押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第401話 北は儲からないそうです

 

 2027年のゴールデンウィークに入った頃、澪はヴァルディス侯爵領の共同商館の食卓で、まだ何も書かれていない数日分の予定を思い浮かべていた。

 

 大学へ行く時刻を気にせず、続けてこちらへ来られる。

 

 それだけで、夕方の明かりが残る窓を眺める時間まで、いつもより長く取れる気がした。

 

 昼間には荷を運ぶ足音が行き交っていた方も、今はずいぶん落ち着いている。

 

 食堂の椅子を引く音と、器を置く音が近く、食卓に来た野菜の煮込みから湯気が上がった。

 

 リュシアが皿を寄せ、澪はパンの籠を理央へ回した。

 

 ニャニャミは自分の皿を少し動かし、籠を置く場所を作っている。

 

 白い手が離れるのを待ってから、澪はパンを取った。

 

「GWになりました」

 

 斜め向かいの真壁は、肉を切る手を止めなかった。

 

「そうか。では、新しい商品と、新しい顧客を探しに行こう」

 

「そこにつながるんですか」

 

 休みだと伝えてから、仕事の予定が入るまで、パンをちぎる時間もなかった。

 

 澪がまだ持ったままのパンへ目を落とすと、真壁は切り分けた肉を口に運んだ。

 

「澪君が数日続けて動ける機会は、そう多くない」

 

「それは、そうなんですけど」

 

 まとまった休みになったら何をしよう、と考えた時、澪の頭にもこちらのことは浮かんでいた。

 

 ただ、今ある仕事を見に行くつもりで、新しい行き先までは決めていない。

 

 理央が籠の縁から手を離し、真壁を見た。

 

「どこか行くんですか?」

 

「その行き先を、これから決める」

 

「これから、ですか」

 

 澪が聞き返すと、リュシアは煮込みの皿を置いて笑った。

 

「行くって決める方が先なんだね」

 

「行き先もなく出るつもりはない。ここで選べばよい」

 

 真壁は皿の空いた所を見て、手元の紙を濡らさない位置へ寄せた。

 

 夕食を食べ終わる前に、そこへ予定が入るらしい。

 

 澪はちぎったパンを煮込みに浸し、口へ運んだ。

 

 温かい汁を吸ったパンは柔らかく、いつもの食事の味がする。

 

 その向こうで理央が、行き先を待つ顔になっていた。

 

 休暇の話をしたつもりが、もう食卓にいる人の視線が、澪の大学の予定から離れている。

 

「でも、数日使えるなら、いつもより遠くまで見られますね」

 

 澪が言うと、真壁は短くうなずいた。

 

「そのために、今相談している」

 

 ニャニャミも食べる手を止め、卓の端へ寄せた紙の方を見た。

 

 

 

 数日出掛けるなら、理央の予定も、今ここで済ませてよい話ではない。

 

 澪は理央の方へ向き直り、まだパンを持っていた手を皿へ下ろした。

 

「修さんと妙子さんには、押入商会で旅行に行くって伝えておきましょうか?」

 

「わーい」

 

 理央の返事があまりに早くて、澪はそのまま彼女の顔を見た。

 

 さっきまでは行き先を尋ねる顔だったのに、もう自分も行く側に入っている。

 

「まだ、行き先も決まってませんけど」

 

「でも、旅行なんですよね?」

 

「仕事でもあります」

 

「旅行です」

 

 理央は笑い、食べかけのパンを持ち直した。

 

 それほど嬉しそうにされると、こちらも一緒に行きたいとは思う。

 

 だからこそ、出発してから何日いなくなるか伝えるような順序にはしたくなかった。

 

「今夜、帰ったらお話しします。日程も、ちゃんと決めてからですね」

 

「私からも言います」

 

 理央がうなずくのを見て、澪は安心して自分の皿へ戻った。

 

 まだ煮込みは温かく、真壁も普通に食事を続けている。

 

 旅行という言葉にだけ、理央の姿勢が少し前へ傾いたままだった。

 

「数日なら、見てすぐ戻るんじゃないですよね」

 

「それは、どこへ行くかによります」

 

「どっちでもいいけど、行く場所くらい先に決めな」

 

 リュシアが口を挟むと、澪も理央もそちらを見た。

 

「さっきから、行き先の方が置いてけぼりだよ」

 

 理央が少し笑って椅子へ座り直すと、その隣でニャニャミの耳が上がった。

 

「市場も見るニャ?」

 

「もちろんだ」

 

 真壁の答えを聞いたニャニャミは、卓の脇の帳面へ手を伸ばしかけ、自分の皿を見て止めた。

 

「今から書くニャ?」

 

「まず食べ終えたまえ。帳面に汁を付けても、相場は分からん」

 

 ニャニャミは指を戻し、肉の残った皿を自分の方へ寄せた。

 

 食べるために視線を落としても、耳は真壁の側を向いている。

 

 理央は景色を待っていて、ニャニャミは市場を待っている。

 

 澪は2人を見比べてから、自分もまだ知らない場所で何を見たいのか、少し考えた。

 

「私も、知らない市場には行ってみたいです」

 

「じゃあ、決まりですね」

 

「だから、どこへ行くかがまだです」

 

 リュシアが笑いながら立ち上がり、食卓の外へ置いてあった交易地図を取りに行った。

 

 

 

 リュシアが地図を持って戻ると、澪は食べ終わった皿を重ね、卓の中央を空けた。

 

 理央も杯を寄せ、ニャニャミはパンの籠を持って、空いた席の前へ移す。

 

 折り目の付いた紙が開かれると、さっきまで汁の器があった所へ、大陸の北が広がった。

 

 澪は見慣れたヴェルデンの名前を見つけ、そこから南へ目を動かした。

 

 レヴァニア、西のセレヴィアと、紙に書かれた名前が、自分の見た土地へつながっている。

 

 どちらも初めて行った時には、目の前の品物に気を取られていた。

 

 今は、売る物を決める前に行き先を選ぼうとしている。

 

「北は、まだ行ってませんね」

 

「ノースヴァルトかい」

 

 リュシアが紙の縁を押さえた。

 

 澪はそこに書かれている国名を、声に出さずにもう一度読んだ。

 

 名前が載っていても、港や市場でどんな声がするのかは、まったく思い浮かばない。

 

「正式には、ノースヴァルト諸族連合だね」

 

「連合なんですね」

 

 理央が澪の隣へ顔を寄せた。

 

 いつも使っている自分の《世界地図》とは別に、みんなで同じ紙を見ているので、尋ねた場所へリュシアが指を置ける。

 

「大きい町は、どこですか?」

 

「首府はノルドハルム。北から物が集まる町だよ」

 

 リュシアの指が止まった所で、理央が名前を繰り返した。

 

 ニャニャミは帳面を開き、国と町を別々の行へ書き留める。

 

「何が売ってるニャ?」

 

「それを見に行くのも、仕事のうちだ」

 

 真壁が言うと、ニャニャミはペンを止めた。

 

「知らないまま、行くニャ?」

 

「分かっていることは先に聞く。現地で見るものまで、ここで決める必要はない」

 

 澪は空いた帳面の下の方を見た。

 

 まだ品名も金額も入っていない欄を残して、ニャニャミが地図の方へ向き直る。

 

「今までは、持っていく物が先にありましたね」

 

 澪が言うと、真壁は紙の北側へ目を移した。

 

「今度は、こちらがまだ扱っていない物を探す。売る相手もだ」

 

「こちらで余っていて、向こうで必要な物も、見つかるかもしれませんね」

 

「行ってみなければ、どちらも選べん」

 

 澪は自分の予定の紙を、交易地図の脇へ置いた。

 

 空いている数日間と、まだ訪ねていない国が、ようやく同じ卓に載った。

 

 リュシアが地図の折り返そうとする角を伸ばし、ニャニャミも反対側を押さえる。

 

 2人の手の間で、ノルドハルムの名前が隠れずに残っていた。

 

 

 

「羊毛と、皮だね。毛皮もあるし、乳製品、馬、木材も北から来る」

 

 リュシアは自分の杯を地図から離し、ニャニャミが書くのを待った。

 

 ペンの先が帳面の下へ進み、白い耳が時々こちらへ傾く。

 

「北の方なら魚介もある。寒い土地で出る物だって、見に行くなら気になるだろうね」

 

「そんなに、あるんですね」

 

 理央が地図へ目を戻した。

 

 澪も、ノルドハルムの周りの広さを、改めて眺めた。

 

 何も知らない町へ行くのだと思うと遠かったが、羊毛や木材と聞けば、使う人のいる品物として考えられる。

 

「市場も、大きいんですか?」

 

「北の各地から物が集まる町だよ。商人もいるし、ちゃんと貨幣で商売している」

 

 リュシアは言ってから、共同商館の荷を受ける方へ顔を向けた。

 

「ただ、うちへ入ってくる北の荷は、そう多くないんだよね」

 

「レヴァニアから来る分よりも、ですか」

 

「うん。国の広さや、出る物の多さを考えると、細い」

 

 澪はニャニャミが書き込んだ品名を見た。

 

 多い物を持ってきて、必要な所へ渡すなら、ここへ来てもよさそうな物ばかりに見える。

 

「それだけ商品があるなら、もっと来てもよさそうですけど」

 

「私もそう思うけどね」

 

 リュシアは、そこを知っている顔で話し続けなかった。

 

 澪が地図の南北を見比べると、真壁が顔を上げた。

 

「理由は?」

 

「そこまでは、私よりグスタフに聞いた方が早いよ」

 

「王都のギルド長さんですか?」

 

 理央が聞くと、リュシアはうなずいた。

 

「王都には、北から来た商隊の記録もあるからね。私に見えるのは、ここへ着く荷の方だから」

 

 澪は、地図の上だけで答えを出しかけていた目を、リュシアへ戻した。

 

 ここへ来る量が少ないという話と、北で物が少ないという話は、まだつながっていない。

 

「行く人が少ない理由は、別に聞いた方がいいんですね」

 

「そうだね。来た荷だけを見ても、来なかった商隊のことまでは分からない」

 

 ニャニャミのペンが、品名の脇で止まった。

 

「売ってるのに、運ばないニャ?」

 

「その辺を聞いてくることになる」

 

 真壁が言うと、ニャニャミは書きかけの所へ小さく印を付けた。

 

 澪は帳面の金額を入れる所へ目をやり、まだ空白のままでよいと思った。

 

 先に数字を埋めたくなるのは、自分も同じだ。

 

 ただ、今ここで埋められるのは、質問の方だった。

 

「何がないのかを、見に行くつもりでしたけど」

 

 澪が言いかけると、真壁は皿を卓の端へ寄せた。

 

「あるのに届かない物を探すのも、よいではないか」

 

 彼の椅子が引かれる音で、澪はまだ夕食の席にいることを思い出した。

 

 

 

 立ち上がった真壁が、卓から少し離れた所へ手を伸ばした。

 

 靄がほどけ、その手に酒の瓶が残る。

 

 澪は瓶を見てから、彼の空いた席を見た。

 

「真壁さん?」

 

「聞いてこよう」

 

「今からですか?」

 

「明日の行き先を決めるのだ。今聞けばよい」

 

 澪は自分の予定の紙を引き寄せた。

 

 数日空いていると話しただけで、まだ明日の欄には何も書いていない。

 

 真壁の方では、その空白が出掛ける日になっていた。

 

「明日、なんですね」

 

「今日のうちに聞けば、明日使える」

 

 理央は否定するどころか、ペンを取っていた。

 

 日付を書いた後で行き先の所を残し、真壁が持つ酒へ視線を上げる。

 

「聞きに行くのって、そんなにすぐでいいんですか?」

 

「先方に時間があればな。そのためにも、今のうちに行く」

 

 リュシアが瓶の方へ顔を向けた。

 

「それ、持ってくのかい」

 

「手ぶらで聞きに行く話でもあるまい」

 

「そうだね。酒を見た方が、話の始まりは早そうだ」

 

 リュシアが皿を寄せると、ニャニャミは真壁のために空けた場所へ帳面を置いた。

 

「総支配人、仕事早いニャ」

 

「戻ってから報告する。地図は、そのままにしておいてくれたまえ」

 

 真壁は瓶を持ち直し、食卓から離れた。

 

 王都には、すでに訪ねて登録してある場所がある。

 

 人の通る所を避け、《転移》でそちらへ向かうと、食堂には彼の椅子だけが残った。

 

 澪は椅子の背に手を掛け、卓へ収めた。

 

 北について何を尋ねるか話している間に、尋ねに行く人が出発してしまった。

 

「帰ってくるまで、地図を見ててもいいですか?」

 

 理央が聞き、リュシアは折り目を押さえていた手を離した。

 

「いいよ。残ってるパンも食べな」

 

 ニャニャミが籠を理央へ戻し、澪は空いた皿を手元へ集めた。

 

 食事はほとんど終わっているのに、出掛ける話の続きがあるので、席を立つ気にならない。

 

 理央のペンが日付の横を軽く叩き、ニャニャミは書いた品名を順に読み返していた。

 

「聞いてから、決めましょうね」

 

 澪が言うと、理央は顔を上げてうなずいた。

 

 ただ、明日の欄を消すつもりは、なさそうだった。

 

 

 

 王都へ出た真壁は、酒を手に商業ギルドへ歩いた。

 

 通りにはまだ人がいるが、窓から差す光は低く、建物の中では仕事を終える物音がしていた。

 

 ギルド長のグスタフ・ハーゲンの所へ通されると、彼は机の書類を揃えているところだった。

 

 真壁を見て、その手にある瓶へ目を移す。

 

「何を聞きに来たのかね?」

 

「話が早くて助かる」

 

 真壁が瓶を置くと、グスタフは紙をその脇から退けた。

 

 仕事の話かどうかを尋ねる前に、杯が出てくる。

 

「座るがよい。長い話かね?」

 

「まだ分からん。ノースヴァルトについて聞きたい」

 

 グスタフは杯を置いた手を、少しだけ止めた。

 

「あそこはのう……」

 

 その声は、行くなと止める調子ではなかった。

 

 真壁は椅子に腰を下ろし、机の向こうの顔を見た。

 

「何かあるのか?」

 

「あると言えばある。じゃが、危ないという話ではない」

 

 グスタフが瓶を開け、杯へ酒を注ぐ。

 

 真壁は瓶が傾くのを待ってから、手元の紙を出した。

 

「共同商館に入る北の荷が、国の規模のわりに少ないと聞いた。品物はあるそうだが」

 

「あるとも。北の市場へ行けば、並んでおる」

 

「王都へ来る商隊は?」

 

「来るよ。取引が途絶えておるわけではない」

 

 グスタフは揃えた書類を、今度はひとまとめにして机の端へ置いた。

 

 仕事を片付けた後の机に、酒と真壁の紙が残る。

 

「ただ、何を積んで来るかで話が変わるのじゃ。北から来たというだけで、同じ勘定にはならん」

 

「商品ごとの採算か」

 

「そうじゃ」

 

 グスタフは自分の杯を持ち、一口飲んだ。

 

 真壁も酒を口に含み、紙の上へ国名を書いた。

 

 教えてほしいのは、まだ現物の値段ではない。

 

 取引する商人が、なぜ荷を増やさないのか、その方だった。

 

「そこを聞きたい。売れる品物と、持ってくる品物が同じでない理由を」

 

 グスタフは杯を机へ戻した。

 

「行くつもりかね?」

 

「まず聞いてからだ」

 

「ならば、売れるという言葉だけでは決めぬことじゃ」

 

 真壁はペンを持ったまま、彼の続く言葉を待った。

 

 杯の底が机に触れ、廊下で扉の閉まる音がした。

 

 グスタフは残っていた書類をもう手に取らず、真壁の紙へ目をやった。

 

「持ってきて売れた後、何が残るかの話じゃ」

 

 

 

「売れぬわけではない」

 

 グスタフは、まずそう言った。

 

 真壁は紙へ書こうとしていたペンを止め、顔を上げる。

 

「では、なぜ運ばない?」

 

「運べば売れる。じゃが、帰って帳面を見ると、大して残らん」

 

 グスタフは真壁の紙にある国名へ目をやり、それから杯を端へ寄せた。

 

「羊毛、原皮、木材、乳製品、獣脂。出る物はあるが、荷車を埋める物も多い」

 

「重量と容積のわりに、単価が低い」

 

「そうじゃ。高い毛皮なら別じゃよ。希少な物まで、儲からんと言っておるわけではない」

 

 真壁は紙の品名を分け、高級毛皮の側へ印を付けた。

 

 それを見たグスタフは、反対側へ顎を向けた。

 

「じゃが、羊毛を荷車いっぱい運ぶとなると、どうかね。安く買えても、ここへ着く頃には安くない」

 

 真壁は距離を表す線を引いた。

 

 買った所と売る所の間に余白を残すと、グスタフの視線がそこへ止まった。

 

「馬と飼料が要るじゃろう。御者も、護衛もいる。旅の間に飯も食うし、宿にも金を払う」

 

 言葉に合わせて、真壁のペンが余白へ動いた。

 

「途中で預ける倉庫、積み替え、傷む分もある。天気が悪くて動けなければ、その間も馬は食う」

 

「止まっていても、費用は止まらんか」

 

「荷車は待ってくれても、人間の腹までは待たん」

 

 グスタフは自分の杯を持ち上げた。

 

 真壁は余白へ書いた費用を眺め、最後に売上の側へペンを移す。

 

「品物を増やすほど、運ぶ分も増えるのだな」

 

「羊毛なら、そうじゃ。余分な荷車を出して、馬も増やして、着いた所で高く売り切らねばならん」

 

 グスタフが机の向こうで両手を開いた。

 

「同じ日数で、もっと近い町を2度回った方がよい。商人なら、そう考える」

 

 真壁は紙の上でペンを止め、北まで引いた道の脇に、近い町を回る場合も書き添えた。

 

「北の中では、物は回っているのか」

 

「もちろんじゃ。道も町もあるし、売る者も買う者もおる。北の商人が、皆ここまで来る必要はない」

 

 グスタフは残っていた酒を飲み、杯を下ろした。

 

「外国まで大量に運ぶ時に、旨味が薄いのじゃ。高い毛皮が来ておるからといって、普通の羊毛まで同じように運べるわけではない」

 

「なるほど」

 

 真壁は毛皮へ付けた印を残し、羊毛の側の余白を少し広く取った。

 

 グスタフがその手元を見て、瓶を持ち上げる。

 

「まだ聞くことがありそうな顔じゃな」

 

「産地での余り方も聞きたい」

 

 真壁は杯を差し出し、紙の下へ、次の問いを書く場所を空けた。

 

 

 

「余ることもあるのか?」

 

「春はのう」

 

 注ぎ足された杯を、真壁はまだ口へ運ばなかった。

 

 グスタフは瓶を置き、羊毛の書かれた所を見た。

 

「毛刈りのよい年は、買い叩かれるくらいには出る地方がある」

 

「毎年、ずっと余っているわけではないのだな」

 

「そうじゃ。毛を刈る時期に、一度に出る」

 

 真壁は季節の所へ、短い線を引いた。

 

 その線が、国全体を通年で指すものにならないよう、地方によるという言葉も添える。

 

「加工する手が、追いつかんということか」

 

「普段から働いておる職人はいる。設備も、1年通して使っておる。それでも、短い間に出る原毛を全部一緒には扱えん」

 

 グスタフは指を机へ置き、真壁が書き終えるまで待った。

 

「どこにも職人がおらんという話ではない」

 

「集中する量の問題か」

 

「そうじゃ。いつもの処理量より一時に多く出れば、先へ送るまで待つ分ができる」

 

 真壁は、余ると書いた所の隣へ時期の印を付け、品名を原毛と書き直した。

 

「南へ持ってくればよい」

 

「それで儲かるなら、とっくに皆やっておる」

 

 グスタフの返事は、真壁の言葉が終わるとすぐに来た。

 

 真壁は顔を上げ、彼を見た。

 

 グスタフも引かず、羊毛から、途中の費用を書いた場所へ視線を移す。

 

「安く買えた分を、道中で使ってしまう。着いた荷に運賃を乗せれば、南の買い手にとっては、そこまで安くない」

 

「産地の値段のままでは、売れん」

 

「売ったら、商人の方が持ち出しになる。安かったという話だけなら、誰でも持って帰れるがのう」

 

 真壁は紙へ目を下ろし、先ほど引いた道の線を辿った。

 

 始点へ付いた安値が、終点まで続くとは限らない。

 

 その間を普通の商隊で進めば、支出は日ごとに重なっていく。

 

「加工した品物は、原毛とは別の勘定になるな」

 

「そこも、同じ値段ではない。原毛が安いと聞いて、北の物が何でも安いと思わんことじゃ」

 

 真壁はうなずき、杯を持ち上げた。

 

 口に含んだ酒を飲んでから、紙の費用の欄へ、もう一度視線を戻す。

 

 グスタフは瓶の横へ手を置いたまま、その目の動きを見ていた。

 

「分かったかね?」

 

「よく分かった」

 

 真壁の返事に、グスタフは満足しかけた顔になった。

 

 その向こうで、真壁は紙を自分の方へ、少し引き寄せた。

 

 

 

 真壁は、グスタフの説明を書いた紙を眺めた。

 

 荷車と馬を増やせば、運ぶ量と一緒に費用も増える。

 

 そこまでは、今聞いたとおりだった。

 

 ただ、自分たちなら、その量を荷車へ積む前に、《収納》へ納められる。

 

 移動に日数を掛けなければ、道中の宿も、馬の維持も、同じようには重ならない。

 

 まだ行ったことのない北の国に、自分の《転移》でいきなり出られるわけではなかった。

 

 それでも、理央の《関門接続》も含め、場所へ向かう方法は、普通の商隊とは違う。

 

 紙に書かれた費用のすべてを、そのまま自分たちの勘定へ移す必要はない。

 

 真壁の口元が、わずかに緩んだ。

 

「つまり、ブルーオーシャンということか?」

 

 グスタフの手が瓶の横で止まった。

 

「……青い海?」

 

「こちらの話だ」

 

「北の商売を聞いておったのではないかね」

 

「その話をしている」

 

 グスタフは真壁の紙を見てから、彼の顔を見直した。

 

「海の話は、しておらんぞ」

 

「承知している」

 

 真壁が短く返すと、グスタフは背を椅子へ戻した。

 

 説明が増えるのを待っている顔だったが、真壁は紙を折る方へ手を動かす。

 

「何を考えておる?」

 

「まだ何も。まず見に行く」

 

「今の笑い方で、何も考えておらんということはあるまい」

 

「商売にするかどうかは、品物と値段を見てからだ」

 

 グスタフは口を閉じ、真壁の紙へもう一度目を落とした。

 

 運ぶ費用を減らせても、現地の需要や売り先まで、今ここで決まるわけではない。

 

 真壁はその部分を空白のまま残し、書いた面を内側に折り込んだ。

 

「いつ行くつもりかね?」

 

「明日だ」

 

「明日?」

 

 グスタフが椅子から少し身を起こした。

 

 今度は、聞き慣れない言葉を聞いた時より、返事までの間が長い。

 

「今、聞いたばかりではないか」

 

「聞いたので、行く」

 

「北まで行く準備を、今夜するつもりかね?」

 

「まず市場を見る。大量の荷を仕入れる商隊を、明日出すのではない」

 

 真壁は折った紙をしまい、残った酒を飲んで杯を置いた。

 

 グスタフはその杯を見てから、椅子の背へゆっくり身を預けた。

 

「普通は、聞いてから出発するまでが、もっと長いものじゃがな」

 

「だから、今日聞けてよかった」

 

「わしの話で、行くのをやめるかと思ったがのう」

 

「無駄足になるかどうかを見るための話だ。よい情報を得た」

 

 真壁は立ち上がり、グスタフへ礼を述べた。

 

 詳しい移動の仕組みを話し込む代わりに、机へ残した酒の瓶を彼の方へ寄せる。

 

「時間を取らせた。酒は、ゆっくり楽しんでくれたまえ」

 

「酒はありがたく頂こう。酒を飲んでおる間に、次の仕事が決まってしまうのう」

 

 グスタフが瓶を引き寄せるのを見届け、真壁は部屋を出た。

 

 王都の通りには夕闇が下りており、彼は人の流れから外れた所で、来た時と同じ《転移》で侯爵領へ戻った。

 

 

 

 真壁が食卓へ戻ってきた時、理央は顔を上げるのが早かった。

 

 地図はまだ開かれていて、ニャニャミが帳面を脇へ置いている。

 

 澪は椅子を引き、真壁が持ち帰った紙を置ける場所を空けた。

 

「どうでした?」

 

「面白い」

 

「それ、行くってことですか?」

 

 理央が聞くと、真壁は椅子へ腰を下ろした。

 

「そうなるな」

 

 理央の手からペンの力が抜け、澪はその顔を見て笑いそうになった。

 

 どこへ行くかより、まず、出掛ける話がなくならないかを気にしていたらしい。

 

 真壁は折った紙を開き、地図の端へ置いた。

 

「品物も、市場もある。北の国内で物が回っていないわけではない」

 

「でも、こっちへ来る荷は、増えないんですね」

 

 澪が聞くと、真壁は紙に書いた道中の費用を示した。

 

「普通の商隊で長距離を運ぶと、利益が薄くなる。かさばり、重いわりに、単価の低い品物が多いからだ」

 

 リュシアがそちらへ顔を寄せる。

 

 ニャニャミは品名の載った自分の帳面と、真壁の紙を交互に見た。

 

「運ぶので、お金が消えるニャ?」

 

「そういうことだ」

 

 白い耳が立ち、ニャニャミは澪の方も見た。

 

「それなら、うちは違うニャ」

 

「その可能性を見に行く」

 

 真壁の返事を聞き、澪も費用の欄へ目を下ろした。

 

 全部が消えるとは言えないが、荷車の台数と荷の量が、そのまま増える勘定にはならない。

 

「安く買える理由だけじゃなくて、運ばれない理由まで聞けたんですね」

 

「春には、一部の産地で原毛が一時的に余るとも聞いた。毛刈りの量が、その時期の加工できる量を上回る」

 

 ニャニャミが羊毛の横へ、春、と書いた。

 

 その下へ金額を書こうとして、ペンを止める。

 

「値段は、まだ分からないニャ?」

 

「今の値段は、現地で見る」

 

 澪はニャニャミの帳面をのぞき込んだ。

 

「量も、どのくらいあるかですね。現地で使う分まで、余りだと思ってしまわないように」

 

「売る人に聞くニャ。どこへ売ってるかも、見るニャ」

 

 ニャニャミは書く場所を空け、紙の地図へ指を移した。

 

「ノルドハルムの値段、見たいニャ」

 

「まず、首府からですか?」

 

 澪の問いに、真壁はノルドハルムの名前へ目を向けた。

 

「うむ。地方へ行く前に、北全体から物が集まる場所を見ておくべきだ」

 

「そうだね。何がどこから来るか、そこで聞ける」

 

 リュシアが言うと、理央は残していた行き先の欄へ、町の名前を書いた。

 

「じゃあ、本当に旅行になりました」

 

「仕事ですからね」

 

 澪は言いながらも、理央が書いた名前を、自分の予定にも写した。

 

 紙の上ではもう決まった国へ、明日は自分の足で向かう。

 

 まだ見たことのない市場を思い浮かべようとして、澪は交易地図から、窓の外の夜へ目を移した。

 

 

 

 行き先が決まると、澪は数日分の予定へ、出発の印を付けた。

 

 大学へ戻る予定を越えないよう、滞在を見込む日も、その範囲で合わせる。

 

「出発と、戻る日の見込みを、先に合わせましょう」

 

「そうしてくれたまえ。まず首府で市場を見る」

 

 真壁は地図を持ち上げず、ノルドハルムの所を指した。

 

 ニャニャミのペンが、今度は品名の下へ進んだ。

 

「会長、見本が欲しくなったら、買ってもいいニャ?」

 

「品質や扱い方を比べるためなら、いいですよ」

 

「値段だけ書いても、物を見ないと分からないニャ」

 

 ニャニャミは自分の帳面を澪の方へ向けた。

 

 品名の横に、産地と、品物の状態を書ける所ができている。

 

 澪は指でその余白を辿り、受け取らずに、帳面を本人の方へ戻した。

 

「そうですね。どれだけ出ているかと、誰が買っているかも、そこで見ましょう」

 

「外国の商人も、いるニャ?」

 

「それも見てくる。来る品物だけでなく、買いに来る人を見るのだ」

 

 真壁の答えで、ニャニャミは帳面へ目を戻した。

 

 理央も自分の紙を眺め、少し考えてから、短く書き足している。

 

「私、市場の大きさが分かる所から、見たいです」

 

「看板だけで、大きさは分かりませんね」

 

「歩いてみたいです。どこまで続いているのか」

 

 澪は理央が顔を上げた時の明るさを見て、自分も少し笑った。

 

「歩くのは、旅行じゃなくてもできます」

 

「じゃあ、両方できますね」

 

 その返事には反論せず、澪は紙を畳んだ。

 

 修と妙子に、押入商会で数日出掛けると伝える時、仕事だと言うだけでは足りない。

 

 誰が付き添い、いつ戻るつもりでいるかも、一緒に話すことになる。

 

「理央ちゃん、今夜は私も飯島家へ寄りますね。こちらを出たら、送っていきます」

 

「はい。支度のことも、家で話します」

 

 理央は鞄の方へ紙を寄せた。

 

 澪はゲンダイへ戻ってから説明する順番を、手元の予定に書き留めた。

 

 真壁が卓の上を見渡した。

 

「では、明朝だ。詳しい相場は、向こうで集めよう」

 

「承知しましたニャ、総支配人!」

 

 ニャニャミの背が伸び、返事の後で、その尾が椅子の脇へゆっくり戻った。

 

 リュシアは彼女の帳面を見て、開いたままの地図の角を押さえ直した。

 

「まだ食卓なのに、もう明日の顔になってるね」

 

 

 

「ノースヴァルト行くニャ?」

 

 食堂の演奏スペースの方から声がして、澪は振り返った。

 

 手琴を持ったレイニャが、食卓の脇へ来ている。

 

 短い毛に覆われた三毛の頬を寄せると、ひげの先が澪の肩へ触れそうになった。

 

 旅装のまま、澪の肩越しに地図をのぞく。

 

「はい。明日です」

 

「あたしも行くニャ」

 

 返事が早く、澪はまだ席を作る前に、レイニャの顔を見上げた。

 

「聞く前に、決めてません?」

 

「行ったことないニャ」

 

 レイニャは当たり前のことを言うように答えた。

 

 尾の先が食卓の脚を避けて動き、手琴は人の皿に当たらないよう、自分の側へ寄せている。

 

 澪は空いていた椅子を引いた。

 

 理央が隣から地図を指し、町の名前を見せる。

 

「私もです。まず、ここへ行くんです」

 

「じゃあ、一緒ニャ」

 

 レイニャは椅子へ座り、手琴を大事そうに抱え直した。

 

 名前を覚えるより、行く人が決まる方が早い。

 

 澪は彼女がのぞき込めるように、地図の端を少し向けた。

 

「レイニャ君、仕事で行くのだが」

 

 真壁が言うと、レイニャは立っていた耳を彼の方へ向けた。

 

「旅先で仕事するの、いつもニャ」

 

 理央が笑い、澪も止める言葉を探すのをやめた。

 

 知らない土地で歌い、手琴を弾く人に、旅と仕事を分けるように言っても、最初から重なっている。

 

 目の前の彼女は、何かに呼ばれた顔ではなく、自分で行き先を見つけた顔だった。

 

「レイニャも来るニャ?」

 

 ニャニャミが帳面の向こうから聞いた。

 

「行くニャ」

 

「明日の朝ニャ」

 

「聞いたニャ」

 

 ニャニャミが口を閉じ、レイニャは楽しそうに地図を見た。

 

 同じような短い返事でも、片方は集合の予定を伝え、片方はもう旅へ行く気になっている。

 

 理央がニャニャミの帳面を指した。

 

「ニャニャミは、市場を見るんですって」

 

「あたしも見るニャ。人が集まる所ニャ」

 

 レイニャの手が、手琴の縁へ触れた。

 

 北の国でどんな歌が歌われているのか、まだ澪には思い浮かばない。

 

 それを聞けると思っているレイニャの耳は、先ほどよりも前を向いていた。

 

「じゃあ、レイニャさんも一緒に」

 

 澪が言うと、レイニャは軽くうなずいた。

 

 リュシアが空いた杯を彼女の前へ置き、食卓の人数が、もう1人増えた。

 

 

 

 レイニャが加わったので、澪は畳んだ予定をもう一度開いた。

 

 自分と真壁、理央、ニャニャミの名前へ、レイニャの分を書き足す。

 

 紙の上で5人を数え直すと、リュシアが空いた皿を重ねた。

 

「私は、こっちを見ておくよ。向こうで何があるか、帰ったら聞かせてくれな」

 

「お願いします、リュシアさん」

 

 澪は、食卓にいる全員で出掛けるわけではないことを、改めて予定へ残した。

 

 ここに荷が着き、客が来る仕事は、明日も続く。

 

 リュシアが食堂の方へ目をやってから地図へ目を戻すと、真壁は集合する場所を決めた。

 

「集合場所は、この商館にしよう」

 

「ここニャ」

 

 レイニャが短く答え、手琴を抱えたまま、食卓を見回した。

 

 ニャニャミも帳面へ集合場所を書き、理央は澪の予定と自分の紙を合わせ、畳んで鞄へしまった。

 

 澪も帰る準備をしながら、数日分の荷物を思い浮かべた。

 

 いつもの往来とは違い、知らない国で過ごすつもりで支度する。

 

 それなのに、行き先が決まった卓には、まだパンの籠が残っていた。

 

 真壁は書いてきた紙をしまい、ニャニャミは帳面のペンを差し直す。

 

 レイニャはリュシアから受け取った杯を戻し、手琴の持ち方を直した。

 

 誰も、荷車の台数を決めるために席を離れなかった。

 

「明日、外国の市場へ行く話だよね」

 

 リュシアが空いた籠を取り、真壁へ目を向けた。

 

「そうだ」

 

「普通なら、今夜から準備の話だけでしばらく掛かるんだけどね」

 

「今回は、市場を見に行く」

 

「その見るだけでも、馬も護衛も、道中の宿も要るんだよ」

 

 澪は食卓の地図を見た。

 

 リュシアが指した南北の間には、普通に旅をすれば通る道がある。

 

 その道を行く日数を、自分たちは夕食の間に数えていない。

 

「向こうで運ぶ人の様子も、見ておきたいですね」

 

「ああ。荷が少ない理由を、品物だけで決めぬためにもな」

 

 真壁が立ち上がり、リュシアへ地図を返した。

 

 澪も畳むのを手伝い、折り目が重なる所へ手のひらを滑らせる。

 

 北の名前が紙の内側へ隠れても、明日の予定には残っている。

 

「では明朝、5人でノルドハルムへ行こう」

 

「はい」

 

 理央が顔を上げると、ニャニャミの尾の先も椅子の脇で動いた。

 

「北の市場ニャ」

 

「北の歌も聞くニャ」

 

 レイニャが続け、澪はつい、2人の間へ視線を向けた。

 

「まず仕事ですよ」

 

「旅行です」

 

「理央ちゃん」

 

 リュシアの笑う声で、澪もそれ以上は言わずに鞄を持った。

 

 異世界へ来て、2年目の春になっている。

 

 澪は鞄の中で折った紙を押さえ、まだ一度も歩いていない町の名前を、もう一度思い浮かべた。

 

 明日向かうのは、商人たちが儲からないと言う、北の国だった。

 

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