酒場の扉を閉めると、レイニャの歌へ合わせていた手拍子が、急に遠くなった。
澪は外套の前を合わせ、暖炉で温まった頬へ夜風を受けた。
日中には水の流れていた石畳の溝が、ランプの明かりを細く照り返している。
踏む前に足を戻すと、隣の理央も歩幅を狭めた。
「あ。宿、決めてなかったです」
「場所と空室は調べてある」
真壁は、戸を閉めている店の先へ目を向けた。
「倉庫を借りた時に聞いておいた。この国で最も格式の高い宿だそうだ」
「一番近い所でいいニャ……」
ニャニャミは帳面を胸元へ入れ、立ち止まったまま足を片方ずつ浮かせた。
「泊まるなら、一番よい所を見ておこう」
澪は部屋代を聞きかけ、真壁の向く先を見た。
閉じた店の窓が続く中で、通りの奥の大きな建物だけが、幾つもの明かりを漏らしていた。
急な屋根の下へ木材を組み、その下の厚い石壁に、馬車寄せの庇が付いている。
庇の下の石は雪も泥も除かれ、扉の金具までランプの光を受けていた。
「一番よい所にするんですか?」
「上の客が何を使っているかも市場だ」
真壁の後へ続き、澪は玄関脇で靴底の水を落とした。
扉を開けた職員が外套を預かるか尋ね、拭うための布へ手を向ける。
手琴を抱えて入ったレイニャの耳が、風を避けていた向きからゆっくり戻った。
「あったかいニャ」
敷居の内側は、足元まで暖かかった。
澪の靴音が厚い羊毛の敷物へ沈み、石畳でずっと聞いていた自分の足音が消える。
薪と、かすかな香木の匂いの中に、乾いた織物の匂いがあった。
帳場の磨かれた木へランプが映り、呼び鈴の横で、客が荷物の預かりについて話している。
その客の外套は裾の落ち方が整っていて、襟の毛皮にも濡れた跡がなかった。
理央の目は、客の服から、敷物の毛足へ下りていた。
「この町で一番よい部屋を。3室頼む」
真壁が人数と部屋割りを伝える間に、レイニャは出された水を飲み、ニャニャミは椅子の前で足を止めた。
「今日はもう歩かないニャ?」
「宿の中だけだ」
「それならいいニャ」
澪と理央、レイニャとニャニャミ、それに真壁の1室で手配が済むと、真壁は客用の小サロンも借りた。
別料金の説明を聞き、澪は収納内で試験を行うこと、室内へ出すのは布や容器の小さな見本だけだと伝える。
職員は卓の大きさを知らせ、荷を広げる前に相談できるよう、廊下の先を示した。
案内された客室では、重いカーテンの隙間に二重窓があり、暖炉の火が寝台の木枠を照らしていた。
澪は鞄を置くと、外套を脱いで椅子へ掛けた。
理央は寝台の毛布を持ち上げ、すぐには下ろさなかった。
「……厚いのに、こんな重さなんですね」
掌で押した所がゆっくり戻り、表面の細かな毛羽へ明かりが広がった。
理央は《鑑定》を使い、寝台の端へノートを置いて、糸の特徴や厚みを書き留める。
「お借りして加工するわけにはいきませんよ」
「しません。見本は今日買いましたから。これは、覚えておきたいです」
理央は毛布を元どおりに掛け、最後に手で表面をならした。
澪も端へ触れてみると、昼に買った毛布とは、指を離した後のふくらみが違った。
理央のノートには、厚みの隣に、子どもが自分で掛け直せる重さ、と書き足されていた。
「サロンへ行きましょうか」
理央はペンをしまったが、寝台から離れる時にも、もう一度毛布へ目を戻した。
小サロンへ入ると、窓の前まで敷物が続き、その向こうの二重窓に卓上ランプが映っていた。
外を見ようと顔を近づければ、ガラスのそばだけ空気が冷たい。
澪はカーテンを合わせ、真壁の借りた卓へ戻った。
理央は客室で書いたノートと、今日買った毛糸、毛布の見本を並べている。
レイニャとニャニャミも荷を置いて来たらしく、手琴をソファの脇へ立て、帳面を開いた。
「広げるのは、この上だけニャ?」
「はい。床には置かないでくださいね」
澪が試料用の布を卓へ敷くと、ニャニャミは帳面をその外へ寄せた。
理央の出した小さな試織布は、作業部屋で出した時のまま、ところどころ糸がふくらんでいた。
レイニャが指の腹を滑らせると、途中で手が止まる。
「ここ、かたいニャ」
「細い所は、すぐ平らになるんです。太さがそろわないです。それと……」
理央は、同じ毛糸に染料をなじませた別の試料を出した。
ランプへ近づけると、同じ色の中に濃い筋と薄い筋があった。
澪は影かと思い、端を持って裏返したが、明かりの向きが変わっても筋は残る。
「色も、場所によって違います」
「染料を長く入れればいい、ではないんですか?」
「それだと、濃い所がもっと濃くなります」
理央は試料を両手で張り、色の薄い所へ目を近づけた。
「もっと選り分けてから紡げば、同じになるかなって思ったんですけど」
「何をそろえたいのかね」
少し離れた椅子へ腰を下ろした真壁が尋ねた。
「太さと、色です。同じ袋の毛でも、違うんです」
理央は原料の札を出し、使った袋を指した。
《鑑定》で毛の長さや縮れを比べ、残る脂や元の毛色について、ニャニャミへ伝えていく。
帳面へ書く手が追いつくのを待ってから、別の袋の分も出した。
「これは長めです。こっちは短い毛が混じってます。あと、洗ってあっても、残ってる物が違います」
「袋を替えると、選ぶ所からやり直すニャ?」
「今のままだと、そうなります」
理央は膝の上で指をほぐし、また細い毛をつまんだ。
澪はその手を見て、作る枚数のことを考えた。
孤児院へ届ける分を、理央がいつまでも1本ずつ選り分けるわけにはいかない。
「選別を細かくすれば、それを行う手も増える」
真壁の声に、理央はつまんだ毛を離した。
暖炉で薪が崩れ、机の金属容器へ明かりが揺れた。
澪は、自分の方も容器の形だけで済まないことを思い出し、まだ蓋のない缶へ手を伸ばした。
理央は毛糸の濃淡をなぞってから、原料の札を手元へ戻していた。
真壁が小さな杯へ酒を出すと、澪の卓まで香りが届いた。
酒場で選んだ7年相当のライ麦酒だった。
今度は年数を比べる紙も出さず、そのまま一口飲んでいる。
澪は蓋の形を描いていたペンを止めたが、理央の方が先に顔を上げた。
「理央君。羊毛を、毛の形のまま使う必要はない」
「……え?」
理央の手に、洗浄羊毛の小さなまとまりが残っていた。
真壁はその毛へ目を向け、杯を卓の端へ置く。
「原料として考えたまえ。溶解した後、《鑑定》でケラチンを見ろ。不要な成分は分ける」
「金とか鉄を分けた時と、同じ?」
「対象が違うだけだ」
理央は手の毛をもう一度見て、指で引き伸ばしかけた所で止まった。
靄へ収めると、卓には原料の札だけが残る。
《収納》の中で少量を溶解し、毛の形をなくしてから、成分へ意識を絞った。
「……毛だと思って見てた所に、いろいろ残ってます」
「残す物と、分ける物を教えてほしいニャ」
ニャニャミが帳面を寄せ、理央は見えている内容を言葉にした。
主体になるケラチンを残す側と、脂や汚れ、元の色に関わる不要な成分を分ける側へ、収納内の置き場を離す。
分離した量を読み上げる途中で、ニャニャミのペンが止まった。
「これは、捨てた分ニャ?」
「別にしてある分です。まだ捨ててません」
「分けた分、って書くニャ」
紙へ書かれた言葉を見てから、理央は染料を出した。
完成した糸へ染み込ませる前に、これから糸にする原料へ、同じ比率で混ぜていく。
澪は自分の容器を脇へ寄せ、理央の出した小さな試料を見た。
ランプへ傾けても、さっきあった濃い筋が見えない。
「色、そろいましたね」
「でも、まだ糸じゃないです」
理央の指が、試料の端へ触れた。
「形を決めて固形化する所を、インゴットじゃなくて、繊維にするんですね」
「欲しい物の形にすればよい」
真壁はそう答え、杯を持ち直した。
理央は試料を戻し、ノートに書いた毛の長さや太さへ目を落とす。
「上等な毛まで、全部こうするんですか?」
澪が尋ねると、真壁は卓の購入見本を示した。
「天然毛として使う方がよい物は、そちらへ回せる。この不揃いな分で、条件を作ろう」
理央は使った袋の札をニャニャミへ渡し、ほかの原料の札とは離して置いてもらった。
残した成分と染料の比率が書き終わるのを待ち、今度はノートの繊維径の所へペンを置いた。
「ここからなら、そろえられます」
さっきまで毛の細い所を選っていた指が、作りたい繊維の条件を書き始めた。
理央は色を混ぜた原料を、指定した太さと長さの繊維へ固形化した。
向きをそろえて糸にし、撚りと織り目を一定にして、小さな布を作る。
卓の空いた所へ広げると、ランプの光が、表面を滑るように動いた。
澪はペンを置き、布の端へ手を添えた。
指の下に、さっきまで引っ掛かっていたふくらみがない。
「きれい……」
「色むら、なくなりました」
理央は端を持ち上げ、表から裏へと返した。
どこを見ても色がそろい、指へ当たる織り目も一定だった。
折り返すと、薄い布が、端まで同じように落ちる。
「でも……」
理央は布を机へ戻し、購入見本の毛布を横へ置いた。
見本には表面を覆う毛羽があり、手で押した所が沈む。
今できた布は、押す前から薄かった。
レイニャも前へ身を寄せ、三毛の手へ布を載せてみる。
「きれいだけど、毛布じゃないニャ」
「……これ、何かスーツの生地みたいになっちゃいました」
理央は自分の腕へ掛け、滑らかな布の落ち方を見た。
澪にも、毛布を掛けているようには見えなかった。
受付にいた客の外套や、職員の整った袖口の方が近い。
「何をそろえたのか、聞かせてくれるかね」
真壁が杯を置き、布の前へ来た。
「繊維の太さと、長さです。長めの同じ物にして、向きもそろえました。毛糸の太さと撚りも、全部同じにして……」
理央の指が、ノートに書き込んだ条件を順に辿った。
ばらつきを見つけるたびに直した跡が、いくつも残っている。
真壁は布を光へ傾け、張り方を変えた。
澪が触った時と同じように、指へ添って、光沢の筋が動く。
「梳毛の方へ寄ったな」
「そもう?」
「長めの繊維をそろえ、向きを平行に近づけた物だ。こうした滑らかな服地に向く」
理央は布を受け取ったが、もう一度、毛布の見本へ目を下ろした。
「毛布を作ってたはずなんですけど……」
ニャニャミが、試作番号の脇へ失敗と書きかけた。
「工程を消すな」
真壁の声に、2人の手が止まった。
「失敗じゃないんですか?」
「毛布としてはな。服地としては違う」
真壁は、ニャニャミの紙の空いている所を示した。
「梳毛系服地の試作として、こちらへ残したまえ」
「誰に売るニャ?」
「服を仕立てる者に見せたい。その先の客は、反応を聞いてからだ」
ニャニャミは新しい欄へ試作番号を写し、原料から織るまでの条件を、その番号へつないだ。
理央は消すつもりで持っていたペンを寝かせ、布を丁寧に畳んだ。
「同じ物、もう一度作れるようにしておきます」
畳んだ角は、購入見本の毛布より、ずっと薄く整っていた。
澪は手を伸ばし、毛布用の試料とは離れた所へ、その布を置き直した。
理央は、畳んだ服地を手元の毛布見本へ近づけ、次の試作の欄を開いた。
「もっと太い糸にしたら、厚くなりますよね」
「理央君。糸の太さをそろえることと、繊維をそろえることは別だ」
真壁が購入見本へ掌を置き、押してから離した。
沈んだ表面が戻るのを見て、理央も服地へ同じことをする。
こちらは掌を離しても、ほとんど厚みが変わらない。
「そろえすぎた?」
「毛布で欲しいのは、整った面ではない。空気を抱く嵩だ」
理央は見本の端を指で挟み、《鑑定》を使った。
「中、思ったより詰まってないです」
「詰めるのではない。空気を抱かせる」
レイニャは腕の毛を軽く起こし、それから自分でならした。
「ぺったりじゃない方ニャ」
理央はその手を見て、見本を引っ張らないよう卓へ置いた。
澪も指の腹で表面を押すと、指と織り目の間に、毛羽の柔らかい層があった。
客室で触った毛布のふくらみを思い出し、理央のノートの厚みの欄へ目を向ける。
「厚くするために、羊毛をぎっしり入れるわけではないんですね」
「向きをそろえすぎるな。縮れも残せ。紡毛の方へ寄せたまえ」
真壁が示した購入見本を、理央は服地とは別の所へ置いた。
「原料と色は、このままでいいんですね。変えるのは、ここから」
理央は固形化の所へ印を付けた。
長めの同じ繊維にしていた指定を、短い物も含む範囲へ替え、縮れを持たせる。
ニャニャミへ伝える途中で、一度言葉を止めた。
「向きは、全部ばらばら……でも、それで糸の太さまでばらばらにしたら、戻っちゃいますよね」
「どこまで違ってよいかを決めるのだ」
理央は長さの上限と下限を別々に書き、撚りも、さっきほど強く締めないよう替えた。
毛糸全体の太さは購入見本に近づけ、束ねる中の繊維まで同じ向きにしない。
次に出した糸は、同じ色なのに、指でつまむと少し沈んだ。
「あ、違うニャ」
レイニャは強く引かず、掌で包むようにして理央へ返した。
理央は糸を横へ並べ、織る密度と、織った後の縮絨、両面を起毛する所まで条件をつないだ。
手を動かすたび、ニャニャミの紙の空欄が埋まっていく。
「全部同じにしない所も、書くニャ」
「はい。今度は、それも残してください」
廊下から聞こえた足音は、扉の前で止まらずに遠ざかった。
澪はランプの届く所へ自分の缶を引き寄せ、理央の隣に置いていた開け方の紙を開いた。
澪は金属容器へ蓋を付けた試作を出し、縁を指でなぞった。
内面へ使うポリエステルは真壁から受け取った分があり、魚と大豆油、調味液も、収納内へ別々に収めてある。
閉じた缶を手に載せると、食べ物を入れる容器らしくなった。
ただ、目の前の理央へ渡す所を考えたら、次の動きが止まる。
「これ、閉じる所まではいいんですけど……」
「開ける時ですか?」
理央は毛糸をほどく手を休め、缶の上を見た。
「缶切りが要りますよね」
「付ければよい」
「嫌です」
真壁の返答へ、思ったより早く声が出た。
「即答だな」
「食べ物なのに、道具がないと開けられないのは嫌です。缶だけ持って行っても、食べられるようにしたいです」
旅先へ持つ荷物の中で、缶切りだけが見つからない所を、澪は思い浮かべた。
孤児院に渡すなら、誰が道具を持っているかまで尋ねることになる。
「食べ物を持ってるのに、食べられないニャ?」
ニャニャミが缶から澪へ目を戻した。
「そうならないように、上に引く所を付けたいです」
澪は輪になるタブを描き、起こして蓋を開く動きを指で示した。
ゲンダイでは、その動きを考えずに行っていた。
細かい形は知らなくても、何となく見た形なら思い出せる。
最初の蓋を作り、タブへ指を掛けると、輪は起きたが、蓋も一緒に曲がった。
思わず引くのをやめ、澪は曲がった所へ《鑑定》を使う。
「開く所に、力が行ってない……」
次は開口部の溝を深くした。
ところが持ち替えただけで、蓋の一部が頼りなくたわむ。
「これだと、運ぶ途中で開きそうです」
ニャニャミは、今の試作番号に、その言葉を書き添えた。
澪は厚みを戻し、力を受ける所と切れる所を替える。
3枚目は口が開いたものの、半ばで裂け方が止まり、4枚目は開いた縁が鋭かった。
指を近づける前に、澪は蓋を試料の布へ下ろした。
レイニャがのぞきかけた手を引き、耳を横へ向ける。
「開いても、そこ触れないニャ」
「はい。これは駄目です」
澪は危ない縁へ印を付けてから、その蓋を収納へ戻した。
暖炉の薪がはぜる向こうで、真壁の杯が受け皿へ静かに触れた。
こちらは空の缶すら、人に渡せない。
澪は杯の方を一度見てから、タブを描いた紙へ顔を戻した。
形だけ似せた輪の下に、支点と、残す蓋の厚みを書き加える。
ニャニャミは成功の欄を空けたまま、紙をもう1枚出した。
澪が次の蓋を卓へ置くと、金属の乾いた音がした。
引き起こしたタブの下で、蓋が開かずに歪んでいる。
真壁はその音へ顔を向けた。
「澪君。真似ればよい」
「何をです?」
真壁の手元に靄がかかり、ゲンダイで見慣れたプルトップ式の缶詰が出た。
澪は自分の歪んだ蓋を置いたまま、本物のタブを見た。
「……最初から持ってたんですか?」
「酒のつまみになりそうな物は、だいたい入れている」
「それを先に出してくださいよ」
「自分で問題を把握してから見た方が、何を見るべきか分かる」
理央が隣で顔を伏せた。
まだ毛糸を持っていたが、口元へ笑いが残っている。
澪は、少なくともこの缶が真壁のつまみになる前に、こちらへ回ってきたことだけは喜ぶことにした。
「《鑑定》で型取りしてみたまえ」
真壁は同じ形の缶をもう1個出し、一方を澪へ渡した。
もう一方はタブを起こし、開く所を見せてから、蓋と缶を並べて置く。
開口線に沿って、さっき自分が止めた所の先まで、蓋が取れていた。
澪は未開封の方を《鑑定》し、まず蓋へ対象を絞った。
厚みを全部同じにしてよいわけではない。
タブの固定位置と支点、力を受ける所、開口線に残る金属を見てから、開けた蓋の裏側へ目を移す。
「ここを、ただ薄くしていたんですね、私……」
澪は紙へ断面を描き、ニャニャミへ見せた。
その横へ本物の縁の折り返しを描くと、ニャニャミは先ほどの危険な蓋の番号と見比べる。
「形が似てても、ここが違ったニャ」
「はい。上から見た形だけでは、足りませんでした」
澪は缶胴との接合も見て、読み取った形状を加工の指定へ移した。
収納内で鉄素材を溶解し、固形化する時に、蓋やタブ、その下に残す厚みまで形を決める。
内面は真壁製のポリエステルで覆い、塗り残しや傷を調べた。
最初の試作を出し、澪はタブを起こした。
短い抵抗の後、狙った所から蓋が開き、引く動きに沿って外れていく。
澪は取れた蓋をすぐには置かず、縁の状態を《鑑定》した。
「……開きました」
理央も毛糸を置いて、卓へ寄ってくる。
澪は本物と試作を並べ、開いた輪郭の違いを伝えてから、同じ条件でもう1個作った。
ニャニャミは条件の紙を替えず、新しい試作番号だけを脇へ書いた。
真壁はその紙へ目を通すと、自分の椅子へ戻っていった。
同じ条件で作った2個目のタブも、同じ所から起きた。
澪は開いた蓋を1個目の横へ置き、ニャニャミの紙へ開いた位置を示した。
さらに同じ形を作り、次の試作は理央へ渡す。
「普通に開けてみてください。縁へ指を掛けないで、タブの方だけ」
理央は缶を片手で支え、もう片方で輪を起こした。
途中で持ち替えずに蓋を外し、裏側を上にして置く。
「開きました。さっきみたいに、ぐにゃってならないです」
澪が続けて作った4個目をレイニャが持ち、金属の輪へ指を掛けた。
短い音がして、蓋が取れる。
「あたしも開いたニャ」
白と黒と茶の毛に包まれた手が缶を戻し、ニャニャミは開けた人の名を、それぞれの番号へ書いた。
澪は縁に危険な裂けがないか確かめ、充填試験に使う分も同じ形で作って、密閉空缶を手にした。
指の力で開けられる。
力の掛かる所を何度も替える必要もなく、同じ形を作れている。
あとは、これに魚を入れて――。
澪の手が止まった。
「どうしました?」
理央が、手の中の缶へ目を戻す。
「……蓋、閉じてます」
「はい」
「魚、入れられません」
暖炉の火が缶の上へ映り、引き起こす前のタブも光った。
理央は、さっき自分が開けた缶を見た。
「開けたら、さっきの蓋じゃなくなるニャ」
レイニャが取れた蓋へ目を向ける。
澪も、曲げずに戻して閉じられる形ではないことは分かっていた。
「閉じる工程が要るニャ」
ニャニャミは成功の印を付ける手を止めた。
澪は紙の缶胴と蓋の間へ線を引いた。
「ゲンダイの工場だと、魚を入れてから、蓋を載せて巻き締めるんですよね……」
自分はその工程の後の姿を見て、そのまま作った。
完成した形は写せても、中へ詰める所までは、その形に含まれていなかった。
蓋を付ける前の缶胴へ戻し、入れた後に閉じる工程も作るか。
澪は図を描き直しかけ、真壁を見た。
彼は杯を持っていて、こちらが缶を開けた音には目を向けても、まだ何も言っていない。
「ここまで作って、最後にまた閉じる方を考えるんですか……」
澪は、せっかくできた密閉缶を、机へそっと置いた。
澪は紙へ、蓋を載せて閉じる所まで描き加えようとした。
「結局、巻き締める所も――」
「収納があるだろう」
澪は描きかけの缶胴から顔を上げた。
「……収納?」
真壁は杯を置き、密閉空缶を手に取った。
「蓋から入れる必要はない。中へ入れればよい」
「閉じたまま?」
「その方が、密封工程も減る」
真壁から缶を受け取り、澪は開けるために触っていたタブを見た。
そこから詰めることばかり考えていた。
収納の中で位置を決めるなら、魚を蓋の口へ通す必要はない。
「……先に容器を完成させてしまっていいんですね」
澪は描きかけた巻締めの図を脇へ寄せ、缶内部の図を描いた。
ニャニャミへ紙を渡すと、彼女は試作番号を書き直さず、そこから続く欄を空ける。
澪は空缶を収納へ戻し、《鑑定》で内面の被膜と接合部を調べた。
内側へ残る異物を取り除いて清浄な状態にし、内部の気体も缶の外へ分ける。
その空缶を室内へ出さず、続けて、試験分の鰊の身と大豆油を内部へ配置した。
身で埋め尽くさず、上部に残す空間と気体量も調整する。
「今の量を、読んでいきます」
澪は缶全体の重さと内容量を伝え、ニャニャミが書き終えるのを待った。
同じ缶を手へ出すと、先ほどまでと重さが違う。
僅かに傾ければ、中で液体が動く音がした。
「ほんとに入ってるんですか?」
理央がタブの倒れた蓋を見た。
「入ってます。私も変な感じです」
澪は開けずに収納へ戻し、加熱の条件を、レトルトを作った時の記録と照らした。
内容物を入れた後で加熱殺菌し、冷却してから缶と中身を調べる。
被膜が剥がれていないか、漏れや膨張はないか、魚と油の状態はどうか。
読み上げる度に、ニャニャミは別の欄へ印を入れた。
「開けるの、今ニャ?」
レイニャが卓へ寄り、澪は取り出した缶を試料用のトレーへ置いた。
「これは充填と加熱を確かめた分です。開けて、中の状態も見ます」
タブを起こす時の抵抗は、空缶で試した時と変わらなかった。
蓋を取り去ると、油の中に鰊の身が見えた。
澪が缶を置き、レイニャのひげが前へ動く。
「ほんとに魚ニャ」
理央は開けた蓋と缶を交互に見ていた。
澪は魚の状態と味や臭いの異常も《鑑定》で調べ、内容量が予定どおりか伝えた。
ニャニャミの紙で、充填の欄へ初めて印が入る。
「もう売れるニャ?」
「保存した後も同じかは、これからです。次は、時間を進めた物を比べます」
澪は開けた試作缶を収め、鱈と水煮用の調味液の組合せへ移った。
同じ容器でも中身が違うので、鰊の番号には足さず、別の紙へ条件を書いていく。
収納内温度操作で加熱と冷却を行い、保存へ回す分は時間を段階的に進めるよう分けた。
ニャニャミが未確認の欄を空けている横で、澪は次の密閉缶を作った。
今度はタブを見ても、そこから魚を入れる図は描かなかった。
廊下を行き来していた足音が、いつの間にか途切れていた。
窓の下から流れていた冷たい空気も、厚いカーテンの向こうへ遠のいている。
澪は保存試験へ回す缶の番号を書き終え、紙をニャニャミへ渡した。
その時、小さく杯の置かれる音がした。
「真壁さん」
「何かね」
「何飲んでるんですか」
「今日のライ麦だ」
「それは知ってます。なんで飲んでるんですか」
「私の試験は終わったからだ」
今日買ったライ麦が、もう7年分の熟成を経て、仕事の終わった人の杯に入っている。
澪の前には、蓋を開ける所で止まった缶がまだ並んでいた。
「……憎らしい」
真壁は理由が分からないという顔で、杯を少し持ち上げた。
「真壁さん、楽しそうですね」
理央が織り条件の紙から顔を上げる。
「仕事の後の酒だからな」
「私たち、まだ仕事中です」
「そうか」
「そうか、じゃないです」
澪が言うと、レイニャの耳がこちらへ向いた。
膝に置いていた試作糸を持ち上げ、理央へそっと返す。
「こっちも、もう少しニャ」
澪は空いたトレーへ、同じ条件で作った缶を並べ直した。
内部の気体を除き、内容物を配置する所から、前の記録を辿る。
ニャニャミが重さを読み返し、澪は今の値を答えた。
違いがないことを確かめてから、加熱へ進める。
向かいでは理央が糸を織り、先に決めた条件へ戻って縮絨と起毛を試していた。
「一度できただけでは、工程とは言わん」
「分かってます。だから、もう一度作ってるんです」
澪は言いながら、今度の缶の番号へ丸を付けた。
さっきより手は止まらなかった。
ニャニャミも新しい紙を探さず、前の欄の隣へ結果を書き込んでいく。
澪はその横に、自分の杯を置いた。
中身は、すっかり冷めた水だった。
理央が卓へ出した布には、ランプの光がすっと流れなかった。
柔らかな毛羽が表面を覆い、指で押すと、ゆっくり元の厚みへ戻る。
縁はほつれないよう補強され、角には小さな商会の印が入っていた。
澪は最初の服地を横へ置き、同じ色の2枚へ順に触れた。
小片の重さは近いのに、指で挟んだ厚みが違う。
「レイニャさん、掛けてみてもらえます?」
理央が出した少し大きな試作を、レイニャは肩へ掛けた。
前足を上げると、端がつられて浮く。
首の後ろを引っ張らずに腕を下ろし、肩へ戻った布を軽く押さえた。
「今度は毛布ニャ。重くないニャ」
理央も端へ手首を入れ、織り目を指で押した。
「ほんとに違う……同じ羊毛なのに」
「空気の場所を残したからだ」
レイニャから受け取ると、澪は畳んだ布を片手で持ち上げた。
孤児院の子どもが、寝返りを打って落とした端を自分で引き上げる姿を思い浮かべる。
これなら、そのために起き上がらなくてもよさそうだった。
「もう一度、同じ条件で作った方も見ますね」
理央は2枚目を出して重ね、厚みと糸の太さを調べて読み上げた。
ニャニャミは一致した所へ印を付け、洗濯と乾燥の欄を指で押さえる。
「こっちは、明日からニャ?」
「はい。洗った後に縮みすぎないかも、まだ見ないと」
理央は毛布を畳み、最初の滑らかな布へ目を戻した。
「こっちはどうします?」
「残す。梳毛用の工程として登録したまえ」
「毛布を作ってたはずなんですけど」
「商品が一つ増えたな」
「増やすつもりじゃなかったです」
ニャニャミは帳面を2つの欄に分け、服地と毛布の条件を書き分けた。
澪も保存試験へ回した缶を番号別に確かめ、トレーと紙を片付ける。
真壁が杯を収め、レイニャが手琴を取り上げた所で、澪は時計を見た。
「続きは明日にしましょう。朝食室で待ち合わせでいいですか」
返事をした理央は、2種類の布を別々に包んだ。
最後に紙片の落ちていないことを確かめ、5人はサロンの灯りから静かな廊下へ出た。
翌朝、朝食室の窓には、晴れた空が見えていた。
斜めに差す光が、卓の白い布と銀の食器を照らしている。
外を歩く人はまだ襟を立て、軒の陰には昨夜の氷が残っていた。
澪は温かな皿へ手を伸ばし、窓際なのに肩が冷えないことに気づいた。
給仕は客の話が途切れるのを待って近づき、空いた器を音もなく下げていく。
隣の卓では、厚手の上着を椅子へ掛けた客たちが、書類を見ながら低い声で話していた。
昨夜は敷物の厚さばかり見ていたが、ここでは朝食の時間にも、話をする場所がちゃんと守られている。
理央がパンを食べ終える頃、レイニャは手琴の紐を直し、ニャニャミは閉じた帳面を鞄へ入れた。
ロビーへ戻ると、暖炉の薪の匂いが僅かに残っていた。
朝日の届く敷物の上で、理央が布包みをしまおうとする。
「それは持って行きたまえ」
「毛布じゃなかった方ですか?」
「だからだ」
理央は滑らかな方を腕へ残し、毛布の見本を収めた。
澪の試作缶も収納の中だ。
未確認の保存試験を残したまま、人へ渡す物にはできない。
帳場で鍵と硬貨が触れ合う小さな音がした。
真壁は部屋とサロンの会計を済ませ、支配人へ向き直った。
「一つ伺いたい。この町で最も腕の良い仕立師は誰かね」
「それでしたら、うちの制服も任せている者がおります」
支配人は上客の注文も受けている店だと話し、名と場所を紙へ書いた。
「こちらからの紹介とお伝えください」
澪は紙を受け取る真壁の脇で、支配人の上着を見た。
腕を伸ばしても肩の線が崩れず、襟は首へ沿っていた。
理央の包みは閉じたままだが、それを次に広げる場所は決まった。
ニャニャミが帳面を開き、毛布の失敗の横へ矢印を引く。
先に「仕立師」と書き足してから、鞄へ戻した。
玄関が開くと、馬車の車輪の音と一緒に冷たい春の風が入った。
レイニャは耳を少し伏せ、外套の前を合わせる。
理央も布包みを胸へ寄せ、真壁について歩き出した。
「毛布を作ってたはずなんですけど……」
「では、その失敗作を仕立師に見せに行こう」
「失敗作って言いましたよね?」