朝、澪はアパートの入口から少し離れ、会社が買った建物を見上げた。
郵便受けも外階段も、その上に並ぶ玄関も、昨日帰ってきた時と変わっていない。
真壁は敷地の図を挟んだ板を持ち、理央は記録用のノートを開いていた。
「まず、何からします?」
「鑑定だ」
「建物全部ですか?」
理央が聞くと、真壁は図の外周へ指を置いた。
「全部だ。外から見える部分だけで済ませるつもりはない」
澪は買う前に受け取った調査の資料を、鞄から出した。
今度は、自分たちの《鑑定》で、見えていなかった所も調べる。
「押し入れ本体には、手を入れないでくださいね。そこだけは、最初にお願いします」
「承知している。残すための診断だ」
真壁は澪の部屋の位置へ印を付け、図をこちらへ向けた。
それを理央も自分のノートへ写してから、3人は別々の位置へ散った。
澪は東側で、基礎の地面に近い部分から《鑑定》した。
目で見ていたコンクリートの表面に加え、細かなひびと、その近くに残る湿りが、自分にだけ見える表示へ浮かぶ。
対象を配管へ絞ると、古い管の状態も読み取れた。
どれも、玄関へ帰る途中で眺めているだけでは、分からなかったものだ。
「……これ、住んでて分からないですよ」
澪が声を掛けると、柱の位置を調べていた真壁が振り向いた。
「だから見るのだ。場所と状態を、図へ残したまえ」
澪は表示を見せようとはせず、ノートへ位置と読み取れた内容を書いた。
建物の角を基準にした印も添え、真壁へ渡す。
西側から戻った理央は、その紙を見て、東側へ足を移した。
「ここも、別に見ていいですか?」
「お願いします。私が範囲を取り違えていないか、合わせたいので」
理央の目が地面と基礎の間で止まった。
自分の《鑑定》を終えると、彼女はノートへ書いてから、澪の記録の横へ置く。
「私の方も、同じ場所で状態が落ちています。管のこちら側も」
3人が読めるように、真壁が2枚の紙を板へ留めた。
住人が出てきたので、澪たちは入口への道を空ける。
挨拶を返して足音が遠ざかるのを待つと、澪はもう一度、手元の図へ目を下ろした。
さっきまで何もなかった余白に、調べるべき場所が増えていた。
午前の診断を終え、共用廊下の通行を妨げない所で紙を揃えると、澪のノートだけでは足りなかった。
真壁が板の上へ全体の図を置き、理央が別々に書いた結果を、その位置ごとに合わせていく。
澪は東側の基礎へ付けた印を見た。
「少し下がっているんですね、こちら側だけ」
「微小な不同沈下がある。下の地盤を、もう少し絞って調べよう」
真壁が、基礎の下へまだ幅を持たせた線を引いた。
その近くに澪が写したのは、排水管から周辺へ広がった、漏水の跡だった。
「今、ずっと漏れているというより、前に濡れた所が残っているんですね」
「そう読める。経路と土の状態を照らせば、範囲を狭められる」
真壁の紙には、鉄骨の柱脚と、アンカーの周囲にも書込みがあった。
澪は目の前の壁へ顔を向けたが、仕上げの向こうにある腐食は、目では見えない。
「よく普通に住んでましたね、私」
「今日明日で倒れる建物ではない」
「ちょっと安心しました」
澪が息を吐くと、真壁は建物全体を描いた方へ紙を戻した。
「新耐震基準後の建物で、構造の基本は使える。だが、今後も長く使い続けるなら、話は別だ」
「買ったばかりで聞くと、なかなか重いですね」
理央は言いながら、柱脚の印を囲む。
そこを見直し、澪もペンを持ち直した。
屋上防水の劣化は、先に受けた調査でも聞いていた。
今日の《鑑定》では、外壁の内側へ入った雨水の跡まで、場所を追って残している。
「表から直すだけだと、中に傷んだ物が残りますね」
澪が書き写した断熱材の状態を示すと、真壁は頷いた。
「構造を支える所から手を入れる。仕上げだけ新しくしても、順序が逆だ」
理央は給排水と電気の記録を、構造の紙から分けた。
「管は更新する方がよさそうです。配線も、全部ではないですけど、接続部ごと替えたい所があります」
口頭で場所を伝えてから、彼女は対応する図へ付箋を挟む。
澪はその束を受け、住人が水や電気を使っている玄関の方を見た。
「日程は、管理会社を通して先に知らせます。部屋へ入る所も、同意をいただいてからですね」
「隣室は、予定どおり明渡しになるそうだ。そちらを資材の仮置きと作業にも使える」
真壁が、管理会社から届いた連絡の紙を添えた。
売買による退去ではなく、もともと決められていた引越しの日が書かれている。
澪は残る4戸の工事を、その日以降の予定と分けて考えた。
「建て替えなくても、直せるんですよね」
「既存の躯体を強化すればよい。残すべき場所も、それで守れる」
澪は部屋の奥の襖を思い浮かべ、診断の紙を閉じずに重ねた。
今朝は、傷んだ所を少し直すつもりで来た。
地盤から部屋まで載った図を、もう見なかったことにはできなかった。
東側の外周へ戻ると、澪は朝の診断で立っていた場所を、図と見比べた。
足元の土は乾いているのに、その下に湿った所がある。
真壁がしゃがみ、地面へ手を置いた。
「基礎の下へ対象を絞る。まず、ここから見直そう」
澪も腰を落とし、地盤の状態を《鑑定》で確かめた。
地面全体をぼんやり見るより、支えになっている層へ意識を向けた方が、読み取る場所を間違えずに済む。
密度が周囲と揃わない部分へ来ると、澪は図に残した仮の線を指で辿った。
「地面の中まで、分かるんですね」
「対象を絞ればな。見えた範囲を残して、位置を変える」
真壁が立ち上がり、澪も少し先へ移った。
同じ場所を別の位置から見直すと、弱い層がどちらへ続いているかを、紙の上で狭められる。
理央はさらに離れた位置で《鑑定》を終え、ノートへ写していた。
「私が見た範囲だと、ここまでです。東側が少し低い理由も、これなら合いそうです」
彼女が図へ線を加え、澪は自分の紙を横へ置いた。
端の位置が曖昧だった所は、3人でもう一度、立つ場所を変えた。
足元からどこまでも透けて見えるのではない。
読み取れた範囲をつなぐたびに、直す対象が小さく、具体的になっていった。
澪は排水管の位置も照らした。
古い漏水の跡から、周りの土が緩んだ所へつながる。
「この管の近くから、広がっています。土だけ直して、管を残したら、また同じことになりますね」
「配管の更新も合わせる。だが、今は先に、建物を支える部分を整える」
真壁は管の線を残したまま、その隣へ補強の位置を書き込んだ。
澪は紙を受け、実際の地面へ目を下ろす。
毎日、部屋で立ったり寝転がったりしていた重さも、ここを通って地面へ届いていた。
床が平らだから、その下も何も変わっていないのだと思っていた。
「下から、直すんですね」
「そうだ。順序を間違えなければ、上を残したまま進められる」
理央が最終的に合わせた範囲を清書し、真壁が施工する小さな区分へ分けた。
澪は地面へ触れていた手を払い、その紙を、調査の束とは別の所へ挟んだ。
日程を知らせ、資材を揃えてから、3人は東側の外周へ作業用の囲いを設けた。
入口への通路は残し、土を扱う場所へ、住人が入り込まないよう分けてある。
真壁は仮に支える部材を据え、図で最初の区分を示した。
「この範囲だけだ。下の土を抜く前に、保持を合わせる」
理央が紙を置き、対象を《鑑定》してから《重力》を使った。
建物の下の一部に掛かる荷重を、作業の間だけ軽くする。
真壁は支えが効いていることを見て、澪へ手順を渡した。
澪は埋まっている管と基礎を対象から外し、緩んだ土へ意識を絞った。
《収納》の分類と探索で、取り出すものの境を確かめる。
地面の端へ靄が寄ると、指定した土だけが抜けていった。
シャベルで大きくえぐった穴ではなく、必要な所にだけ、土のなくなった空間ができる。
澪は出ている配管へ目を向け、残す物が動いていないことを《鑑定》で見直した。
「地面の中を、こんなふうに掘るの、反則じゃないですか?」
「使える技能を使っているだけだ」
真壁はすでに次の部材を手にしていた。
「ここまでで止める。先に置換と補強を済ませよう」
澪は靄を引かせ、抜いた土を収納内で工事用の区分へ分けた。
量を記録した理央は、次の穴を見る前に、残った地盤を独立して調べる。
「周りは、抜く前と変わっていません。管も残っています」
口頭の報告を受けてから、真壁が準備した砕石と補強材を所定の位置へ納めた。
《土木》と《建築》で組んだ順序に沿い、荷重を受ける先を、1か所ずつ作っていく。
澪も補強体の位置を紙へ写し、元の基礎とどうつながるかを辿った。
抜くことは速い。
その速さに、次へ進めるかどうかまで合わせるわけではなかった。
「工事現場の人が見たら、驚くと思います」
理央が言うと、真壁は部材を固定した手を戻した。
「安全に早くできるなら、問題あるまい。保持を少し戻して、確かめよう」
理央が荷重の軽減を弱める間、澪は《鑑定》で変化を追った。
真壁の支持と新しい補強が受け止めていると分かると、理央は最後まで《重力》を解除した。
立っている場所の下へ、重さが戻る。
3人の結果を記録してから、澪は次の区分を示した図を受け取った。
真壁は、まだ抜いていない地面の側へ、新しい線を描いていた。
真壁が板へ描いている線は、補強する場所を囲んだものより、ずっと大きかった。
澪は抜いた土の記録を横へ置き、図を覗き込んだ。
「それ、補強の線じゃないですよね」
「地下空間だ」
「いつ地下室を作る話になったんですか?」
「掘ったのなら、有効利用すべきだろう」
理央が自分のノートを見て、すぐに顔を上げた。
「まだ、ほとんど掘ってませんよ」
澪もその通りだと思い、真壁の図へ目を戻した。
彼は今日抜いた部分へ線を重ねず、既存基礎の位置を残して、敷地側から設ける空間を描いている。
「下を全部、空っぽにするわけではないんですね」
「無論だ。既存の支えと干渉しない位置から設ける。地下の躯体も、基礎を強化する側へ組み込む」
真壁のペンが、出入口と、換気、排水の位置へ動いた。
澪は紙に載った空間を、目の前の地面へ当てはめる。
「何を入れるんですか」
「非常電源と、水、備蓄。工具や補修資材も置ける。6世帯が、有事に一時避難する場所も残す」
澪は止めるために開きかけた口を、そのまま次の質問に使った。
「電池だけで、場所を全部取ったりしません?」
「人が入る所は、設備から分ける。持ち出す物の棚も、通路を塞がぬ位置へ置く」
理央が図の入口から線を辿り、真壁はその前に描いていた棚の位置を少し寄せた。
広大な地下ではないので、好きな物を置いた後で、人の場所を足す余裕はない。
澪は6戸の玄関を思い浮かべ、非常用の水を誰が使うかまで考えた。
「その用途なら、会社用だけにはしません。住んでいる人の分を先に確保します」
「そのつもりだ」
真壁の返事は早かった。
澪が新しい紙を出す頃には、用途の載った図が、補強の図と隣に並んでいる。
「地盤を直す話、でしたよね」
「今も、その話だ」
「部屋が増えてますけど」
真壁は地下躯体と基礎がつながる所へ指を置いた。
澪はそこを読んで、否定する代わりに、材料と設備の費用を尋ねた。
「全体を更新するなら、購入分で6,000万円から7,000万円を見込む。取得分と合わせ、1億3,000万円から1億4,000万円ほどになる」
「修繕の見込みと、桁が違うんですけど」
「当面傷んだ所を直す案から、設備と基礎ごと長期利用に整える案へ変わったからな」
澪は図を取り、自分の名前を書く欄ではなく、会社の支出予定へ入れる位置を探した。
22億円の納付分に手を付けず、購入とは別に用意する資金だ。
「日程も組み直します。必要な手続きと、管理会社への説明を済ませてから、こちらを進めましょう」
「よかろう。今日の部分は、予定どおり補強を終える」
理央が新しい図へ日付を書き、澪は元の作業範囲が残っている方を受け取った。
地下室の話は増えたが、足元の土を一度に抜く範囲は、増えなかった。
準備と手続きを整えた後、工事は、日ごとに図の印を塗り替えながら進んだ。
掘る区分を替え、支えを作り、地下の躯体が強度を得るまで待つ。
その間には、別の場所で、既存の鉄骨に手を入れることができた。
澪は真壁と共用部の壁を調べ、必要な仕上げの範囲だけを靄へ収めた。
薄い内装材の向こうから、傷んだ断熱材と、柱の足元が現れる。
見えない時に写した腐食の位置は、実物を出すと、想像していたより近かった。
「この壁の裏に、あったんですね」
澪がノートを開くと、理央も自分の《鑑定》で、補強する箇所を見直した。
「範囲は、先に書いた所と同じです。取り除いた側の材料も、照合できました」
《並行思考》で作業前の記録を追いながら、彼女は別の頁に、露出した状態を描いた。
真壁は支持の位置を決め、理央へ対象を伝えた。
《重力》の荷重軽減を合わせてから、腐食した部分の処置と、柱脚、アンカー周辺の補強へ進む。
残す鉄骨まで一緒に抜かず、使える所を見て、補強材を納めていく。
澪は必要な範囲の古い断熱材を取り出し、真壁が部材を固定するための場所を空けた。
壁を大きく剥がす必要がありそうに見えた所も、作業のための開口だけで済んでいた。
「《収納》って、建築と相性よすぎません?」
「今頃気づいたのかね」
真壁が答える間にも、次の補強位置は図へ加わっていた。
「真壁さん、楽しんでません?」
理央が聞くと、彼は取り付けた部材の側へ目を戻した。
「効率がよいだけだ。こちらを独立して見てくれたまえ」
「返事するより、次が早いです」
理央は笑いながらも、《重力》を支えの代わりにし続けず、固着と荷重の戻りを確かめた。
澪の《鑑定》でも新しい補強が機能していると分かってから、その範囲の保持を終える。
真壁は別の壁へ進み、必要な位置に追加のブレースを据えた。
澪は壁が塞がる前に、その状態を記録した。
外壁内部へ雨が入っていた所も、濡れた材料を替えるだけで済ませず、入る経路を先に塞いでいく。
屋上の防水も合わせて更新し、乾燥を待つ日は、配管や室内に使う材料を揃えた。
夕方には作業した範囲を閉じ、共用廊下を住人の使う状態へ戻す。
澪は理央を送ってから、その日直した壁の前を通って、自室へ帰った。
まだ古いままの部屋でも、下の支えが順に変わっていることを、ノートの印で知っていた。
翌朝、真壁が地下躯体と既存基礎の接続を示すと、澪は前日の紙を出した。
新しい地下の壁は、空間を囲むだけでなく、建物を受ける補強の一部になっていた。
理央が施工前後を照らし、支えを外せる区分へ日付を書き入れる。
澪は足元の基礎を見てから、その上の、いつもの自分の窓へ目を移した。
配管の工事に入る朝、澪は共用部へ出した断水の知らせと、手元の時刻を見比べた。
管理会社を通して、各戸の作業日と、入室する範囲の了承を得ている。
明渡しを終えた隣室には、新しい管や交換用の機器を、真壁が作業順に揃えていた。
「これ、住んでる人、工事してるって気づきます?」
理央がほとんど解体されていない壁を見て言った。
「さすがに、水を止めたら気づきます」
澪は答え、止める前の水が出ていることを確かめた。
真壁が供給を止め、交換する区間の水を抜く。
理央は開始時刻と、影響する住戸をノートへ書いた。
《並行思考》で施工位置と停止の記録を追っているので、管の頁と時刻の頁を混ぜずに済む。
室内の作業部分は囲いで仕切り、住人には復旧まで別の場所で待ってもらった。
澪は対象の古い管を《鑑定》した。
真壁の図と位置を合わせ、壁の内側から交換する部分だけを靄へ収める。
古い管は抜けたが、周囲の壁と、残す接続先はそこにあった。
「抜けました。残す側は、この位置です」
澪は口頭で伝え、図にも印を付けた。
真壁が最小限の開口から新しい管を通し、接続を仕上げる。
理央は塞ぐ前の状態を自分で見て、古いものが通っていた経路と照らした。
澪も漏れと接続の状態を読み、真壁へ結果を伝える。
通水を戻すと、蛇口の下へ水が落ちた。
見える所で流れているだけでなく、壁内と床下にも漏れていないことを、もう一度確かめた。
「復旧です。この部屋の分、書いてください」
澪の声で理央が時刻を残し、空けてもらっていた場所へ、住人を案内し直した。
「もう、使えますか?」
「はい。お待たせしました」
相手は水を出してから、知らせに書かれた終了予定の方を見た。
「思ったより、早かったですね」
澪は挨拶を返し、工具を片付ける真壁と、次の作業場所へ移った。
電気の更新でも、告知した時間に該当する回路を止め、無通電を確かめてから手を入れた。
古い配線と接続部を分けて外し、新しい経路は、壁を傷める範囲を絞って通す。
閉じる前に理央が別に調べ、復旧後には、照明や機器を実際に動かした。
ノートへ工事の終わった時刻が並ぶと、澪は翌日に止める住戸の予定を開いた。
明日の開始予定へ丸を付け、配った知らせと同じ時刻になっているか、指で照らした。
窓の更新をする日は、澪が先に、入居者の荷物を動かす範囲を尋ねた。
残る4戸は、今も誰かの家なので、自分の持ち物のようには収納できない。
同意を受けて作業場所を空け、断熱材と傷んだ内装の必要な部分へ手を入れた。
真壁が窓へ新しい内窓を納めると、澪は閉じた状態を確かめた。
外階段の音が、さっきよりも遠く聞こえる。
作業を終えて戻ってきた住人も、窓の前で手を止めた。
「ここに、もう1枚あるんですね」
「はい。開け閉めは、こちらです」
澪が取っ手を示し、相手に動かしてもらった。
先に水回りを直した部屋で、今度は窓の使い方を一緒に確かめている。
古いエアコンも交換し、運転すると、壁際から風が広がった。
住人がリモコンを持ち、付けたばかりの機器と、新しい窓を交互に見た。
「あの、これ、家賃上がります?」
澪は手にしていた説明書を机へ置いた。
「今回の改修では上げません。今の契約のままです」
「そうなんですか」
相手はもう一度窓を閉じ、リモコンを、普段置いているらしい所へ戻した。
澪は新しい説明書もその隣へ揃え、玄関の錠の説明に移った。
鍵を替える日は、その場で新しい鍵を渡し、古い鍵のまま帰ってきて困らないよう、管理会社の記録とも合わせる。
モニター付きのインターホンを試す時には、理央が共用廊下側へ立った。
画面へ彼女の姿が出ると、室内から応答した住人が、小さく笑った。
理央が挨拶を返して戻り、澪は表示と呼出しの両方へ印を付けた。
別の日には、照明と火災報知設備を更新し、傷んだ壁の仕上げを閉じた。
玄関の内側へ残す説明書が増えるたびに、その場で使い方を試してから、次の部屋へ移る。
共用部でも、真壁が照明と防犯カメラの位置を決め、入口の邪魔にならない所へ宅配ボックスを据えた。
澪は蓋を開け、荷物を取り出す動作を試した。
自転車を避けて歩く幅は、残っている。
「大家さんになった直後から、ここまでやる人います?」
理央の声に、澪は蓋を閉じた。
「私に聞かないでください。真壁さんに聞いてください」
「必要な整備をしているだけだ」
真壁は明かりの位置を図へ写していた。
澪は新しいボックスと、貼り替えた工事予定の紙を見比べた。
「必要な物が、見つかるたびに増えてません?」
「それで住みやすくなるのなら、よいではないか」
奥の部屋から、新しい錠で鍵を掛ける音がした。
澪はそちらへ会釈し、次に使う機器の説明書を、理央から受け取った。
自室の工事に入る日、澪はローテーブルの上を片付け、生活の書類を1つの箱へ入れた。
棚の物と工事用の資料を分けてから、自分の持ち物を順に《収納》する。
寝具と当面使う衣類は別に取り出し、新事務所へ運ぶ分としてまとめた。
「部屋が使えるまでは、そちらで寝ます。戻す物は、全部こっちへ残しておきます」
澪が収納の区分へ目を向けると、理央は床へ置いた図を拾い上げた。
「テーブル、なくなると違いますね」
「……広い」
「元から、この広さです」
棚も生活用品も消えた六畳間で、澪は窓から押し入れまで見渡した。
いつもは机の横を避けて歩いていたので、何もない床を、つい大股で進みたくなる。
真壁は入口で止まり、手元の施工図を開いた。
床、壁、天井へ加わった線の中で、押し入れの所だけは、元の輪郭が残っている。
「押し入れだけは、触らないでください」
最初の診断の時にも伝えたが、今、部屋が空くと、もう一度言っておきたくなった。
「承知している。そこは残す」
真壁は図の境を指で辿り、周辺の床と梁の方を示した。
「本体へ打ち込まん。枠も襖も動かさず、周囲に手を入れる」
澪は引手へ指を置いた。
開ければ向こうへ行けることは分かっていても、削ったり、位置を変えたりしたらどうなるかは、試していない。
試すために、ここを失うつもりはなかった。
理央が押し入れの位置と、加工しない境を、自分のノートにも写した。
「私も、ここを基準にして、前後を見ますね」
「お願いします、理央ちゃん」
澪は手を離し、襖の前へ立てた養生材を確かめた。
押し入れには留めず、工事の側から接触しないために囲ってある。
真壁が床下を調べ、澪は指定された範囲の古い畳と仕上げを収納した。
上から見えなかった支えが現れると、理央はしゃがみ、露出した所を改めて《鑑定》する。
澪は薄い床の向こうにある梁を見て、自分がここで寝ていた時のことを思い出した。
「直すなら、音も、冷暖房も、ちゃんとしたいです」
「そのための材料は揃えてある」
真壁は床下の補強位置を決め、その上へ重ねる遮音の層も示した。
澪は部屋の工事の紙を手前へ引き、窓と水回りの頁を開く。
替えたい物は増えるのに、残す物は、目の前の1か所から動かなかった。
床下の補強を終えると、澪は重ねる材料を1つずつ出し、真壁の指定する位置へ置いた。
遮音の層が納まり、新しい畳が入る前に、理央が床の内側を独立して調べた。
壁と天井にも遮音材を入れ、断熱を閉じる時には、澪が古い材料を取り出した位置と照らす。
すべて塞いでからでは見直しにくい所を、理央は施工の順に記録していた。
窓へ二重サッシが入ると、澪は内側を閉じてみた。
通りから来る音が薄くなり、3人の足音の方が近く聞こえる。
「今まで、こんなに外の音が入っていたんですね」
新しい空調を動かすと、入口のキッチンにいる間にも、部屋の空気が変わるのが分かった。
まだ物を戻していない床の上を、澪は何度も行き来した。
新しい玄関扉には電子錠が付き、手元に残す物理鍵でも開けられる。
真壁が受けの位置を合わせ、澪は自分で閉め、もう一度開けた。
「電気が止まっても、こちらの鍵は使えますね」
「物理鍵も、手元へ残しておきたまえ」
理央が引渡しの記録を付け、澪は古い玄関の鍵と混ぜないよう、新しい方を分けた。
水回りも、古い設備を外してから、キッチン、浴室、トイレを順に納めた。
新品の台所へ手を置くと、いつも物を寄せていた角にも傷がない。
澪は蛇口をひねり、水の流れる音を聞いた。
理央が床下を調べ終えるまで、下に漏れが出ないか、自分でも読み取る。
真壁は玄関と窓の開閉を検知する機器を付け、澪はその反応を記録へ合わせた。
水漏れを拾う位置は配管の近くに、煙と熱の検知は、それぞれ機器の指定に沿う場所へ納める。
振動と停電の検知も、実際の設備と結び付けて残した。
書込みが増えた理央のノートを見て、澪は部屋の端へ目を移した。
高速の有線LANの端子と通信設備が収まり、その隣には、重要な機器へ使う独立したUPSがある。
「ここで、机を使えますね」
「非常電源からの系統も分けてある。全体の試験では、切替えまで合わせる」
真壁が答え、澪はローテーブルを戻す位置へ、小さな印を置いた。
工事の後半には、押し入れ周囲の仕上げに入った。
床と梁を強化し、壁の耐火と遮音を整える間も、養生の向こうの本体には触れない。
周囲の防水は、水が来ても襖の側へ集まりにくい経路にし、古い枠へ新しい部材を打ち込むことはなかった。
非常灯と通信の機器が収まると、澪は養生材を、手前の工事側から外した。
新しい照明に照らされた部屋の奥へ、古い襖が出てくる。
「ここだけ、時間が止まってません?」
理央が言うと、澪は枠へ目を留めた。
「ここは、変えられないんです」
「変える必要もない」
真壁は周囲の工事を終えた図へ、日付を書いていた。
「普通、重要なら新しくするんですけどね」
「交換できないのなら、周囲を守ればよい」
澪は新品の床から、使い慣れた引手へ視線を戻した。
そこへ掛ける手の位置だけは、前と同じだった。
隣室へ机を入れる時、真壁は壁際でなく、地図を広げられる面へ視線を通せる位置を選んだ。
澪は指定された場所へ大型の机を出し、玄関から通れる幅を確かめた。
その上へ複数のモニターが並ぶと、窓より、机の方へ顔を向けたくなる。
壁面には施錠できる資料庫が収まり、小型金庫は、出入りする人から手の届かない側へ置かれた。
理央がノートを持ったまま、来客用テーブルの横へ立つ。
入口から机、資料、通信設備へと目を動かしてから、部屋の奥を見た。
最低限のベッドは、そこにあった。
「これ、家ですか?」
澪が聞くと、真壁は椅子を机へ寄せた。
「そうだが?」
「会議室に、ベッド置いただけじゃないですか」
「寝られるなら、居室だろう」
理央がベッドとモニターを交互に見て、澪も同じ順で見てしまった。
部屋には台所と生活に使う設備もあり、たしかに寝起きはできる。
ただ、起きたら、そのまま打合せを始められる。
「起きてすぐ、仕事する場所に見えます」
「移動の手間が省ける」
真壁はそう言って、壁面に図面を広げた。
貼り出す範囲を決め、灯りの向きまで合わせている。
澪は来客用の席へ腰を下ろし、机の向こうの真壁を見た。
「やっぱり、司令室ですよね、これ」
「居室兼業務室だ」
呼び方は変わっても、机の上からモニターが減ることはなかった。
理央が通信の動作を試し、澪は玄関を閉じた。
二重サッシと強化した扉の内側では、廊下の足音が小さくなる。
澪の部屋との間も遮音を強めてあり、声を漏らさずに話せる範囲を、工事の図へ残していた。
「隣から、私が何を言ってるか、聞こえませんよね」
「仕切りも強化してある。実際の音は、完成検査で合わせよう」
真壁の返事を聞き、澪は部屋の側の壁へ目を向けた。
襖の向こうから来た人と話す時にも、隣を気にしすぎずに済むならありがたい。
理央が図の確認箇所へ印を付け、最後にもう一度ベッドを見た。
「ほんとに、寝る所だけは小さいですね」
「用途に足りている」
真壁は机の引出しを閉じ、そこへ資料庫の鍵をしまう場所を決めた。
澪は席を立つまで、どこかの打合せを終えたような気分だった。
地下への階段を下りた澪は、手すりから手を離して、入口の脇に立ち止まった。
数日前には土の中だった場所に、靴の底が乾いた音を立てる床がある。
壁に取り付けた照明の下で、理央が棚の前へしゃがみ込んでいた。
「澪さん、これ、上の段まで私たちが使っていい物ですか?」
「備蓄の方は、6世帯分です」
澪も隣へ寄って、食料と衛生用品の棚に貼った札を確かめた。
飲料水は取り出しやすい下段に置き、その先の壁際には生活用水のタンクが据えられている。
通路を挟んだ工具と補修資材の棚には、備蓄と混ざらないよう、別の札を付けてあった。
「入れる時は空いてたんですけど、並べると結構ありますね」
澪が奥をのぞこうとすると、真壁が棚の角へ手を置いた。
「その先は設備区画だ。普段の出入りはこちらまでにする」
彼の指した側には大容量の蓄電池と配電盤が収まり、通信機器のラックが壁に沿って並んでいた。
機器の表示を見られる余白を残し、点検のための通路も塞いでいない。
会社用の金庫とバックアップ媒体を保管する場所は、住民が物を取り出す棚から離してあった。
「水の近くには置かないんですね」
「そうだ。水を備えることと、機器を水から守ることは、両方必要だからな」
澪は飲料水の札を少し直してから、中央へ戻った。
そこだけは、まだ床が見えている。
「この空いてる所、もったいなく見えてきますね」
「空けておく場所だ」
真壁は階段からそこまで、荷物を避けずに歩いてみせた。
「有事に人が入る。物を移動させなければ使えない場所にしては、役に立たん」
理央も棚から立ち上がり、入口へ戻ってから、澪の横まで歩いた。
人がすれ違える所を確かめ、ノートの図に残していた通路へ、確認済みの印を付ける。
「6世帯が、ずっと住む部屋にはできませんけど、一時的に集まる場所にはなりますね」
「長居するための部屋ではない。そのためにも、換気と排水は点検できる状態にしてある」
真壁が壁際の点検箇所を示すと、澪は先ほど見たタンクの位置を図と照らし合わせた。
土を取り出した時よりも、出来上がった物の方が、地面の下にあるという実感が強い。
「最初、地盤を直してたんですよね?」
「そうだ」
「いつから避難所になったんですか?」
「地下空間を作った以上、有事に使えた方がよい」
理央がノートから顔を上げた。
「正論で増築しないでください」
「増築の理由を尋ねられたので答えただけだが」
「そうなんですけど、答えを聞くと、やめましょうって言えなくなるんです」
澪は棚の札を指で押さえたまま、うなずいた。
「私も、それでここに立ってます」
真壁は2人を見てから、配電盤の前へ移った。
「電源の切替は、完成検査で実際に試す。先に、優先する系統を確認しておこう」
理央が書き留めた一覧を開き、澪にも見える向きに持った。
共用の非常照明と火災・防犯設備、通信、住民が最低限使う充電や冷蔵の系統、その後に澪と真壁の重要系統が続く。
「私たちの部屋、最後ですね」
「各室のUPSもある。非常時に全てを普段どおり使うための電源ではない」
澪は自室の新しいエアコンを思い浮かべてから、一覧の最初へ目を戻した。
「階段の明かりが先、でいいです」
「冷蔵の方も、つながっているだけで安心しないで、切替の時に確認しますね」
理央は試験する欄に、時刻を書き込む余白を作った。
澪が備蓄棚へ戻って食料の期限を確かめている間に、真壁は点検扉の鍵を閉め、住民用の案内と管理用の記録を分けて机に置いた。
「使い方も、皆さんに伝えないとですね」
「入口と備蓄の場所、非常電源で使える範囲を説明する。設備区画まで触ってもらう必要はない」
澪は案内を手に取り、地下室の入口から見える棚の名前を読み直した。
自分たちには当たり前になった配置も、初めて階段を下りる人には、札が必要になる。
階段の上からは、共用廊下を歩く足音が短く聞こえた。
澪は案内の余白へ、備蓄を使った時の連絡先を書き足した。
最初の診断から3週間近くたった朝、理央はアパートの東側で、最初に描いた図を開いた。
紙の端を風に持っていかれないよう押さえると、その上に澪が完成後の図を重ねた。
「最初の紙、こんなに書く所がなかったんですね」
「地下室の欄がありませんから」
理央の返事に、真壁は地下の図を別に広げた。
「比較する箇所は揃えてある。まず地盤からだ」
澪は建物際へ移り、理央は少し離れた位置に立った。
土の弱かった範囲、置き換えた範囲、その周囲を順に対象へ絞って《鑑定》する。
最初に診た時の紙は伏せて、結果を書いてから合わせた。
「地盤」
「問題なしです」
「こちらも同じです」
「基礎」
「補強した所も、既存の方も異常なしです」
理央が書いた位置を澪が自分の記録と照合し、真壁も別に残した結果を見せた。
鉄骨と補強部材まで進んだところで、澪は1か所の書き込みに指を止めた。
「ここ、私と理央ちゃんで範囲が違いますね」
「私、隣の接合部まで入れてます」
「それでは同じ対象になっておらん。位置を揃えて、もう一度見よう」
真壁の図に合わせ、澪は柱脚だけでなく、その先の接合部まで確認した。
紙に書き直した結果は、理央のものと一致していた。
「これで揃いました」
理央が印を付ける前に、真壁の記録も横へ並べた。
澪は、直した場所へ最後の印が付くのを見てから、共用廊下へ回った。
各戸の給排水と更新した電気系統は、施工時の記録を持って確認する。
住人に約束した時間に合わせて入室し、流した水が排水へ抜けるまで、澪は接続部を確かめ続けた。
「水漏れはありません」
「こちらもです。流した後も変わりません」
理央の答えを聞いた住人が、台所の下をのぞいた。
「これで、もう終わりですか?」
「お部屋の確認はこちらで終わりです。お時間、ありがとうございました」
澪が退出すると、真壁が次の部屋の確認時刻を示した。
屋上の防水と外壁、断熱まで確認を進める頃には、理央の紙の右端に印が並んでいた。
昼を挟んで、澪と真壁の部屋の遮音を確かめる番になった。
真壁の部屋で澪がいつもの声で話し、理央が隣室へ移る。
「理央ちゃん、聞こえますか?」
返事がないので、澪は口を閉じて真壁を見た。
「返事をしてもらう試験ではない。聞こえたかどうかは、戻ってから聞けばよい」
「聞こえないと、試験が進んでるのかも分からないですね」
澪がもう一度、決めていた文を読んで待つと、理央が廊下から戻ってきた。
「普通に話している内容は、分かりませんでした」
「じゃあ、澪さんと交代して、廊下側も見ます」
今度は澪が外へ出て、扉を閉めた。
さっきまで机の向こうにいた2人が急に遠くなり、澪はドアから少し離れて聞き耳を立てた。
試験を終えて戻ると、真壁が壁と床の鑑定結果を紙へ書き終えていた。
「施工状態も一致した。次は電源だ」
事前に伝えておいた試験時刻に、地下の非常電源へ切り替える。
真壁が設備側に残り、澪は共用廊下、理央は室内と通信機器の確認を受け持った。
澪は階段の照明が残るのを見上げ、防犯設備の表示を確かめてから、地下へ戻った。
理央も充電口の動作と冷蔵系統を確かめ、通信が保たれていることを記録して下りてきた。
「共用部、問題ありません」
「通信と住民用の系統も、正常です」
「重要系統の方も保持している。各室のUPSからの引継ぎも、確認できたな」
澪がうなずくと、真壁は通常電源へ戻した。
戻った後の状態まで確かめて、理央が時刻を記入する。
開閉や水漏れ、煙と熱を知らせる機器は、それぞれ試験の操作を使って確かめた。
振動と停電の検知も記録と照らし、試験のままになった設定がないか、3人で最後に揃える。
「……終わりました」
理央がノートを閉じた時、澪は自分の紙の裏まで見てから、ようやく肩を下ろした。
地下の換気と排水、蓄電池、タンクも確認を終え、残っていたのは住民への案内だった。
備蓄と非常時の使い方を伝え、管理の記録をまとめてから、3人は建物の外へ出た。
夕方の道を、買物袋を提げた住人が玄関へ入っていく。
理央はその背中から建物の屋根へ視線を上げた。
「これ、アパートですよね?」
「……アパートです」
澪も見上げたが、窓が新しくなったくらいでは、地下室まであるようには見えなかった。
「優良物件になったな」
「優良の方向がおかしいです」
真壁は理央の手にある記録を見て、軽くうなずいた。
「その記録も保管しておこう。次の点検に使える」
「まだ増えるんですか?」
「点検は、これからもする」
理央は一度閉じたノートを抱え直し、澪の方を見た。
澪は首を振る代わりに、会社の記録を収める鞄を開いた。
澪の部屋へ戻った理央は記録を鞄にしまい、玄関で靴を揃えた。
「最後に、押し入れの方も見ていいですか?」
「もちろんです。それが済んだら、私が家まで送りますね」
澪は真壁から受け取った鍵を自分の鞄へしまい、部屋の照明を点けた。
真壁も確認に付き合ってから、隣室へ戻ることになっている。
検査の前に澪が《収納》から戻した荷物は、工事の前と同じ物なのに、置く場所を決め直しただけで、畳の見える範囲が広くなった。
しまっていた寝具も戻り、澪は今日からまたここで眠れる。
床に座っていた時には気付かなかった天井の明るさが、玄関からでも分かった。
「六畳のままですよね」
澪が言うと、理央が部屋の中へ入って振り返った。
「部屋まで増やしたら、隣の真壁さんの机が入らなくなります」
「机のために六畳が守られたみたいに言わないでください」
「隣室との壁を動かす計画はない」
真壁が至って普通に答えたので、澪は笑ってから、窓の方を見た。
ガラスの向こうには夕方の光が残っている。
外を通る人の声は遠く、以前なら気になっていた音を探すように耳を澄ませても、新しい空調の音の方が近かった。
台所の蛇口も、照明のスイッチも、さっき自分で使って確かめた物だ。
もう誰かに借りている建物の、直していいのか迷う部屋ではなくなった。
澪は畳を踏んで奥へ行き、押し入れの前に立った。
新しい壁の隣で、襖の色だけが少し違って見える。
木枠には、今日取り付けた物のような真新しさがない。
手を掛ける位置も、開ける時に指へ触れる感触も、いつものままだった。
「結局、ここだけ直してないですね」
理央が澪の隣で、襖と周りの壁を見比べた。
「ここを直したら、一番困りますから」
「目的は達成した。押し入れを直すための工事ではない」
真壁は押し入れから少し離れた場所で立ち止まった。
澪はうなずいて、襖を開けた。
向こうには、この部屋の新しい照明とは違う明るさがあった。
異世界の空気が畳の上まで流れ込み、澪の頬を撫でていく。
理央が少し顔を寄せてから、いつもと同じように向こうをのぞいた。
「ちゃんと、つながってますね」
「はい」
澪は襖から手を離し、入口を塞がない所へ半歩下がった。
足の下には新しい畳があり、そのさらに下の床も、基礎も、地面も、3人で確かめた後だった。
それでも、開けた先から来る風に、工事の前との違いは感じられなかった。
澪はその風を受けながら、襖の端へもう一度そっと指を添えた。
変わらなかったのは、六畳間の奥にある押し入れだけだった。