押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第403話 毛布を作っていたはずなんですけど

 

 酒場の扉を閉めると、レイニャの歌へ合わせていた手拍子が、急に遠くなった。

 

 澪は外套の前を合わせ、暖炉で温まった頬へ夜風を受けた。

 

 日中には水の流れていた石畳の溝が、ランプの明かりを細く照り返している。

 

 踏む前に足を戻すと、隣の理央も歩幅を狭めた。

 

「あ。宿、決めてなかったです」

 

「場所と空室は調べてある」

 

 真壁は、戸を閉めている店の先へ目を向けた。

 

「倉庫を借りた時に聞いておいた。この国で最も格式の高い宿だそうだ」

 

「一番近い所でいいニャ……」

 

 ニャニャミは帳面を胸元へ入れ、立ち止まったまま足を片方ずつ浮かせた。

 

「泊まるなら、一番よい所を見ておこう」

 

 澪は部屋代を聞きかけ、真壁の向く先を見た。

 

 閉じた店の窓が続く中で、通りの奥の大きな建物だけが、幾つもの明かりを漏らしていた。

 

 急な屋根の下へ木材を組み、その下の厚い石壁に、馬車寄せの庇が付いている。

 

 庇の下の石は雪も泥も除かれ、扉の金具までランプの光を受けていた。

 

「一番よい所にするんですか?」

 

「上の客が何を使っているかも市場だ」

 

 真壁の後へ続き、澪は玄関脇で靴底の水を落とした。

 

 扉を開けた職員が外套を預かるか尋ね、拭うための布へ手を向ける。

 

 手琴を抱えて入ったレイニャの耳が、風を避けていた向きからゆっくり戻った。

 

「あったかいニャ」

 

 敷居の内側は、足元まで暖かかった。

 

 澪の靴音が厚い羊毛の敷物へ沈み、石畳でずっと聞いていた自分の足音が消える。

 

 薪と、かすかな香木の匂いの中に、乾いた織物の匂いがあった。

 

 帳場の磨かれた木へランプが映り、呼び鈴の横で、客が荷物の預かりについて話している。

 

 その客の外套は裾の落ち方が整っていて、襟の毛皮にも濡れた跡がなかった。

 

 理央の目は、客の服から、敷物の毛足へ下りていた。

 

「この町で一番よい部屋を。3室頼む」

 

 真壁が人数と部屋割りを伝える間に、レイニャは出された水を飲み、ニャニャミは椅子の前で足を止めた。

 

「今日はもう歩かないニャ?」

 

「宿の中だけだ」

 

「それならいいニャ」

 

 澪と理央、レイニャとニャニャミ、それに真壁の1室で手配が済むと、真壁は客用の小サロンも借りた。

 

 別料金の説明を聞き、澪は収納内で試験を行うこと、室内へ出すのは布や容器の小さな見本だけだと伝える。

 

 職員は卓の大きさを知らせ、荷を広げる前に相談できるよう、廊下の先を示した。

 

 案内された客室では、重いカーテンの隙間に二重窓があり、暖炉の火が寝台の木枠を照らしていた。

 

 澪は鞄を置くと、外套を脱いで椅子へ掛けた。

 

 理央は寝台の毛布を持ち上げ、すぐには下ろさなかった。

 

「……厚いのに、こんな重さなんですね」

 

 掌で押した所がゆっくり戻り、表面の細かな毛羽へ明かりが広がった。

 

 理央は《鑑定》を使い、寝台の端へノートを置いて、糸の特徴や厚みを書き留める。

 

「お借りして加工するわけにはいきませんよ」

 

「しません。見本は今日買いましたから。これは、覚えておきたいです」

 

 理央は毛布を元どおりに掛け、最後に手で表面をならした。

 

 澪も端へ触れてみると、昼に買った毛布とは、指を離した後のふくらみが違った。

 

 理央のノートには、厚みの隣に、子どもが自分で掛け直せる重さ、と書き足されていた。

 

「サロンへ行きましょうか」

 

 理央はペンをしまったが、寝台から離れる時にも、もう一度毛布へ目を戻した。

 

 

 

 小サロンへ入ると、窓の前まで敷物が続き、その向こうの二重窓に卓上ランプが映っていた。

 

 外を見ようと顔を近づければ、ガラスのそばだけ空気が冷たい。

 

 澪はカーテンを合わせ、真壁の借りた卓へ戻った。

 

 理央は客室で書いたノートと、今日買った毛糸、毛布の見本を並べている。

 

 レイニャとニャニャミも荷を置いて来たらしく、手琴をソファの脇へ立て、帳面を開いた。

 

「広げるのは、この上だけニャ?」

 

「はい。床には置かないでくださいね」

 

 澪が試料用の布を卓へ敷くと、ニャニャミは帳面をその外へ寄せた。

 

 理央の出した小さな試織布は、作業部屋で出した時のまま、ところどころ糸がふくらんでいた。

 

 レイニャが指の腹を滑らせると、途中で手が止まる。

 

「ここ、かたいニャ」

 

「細い所は、すぐ平らになるんです。太さがそろわないです。それと……」

 

 理央は、同じ毛糸に染料をなじませた別の試料を出した。

 

 ランプへ近づけると、同じ色の中に濃い筋と薄い筋があった。

 

 澪は影かと思い、端を持って裏返したが、明かりの向きが変わっても筋は残る。

 

「色も、場所によって違います」

 

「染料を長く入れればいい、ではないんですか?」

 

「それだと、濃い所がもっと濃くなります」

 

 理央は試料を両手で張り、色の薄い所へ目を近づけた。

 

「もっと選り分けてから紡げば、同じになるかなって思ったんですけど」

 

「何をそろえたいのかね」

 

 少し離れた椅子へ腰を下ろした真壁が尋ねた。

 

「太さと、色です。同じ袋の毛でも、違うんです」

 

 理央は原料の札を出し、使った袋を指した。

 

 《鑑定》で毛の長さや縮れを比べ、残る脂や元の毛色について、ニャニャミへ伝えていく。

 

 帳面へ書く手が追いつくのを待ってから、別の袋の分も出した。

 

「これは長めです。こっちは短い毛が混じってます。あと、洗ってあっても、残ってる物が違います」

 

「袋を替えると、選ぶ所からやり直すニャ?」

 

「今のままだと、そうなります」

 

 理央は膝の上で指をほぐし、また細い毛をつまんだ。

 

 澪はその手を見て、作る枚数のことを考えた。

 

 孤児院へ届ける分を、理央がいつまでも1本ずつ選り分けるわけにはいかない。

 

「選別を細かくすれば、それを行う手も増える」

 

 真壁の声に、理央はつまんだ毛を離した。

 

 暖炉で薪が崩れ、机の金属容器へ明かりが揺れた。

 

 澪は、自分の方も容器の形だけで済まないことを思い出し、まだ蓋のない缶へ手を伸ばした。

 

 理央は毛糸の濃淡をなぞってから、原料の札を手元へ戻していた。

 

 

 

 真壁が小さな杯へ酒を出すと、澪の卓まで香りが届いた。

 

 酒場で選んだ7年相当のライ麦酒だった。

 

 今度は年数を比べる紙も出さず、そのまま一口飲んでいる。

 

 澪は蓋の形を描いていたペンを止めたが、理央の方が先に顔を上げた。

 

「理央君。羊毛を、毛の形のまま使う必要はない」

 

「……え?」

 

 理央の手に、洗浄羊毛の小さなまとまりが残っていた。

 

 真壁はその毛へ目を向け、杯を卓の端へ置く。

 

「原料として考えたまえ。溶解した後、《鑑定》でケラチンを見ろ。不要な成分は分ける」

 

「金とか鉄を分けた時と、同じ?」

 

「対象が違うだけだ」

 

 理央は手の毛をもう一度見て、指で引き伸ばしかけた所で止まった。

 

 靄へ収めると、卓には原料の札だけが残る。

 

 《収納》の中で少量を溶解し、毛の形をなくしてから、成分へ意識を絞った。

 

「……毛だと思って見てた所に、いろいろ残ってます」

 

「残す物と、分ける物を教えてほしいニャ」

 

 ニャニャミが帳面を寄せ、理央は見えている内容を言葉にした。

 

 主体になるケラチンを残す側と、脂や汚れ、元の色に関わる不要な成分を分ける側へ、収納内の置き場を離す。

 

 分離した量を読み上げる途中で、ニャニャミのペンが止まった。

 

「これは、捨てた分ニャ?」

 

「別にしてある分です。まだ捨ててません」

 

「分けた分、って書くニャ」

 

 紙へ書かれた言葉を見てから、理央は染料を出した。

 

 完成した糸へ染み込ませる前に、これから糸にする原料へ、同じ比率で混ぜていく。

 

 澪は自分の容器を脇へ寄せ、理央の出した小さな試料を見た。

 

 ランプへ傾けても、さっきあった濃い筋が見えない。

 

「色、そろいましたね」

 

「でも、まだ糸じゃないです」

 

 理央の指が、試料の端へ触れた。

 

「形を決めて固形化する所を、インゴットじゃなくて、繊維にするんですね」

 

「欲しい物の形にすればよい」

 

 真壁はそう答え、杯を持ち直した。

 

 理央は試料を戻し、ノートに書いた毛の長さや太さへ目を落とす。

 

「上等な毛まで、全部こうするんですか?」

 

 澪が尋ねると、真壁は卓の購入見本を示した。

 

「天然毛として使う方がよい物は、そちらへ回せる。この不揃いな分で、条件を作ろう」

 

 理央は使った袋の札をニャニャミへ渡し、ほかの原料の札とは離して置いてもらった。

 

 残した成分と染料の比率が書き終わるのを待ち、今度はノートの繊維径の所へペンを置いた。

 

「ここからなら、そろえられます」

 

 さっきまで毛の細い所を選っていた指が、作りたい繊維の条件を書き始めた。

 

 

 

 理央は色を混ぜた原料を、指定した太さと長さの繊維へ固形化した。

 

 向きをそろえて糸にし、撚りと織り目を一定にして、小さな布を作る。

 

 卓の空いた所へ広げると、ランプの光が、表面を滑るように動いた。

 

 澪はペンを置き、布の端へ手を添えた。

 

 指の下に、さっきまで引っ掛かっていたふくらみがない。

 

「きれい……」

 

「色むら、なくなりました」

 

 理央は端を持ち上げ、表から裏へと返した。

 

 どこを見ても色がそろい、指へ当たる織り目も一定だった。

 

 折り返すと、薄い布が、端まで同じように落ちる。

 

「でも……」

 

 理央は布を机へ戻し、購入見本の毛布を横へ置いた。

 

 見本には表面を覆う毛羽があり、手で押した所が沈む。

 

 今できた布は、押す前から薄かった。

 

 レイニャも前へ身を寄せ、三毛の手へ布を載せてみる。

 

「きれいだけど、毛布じゃないニャ」

 

「……これ、何かスーツの生地みたいになっちゃいました」

 

 理央は自分の腕へ掛け、滑らかな布の落ち方を見た。

 

 澪にも、毛布を掛けているようには見えなかった。

 

 受付にいた客の外套や、職員の整った袖口の方が近い。

 

「何をそろえたのか、聞かせてくれるかね」

 

 真壁が杯を置き、布の前へ来た。

 

「繊維の太さと、長さです。長めの同じ物にして、向きもそろえました。毛糸の太さと撚りも、全部同じにして……」

 

 理央の指が、ノートに書き込んだ条件を順に辿った。

 

 ばらつきを見つけるたびに直した跡が、いくつも残っている。

 

 真壁は布を光へ傾け、張り方を変えた。

 

 澪が触った時と同じように、指へ添って、光沢の筋が動く。

 

「梳毛の方へ寄ったな」

 

「そもう?」

 

「長めの繊維をそろえ、向きを平行に近づけた物だ。こうした滑らかな服地に向く」

 

 理央は布を受け取ったが、もう一度、毛布の見本へ目を下ろした。

 

「毛布を作ってたはずなんですけど……」

 

 ニャニャミが、試作番号の脇へ失敗と書きかけた。

 

「工程を消すな」

 

 真壁の声に、2人の手が止まった。

 

「失敗じゃないんですか?」

 

「毛布としてはな。服地としては違う」

 

 真壁は、ニャニャミの紙の空いている所を示した。

 

「梳毛系服地の試作として、こちらへ残したまえ」

 

「誰に売るニャ?」

 

「服を仕立てる者に見せたい。その先の客は、反応を聞いてからだ」

 

 ニャニャミは新しい欄へ試作番号を写し、原料から織るまでの条件を、その番号へつないだ。

 

 理央は消すつもりで持っていたペンを寝かせ、布を丁寧に畳んだ。

 

「同じ物、もう一度作れるようにしておきます」

 

 畳んだ角は、購入見本の毛布より、ずっと薄く整っていた。

 

 澪は手を伸ばし、毛布用の試料とは離れた所へ、その布を置き直した。

 

 

 

 理央は、畳んだ服地を手元の毛布見本へ近づけ、次の試作の欄を開いた。

 

「もっと太い糸にしたら、厚くなりますよね」

 

「理央君。糸の太さをそろえることと、繊維をそろえることは別だ」

 

 真壁が購入見本へ掌を置き、押してから離した。

 

 沈んだ表面が戻るのを見て、理央も服地へ同じことをする。

 

 こちらは掌を離しても、ほとんど厚みが変わらない。

 

「そろえすぎた?」

 

「毛布で欲しいのは、整った面ではない。空気を抱く嵩だ」

 

 理央は見本の端を指で挟み、《鑑定》を使った。

 

「中、思ったより詰まってないです」

 

「詰めるのではない。空気を抱かせる」

 

 レイニャは腕の毛を軽く起こし、それから自分でならした。

 

「ぺったりじゃない方ニャ」

 

 理央はその手を見て、見本を引っ張らないよう卓へ置いた。

 

 澪も指の腹で表面を押すと、指と織り目の間に、毛羽の柔らかい層があった。

 

 客室で触った毛布のふくらみを思い出し、理央のノートの厚みの欄へ目を向ける。

 

「厚くするために、羊毛をぎっしり入れるわけではないんですね」

 

「向きをそろえすぎるな。縮れも残せ。紡毛の方へ寄せたまえ」

 

 真壁が示した購入見本を、理央は服地とは別の所へ置いた。

 

「原料と色は、このままでいいんですね。変えるのは、ここから」

 

 理央は固形化の所へ印を付けた。

 

 長めの同じ繊維にしていた指定を、短い物も含む範囲へ替え、縮れを持たせる。

 

 ニャニャミへ伝える途中で、一度言葉を止めた。

 

「向きは、全部ばらばら……でも、それで糸の太さまでばらばらにしたら、戻っちゃいますよね」

 

「どこまで違ってよいかを決めるのだ」

 

 理央は長さの上限と下限を別々に書き、撚りも、さっきほど強く締めないよう替えた。

 

 毛糸全体の太さは購入見本に近づけ、束ねる中の繊維まで同じ向きにしない。

 

 次に出した糸は、同じ色なのに、指でつまむと少し沈んだ。

 

「あ、違うニャ」

 

 レイニャは強く引かず、掌で包むようにして理央へ返した。

 

 理央は糸を横へ並べ、織る密度と、織った後の縮絨、両面を起毛する所まで条件をつないだ。

 

 手を動かすたび、ニャニャミの紙の空欄が埋まっていく。

 

「全部同じにしない所も、書くニャ」

 

「はい。今度は、それも残してください」

 

 廊下から聞こえた足音は、扉の前で止まらずに遠ざかった。

 

 澪はランプの届く所へ自分の缶を引き寄せ、理央の隣に置いていた開け方の紙を開いた。

 

 

 

 澪は金属容器へ蓋を付けた試作を出し、縁を指でなぞった。

 

 内面へ使うポリエステルは真壁から受け取った分があり、魚と大豆油、調味液も、収納内へ別々に収めてある。

 

 閉じた缶を手に載せると、食べ物を入れる容器らしくなった。

 

 ただ、目の前の理央へ渡す所を考えたら、次の動きが止まる。

 

「これ、閉じる所まではいいんですけど……」

 

「開ける時ですか?」

 

 理央は毛糸をほどく手を休め、缶の上を見た。

 

「缶切りが要りますよね」

 

「付ければよい」

 

「嫌です」

 

 真壁の返答へ、思ったより早く声が出た。

 

「即答だな」

 

「食べ物なのに、道具がないと開けられないのは嫌です。缶だけ持って行っても、食べられるようにしたいです」

 

 旅先へ持つ荷物の中で、缶切りだけが見つからない所を、澪は思い浮かべた。

 

 孤児院に渡すなら、誰が道具を持っているかまで尋ねることになる。

 

「食べ物を持ってるのに、食べられないニャ?」

 

 ニャニャミが缶から澪へ目を戻した。

 

「そうならないように、上に引く所を付けたいです」

 

 澪は輪になるタブを描き、起こして蓋を開く動きを指で示した。

 

 ゲンダイでは、その動きを考えずに行っていた。

 

 細かい形は知らなくても、何となく見た形なら思い出せる。

 

 最初の蓋を作り、タブへ指を掛けると、輪は起きたが、蓋も一緒に曲がった。

 

 思わず引くのをやめ、澪は曲がった所へ《鑑定》を使う。

 

「開く所に、力が行ってない……」

 

 次は開口部の溝を深くした。

 

 ところが持ち替えただけで、蓋の一部が頼りなくたわむ。

 

「これだと、運ぶ途中で開きそうです」

 

 ニャニャミは、今の試作番号に、その言葉を書き添えた。

 

 澪は厚みを戻し、力を受ける所と切れる所を替える。

 

 3枚目は口が開いたものの、半ばで裂け方が止まり、4枚目は開いた縁が鋭かった。

 

 指を近づける前に、澪は蓋を試料の布へ下ろした。

 

 レイニャがのぞきかけた手を引き、耳を横へ向ける。

 

「開いても、そこ触れないニャ」

 

「はい。これは駄目です」

 

 澪は危ない縁へ印を付けてから、その蓋を収納へ戻した。

 

 暖炉の薪がはぜる向こうで、真壁の杯が受け皿へ静かに触れた。

 

 こちらは空の缶すら、人に渡せない。

 

 澪は杯の方を一度見てから、タブを描いた紙へ顔を戻した。

 

 形だけ似せた輪の下に、支点と、残す蓋の厚みを書き加える。

 

 ニャニャミは成功の欄を空けたまま、紙をもう1枚出した。

 

 

 

 澪が次の蓋を卓へ置くと、金属の乾いた音がした。

 

 引き起こしたタブの下で、蓋が開かずに歪んでいる。

 

 真壁はその音へ顔を向けた。

 

「澪君。真似ればよい」

 

「何をです?」

 

 真壁の手元に靄がかかり、ゲンダイで見慣れたプルトップ式の缶詰が出た。

 

 澪は自分の歪んだ蓋を置いたまま、本物のタブを見た。

 

「……最初から持ってたんですか?」

 

「酒のつまみになりそうな物は、だいたい入れている」

 

「それを先に出してくださいよ」

 

「自分で問題を把握してから見た方が、何を見るべきか分かる」

 

 理央が隣で顔を伏せた。

 

 まだ毛糸を持っていたが、口元へ笑いが残っている。

 

 澪は、少なくともこの缶が真壁のつまみになる前に、こちらへ回ってきたことだけは喜ぶことにした。

 

「《鑑定》で型取りしてみたまえ」

 

 真壁は同じ形の缶をもう1個出し、一方を澪へ渡した。

 

 もう一方はタブを起こし、開く所を見せてから、蓋と缶を並べて置く。

 

 開口線に沿って、さっき自分が止めた所の先まで、蓋が取れていた。

 

 澪は未開封の方を《鑑定》し、まず蓋へ対象を絞った。

 

 厚みを全部同じにしてよいわけではない。

 

 タブの固定位置と支点、力を受ける所、開口線に残る金属を見てから、開けた蓋の裏側へ目を移す。

 

「ここを、ただ薄くしていたんですね、私……」

 

 澪は紙へ断面を描き、ニャニャミへ見せた。

 

 その横へ本物の縁の折り返しを描くと、ニャニャミは先ほどの危険な蓋の番号と見比べる。

 

「形が似てても、ここが違ったニャ」

 

「はい。上から見た形だけでは、足りませんでした」

 

 澪は缶胴との接合も見て、読み取った形状を加工の指定へ移した。

 

 収納内で鉄素材を溶解し、固形化する時に、蓋やタブ、その下に残す厚みまで形を決める。

 

 内面は真壁製のポリエステルで覆い、塗り残しや傷を調べた。

 

 最初の試作を出し、澪はタブを起こした。

 

 短い抵抗の後、狙った所から蓋が開き、引く動きに沿って外れていく。

 

 澪は取れた蓋をすぐには置かず、縁の状態を《鑑定》した。

 

「……開きました」

 

 理央も毛糸を置いて、卓へ寄ってくる。

 

 澪は本物と試作を並べ、開いた輪郭の違いを伝えてから、同じ条件でもう1個作った。

 

 ニャニャミは条件の紙を替えず、新しい試作番号だけを脇へ書いた。

 

 真壁はその紙へ目を通すと、自分の椅子へ戻っていった。

 

 

 

 同じ条件で作った2個目のタブも、同じ所から起きた。

 

 澪は開いた蓋を1個目の横へ置き、ニャニャミの紙へ開いた位置を示した。

 

 さらに同じ形を作り、次の試作は理央へ渡す。

 

「普通に開けてみてください。縁へ指を掛けないで、タブの方だけ」

 

 理央は缶を片手で支え、もう片方で輪を起こした。

 

 途中で持ち替えずに蓋を外し、裏側を上にして置く。

 

「開きました。さっきみたいに、ぐにゃってならないです」

 

 澪が続けて作った4個目をレイニャが持ち、金属の輪へ指を掛けた。

 

 短い音がして、蓋が取れる。

 

「あたしも開いたニャ」

 

 白と黒と茶の毛に包まれた手が缶を戻し、ニャニャミは開けた人の名を、それぞれの番号へ書いた。

 

 澪は縁に危険な裂けがないか確かめ、充填試験に使う分も同じ形で作って、密閉空缶を手にした。

 

 指の力で開けられる。

 

 力の掛かる所を何度も替える必要もなく、同じ形を作れている。

 

 あとは、これに魚を入れて――。

 

 澪の手が止まった。

 

「どうしました?」

 

 理央が、手の中の缶へ目を戻す。

 

「……蓋、閉じてます」

 

「はい」

 

「魚、入れられません」

 

 暖炉の火が缶の上へ映り、引き起こす前のタブも光った。

 

 理央は、さっき自分が開けた缶を見た。

 

「開けたら、さっきの蓋じゃなくなるニャ」

 

 レイニャが取れた蓋へ目を向ける。

 

 澪も、曲げずに戻して閉じられる形ではないことは分かっていた。

 

「閉じる工程が要るニャ」

 

 ニャニャミは成功の印を付ける手を止めた。

 

 澪は紙の缶胴と蓋の間へ線を引いた。

 

「ゲンダイの工場だと、魚を入れてから、蓋を載せて巻き締めるんですよね……」

 

 自分はその工程の後の姿を見て、そのまま作った。

 

 完成した形は写せても、中へ詰める所までは、その形に含まれていなかった。

 

 蓋を付ける前の缶胴へ戻し、入れた後に閉じる工程も作るか。

 

 澪は図を描き直しかけ、真壁を見た。

 

 彼は杯を持っていて、こちらが缶を開けた音には目を向けても、まだ何も言っていない。

 

「ここまで作って、最後にまた閉じる方を考えるんですか……」

 

 澪は、せっかくできた密閉缶を、机へそっと置いた。

 

 

 

 澪は紙へ、蓋を載せて閉じる所まで描き加えようとした。

 

「結局、巻き締める所も――」

 

「収納があるだろう」

 

 澪は描きかけの缶胴から顔を上げた。

 

「……収納?」

 

 真壁は杯を置き、密閉空缶を手に取った。

 

「蓋から入れる必要はない。中へ入れればよい」

 

「閉じたまま?」

 

「その方が、密封工程も減る」

 

 真壁から缶を受け取り、澪は開けるために触っていたタブを見た。

 

 そこから詰めることばかり考えていた。

 

 収納の中で位置を決めるなら、魚を蓋の口へ通す必要はない。

 

「……先に容器を完成させてしまっていいんですね」

 

 澪は描きかけた巻締めの図を脇へ寄せ、缶内部の図を描いた。

 

 ニャニャミへ紙を渡すと、彼女は試作番号を書き直さず、そこから続く欄を空ける。

 

 澪は空缶を収納へ戻し、《鑑定》で内面の被膜と接合部を調べた。

 

 内側へ残る異物を取り除いて清浄な状態にし、内部の気体も缶の外へ分ける。

 

 その空缶を室内へ出さず、続けて、試験分の鰊の身と大豆油を内部へ配置した。

 

 身で埋め尽くさず、上部に残す空間と気体量も調整する。

 

「今の量を、読んでいきます」

 

 澪は缶全体の重さと内容量を伝え、ニャニャミが書き終えるのを待った。

 

 同じ缶を手へ出すと、先ほどまでと重さが違う。

 

 僅かに傾ければ、中で液体が動く音がした。

 

「ほんとに入ってるんですか?」

 

 理央がタブの倒れた蓋を見た。

 

「入ってます。私も変な感じです」

 

 澪は開けずに収納へ戻し、加熱の条件を、レトルトを作った時の記録と照らした。

 

 内容物を入れた後で加熱殺菌し、冷却してから缶と中身を調べる。

 

 被膜が剥がれていないか、漏れや膨張はないか、魚と油の状態はどうか。

 

 読み上げる度に、ニャニャミは別の欄へ印を入れた。

 

「開けるの、今ニャ?」

 

 レイニャが卓へ寄り、澪は取り出した缶を試料用のトレーへ置いた。

 

「これは充填と加熱を確かめた分です。開けて、中の状態も見ます」

 

 タブを起こす時の抵抗は、空缶で試した時と変わらなかった。

 

 蓋を取り去ると、油の中に鰊の身が見えた。

 

 澪が缶を置き、レイニャのひげが前へ動く。

 

「ほんとに魚ニャ」

 

 理央は開けた蓋と缶を交互に見ていた。

 

 澪は魚の状態と味や臭いの異常も《鑑定》で調べ、内容量が予定どおりか伝えた。

 

 ニャニャミの紙で、充填の欄へ初めて印が入る。

 

「もう売れるニャ?」

 

「保存した後も同じかは、これからです。次は、時間を進めた物を比べます」

 

 澪は開けた試作缶を収め、鱈と水煮用の調味液の組合せへ移った。

 

 同じ容器でも中身が違うので、鰊の番号には足さず、別の紙へ条件を書いていく。

 

 収納内温度操作で加熱と冷却を行い、保存へ回す分は時間を段階的に進めるよう分けた。

 

 ニャニャミが未確認の欄を空けている横で、澪は次の密閉缶を作った。

 

 今度はタブを見ても、そこから魚を入れる図は描かなかった。

 

 

 

 廊下を行き来していた足音が、いつの間にか途切れていた。

 

 窓の下から流れていた冷たい空気も、厚いカーテンの向こうへ遠のいている。

 

 澪は保存試験へ回す缶の番号を書き終え、紙をニャニャミへ渡した。

 

 その時、小さく杯の置かれる音がした。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「何飲んでるんですか」

 

「今日のライ麦だ」

 

「それは知ってます。なんで飲んでるんですか」

 

「私の試験は終わったからだ」

 

 今日買ったライ麦が、もう7年分の熟成を経て、仕事の終わった人の杯に入っている。

 

 澪の前には、蓋を開ける所で止まった缶がまだ並んでいた。

 

「……憎らしい」

 

 真壁は理由が分からないという顔で、杯を少し持ち上げた。

 

「真壁さん、楽しそうですね」

 

 理央が織り条件の紙から顔を上げる。

 

「仕事の後の酒だからな」

 

「私たち、まだ仕事中です」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃないです」

 

 澪が言うと、レイニャの耳がこちらへ向いた。

 

 膝に置いていた試作糸を持ち上げ、理央へそっと返す。

 

「こっちも、もう少しニャ」

 

 澪は空いたトレーへ、同じ条件で作った缶を並べ直した。

 

 内部の気体を除き、内容物を配置する所から、前の記録を辿る。

 

 ニャニャミが重さを読み返し、澪は今の値を答えた。

 

 違いがないことを確かめてから、加熱へ進める。

 

 向かいでは理央が糸を織り、先に決めた条件へ戻って縮絨と起毛を試していた。

 

「一度できただけでは、工程とは言わん」

 

「分かってます。だから、もう一度作ってるんです」

 

 澪は言いながら、今度の缶の番号へ丸を付けた。

 

 さっきより手は止まらなかった。

 

 ニャニャミも新しい紙を探さず、前の欄の隣へ結果を書き込んでいく。

 

 澪はその横に、自分の杯を置いた。

 

 中身は、すっかり冷めた水だった。

 

 

 

 理央が卓へ出した布には、ランプの光がすっと流れなかった。

 

 柔らかな毛羽が表面を覆い、指で押すと、ゆっくり元の厚みへ戻る。

 

 縁はほつれないよう補強され、角には小さな商会の印が入っていた。

 

 澪は最初の服地を横へ置き、同じ色の2枚へ順に触れた。

 

 小片の重さは近いのに、指で挟んだ厚みが違う。

 

「レイニャさん、掛けてみてもらえます?」

 

 理央が出した少し大きな試作を、レイニャは肩へ掛けた。

 

 前足を上げると、端がつられて浮く。

 

 首の後ろを引っ張らずに腕を下ろし、肩へ戻った布を軽く押さえた。

 

「今度は毛布ニャ。重くないニャ」

 

 理央も端へ手首を入れ、織り目を指で押した。

 

「ほんとに違う……同じ羊毛なのに」

 

「空気の場所を残したからだ」

 

 レイニャから受け取ると、澪は畳んだ布を片手で持ち上げた。

 

 孤児院の子どもが、寝返りを打って落とした端を自分で引き上げる姿を思い浮かべる。

 

 これなら、そのために起き上がらなくてもよさそうだった。

 

「もう一度、同じ条件で作った方も見ますね」

 

 理央は2枚目を出して重ね、厚みと糸の太さを調べて読み上げた。

 

 ニャニャミは一致した所へ印を付け、洗濯と乾燥の欄を指で押さえる。

 

「こっちは、明日からニャ?」

 

「はい。洗った後に縮みすぎないかも、まだ見ないと」

 

 理央は毛布を畳み、最初の滑らかな布へ目を戻した。

 

「こっちはどうします?」

 

「残す。梳毛用の工程として登録したまえ」

 

「毛布を作ってたはずなんですけど」

 

「商品が一つ増えたな」

 

「増やすつもりじゃなかったです」

 

 ニャニャミは帳面を2つの欄に分け、服地と毛布の条件を書き分けた。

 

 澪も保存試験へ回した缶を番号別に確かめ、トレーと紙を片付ける。

 

 真壁が杯を収め、レイニャが手琴を取り上げた所で、澪は時計を見た。

 

「続きは明日にしましょう。朝食室で待ち合わせでいいですか」

 

 返事をした理央は、2種類の布を別々に包んだ。

 

 最後に紙片の落ちていないことを確かめ、5人はサロンの灯りから静かな廊下へ出た。

 

 

 

 翌朝、朝食室の窓には、晴れた空が見えていた。

 

 斜めに差す光が、卓の白い布と銀の食器を照らしている。

 

 外を歩く人はまだ襟を立て、軒の陰には昨夜の氷が残っていた。

 

 澪は温かな皿へ手を伸ばし、窓際なのに肩が冷えないことに気づいた。

 

 給仕は客の話が途切れるのを待って近づき、空いた器を音もなく下げていく。

 

 隣の卓では、厚手の上着を椅子へ掛けた客たちが、書類を見ながら低い声で話していた。

 

 昨夜は敷物の厚さばかり見ていたが、ここでは朝食の時間にも、話をする場所がちゃんと守られている。

 

 理央がパンを食べ終える頃、レイニャは手琴の紐を直し、ニャニャミは閉じた帳面を鞄へ入れた。

 

 ロビーへ戻ると、暖炉の薪の匂いが僅かに残っていた。

 

 朝日の届く敷物の上で、理央が布包みをしまおうとする。

 

「それは持って行きたまえ」

 

「毛布じゃなかった方ですか?」

 

「だからだ」

 

 理央は滑らかな方を腕へ残し、毛布の見本を収めた。

 

 澪の試作缶も収納の中だ。

 

 未確認の保存試験を残したまま、人へ渡す物にはできない。

 

 帳場で鍵と硬貨が触れ合う小さな音がした。

 

 真壁は部屋とサロンの会計を済ませ、支配人へ向き直った。

 

「一つ伺いたい。この町で最も腕の良い仕立師は誰かね」

 

「それでしたら、うちの制服も任せている者がおります」

 

 支配人は上客の注文も受けている店だと話し、名と場所を紙へ書いた。

 

「こちらからの紹介とお伝えください」

 

 澪は紙を受け取る真壁の脇で、支配人の上着を見た。

 

 腕を伸ばしても肩の線が崩れず、襟は首へ沿っていた。

 

 理央の包みは閉じたままだが、それを次に広げる場所は決まった。

 

 ニャニャミが帳面を開き、毛布の失敗の横へ矢印を引く。

 

 先に「仕立師」と書き足してから、鞄へ戻した。

 

 玄関が開くと、馬車の車輪の音と一緒に冷たい春の風が入った。

 

 レイニャは耳を少し伏せ、外套の前を合わせる。

 

 理央も布包みを胸へ寄せ、真壁について歩き出した。

 

「毛布を作ってたはずなんですけど……」

 

「では、その失敗作を仕立師に見せに行こう」

 

「失敗作って言いましたよね?」

 

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