動後の残高を見て、小さくうなずいた。
「よし。これは最初から、なかったものとして扱う」
かなりさみしい決意だった。
だが、しっかりしている人間の決意というのは、たいてい少しさみしい。
それでも、こうして先に分けておけば、うっかり使ってあとで青くなる未来はだいぶ遠ざかる。
派手さはない。
だが澪は、こういう地味な防御こそ、自分の生き方に向いている気がしていた。
「押入商会、黒字です」
そこで澪は、きちんと報告してみた。
部屋の中は静かだった。
冷蔵庫が低く唸った。
それだけだった。
誰もいない。
そりゃそうだ、と澪は思う。
そもそも一人暮らしである。
報告相手がいる顔で言った自分の方がおかしい。
おかしいのだが、帳簿までつけ始めた朝なのだから、少しくらい誰かに「おめでとうございます」くらい言われてもよかったのではないか、という気持ちはある。
だが現実にいるのは冷蔵庫だけだった。
しかも冷蔵庫は祝福ではなく、いつも通りの機械音しか出さない。
この家電、情緒が薄い。
澪はスマホを置き、帳簿をもう一度見た。
黒字。
その言葉だけなら、けっこう強い。
人生の上澄みだけを切り取るなら、かなりいい響きである。
だが、その響きに長く浸る気にはなれなかった。
少し前に進んだ気はする。
それは本当だ。
帳簿ができて、口座の数字が増えて、昨日までよりは確かに前にいる。
だが、前に進んだときほど、人はたぶん足元を見た方がいい。
「でも調子に乗るな、私」
澪は自分へ向かって言った。
言ってから、ちょっと偉そうだなと思う。
偉そうだが、言い聞かせないと危ない気もする。
異世界が押入れの向こうにつながって、商品が売れて、銀行口座が増えた朝なのだ。
人が調子に乗る条件としては十分すぎる。
ここで頭の中まで景気よくなったら、たぶん次に待っているのは痛い目である。
澪の人生経験は広くない。
だが、「少しうまくいった直後が一番危ない」くらいのことは分かる。
高校でも大学でも、人間関係でも、少しだけ会話がうまく回った日に限って、次で余計なことを言ってこじらせた。
なら商売だって、たぶん同じだ。
昨日うまくいったからといって、今日も同じようにいくとは限らない。
むしろ、うまくいった翌日に雑になる方がよほど危ない。
澪は帳簿を開いた。
ページをめくり、昨日書いた項目をざっと見直す。
仕入れ品、仕入れ額、売上、受取硬貨、精錬枚数、入金額、備考。
文字を見るだけで少し背筋が伸びる。
こういうものがあると、人は「ちゃんとしないと」という気分になるらしい。
帳簿というのは、ださいくせに偉い。
少し腹立たしいが、だいぶ偉かった。
澪は立ち上がり、部屋の隅に置いていたリュックを持ってきた。
中身を確かめる。
鏡、針、爪切り、糸切りばさみ、髪留め。
量は多くない。
多くないが、昨日までの自分なら「荷物」で終わっていたものが、今日はちゃんと「商品」に見える。
そこが少しだけ怖くて、少しだけうれしかった。
澪は一つずつ丁寧に入れ直した。
雑に詰めて壊したら嫌だし、向こうで慌てて探すのも嫌だ。
嫌なことを避ける技術だけは、だいぶ育っている。
それは才能というより、たぶん生活の積み重ねだった。
リュックの口を閉じる。
肩にかける。
少し重い。
だが、前に感じた重さとは違う。
不安だけの重さではない。
売るものを持っている重さだった。
そのことをあまり格好よく受け止める気にはなれない。
格好よく受け止めた瞬間、また調子に乗りそうだからだ。
澪は襖の前に立った。
いつもの押入れ。
見た目は本当にいつもの押入れなのに、その向こうには石畳の路地がつながっている。
何度見ても、常識の方が負ける光景だった。
襖に手をかける。
その瞬間、澪はもう一度だけ自分へ言った。
「黒字でも、死んだら終わりだからね」
朝いちばんに言う台詞としてはだいぶ縁起が悪い。
だが、現実的ではある。
現実的すぎて少し嫌になるが、嫌だからといって避けていい感じでもない。
商売を続けるなら、たぶん、そこから目をそらさない方がいい。
澪は小さく息を吐いた。
それから襖を開ける。
六畳の畳から、石畳の向こうへ。
朝の光は、今日も普通に両方へ差していた。
石畳へ足を下ろした瞬間、六畳間の朝とは別の忙しさが足元から立ち上がってきた。
声が飛ぶ。
荷車が軋む。
どこかで金属がぶつかる硬い音がして、そのすぐ横では、焼いた肉だか豆の煮込みだか分からない匂いが、湯気みたいに通りを流れていく。
相変わらず、押入れ一枚で生活の密度が違いすぎる。
澪はリュックの肩紐を握り直し、市場裏の壁際へ目を向けた。
木箱に腰かけたリュシアが、もうこちらを見ていた。
赤茶色の布を頭へ巻き、片足をもう片方の膝へ引っかけるようにして座っている。待っていた、という顔を大げさにはしない。だが、目だけはしっかり「遅い」と言っていた。
「やっと来たかい」
開口一番、それだった。
おはようでもなく、無事だったかいでもない。
やっと来たかい、である。
相変わらず商人の挨拶としては正しすぎて、逆に安心する。
「すみません」
澪がそう言うと、リュシアは澪の顔を上から下まで一度見て、口元を少しだけ上げた。
「今日は顔がましね」
澪はそこで一拍遅れて、自分の頬を触りそうになった。
顔。
また顔である。
昨日は修さんに「顔が曲がってる」と言われ、今日はリュシアに「顔がまし」と言われた。
人は二日続けて顔面の出来について講評されることがあるらしい。
できれば知らずに済ませたかった人生の知識だった。
「前よりは、たぶん」
そう返すと、リュシアはすぐに拾った。
「たぶん、ね」
やっぱりそこを拾うのか、と澪は思う。
修さんも拾った。
リュシアも拾う。
どうやら自分の語尾の弱さは、見る人が見れば荷崩れした箱くらい分かりやすいらしい。
かなり嫌なたとえだが、たぶん精度は高かった。
「前は、薬草を間違えて食べた人みたいな顔だったよ」
リュシアがさらっと言う。
ひどい。
かなりひどい。
しかも、何となく具体的で嫌だった。
「そんな顔でした?」
「してたね。腹は壊してないのに、壊した人の顔」
そこまで言うのか、と澪は思う。
思うが、否定しきれないのも悔しい。
たぶんしていた。
かなりしていた。
むしろ、あのときの自分の顔がまともだった可能性を探す方が難しい。
「今日はまだ、人として市場を歩けそうです」
半分やけでそう言うと、リュシアは少しだけ鼻で笑った。
「じゃあ大丈夫だね」
基準が雑だった。
だが、この人の「大丈夫」は、軽いくせに妙に現場向きである。
死にそうじゃないなら進める、くらいの実務感がある。
「で」
リュシアは木箱から腰を上げ、澪のリュックをあごで示した。
「何を持ってきたんだい」
早い。
だが、たぶんこれがこの人の正しい速度だ。
顔色を見て、生きていることだけ確認したら、すぐ商売の話へ戻る。
人との距離の詰め方としてはだいぶ独特だが、商人としてはたぶん正解なのだろう。
澪はリュックを下ろし、中から品物を取り出した。
手鏡、裁縫針、虫眼鏡、爪切り。
布の上へ順に置いていくと、六畳間では生活用品だったものが、石畳の上では急に「商品です」という顔をする。
その変わりように、澪はまだ少しだけ慣れない。
「ほう」
リュシアは声だけで一度評価し、手鏡をつまみ上げた。
「鏡は髪結いだね。こないだのやつ、もう一枚ないかってうるさかった」
澪は思わず「早いな」と思う。
自分はまだ、売れた、で頭がいっぱいなのに、この人はもう次の客の顔が見えている。
「針は仕立て屋。前の太さじゃ足りないって言ってたから、こっちは先に見せる」
裁縫針を光へ透かしながら、リュシアはまるで当然のように言った。
その当然さがすごい。
誰が何を欲しがるかを、いちいち考えるというより、もう並べた時点で振り分けが終わっている感じだった。
虫眼鏡へ手が移る。
澪はそこで少しだけ身構えた。
説明しないといけない。
たぶん、そう思ったのだ。
だが、リュシアは虫眼鏡をつまみ上げるなり、あっさり言った。
「ムシメガネは薬草屋に回せるね」
ムシメガネ。
そのまま入った。
澪は一瞬だけ目を見開く。
え、それで行くのか、と思う。
だが、たしかに虫を見るためではないものの、見えにくいものを見る眼鏡ではある。雑だが間違ってはいない。間違っていないのが余計に困る。
「もうムシメガネで定着するんですね」
「だって、呼びやすいだろう」
リュシアは当然みたいに言った。
たしかに呼びやすい。
呼びやすいが、そういう問題なのか。
いや、物の名前というのは、だいたいそういう問題なのかもしれない。現代日本でも、きっと最初は誰かが雑に呼んだものが残ったのだ。そう思えば自然である。自然だが、自分の知っている単語が異世界の市場へ雑に定着していく様子は、ちょっとだけぞわぞわする。
「爪切りは?」
澪が聞くより先に、リュシアはそれも手に取った。
「あれは前の髭がまた食いつくよ。ああいうのは、便利さを知った人間の顔をしてた」
便利さを知った人間の顔。
何となく分かる。
何となく分かるのが悔しい。
たしかにあの髭の男は、実演を見た瞬間に、人生が少し便利になる予感に目をやられていた。
あれは強い客である。
「じゃあ、先に見せるんですか」
「先に押さえるんだよ」
押さえる。
客を。
語感がだいぶ狩りだった。
だが、リュシアの口から出ると、そのへんの強引さが全部「商売です」に変換されるからずるい。
リュシアは一通り品を見終えると、布を畳みながら言った。
「悪くないよ。数も絞れてるし、前より頭を使ってる」
その言い方に、澪は少しだけ胸を張りかけて、やめた。
ここで褒められて素直に伸びるほど、自分の精神は健やかではない。
むしろ褒められた瞬間に「どこかに穴があるのでは」と探し始める方である。
「一応、持ちすぎないようにしました」
「うん。それがいい」
軽くうなずいてから、リュシアは腰の袋から小さな革袋を出した。
澪の手のひらへ落とす。
銀貨の重みが、ぱしゃりではなく、こつりと沈む。
前より落ち着いて受け取れた。
落としも、取り落としもしない。
そこは成長かもしれない。
だが、重さそのものに慣れたわけではなかった。
銀貨は前より静かに手のひらへ収まったくせに、気持ちの方へはまだちゃんと重かった。
澪が革袋を見下ろしていると、リュシアがもう一つ、小さな袋を出した。
今度は軽く放るようによこす。
澪は慌てて両手で受けた。
小さな金貨が1枚、布越しに固い丸みを作っている。
その感触に、心臓の方が一拍遅れて反応した。
「……やっぱり、重いですね」
「袋を変える?」
リュシアが真顔で言う。
澪は一瞬、本気で別の袋に入れれば心理的な重さが減るのだろうかと考えた。
考えてしまってから、いや違うなと思う。
重いのは布袋のせいではなく、自分の生活のせいである。
「そういう問題じゃない気がします」
「じゃあ、腕を鍛えるしかないね」
そこへ行くのか、と澪は思う。
金貨の重さに対する対策が筋力トレーニングになる世界、だいぶ雑である。
だが、雑なくせに少しだけ正しい気もするのが嫌だった。
リュシアは銀貨と小金貨を渡し終えると、もう次の話へ移っていた。
「今日はここまででいいのかい」
「ええと、はい。いったん帰って整理します」
「整理」
リュシアがそこだけゆっくり繰り返す。
澪はうなずいた。
「現代側で、修さんに出す分とかもあるので」
「シュウ?」
リュシアの眉が少し動いた。
そこで澪は、ああまた説明の要る人名を雑に置いたな、と思う。
自分は本当に、相手が知っている前提で単語を出してしまう。
「金属を見てくれる人です」
そう言うと、リュシアは少しだけ考えてから、納得したようにうなずいた。
「ああ。書類が強い人か」
澪はそこで一拍遅れて、少しだけ笑いそうになった。
書類が強い人。
ものすごく雑なのに、妙に核心を突いている。
修さんは金属に強い。
だが現代日本で異世界の金貨を現金へ変える流れを見てしまった今となっては、たしかに「書類が強い人」という認識も間違っていなかった。
「だいたい、そんな感じです」
「大事にしな。そういう人は、なかなか拾えないよ」
軽い口調だった。
だが、その言い方は少しだけ真面目だった。
澪は小さくうなずく。
そうだな、と素直に思う。
金属を見てくれて、変なものほど見た方が早いと言って、しかも書類も強い。
かなり貴重である。
人としても、たぶん相当な希少種だ。
「じゃあ、今日は帰るよ」
リュシアが布をまとめながら言った。
「帰って、ちゃんと数えな。あと、変な顔で歩かない」
「最後にそこですか」
「大事だからね」
言い切られて、澪は返す言葉に少し困る。
たしかに大事なのかもしれない。
顔色も、歩き方も、たぶんこの市場では立派な情報だ。
そう考えると急に怖くなるので、澪はあまり深く考えないことにした。
手の中の銀貨と小金貨は、まだ少し重い。
だが前みたいに、それだけで頭が真っ白になる感じではなかった。
重いまま持てるようになった、くらいの変化かもしれない。
派手ではない。
だが、商売というものは、たぶんそういう地味な慣れ方で体へ入ってくるのだろうと、澪は少しだけ思った。
市場の賑わいから一本外れた瞬間、空気の厚みが変わった。
さっきまで背中を押していた声の波が、急に遠くなる。
荷車の軋みも、客の値切り声も、布越しに漏れていた鍋の匂いも、細い路地へ入るとひとつ薄い壁の向こうへ引っ込んだみたいに弱くなった。
石畳は同じなのに、人の気配だけが急に少ない。
それがまず、あまりよくなかった。
澪はリュックの肩紐を握り直した。
右肩には商品を入れた重みがあり、腰のあたりには銀貨の袋と小さな金貨の感触がある。
さっきまでは「売れた」の証拠だった重さが、路地へ入った途端に別の意味を持ち始める。
いや、そんなはずはない、と澪は思った。
まだそこまで大げさに警戒するほどでもない。
たぶん考えすぎだ。
たぶん。
その「たぶん」が、今日はずいぶん頼りなかった。
後ろで足音がした。
石を打つ革靴の音ではない。
もう少し軽くて、でも急いでいるわけでもない、妙に歩幅のそろった足音だった。
澪は少しだけ首を傾けた。
市場なのだから、人が歩いていて当然である。
それ自体は何もおかしくない。
おかしくないのだが、なぜか気になった。
澪は角をひとつ曲がった。
後ろの足音も曲がった。
そこでようやく、喉の奥が少し乾く。
いやいや、と澪は心の中で言う。
偶然だ。
市場から出る道が同じなら、曲がる角だって同じだろう。
むしろ同じでなかったら、その方が道としてどうなのか。
そう自分へ言い聞かせながら、澪は少しだけ歩く速度を落とした。
石畳を踏む自分の靴音も小さくなる。
後ろの足音も、小さくなった。
澪の頭の中だけが急に忙しくなった。
えっ、と思う。
えっ、という言葉は便利だ。
意味はないのに、たいがいの緊急事態へ即応できる。
ただし解決能力はまるでない。
今の澪の頭の中では、その「えっ」がかなりの勢いで連打されていた。
振り返るべきか。
いや、振り返った瞬間に「気づいてますよね」と宣言することにならないか。
それはそれでまずい気がする。
でも気づいていないふりをして、このままもっと人気のない場所へ入ったら、それはもう自分から状況を悪くしているだけではないのか。
ああもう、と澪は思った。
こういうときに限って、頭の中でだけ会議が早い。
結論は遅いのに、議事進行だけは無駄に活発である。
澪はもう一度だけ歩いた。
三歩。
四歩。
そこで耐えきれなくなって、振り返った。
男が二人いた。
どちらも市場の客か荷運びか、そのへんに普通にいそうな格好をしている。
だからこそ、余計によくなかった。
見るからに悪党です、という親切設計ではない。
街のどこにでもいそうな大人が、妙に静かにこちらを見ていた。
いや、正確にはこちらではない。
顔ではなく、リュック。
それから腰の袋。
視線がそこへ落ちている。
澪はそこで初めて、頭ではなく身体で理解した。
ここには交番がない。
コンビニもない。
防犯カメラもない。
助けてくださいと駆け込める明るい店も、店員さんも、百メートル先の自動ドアもない。
あるのは石畳と壁と、自分と、金貨を持っている若い女、という状況だけだった。
背中がすっと冷えた。
なのに手のひらだけ妙に熱い。
喉は乾くのに、呼吸の仕方は急に分からなくなる。
足は止まりそうになるのに、止まったらだめだということだけは分かる。
こういうとき、人間の体は本当に統一感がない。
「……」
何か言うべきか、と澪は一瞬思った。
何を。
そこがまず分からない。
こんにちは、は違う。
道をお譲りします、も違う。
失礼ですが私の金貨を狙っていますか、などと聞けるほど会話力があったら、そもそも大学生活はもう少し楽だった。
頭の中で、防犯ブザー、という単語が急に浮かんだ。
持っていない。
なんで持ってないんだろう、と澪は思う。
いや、持っていないのが普通だ。
普通なのだが、今この瞬間だけは、自分の人生が「持っていない方」の世界線にいることがかなり悔しい。
スマホ、とも思う。
ある。
だが、ここで110番してどうするのだ。
江古田ではない。
練馬区でもない。
押入れの向こう側です、と通報した瞬間に、助けが来る前に別の意味で話が終わる。
澪は自分でも驚くほど冷静に、そして同じくらいどうしようもなく、そのことを理解した。
男たちは何も言わない。
それが余計に怖かった。
怒鳴ってくれた方がまだ分かる。
分かる、は語弊があるが、少なくとも「これから何か来る」が声で前触れされる。
だが今は違う。
声のないまま距離だけがじわじわ詰まる。
その詰まり方が、獲物を見るときのそれに見えた。
獲物。
そこで澪は、自分の思考が急に嫌な方向へきれいにつながったのを感じた。
自分はいま、異世界を歩いている不思議な大学生とか、押入れを通る珍しい行商人とか、そういう特別な存在ではない。
男たちから見えているのは、金になりそうな物を持って、ひとりで、細い路地を歩いている若い女だ。
それだけだ。
それだけなのに、それだけで十分にまずい。
ひどい話だ、と澪は思った。
小金貨を持っているときの自分が、こんなに簡単に「獲物」の側へ入るとは思っていなかった。
いや、思っていなかったのではない。
考えていなかったのだ。
売れるかどうかと、換金できるかどうかと、帳簿をどうつけるかまでは考えた。
だが、その帰り道に自分がどう見えるかは、きれいに抜けていた。
抜けていた、では済まない気もする。
だが、いまは反省文を書いている場合でもなかった。
逃げる。
その単語だけが、やっと頭の中で形になる。
だが、どこへ。
押入れにつながる路地まで、まだ少しある。
走るか。
走った瞬間に「当たりです」と答え合わせすることにならないか。
いや、もうたぶん答えは合っている。
だったら走った方がましなのではないか。
澪の頭の中は、急に現代日本の防犯記事みたいになっていた。
距離を取る。
人の多い場所へ戻る。
止まらない。
大声。
ホイッスル。
防犯ブザー。
どれも正しい気がする。
そして最後の二つを自分が持っていないことも、きっちり分かる。
持っていないものだけ、急に鮮明に思い出すのはなぜなのだろう。
人間の脳は、たまに本当に性格が悪い。
澪はじり、と一歩だけ後ろへ下がった。
男たちの足も止まらない。
その距離感で、もう十分だった。
だめだ、と澪は思う。
これは「異世界が危ない」のではない。
いま危ないのは、ここを歩いている自分だ。
市場全体が敵なのではない。
自分が、ここではそう見られる位置に入ってしまっただけだ。
その理解は、遅かった。
遅かったが、ようやく本物だった。
澪は呼吸を浅く吸った。
喉が乾いてうまく入らない。
それでも無理やり吸う。
次に何をするかを決めないと、足が本当に床へ縫いつく。
そのときだった。
少し離れた通りの方から、明るい女の声が飛んできた。
「ミオ、こっち!」
その声を、澪は聞き間違えなかった。
聞き間違える余裕など、もうどこにもなかった。
「ミオ、こっち!」
明るい声が路地の奥から飛んできた瞬間、澪の足より先に心臓がそちらを向いた。
リュシアだった。
壁際の木箱の陰から半歩だけ体を出し、まるで「待たせた客を呼ぶ」くらいの気軽さで手を振っている。
助かった、と思う。
思うが、同時に、なんでそんな普段通りの声なのだろうとも思う。
こっちはいま、かなりちゃんと怖い。
かなりちゃんと怖いのに、あちらの声色は「こっちにいい布があるよ」くらい軽い。
だが、その軽さの方がありがたかった。
ここでリュシアまで深刻な顔をしていたら、たぶん澪の足は本当に止まっていた。
リュシアは澪の返事を待たずに、近くの露店の男へ「その籠、後で見るよ」と普通に声をかけ、ついでみたいな顔で澪の腕を取った。
強く引っぱるわけではない。
だが、逆らえない速さだった。
「歩いて」
小声で言う。
澪はうなずいた。
「はい」
声が少し上ずる。
それだけで自分がいまどういう状態か分かって嫌だった。
リュシアはそのまま何でもない顔で通りへ出る。
澪もついていく。
後ろは見ない。
見ない方がいいのか、それとも見た方がいいのか、その判断すら今の澪にはつかない。
「止まらない」
また短く言われる。
「はい」
「振り返らない」
「はい」
「息はして」
そこで澪は一瞬だけ詰まり、それから半歩遅れて思った。
それは今、言われないと忘れそうでした。
人間、怖いと呼吸まで手放しかけるのか、と自分で少し引く。
引くが、実際にさっきから息の仕方が下手だった。
吸っているのに足りないし、吐いているのに落ち着かない。
体というのは、本当にこういうとき統一感がない。
リュシアはそんな澪を引きずるでも支えるでもなく、ただ当然みたいに人通りの多い通りへ連れ戻していく。
途中で果物売りの女に「今日の梨は高いよ」と笑いかけ、道端の鍛冶屋見習いに「その箱、そこだと邪魔」と声を飛ばし、その合間に澪の歩幅だけは絶対に見失わない。
器用すぎる。
市場の人間は全員こんなことができるのだろうか。
だとしたら怖いし、できないのにこの人だけできるなら、それはそれでだいぶ怖かった。
通りの真ん中まで戻って、ようやくリュシアは澪の腕を離した。
「立って」
立っている。
いや、さっきから立ってはいる。
だが、そういう意味ではないのだろう。
ちゃんと足を地面へ置け、という意味だと澪は理解した。
理解するまでに二拍かかった。
今日は何もかも遅い。
澪は通りの端の木箱へ背中を預けた。
脚が少しだけ震えている。
自分でも分かるくらい分かりやすく震えていて、そこだけが少し腹立たしかった。
もっとこう、内面だけ動揺していてほしい。
体まで正直になられると逃げ場がない。
リュシアは澪の顔を見た。
さっきまでの軽い顔ではない。
怒ってはいない。
だが、商売の顔とも違う。
教える側の顔だった。
「あなたは売れるものを持ってる」
その声は低くも大きくもないのに、妙にはっきり耳へ入った。
「だから人が寄ってくる。買う人だけじゃない」
澪は何も返せなかった。
返せないまま、小さくうなずく。
それで十分だと、たぶんリュシアも分かっていたのだろう。
「市場はね、物が動く場所だよ。金も動く。だから、人も寄る」
リュシアはそう言って、澪のリュックを一度見た。
それから腰の袋へ視線を落とす。
その視線は、さっきの男たちの視線と同じ場所を見ているのに、意味がまるで違った。
同じ場所でも、誰がどう見るかでこんなに違うのかと、澪は少しだけ妙な気分になる。
「持ってるのが見えれば、寄ってくる。分かるかい」
「……はい」
今度は声が出た。
小さいが、さっきよりはだいぶましだ。
「じゃあ、覚えな」
リュシアは指を一本立てた。
「一人で細い路地を歩かない」
「はい」
「道を覚える」
「はい」
「人のいる場所を通る」
「はい」
「支払いは私のところで済ませる」
そこは少し間が空いた。
澪はその意味を頭の中で組み立てる。
ああ、と気づく。
商品を渡して、売上を受け取って、そのまま帰る、という流れ自体は間違っていない。
だが、その受け渡しの場所とタイミングを、自分の都合だけで決めてはいけないのだ。
市場のどこで金が動くかは、そのまま「誰が見ているか」にもつながる。
「……はい」
澪はもう一度うなずいた。
リュシアは指を下ろした。
「よし」
その「よし」は、さっきの自分の「よし」よりずっと信用できた。
同じ二文字なのに、人が違うだけでこうも性能が違うのかと思う。
「怖かったかい」
聞かれて、澪は少しだけ目を伏せた。
そこで格好をつけても仕方がない。
「すごく」
素直に答える。
リュシアはうなずいた。
「それでいい」
それでいい、なのかと澪は思う。
怖がりとして認定されたのだろうか。
いや、たぶんそうではない。
怖いものを怖いと分かる方が、ここではましなのだろう。
むしろ、怖くない顔で細い路地へ入っていく方が危ない。
「市場では、私が先生よ」
リュシアは腕を組んで言った。
その口調は少し得意そうで、でもふざけてはいなかった。
「生きてる生徒が好きなの」
そこで、澪はほんの少しだけ笑いそうになった。
いい先生の条件としては、かなり物騒である。
だが、いまの自分には妙にしっくり来た。
勉強ができるとか、商売が分かるとか、その前に、生きて帰ること。
たしかに順番としては圧倒的に正しい。
「優しいような、怖いような……」
思わずそう言うと、リュシアは肩をすくめた。
「両方でいいのさ。死ぬよりましだろう」
そこまで言われると、もうぐうの音も出ない。
死ぬよりましなことは、だいたい全部正しい。
そこへ理屈で勝つのは難しかった。
通りの向こうでは、相変わらず人が行き交い、商人たちが声を張り上げ、荷車が軋んでいる。
さっきまで背中が冷えていたのに、こうして人のいる場所へ戻ると、同じ市場の音が少し違って聞こえる。
安全な音ではない。
だが、少なくとも一人きりの音ではなかった。
リュシアは澪の顔をもう一度見て、それから少しだけ口元を上げた。
「顔、だいぶ人に戻ったね」
最後にそこへ戻るのか、と澪は思う。
思うが、ちょっとだけ助かったのも事実だった。
ずっと真顔で教えられていたら、たぶん今ごろ自分は木箱の横で小さく干からびている。
「今日はずいぶん顔を評価されますね、私」
「顔は大事だよ。ぼんやりしてると、持ってるものまでぼんやり見える」
「それは今後の課題として受け取ります……」
「そうしな」
軽く言って、リュシアはもう次の露店へ目をやっていた。
切り替えが早い。
だが、その早さがいまはありがたかった。
ずっと「怖かったね」で止まらない。
立て直したら、次へ進む。
その速度が、商人なのだろうと澪は思う。
怖かった。
それは本当だ。
けれど、ここでやめる話でもない。
やめるのではなく、覚えて、避けて、次は生きて通る。
そういう種類の学び方を、この市場は要求してくるのだろう。
かなり厳しい。
だが先生がついているなら、まだ少しましだった。
押入れの襖を閉めたあと、澪はしばらくその前に立っていた。
向こうの市場の音は、襖が閉まると急に薄くなる。
さっきまで耳の奥へ入り込んでいた荷車の軋みも、呼び声も、人のざわめきも、木の板を一枚挟んだだけで、遠い井戸の底みたいな響き方に変わった。
静かだった。
六畳間の静けさである。
冷蔵庫が低く唸り、外の廊下では誰かが歩いている。
それだけだ。
いつもの音しかない。
なのに、澪はすぐには動けなかった。
何かが終わった感じはある。
だが、安心していい感じではない。
そのへんの区別が、自分の中でまだうまくついていなかった。
澪はゆっくり振り返り、ちゃぶ台の前まで戻った。
リュックを下ろす。
銀貨の袋と小さな金貨の入った袋を、机の上へ置く。
鏡も、針も、爪切りも、糸切りばさみも、ちゃんとある。
体も無事だった。
手も足もついている。
どこも切れていない。
どこも取られていない。
それなのに、奥の方だけが冷えていた。
澪はそこで初めて、自分の指先が細かく震えていることに気づいた。
「うわ」
小さく声が出た。
出てから、少し嫌になる。
今さらなのか、と思う。
さっきの路地では震えている余裕すらなかったくせに、六畳間へ戻った途端に体だけが遅れて反応してくる。
人間のこういうところは、たまに本当に信用ならない。
怖いならその場で分かりやすく震えてほしい。
安全圏へ戻ってから小刻みに主張されても困る。
困るが、震えているものは震えている。
澪は一度、ぎゅっと手を握った。
だめだった。
震えは握力でどうにかなる種類ではなかった。
「遅い……」
何が、とは言わない。
言わなくても分かる。
体の方が、気づくのが遅いのである。
頭はわりと前から「まずい」と言っていたのに、肉体だけが今になって「たしかにまずかったですね」と報告してくる。
会議のタイミングがずれていた。
ひどい連携である。
澪はちゃぶ台の前へ座り、帳簿を引き寄せた。
こういうとき、何か書くと少し落ち着く。
たぶん、手を動かすと頭が「まだ生きてる方の仕事」を始めるからだ。
帳簿を開く。
売上を書く。
受取硬貨も書く。
そこまではいい。
数字はいつも通り数字だった。
だが、その下の備考欄で、ペン先が止まった。
何を書く。
何と書けば、さっきのことが「分かったこと」になるのだろう。
澪は少し考えてから、備考欄へ書いた。
帰り道、危険。
書いて、三秒見た。
「いや、薄いな……」
薄かった。
あまりにも薄い。
危険なのは知っている。
いまさら「危険」と書かれても、未来の自分もたぶん「でしょうね」としか言わない。
分かったことがそれでは足りない。
澪はその下へ、もう少し具体的に書いた。
金貨を持って細い路地を一人で歩かない。
今度は少しましだった。
少しましだが、それでもまだ何かが足りない気がする。
言っていることは正しい。
正しいが、あまりにも対症療法っぽい。
もっと根っこの方で分かったことがあったはずだ。
澪はペンを持ったまま考えた。
怖かった。
それは本当だ。
でも、怖かった、だけではあとで使えない。
使える形で覚えないといけない。
澪は帳簿へもう一行書いた。
死なない。
書いてから、澪は少しだけ目を閉じた。
「備考欄が重い……」
思わずつぶやく。
備考欄で扱う単語ではなかった。
もっとこう、「湿気注意」とか「次回持参」とか、せいぜい「相場変動」とか、そういうものが書かれる場所ではないのか。
なのにいまここには、死なない、と書いてある。
商会の帳簿なのに、いきなり生存目標が入ってきた。
だいぶ治安が悪い。
だが、実際そうなのだ。
帳簿も税金も大事だ。
レシートも明細も大事だ。
でも、死んだら終わりである。
そこへようやく、ちゃんと順番がついた。
売れることより先に、生きて帰ること。
換金できることより先に、次も帰ってこられること。
その順番を間違えると、帳簿はたぶん途中で終わる。
途中で終わる帳簿というのは、響きとしてかなり嫌だった。
澪はスマホを取り、検索欄を開いた。
まず思いつきで打ちかける。
押入れ 異世界 対処
やめた。
たぶん、ろくな検索結果にならない。
いや、ろくな検索結果になったら、それはそれで現代日本の方がだいぶ怖い。
次に、少し考えてから打つ。
女性 一人旅 防犯
これはだいぶまともだった。
さらに、山歩き 安全装備。
これもまともだった。
押入れの向こうへ行っているのに、検索ワードが一人旅とか山歩きになるのは、少し不思議で、かなり現実的だった。
だが、実際に役に立ちそうなのはそっちだった。
異世界かどうかより、一人で、金を持って、人気のない道を歩く、という条件の方が問題なのである。
検索結果を指で追っていく。
人通りのある道を通る。
単独行動を避ける。
音が出るものを持つ。
視界を確保する。
手を守る。
目を守る。
距離を作る。
逃げる時間を作る。
澪はその文言を見ながら、小さくうなずいた。
武器、ではないのだ。
少なくとも自分に必要なのは、相手を倒す道具ではない。
逃げるための道具だ。
その認識が、ようやく一つの形になった。
戦うのではなく、死なない。
勝つのではなく、帰る。
そう考えると、必要なものの顔つきが少し変わる。
ナイフとか剣とか、そういうものではない気がした。
もっと地味で、もっと現代日本の棚にありそうなもの。
ホイッスルとか、ライトとか、丈夫な手袋とか、変な人に見られてもまだ言い訳できる範囲のもの。
そこまで考えて、澪はふと検索窓を見た。
自分が今やろうとしていることを、一言で言えばこうなる。
死なないための装備探し。
だいぶ物騒だ。
だが、頭の中に浮かんだ行き先は、武器屋ではなかった。
「……ハンズだな」
口に出してみる。
東急ハンズ。
いや、今は名前が少し違うのだったかと一瞬迷う。
だが、そこはどうでもいい。
とにかく、あの、何でもありそうで何でもある店である。
異世界で生き残るために、最初に思い浮かぶ行き先が武器屋ではなくハンズなのは、かなり自分らしい気がした。
夢がない。
だが、夢がなくても生きて帰れればいい。
むしろ、そういう地味な方向の方が、自分には合っている。
澪はスマホを置き、帳簿をもう一度見た。
売上の数字があり、その下に「死なない」とある。
何というか、だいぶひどい帳簿だった。
だが、たぶん正しい。
正しいのなら、ひどくても仕方がない。
澪は帳簿を閉じ、小さく息を吐いた。
ハンズへ行こう。
そう決めた瞬間、少しだけ頭の中の散らばり方がましになった。
怖かったことは消えない。
だが、次に何をするかが決まると、人は少しだけ座り直せるらしい。
かなり地味な前進だ。
けれど、地味な前進で死なずに済むなら、その方がたぶん長持ちする。
そういう種類の強さを、自分はこれから揃えていくのだろうと、澪はようやく本気で思った。
翌日、澪はハンズにいた。
異世界で生き残るための装備を探しに来た人間の行き先が、武器屋ではなくハンズであることについては、自分でもどうかと思う。
どうかと思うが、他にもっと自分らしい行き先も思いつかなかった。
剣は振れない。
斧もたぶん無理だ。
そもそも、そういうものを自然に買いに行ける人生を、いままで一度も歩いていない。
その点、ハンズはいい。
明るい。
整理されている。
値札がある。
説明ポップまである。
人は追いつめられると、値札と説明ポップに妙な感動を覚えることがあるらしい。
「ありがたい……」
思わずつぶやくと、通りすがりの店員がちらっとこちらを見た。
澪はすぐに無表情へ戻る。
今の「ありがたい」は、たぶん普通の買い物客の温度ではなかった。
だが本当にありがたいのだから仕方がない。
異世界の市場では、誰が何を欲しがるかはリュシアが教えてくれる。だが、ここでは棚が教えてくれる。整った棚はえらい。しかも日本語で説明してくれる。文明の強さを感じる。
澪は店内案内図を見て、防犯用品とアウトドア用品の売り場へ向かった。
歩きながら、頭の中ではまだ少しだけ危ない会議が続いている。
必要なのは何だ。
まず、襲われたときにどうにかできるもの。
その発想で棚を見ると、視界が急に物騒になった。
硬そうなライト。
丈夫そうな棒。
切れそうな刃物。
澪はそこで立ち止まった。
「いや、違うな」
小さく口に出す。
違う。
たぶん、そこから入ると違う。
自分は戦士ではない。
そこはかなり大事だ。
怖かったからといって、翌日に戦う準備を始めるのは、何かの分岐としてだいぶ危うい気がする。危ういというか、たぶん自分が一番向いていない道だ。
澪は棚の前で腕を組んだ。
必要なのは、相手を倒す道具ではない。
逃げる時間を作る道具だ。
その考えへたどり着いた瞬間、商品の見え方が少し変わった。
まず目に入ったのは、熊撃退スプレーだった。
日本という国は、ときどき棚の中にいきなり野生の強さを置く。
澪は説明文を読んだ。
熊と遭遇した際の緊急対策。
使用時は風向きに注意。
単独行動を避けること。
そこまで読んで、澪は少しだけ遠い目になった。
単独行動を避ける。
その正論が、いまはたいへん刺さる。
こちらは異世界の細い路地で金貨を持っていた大学生である。熊ではないが、状況としてはかなり「単独行動を避けてください」側だった。
「……でも熊いないしな」
小さくつぶやいた瞬間、近くにいた店員がすっとこちらへ来た。
反応が早い。
ハンズの店員は有能である。
「防犯や野外対策でお探しですか」
澪は一瞬だけ固まった。
異世界で追われかけたので対策を考えてます、と言えれば話は早い。
言えないから話が遅くなるのである。
「ええと、野外で、ちょっと危ないところに行くことがありまして」
自分でもだいぶ布をかぶせた説明だと思う。
だが店員は慣れた顔でうなずいた。
「熊撃退スプレーは本当に緊急用なので、まずは単独行動を避けて、距離を取れるようにしていただくのが基本です」
正しい。
ものすごく正しい。
異世界の安全対策を東京の店員に詰められている感じがして、澪は少しだけ変な気分になった。
「ですよね……」
「あと、風向きや使用環境をかなり選ぶので、持てば安心というものでもないです」
そう言われると、急に棚の中の缶が「取り扱いが難しい最後の手段」の顔になる。
たしかにそうだ。
自分が慌てているときに、風向きを読んで、自分にかからないよう使って、しかもその後すぐ逃げる、というのは、想像しただけで難易度が高い。
必要かもしれない。
だが、最初の一手ではない。
澪は素直にうなずいた。
「じゃあ、もう少し地味な方から見ます」
店員はにこやかに「その方がいいと思います」と言って去っていった。
去り際まで正しい。
日本の店員は本当に強い。
次に澪が見たのは、マチェットだった。
棚に並んでいると、妙に堂々としている。
澪は値札を見て、それから刃の長さを見た。
「あるんだ……」
あってはいけない、という意味ではない。
ただ、都会の明るい店内で、こんなに普通の顔をして並んでいていいものなのか、という驚きである。
説明には、藪払いやアウトドア作業用と書いてある。
なるほど、と思う。
たしかに、異世界側の細い道は草も多い。邪魔な枝や蔦を払えるなら実用性はある。
だが、そこへ「振れば強そう」という発想が混ざった瞬間、危ない。
澪は自分の頭の中へ先回りして言い聞かせた。
藪払い用。
かなり原始的なキャンプ用。
戦闘用ではない。
そこは最初に自分で決めておかないと、怖さを理由にしてだんだん思考が雑になる。
怖いからって、何でも手元へ置いていいわけではない。
その線は自分で引かないといけない。
澪はマチェットを棚へ戻した。
いや、正確には一度持って、重さを確かめて、すぐ戻した。
重い。
そして、振り回す未来が自分にまるで似合わない。
「うん。これは、持ってるだけで話がややこしくなるな」
かなり重要な判断だった。
次に目が留まったのは、透明なポリカーボネート製の小型盾だった。
盾じゃん、と澪は思った。
本当に盾である。
防災用品と防犯用品と作業用具のあいだをふらついていた意識が、その瞬間だけ急に中世へ寄った。
盾。
まさかハンズで盾を見るとは思わなかった。
澪はそっと持ち上げてみた。
軽くはない。
だが、持てないほどでもない。
透明だから前が見える。
そこが妙によかった。
相手を殴るためのものではない。
ただ、間に置くためのものだ。
数秒だけでも相手との距離を作れたら、そのあいだに逃げられる。
それはすごく澪向きだった。
「これ、いいかも……」
自分の口から出た言葉に少し驚く。
盾を見て「いいかも」と思う人生が来るとは、少し前までは想像もしていなかった。
だが、いい。
かなりいい。
攻撃ではなく、防御と撤退のための道具。
そう考えると、急にまともな装備に見えてくる。
澪は盾を持ったまま、少しだけ構えてみた。
鏡に映った自分が、だいぶ何かを間違えていた。
女子大生というより、工事現場とファンタジーの境目に迷い込んだ人である。
「似合わない……」
思わず本音が出る。
だが、似合うかどうかはたぶん重要ではない。
死なないかどうかの方がずっと重要だ。
その順番を、ようやく守れるようになってきた気がした。
最後に澪が感動したのは、液体噴霧器だった。
ただの噴霧器である。
水を入れて吹ける。
それだけだ。
それだけなのに、妙によかった。
目に入った砂を流すとか、ちょっとした火を消すとか、相手の視界を一瞬だけ邪魔するとか、いろいろ使い道がある。
しかも地味だ。
地味なのがいい。
地味な道具は、だいたい言い訳もしやすい。
澪はその場で、頭の中に少し危ない組み合わせが浮かぶのを感じた。
唐辛子。
酢。
噴霧器。
いや、だめだ、と澪は即座に思う。
だめだ。
かなりだめだ。
その発想は怖がった人間がすべり始めたときの発想である。
「怖いからって、危ない人になったらだめでしょ……」
自分へ向かって、小さく言った。
そこは大事だった。
防衛側の人間でいたい。
少なくとも澪はそう思う。
怖かったからといって、翌日に自分の方が危ない側へ寄っていくのは違う。
必要なのは、逃げる時間と、帰るための手段だ。
そう決めると、選ぶものも自然と絞られてきた。
澪は結局、丈夫な手袋、小型LEDライト、ホイッスル、透明盾、それから水用の液体噴霧器をかごへ入れた。
熊撃退スプレーは少し迷って、最後に小さいサイズのものをひとつだけ入れた。
最後の保険。
使わないままが一番いいもの。
そういう位置づけにしておく。
レジへ向かう。
盾を持ち、噴霧器を持ち、ホイッスルとライトまで入った買い物かごは、冷静に見るとだいぶ事情がありそうだった。
だが、レジの店員は何も聞かなかった。
バーコードを通し、合計金額を告げ、ポイントカードの有無を確認し、袋はどうしますかと聞いただけである。
強い、と澪は思った。
現代日本のレジは強い。
こちらがどんな事情を抱えていようと、とりあえず会計を前へ進める。
余計な詮索はしない。
必要な確認だけをして、粛々と処理する。
あまりにも強い。
異世界の市場にもリュシアがいるが、現代日本にはレジがある。
そのことに、澪は妙な安心を覚えた。
会計を終えて袋を受け取ると、思ったより重かった。
だが、嫌な重さではない。
さっきまでの「どうしよう」だけの重さではなかった。
少なくともこれは、何かあったときに数秒ぶんの余裕を作るための重さだ。
そう思うと、少しだけ持ちやすい。
ハンズの明るい店内を出ながら、澪は小さく息を吐いた。
武器屋ではない。
だが、たぶんこれでいい。
自分が欲しいのは、勝つための装備ではない。
ちゃんと怖がったまま、逃げて帰るための装備だ。
その方向で選べたことが、今日は少しだけ誇らしかった。
六畳間へ戻った澪は、買ってきた袋をちゃぶ台の上へ置いたあと、しばらくそれを見ていた。
まだ開けていない。
開けていないのに、もう何かがおかしい気配だけはある。
ハンズの袋というものは、本来もっとこう、文房具とか収納用品とか、少し便利な台所道具とか、そういう平和な物を入れて帰るための顔をしているはずだった。
少なくとも澪の認識ではそうだった。
なのに今日は違う。
袋の中身を思い出すだけで、六畳間の空気がじわじわ治安を失っていく感じがある。
「……開けるか」
自分で言って、澪は袋の口を開いた。
まず出てきたのは、熊撃退スプレーだった。
いきなり強い。
次に耐切創手袋。
安全ゴーグル。
小型LEDライト。
ホイッスル。
厚手ジャケット。
マチェット。
透明なポリカーボネート盾。
液体噴霧器。
ちゃぶ台の上へ順番に並べていくたびに、女子大生の部屋としての何かが少しずつ壊れていった。
最後に全部並び終わったところで、澪は一歩下がって全体を見た。
「何を目指してるんだろう、私」
素直な感想だった。
すごい。
すごいが、方向性がまったく可愛くない。
アクセサリー制作の道具と大学のプリントがある六畳間に、熊撃退スプレーと盾が並んでいる。部屋の持ち主がどういう生活をしているのか、初見ではまるで分からない。いや、持ち主本人にも少し分かっていなかった。
澪はちゃぶ台の前へ座り込み、帳簿とは別のノートを引っ張り出した。
こういうとき、とりあえず書く。
書けば少し落ち着く。
それはもう、自分の性質として分かっている。
ペンを持ち、ひとつずつ見ていく。
最初は熊撃退スプレーだった。
見た目からして、すでに「なるべく使わないでください」という気配を全身で出している。
澪はノートへ書いた。
最後の保険。通常使用しない。
書いてから、うん、と小さくうなずく。
大事だ。
こうして先に自分で用途を縛っておかないと、怖くなったときに思考が雑になる。
怖いから持つ。
だが、怖いからすぐ使う、ではない。
そこは絶対に混ぜてはいけない。
次に耐切創手袋を持ち上げた。
しっかりしている。
普通に頼もしい。
これは好きだな、と澪は思った。
殴るためでも刺すためでもなく、手を守るための道具だからだ。そういう役割のはっきりしたものは、少し安心する。
手を守る。作業時にも使える。
そう書く。
安全ゴーグルも同じだった。
目を守る。砂埃、飛散、液体対策。
これもいい。
言い訳が立つ。
安全対策です、と胸を張って言える。
異世界へ持ち込む物の条件として、「胸を張って言い訳が立つ」はかなり大事だった。
小型LEDライトを手に取る。
これは文句なく便利だ。
暗いところを見る。
足元を見る。
逃げるとき、落とし物をしない。
いざ書き出してみると、地味な道具ほど働き口が多い。
そういうところも好きだった。
ホイッスルも同じだ。
音を出す。注意を集める。助けを呼ぶ。驚かせる。
小さいくせに、やることが多い。
「優秀だな……」
思わずつぶやく。
ホイッスルに向かって優秀だなと言っている大学生の夜は、だいぶ偏っている気もするが、優秀なのだから仕方がない。
厚手ジャケットは、もっと地味だった。
地味だが重要である。
布一枚増えるだけで、世界は意外と変わる。
こすれにくい。つかまれにくい。痛みにくい。見た目も少しごまかせる。
地味なわりに、ちゃんと人生を守る側の発想だった。
マチェットのところで、澪の手は少しだけ止まった。
ちゃぶ台の上にあると、やはり存在感が強い。
強すぎる。
異世界の行商人というより、密林へ行く人である。
「おまえは、藪払いと紐切り」
澪は小さく言い聞かせるように呟いた。
ノートにもそう書く。
藪払い用。紐切り等の作業用。戦闘用にしない。
そこまで書いて、もう一行足した。
持ち方に酔わない。
「何の注意書きなんだろう」
自分で書いておいて思う。
だが、必要だった。
刃物というのは、持った瞬間に少しだけ人間を勘違いさせるところがある気がする。何かができそうな気になる。だが、できそうな気がすることと、実際にできることは、たいてい違う。
その違いを、最初からノートへ書いておく。
かなり自分向きの対策だった。
透明なポリカーボネート盾は、改めて見るとやはり盾だった。
どう見ても盾である。
澪はそれを持ち上げ、真正面へ立ててみる。
前が見える。
そこが本当にいい。
相手との間へ置く。押し返さない。ぶつけない。距離を作って逃げる。
数秒ぶんの壁。
そうノートへ書く。
数秒ぶんの壁、という言葉が、自分でも少し気に入った。
大げさではない。
だが、たぶんその数秒があるかどうかで、けっこう違う。
最後に液体噴霧器を手に取る。
ただの噴霧器。
ただの、がつくのに、妙にえらい。
水専用。
洗浄、消火、視界妨害補助。
そこまで書いてから、澪はペン先を止めた。
唐辛子。
酢。
噴霧器。
いや、だめだ。
その発想は昨日の夜にも止めた。
今日も止める。
怖いからって、危ない人になったらだめだ。
それは大事だ。
かなり大事だ。
澪は用途欄の最後に、わざわざこう書いた。
水専用。混ぜない。
書いてから、だいぶ真面目だなと思う。
だが、怖いときの自分は信用しすぎない方がいい。そういう自己認識は、もうそれなりにある。
全部を書き終えたところで、ノートの端を指で押さえながら、澪は小さく息を吐いた。
少し落ち着いた。
ただ買ってきた物の山だったものが、役割を持った瞬間に少しだけ扱いやすくなる。
人は意味があると少し安心するらしい。
意味のない恐怖は広がるばかりだが、意味のある道具はちゃんと棚に戻せる。
そこが違った。
澪は、ちゃぶ台の上の装備を順番に見回した。
いまなら少し分かる。
これは勝つための並びではない。
帰るための並びだ。
そこを間違えなければ、たぶん自分はまだ自分の側にいられる。
そう思えた。
そこで澪は、厚手ジャケットを羽織った。
手袋をつける。
ゴーグルをかける。
透明盾を持つ。
鏡の前へ行く。
そして、しばらく無言になった。
「工事現場に行く人だ、これ」
率直な感想だった。
だいぶ工事現場寄りである。
異世界市場へ行く大学生ではない。
かなり安全意識の高い現場担当者か、ちょっと事情のある防災訓練の人である。
盾まで入ると、もはやコントの気配すらあった。
似合わない。
とても似合わない。
澪は鏡の中の自分を見ながら、少しだけ落ち込んだ。
だが、その落ち込みは長く続かなかった。
「いや……工事現場に行く人は、安全を考えてる人だよね」
そう言ってみる。
言ってから、自分で少しだけ納得した。
たしかにそうだ。
工事現場の人は、危険を舐めていない。
危ない場所へ行くから、装備をする。
それは別に格好悪いことではない。
むしろ、あとから無傷で帰るためのまっとうな知恵だ。
「じゃあ、いいか」
澪は盾を少し下げながらつぶやいた。
いいのだと思う。
少なくとも、無防備で路地に入るよりはずっといい。
自分に似合うかどうかより、自分が次も帰ってこられるかどうかの方が、今は大事だった。
全部は持てない。
そこも現実である。
熊撃退スプレー、盾、噴霧器、ライト、ホイッスル、手袋、ゴーグル、ジャケット、マチェット。
全部を持って異世界へ行ったら、今度は自分が怪しすぎる。
行商人というより、装備の過積載だった。
澪は一つずつ見ながら、持ち込む優先順位を考えた。
ライトはいる。
ホイッスルもいる。
手袋も、噴霧器も、たぶん役に立つ。
盾は迷う。
だが、あの数秒ぶんの壁は捨てがたい。
マチェットは……作業用として持つにしても、最初からはやりすぎかもしれない。
熊撃退スプレーは最後の保険だから、すぐ使う前提にはしない。
そうやって実務で切り分けていくと、装備の山は少しずつ「今いるもの」と「まだ要らないもの」に分かれていった。
ロマンではない。
勢いでもない。
運べるか、使えるか、逃げる助けになるか。
その基準だけで残していく。
それが自分には合っていると、澪は思った。
ちゃぶ台の上には、まだ何かを間違えたような装備の列が並んでいる。
だが、その間違え方も少しずつ整理されてきた。
怖かったから買った、で終わらない。
どう使うかを決めて、どこまで持つかを決めて、はじめて自分の道具になる。
そこまで来てようやく、澪はこの買い物が単なるパニックの産物ではなく、ちゃんと次の一歩の準備になりつつあるのだと感じた。
翌日、澪はリュックの中身を何度も確認してから押入れを開けた。
確認したところで、中身が増えるわけでも減るわけでもない。
だが、人は不安なとき、確認という名の儀式をやりたがる。
しかも今回は、鏡や針だけではない。
ホイッスル、小型ライト、手袋、液体噴霧器、そして透明な盾まで入っている。
リュックの中身として、だいぶ事情があった。
「どう見ても、普通の荷物じゃないな……」
そう呟いてから、澪は少しだけ嫌な顔になった。
普通ではない自覚はある。
あるが、普通ではないからといって、無防備の方へ戻るつもりもない。
そこはもう決めた。
怖かったからこそ、次は準備して行く。
少なくとも、何も持たずに細い路地へ入る前の自分には戻りたくなかった。
石畳へ出ると、いつもの市場の音が朝の空気の中で広がっていた。
荷車の軋みと、呼び声と、鍋の匂いと、人の足音。
昨日も同じように鳴っていたはずなのに、今日は少しだけ聞こえ方が違う。
賑やかな音の中に、道を間違えると危ないという意味まで混ざって聞こえる。
知ってしまった以上、前と同じには戻れないらしい。
市場裏の倉庫の横まで行くと、リュシアが木箱に肘をついて待っていた。
こちらを見るなり、目が止まる。
リュックではない。
澪の手に持っている透明な盾の方だった。
「……何それ」
第一声がそれだった。
澪は少しだけ持ち上げて見せた。
「盾です」
「見れば分かるよ」
ごもっともである。
さすがにそこは自分でも思った。
今日の私はだいぶ説明の入口が雑だな、と澪は少しだけ反省する。
だが、盾は盾だった。
言い換えようがない。
「前が見えるので」
澪がそう言うと、リュシアは盾を受け取り、表からも裏からも見た。
手の当て方を確かめ、光にかざし、少しだけ構える。
その動きが妙に自然で、澪は一瞬だけ「この人、盾までうまいな」と思った。
いや、盾にうまい下手があるのかは知らない。
だが、少なくとも自分より絵になっていた。
「前が見えるから、逃げる先も見える」
リュシアはそう言って、澪へ盾を返した。
「逃げる時間を作る道具ね」
澪はその言葉に、少しだけ救われた気がした。
それでよかったのだ。
変な物を買ってしまったのではないか、少しだけ大げさに走ったのではないか、昨夜からそのへんは地味に不安だった。
だが、リュシアがそう言うなら、たぶん間違いではない。
「正しいよ」
リュシアはあっさり言った。
そのあっさりさが、妙にありがたい。
褒められているのに、浮つかない。
評価というより確認だった。
あなたが考えた方向は間違ってない、という確認だ。
次にリュシアの目が留まったのは、熊撃退スプレーだった。
澪がリュックの中からそれを出した瞬間、リュシアは顔をしかめた。
「ミオの国は、発想が嫌ね」
ずいぶん率直だった。
だが、気持ちは少し分かる。
自分だって最初に棚で見たときは「あるんだ……」と思ったのだ。
「熊用です」
「熊がいるのかい、ゲンダイには」
「場所によると思います」
「嫌だね」
それだけ言ってから、リュシアは少しだけ真面目な顔になった。
「で、それは使うのかい」
澪は首を横に振った。
「できれば使わないです。最後の保険です。普通は持ってるだけで終わるのが一番いいやつです」
自分で言いながら、かなり夢がない説明だなと思う。
だが、夢がなくてもいい。
最後の保険は、夢がないくらいでちょうどいい。
リュシアはスプレーを見て、また小さく顔をしかめた。
「使わない方がいい道具なら、まあいい」
認め方がだいぶ渋い。
だが、認めてはくれた。
その渋さも込みで、いまはありがたかった。
リュシアは次に液体噴霧器をつまみ上げた。
透明な本体に、水が少しだけ入っている。
昨夜のうちに試し吹きもした。
水専用である。
そこはノートにも大きめに書いた。
「これはまた、ずいぶん地味だね」
「地味なものほど、事故りにくいです」
反射でそう返すと、リュシアは一拍置いてから笑った。
「嫌な説得力だね」
嫌なのだろうか、と澪は少し思う。
だが、嫌かどうかより先に、たぶん本当だった。
派手なものは派手に問題を起こしやすい。
その点、水はかなり平和である。
「目に砂が入ったときとか、ちょっとした火とか、そういう時にも使えるので」
「逃げる時にも?」
「たぶん」
そこでまた、たぶんが出た。
やっぱりそこを拾うのだろうなと思ったら、案の定リュシアは少し眉を上げた。
「たぶん、ね」
澪は少しだけ肩をすくめた。
「まだ実地検証前なので」
「言い方が商売っぽくなってきたね」
それは褒められているのかどうか、かなり微妙だった。
だが、前よりはたしかに少しだけ「持ってきて置く人」ではなく、「どう使うかまで考える人」へ寄っている気はした。
それが商売っぽいのか、防災っぽいのかは、自分でもまだ少し分からない。
リュシアは木箱から腰を上げ、澪の前まで来た。
それから、さっきまでの軽い顔を少しだけ引っ込めて言った。
「ミオ」
「はい」
「あなたは商人だ」
その一言で、澪は自然と背筋を伸ばした。
リュシアの声は大きくない。
だが、こういうときだけ妙にはっきり入ってくる。
「だから、勝たなくていい」
澪は一瞬、目を瞬いた。
勝たなくていい。
その言葉が、頭の中で少しだけ遅れて広がる。
「倒さなくていい」
リュシアは続けた。
「逃げて、また来ればいい」
そこでようやく、澪は息をついた。
ああ、と思う。
たぶん、そこだったのだ。
昨夜からずっと探していた答えは。
勝つ準備ではない。
倒す準備でもない。
逃げて、帰って、また来るための準備。
それなら、自分にも分かる。
それなら、自分がやろうとしていたこととちゃんとつながる。
ホイッスルも、ライトも、手袋も、盾も、噴霧器も、全部その言葉の中へ収まる。
勝つための装備ではなく、また来るための装備。
そう思った瞬間、ちゃぶ台の上でごちゃごちゃしていた昨夜の買い物が、少しだけきれいに並び直した気がした。
「……はい」
澪は小さく答えた。
その返事には、昨日までより少しだけ芯があった。
リュシアはうなずいた。
「それでいい」
それだけ言って、もういつもの軽い顔に戻る。
「死なないで戻ってきて、また売ればいいんだよ。商人はそこが強いのさ」
その言い方に、澪は少しだけ笑った。
強い、という言葉が、自分の知っている強さと違う意味で使われているのがよかった。
殴り勝つことでも、追い払うことでもない。
戻ってくることが強さになる。
そういう世界なら、自分にも少しはやれそうな気がする。
その日の夕方、六畳間へ戻った澪は、ちゃぶ台の前で帳簿を開いた。
新しいページをめくる。
少しだけ迷ってから、上の方へ書いた。
商売の目的
それから、その下へ二行。
死なずに帰ること
レシートをなくさないこと
書いてから、澪はしばらくその二行を見た。
「並ぶんだ……」
思わず呟く。
生死とレシートが、同じページに並んでいる。
しかも、どちらも本気で必要なこととして並んでいる。
だいぶ妙だった。
妙だが、間違っていない気もする。
どちらかだけでは足りないのだ。
生きて帰るだけでも、帳簿がなければ続かない。
帳簿だけきれいでも、死んだらやはり終わる。
そう考えると、この二行は意外とちゃんとした順番で並んでいるのかもしれなかった。
澪はその下へ、今日の日付を書いた。
インクが紙へしみていく。
押入れの向こうの石畳と、江古田の六畳間が、またこうして紙の上でつながる。
商売というのは、売ったときより、帰って書いたときの方が少しだけ本物になるのかもしれない、と澪は思った。
勇者の盾ではない。
魔法の道具でもない。
明日も帰ってきて、また帳簿をつけるための装備。
いまの自分が持つべきものは、たぶんそっちだった。