ホテルの玄関を出てすぐ、澪は理央の後ろで足を止めた。
屋根から落ちた滴が、馬車寄せの端を濡らしている。
朝日の当たる所では水が流れていたが、庇の影には薄い氷が残り、荷車の車輪がそこだけ乾いた音を立てた。
澪は明るい方へ半歩寄り、真壁の手にある紙をのぞいた。
支配人の書いた店の場所へ、彼の指が置かれている。
「理央君は私と仕立師へ。澪君たちは買付を頼む」
「魚と羊毛、今日はもっと買うニャ」
ニャニャミは帳面を開き、昨日の買付欄へ指を置いた。
風で紙の端がめくれると、白い手で押さえ、2つの品名へ印を付ける。
「昨日より、かなり多くなりそうですね」
「奥にある分も聞くニャ」
澪は昨日の試験材料とは離して、今日買う分の置き場を収納の中へ空けておいた。
魚が缶に入る所までできた以上、数尾ずつ買って終わるつもりはなかった。
レイニャも市場の方を見ている。
通りの先で木戸が開き、店先へ台を出す音に、箱を荷車から下ろす声が重なった。
風が変わると、魚と濡れた木の匂いが届く。
「朝の荷、来てるニャ」
「今日は酒の原料は買わなくてよい。私は、仕立師の後で酒卸へ寄る」
「あの7年のを見せるんですか?」
理央が布包みを持ち直した。
「そうだ。こちらも、使う者の話を聞きたい」
理央は返事をしながら、包みの角を撫でた。
昨夜は両手へ広げて見せていた布を、今は腕の中へ寄せている。
「仕立てられないって言われたら……」
「どこを直すべきか聞けばよい。布だけ眺めていても分からん」
真壁が歩き出す前に、澪はホテルの扉を振り返った。
「夕方、ここの小サロンで集まりませんか。記録を広げられますし」
「よかろう」
澪は玄関の職員へ短時間の再利用を頼み、借りられることを確かめて戻った。
扉の内側の暖気が頬へ触れたのは、その往復の間だけだった。
理央と真壁は仕立屋へ向かい、澪はニャニャミたちと荷車の進む方へ歩いた。
通りの両側にはまだ影が深い。
日向を選んで歩いていても、外套から出した指は、帳面を持つうちに冷えてきた。
仕立屋の窓には、丈の長い上着が掛かっていた。
理央はガラス越しに袖の形を見ながら、入口の段を上がった。
扉が閉まると、車輪の音が薄くなり、奥から鋏の音が聞こえる。
木の床には油が染み込み、反物棚の前だけ、人の歩く幅に艶があった。
窓の冷たい光を受けた裁断台で、職人が長い布を押さえ、端へ鋏を入れていた。
奥の加熱器具から立つ熱に、温められた羊毛の匂いが混じっている。
真壁がホテルの支配人からの紹介だと伝えて紙を見せると、仕立師は仕事台の一角を空けた。
「生地を見てもらいたい」
理央は包みを開き、布を台へ広げた。
「羊毛を――」
説明を始めかけると、真壁が布を仕立師の方へ寄せた。
「まず、触れてみてくれたまえ」
仕立師の指が表面を撫で、戻る時には逆向きへ動いた。
光へ傾けた布を折り、掌で押さえてから開く。
理央は自分のノートを出したが、何を書けばよいか迷って、ペンを持ったまま見ていた。
「端を少し切ってもいいか」
「はい」
鋏が入ると、布を噛む音が、店の奥の音より近くなった。
昨夜は崩さないよう丁寧に畳んだ布が、仕立師の手元で細長い切れ端になる。
彼は切り口を指で擦り、出た糸を軽く引いた。
「ここを縫ってみる」
針が2枚重ねた布へ入り、糸が通る。
理央は小さな穴を見つめ、次に、引いた糸の両側を見た。
仕立師が布を戻しても、縫い目に大きな波は残らなかった。
隣の職人が仕事の手を動かしながら、こちらへ目を向ける。
仕立師が棚へ向かうと、職人も糸を置き、裁断台の端まで来て布をのぞいた。
仕立師は棚から別の毛織物を出し、台へ並べた。
「こんな生地は今まで見たことがない。外国のどこで織った?」
「昨日、この町で買った羊毛から作りました」
仕立師の手が、布の上で止まった。
「ここの羊毛?」
「はい。不揃いの原毛を使って、太さと色をそろえたんです」
仕立師は入口へ目を向け、それから理央の包みを見直した。
「今ある分は、全部買いたい」
「え?」
「次はいつ作れる。色は変えられるか。反物で何本出せる?」
理央は、自分の布を見た。
さっき切った端以外、昨夜と何も変わっていない。
「これ、毛布の失敗作なんですけど……」
「失敗作なら、その失敗作を全部持ってきてくれ」
近づいていた職人が、口元を押さえて作業台へ戻った。
理央も笑いそうになったが、仕立師は布を手放さなかった。
「ほかの仕立屋にも見せるのか?」
「待ちたまえ。まず、実際に仕立ててみてもらいたい」
真壁が布の大きさを示した。
「今の見本で作れる小品でよい。裁断と縫製、それに使った後の具合を見たい」
「それは見る。見るためにも、この分は置いていってくれ」
理央が布の端へ手を伸ばすと、仕立師の手が先にそこを押さえた。
片付けるつもりだった手を引き、理央はノートを台の空いた所へ置く。
「必要な幅って、どのくらいですか?」
仕立師は普段使う反物へ定規を当て、裁断台へ広げた。
その横幅と長さを理央が書く間にも、上着を取る時の向きや、切れ端を残さないための幅を説明する。
「同じ色で頼んで、次に来た物だけ違うのは困る。袖を直す分まで、そろっていてほしい」
「同じ反物の中だけじゃ、足りないんですね」
「そうだ。あと、折ったまま置いた時の皺。擦れる所の減り方も見たい」
理央は厚みの欄の下へ、皺と摩耗を書き足した。
昨日、自分で読んだ《鑑定》の結果には、裁ち鋏を持つ人の使い方までは入っていなかった。
「色違いも試せます。ただ、反物で同じように出せるかは、幅を決めてから確かめます」
「なら、その次の分も知らせてくれ。出来た物が少ないなら、こちらを先にしてほしい」
「順番は今ここでは約束できん。試験の結果を聞きに、また来よう」
真壁は仕立てに使う分を決め、試作の手間に対する支払いも相談した。
預ける布の量と目的を紙へ残し、理央は縫い目の残る比較用の切れ端だけを包みへ戻す。
仕立師は預かった布を自分の台へ移してから、ようやく2人を出口まで見送った。
「次は見本だけでなく、長い物を持ってきてくれ」
外へ出ると、包みは軽くなっていた。
理央はノートを閉じかけ、書き足した幅の所へ、もう一度目を戻した。
「失敗作、持って帰れなかったです」
「少なくとも、使ってみたい者はいたな」
真壁が酒卸への道を尋ねる間、理央は切れ端の包みを、さっきより崩さないように持った。
同じ朝、澪たちは魚市場へ向かっていた。
市場へ近づくほど、足元の石が濡れている。
澪は溝をまたいで、荷車の通り過ぎるのを待った。
箱の隙間から垂れた水が、車輪の跡へ細い筋を引く。
氷を割る硬い音に、魚を呼ぶ声が重なり、昨日よりも人の肩を避ける回数が多かった。
レイニャは木箱を運ぶ人へ道を空け、手琴を背中側へ寄せる。
ニャニャミは軒下へ入ってから帳面を開いた。
ここなら、風にめくられるより先に字が書ける。
「また来たか。今日は何を試す?」
昨日の魚屋が、氷の上から鰊を持ち上げた。
銀色の腹が朝日を返し、濡れた手袋から小さな氷が落ちる。
「鰊と鱈を、昨日より多く見せてください」
澪が頼むと、ニャニャミは値札と帳面を見比べた。
「今買えるだけの魚を、買うニャ」
「……今ある分を、全部か?」
「まず全部見せるニャ」
店主は秤へ伸ばしかけていた手を止め、店の奥を振り返った。
「箱で出す方が早いな」
澪は店頭の台へ残す分と、すでに引取りの決まっている分を先に尋ねた。
店主が別にした箱へ印を付けると、ニャニャミも買付欄の横へ、取り置き分は含まないと書く。
澪は出された魚へ《鑑定》を使った。
脂の状態、身の傷み、冷やされていた具合を見てから、箱の端の札を読む。
「この鰊は油漬けの試験へ回せます。こちらの鱈は、水煮の分に」
見えている内容を伝えると、ニャニャミは店名の下に用途を書き分けた。
「こちらの箱は、今日は買いません」
澪が状態の違う分を脇へ寄せると、店主は無理に勧めず、別の箱を開けた。
値段を聞いたニャニャミが、昨日の欄へ目を戻す。
「箱で買う時も、この値ニャ?」
「重さを量って決める。まず、量を出そう」
秤の金具が鳴り、ニャニャミのペンが動き始めた。
澪は魚種ごとに重さを伝え、店主の控えと帳面を並べて、代金を確かめる。
買付を済ませた箱へ靄がかかると、台の横の床が空いた。
向かいの店で声を張っていた人が、こちらを見て一度声を落とした。
「まだあるニャ?」
「裏に、今朝の分があるが……」
「それも見るニャ」
店主が奥から箱を運ぶ間に、レイニャは入口へ寄った漁師へ顔を向けた。
「こんなに来るの、毎日ニャ?」
「海に出られればな。春は荷が増えるが、風が荒れれば、ここも空く」
「いっぱい来て、売れない時はどうするニャ?」
漁師は塩を扱う店の方を示した。
「塩に回したり、干したりする。そっちの手が足りなければ、値を下げるしかない」
レイニャは店主の運んでくる箱を見て、通り道を空けた。
次の鰊も澪が状態を調べ、使える分を伝えると、ニャニャミは新しい行へ箱の札を写した。
「明日も入るニャ?」
「入る予定ではある。ただ、同じ量とは言えん」
「予定の分と、海次第の分を分けて書くニャ」
ニャニャミは、買った量の下へ入荷の欄を作った。
澪は今日の分を、店名と日付、魚種を付けた置き場へ分けて収める。
昨日作った缶の試験材料とは、混ざらないようにした。
店主は空いた床を見てから、澪たちへ向き直った。
「毎日この買い方をするなら、荷受けへ話を通した方がいい。売場に出してから集めるより、早い」
「毎日の量は、これから調べます。話をする先も、教えてもらえますか」
ニャニャミの帳面へ、魚種ではない書込みが増えた。
店主はそこで、何に使うのかを改めて聞いた。
澪が保存食の試作だと答えると、彼は市場近くの食品卸を挙げた。
「魚を欲しがる先なら、あそこが知ってる。出来た物があるなら、見せてみな」
「販売前の試験品ですが、用途は聞いてみたいです」
澪は場所を教えてもらい、奥から出してもらった追加分も精算した。
店を出る時、ニャニャミは最後の空箱ではなく、奥の入口へ目を向けた。
「明日の分も、聞けたニャ」
レイニャは、手袋へ付いた氷を落としてから笑った。
「今日の分をしまって、もう明日ニャ」
澪は帳面に増えた行を見ながら、入口を出る荷車へ道を譲った。
さっき空けた床へ、次の荷が運ばれ始めていた。
酒卸の商館へ着くと、理央は入口で荷を下ろす人の後ろを通った。
木箱の中で瓶が触れ合い、奥では樽が低い音を立てて転がっていた。
仕立屋にあった温かな布の匂いはなく、乾いた木と穀物、酒の匂いがする。
石の床は外より冷たくなかったが、立っているうちに足先へ冷えが戻った。
真壁が試作品の評価を頼むと、卸の主人は入口から離れた机へ2人を招いた。
理央は壁際の樽の札を見ながら腰を下ろし、ノートを開く。
真壁の出した瓶から、小さな杯へ酒が注がれた。
琥珀色の液体が光を受け、主人は杯を少し回してから鼻へ近づけた。
「ライ麦か」
「そうだ」
主人は一口含み、飲み込んでからも、杯を置かなかった。
眉が上がり、真壁を見た後で、もう一度香りを確かめる。
2口目は、真壁が話を続ける前に、自分から杯を口へ運んだ。
「こんなウイスキーは今まで出会わなかった」
理央は主人の言葉を書きかけ、仕立屋で開いていた頁をめくってしまった。
新しい頁へ戻す間に、主人は瓶を自分の方へ寄せていた。
「今あるのは何本だ?」
「今日は評価用の少量だ」
「全部買う。次はいつ入る?」
「ずいぶん気が早いな」
「遅ければ、別の所が先に買うだろう」
主人は杯を置き、机の脇の帳簿を引き寄せた。
「次の分も先に押さえられないか。他へ持っていく前に、まず俺の所へ回してくれ」
理央は、今度は頁を間違えずに、次回分という言葉を書いた。
布と違って、自分では味が分からない。
ただ、主人の見ている物が杯から帳簿へ替わったことは分かった。
「どの客へ勧めるつもりかね」
「良い宿、有力な商人。贈り物にもなる。宴席に出せば、誰が持ってきたか聞かれる酒だ」
主人は店の高級酒の札を取り、机へ並べた。
真壁はその価格を尋ね、瓶の大きさにも目を向ける。
「こちらの酒と競るなら、どの辺りになる?」
主人は札を1枚戻し、別の1枚を残した。
「少なくとも、安い酒に混ぜて並べる物じゃない。味を知ってから買う客へ出したい」
理央は銘柄と値を書き取り、真壁が聞いた瓶詰めの単位を添えた。
「冬の方が動くのかね」
「時期で量は変わる。ただ、贈答は冬だけじゃない。この品質を毎回出せるなら、取っておきたい客がいる」
主人の指が、また試飲用の瓶へ戻った。
「原料はどこから持ってきた?」
「この町で買ったライ麦だ」
主人は瓶を持ち上げかけ、そのまま机へ置いた。
「ここの麦で、これが出来るのか」
「この試作はな。だから、どの程度の量が動くか聞きたい」
主人は帳簿の頁を替え、普段の取引量を説明した。
理央は聞いた範囲を追いかけて書き、まだ約束していない量とは線を分ける。
「次も、同じ物を持ってきてくれ。それで供給の話をしたい」
「こちらも整理して来よう。今日のところは、評価の条件を持ち帰る」
真壁が瓶へ手を伸ばすと、主人は試飲の杯を寄せて場所を空けたが、目は瓶を追っていた。
理央はその横で、値札を写した紙を閉じる。
店を出る時、主人は見送りながらも、他へ回す前に知らせてくれと念を押した。
理央は冷たい風の中で、布の包みとノートを抱え直した。
「褒めてもらうだけのつもりだったのに、次の物の話になるんですね」
「飲んで終わりでは惜しかったのだろう」
真壁は市場へ向かう荷車を避け、通りの端へ寄った。
注文の約束はしていないのに、聞くべきことだけで埋まった頁を、理央は指で押さえた。
昼を過ぎて食品卸を訪れると、入口で荷札を読む店員が、台車を壁際へ寄せてくれた。
澪は礼を言って、その脇を通った。
魚市場では歩くたび靴底が濡れたが、ここは乾いた床へ穀物の小さな粒が落ちている。
高い棚に積まれた袋の間から、塩と香辛料の匂いがした。
レイニャのひげが動き、干した魚を吊るした梁へ顔が上がる。
店の奥へ進むほど外の声は遠ざかり、代わりに袋を下ろす音が聞こえた。
魚屋から教えられたと話すと、卸の主人は商談用の机を空けた。
「保存食を作ってるそうだな」
「試作です。保存期間はまだ調べている途中なんですが、使う先の話を聞きたくて」
澪は確認用に分けておいた缶を出し、試験の控えを横へ置いた。
金属が机へ触れる音に、台車を押していた店員が顔を向ける。
主人は缶を持ち上げ、底と蓋、合わせ目へ順に指を運んだ。
「この中に、魚が入ってるのか」
「鰊と大豆油です。密閉した容器に詰めて、加熱殺菌しています」
「刃物で切って開ける?」
「上の輪を起こして、引けば開きます。やってみてもらえますか」
澪は開ける前の状態を《鑑定》し、今見てよい試料だと確かめてから、缶の持ち方を示した。
主人は片手で缶を押さえ、タブへ指を掛けた。
短い音の後、引き上げた蓋が外れる。
「……これでいいのか」
「はい。道具は要りません」
油の中に、魚の身が見えた。
乾物の棚の前で見ると、市場の氷の上にあった魚とは、届く場所が違う気がした。
主人が缶を寄せ、レイニャも横からのぞく。
荷札を読んでいた店員が、今度は鼻を動かしてから机へ目を向けた。
「これが本当に長く保つなら、欲しがる所はいくらでもある」
主人は缶を置いて、控えの紙へ手を伸ばした。
「何箱作れる? いや、試験が終わったら最初の分をこっちへ回してくれ」
「保存期間はまだ試験中です。確認前の物は売れません」
「分かってる。だから終わったら最初に持ってきてくれ」
澪がまだ注文を受けられないと答えると、主人は空の箱を指した。
「箱の話くらいは出来るだろう。何個ずつ入れて運ぶつもりだ?」
ニャニャミのペンが、買った魚の欄を通り越して、白い頁へ移った。
澪は缶の大きさを伝え、持ち運ぶ時にどこへ重さがかかるかを聞いた。
「海から離れた町へ送る。山の道が閉じる前に、宿へ置いておく。鉱山でも使う。隊商なら、途中で鍋を出さずに魚が食える」
「山を越えて、これを運べるニャ?」
レイニャが缶を示すと、主人は頷いた。
「漏れずに保つならな。生魚では、着く頃には売れない」
ニャニャミは送り先の欄を延ばし、鉱山の横へ宿を書き足す。
「町に置く分も要る。非常用の備蓄に回せるなら、買う数はもっと増える」
「鱈の水煮も試しています。そちらなら、油漬けとは使い方が違うかと思って」
「それも見たい。いつ来られる?」
澪は控えへ目を落とした。
原料を入れ、加熱して開ける所はできた。
けれど、書き切っていない保存の欄を、相手の箱の数で埋めることはできない。
「試験を終えて、確かめられた結果を持ってきます。その時に、数と納期も相談させてください」
「忘れないでくれよ。先に別へ出してしまった、は困る」
「まず、見せに来る約束です」
主人は笑い、澪の紙の端へ、再訪時に話す事柄を書き加えた。
澪は開けた魚の状態を改めて《鑑定》し、缶と蓋をトレーへ移した。
主人に聞かれた内側の被膜については、真壁が作ったポリエステルを使い、剥がれも試験していると説明する。
ニャニャミが最後の言葉を書き終えるまで待ってから、試料は収納へ戻した。
店を出る時、主人は台車へ積む箱を見ながら、鰊と鱈の両方を、ともう一度言った。
外では、朝より高くなった日が石畳を乾かしていた。
風が外套へ入るとまだ冷たいが、澪は歩きながら、売り先の紙をもう一度広げたくなった。
ニャニャミは紙を押さえ、羊毛の欄を開いた。
「魚は買えたニャ。次は、布の分ニャ」
市場の羊毛商へ戻ると、澪が在庫を尋ねる前に、店主は奥の袋を見た。
「昨日と同じくらいか?」
「もっと欲しいです。ほかの区分も見たいんですが」
ニャニャミは隣で、前の店から聞いてきた入荷の話を帳面へ添えた。
何軒か回っても、店先へ出せる袋の数には限りがある。
店主は澪たちの帳面をのぞき、筆の止まらないニャニャミを見て笑った。
「それなら、卸へ行きな。ここで袋を増やすより、山を見た方が早い」
店主は行き先を紙へ書き、澪へ渡した。
紹介された倉庫は、市場の声が届かなくなる辺りにあった。
荷車がすれ違える敷地へ入ると、軒下に積まれた麻袋が、窓の下まで続いている。
澪は荷の間を通り、入口から奥へ目を向けた。
梁の高い所から斜めに光が入り、その中だけ、細い毛が浮いていた。
羊毛の脂に乾いた草の匂いが混じり、袋へ触れる手には、外の冷たい風が当たらなくなる。
「あんたら、派手に買い集めているらしいな」
奥から来た主人は、澪が紹介の紙を出す前にそう言った。
「そんなに目立ってました?」
「市場を何軒も回って、あるだけ持っていけばな」
ニャニャミの耳が立った。
少し得意そうに帳面を持ち上げたが、主人の前へ広げた頁には、まだ欲しい品が残っている。
「見せてもらう分が、ここにあるニャ」
主人は頁を見て、まず白い羊毛の積まれた所へ3人を案内した。
札には産地と牧場、刈った時期が書いてある。
澪が札へ目を近づけると、主人は束の紐を切った。
押さえられていた毛が、ゆっくりふくらむ。
レイニャが道を空けるように半歩下がり、主人はその中からひとつかみを出した。
「上等なのだけなら、今すぐ出せる量には限りがある」
澪は指へ受けた毛の長さを見て、《鑑定》で状態を調べた。
昨夜、真壁が天然毛のまま使う方へ回せると言っていたのは、こうした毛だろう。
買う候補をニャニャミへ伝えたが、主人の示した山を全部とは言わなかった。
「こっちは、色も長さもそろってない」
主人が別の袋を示すと、澪はすぐそちらへ向いた。
「そっちも見せてください」
白い束の向こうに、灰色と茶色の毛が混じる袋があった。
ニャニャミが札を写し、主人は短い毛の多い分と、色の混じる分を分けて出す。
「……何に使うんだ?」
「毛布と服です」
主人は手の中の毛を見直した。
「この短い物も?」
「使い方を分けて試しています。長さがそろわないことだけで、外す必要はありません」
澪は同じ区分の代表になる試料を受け取り、傷みや不純物の状態を調べた。
使える物を伝えるたび、ニャニャミの買付欄が延びる。
上等品の時にはすぐ済んだ量の相談が、こちらでは袋の積まれた高さまで数える話になった。
「会長、こっちの区分は、かなりあるニャ」
ニャニャミが書いた在庫量を、澪は主人の控えと見比べた。
色を原料の段階で混ぜ直せるなら、色混じりの袋も候補になる。
毛布と服地では、作り直す繊維の長さも違う。
昨夜の2種類の布を思い浮かべると、積まれた山の見方が、白い毛だけを見ていた時とは変わった。
「ほかにもあります?」
「まだ奥にある」
「見せてください」
主人は今度、先に立って袋の間を進んだ。
足元の板が踏む場所によって鳴り、日陰へ入ると、光の中に見えていた毛も見えなくなる。
奥には前年の札が付いた袋があり、長さの違いで別にされた物も積まれていた。
澪は前年というだけでは決めず、区分ごとに試料を受け取った。
湿って傷んだ物まで買うのではなく、保管の状態を見て、使える分をニャニャミへ伝える。
「これも量を聞いていいですか」
主人が答えると、ニャニャミは新しい頁を開いた。
「まだ入るニャ?」
「この先の入荷もある。牧場によって、刈る時期が違うからな」
澪は倉庫の入口を振り返った。
最初に見た白い毛の山は、袋の列に隠れて見えない。
あれを見た時には十分あると思いかけたのに、今は次の荷のことも聞きたかった。
「次はいつ、どのくらい集まりますか。同じ区分を、まとまった量で回してもらえるか相談したいです」
主人は帳簿を持ってきて、入荷の時期を牧場ごとに示した。
ニャニャミが書き留め、レイニャは荷の来る道を尋ねる。
「冬も、この倉庫まで来るニャ?」
「道次第だ。運べる時にまとめて入れておく分もある」
「じゃあ、来る日と、ここから買える日は違うニャ」
レイニャが言うと、ニャニャミは入荷の欄と在庫の欄を指で離した。
澪は今日買う分を区分ごとに決め、価格を確認した。
良い長繊維は必要な分に絞り、不揃いと色混じりは、試験から先の加工に回す分も含める。
主人が買付量の控えを作る間に、ニャニャミは計算を終え、澪へ帳面を向けた。
代金を渡して控えを受け取り、買った袋だけを澪が靄へ収める。
区分の札と、比較用の原毛は、後で理央へ渡せるよう別にしておいた。
主人は空いた奥の床を見て、そこまで見たがる外国客は珍しいと笑った。
「次の荷も、話をしに来てくれ」
「ぜひ。今度は、継続して買う条件も詰めたいです」
倉庫を出ると、日の向きが変わっていた。
軒の影が敷地へ長く延び、レイニャは外套の前を合わせた。
ニャニャミが帳面を閉じる前に、澪は次回入荷の頁へ、指を置いた。
「そこ、夕方にみんなへ見せましょう」
今日収めた袋の数よりも、その先に書かれた品名へ、もう目が行っていた。
ホテルへ戻る頃には、通りの影が、朝とは反対側へ延びていた。
日向を歩いた後で馬車寄せの庇へ入ると、澪は頬の冷えるのを感じた。
玄関の向こうではランプがともり、敷物の毛足へ暖かな色が落ちている。
手配しておいた小サロンへ案内されると、真壁と理央は先に来ていた。
窓の上部だけが橙色で、暖炉には新しい薪が足されている。
澪は外套を脱ぎ、昨日と同じ卓へ近づいた。
理央の前には、針を通した布片がある。
「その分、仕立師さんに縫ってもらったんですか?」
「はい。あと、仕立てて試す分は置いてきました」
理央は布片を触らずに、ノートの幅の所へ指を置いた。
「仕立師さん、今ある分は全部欲しいって。次はいつ作れるかまで聞かれました」
「毛布じゃなかった方ニャ?」
レイニャがソファへ手琴を置き、理央の隣へ寄った。
「そうです。これから作る反物も、袖を直す分まで同じ色にしてほしいって」
理央は昨夜の繊維条件の紙へ、今日聞いた幅と厚みの紙を重ねる。
消すためではなく、続きを書くためにペンを持っていた。
「酒卸も同じだ。次の分を先に押さえたがっていた」
真壁が価格帯の控えを卓へ置いた。
理央はその紙の瓶詰め単位へ目を向け、聞いた需要量の欄を開く。
澪も食品卸から受け取った紙を並べた。
「缶詰は、試験が終わったら最初に、と言われました。まだ売れないと話しても、箱の話が先に進みます」
「売る前から、運ぶ箱ニャ」
ニャニャミは買付帳を開き、その横へ送り先の頁を置いた。
澪の前へ、今日買った魚の欄が向く。
「魚は明日も入るニャ。羊毛も次の入荷があるニャ」
澪は羊毛の控えを手元へ引いた。
午前には昨日の買値を見ていた帳面が、今は倉庫の在庫と牧場からの入荷を載せている。
不揃いの原毛の見本をトレーへ出すと、理央は指で受け、布片の隣へ置いた。
「毛布用の試験も、続けられますね」
「ええ。まず洗濯と乾燥、その後の使い方まで見たいです。服地の方は、今日決めた幅へ条件を合わせましょう」
澪が原毛の札を渡すと、理央は昨日の分とは別の所へ番号を書いた。
真壁は羊毛の入荷時期へ目を通し、継続買付の条件を相談する相手へ印を付ける。
「魚は、今日の量だけで毎日の入荷を決めないようにな」
「荷受けへ相談する先は聞きました。海の具合で変わる分も、ニャニャミさんが分けて書いてくれています」
ニャニャミは該当する欄を開き、真壁へ向けた。
「缶の方は、保存試験を終えてから再訪します。今日は注文の約束はしていません」
「こちらも、酒の供給量と相場を合わせてからだ。原料の追加は、その後でよい」
澪は空いている紙を卓の中央へ置いた。
ニャニャミは今日買った物の横へ、服地を試す店と、缶詰を待つ卸を書き添えていく。
レイニャも、魚の荷が止まる時の話と、羊毛を冬の前に入れておく話を伝えた。
書き込む場所を空けるために、澪は原毛のトレーを少し動かした。
前夜には試作品を並べていた卓が、今日は、その品を使いたがる人の話で埋まっている。
澪は魚と羊毛の帳面を見比べた。
「みんな、次の分まで欲しいニャ」
レイニャが帳面をのぞき、耳をこちらへ向けた。
澪は倉庫で、次に入る分まで尋ねたことを思い出し、自然に口元が緩む。
「私もです」
理央が顔を上げ、ニャニャミのペンが止まった。
「もっともっと欲しいです」
澪は次回入荷の頁を開いたまま、5人の真ん中へ押し出した。